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  WB01345_.gif (616 バイト) 霊能と超常現象 WB01343_.gif (599 バイト)                   

                         

                                 

 この世には、考えもつかない現象が多く起る。日本では「幽霊現象」とか「こっくりさん」ではなかろうか。いずれも、あの世(実在界、四次元以降の世界)の霊によって引き起こされる現象である。突拍子もない、アッと驚ろくような現象は低次元の霊のなせるもので、次元の高い霊は驚かすようなことはしないものである。この世も同じで、立派な人は突拍子なことはしない。我々は、あの世の霊と話をしたり、霊の語ることを聴くことも、霊の姿を視ることもできない。でも、私達の心の中には、ものごとを判断する正しい尺度というものを持っているので、余りにもおかしなものを学んでいると、「本当にそうなのかナ」、「いや、にわかには信じられない」という心が起ってくる。これを、嘘のつけない「善我で真我なる心」と高橋師は教えた。この善我なる真我なる心があるので、それに照して「おかしいゾ、チョッと待てよ」ということになるのである。私たち人間だけでなく、動物も植物も鉱物も、あの世(実在界)とこの世(現象界・地上界)を循環、輪廻するのである。あの世とこの世をグルグル廻る。

たとえば、人が亡くなると「安らかにお眠り下さい」とは告別式の常套文句である。でも、それはない。死ぬとあの世の生活が始まり次の誕生を待つ。こんな仕組みなのである。自然を見れば良くわかる。たとえば雨が降る、それが陽光によって蒸発して雲となり、その内に雨が降るというのも一つの循環。雨ばかり、ギラギラの晴天ばかりもない。この自然界を見ると全部が循環である。少し列記してみよう。

四季です。春−夏−秋−冬−春−夏−−−と繰り返す。

一日は朝−昼−夜−朝−昼−の循環。

ミクロでは核を中心に電子が廻っている。

マクロでは太陽を中心に惑星が廻っている。例をあげれば限(き)りがないので、自分で考えてもらうとして、人間も自然界の一員だから自然の法則の通りに、循環する。つまり、「あの世」と「この世」をグルグル循環するというわけ。このことを「転生輪廻」とか「輪廻転生」と言って永遠に、あの世とこの世をグルグル廻るのだ。

ところで、93年は冷夏、94年は干天で国民はみな泣かされ、その後は小康状態。98年は気候がおかしくなって。こんなに何度も異常気象に悩まされるというのも尋常ではない。これは人災である。人間の心(意識、想念)に問題があるので、天は人間に反省を促している。人災の根拠は、すべての価値はお金とか物質で評価する現代の風潮である。確かに、教育を受けるのも、移動するのも、生きていくためにはお金は不可欠である。「お金は無いより有った方が良いに決まっているじゃないか、老後のことも不安だしな」と考える。それはそれで良いのだが、この考え方が余りにも極端過ぎると、それは困る。ほどほどという「中道」なら許される。高橋師はこれを「心と肉体と経済の調和」と言った。精神も健全で、体も健康、お金も困ることのない位にほどほどに持つ、これが最高の人生。

お金はいくら儲かってもいい。後は足ることを知って人に分け与えること。お金が貯り始めると守銭奴となる。でも、お金はあの世に持って行けない。この世だけに通用するお金は、この世で役立ててもらえばいい。財産ができたばかりに、心までダメにしてはいけない。たとえば、バブル期は、国民が拝金主義に踊らされて、今では後遺症に悩んでいる。今では泣くに泣けない「悪困悪果」である。全て「ほどほど」でなくてはならない。自然現象を見てもそう。中道だ。極寒より、酷暑の地より、温暖で四季おりおりの花の咲く日本のような気候の地に住むのが一番。だから猫のひたいに一億二千万の人、人、人。

ところが住み易いはずの日本がバブル期に符合したように、94年は酷暑の干天、93年は冷夏でお米の緊急輸入をする羽目。もう国民はパニック状態だった。住み良いハズなのにそうではない。このような急激な変動が起ると心が不安定になって、「みんなで渡れば怖くない」という図式になってしまう。バブル期はこの図式の最たるもので、国民総カネぼけだった。これを「自己確立のない群集心理」と言う。

その外には「性モラルの欠如」もある。エイズ等の性に関する問題。教育の問題。環境破壊など、 この世には、一つ一つあげれば嫌になるほど多くの「困ったこと」がある。これらの悪困が悪果となって、予期せぬことが起る。人間に反省を促すためには、気象異常は当然なこと。その結果のために人間が少々苦しんでもそれは仕方ない。

ところで、93年は冷夏だったもので「94年も必ず冷夏になる」と予告した人が沢山いた。「これこれこのような気象統計の時は今年も冷夏。昆虫のこんな行動から今年も冷夏。」と全国民が予報官だった。人間を反省させるために天が起こした異常気象なら、昆虫さんだって予測できないのも無理はない。そこに住む人間が反省をして修正しないかぎりは、修正するまで次々と異常気象は起る。でも人間が生き方を修正すると、時間をおいて正常に戻どる。誤りを正してもすぐには正常に戻らないところがいい。さすがだね天は。

たとえば、痛みをクスリですぐに治したとしょう。「痛みが止まって、よかったよかった」と痛みの原困も省みず、また無茶をして、もっと悪くする。だが、長く苦しむと「なぜ痛むのかな、なぜ、どうして。こんなに苦しむのなら、もう無茶はしないゾ」という神髄からの反省のチャンスになる。神様はうまく考えておられる。修正をしても、すぐに良い結果は出ないということ。どうしてかと言うと、この世は波動が荒いために、思ったことに対する結果が現れるのに、一定の時間が与えられているのだ。従って、結果の出ないうちに、これはいけないと反省をして正しく実行(実践)に移せば、訂正が可能になってくるのである。ウエブ・マスターはこの辺の事情が良く理解できる。なぜか述べよう。                

これまでに、二度の高血圧による脳出血で倒れた。三十八歳の時が余りに早く回復して後遺症も軽かったので、血圧が高いのにすぐに薬を飲むのを止めてしまった。それから十年ぐらいで二度目の脳出血。高血圧を治さなかったのだから当然なこと。今度は軽く済むはずがない。仕事はできるが、「ヨイヨイ」も同然。短気で激情型の心の傾向性は、体の状態とこれまでの生き方は、まさしくピッタリ辻褄が合う。だから原困と結果(因果)は必ずそうなるという科学の世界だというのが納得できた。悪い原困による悪い結果は、反省・修正によって時間はかかるが正常になってゆく。私の場合は、薬を飲んで治さなかったから二度も。勇気を持って修正しなければ、運命も変わらない。人間はみな幸せを望む。だが不幸だという人も多い。「不幸」という観念は相対的なものだが、みな生き方に問題があったと言うこと。人はよく、先祖の霊が浮かばれていないとか水子のタタリ等と理由をつける。どんなに屁理屈をつけようと、正しい生き方をする人は、そこにどんな霊がいても守られる。水子産業や悪徳な霊業者にダマされてはいけない。どんな霊がいようと正しい生き方をする人は守られるという神様の法則は正しい者の味方で、さすがだと思う。神様の法則(神理)は高橋信次師が「正法」として教えて下さった。「正法」とは宇宙の原理、人生の正しい生き方、慈悲と愛、人間が小宇宙であることの自覚。このように人間として知らなければならぬ原則を教えたもの。それでは「正しい生き方」を簡単に見よう。    

 正見(正しく見ること)                     

 正思(正しく思うこと)                     

 正語(正しく語ること)                     

 正業(正しく仕事をすること)                  

 正命(正しく生活すること)                   

 正進(正しく道に精進すること)                 

 正念(正しく念ずること)                    

 正定(正しく定に入ること)                   

この「八正道」に適った生活行為が「人生の正しい生き方」である。もう少し解かり易くすると                     

 


 

宇宙ー0001.jpg (7819 バイト)

 

                                

  「 正しい人生の生き方とはどんな生き方 」          

                                 

 一、 第三者の立場で、自分を見、相手をながめよう。       

 二、 その生き方で、心が安らぎますか。             

 三、 人には優しい、思い遣りのある言葉をかけよう。       

 四、 感謝と奉仕                        

 五、 自分の短所を改めよう。                  

 六、 良い対人関係をつくり、環境破壊をしない。         

 七、 正しい願望を持とう。                   

 八、 同じ誤りを繰り返さない。                            

      

こんな生き方を心がければいい。「正法」を知れば知るほど、良い時代に生れて来れたと思う。高橋先生にお会いすることはなかったが、近くには園頭先生がいらして「正法」をわかりやすく教えていただいた。高橋先生の講演テ−プやビデオテ−プ、そして資料も不思議と集った。高橋先生にも会えるチャンスは何度もあった。昭和四十五年から三年間、高橋先生の浅草の八起ビルを中心にして二、三キロの所をグルグル廻りながら研修医として住つていたのに、「機根」と言うか気が付く時期というのがある。その時は外車をとっかえひっかえして、銀座、赤坂、六本木と派手に遊んでいて、高橋先生のお名前も聞くことはなかった。それから田舎に帰り、夜の街で九軒の水商売に手を染め、病床にあった昭和五十八年に遅れ馳せながら「正法」を知ることになった。そこで、高橋先生にも縁のあった一人と勝手に思い込んで、医業そっちのけで広める努力をやっている。もし、間違った記述で読者を誤らせれば、自ら裁いて地獄の暗い世界に身を沈めても仕方ない。それが人間としての道だから。         

                                 

  高橋師の「ことば」から  WB01361_.gif (611 バイト)             

「−−それは、自分がその環境を望んで約束してくれるのですから、いくら金を持っているかとか、地位は関係ないのです。地位が上の人ほど地獄にいますね。欲望で一生を過ごすから。あんな水呑百姓が、という人が天上界へ行っているんですから。大久保彦左エ門ね、びっくりしましたね。菩薩界できれいな光を出している。僕の所へ来ましてね、「大久保彦左エ門めにござります」日本で有名な坊さんで、菩薩界へ行っている人は少ないですね。日蓮さんもね。永いこと自分から地獄界におった人ですよ。菩薩界に入らなかった。自分の蒔いた種が、そん後、多くの大衆を狂わしてしまったという責任を負ってね。あの人は、あの世では知らない人はいませんね。あまりにも有名で、謙虚なんです。今の創価学会のやっているようなものではないですよ。心のきれいな人達は、例え貧乏でもりっぱな人がたくさんいる。だから、金額の多寡や地位が人間の値打ちを決めるんじゃないんです。−−−」( 昭和四十八年夏、長野県熊の湯の自主研修会)                              

 

 次に高橋信次著「人間・釈迦」第一巻偉大なる悟り、より引用する。           

「 −−−このために、あの世のボサタ−(菩薩界の人)にしても、下界に住みなれるとしばしばその現実に幻惑されて役目を果たさず帰っていく。あの世に戻ってから「シマッタ・・・」と後悔するのである。如来と称する人のなかでも、そうしたことが間々、あるのである。それほど、この色界(現実社会)はむずかしいところである。また衆生済度の心に燃えながらも、誤った方向に、人をひきつれてゆく場合も、しばしば起こる。近くでは日蓮がそうである。日蓮はボサタ−(菩薩)である。ボサタ−の心は、本来、広いものである。広くならなければ、ボサタ−の世界に住むことができない。その日蓮が法華宗を広めることに急なため、他の宗派を排撃した。この無間地獄、禅天魔といって既成宗団を激しく批難した。−<中略>−このように、いくつかの間違いを犯した。日蓮は、あの世に帰ってから、約六百余年、現象界でつくり出した陰影のアカを落とす修行に励むことになったのである。−−−」

日蓮は六百年余り地獄界で魂の勉強をされることになったと、高橋師は明らかにしたのである。それでは本論へ入ろう。

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「 人間は三重体 」                          

 人間のからだは「肉体」と「光子体」と「霊子体」とから成り立った三重体である。図示すると次のようになる。

霊子体

光子体

肉体

 

 

「光子体と霊子体」を分かり易く説明すれば、幽体離脱をした時の「からだ」、あの世での「からだ」と言える。「幽体離脱」とひと口に言っても段階があり、人家の屋根の高さぐらいの幽体離脱から、宇宙大(宇宙即我)の段階まである。高橋信次師や園頭広周師の幽体離脱は宇宙大だが、段階は違う。一般的な名称として「幽体離脱」という言葉で述べたが、高橋師は「原子肉体と光子体の分離」という言葉で説明した。図示すると次の通り。

 


幽体離脱

「幽体離脱」は、肉体と(光子体、霊子体)が霊子線で結ばれているので、禅定や瞑想が終わると普通の状態に戻る。

 

霊子体

光子体

     ↓・・・ (霊子線)・・・・↑

肉体

                


             

                    

 「死」は、霊子線が切れるため生き返れない。死んだ人が再び生き返ったという巷の話は、霊子線がつながっていた状態である。

                              

 

霊子体

光子体

肉体

       (遺骸、死体)          (あの世で過ごす「からだ」)

 

  


                                 

  「人間性の段階」                 

                                 

 神の前に人間はみな平等だが、人格(霊格)としての人間の段階は厳然としてある。仏教的に言えば下位階のほうから「幽界」、「霊界」、「神界」、「菩薩界」、「如来界」と五つに大きく分けることができ、この五つが天上界(明るい世界)である。                             

  「幽界」  自分さえよければ、人はどうでもというエゴの世界。人類の三分の一の人達。                           

  「霊界」  人に与えたものが返ってこないと気持ちがスッキリしない世界。                            

  「神界」  人から損害を与えれても非難しない世界。あの世とこの世を通して、一億数千万人。法然、道元など                  

  「菩薩界」 心は愛と慈悲に満ちて、地上界、天上界の人達を救っている。この世とあの世を通して二万人。 ペテロ、パウロ、日蓮、親鸞(菩薩界でも下位の段階)等                                

  「如来界」 宇宙は我なり(宇宙即我)と悟り、一切の執着から離れ神と表裏一体の世界。あの世とこの世を通して四百二十五人。イエス、釈迦、モ−ゼ。              

                                 

高橋信次師は、「如来界」より上段階の「宇宙界」、真のメシャ・エルランテイであり、分身の一人は釈迦であった。園頭広周師は菩薩界と如来界の中間で、来世は三百年後に「華光如来」としてインドへ出ると高橋師は予告した。

 

 


      

「予知や予言と、霊の段階」

C菩薩界 

 

B   幽界

 

A 地獄霊、動物霊

地表(地上)

 

〔上の図の説明〕予言、「あてごと」はあの世の霊の協力によりなされる。それには協力する霊の段階が重要になるが、例えば菩薩界の霊の協力を受けるには予言や当て言をする人は同等(菩薩界)でなければならない。当て言をする人の人間性をよく観察すれば大よその見当はつくもの。

「光子体C」は「菩薩界」の人。「光子体B」は「幽界」の人、「光子体A]は動物霊や地獄霊とする。「光子体C」は、低い段階の「光子体B」よりも高い位置にあるので、CはBより広範囲に世の中のことが一目瞭然である。これでお解りのように、幽界(光子体B)よりもっと下の(光子体A)の、動物霊や地獄霊の協力によってなされる「予言」「あてごと」と、菩薩界、如来界の人の「予言、予告」とを比較した場合、一方は当ったり当らなかったり、他方は正確無比となる。霊能者、拝み屋さんと言われる人は概して、霊格は高くないので、これらの人の「お尋ねごと」の回答がが当たったり外れたりするのは、このような理由によるのである。霊能者や拝み屋さんの人格(霊格)がどうかと言うことを、よく見て欲しい。その判断基準は金に汚ない、派手な服装をする、暗い、冷たい人柄、威張りたがる、気分がコロコロ変わる、女性問題をいつも起こす等の常識的に考えて、これは変んだという場合は、まず動物霊や地獄霊の協力による霊能と考えて欲しい。立派な霊能者は暖かく、さわやかで、それでいて常識的とは思いませんか。

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  「幽霊現象」                      

                                 

 幽霊とは、まさに、あの世の霊である。幽霊を見たと言う人は、霊視したと言うこと。普通、一般の人は「あの世」の霊を視ることはできない。でも、中には何度も視た。或は、よく視るという人もいる。どうして視える人もいれば、視えない人もいるのだろう。

それでは、物を見るとはどういうことか考えてみよう。

「なぜ物は見えるのか」

「簡単なことさ。眼で見たものは神経線維を通して脳に伝えられ、脳が識別する。子供でもそれ位のことは知っているよ」

という声が聞えて来そう。ところがそうではないと最初に申し上げたい。物を見る時、目に見えたものは神経線維を通して脳に伝達される。そして、伝達されたものは脳から「心・意識」に伝えられ、「心・意識」がそれを確認する。例えば、赤いトマトを見たとする。トマトの映像は神経線維を通って脳に伝わる。脳は「心・意識」への発信装置であり、伝えられたトマトは「心・意識」が「トマト」と確認する。脳が織別の判断をするのではなく、「心・意識」が判断するのである。現代医学の理論とは全く異なるが、このことを理解していただかないと先へは進めません。図示すると、次のようになる。                 

                       

心・意識

                                          ↑↓                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  WB01507_.gif (516 バイト) ーーーーーーーーーーーーーーーー  WB01162_.GIF (871 バイト)                           

                                                     

                                 

                                 

頭脳でものを考え、頭脳で記憶することは誰でも知っている。この大常識を否定しようと言うのである。高橋信次師は、この大常識を否定修正した。どうも、天上界の「困りもの」のようなのだ。もう一つ天上界の「困りもの」がある。ダ−ウインの「進化論」の問題。「時間とともに進化するのであれば、オリの猿が「ここから出して」と交渉するのがいても可笑しくない」と一笑している。平成六年の秋、ヨ−ロッパで四百万年以上前の最古の人骨が見つかったと報じた。高橋師は、三億年前の人間だろうと現代の人間だろうと、全く同じですと。勿論、子供と大人、身長の低い日本人と、身長の高い西洋人、鼻の低い日本人、高い西洋人といった特徴はあっても肉体的特徴は同じというのである。どんなに古い人骨が出土しようと驚ろくにはあたらない。ナゼもっと古い人骨が出ないかというと、この地球はこれまでに七度の大規模な天変地異によって奥深い海中や土中に埋没して見つけられないだけのことである。

サテ、脳の問題へ戻る。脳はコンピュ−タ−の回路にすぎないということ。コンピュターで、記憶するところは、ハード・ディスクやフロッピーやテ−プである。人間が記憶するところは、心・意識である。脳は心・意識へ情報を伝える発振回路(通路)というわけ。物が見えることを図式化すると前に述べた通り。ここまでは、普通にものを見る時の話。これからは、目に見えないはずのあの世(四次元)の霊がなぜ見えるのかと言うお話をしよう。幽霊はあの世の霊だから、見えないのが普通である。この世のトマトなら百人が百人全員が見える。幽霊は殆んどの人が見ることはできない。そんなものばかりが見えたら、いやになる。見えなくて有り難いと思う。              

 


           

 「霊視(霊眼)はなぜできるか」                                                 

 あの世の霊を見るには、あの世の霊の協力が必要である。肉体的な「眼」では、あの世の霊は見えない。それでは、「あの世の霊の協力」とは何かを考えてみよう。あの世の霊の手助けとは何か。あの世の霊」とは「光の天使」、地獄霊(暗い世界の霊)や動物霊である。これらの霊の協力がいるのである。「協力」というと聞えがいいが、協力とは「光の天使」のみに使いたい言葉。地獄霊や動物霊には「憑依」という言葉にしたいくらい。「憑依」という言葉を辞書で調べると「とりつく」とある。「とりつく」は光の天使に対しては失礼。それでは、どの霊が協力するのだろう。

どの霊が協力するかということは、「こちらの側」によりけりなのである。「こちらの側」とは、こちら側の人間性というか人間の質と言ったら良い。どんな霊が協力するかはこちらの人間性、質によりけりと言い換えることが出来る。幽霊が見えた人、つまり霊視した人の心によりけりなのである。

1)人格的にも立派で、愛深く、さわやかな人には明るい世界の天使の協力による霊視。

2)じめじめとして暗い性格、情欲に狂う、金に汚ない等の人には、動物霊や地獄霊の憑依による霊視。

これは「類は類をもって集まる」という法則である。「波長共鳴の法則」とも言う。「同類」なのだから、滝や行によって霊能を得ようという「欲念」の人に光の天使が協力するだろうか。そういう人にはその人にピッタリの動物霊、地獄霊が協力する。その人をよく見ることである。その人の人間性、人格を観察すること。おかしな人はその内に必ず馬脚をあらわす。図示すると次のようになる。                                              

                                 

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   WB00882_.GIF (263 バイト)            高橋師の「ことば」から WB00955_.GIF (255 バイト)                 

「憑依」ーーー「人の心が悪に支配され、動物のような本能、感情に支配されてくると、動物霊が近ずき、人の意識を占領し、二重、三重人格をつくっていく。また、地獄に堕ちた地獄霊も憑依する。怒りっぽい、ぐちっぽい、衝動的な性格者、自閉症、ノイロ−ゼ等、分裂気味の人は大抵憑依している。憑依から抜け出すには、心が平静のときにその原困を取り除く努力が必要である。執着にかたまった心をほぐすには肉体的な運動も効果がある。」

特別な、あの世の霊を見る使命を持つ人は別にして、多くの人が暗い方の霊の協力である。しかし、特別な使命を持つ人とは言っても特別な使命を持つ人がそんなに多くいるとは思われない。最近では、テレビ番組で、女のタレントさんが出演して「あそこに霊の姿が・・・」とか「顔が・・」とか、霊のスペシャル番組が放映される。得意げに指をさしながら説明をしている出演者の表情をよく観察して欲しい。底ぬけに明るそうですか。タレントさんの話しが出たので「金縛り」にも少し触れよう。 

 


                                

 「金縛りはとは何んだ」                     

                                 

 ロケや取材で、色々な旅館やホテルに泊まった夜、寝ていたら金縛りにあったという話をテレビでよく聞く。これもあの世の霊の「しわざ」である。「しわざ」と記述したように、暗い霊、地獄霊である。明るい霊は、この世の人が困るようなことはしない。これも「類は友を呼ぶ」法則の通り、金縛りにあった人に問題があるということ。暗い心の人に暗い霊である。

「暗い心」とは何か。たとえば、悲しみ、恨み、悔しさ、嫉妬、異常に強い欲望、悩み、生意気、わがまま等の暗い考え方があったということである。暗い心は他に何があるか自分で考えて下さい。暗い話ばかりではいやになるから、今度は、幸福になる「明るい心」を列記してみよう。

 感謝の心、調和の心、愛、慈悲、敬虔、謙虚、勇気、努力、自信、報恩、人のためになる、反省する、許す心、相手を理解する、広い心、すなお、誰とでもすぐ話ができる、いつでも良く眠れる、明るい所が好き、足ることを知る等である。明るい言葉は、記述するにもキーがすすむ。やっぱり良いもの。金縛りによくあう人は、自分の心のあり方、生き方を反省して、勇気を持って修正することである。明るく正しく生きる人には、そこにどんな霊がいようと、まったく問題は起こらない。「同類」にならないからである。「憑依」とは辞書によると「霊がとりつく」という意味だと先に述べた。そして霊の「しわざ」と説明した。「とりつく」とか「しわざ」という言葉は全てあちら側の霊が一方的に悪い意味にとれるが、決してそうではなく、「五分五分」で、似たもの同志と言える。                            

 


                                

  「地獄霊とは」                        

                                 

 これまでに地獄霊とは「暗い世界の霊」と述べた。では、もう少し深く説明しよう。人間が死ぬと、あの世に帰る。人間が死んで二十一日間は、家を離れず棟などの家の周囲にいることのできる最大日数である。そして、その後の二十八日間に、生前の心の状態、生きざまによって天上界へ行くか地獄界へ行くかが決る。この二十一日と二十八日間が「四十九日」の由来である。ところが、この四十九日間に、残された人達が財産などで争いをすると、それらのことが気になり、一度はあの世の定住地へ行ってもすぐ地上の執着を持っている場に引き戻されて自(地)縛霊となる。自縛霊は場所だけではなく物にも通じ、物を持ったがために、それに執着した霊が「俺の物をどうするのか」というので凶事が起ることがある。また、交通事故死したり病死した人が、事故死した場所や病室などにたむろする。これらは死んだことも自覚しない霊である。これらはみな地獄霊。

悟った立派な人は、死を自覚して一、二時間もしないうちにあの世の世界に帰って行く。高橋師の講演会の「現証」の時間に、何百年も死んだことを自覚しない霊の証明が、いくつも残っているが、霊が「オレは死んでいない」と言いはる。たとえば、車の事故死によって急激に肉体と光子体の分離が起こる。つまり一瞬のうちに急死すると、死んでいるのに死んだことも自覚せず、そこを通行する同類の人にヒョイと憑依して、次々と同じような事故死が起ることになる。「俺が生きていることを教えてやろう」と考えたり「俺を助けてくれ、救ってくれ」と救いを求める「ふらち」な困った霊もいるのである。自殺の名所、事故多発地はこのようにして起る。

しかし、どんな場所であっても、心が調和され、安全運転を心がける人には問題は一切おこらない。しかも、地獄の住人の行動範囲は限定されている決りだから、そこに近ずかないようにすればよいということになる。高橋師はいつも「さわらぬ神にたたりなし」と教えた。自殺の名所、事故多発地、滝場、墓地、などには、みやみに近ずかないのが良いのかもしれない。だが、何度も言うように、愛に満され、心安らかな人には問題は一切起らない。これまでの説明は地獄霊、暗い世界の霊の話しである。地獄界とは、自分本位、欲望の虜となった執着心がつくり出した世界なのである。                              

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  「地獄の霊とはどんな人達」               

  <地獄界の諸相>                       

 

 

修羅界

 

 

  栄達を望み、そのためには平気で人を陥れ、自分の利益の

  ためには人がどんなに傷ついても平気でいる人、

 

 

闘争に明け暮れている人、常に人を争わせて面白がっている人、闘争対立の心をもつ人、常に心の中に争いの心を持つ者のいく世界。信仰することによって争いを生みだす者達の行く世界。 

 

 

 

餓鬼界

 

 

  金銭欲の強い人、この世に未練や執着を持つ人、足ること

  を知らず常に不足の思いを持った人、いくら食べても、

 

 

いくら持っても満足することを知らない欲望の塊りみたいな人が行く世界。                   

 

 

 

畜生界

 

 

  動物と同じような性格を持った人、ねちねちと執念深い人

  見境なく性欲に狂うひと、人をだます人、動物の本性まる

    だしの者達の行く世界。

 

                      

 

 

煉獄

 

 

   常に心の中に闘争と破壊の渦巻いている人、そしる人、怒

   る人、ひどく悲しむ人、うらむ人、偽善者、エゴイスト

       狂思想者、狂宗教家。

 

                       

 

 

無間地獄

 

 

 集団で闘争を計画したもの、戦争の計画者、権力を持って

 大衆を間違った方向へ指導した者、間違った教えを説いた

 宗教家達の行く世界。ヒットラ−。スタ−リン等。

 

         

 

魔王

 

 

   三億六千数百年前、エルランティと共に飛来した大天使

  の一人、ルシフェルは天上の世界に帰ることなく地獄の帝

   王(サタン)になった。

 


                          

本論へ戻る。「幽霊」だが、夏になると四ツ谷怪談などのヒュ−ドロドロがテレビや映画でおなじみ。怪談ものの主人公達は、恨みや怨念に燃えてカタキに復讐するというのが大方のあらスジである。復讐に燃るというのは地獄の暗い心だから、幽霊は、地獄霊である。幽霊が、暗い青白い姿で出てくるというのも、「光子体」が暗いからである。光子体が暗いということは、心(意識・想念)が暗いからである。

一方、光の天使になると心が調和されているので、その調和度によっては淡いゴ−ルドカラ−は強くなる。エルランティである高橋師は、まさに「光の化身」だったと霊視された園頭師は著書に記述している。この光子体のことを別名「オ−ラ−」というが、心の状態を表わすものと言っても良く、恋をしている人はピンク色、怒りに燃える人は暗赤色、暗い心の「灰色」や「青白い」。心安らかな調和した人は淡い金色(ゴ−ルドカラ−)だと高橋師は教えている。心の状態をオ−ラ−(後光・光の量の区域)として見ることが出来るので、もし、会社の人事課の面接官がオ−ラ−を視査できれば、応募者の人格によって採用するという夢のような話も起りうる。こうなると見せかけは通用しない。立派な人はどんな会社へもスイスイ。心だけで勝負というわけ。ワクワクする。でも、これは夢の話ではなくて、植物を利用した「オ−ラ−測定機」や「人格(霊格)測定機」なるものが、出来るようになると予告されている。植物が、その能力があることは、次のことでも説明がつく。

たとえば、スピ−カ−から「がなり」たてるような質の悪いロックを流すと、音源からそっぽを向いて逃げるように生える。今度は、静かな旋律の良いクラッシックかなんかを流すと音源のスピ−カ−ボックスにからみつくように寄りそって生える。これは植物に限らず、乳牛にいい音を聞かせて乳量を増やす、肉質を良くするという試みもある。こうして、植物センサーの機械の前に立ってもらう。機械が人間性のデ−タ−をはじき出す。それを見て、上から何人という夢のような面接が始まるのである。先づ、国会議員さんから立っていただこう。戦争を始めたり、ワイロをもらうような議員さんはいらない。                           

                                 

WB01158_.GIF (255 バイト)             高橋師の「ことば」からWB01158_.GIF (255 バイト)                    

 「 怒りの心は炎に包まれ、赤い光が体から発散しています。愚痴の心は、灰色がかった暗い色が出ています。恋愛に心を乱し、理性が働かないときは、ピンク色が発散しています。人を呪い、野心や欲望に燃えているときは、黒色かねずみ色に変わっています。一秒一秒の心の動きに後光の色彩とその量が変化する。それは全く、大自然の天候と同じように変化してゆくものです。心の美しい人びとが心を調和しているときや、正しい心の教えを説いているときは、過去世のその人の顔と、現世の顔が写真の二重写しのようになり、光子体からは体全体にわたって光明に満たされ、後光が放射状に発散されています。後光は次元の異なった世界の段階を反映して発散されていますが、それらの後光は、そのまま、本人の死後に行く世界をも表しているといえます。光の量が小さいと上階段に行くことは出来ないということです。これらの後光は、人生において自分自身がつくり出した心の調和度によるものであり、決して他人のせいではありません。」               

                                 

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 「火の玉の謎」                         

                                 

 火の玉を見た人は、霊視したもの。火の玉は光子体である。人間が死ぬと、二十一日間は住んでいた家の棟などに自由にいることも出来る。この世に八十年も九十年も生活して来たのだから、友人知人にお別れに行くことも、気にかかることもあるだろう。そんな時に、光子体(別名<魂>とも言う)の姿で飛んで行く。あの世は時間、空間はなく、思えば即の世界だが、地上界には地上界の法則があるので、ヒュルヒュルフワ−ッと飛んで行くように見える。この飛んで行く「火の玉」の色だが、暗い灰色や青白い色の火の玉の場合は、低い霊格の人、淡いゴ−ルドカラ−なら高い霊格の死者のものと言える。あの世の次元のものだから、壁や障害物をス−ッと抜けて行く。壁があって、立往生するようでは「火の玉」ではない。この世のもの。霊視と肉眼視は、特に暗い夜の場合は区別がつきにくいが、霊視である。「暗い夜道の雨の日に、一人で車を走らせていると、女の人が立っていたので車に乗せたらいつの間にかいなくなっていた」なんて言うミステリアスな話しを聞くが、これも幽霊の霊視である。この世には原因のない不思議はなく、必ず説明できる理由がある。この世の人間ならドアを開けて飛び出さない限り、突然いなくなるなんてことは絶対に有り得ない。この話しも、場所は夜道であったり墓地のそばが殆んどだが、道路なら交通事故、自殺、殺人、ゆき倒れだろう。墓地の場合は自殺、殺人以外だと、次のことが考えられる。

日本人はこれまで、死ねばお墓や仏壇の中に住むと、永い間に教えられてきた。そのために、お墓や仏壇が死後の住みかと信んじてきた人は、本当にそこにいる。「あの世は心のままの世界」だから、信じた人はそうするのである。これはお墓に暗い霊がいたということであり、このような執着した霊のひき起す現象である。人間は死んだら、あの世の天上界へ還るのが正しいのだが、霊の中には墓や仏壇や事故死、自殺などの場所をすみ家としている「困った霊」もいる。国民が考えを変えなければ、これからも「困った霊」が増えていくことだろう。「困った霊」を一人でも無くすには、多くの人が正しい生き方、人間として知らなければならない原理・原則を学ぶ以外に道はない。「正しい法」を学んだ人達が、地上界の生活を終えて「あの世」へ還り、また、次の世代の人が地上界に出て「正しい法」を勉強する。これを繰り返して、地獄の足場をくずしていく以外に道はない。廻り道のようだが、コツコツ一歩一歩、これ以外にない。習慣、生き方、ものの考え方を変えていくには容易ではない。だが、やらなければならないのなら、それは早い方が良いのである。 

 


                                

  「コックリさん」                                

 コックリさんは子供の遊びとして、新聞やテレビで話題になった。コックリさんをやっていた子供が、意識が覚めず数日も昏睡状態が続いて、廻りの人達は大騒ぎしているというものである。コックリさん遊びを再現すれば、次のようになる。コックリさんとは「狐狗狸」と書く。狐はキツネ、狗はいぬ、または天狗、つまり人間の地獄霊。そして狸(タヌキ)である。

子供が数人集って、三十センチほどの竹を三本ヤグラに組んで、上にお盆をのせる。お盆の上に右手を軽く置く。部屋にそれぞれが円く坐わり、お盆に手を当てている子供が「コックリさん、コックリさん」と呼ぶ。部屋はカ−テンをしめ、暗くする。今でいう「招霊」である。昔から霊視する人がいて「狐狗狸」と名付けたのだるうが、まさしく狐や犬や狸の動物霊と人間の地獄霊である。狗を犬または天狗(テング)と述べたが、高橋師の「ことば」から「天狗」について参考にしてもらう。    

 


                                 

WB00955_1.GIF (255 バイト) 天狗について WB00955_1.GIF (255 バイト)

「−−研修会場は天狗の多い場所であり、禅定中に大きな体の、大きく長い鼻をした天狗がよく側に来ていましたが、悪いことはしませんでした。彼らの顔は、天狗のお面とそっくりです。天狗を霊視した者は多勢いました。」『心の発見』                      

天狗というのは現代人にとっては童話か、昔ばなしの中の創作とばかり思っていたが、天狗のお面そっくりの天狗があの世の世界にいることを高橋師は明らかにした。昔から霊視のきく人がいて、口伝されて行ったものだろうが、その観点から”昔ばなし”を再考するのも興味ある。お弟子さんの中には霊視する人が多勢いたので、「霊視した者は多勢いました」、と書かれている。                              

  <天狗界の住人>                                 

 「一八00年頃より以前にはあの世の「仙界」や「天狗界」の住人達が、肉体修行の実力試験のためこの現象界に姿を現わし、人間を連れ去って行く者が多かった。そして今度はその人間達をもどすことができずに、大変な騒ぎを起こしたことがあった。その事件のため、実在界の支配者でる上段階光の指導者や、大指導霊達によって、その力を封印されるということがあったのである。しかしその取り締まりのため、最近はそんないたずらもなく、現象も起っていないはずである。このように、肉体行の業を修正するために生まれてきた神仏の子も、この現象界で惑わされることが多く、正法を悟らず、遂に動物霊に憑かれて、自から不幸を作り一生をすごしてしまう人が多い。」『心の発見 』高橋信次                             

  <仙界や天狗界とは?>                    

「霊界から神界の裏側には仙界や天狗界があり肉体行によって法力だけを学んでいる。ヨ−ギス−トラ、日本の修験者達が多く、他人に対しては慈愛が少い者達の世界。ここの住人はこの地上界できびしい山中修業を行った行者達が多く、相変わらず厳しい肉体業をやっており、苦しみから解脱していない自我の強い者達が多い。」(高橋信次)      

                                 

 神話とか昔ばなしは霊感、直感によって書かれたものだから、霊感、直感によって理解しなければならないが、M・トケイヤ−氏の『ユダヤと日本謎の古代史』の中で、「長い鼻をもった赤ら顔の異民族が天狗の伝説として残ったのではないかと指摘する人もいる」と書いている。日本族の肉体的特徴と異なり、赤ら顔の高くて長いカギ鼻を持った異民族(ユダヤ人)の中には悪いことをする人がいたり、言葉と習慣の違いから不協和音が出た時期もあったかもしれない。それは迫害というユダヤ民族の、うらみ、つらみの一つ一つが、他民族とは相入れない時代があったと考えてもおかしくない。だが、そのうちに調和し習慣と生活様式の中に”ユダヤ”が残っていったのだろうか。日ユ同祖論を展開するつもりはないが、高橋師は「天狗」について、これらの「ことば」を残していることを伝えたい。

先へ進む。「コックリさん、コックリさん」と呼ぶということは、「キツネさん 犬さん タヌキさん天狗さん来て下さい、いらっしゃい」と呼んだのだから、あの世の動物霊や人間の地獄霊が来た。あの世は時間空間がないから、呼べばすぐに現象化されて本当に来る。どこからでもすぐに来る。あの世の霊は喋ることは出来ない。動物霊も地獄霊も肉体を持っていれば、「ワンワン」とか「キャンキャン」とか「オイオイ」と声で合図をできるが、肉体を持たない「霊」だから、何かを知らせる時には、物を動かしたり、音を立てることで知らせようとする。コックリさんが来ると、三脚架がピクピク反応することになる。この現象を確認した後に伺いごとをする。三脚架が上下する回数で吉凶を占ったり、回答を得ることが出来る。或いは三脚架の下に紙を敷いて、その紙に数字、ひらがなの五十音字を書いておき、三脚架が移動して行くことで回答を得るのである。外国ではウイジヤ盤というコックリさんに似た器具があるようだが、コックリさんをご存知ないむきもあろうかと述べたが、こういうことの是非は言うまでもない。                            


 

 「あの世からは、この世はお見通し」                             

 あの世の霊にとって、この世は全てお見通しである。高橋師は映画にたとえた。映画を見る時、スクリ−ンに映ったスト−リ−に感動して泣いたり笑ったりしながらひと時を過ごす。観客が「あの世の人」でスクリ−ンの映像が「この世のこと」と考えて欲しい。スクリ−ンに映っている「この世のこと」は、あの世の人である観客はわかる。でも、観客はスクリ−ンの登場人物に語りかけることも注意することもできない。これと同じように、あの世の人はこの世のことがわかっていながら、この世の人に注意をしたりものを頼むことも出来ない。一方通行である。

例えば、「この世」の息子夫婦がケンカばかりして仲が悪いのを、亡くなっているオバアちゃんが心配して見ているとする。「いいかげんにして仲良くしなさい」と注意をしたいが、どう伝えようかとオバアちゃんは悩む。どうすることも出来ずに涙ながらに眺めているだけ。あの世には、あの世の生活があり、オバアちゃんは気掛かりで気掛かりで、安心してあの世の生活が送れないことになる。この世も同じで、心配は頭痛のタネで安心できない。これが、あの世とこの世との関係であり、映画と観客の関係によって、おわかりになると思う。  

 

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 あの世の霊は、自分の意志をどう伝えるか                            

映画と観客の関係によって、あの世の人は意志を伝えることが出来ないと、これまでの説明で理解されたと思う。肉体があれば、声帯を利用して意志を伝えることも出来るが、あの世の霊は光子体(魂)の状態だから、声を出せない。では、どう伝えるのかと言えば、ラップ音(たたく音)、物体移動などの単純動作が表現方法の一つである。前に述べたコックリさんでは、三脚架の上下運動、或いは五十音字の上を移動して「はい」とか「いいえ」を表示して知らせるということになる。               

 

  「ラップ現象とは何か」                                 

 

ラップ音とはドアをたたくような打音である。階段を登る音、廊下を歩く音も同じ。この世の人間の動作による音なら説明がつくが、何にもないのに音がするというのは、現代の科学では解明できない。この世には原困のないものは何もない。必ず理由がある。これも、あの世の霊のなせるもので、低い、次元の霊である。あの世のことに無知なこの世の人間に対して、高い次元の霊がビックリさせたり、驚かせたりするようなことを果してするだろうか。高い次元のものは、決してしない。外国では、はなばなしく音をたてて出てくるものもいるようだが、このような困った霊が出ないようにする為にも、これからの我々が、よくよく気を付けねばならない。正しい人生の生き方、正しい心の持ち方、宇宙やあの世の原理、原則をしっかりと勉強した人は、後生の人にこんな迷惑は掛けない。廻り道のようだが、一歩一歩正しい法則(正法)を知る以外に道はない。                           

                                 

 

 「ポルタ−ガイストの謎」                    

                                 

 ポルタ−ガイストとはドイツ語で「騒々しい幽霊」を意味する。騎子や四、五十キロの家具がいとも簡単に床の上を五十センチも滑って移動したり、調度品や食器が宙に舞って飛んだり、人間の体が宙に浮かび上ったり、常識では考えもつかないことが起こる。これをポルタ−ガイストと呼んでいる。これも、人間の暗い、地獄の霊(悪霊)のしわざである。四次元の世界(あの世)からの霊の働きかけが原困だから、物質界(この世)の重量とか距離、空間というものは一切関係なく、重量か百キロ、千キロであろうと、長さが何キロメ−トルあろうと、それが立方体であろうと球形だろうと関係ない。この世的な考えでは、あの世のことは推し量ることは出来ない。ただし、地獄霊の能力は光の天使の能力に比べれば微々たるもので、たかだか何メ−トル、何十キロ程度だが、光の大天使のモ−ゼが海水をせき止め海の中道を作って人を守ったように、その能力は偉大である。それにしても低次元の地獄霊にはまったく困り果てる。             


                                 

 「なぜ冷気現象は随伴するか」                  

                                 

 低次元の超常現象が起ると、背スジがゾクッとしたり、不意に部屋の温度が下がる。その理由は、これまでに、地獄霊を「暗い霊」と述べたように、彼等のあの世の世界は、光のないじめじめした暗黒の世界である。執着の心に縛られた光明のない暗い世界だから、これらの霊がそばに来るとヒンヤリする。高橋師が、講演会の「現証」の時間に、地獄の霊を聴衆者の前に出して実験をするビデオが数多く残されている。

その中の一例は、腕をさすりながら「オ−寒い、地獄の霊ですからね。」と身の毛の立つ仕草をする。そして、笑いながら「夏の暑い日には、地獄霊を呼べば冷房はいりませんよ」。聴衆者はド−ッと笑う。そして、「これが地獄の世界の実態です。私達人間は寒くするのも暖かくするのも自由自在です。自分の心がそうします。寒くも暖かくも自分がするんです。こうして、私達は彼等に正しい生き方、心の正しいあり方、「正法」を説いて、こんな暖かい世界もあるんだよと教えます。」そして「霊」に向かって毅然と「ウソをついてはいかん!全部わかっているんだよ。私が誰れだかわかるか。反省をして自分の悪かったことを詫びて。もっと寒くしようか。もっと寒くすることだって出来るんだよ。どうだ。ソ、ソ、ソ、ソ、悪かったことを心の中で神にわびて−−中略−−。」憑依している地獄の霊をとった(除霊)あとで、「はい、オバちゃん目を開けて下さい。どうですか。」

憑依されていた登壇者の七十過ぎのオバあさん「ポカポカと暖かいです」

高橋師   「腰も痛かったですね。」                 

登壇者   「ハイ。痛くて痛くて、いつもイライラしておりました」    

高橋師   「オバちゃんねえ、随分と神様が好きなようだけど、神さんより『おかみさん』(註・奥さんの意)でいて下さいネ。心が一番だいじ。心も丸く、思うこと行うことの一つ一つを「八正道」というフィルタ−にかけて<中略>。ハイどうもありがとう」           

 このビデオでは、登壇者に憑依している地獄霊を出して、登壇者の口(声帯)を通して地獄界の実態を語らせるというもの。現象の証明ということで、「現証」と名づけられた一時間半の間に、登壇者数名に対して行われた。このように除霊をしてもらいながら、次にはまた別の霊と一緒に来ている人がいた。なぜかと言うと、先の霊は離れたが、その人の心が変らなかったために、また別の霊に憑依されて次の地獄霊と同行ということになったのである。いくら除霊をされても、心が変らなければ、するだけ無駄。除霊の原則は「除霊をして、よくなったら生き方を変えるかということを確認すること」、である。サテ、この例のように、暗い世界の住人が憑依していると、体も寒く、いわゆる冷え症という状態をつくり出す。             


                                 

 「冷え症の一つの原困」                     

                                 

 風邪をひいているとか、体の調子が悪く、なんとなく、ゾクゾクするというような、はっきりとした原困もなく、夏の厚い盛りに厚手の下着を重ね着しないと、どうにもいたたまれないという、常識から考えると、チョット変んだという人もいる。余りにも極端な場合には、地獄霊の憑依が考えられる。冷たくて寒い暗い地獄霊の憑依だから、憑(つ)いている間は「冷え症」ということになる。憑依というのは、四、六時中あるものではなく、ついたり離れたりしているので、離れている時には「冷え症」を感じないはず。冷え症の一つは地獄霊が原困だと述べた。地獄霊の原困というよりは、類は類をもって集まるの法則の通り、冷え症の人の心のあり方、生き方に問題があるわけだが、なにも女性だけが男性より生き方に問題があるわけではない。どうして女性に多いか説明しよう。

                                 


 

WB01062_.GIF (249 バイト)     なぜ多い女性の冷え症WB01062_.GIF (249 バイト)           

                                 

 「なぜ多い、女性の霊媒、拝み屋さん」              

霊媒や拝み屋さんや、東北地方の”イタコ”と呼ばれる人になぜ女性が多いかということと、冷え症が女性になぜ多いかが同じ理由なので、同時に説明したい。            

                                 

  「出産とあの世とのかかわり」                              

 子供を生むことは女性だけの持つ特性である。男がいくら望んでもそれは出来ない。たとえば、この世の成人男女が縁によって結婚をした。夫婦生活が調和され、受胎をする。すると夫婦に縁のある子供の霊(魂)が天上界で待機していて、妊娠三カ月になると胎児を支配するために下生(げしょう、降霊、天孫降臨)する。このように、女性は妊娠、受胎、出産を通して、あの世の世界とはツウツウなので、霊的に感応しやすいと言うわけである。このために、冷え症は女性に多い、霊媒、拝み屋さんが男に比べて女性に多いという理由なのである。女性は男性と違って、生理的、肉体的な特性によって冷え症は多いのだという声も聞えそうだが、神様が女性のみに生理的なハンデイを与えて冷え症をおつくりになったハズはない。その証拠に、廻りには暖かい手や足の人を何人も知っている。高橋師は愛のある方だったから、記述にも控え目な思い遣りのある書き方、講演をしておられるが、ウエブ・マスターは愛が無いので、何んでもズバリと一刀両断にする。このような反省を始めると次のことを思い出す。

  ある時、園頭師が高橋師に質問しようとした。その質問の内容は何かといえば、それは、園頭師が宗教団体「生長の家」の本部講師の時、次のような問題が生じ、疑問に思うことがあった。生長の家の講師や指導者達は、会員が個人指導を受けると、「夫婦仲が悪く夫婦生活がうまくいかないから、子宮ガンなんかになる。」などと、皆んなの前でズバリと指摘する。すると、相談をした人は、皆んなの前でハジをかかされた、愛がない、もう二度と行くもんかということになる。これを園頭師は、高橋先生に質問しようと思った。すると高橋師は園頭師の心を読み、何も尋ねないのに、「あなたの質問をイエス・キリストに答えてもらいましょう」と言って瞑想した。すると、高橋師の顔がキリストの顔に変化して「愛のない人に、心と肉体の法則を教えてはいけません」とイエスは教えて下さったと、園頭師は月刊『正法』に詳述している。愛が無ければ知識として教わったことを、スバリと一刀両断に裁いて得意になりがちである。そのために、愛を説かれたキリストは、「愛の心の無い人には、心と肉体の法則を教えてはならぬ」という言葉になったのである。

    

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WB01158_1.GIF (255 バイト)      霊能者を正しく見よ

                   

 霊能者や、東北の”いたこ”といわれる人は、ある人の霊をいれて、生前のことを語らせたりする。人の霊を「いれる」という人がいれば、その正否の判断は、その霊と招霊を願う人しか知らない事を語るということも一つの判断の規準だが、その霊が目的の人かどうかは、見えぬだけに、注意が肝心である。

まず第一に、目的の人の霊を入れると、顔、奮囲気、しぐさが似てこなければならない。そして、生前、沖縄の方言しか喋っていなかった人が、たとえば東京の霊能者だった為に、東京弁で喋るようであれば要注意である。手が左ききであったのに、さかんに右手を使う等の、判断材料は多くあるはず。もし、その人の”オハコ”の歌があれば、「大好きだった船頭小唄を歌ってください、お父さん」などとやって見るのも一つの方法で、歌いっぷり、節まわし、特徴をよく観察してみることである。目的の人そのものでなくてはいけない。ダマされてはいけない。霊能者達にも生活があるので気の毒とは思うが、罪をこれ以上重ねさせないためである。

ところで、最近はニセモノが横行する時代で、「目的とする人を入れると顔まで似てきます」と記述したが、ある所に、イエスやモーゼらしき顔にクルクル変るという人がいる。イエスの話になるとイエスの顔に、モ−ゼの話にはモ−ゼの顔。高橋師が生前、「お釈迦さまは”耳たぼ”がこんなに大きくて−−−」という講話があるが、その人がお釈迦様になり切って話すと、耳たぶが大きく長くなって、お釈迦様らしい顔になって話をする。このような事が起るのでインターネットで公開を急ぐ理由。現代は、高橋師が「正法」という人間の正しく生きる道、神理をお説きになったものだから、地獄界のサタン達にとっては困るらしい。[正法」が拡がると、地獄の足場がなくなって、暗い世界の崩壊につながるものだから、彼等も躍起。混乱させようと懸命。光によって暗闇は消えるので、彼等によってはまさしく恐怖である。それで、あの世の魔達が協力して、その人の顔を変化させ、廻りに集って来る人達を信んじ込ませて、誤った方向へひっぱり込んで混乱させる。サタン達は、モ−ゼの時も、釈迦、イエスの時も出て来て、混乱させたらしい。彼等はモ−ゼも釈迦もイエスの顔もよ−く知っているものだから、顔を変化させること位は、簡単。このような「魔の跳梁」を見破るためには、その人を正しく見ること(正見)である。正しい尺度で観察していると、おかしな人は必ず馬脚(魔脚?)をあらわす。万に一つもおかしい奮囲気が感じられたら、要注意。彼等はあの世の地獄界の霊だから、この世に誕生できないので、つまり、肉体を持てないので、目的を果たす為には、この世の同類の人に憑いて目的を果たす以外にないのである。これも、「類は友を呼ぶ、波長共鳴」の法則だが、おかしなものが憑くからにはその人もおかしい。よくよく見ることである。

                                 

WB01062_1.GIF (249 バイト)       高橋師の「ことば」WB01062_1.GIF (249 バイト)                   

「教祖を見たなら、八正道の物差しでまず計ってみることが、大切であるということが必要だろう。ラジオ、という機器にもピンからキリまであるように、霊媒でも、地獄霊の段階から上上階段光りの大指導霊まで、いろいろな段階があるということを、私達は悟らなくてはならないだろう。口よせにも同じことがいえる。対象への、人それぞれの冷静な眼、きびしい判断が、もっとも重要であるということである。」                     

                                 


 

WB01062_2.GIF (249 バイト)    霊能者を試みるWB01062_2.GIF (249 バイト)                     

                                 

 <大正ひとケタ生まれの工学博士>

                         

 特許が九百余りの人がいる。著書より引用して記述する。氏の周辺には不思議な現象がいっぱい起こっている。ミカンやイチゴや口の中から真珠が出る。突然、、大黒や恵比寿像が出る。蓋のしまった空のビンに酒が一瞬にして一杯になる、世間ではありえないことが次から次へと起るというのである。「世の中の現象はすべて必然的であり、偶然はありえない」と言われる。まさしく、その通りだと思う。そして、氏は続ける「ということを知るようになったのは、こういう現象を目のあたりにしてからです。ただし、普通の人間は、そういうふうには感じないし、まったくわからない。人間性の次元が上がると、すべてがわかるということを悟り知ったのでした。」と結ぶ。氏は自分の人間性の次元が上ったから、わかったと述べるが、本当にそうなのか。氏の記述されている、周辺に起る超常現象を列記して見よう。                             

 一、養老の滝と同じように、酒が小さなビンから一年半も湧き読けた。                                 

 二、ミカン、イチゴ、ブドウ、スイカや口から真珠が出た。口からでたものは三・八ミリから一三ミリに段々と大きくなった。                                      

 三、粗削りの大黒像が出た。削りクズもあった。恵比寿像、観音像も出た。これらのことが日常茶飯事に起る。                             

 四、スプ−ン曲げが自由に出来る。クレヨンと紙を投げ上げると、白紙に文字や絵が瞬時に発生した。(描かれた)                             

 五、忘れ物が米口から日本へ、新潟から大阪へ物体移動した。                             

 六、ホ−ルインワン、三七0ヤ−ドの予告ワンオン。ボ−ルが進んでカップイン。住所のわからない家に行けた。知人の死の予告。                                    

 七、二階から落ちて舞い上がった。幽体離脱をした。肉体は信州にいて、生命体(高橋師の言われる光子体?)は空中を飛んで南方へ行くと、金色の竜が二匹いるところに着地した。そこは名古屋の近くの蒲郡の竹島だった。                                    

 これらの超常現象が氏の周辺に起るというのである。アッと驚ろくような、ビックリするようなことは動物霊が協力して起こす。七番目の幽体離脱の項で、「二匹の金の竜」とあるが、氏の動物霊は気になる。ヘビ・竜は地球人(三億六千年)より歴史の古い五、六億年前と高橋師は教えるが、古い地獄のヘビだと、人間をコントロ−ルして、様々なアッと驚ろく現象を起こす。あの世の次元の霊だから、酒がビンから湧き出る、真珠、仏像などの、程度の低いことは簡単なこと。動物は人間より下位階の生命体だから低次元の協力しか出来ない。酒、金粉類似のもの、仏像など、その人の心を知っているので、人の気を引くものを出したり、語ったりする。たとえば「余は八幡大菩薩なるぞとか、OO大如来とか、人の気を引くことを名乗る。人間は、神より創造、慈悲、愛を与えてある最上段階の「神の子」であるのに、このような、動物霊に支配される人の死後の世界は、動物霊にコントロ−ルされ、配下になって苦しむことになる。まことに恐ろしい。

金粉についてだが、光の天使の協力によって出す金粉は純金。動物霊や地獄霊の出す金粉は、銅が主で、その内に黒ずんできたり、消えて消失する。長くはその状態を続ける事は出来ない。高橋師の高弟の一人、村上宥快という人の著書には、高橋師から数十グラムの金塊が出て、出たすぐには熱かったと記述している。また、高橋師の手も顔も金粉で金色に輝くという金粉現象が起った。お釈迦さまを金色に装厳するのは、このようなことによるのだと解った、と園頭広周師は記述する。このような「金粉現象」は光の天使だけでなく金粉様のものは動物霊も出すので、金粉を出す人の人柄、人格を正しく見て欲しい。

 

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 <○玉○という人>                             

故遠藤周作氏が”狐狸庵閑話”の中で「奇妙な女」として紹介した、氏のことをカトリック司祭の志村辰弥氏が「この事実をなんとみる」と、孫引きして本に書いた。遠藤氏は言う。「私は彼女の奇跡を実験するために、あらかじめ餅菓子を用意して持って行った。すると先生は、それを前において念呪し、両手で割るように私に命じられた。私はこわいような不思議な気持ちで、餅菓子を割ったとき、黒いアンコの中に魚の目のような白い真珠が現われた。そのとたん、彼女の唇からもポロポロと真珠がこぼれ落ち、数えたら合計八個である。私はそれを持って家へ帰り、色々と考えてみたがどうしても事情がわからない。私は今でも不思議に思っている。」、と。そして、先述した工学博士氏は、氏のことを次のように書いている。「昭和五十年八月二十日、先生は私の宅へ来られて奇跡を行われた。先生はまず私の前にあった、けし饅頭を指でつまんで、「これをナイフで二つに割りなさい」といった。私は命じられるままに饅頭を二つに切り開いた。すると黒いあんこの中に真珠が白く光っているではないか!私は思わずアッと叫んだ。私はいままで真珠が出ることは話に聞いてはいたが、自分の手で、自分の前で奇跡が実現するとは夢にも思っていなかった。現実に真珠を手にしながら、まだ信ずることができない気持である。この饅頭はつい先程、買って来たばかりのもので、家内が私の前に置いたものだ。それからどうして真珠が出てきたのだろう?・・・ 」、と。

また、園頭広周師は、氏のことをこう記述している。「私がその人のことを知ったのは昭和三十六年であった。昭和四十年十月、私は先生のところに行ったことがある。そのころ既に「生長の家」の教えでは救われないことを知っていた私は、いろいろな人を尋ねて歩いていた。(註・園頭師が高橋師の教えに帰依したのは昭和四十八年)生長の家の信者の中に、ある大学教授夫人があって、その人に誘われて行った。そのころは先生は浅草におられた。その大学教授夫人は、銀座を歩いていて左肩が重くなってきたので、ひょいと見たら、三寸位の高さの木彫りの大黒像が乗っていたというのである。私もその時菓子箱を持って行ったが、その菓子の中から、真珠と金の大黒と恵比須の像が出てきた。どうしてそういう霊能を持たれたのかと聞いてみたら、小さい時から信心が好きで、私の記憶では十四才の頃から滝に打たれて修業しているうちにそうなったということであった。空っぽの瓶を祭壇に供えて祈られると、ぶくぶく甘い匂いがして酒がこぼれるのである。そういう霊能はふしぎだと思う気持はあっても、先生が祭っている神さまを信仰しようとは思わなかった。異様な不囲気を私は感じていた。三回目に行った時、先生と御主人と夫婦喧嘩が始まり、いい合いされた後で、舌打ちしながら坐り直して祈祷を始められた。私は、それっきりそこへはいかなかった。日常生活を正しくできない者は正しい神理は説けないと思っていたからであった。」                                          

 


 

   <女性電子器楽奏者のこと>                 

昭和六十二年春のこと、同年九月中旬、マグニチュ−ド八以上の東京直下型の地震が起こり六百万人の死傷者が出ると予告をした四十歳の女性霊能者の予告が、新聞や週刊誌で取り上げられた。この女性は関西の電子器楽奏者で、アメリカで霊能をみがいたという。数年前にはテレビにも出演、涙が真珠に変わるというので評判になったようで、ウエブ・マスターもそのテレビを視た記憶がある。それまでに幾つかの予言が適中したので、今回も適中するであろうと関係者の一人が、その女性霊能者の著書の一部を抜粋して新聞社などに郵送したらしいのだ。ある大新聞社の週刊誌にあっては、数ペ−ジを割いて大々的に報道していた。この記事を読んだとき、「困ったことだ」と思った。饅頭の中の真珠や恵比須像や涙が真珠に変わるという「物質化現象」が事実、起きたからといって、それ以上の何ものでもない。「今から二千年前、イエス・キリストが数片のパンで数千人の飢えを満たしたことは事実です」と、高橋信次師は明らかにしたが、飢えた数千人の人を救うために、イエスの希なる霊能によって、パンの物質化現象は起きたのである。天上界の協力によってパンが物質化された。

「パンによって多くの人が救われた」これは「愛」以外の何ものでない。ところが、これらの霊能者は真珠を一杯出してネックレスにでもしようというのだろうか。まったく次元が違うのである。高橋師が言っている、「その人の目的意識に合わせて行うわけです」という所に注目して欲しいのである。数十センチ程の像の物質化現象が行われたからと言って、これは単に、そんなこともあるのか、という以外の何ものでもない。ウエブ・マスターが、そのような霊能を持っているなら、真珠や大黒の像など出しはしない。アフリカ等で栄養失調で死んでいく可哀想な子供達に、パンやミルクを出して助けたい。皆さんもそう考えませんか。         


                                 

   <○田○、という人>   園頭広周師の体験から                                 

 「昭和四十三年、私は既に生長の家を辞める腹を決めて、あの世とこの世の関係がよくわかる霊能者はいないかと探していた。丁度『たま出版』から○田○著『天○○』という本が出版された。それで行ったのだった。金粉がふること、病気が治ること、いろいろな奇跡が起こることを幹部の人たちが説明され、『ここの先生を知られたことは幸せですよ』といわれた。私には祭壇の異様な空気が腑に落ちなかった。教祖の先生は祭壇に向って祈祷をされるだけで特に『法』を説かれるわけではない。だからここの神様の正体を見てみようと思ったのである。大祭があるというので行った。私は一番後ろに坐った。いよいよ神様を招く祈りが始められた。今だと思って「ここの神様、正体を現わしなさい」と”光り”を送ったのであった。とたんに教祖の先生が苦しみ始めた。「あ、苦しい、助けてくれ、酒を呑ましてくれ、酒を呑ましてくれ」といいながら祭壇の前をのた打ち回りはじめた。集まった信者たちが総立ちになって「こんなことははじめてだ」と騒ぎはじめた。のた打ち回りながら祭壇に供えてあった一升瓶の封を切った。瓶ごとごくごく呑みはじめた。長居して疑われてもいけないと思ってそっと帰った。同じく園頭広周師の体験から                              

「その後、ある大きな教団の話を聞きに行って、光りを送った。とたんに話ができなくなるのです。冷汗を掻いてハンカチで顔を拭き無理して話を続けようとするから、それまで話していたこととは違ったとんちんかんな話を苦しそうにはじめるのである。鹿児島の霊能者は「あなたが来られると、うちの神様は眼がくらんで出てこれないとおっしゃっていますから、あなたは来ないで下さい」と断わられた。どうして私にそういう力があるのか不思議であった。私でない私以上の力が働いていることはわかっていたが、もっとはっきり知りたいと探しているうちに高橋信次先生を知ったのであった。」                              


 

WB00955_2.GIF (255 バイト)         暗い世界の霊にとって光は大敵 WB00955_2.GIF (255 バイト)                                   

 どうして教祖達がこのようなことになるのか説明しよう。園頭師が「光を送る」と動物霊や地獄霊に憑依された教祖達が、のた打ち廻ったり、支離滅裂な言動をとる。どうして起るのだろう。高橋信次師は「園頭さんは、如来と菩薩の中間に位置し来世は華光如来として生まれる。インド時代の舎利沸であり、天使ガブリエルの過去世を持つ人です」と言い残したが、暗い世界の住人、つまり、困りものの動物霊や地獄霊にとって、如来や菩薩界の人の後光(オ−ラ)は「光そのもの」、「光の化身」なのである。

光によって闇は消える。光あるところに悪は住めない。善があらわれると悪は消えてゆく。こうして憑依された教祖は、信者の前で恥能をさらすことになった。正しいものは絶対にならない。世の霊能者と言われる人よ!師の面前で、その霊能とやらをやってみられるとよい。自信を持ってやれる人が何人いるであろうか。「神の子」である人間も、動物も植物も鉱物も、すべて「光」の中に在って生かされ生きて行く。しかし、「神の子」の一部は、光を嫌い、影の部分でしか生きてゆくことが出来ないとは、なんと愚かなことだろうか。次に高橋信次師の「ことば」を引用しよう。          

                                 

 「現代はどうかというと、動物霊に犯されています。万物の霊長たる人間が、己の心を、己の本性を忘れたため、その黒い想念がそのような動物霊を呼び込み、とりわけ、神がかり的現象をみせている新興宗教のほとんどは、動物霊の支配をうけているというのが実情であります。」『天使の再来』 

                                 


WB01062_3.GIF (249 バイト) 「霊道」WB01062_3.GIF (249 バイト)                高橋信次    

                                 

 「 一般的には霊能、あるいは霊道と呼んでいるようです。霊道とは文字通り霊の道がひらくことで、芸術家などの中に、割合多くみられ、天才などは霊道をひらいている人がほとんどです。霊道がひらくと透視力とか幽体離脱、人の心を見抜く、物品引き寄せ、物質化現象など、超自然現象が人に応じて可能になります。これらは、その人が行うというより、その人の背後で手助けしている霊がおり、その霊が、その人の目的意識に合わせて行うわけです。その人が全然それを望まないのに、そうした、超自然現象が起きる事もありますが、そういうことは少ないものです。なぜかというと、あの世の霊は霊道者の心に合わせて行うからです。ただし、霊道者が、仮に、万年筆の物質化現象を望んだのにボ−ルペンに変化することはあります。また目的に対して時間的なズレがあったり、希望はしないが恐怖心や、心のさまざまな動きが現象化することもあります。霊道は過去世でその道に修行した人が大部分ですが、修行しない人が霊道を求めることは、こういう意味で、非常に危険です。」同じく高橋師の「ことば」より                  

    <霊能者・霊媒>                     

「 まず霊能者、霊媒といわれる人は、ほとんどの人が前世、過去世で肉体行などの荒業をやっています。今世でフトした機会に霊力や霊能を身につけたといわれる人は、ほとんど前世で、肉体行をやっています。通常にない能力を身につけますから、つい有頂天になり、自分の心がふり廻されてしまい、あの世の魔王や、動物霊のまたとない獲物となってしまいます。このような人達の末路は哀れといわれるのも、動物霊や魔王に身も心も明け渡してしまうからです。正しい法の根本は、神の子の自覚です。霊能そのものではありません。霊能は神の子の自分に目覚めたときに、二次的副作用として起こるものです。霊道の原則はこの一点にあります。色々な霊道現象を現すからといって、つまりモノが当る、病気を治す、霊力がすごい、というだけでその人を信じてはいけません。動物霊が背後にいて現象を現わすことがほとんどです。まず常識的に判断してその人の言動をよく確かめることです。その霊道現象をうのみにせず、それが本物であるかどうか正法に照らして、見る、聞く、考えてみることです。」また、園頭師は次のように言っている。                              

「動物霊に支配されている指導者に現れる面白い現象がある。それは異常に性欲が強いということである。また、その反対に、生気を吸い取られ顔が青白い人もある。ギラギラとした生臭さを発散するか、幽霊を見るような感じがする。ともかく眼を見るとすぐわかる。」 

     

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  <パ−ラ−のO村という人>

               

 パ−ラ−経営者がいる。93年の春、パ−ラ−を訪ねた。深野一幸氏や船井幸雄氏が詳しく紹介されているので霊能の一端をあげる。                            

 ・時計の秒針を念力で止めたり、グルグル速く回転させたり、砂時計の砂の落下速度を自由自在に制御する。                              

 ・スプ−ンを曲げたり、瞬時に折ったりフォ−ク状に変えたりする。                             

 ・ボルトとナットを念力でグルグル廻して締めたり緩めたり自由自在。                                 

 ・瞬時に電球を灯したり、ニクロム線を熱する。                             

 ・硬貨を大きくしたり、小さくしたり、タバコを通したり密閉されたビンから瞬時に出したり入れたりする。紙幣を空中に浮かす。                              

 ・ポラロイドによる念写                            

 ・指輪や鍵などの物体移動(テレポ−テ−ション)                           

 ・その日の来店者の名前を前日から予測。来店者に好きなことを書かせ、それを当てる。

   ・その人の心を読んで当てる。病気あて等。                             

 ・卵の物質化現象                               

 ・その他、アッと驚ろくことが沢山。               

                                 

 訪ねた時、暗い奮囲気が気になって仕方がなかった。氏は生卵の物質化現象をされるが、ヘビは生卵が大好きである。この項に関連して次の説明をしよう。              

                                 


 

 「○明○団」・○玉という人

                            

教祖○玉、昭和四十九年、○玉の死後、後継問題が起こり、十三年間に及ぶ裁判が繰り広げられた。一方は飛騨に総工費三百億円以上といわれる本山を、他方は中伊豆に三百億円以上という本山を完成した。共に、週刊誌には写真入りの報道がなされ、百キロの金塊で作られたという神座が荘厳されていた。園頭広周師は月刊・『正法』に次のように述べている。「高橋信次先生は「○明○団の教祖・○玉氏には光竜が憑依している」と云われた。その教祖が講演する前には生卵を五、六個ペロリと平らげた」、と書いている。これを証明する高橋師の記述を要約する。                

                                 

   「浄霊をするという人」                   

                                 

 「私は、OO教団で、上級研修を終えた導士ですが、憑依霊をとることができます。そしてこの憑依霊を供養するために仏壇に祭り、OOの業をしております。それには、OO教団で与えられている”御み霊”(原著には御魂と書かれている)をお受けしていなくてはOO業はできません。私は、”御み霊”を首にぶら下げているため、あなたを浄霊することができますが、いかかでしょうか」というのは、千葉に住むOO教団の闘士であった。私を浄霊するというのである。三十歳近いOL風の女性で、こざっぱりした人だが、なかなか自分の宗教に自信を持っていた。私はいった。「あなたは、その霊の姿や、他の憑依している迷える霊を見ることができますか。またそれらと聞くことや語ることができますか」女性は答える。「私はOOの業ができるし、”御み霊”を受けていますから、見えなくとも聞こえなくともまた話せなくとも、憑依霊をとって、あなたを浄霊できるのです」、と。私が実験台に立つことになった。

しかし私が見ると彼女の腰には、大きな蛇が二巻きしている。そして彼女の頭の上に首を出している。私達のグル−プのなかには、憑依している一切の霊を即座に心眼で見ることができる人々が多勢いるため、無言で成り行きを見守っている。決して論争や否定などをする人などいないし、極端な判断をして、ひとりよがりの結論なども出す者はいない。しかし、疑問は持っている。そして、正道との違いを見るために必要があるから、納得するまで信じようとはしない。女のいう通り、うしろ向きに坐った。私に憑いているらしい霊に向かって、女は大きな声で、「オ・シ・ズ・マ・リーー」と声をかけた。そして、私の背中に手をかざしているようである。可哀そうな女性だ、と私は思ったが、今はこれ以外に彼女を助ける方法はない。いわれるままにしてやることが必要であった。彼女は一生懸命に”御み霊”を信じているのだし、たとえ私が神理を説いたところで聞くはずもない。結果が出れば、目覚めるだろう。しかし、彼女の守護霊も大分悩んでいることが合掌している私にはっきりと解る。古代印度スタイルをしたその守護霊は、私に話しかけ、申し訳ありませんと、頭を下げているのであった。守護霊も、そばにつけない状態なのである。二〜三分時間が経った。

彼女は手かざしをやめて、合掌した両手をくねらせ、蛇のように身体まで動かしている。もう、そのままにしておくわけにはいかない。私は、彼女の前に坐りなおした。彼女はすっかり大蛇に憑依されて支配されてしまっているのだ。私を、浄霊してくれるはずなのに、その本人がすっかり大蛇に身心をゆだねてしまっている。その姿は哀れであった。私は彼女が可哀そうで、涙に眼が曇った。しばらくしてから、私は憑依霊にいった。「お前は、この者に憑依しているが、名乗りなさい。先ほどから私達に見破られていることを知りながら、浄霊とは何ごとであるか。自らを浄めなさい。自分の姿を、お前は自分で語りなさい。」すると彼女はさらに身体を上下左右に動かす。やがて、憑依霊は彼女の口を通して語り出した。

「私は蛇です。白い蛇です」「お前はどこからきたのか」「私は光竜の眷族で、この女を指導している。人間は馬鹿だから、こんなペンダントを、高い金を出して”御み霊”だなんていって首にぶら下げているんだ。粗末にすると罰が当たるといわれているものだから、風呂に入るときなど大事に外しているよ。 ・・・俺達は、金儲けをして、一大王国を築くんだ。だから、神様のためにといって、金を出させているんだ。盲信者を 欺すにはこれに限るのさ・・・。この女もそのために心がざわついて夜もあまり眠れないんだ。疲れるから昼間は寝てばかりしているね・・・。そして道場でお浄めをしているから、俺達の配下がどんどんできるってわけさ・・・・」とんでもないことをいい出したのである。私はいって聞かせた。「この地上界の人類を、お前達のような動物霊が支配できるはずもないし、人類は、お前達ほど間抜けではない。やがて、人類は、自らの愚かさに目覚め、神の子としての自覚をするだろう。お前達も、神の子であるならば、身のほどを悟らなくてはならないのだ。たとえ人間を狂わしても、お前達もそれ以上の苦しみを受けるだろう。お前がいつまでもこの女性に憑いているなら、私は強引に引き離すだけである」彼女が信じ切っているため、困難はあるだろうが、人間は、このような者に支配されてしまうと、廃人同様になってしまい、さらに類は家族にまで及んでしまうのである。

私は、憑依霊に神の光りを与えた。憑依霊は次第に苦しくなり、自由が利かなくなって行く。身体をくねらせその力を失って行く。彼女も苦しそうだが、しばらくの我慢が必要だ。このとき、彼らの親分でもあろうか、金色の大きな竜が、ボ−ルのように大きい巨眼をぎょろぎょろさせて出てきた。長い二本のひげを交互に動かしてこちらを眺めているが、私達の心か執着から離れ、光りに覆われているため、そばに近ずけないのだ。そうするうちに、光の天使で、竜や蛇を支配している竜王がそばにきて遂にこの蛇を強引に引っぱり出して連れて行ってしまった。それも、彼女の心のなかで、それが離れることを自覚したため、離れることができたのである。合掌している手の先から、憑依霊が出ると同時に、彼女の身体は前に倒れ、しばらくは意識不明の状態が読いたのであった。涼しいところで休ませ、約十分くらいで意識が回復してきた。この光竜は、かって天上界で鉄眼といわれた中国の僧侶が、竜王として動物霊達に神の子としての道を教えた頃の竜であったが、竜王のもとでのきびしい修行に耐えることができず、地獄界に堕ちていたものである。法力があるため、人々の心を神だ仏だといって増上慢の指導者に憑いているものなのである。鉄眼は、丁度日本の角力とりで大内山といった人に良く似ている顔立ちをしているが、非常にやさしい光の天使である。その人がいうには、地上界の人間の心が彼らを呼ぶので、天上界の光の天使達はどうにも仕方なく、増上慢な心の持主には全く困っているということであった。この彼女から、動物霊が抜け去るときに、光の天使はそばに立ち、はっきりと姿を見せていたので、私達にはこの事実が解かったのである。彼女は苦しみから解放されて、昔の元気な心をとりもどし、今は、幸せな家庭の主婦として生活をしている。勿論、OO教団はやめ、「さわらぬ神に崇りなし」のことわざの通り、そのご間違った信仰には入っていない。『心の発見』    

                                 

この記述の中で、動物霊の蛇が「俺達は、金儲けをして、一大王国を築くんだ」という言葉をはく箇所がある。そのボス光竜は○玉氏を支配。O玉氏亡き後は,分裂した二つの教団を支配して、金儲けの手段のためにそれぞれ、三百億円以上といわれる大殿堂を完成させ、今や急速な拡大を遂げている。神の名を借りた金儲けが、そういつまでも続くはずもないのである。ところで、”手かざし”とか手から光を当てるのに、片手でかざすのから両手で行うのまで、それはもう大変。<手かざし>に似た業は、「大本」のしゃもじや扇子を使う<御手代>や、それを発展させた<手のひら療法>や<浄霊法>などである。       

 

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 『教祖誕生』・上之郷利昭・新潮社によれば、           

                                 

「○玉氏は「凄い熱気を感じさせる人だった」という人たちも多い。詩人の加藤郁乎はこう語っている。「湯川秀樹先生が『あのひとの傍にいると暑くなる』と言っておられた。福田赳夫元総理も同じことを言っておられました。私もその経験をしています」、と。このように、熱っぽい、暑さを感じさせるという表現によってなされている。その人の囲りがいつも冷え冷えとした感じや、いつも熱っぽいという状態は憑依の特徴である。周囲まで暑さを感じさせることは自然ではない。かっての「地球発22時」という番組の中で、中村敦夫氏が大阪近郊のミニ宗教を取材した。そこの信者が「うちの教祖は、とっても熱さを感じさせる人だ。この前も、このように頭の上の方にオ−ラが出て暑く感じた」という事を身振りを入れて語った。オ−ラは、普通の人には見えない。四次元以降の現象であり、霊視することによってわかる。現象世界(この世)でオ−ラを知ることが出来るのは、非常にさわやかであるとか、愛に満ち満ちているとか、人格的に立派であるとかによってわかる。だから、オ−ラは熱さ、暑さを感じるものではない。

護摩をたいたり、火を燃して祈る人は、その熱気で身体が熱くなるのはわかる。そして、高熱の人や血圧の高い肥満の人が、体温の輻射熱で熱く感じるのは医学的事実だが、これ以外の現象で熱さを感じさせるのは、尋常ではない。また、『教祖誕生』によると「晩年の○玉氏は金や宝石を身に付けて奢り高ぶっていたから−−−」という記述がある。よくよく考えて欲しい。正見」しなければならない理由がここにあるのである。教祖のこのような心の傾向を受けて、「主座黄金神殿」の名称といい、百キロの金魂で荘厳された神座」といい、後継者二人の、二つの教団は共に同じような道を歩いている。次はウエブ・マスターの体験談である。                     

                                 

「街に散歩に出た。夜七時過ぎ。突然、二十歳位の女の子に声を掛けられた。残暑とはいえ、雨あがりの涼しい夕刻であった。白ズックに短パン、片手に透明のビニ−ルの傘を持った、その娘は、著者に二、三分時間をくれという。キャッチセ−ルスの類かと思って立ち止まった。浄霊と浄血をするというその娘は、雄弁に語りかけて来た。そして、手かざしをさせて欲しいと申し出た。一通り話しを聞いた上で、「心の正しい尺度とは何か」という話を三分ほどした。その娘は、手かざしをあきらめたようで一礼して雑踏にまぎれていった。しばらく遊回して、そこを再び通った。その娘は、横断歩道を行き交う人、一人一人に声を掛けている。その娘の動きたるや、賃金を貰ってチラシを配っている人でもああは出来まい。「宗教は阿片」と言うが、盲信、狂信の哀れさを、その娘に見たような気がした。廻りには教団のグル−プと言える人は誰もいそうにない。まったくの一人であった。十分ほどして三十半ばのサラリ−マンらしき人とコンタクトが出来たようで、デパ−トの前の、刈り込みのそばで、娘は手かざしをはじめた。男の人はいかにも気の弱そうな、真面目そうな人であった。通行量の最も多い場所で、薄暗くなりかけた時刻とは言え、合掌した三十半ばの男性、そして手をかざす二十歳位の娘。私をはじめ、十数人の人達が、その情景を眺めていた。五、六分が経った。手かざしは終わった。十数人の視線を感じた、その紳士は恥じらいを見せながら私鉄のコンコ−スの雑踏にまぎれ去った。これほどまでに彼女をかり立てる宗教とは一体なんなのであろうか。このような前途有る若者達に、足かせをはめて組織の一員として組み込んでいく教団とは何か。そのようなことを考えながら、暗い気持ちで雑踏にまぎれた。だが、暗い気持ちばかりになってはおれない、早く「心の物差し」を伝えなければ、教えなければと思った。」

調和された淡いゴ−ルドカラ−のオ−ラ(後光)に包まれた人からの手かざしなら、それはそれで良い。グチ、怒り、ねたみ等の不調和な想念を持った人の暗いオ−ラの者から手かざしや、高橋師の記述にあるような動物霊や地獄霊に憑依された者達の手かざしは本当に困るのである。「道場で、お浄めしているから俺達の配下がどんどんできるってわけさ・・・ 」という白い蛇の会話を思い出して欲しい。”類は友を呼ぶ”という 譬えの如く、暗い心を持っ人には、あのような蛇の配下が憑依して、その人の心をコントロ−ルするわけで、これはまさしく宗教の名を借りた罪悪なのである。           

                                 

 園頭広周師の記述から          

「ある教団では、その人の額に手をかざすと憑依霊が浮き出すという指導をしている。これは高橋先生が教えられた「光を入れる」のとは全く違うことである。子供が喘息だというのでその教団に通っていた人があった。その教団の講師が手をかざすとその子供が暴れ出す。大人四、五人かかっても押さえ切れない程の力が出るという。いくら「おしずまり」といっても静かにならない。その後はぐったり死んだようになる。いくら続けて行っても、暴れるのがますますはげしくなるだけで一向によくならないといって来た人があった。高橋信次先生は、その教団を支配しているのは動物霊であるといっていられた。動物霊にも大将親分がいて、幹部講師にはその子分がつくのである。動物霊の世界では力の強い霊が弱い霊を支配する。その子供の場合は、その子供の霊が目ざめていたから、動物霊に支配された講師の邪悪な波動に、拒絶反応を示したのである。

小児喘息というのは親の心の不調和であるから、親が不調和である限りどんなに他の治療法をとっても一時よくなったように見えても根本的に治るということはむずかしい。別に意識して調和を図ろうとしているわけではないが、子供がぜんそくで苦しんでいるのを見たりして、どうかして治さなければいけにということで子供を治療しているうちに、知らず知らずのうちに夫婦が調和して、その結果よくなったという人がある。その人は正法を知って親自身が心の調和を図っているうちに子供のぜんそくは治った。口で愛を説きながら、どのようにして教団に金を集めようかと、いろいろ手段を尽して信者会員から金を集めることを考えている宗教指導者は、動物霊に支配されているとみて間違いはない。その指導者がどんな立派なことを言ってもである。正法を説くことを使命として現われてきた光の指導霊は、神の名を利用して教団の財産をふやしたりすることは絶対にしないのである。勿論、神殿をつくって神を祭るということもない。信仰することによって何かの益を得ようとか、人の持たない霊力を持ちたいという欲望を持っている人は、本人は無意識のうちに動物霊に支配されてゆく。そういう人たちは自分で正しい信仰をしていると思っているけれども、冷静な第三者から見ると必ず非常識な理解し難い言動をするものである。

 

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   「高橋師は憑依霊を 愛の心で取り除いた」        

                                 

 高橋信次師は、何千人という聴衆者の面前で、人に憑いている憑依霊をよく取り除いた。一時間半ほどの講演が終わり、「現証の時間」になると聴衆者を見回す。師は憑依霊がよく視えるので、聴衆者の中から指名登壇させる。または「自分には神が出てくる」と自称する希望者を登壇させる。そして、憑依している動物霊や地獄霊を〃とった〃。憑依されるには憑依される理由がある。高橋師は間違った信仰や不調和な心のあり方が、霊を呼び込むことになったと諭され祈る。数多く残されたテ−プやビデオの中からその時の情景を再現する。

高橋師は祈る「神よ、この者の心に光をお与え下さい安らぎをお与え下さい。実在界の諸如来、諸菩薩、光の天使、この者の当体に光をお与え下さい。この者の罪をお許し下さい」と祈り、憑依霊を除去する。或いは、「不空三蔵つれていきなさい」と、不空三蔵に依頼されて、憑依霊を天上界の修行所へつれていくこともあった。不空三蔵は、高橋師つまりお釈迦様の分身(1)で高橋師の守護霊をしていると云っていた。「私の守護霊、不空三蔵に助けてもらい、連れて行ってもらったのです。だから、私がやっているんじゃないんです」と高橋師は謙虚におっしゃる。そして著書の中でも「私は、自分の心をしっかりと正し、うぬぼれや虚栄心がないか、そして謙虚な自分であるかどうかを確かめると同時に「○○を救って下さい」と心に念じた、と書いている。このように、いつも謙虚であった。高橋師は、いつでも、どこでも自由自在に憑依霊を取り除いた。

心が変わらなければ、その内にまた別の霊を呼び込み余り意味がない。しかし、高橋師は憑依霊が取り除かれた後の心の安らぎと調和の素晴らしさから、それをきっかけに正道の第一歩となることを願って、憑依霊を取り除いたのである。講演会場で、そしてGLAの本部で、色々な所で憑依霊を取り除いた。その数たるや相当なものだったと思われるが、そのうちのどれ程の人が正道を歩いているのだろうか。                                


 

WB01158_2.GIF (255 バイト)  憑依とは何か

                               

 人の心(意識)が動物霊や地獄霊、魔王に憑依さ(つか)れると、ひとりよがり、無口、多弁、ウソつき、深酒、怒りっぽい、ぐちっぽい、自閉的性格などの現象が顕著になってくる。病気の約七割は憑依によると高橋信次師は教えた。歩道を歩いていて後から自動車にハネられる。頭上から鉄材が降ってきて思わぬ怪我をすることも、同じように憑依による現象である。憑依がさらに進行すると、精神分裂になる。気違いである。こうなると自分の心(意識)が他界者(よそもの)に完全に占領され、就眠することができなくなる。また、ノイロ−ゼのほとんどは憑依によるもの。 

                                 

 <なぜ憑依は起こるか>                    

                                 

 なぜ、憑依現象が起るのかと言うと、その本人の、物の見方、考え方が非常に片寄っており、欲望や執着が強いために、これと同じような心を持っている動物霊や地獄霊が、「類は友を呼ぶ」ということわざのように寄ってくるというわけ。現代では、「動物霊、地獄霊に憑依されて」という言葉を使うが、以前は「たたる」とか「とりつかれて」と言った。これらの言葉は、こちらの方は何も悪いことをしていないのに、一方的に向うの方から悪さを仕掛けてくるという意味にとれる。だが、そうではなく、こちらに原困があったという事である。生前の思念と行為から、地獄の世界に堕ちたとする。その人は文字どうり苦界にあえぐ。すると苦しさ、厳しさのあまりに助けを求める。これはこの世と同じで、ものを頼む場合、聞いてくれそうな人に頼む。「類は類をもって集まる」というたとえの通りに聞きいれそうな人に頼むもの。                    

                                 

  <憑依は四六時中起るのか>                  

                                 

 憑依は四六時中憑いているかというと、通常は憑いたり離れたり、心が片寄った考えに支配されてくると憑依し、そうでないときは離れる。飲酒すると極端に人が変わるが、素面のときは真面目人間というのがよくあるが、これも憑依現象である。精神病は、その憑依時間が長時間になるために起こるもので、長くなるにしたがって性格が変わってゆき、病気勝ちになってゆく

。     

   <心の傾向性と憑依霊の分類>                

                                 

 欲望が強くなると動物霊が憑く。感情が激しく動くと自縛霊や魔王が憑く。知能におぼれ増長慢になると動物霊、地獄霊が憑く。意志が強すぎ、頑固になってくると自縛霊、魔王が憑く。しかし、これらは傾向であって、内容によって憑依も多様化する。

                                 

   <憑依から護るにはどうするか>            

                                 

 憑依から己の意識を守るにはどうすればよいか、それには正道に適った想念と行為が必要である。何度も言うが、憑依は、向こうが勝手に寄ってくるのではなく、自分が呼び、自分がつくり出している。つまり、アンバランスな精神状態がつくっているのである。だから、オホホ、アハハと明るい性格をもつ人には、たとえ、どんな地獄霊、動物霊がいても恐れることはない。如何なる悪霊といえども憑くことは出来ないと知ることである。極端に片寄った想いがあるから彼らは集まるのである。          

                                 

   <憑依されたらどうするのか>                

                                 

 憑依されていることがわかっても、決して恐れてはいけない。自分でもおかしいと思ったら、心を常に、平静に保つように、八正道に適った生活を送るように心がけること。そうすると向こうの波動と合わなくなって、憑依現象も自然と解消されてくる。また、執着にかたまった心をほぐすには、肉体的な運動も効果がある。なぜかというと、「心身一如、色心不二」といわれるように、心と肉体は切っても切り離せない関係であり、肉体が正常な働きをすると、心も正常になって行くからである。ところが、少しおかしいからと、お払いや祈祷で解決しようとする人がいるが、自分から造り出してしまった原困は、だれもそれを取り払うことはできないのである。自ら蒔いた種は自ら刈り取らなければならない。これは心の法則であり、神理である。さあ勇気を奮って実践(行動)のみ。                                 


 

   <祈祷師や霊能者による除霊はなぜいけないか>        

                                 

 これまで、祈祷師や霊能者によって除霊とか浄霊ということが行われて来た。その方法で除霊してもらうと、当初は、良い結果が出たように見えることもあるが、そのうちに、以前より、もっと悪くなったという結果が多い。なぜかと言うと祈祷師や霊能者による除霊の問題点は、

第一に、これまで記述した原則がわからないからである。心の法則を知らないために、その人の心と生き方を修正できないことである。

第二点は原困を取り去らないで、麻酔注射でも打つように、憑依霊を取り除くために本人の心と行いが変わってないので、しばらくしたら又、別の憑依霊が憑いてしまうことの問題。これは痛みを止めるために麻酔注射をして一時的に痛みは止まるが、麻酔が切れると、また痛みが始まるのに似ている。

そして第三点は、地獄界の世界は弱肉強食の世界である。強い者が弱い者を制するように、弱い憑依霊を祈祷師や霊能者に憑依している強い憑依霊が追い払うために、一時憑依が取れたように見えるが、今度は、祈祷師や霊能者の憑依霊の子分や配下が、その人に憑く為に、もっとひどくなったということになる。この三つの問題点をよく考えて欲しいのである。高橋信次師は、講演会場で、そして、色々な機会に憑依霊をとったが、これは、憑依霊を取り除いた後の、すがすがしさ、さわやかさを知らせ、如何に正道を歩く事が素晴らしいかを教え、それ以後高橋師の説く神理・正法を学び、現実生活の中に実践して欲しいという願いをこめて、劇的に憑依霊を取り除いた。だが、高橋師の「慈愛」をわかった人がどれほどいたのだろうか。また、何でも全て憑依霊のせいにして「何か憑いているんじゃないか」という考えもいけない。そんなに簡単に憑依するものでもなく、心を明るくしようと努力している人には絶対に憑依できないものである。               


                              

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  「憑依されている人を救うには」                

                                 

 憑依されている人は、その期間が長ければ長いほど、その人の心も暗く固定化してしまっている為に、心を変えなければならないと言っても憑依霊がしっかりその人を支配し、憑依霊が念波を吹き込んでいるので頭が重いということになる。このために、憑依されている人は、自分の頭が自分のものであるようなないような、考えることが自分の考えであるのかないのかわからないような気がいつもすることになる。このとき、憑依霊を取払えば頭が軽くすっきりとさわやかになり、本当の自分に帰還できる。そうして、正しい心の持ち方(正法)をその人に何度も繰返し教えるのである。。勿論、一度教えたからといって急に心が変わるわけではなく、永い間の習慣、心の傾向性が働いて、暗い心になるとまたその心を縁として霊が憑依してくるので、憑依霊にもよく神理を教え、払うと同時に、また憑依されたその人にも神理を教えるということをくり返すのである。このインターネットの中の項目(目次)に「心行」「感謝の祈り」があるので、よく意味を理解し読んで聞かせることも意義がある。            

                                 

  「幸福になるために」                     

                                 

 今まで長い間、あなたが不幸つづきだったとしよう。すると必ず「幸福になりたい」と思われるはずである。でもその時に、「幸福になりたい、幸福になりますように」とは思わないこと。たとえ現状は不幸つづきでも、既に自分が幸福になっている状態を心の中にアリアリと描いて「自分は既に幸福である」と思うことである。常にそう思いながら「これから、あらゆることにおいて、一層よくなる」と思いながら、これからどうすればいいかを考え、自分にわからないことがあれば専門家や経験者の指導をうけ、智慧を出して努力することが大事。現世利益を願って、念仏を唱えたり、神頼みをすることでは断じてない。しかし、ただ考えるだけで、なにもしなくては実現するわけがない。心はそのようにして切り替えてゆくのだと、園頭師は教えて下さっている。                     

                                 

  <自力のお願い>

                                

 園頭広周師は、高橋信次師亡きあと、正法を正しく後の世まで、そして世界中に伝えるべく、日本中はもとよりアメリカ、南米、ハワイ、シンガポ−ル、韓国まで、講演などで席を暖める暇もなかった。ひとえに人間愛、人類愛の宇宙の広い心からであった。高橋信次師も、著書、ビデオ、テ−プの中で、言っている。「人は何かことあるごとに固有の天使を呼ぶことが多いが、天使には天使のやるべきことがあります。すべて自力であることを理解して欲しいのです」、と。                    

                                 

 昭和四十九年十月、志賀高原での高橋信次師の会話から。       

「園頭さん、この頃なにかあると高橋先生助けて下さい、なんとかして下さい、という人が多くなって困っているんです。ぼくはぼくで修行しなければならないことがあり、また天上界へ行って天上界の人達を指導しなければならないことがあるので、そういう時に、ぼくの名前を呼ばれると助けに行かないわけにはいかないし、もっと、みんな自力だということをわかって欲しいのです。」

 

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  WB01361_.gif (611 バイト)   高橋信次師を注目する人達  WB01361_.gif (611 バイト)                

                                 

 高橋師の偉大性を認めるがゆえに、高橋師を世に広く紹介する人、その反対に名声を利用する人や反対する人などが多くいる。この項ではそれについて触れたい。          

                                 

 <船井幸雄氏> 流通業のコンサルタントで、最近は、とみに人間学等の精神世界の著述に大変身された船井幸雄氏がある。競争原理に造詣の深かった同氏も、今や協調原理に目覚められ、著書も数十冊ある。同氏の著書には高橋師が次のように紹介されている。        

                                 

「 一人は、故人になられましたが高橋信次さんです。以前から興味のあった人で、著書などを通じ偉大な人だとは思っていました。昭和五十一年に亡くなられるまで大活躍されていた方なのですがお目にかかったことはありませんでした。最近になって、日本の経済界のお目つけ役といってもよい「経済界」主幹のSさんから高橋信次さんのすばらしさを聞きました。また、その直後に仕事の関係で第一不動産のN常務にお目にかかりました。Nさんは生前の高橋さんとは、取引銀行の担当責任者として深く付きあってこられた人ですが、高橋信次さんのすぐれた人柄や考え方を詳しく話してくださいました。さらにその直後に、前述した天才的発明家の一人Cさんと知りあったのですが、Cさんもまた高橋信次さんにいろいろ教えられたということです。このようなことで、深い縁を感じ、高橋信次さんの著書である「天使の再来」「心の発見」「人間釈迦」などを読み、その考え方を急遽学びました。いまも研究中ですが、論理がはっきりしており参考になります。                           


                                 

  <主幹のSさん>

                                 

 船井氏の高橋師紹介記述の中のS氏がある。氏の著書の中で高橋師のことが詳しく紹介されている。松下幸之助氏と高橋師は今生においては縁がなく二人は一度も会われることはなかったと記述されている。園頭広周師の記述には、「近畿ナショナルの社長が高橋師と松下幸之助氏を引き合わせるために御尽力いただいたがその機会はなかった」と書いておられる。ところが、次の項のM氏の記述には高橋師が松下氏の許へ行ったような書きぶりなので、注意して読んでいただきたい。

話は元へ戻るが、S氏は高橋師の著書を出版したことがある。これについて園頭広周師は次のように記述している。「『部数がーーー 違うんですね、守護霊がみなーーー 私に言うんですから』と高橋先生が言っておられたのを聞いたことがあります」、と。そしてS氏の著書の中には、カメラ屋の主人に高橋師が出てくるという記述があるが、面前で出して欲しい。真偽を確かめたい。   

                                 


 

  <Mという人> (「霊能者を試みる」の項の、大正ひとケタ生まれの工学博士氏)                      

                                 

 先に少し述べたMという人の著書に次の記述がある。 昭和五十一年の頃大阪でM氏の講演会が行われた。                            

「第一日目の講演が終わったあと、大阪のある社長から、「あなたと同じ人がもう一人いるから紹介します」と、いわれました。その方の名刺には「GLA大阪支部長」と印刷されていました。その数日後、その社長の自宅へ伺いました。しかし、ご当人の高橋信次さんは、松下幸之助松下電器会長のお宅での所用が長びいたためにこられなくなりました。そこで、ご当人の出演しているビデオテ−プをみせていただくことになったのです。そのなかに、前述の木星の内側の星のことがあり、「三億五五00年前」と申しておられました。私の話とは五00万年の差がありますが、それは誤差であって、みず知らずの人が同じことをいっていることに、びっくりしました。それから、子供のときからの生い立ちをお聞きしたのですが、あまりにも私とそっくりなので、もう一度びっくりしました。すなわち、工学部で電気を専攻され、医学も学習し、仕事も電気関係。年齢は、ちょうど、一回り下でした。この高橋信次さんと私は、生命体が二つに分かれたものだったのです。このことは、のちに神示によって知らされました。−−」        

                                 

記述の中でM氏は「この高橋信次さんと私は、生命対が二つに分かれたものです」と記述されているが、本当に二つに分かれたものであれば、動物霊に支配されるようなことは起り得ない。酒がブクブクと。仏像が出てくる等と。全く次元が違うのである。正見して欲しい。高橋師の偉大性に便乗した偽述である。そして、M氏の同書の123ペ−ジには次のことが書かれている。                              

「−−岡山での二回目の講演会は、音楽家グル−プの会のものでした。その講演が終わったあと、数名だけフ−チパタ−ンの測定をすると申しました。その第一番の人は、なにか胸にドキッとくる婦人だったのです。その人に私は、「あなたは一芸に秀でて、超一流となる人ですが、なにか妨害が入りましたね」と告げました。そのことは、いまでもよく覚えています。数日後にその人が、友人とともに私のところへきて、「あの日から三日間眠っていません。食事もとれません。なぜこのようなことになったのか調べてください」というのです。そこでフ−チパタ−ンで調べると、前世では三八○年前に、私と夫婦であったことがわかりました。−− 」、と。    

                                 

M氏と夫婦だったという人のことが書かれている。似たような話である。高橋師在命中は破門されていたという運輸業の瀬Oという人がいる。高橋師が亡くなった後、各地で集まりをしておられる。平成二年、ある集まりでのこと、瀬O氏に指導を受けた三十代の奥さんは「あなたと私はイスラエル時代の師弟の間柄」と告げられ、その後、体調が悪いという人があった。ウエブ・マスターも昭和六十三年、瀬O氏の講演会を取材したことがある。その時のこと、瀬O氏が[天上界からのメッセ−ジ]なるものを読み上げられた時、ウエブ・マスターの二、三列前の十歳ほどの子が突然,机とイスをガタガタ動かして中断。メッセージを読み上げられる間、何度も中断するということがあった。十歳と言えばものごとの分別はある。どうしてこんな事が起こるのだろう。その子の光りに包まれた、純粋で無邪気な心の波動は、高橋師に破門されるほどの瀬O氏の波動とは相入れぬものがあったのだろう。純真な子供の心は,何に人といえども誤魔化すことはできないもの。

サテ、M氏の記述の中の夫婦であったという人が、「三日眠っていない、食事もとれない」ということが起こっている。でも、どうしてこんなことが起こるのか。尋常ではない。とてもこんな事は常識では考えられない。暗い地獄の霊は、夜に活動し始めるもの。その人の心をガッチリつかまえたことを確信すると、地獄の霊が念波をふき込む為に、睡眠は妨げられ、正常な思考をさせないようにする。その為に、夜は、胸がドキドキ頭は冴えて、昼間には頭がボンヤリ、トロトロと。これが三日も眠れないという理由である。これを治すには、正しい思考と生き方を正すことだが、同類」にならないこと、同類から外れることが「答」である。     


                                 

  <瀬Oという人>                     

                                 

 高橋師の生前、困った言動をするという理由で出入りを差し止められた関西の男性。(月刊『正法』園頭広周師の記述から)

瀬O氏の著書によると、[薄暗くした部屋で、鏡に向かって怖い顔を映して霊感を得た]と書かれている。先述のM氏の著書といい、瀬O氏の著書といい、自著には真実が書かれているので良い判断の材料になる。暗い所で、鏡に怖い顔を映して霊感とは、ゾッとしないか。そんなに霊感とやらが欲しいのだろうか。だから念(想い、欲望)は正しく使わないといけない理由がここにある。地獄霊の配下だったので、瀬O氏は高橋師から破門されたのだろうか。これで破門の理由が良く理解できる。氏の周りに集う人は、自らの大先生の著書を読んでも疑問に感じないとは、これまた不思議である。大自然の原理原則、人間の正しい生き方を説いた「正法」が世の中に広がると、魔の足場がくずされるものだから彼らも躍起なのだ。その為に、同類の人をコントロ−ルして混乱させるわけ。 

    


 

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<○川○法という人>

                    

 高橋師が霊示したと偽述して二十冊ほどの『高橋信次シリ−ズ』を書いた人。高橋信次師の名を世に知らせてくれた人。園頭師の『「○川○法」はこう読め』、『読「○川○法」はこう読め』、『○川○法は仏陀ではない』正法出版社。『高橋信次師こそ真の仏陀であった』東明社を参照のこと。

                                 

平成元年の講演会を取材した時のこと、「本日の講演は高橋信次の霊示による講演でした」と係がアナウンスしたが、全く異質のものだった。資料として高橋師の講演ビデオ数十本、テ−プ数十本、全著書を所持しているウエブ・マスターには判断できる。平成二年、東京四谷の紀尾井町のワンフロア−、二千百万円の家賃と言われる本部を視察したが、それはそれは一等地の素晴らしいインテリジェントビルだった。園頭師は著書、月刊『正法』の中で○川氏と一対一で会いたい旨の記述が多くある。「会ったら、滅多に使ってはならない秘術を使う」とあるが、園頭師は現代最高の大霊能者だから、その秘術たるや想像もつかないが、「私は法(神理)の番人」と自認する師にとって、法を歪める人は許し難いのである。

平成六年秋、○川氏は師を裁判にかけたが、敗訴に終わっている。ウエブ・マスターは、「天上界は大天使・園頭師を譲るはず、天上界の存在を証明する稀なる裁判になる」と予告していたが、そうだった。裁判の全内容をマトメ、「宗教と裁判の勝ちかた」なる一文をウエブに載せ、理不尽な宗教に泣く人達の一助になるものを示せたらと考える。    


                                 

  <エルランテイ・田○という人>              

                                 

 「エルランテイ」とは、神より直接、人類救済のためにつかわされた「真のメシャ」、ということを高橋師は明らかにしたが、氏は大胆にもエルランテイ名を冠し、自著の中で次のように記述している。

「このエルランテイとは、神なる意識の呼び名です。ヤハベやエホバもこのエルランテイという意識に属し・・・ ブッダやイエスの魂も、今なおエルランテイの意識に導かれ神へ戻るべく修行されているのです。さて、そのエルランティの中核をなす意識が、今世、田○として、この地上界に肉体を持たれ・・ 二百五十年後にはアメリカの地において、アルバ−ト・ロックフェラ−として再び肉体を持ち・・・」と、書かれている。まったく恐れいる。

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<マッサ−ジ師の長○という人> (園頭師の記述(月刊『正法』)から              

                                 

「 高橋信次先生の霊が憑ってきていわせると偽称している人が何人かいる。その人達が偽称しているというのは、その人達の話す言葉、話の抑揚、話の内容、話言葉の音質などが全く違うからである。大○氏、長○氏、エルランテイ田○氏、瀬○氏、この四人はすべて関西人である。なぜ関西人ばかりであるのか、関西人の心理を研究する必要があると思うが、高橋先生は長野県出身であり、長野県の訛りの入った東京弁を使っていられた。ところがこの四人は関西弁でしゃべるのである。それだけでもってニセモノだということがわかる。そのうえに、この人達の生活行為がなっていない。清潔でない。私はこの人達と一対一で対決して、ニセモノである仮面を剥いで、この人達によって惑わされている人に警告を与えようと思っているが、この人達は私に会うことを恐れているのである。自分自身に自信があるのであったら、私にいわれて逃げる必要はないと思う。

この人達がもし私に会うといったら、私は高橋先生の講演テ−プを持って行ってかける。高橋先生の歌声は澄み通ってきれいで「小諸馬子歌」が得意であった。だから「小諸馬子歌をお歌い下さい」とお願いする。特にマッサ−ジ師の長○氏は、講演の後で「皆さんの胃下垂を上げますから目をつむって下さい」というそうであるが、果たして高橋先生がそういうことをされたであろうか。このところは霊能かぶれした人達はよく読んでもらって、もっと知性と理性を取り戻してもらいたいものである。」                 


                                 

  <千○子という人>                     

                                 

「正○の集い」の会長・千○子氏は、「わたしはミカエルである。高橋信次の霊は天上界で抹殺された」、と自著に書いたり、また疑問を持って質問をすると「あなたの霊は抹殺します」と脅迫するという。、また、千○氏は、高橋信次師の話を聞いたことがあるとの触れ込みだったので、ウエブ・マスターは本を書くために、高橋師に関する記述を求めて、彼女の著書を調べたことがある。近くの図書館に「寄贈図書」として十数冊あった。目を通していると、なんとも異様な雰囲気を感じた。引用すべき記述はなかったが、読めば読むほどわからなくなる本だった。「正○の集い」は、かって、毎日新聞に「新興宗教24人のナゾの集団渡米」という記事が出た団体である。日本が大地震で沈没するから、24人がアメリカへ逃げ出す、というもの。それから、千○氏は、「私はミカエル天使長である」という。同じく、高橋師の息女・佳子氏もミカエル天使長という。この二人の女性は、よほど大天使・ミカエルが好きとみえる。ミカエル天使長の生まれ変わりは、最近ではアポロン、エリヤ 、宗教改革のマルチン・ルターであると、高橋師は教えたが、これらは全員男性。人は普通、男に生まれたり女に生まれたりするが、天使長は、モーゼ、釈迦、キリストと同じように、いつの世も、男性のみに生まれてくる偉大な使命の人である

 


                                 

 ● <その他の人たち>  園頭広周師の記述要約 WB01360_.gif (855 バイト)      

                                 

 <その一>「 関東には元GLAの会員で六十過ぎの、高橋信次先生が出てこられるというおばあさんがいる。高橋先生の声色を真似て「OO君、あなたは、正法のためによく尽して下さって、ありがたく思っています」というような言い方をする。高橋先生は生前、一度も「OO君」という呼び方はされず「OOさん」と呼ばれた。高橋先生より黄金の冠をかむることを許されたというそのお婆さんの主人ともう一人の老人は、その女性の前に伏せて、「ありがたくお受けいたします」ということになった。しばらくして、今度は如来に昇格を許されたそうで、自動書記だといって高橋先生の声色を似ねたテ−プを持っていると地獄に行かないと言って売っているそうです。ところがそのテ−プを聞いたためにおかしくなったという人が電話をしてきた。「だから正しく見ないといけません」と話したら、それでよくなったという人があった。」   

                                 

 <その二>「鎌倉の○寺にいるお婆さんは、実にうまく芝居をやるそうで「信次先生、あの世へ帰ってはイヤです。帰らないで下さい」と縋りついて泣くんだそうです。この頃は頭から白い布を破って紫の衣を着て、一段高い壇に座って話すそうです。」                 

                                 

 ●<その三>「 関西には、「お前は、私が生きている間は法を説いてはいかん。わたしが死んだら法を説け」と高橋信次先生から言われたというおじいさんがいる。その人は、その事は園頭先生も知っておられると言って集りをしていました。私は(園頭)その人をまったく知らないし、そのことを質問したら、それっきりそこには現れなくなった人がいた。高橋先生の生存中に法を説く力のない者が、どうして高橋信次先生が亡くなられた後に、法を説く力を持つもとができるのであろうか。少し考えるとわかることであるのに、「高橋信次先生が・・・」と偽称すると、すぐに信じる単純な人があるのもまたふしぎである。」 

                                 

 <その四>「 高橋信次先生の身内の一人が、高橋先生の遺骨を持ち歩いて、それを拝まして話しているということを教えてくれた人があった。困ったことになったものである。」                             

 


                              

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 ●<麻○という人>                      

                                 

 隠れ部屋より尻から先に出てきた人が書いた、麻○著『○能・秘○の開発法』なる本が出版されている。一瞬のうちに、麻○氏が坐ったまま空中高く浮上している写真を添えている。この本が店頭に並んだ時、ウエブ・マスターは直観的に、「ア、動物霊がいたずらをしている」というのが偽らざる思いだった。

動物霊は、人をアッと驚かせるようなことをする。その人の心のあり方が、霊に同通して、地獄霊や動物霊を呼びこむわけである。永い時間を浪費して瞬間的に空中に舞い上るより、空中に浮上したければ、天井から吊したロ−プにブラ下がれば良いもの。少し人と変わったことをすると、それを称える人が出てくるから残念。麻○氏の著書をいくつか目を通したが、麻○氏の許によくも集う人がいたもの。つくづく、霊の階段を考えさせられる。人口一億二千万人、色々な霊の階段があってもそれは仕方がない。霊能力を求める人は気の弱い人が多く、また、罪悪間、劣等感が強く、暗示にかかり易しい傾向がある。                             

 WB01361_1.gif (611 バイト) <高橋信次師の「ことば」から>                      

「神がかりになって、体を上下に動かしたり、とびはねたり、合掌している手先が蛇行するような場合は、すべて、動物霊がその人を支配しているのです。このような人々は、まことに危険極まりなく、健康にも、日常生活の上においても、いろいろな支障が起きてきます。またこうした動物霊たちは、肉体先祖が浮かばれていないからお祭りをして供養しろとか、多額の金品を要求したりします。動物霊が憑依している者は、本能欲求が強く、したがって、憑依されている行者は、金とか、地位とか、色欲にほんろうされます。」   

 同じく高橋師は、

「動物霊が支配している場合は、座ったまま一〜二メ−トルも空中を飛びはねることもあります。彼らは人を驚かすことに特長があるといえます。したがってそのようなときは、すべて地獄霊の仕業と見て差し支えありません。神がかりや、不自然な言動をする場合は、必ず動物霊が支配しています。不動明王だの、竜王だの、稲荷大明神と名乗って出てくる場合も動物霊がほとんどであり、まことしやかに振る舞うので特に気をつけなくてはなりません。予言をする、病気を治す、それだけで信じてはいけません。また罰があたると脅迫ようなことがあれば、これもまた地獄霊です。いちばん大事なことは、神がかっている人間の品性や言動をよく観察することであり、正道を心の物差しとして生活しているかどうかが問題なのです。地獄霊が憑依すると、おごり、怒り、そして、ねたみ、欲望の渦の中にひきずられるため、心は常に動揺し不安定です。いくら口先でうまいことをいっても、その考えること、行為に大きな矛盾がでてきます。不自然な霊力や脅迫に合うと、人はつい盲信、狂信になりがちです。」、と。                             

 麻○氏が書いた『○能・秘○の開発法』の二十九頁の記述に「私は安らぎ、光といった類の言葉に救いのようなものを感じ、高橋信次氏の著書二十冊くらいに目を通した。高橋信次氏は、ゴッドライト・アソシエイション(GLA)の創始者である。残念ならが回答らしきものを得られないままに、中村元氏の『原始仏典』と増谷文雄氏の『阿含教典』にめぐり合い、これによって私は高橋信次氏の記述が正確でないことを知ったのである・・・。」と述べている。この記述に対する正法会(後・国際正法協会)会員の公開質問に対して、園頭広周師は月刊『正法』で解答をしている。長い論文だがこれを引用する。   

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WB01360_.gif (855 バイト)「麻○氏の高橋信次先生反対論は感情論であって意見または見解でもなんでもない。高橋信次先生の所説が正しいということになると具合がわるいという人達は、すぐ感情をむき出しにして「わるい」というのである。麻O氏は高橋信次先生の記述が正確でないというのであれば、どこが正確でないのかをはっきり指摘していうべきである。私は高橋信次先生の著書によって「安らぎ」と「光」を感じた。だが麻○氏は感じなかったという。今から二千五百年前のインドの釈尊の時代であっても、当時のインドの人々がみな釈尊の弟子になったわけでもない。釈尊の悪口をいった人達もあったことは経典にも残されている。だからといって釈尊が悪かったということにはならない。それと同時に、高橋先生の悪口をいう人があってもちっともかまわないし、いったからといってそれが正しいと思う必要もない。麻○氏が高橋先生の著書をよんでも少しも回答らしきものは得られなかったというのは、麻○氏の魂が高橋先生の所説を理解するまでにまだ成長していない幼稚な魂であるからに過ぎない。それは、小学生が大学教授の講義がわからないのと同じことである。麻O氏の魂がそんなに高くないということは、桐○氏の法力を日本一だとほめていることでわかる。早川和廣著『○含宗・桐○の知られざる正体』を見ればわかることである。中村元氏は、当代一流の宗教学者であるが私はこの人をあまり信用していない。その理由の一つはこうである。中村元氏著の『仏伝』『釈尊の生涯』にはもっとも遺憾な欠落がある。この欠落は中村氏が意図的に欠落したとしか思えないからである。人間というものは、自分に都合がわるいと、また、それをはっきり書くことによって自分に風当りが強くなるという場合は、意識してその部分は書かないということをする。どうもそういうことではないかとしか考えられない点があるのである。 

 中村元著    『原始仏典』                  

 平凡社刊    『世界教養全集10』              

 中村元     『釈尊の生涯』                 

と比較対照して、つぎの著書をよむと                

 水野弘元著   『仏教の原点』                 

 渡辺照宏著   『新釈尊伝』                  

 早島鋭正著   『ゴ−ダマ・ブッタ』              

 増谷文雄著   『阿含経典による仏教の根本聖典』        

明らかに違うところがある。                    

釈尊が菩提樹下で悟りを開かれ、鹿野園で初転法輪をされ、ヤサを弟子にして五人の弟子とともにブッダガヤに帰って来られ、ガヤ山にいた拝火教(事火外道)即ち火を祭って護摩供養をして祈祷していたウルヴェラ・カシャパ−三兄弟が護摩供養の祭壇を河に投げて棄てて釈尊に帰依する。 

中村元氏以外の人の『仏伝』には、また、

仏教説話文学全集刊行会の『お釈迦さまの伝説』          

 武者小路実篤著『釈迦』                     

 立正佼成会出版部刊『釈迦物語』                 

にも、全部このことは書いてあるのに、中村元氏の書かれたものの中には、このことが書いていないのである。これは意図的にぬかしたとしか考えられない。拝火教のウルヴェラ・カシャパ−が祭壇を捨てて釈尊に帰依したということは、釈尊は「護摩供養をしてはならぬ」といわれたということである。護摩供養をするのは仏教ではないのである。釈尊が「してはならぬ」といわれたことを「仏教」だというわけにはいかないであろう。中村氏の『仏伝』にだけあって、他の人の『仏伝』にないものがある。これもまたふしぎである。               

 中村元著『原始仏典』                      

  仏伝 四十一頁『求道の生活』                 

「わが徒は、アタルヴァ・ヴェ−ダの呪法と夢占いと観相と星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ」                             

信仰する者にとって大事なこの問題を書く人もいれば書かない人もいる。原始仏典という大部分のものを、わずか一冊か二冊にまとめるとなれば、著者の主観によって取捨選択が行われるのはまた当然のことである。「仏教」とは仏蛇といわれた釈尊がお説きになった教えであるから、仏教を伝えるという宗教団体がいかに釈尊の教えに反することをしていることか。「アタルヴァ・ヴェ−ダの呪法」はのちに説明するとして、「夢占い」、「観相」即ち人相、手相、家相、気学、易、印相、墓相、姓名判断等、それに「星占い」「星祭り」はしてはならないと釈尊はいわれたというのに、今日ほとんどの仏教団体がやっている。「○含宗」を唱える桐○氏は、護摩供養も、星占い、星祭り、人相、手相その他等やっている。釈尊が「するな」といわれたことをやっていて、それで「仏教だ」と名乗るのはまさしく盗人たけだけしいというべきであるが、麻○氏が中村元著『原始仏典』を本当に読んでいるのであったら、とても桐○氏に日本一だなどとはいえたものではない筈なのに、それを日本一だなどといっているのは、桐○氏を日本一とあおり、それによってなにか自分に得することがあって、そのために実際は読んでもいないのに中村元氏の『原始仏典』、増谷文雄氏の「阿含経典』を読んだということにして自分のいっていることに箔をつけようとしたまでであるといわなければなるまい。そうしておいて、高橋先生を蹴落そうとしたに過ぎない。

今日まで伝わってきている仏典には、釈尊の真実の悟りがなんであったかは全く書いてない。単に「四締八正道」を悟られた、「因縁」を悟られたと書いてあるに過ぎない。そこへゆくと高橋先生著『人間・釈迦』第一巻には「釈尊真実の悟り」が書かれてある。今日、伝わってきている仏伝、原始経典には後世の秀才達が付記したもの(偽作)がある。例えば釈尊はマヤ夫人の右脇かた誕生されて、誕生されるとすぐ七歩歩いて、「天上天下唯我独尊、有情非情同時成道、山川草木悉皆成佛」といわれたということ、ジャ−タカ(本生譚)という釈尊の前世物語などそれである。渡辺照宏「お経の話」(岩波新書)は名著といわれているものであるが、この本の六頁には、「仏教聖典ぜんぶが仏蛇シャ−キャムニの説法の忠実な記録ではないことは冷静に見て承知するほかはない」と書かれている通りで、中村元氏と増谷文雄氏とでも、阿含経典を取り上げならが、取り上げる角度、内容もちがっているのであり、それが高橋先生の記述と違っているからといって高橋先生のものが間違いだという証拠にはならない。間違いだというのなら、どこが間違っているのか、実際はどれが正しいのかということができなければならないが、それもいわず、単に「間違い」というのであればそれは感情論であって、その感情論を真に受けるということはこれまた馬鹿気たことである。さて、「アタルヴァ・ヴェ−ダ」とはなんであるか。これは、釈尊出生以前一三00年、現在のイラン・イラク方面からインドに進出してきたア−リヤ人が持っていた宗教の一部で、呪法、呪術である。本来は「招福攘災」の呪法を使命とするものであるが、のちにはこの呪法呪術によって社会の道徳秩序が乱されることになって、バラモン法典でもこれらの呪法呪術は明らかに罪悪であり、呪法師は呪術師などと同じように処罰されなければならない(マヌ法典)とされたもので、だからまた釈尊も比丘、比丘尼達に対して「してはならぬ」といわれたのである。この呪法呪術が現在では真言宗、日蓮宗でやっている秘密加持祈祷になっているのである。釈尊は加持祈祷は禁止されたのである。どんな呪法呪術があったのか列挙してみよう。                    

 治療呪法、長寿呪法、増益呪法、贖罪呪法、和合呪法、       

 死の危険を逃れる呪法、家屋建築の際の祈祷、           

 田畑に種子を播く際の祈祷、害虫駆除の祈祷、火難防止の祈祷、   

 雨乞いの祈祷、盗難除けの祈祷、旅行安泰の祈祷、商売繁盛の祈祷、 

 博打で勝つ祈祷、蛇の害を逃がれる祈祷、             

 他人を自分の意志に従わせる祈祷、相手の怒りをやわらげる祈祷、  

 人が仲がよいのを不和にする祈祷、                

 自分を嫌いだという女を自分を好きにならせる祈祷、        

 相手の男性を自分を好きにならせる祈祷、密会がばれない祈祷、   

 嫉妬をしづめる祈祷、結婚の祈祷、安産の祈祷、          

その他いろいろな祈祷呪術の最後が、山羊、羊、つぎには愛するわが子を

いけにえにして祈祷するという方法である。             

このような祈祷呪術呪法の弊害の                  

 第一は、自分で解決しなければならならない問題を、人に頼って人の力で解決してもらおうとする完全に自立性を放棄してしまう事にあること。

 第二は、祈祷によって相手の人間性、自主性を破壊しようとすることにあること。                            

 第三は祈祷によって欲望を達成しようとする心を持つことにある。  

 最後に相手を祈りによって殺す方法まであるのである。       

私がある所でこの話をしたら、日蓮宗の坊さんで「わたしは祈りで人を殺すことができるんじゃ」といった人があったと聞いた。ブラジルには「マクンバ」という黒人宗教があって、人を祈り殺す法をやっているそうである。仏教はこのような加持祈祷はやらないのである。かってインドで釈尊であった高橋先生は、現在の仏教が余りにも歪んでいるために、それを修正するために出世された方である。高橋先生の著書を読むと、いかに現在の仏教が歪んでいるかがよくわかり、現在の諸宗教に対する疑問も全部氷解し、自分で自分の心のあり方を反省し修正して運命を変える力を自分で持つことができるが、中村氏や増谷氏の著書を読んだのでは、「そういうことだったのか」と知的に知るだけであって心を修正し運命を自分で変えることにはならない。私の著書を読んだだけでも病気が治ったとか、運命がよくなったという奇跡が出ている。

麻○氏だけでなく、外にも高橋先生のことを悪く書いている人があるが、そんなことで正法の基盤が揺らぐことは少しもない。釈尊が「するな」といわれたことをやっている仏教団体よ。『原始仏典』にこう書いてあるがと詰問されたらどう答えるのか。『原始仏典』に書いてあるのが間違いだとはまさかいえまい。麻○氏が桐○氏をほめているのは、桐○氏の超能力開発法を正しいと思ってのことであろうが、桐○氏の法力はウソだというのである。麻○氏よ、もっていかんとする。私は麻○氏の「超能力、秘密の開発法」を読んではいないが、桐○氏をほめるようでは大した内容ではないと思っている。心を暗くしたままで、超能力を得たいという欲望をもってなんらかの修行をすると、動物霊、自縛霊に憑依されて霊能が開ける。こういう霊能力者の特徴は、金に汚なくなることと、女が好きになること、威圧的な態度をとること、服装が異様になること、いうこととやることが違うこと等である。正法を知って正しく霊能を開いた人は決して威張らないし、いうこととやることが一致するし、金で救われることを説かない。桐○氏はどっちの部類に入る人であるかはみなさんで判断願いたい。その桐○氏をほめるようでは麻○氏も同類と考えるべきである。動物霊や自縛霊に憑依された人はみな高橋先生に反対するのである。

ついでにまた書いて置くが、私はかって正法誌に、金でころぶのであれば仏教学者も売春婦と同じだと書いたことがある。売春婦が人格的に軽蔑されるのは、金さえ見せれば節操もなにもあったものではない、どんな人の前にでもころぶからである。仏教学者としての節操があったら、仏教とはいえない日蓮宗の創価学会の出版物に原稿は出せないと思うのであるが、創価学会の提燈持ちの原稿を書いて金をもらっている学者がいる。私が判断の基準にしていることがある。それは、「釈尊だったら、これをどう判断されるであろうか」ということである。釈尊は創価学会を正しい仏教団体だといわれるであろうか。仏教学者というからにはそれ位の判断はすべきであると思う。自分の名が出版物に出て金にさえなれば、どこにでも原稿を売りますという仏教学者は仏教学者という名にすら値いしない。私をしていわしむるならば、凡そ日本の仏教学者は創価学会の出版物に原稿を出してはならぬということである。創価学会に利用されている仏教学者は自らを恥とすべきである。さて、まだ解説していないことがあった。「鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ」ということである。これは、鳥がこういう鳴き方をしたからとか、牛がこういう鳴き方をしたからこうだというような占いと、比丘、比丘尼達は、こうしたら妊娠するというような術や、医者がやるようなことをしてはならぬ。それらはすべて専門家に委せよと釈尊はいわれたのであるということである。宗教家は医学を否定してはならないのである。医者に委せるべきのものは医者に委せればよいのである。「生長の家」は医者を否定する傾向が強い。私が生長の家にいた頃は、医者にかかれば早く治ったのに、医者にかからなかったために手遅れになって死んだという人が多かった。私が生長の家をやめた原困の一つは、そうした医学を否定していたからである。

麻○氏が「高橋先生反対」の文を書いてくれたお陰で、私はこういうことを書くことができた。その点感謝している。他に反対している人があれば、また反論するチャンスを与えられるわけでこれもまた感謝せずにはいられないことになる。さらにいって置かなければならないことは、麻○氏は現在GLAがどういう状態になっているか、なぜ「正法会」が出来たのか、その辺の事情は恐らく知らないのではないかと思う。今のGLAはダメだといわれるなら私も賛成であるが、高橋信次先生をダメだといわれたのでは私は黙っていられなかったのである。今後、正法が広がれば広がるほど、正法が広がると自分達の都合が悪くなるという人達は、感情的に高橋信次先生のことを悪くいうであろうが、そういう時は先に書いたように、どこが悪いのであるか逆に質問されることである。ここまで原稿を書いた時「宝石」五月号(一九八六年)が出た。「阿○宗、桐○管長の危険な賭」という記事が出ている。 

この中には、

「桐○氏の自慢の千座行、そして七科三十七道品がいかに釈尊の説く教えからかけ離れているか」         

「ロ−マ法王と逢って、金、銀、銅のメダルをもらったというのもウソである」                 

「中国のハルビンで護摩供養をすることは中国政府が許可していない」等。                   

このようなデタラメをやる人間を日本一というようでは麻○氏もおかしいといわなければならない。他の宗教団体の教義ははどこか非難される欠点を持っているが、高橋信次先生の教えられる正法はどこからも非難される点は一つもないのであるから安心願いたい。『月刊正法』 一九八六年六月号 

 


                           

  <桐○・(阿○宗)という人>                                

 阿含経こそ釈尊の真説であると確定したのが昭和五十年であった。現在の世界の仏教界の動きを見事にキャッチし、うまく利用して変身したのが桐○氏である。桐○氏もそれまでは「真言密教」を名乗っていたのであるが、それが突如として「阿含密教」を名乗り始めた。そしてその著書の中に「第三回、それは阿含宗の出現によって私が釈尊真実の教えをここにあらわすのである。つまり、三回目の仏教伝来は桐○氏が実現するというのだ。園頭広周師(月刊『正法』)は言う。「私は桐○氏が、今まで『真言密教』を名乗っていたのに、『阿含秘教いま』という本を出版し、さっと『阿含宗』を名乗られた時、さすがに商売がうまいな、目ざとい人だな、と正直いってそう思った。仏教のことをくわしく知らない多くの人々は、大上段に振りかぶって自信あり気にいわれると、その気迫に圧倒されて、正しい批判力も失って、あっさりといわれたことを信じてしまうものらしい。もっとも多くの人は、果たしてそれが正しいかどうか、判断する資料も知識も持っていない人が多いわけである。」と                         

 桐○氏に関して批判の本も数多く出版されているので、ここで取りあげることもないが、桐○氏の阿○宗のパンフレットをもらった。それを手にして思ったことは「何んと豪華なんだろう」ということだった。高級車のパンフレットと見紛うものだった。それには、○○供養ウン十万、△△料ナン十万と明記してあり、○○星まつり等も載せていた。これらにポンと金を出す人もいるにはいるもの。救われたい一心で、金と引き替えの助かりたいという欲念以外の何ものでもないのだ。かって問題になった、壷や多宝塔に何十万、何百万、中には何千万も払ったという無知な人もいるが、無知な人をだますサギ宗教がはびこる背景が現実にはあるということである。類は類という同じ同類の人達の話しである。

こう述べると、取られた人は可哀想だという人もいると思うが、これ程までに書かないとわからない人も、多いのである。現実社会でしか通用しないお金を、取ったり取られたりの話だが”神だ、仏だ”と言われると何にも疑わずに信じる人があるのも不思議である。でも、霊魂は永遠なのだから、そのようなサギ行為をした人は自らが裁いて、暗い地獄の世界に住することになる。例えこの世の法律で裁かれることはなくとも、また、人に嘘はつけても、自分の心には絶対に嘘のつけない神の子の自分によって、バッチリ反省させられるのだがら、やるだけやればよい。自ら苦しむのだから、ホラみたことか。霊魂がこの世限りなら、この世で何をやっても、どんなことをしても平気だろう。だが、どっこい霊魂は永遠なのだから、今生を正しくしない者は、また、この世で修正できないものは、あの世か、来世で反省させられる。そして、反省するまでは地獄の暗い世界で苦しむことになるのである。これまでに「地獄の世界」とか「暗い世界」という言葉を何回も使ったが、次のような話しが参考になるだろう。

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かって、テレビの深夜番組で”〇八郎”という人の霊を呼ぶ番組があった。その人は酒を飲んで溺死した喜劇人だった。霊媒が○八郎氏の霊を呼んでいた。そばに由○徹氏。そのうちには○八郎氏の霊が降霊して霊媒が語り始めた。         

 ○八郎氏の霊   「暗い、暗い」                  

 由○徹氏     「○ちゃん、いま天国だろう。天国でたまにはお酒も飲んでるんだろう○ちゃん、ネ、そうだろう」  

 ○八郎氏の霊   「暗い、何も見えない」「寒い」「寒い」                            

このような交霊現象の番組だった。あの世の地獄の世界は、光の届かない、神の光を閉ざした暗黒の世界である。文字通り暗い、寒い世界なのだ。日中からお酒を飲んで海にはまって水死した訳だから、推察すると、すさんだ生活振りであったろう。ここまで述べて先へ進めば、読者へ恐怖感を与え、強迫以外の何ものでもない。それでは、どうすればよいのか。

霊媒によって○八郎氏の霊が呼び出されていた。そばに由○氏がいた。由○氏は次のように○八郎氏を諭すべきであった。「○ちゃん!今、暗い寒い世界かい。○ちゃんは酒を飲んで水に入り溺死してしまったんだよ。もうこの世の人ではないんだよ。○ちゃんが生きていた時のことを思い出して、悪かったと思うことは一つ一つ反省をして、神と自分に心から詫びるんだよ。そうすれば、いつかは暗い寒い世界から、暖かい明るい光の世界、つまり天国へ行けるんだよ。サア、今からやってごらん、勇気を出して、○ちゃん!」と諭すべだった。                            

 暗い地獄の世界はどんな所かという意味で参考に供した。もう一例、随分前の話しだが、これもテレビ番組。落語家の故・林家三平氏の師匠で林家○氏の、霊媒による降霊現象を放映した。林家○氏の霊が降霊して霊媒が語り始めた。

  「寒い、寒い」、そばに林家木久蔵氏「師匠、寒いですか」「暗い」「暗い」・・・と。このような内容であった。林家○氏は夏場になると、お化けの話が得意であった。木久蔵氏は「師匠が家でお化けの落語のおさらいをしているのを見るとゾクゾクッとくる、幽霊が一杯来ていた」というようなことだが、このような暗い世界の話しは、余り熱中しないことである。仕事は仕事として、サッと気分を転換すること。それが余りにも長時間に及ぶと、あの世の暗い霊と同通して困った現象が起こることになる。テレビ等のメディアは、正しいことも間違ったことも、情報としてズカズカと茶の間に割り込んで来る。それも目に見えない電波となって。その為に困ることも多いが、このような番組が放映されたことで、地獄の実態として引用できた。本論に戻る前に、もう一つ芸能者の例をあげよう。先述の「阿含経」の中に書かれているものである。           

「ラジャグリハの街に女優を五百人抱え(現代のプロダクションのようなもの)ている役者がいた。ある時、「わたしはこのようにして人を笑わせ喜ばせておりますから、死んだら喜笑天とでもいう天国へ行くのでしょうか」と尋ねた。お釈迦様は答られた。「それは違う。俳優というものは怒りの役をする時には怒りに執し、嫉妬の役をする時には嫉妬に執し、自分の本心からでない芝居をすることによって自分の心に歪みをつくるから喜笑地獄に堕ちるのである」、と。                    

 園頭師は次のように言う。

「つくり笑いをわざとらしくして人を喜ばせようとするものはそれに執するから、あの世へ行っても同じことをする。同じようなことをした人が同じような地獄に行くのですから、喜笑地獄に堕ちた人達は皆、一人一人が人を笑わせようと努力しても笑ってくれる人は一人もいないことになる。しかもそれを止めることはできないのですから、心はうれしくなくとも格好だけはうれしいような格好をしなければならない。同じ格好ばかりはしていられないので毎日毎日こんどはどのようにして笑わせようかとする。いくらやり方を変えても笑ってくれる人は一人もいない。それだけに心は苦しくなってくる。それがどんなにつまらないことであるかを反省するまでやめられないのです。」                

                                 

 「あの世は心のままの世界」と園頭師は言ったが、如何に心の持ち方が大切かという例である。この世での暗い心の世界は、あの世でも暗い世界を、欲望のままに生きた人は、あの世でも欲望のままの世界をつくりだし苦しむというのである。

 


 高橋信次師の講演の中から                   

 「護摩を焚くというのは完全にバラモンの教えで、仏教では護摩を焚くことは絶対にしないのです。弘法大師(空海)が、中国に勉強に行った時、五台山(ウータイシャン)で、不空三蔵といって、インドから中国に帰化した方があります。この方によって密教というものがつくられるのでありますが、密教はバラモンの教えです。それが日本へ来たら、大日如来を祭るということになり護摩を焚くということになってわからなくなってきたのです。」                             

桐○氏は「護摩供養」なるものをされる。ところが、「阿含経」は釈迦の真実を伝えた唯一のものと認め、それを継承すると言いながら護摩供養をする。「阿含経」には護摩供養はしてはならぬと釈迦が言われたと書かれているのに、である。第三回目の仏教伝来をもたらすのは桐○氏であると著書には書かれているが、仏教にはない「護摩供養」をされる桐○氏には、第三回目の仏教伝来をもたらすことなど絵空事であろう。護摩供養と言われるものは、信者が白木の棒や板に悩み、願いごと等を書き、宗教団体はそれを読経とともに火に入れ燃やす。それで願いが成就したり、罪障が消えるということのようだ。悩みの多い人ほどお金がかかる仕組みになっている。仮に十の悩みのある人が一本の木に各二つ書いたとして五本の護摩木が必要となる。一本二百円として千円になる。こうして、護摩木の数が多いほど、願いごとが早く成就し、罪障が早く消えると勧められると、人は多くの護摩木を利用する。これはもう立派な金儲けなのだ。

過去の、ウエブ・マスターの五本の護摩木に書いた悩みや罪障は、護摩供養によって消えたはずだが、原因を完全に取り去るまでは消えなかった。このような護摩供養に走る人は無知であり、真実を知らないからである。無知ほどこわいものはない。神の名を借りた、宗教という名をかりた金集めが、いつまでも続くはずはないのである。真の宗教人はさわやかで、多くの本により批判されることは有り得ない。真の宗教家とは、迷える無知な人に対して易しく教え諭す人。これを説教という。教え諭することにそれほど金がかかるはずもない。金が欲しいのは教祖と、とりまきなのだ。「今度の光の天使は、皆、事業をやったり、仕事についていて、私達は宗教でなどで飯は喰いません!」と、高橋信次師は胸を張った。そこに、真の宗教人、そして人類を教え導く使命を持った方の姿勢を見たのである。そして、この桐○阿○宗は昭和六十二年春に、東京・三田に六十五億円で購入した土地に六十五億円の建設費用をかけ、関東別院を落慶した。この落慶をきっかけに毎月一回、朝の「朔日縁起宝生護摩」なるものを催し、信者以外の者にも呼びかけ週刊誌などに広告も多くみかけた。お金を集めるためには手をかえ品をかえ。しかし錬金術もそんなに永く読くはずもないのだ。「暗い世界」の話しばかりで申し訳ないが、もう少し話をマトメよう。

 


 

近代の作家に自殺が多く目立つ。「自殺」は、私ならこうするという余地の残された自殺は、神の光を完全に閉ざした暗い世界の行為であると高橋師は言った。なぜ文学者に自殺が多いかという高橋師の「ことば」を参考にしてもらう。

                              

 WB01361_.gif (611 バイト)              「文学者の死」  

                        

 「最近でも、日本の代表的作家である三島、川端両氏の自殺が相次ぎ、文学を愛好する者にとっては、悲しい知らせとなっている。作家の、死に至る心のなかまではわからない。尊敬する作家の死は、私の心のなかにも、淋しい思いを感じさせる。無情の思いが襲ってくる。死という結論は同じであっても、その動機は、人それぞれの立場や、環境、思想によって異なってくるだろう。自殺は人生からの逃避であり、自己保存の現われだといえよう。これは文学者に限ったことではない。人間は、誰れでも、寿命を果たすことが、本来の目的だからである。自らの人生における修行を放棄することは、たとえ世間で立派な人間だといわれている人であっても、どういう事情があるにしても、それは正しい理とはならないのである。

死は怖いものではない。しかし、私達が自ら望んで両親から与えられた肉体舟は、その生命の読く限り、神の子として、この人生航路において果たさなくてはならない修行を続けるべきなのである。生ある限り、この肉体舟を大切にするということが、神の子としての掟だからだ。特に、作家の残したものは、多くの人々の眼をとおして、その心に与える影響が大きいため、神の子としての責任は一層重大であるのだ。作品の中には、人々の欲望をそそり、その心を狂わせてしまうような低俗なものもあろう。しかし一方には読者の心に安らぎを与え、知性を豊かにし、調和のとれた心に安らぎを与えるものもある。その内容は、まちまちである。神の子としての自覚に目覚め、心が調和されている作家の作品は、読者の心の糧となり人生に生きる喜びを与える。だが、いかに名声の高い作家の作品であっても、心を忘れてしまった作品は、やがて人々から忘れ去られてしまうだろう。そのような作品が果たして読者の心を豊かにできるのか、疑問が投げかけられるであろう。また、心ない読者と、心ある読者によっても、作品の受けとり方は異なる。つまり、その内容は、読者の正しい心の物差しで判断するしかないということもいえる。

しかし、作品の内容によっては、多くの読者に大きな影響を与えるし、それによる現象もまた大きい。低俗作品の場合は特にそれが強い。不調和を与えたその責任は、作者の側にもちろんあるが、その毒を食べた読者にもあるということだ。その罪の償いは、神の子としての人間に課せられた、掟なのである。作家の責任は、その意味でも大きいといわねばなるまい。ノンフィクションであれフィクションであれ、そのスト−リ−の主人公の心になりきって筆をすすめているうちに、作家の心のなかに造り出されていく想念は、それぞれの作中人物の心に埋没してしまうのである。作者が、正しい心の物差しを忘れて、創作中の不調和な人物に陶酔してしまうと、作者の心は、やがてスト−リの主人公にすり替えられてしまうことが多い。こうした場合、不眠からノイロ−ゼという不安定な心の状態を造り出してしまうだろう。いかに名作を書き残した作家であても、その心の状態は常に変化しているということを知らなくてはならない。いつの間にか、その心の状態が、創作のなかから生まれてくる不調和な心に応じた地獄霊に憑依されて、ついには正しい判断を失ってしまうものだ。」『心の原点』 

 


                               

 園頭広周師の記述から(月刊『正法』)  

  ● <川端康成氏のこと>                            

 「ノ−ベル文学賞を受賞された川端康成氏はガス自殺をされたが、川端家に出入りしている人から、「川端さんは始終、霊に憑依されて不眠症で悩んでいられた」と聞いていた」(昭和五十九年四月号)。また別号の正法誌には、

「正法会員の友人という人が川端康成さんの最も近い人で、その人が川端家には幽霊が出ていたと言われていたが、高橋先生は、「川端さんが地獄霊に憑依されたのは、書く文章が暗いからで、暗い文章を書いている時の心の暗さが地獄霊を呼びよせたのです」と言っておられた。名古屋の講演が終わって帰る飛行機の中でよんだ週刊誌には、「川端さんの作品の中にはよく自殺する人が出てくる」、と書いていた。」、と。

   <三島由紀夫氏のこと>

「三島由紀夫さんのお母さんが、「由紀夫さんがしょっ中出てきてその姿がはっきり見えてなむれない。幻覚症ではと診察にいったら、これは現代医学では治しようがないとことわられた。」ということをある人が書いていた。三島由紀夫さんのお父さんの霊もいっしょに出るのだそうである。自衛隊本部に斬り込んでひとを斬り、自分も割腹した三島由紀夫さんは愛国心の権化だと讃えられているが、その霊は浮かばれていないわけである。」                              

また、高橋信次師は、「去年なくなった三島由紀夫氏は大地獄、阿修羅界です」(昭和四十七年三月盛岡市での講演より)                              

 日本人として初めて、一九六八年にノ−ベル文学賞を受賞した川端氏は、新感覚派として『伊豆の踊子』『雪国』などの代表作がある。晩年の氏は暗い作風が多く、そのことを指摘した新書が昭和六十二年十月に初版されていた。一九七二年、自から命を絶った。人間の心の世界というものは、「一念三千」といって心の針は悪にも善にも、羽根を持った鳥のように自由に向けられるのである。役者が暗い役ばかりを演じたり、作家が暗い文章ばかりを書いていると、あの世の暗い霊と同通し、神の子の自覚を忘れ、自から命を絶ったりする。ウエブ・マスターは二、三日に一度は本屋を訪ねるが、何とホラ−(恐怖)、サスペンス、残酷、妖気等の暗い本が多いことか。売れるからという理由で際限もなく、こういう本が出版されることを憂う。この項では「暗い世界」ということから川端康成氏、三島由紀夫氏についても言及した。三島由紀夫氏に関しては、いくつかの三島由紀夫の『霊界通信』なるものが出版されたが、次のように考えている。

あの世は心のままの世界という。三島氏は、自ら信ずるところを訴えて陸上自衛隊に斬り込んだ。そして計画を完遂することなく割腹自殺をした。その扇動の心は、そのままの心の世界、つまり右を向いても左を向いても、自分の考えを主張する者達ばかりの世界で、誰れも聞いてくれない自論を延々と続けるという苦しい世界である。そして、まだ自らの死も自覚していないものと思う。そのために、三島氏のお母さんに救いを求めるというか、幻覚症ではないかと思われるほどに姿をみせるというのである。悟った人は、肉体や遺骨に執着することなく、すぐに天上界へ帰って行く。だが、三島氏の霊魂は、この世に想いを残した。しかも、自害後一年には遺骨が盗まれるという事件が起こる。このような事件を含めて、いよいよ、この世に執着し、天上の世界には帰っていないわけである。

このような理由で、この世の同通した人に、自らの思いを遂げようとして霊界通信を送ったという考え方である。もう一つは、あの世の困りものの動物霊や地獄霊が、三島氏の名をかたって霊界通信をしているのかも、という考え方である。困りものの霊は、人があっと驚ろくような名をかたって出てくるからである。「正見」することが如何に大事かということと、三島氏のようにいかに名声があっても、心の針の向け方次第では、正道を誤ることになると知って欲しいのである。「人間の価値は、地位や名誉を差っ引いたものである」と言った高橋信次師の「ことば」を良く噛みしめてほしい。川端、三島両作家について長々と述べたが、彼等ほどの人達である、いつの日かそれも早いうちに天上の世界に帰っていかれることを信じて疑わない。この項の終りに高橋信次師のことば「自殺」を引用したい。 

 


                     

 WB00882_.GIF (263 バイト)        「自殺」について

 

 「人間の目的は、仏国土、ユ−トピアの建設です。あの世からこの世に生まれるときは百人が百人、こんどこそ自分の業(カルマ)・心の傾向性を修正し、この世を調和すると決意して出生します。ところが地上の大気にふれ、この世の環境に染まってゆくうちに、こうした目的を忘れ、自己保存の想念に支配されてゆきます。自殺の心理は、その極点に近いものです。いうなれば自己保存の自意織が過剰なために、自らそうした行為であり、神に対する冒涜 、反逆であって、人間否定を意味します。ですから悪のうちでも、自殺は最悪の部類にはいります。自殺も、さまざまな内容を伴い、各種にわかれています。たとえば家族の迷惑を考え、ひと思いに生命を絶っていく療養生活の長い老人。形はどうであれ、いちばん問題なのは、本人のその時の想念のあり方にありますが、しかし客観的に、私ならこうするという余地のある自殺は、もっとも悪い結果になるでしょう。自殺者の死後の世界は暗黒地獄です。一寸先分からぬ真暗な穴倉のようなところに閉じこめれれての苦しみの連続です。鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響くところとか、得体の知れぬ生物が意識のなかに入り込んでかきむしるのです。頭痛や幻想に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることができますが、暗黒地獄ではそれができません。意識だけはハッキリしており、それでいて真暗ですから自分の体がどこにあるのかもわかりません。自殺は「光」を否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引き込み、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。ゆめゆめ、こうした想念に支配されないようにしたいものです。」                                                                                                                                                    

<参考のために>                   

 「なんでも当たり前だと考えて感謝しない人びとが死んで行く世界は、なにを見ても、なにを食べても満足することのできない苦しい世界である」

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  「直感力とは何か」                      

                                 

 直観力、予感、知のしらせえ、ヒントを得る能力などを言う。ハイヤ−セルフ(自分の本質生命体)との接触も一つの直感力発露の方法という人もある。または放射感知(ラジエスセシア)を言う。           

                                 

  「直感力を説明するための基礎となるもの」           

                                 

 <魂(生命体)は永遠>                     

                                 

 あらゆる生命体(動物、植物、鉱物)は永遠の生命をもつ。あの世(四次元以降、意識界、「空」の世界、実在界)と、この世(三次元、地上界、物質界、「色」の世界、現象界)を永遠に循環する。信次師は、般若心経の『空』は、「あの世」、『色』は「この世」と明解した。あらゆる生命体は『あの世』と『この世』を循環、転生輸廻しつづける永遠のもの。肉体(物質)は滅んでも死なない霊(意識、魂、心、生命エネルギ−)                           

                                 

 <人間は本体一と五分身>                    

                                 

 人間は本体一、分身五の関係である。この大宇宙は、神の大意識を母体として、熱、光、電気、磁気、重力という五つのエレメントからできている。小宇宙である人間の生命体もこれに合わせて、本体一(大意識)分身五(五つのエレメント)の組合せとなる。ちなみに、動物は本体一分身五、植物は本体一分身四、鉱物は原子番号に核を加えた数が本体と分身の数となる。例えば炭素は、原子番号は六、核一つに陰外電子が六だから本体一分身六となる。詳しくは「心の発見・科学篇』、『心眼を開く』三宝出版社・高橋信次著を参照ください。                         

                                 

 <生命体(魂)の転生輸廻の順序>                

                                 

 A(核、本体1)が先づ最初に地上界に出て、B、C、D、E、F(5分身)が順次、現象界(この世、地上界)に出る。原則的には順番通りだが、中には地獄界(暗い世界)の横道にそれる人がいるので、その時は話し合いによってAならAが短期問に二度、三度と地上界に出て魂の修業をすることもある。(何度も言うが、地獄界からこの世に生まれることが出来ない。反省をして天上界に帰った者のみが、この世に誕生できる仕組)                           

                                 

 <守護霊と指導霊>                       

                                 

 守護霊とは自分の過去世であり、魂の兄弟である。たとえば、Aは「この世」に出て人生を送っている人。過去世の人を新しい順番に言えばF、E、D、C、B。最も古い過去世の人はBであり、Aの次に生まれる人。AにとってはF、E、D、C、Bは過去世の人となる。これらの過去世の人が「守護をする霊」となって、地上界に出て人生を送っている人を「あの世」から護る。これを「守護霊」つまり「魂の兄弟」、「過去世の人」と言う。この魂のグル−プは、似た者同志であり、業(ごう・カルマ・心の傾向性)が似ている。それで、この世の人生の修業の目的は、地上界にユ−トピアを創ることと、カルマ(心のクセ、心の傾向性)を修正することである。


 

    ●A(この世の人) B(最も古い過去世の人で、次に生まれる人) F(一番新しい過去世の人)

     ●E    D  

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なかには「良い守護霊を持て」と書いた本がある。守護霊とは、単に、「自分を守ってくれる霊」という意味で書いたようだが、正法の教えではそんなものはどこにもいない。それが「他力本願」の最たるもの。正法は「自力」を説く。だから高橋師は、「他力で救われた者は一人もいない」、と教えたのだ。守護霊とは、自分の過去世、魂の兄弟なのだから現在の自分を見れば、守護霊も大よその見当がつこう。こう言っては身もふたもないが、それが真実なのだ。

それでは、直感力、直観力、予感、虫の知らせ、ヒントを得る能力とは何か、それは守護霊の作用である。つまり過去世の人達が「あの世」から教えてくれるのだ。これが「直感力」。例えば、この世に肉体を持っている人が科学者としての道を志したとする。ところが、過去世の人の中には誰一人として科学を深くやらなかったとしても、ガッカリすることはない。その時は、その人の目的意識に合わせて、守護霊の友人や先輩が「指導霊」として協力してくれるから心配ないと高橋師は教えた。高橋師の守護霊はフォアイ・シン・フォアイ・シンフォというAD四百年頃の中国に生まれた人で、紀元前三十二年にイスラエルに生まれたイエス・キリストと言われた人と言う。また、高橋師はキリストについて次のように言い残した。

「イエスは天上界ではイマニエル・イエス・キリストと呼ばれ、紀元一年にイエスは生まれといいわれていますが、それは大きな間違いです。彼は紀元前三十二年に肉体を持つております。イエス・キリストは三十何歳で死んだということになっておりますが、これも間違いです。彼は五十四歳でこの地を去る時に、弟子達にそれぞれ、場所を変えて教えてゆきます。」、と。

西暦はイエスの生誕に由来するが、何と、紀元前三十二年に生まれ、五十四歳で亡くなったと言い残したことに注目しなければならない。また、高橋師の「指導霊」はワン・ツ−・スリ−と名乗ったモ−ゼであったと記述している。                    

 


                                

  WB01724_.gif (138 バイト)オ−リング・テスト、フ−チ、MRAやLFT WB01722_.gif (138 バイト)       

                                 

  <O・RING・TEST>                  

                                 

 アプライド・キネシオロジ−(カイロプラクテイックなどに使われた診断法)からヒントを得て考えられたものらしく、親指と他の指で○の輪をつくり、指が開くかどうかによってテストする方法。人間の身体を測定器として使うものと説明されるが,正しいものはあの世の守護霊(過去世、魂の兄弟)が指の開閉によって教えてくれる。占いに使う人もいるようだが、その人の目的意識によっては、動物霊や地獄霊が協力するので注意が肝腎。ただ、オ−リングテストの初歩の段階の、例えば痛い、問題がある等の部位のチエックは、ただの精神作用であり、守護霊の作用ではない。         

                                 

  <フ−チ>                                

 フ−チとは中国語で、「占い」という意味。ヨ−ロッパで水脈や油脈、鉱脈を捜した「振り子」、「ペンジュラム」、「糸つき重り」、ダウジング、ラジエスセシアとも、いう。「揺れ」と「不動」と「方向」の三つの答。熟達した人は守護霊の作用である。             

                                 

  <MRA、LFT>                               

 共鳴磁場分析器といい、熟練したオペレ−タ−のダイヤル操作による波動共鳴法。MRAもLFTも熟練を要し、オペレ−タ−が介在するというのが特徴である。例えば、テレビやラジオはスイッチを入れると誰れで同じように音や絵を出せる。でも、これらは全ての人にはすぐに出来ない。あの世の霊の協力によってなされるものであり、守護霊(過去世の人)の場合もあれば、その人の目的意識によっては、暗い霊(地獄霊)や動物霊の場合もある。例えば、オ−リング、テストによる毒物や良薬のテストを例にあげれば、あの世の霊にとって全てお見通しだから、指の輪の開閉によって答えを出すことは簡単。ダウジングの鉱脈探しを例にとれば、あの世の四次元の霊からは、三次元の鉱脈など「お茶のこさいさい」簡単なこと。鉱脈さがしが当たったりはずれたりするのは、協力する霊の次元による。次に、高橋師の周辺に起きた鉱石の話しを引用要約する。   

 


                                 

    WB01066_.GIF (242 バイト) 「信じがたい事実」   S氏(工学博士)の手記から WB01066_.GIF (242 バイト)

     

 S氏は昭和四十二年、八月から九月にかけて、ジャワ島で金山の調査をした。ジ−プ数台に機材をつんで、二十五ケ所から試料採取を行った。平均g/屯という結果だった。四十三年十二月、S氏は知人と、山の写真と簡単な地図を持ち、高橋師のもとを訪ねた。高橋師は一、二分瞑目したと思うと、合掌した手が頭の位置へ上った時、コロコロと三個の鉱石が落ちてきた。そして、高橋師は言った。「日本円にして一億円、日本人技術者十名、現地人五十名、その他、発電器、採掘用トレ−ラ−、同ショベル等を準備すれば可能だ」、と。S氏は、その三つの鉱石を実物大のカラ−写真におさめ、証拠づくりをして、東京通産局まで持ち込んで分析を依頼した。一つは二七・五g/屯 、あとの一個はO・三g/屯 、最後の一個は証拠品として自分の手許においているのでお見せしますと記述した。『天使の再来』高橋信次著

これには後日談がある。高橋師は「私はS氏に裏切られました。S氏によって大事に保管されていた鉱石は、悪用されては困りますので、私の霊力によって消しました」と、園頭師に言い残している。S氏は高橋師在命中にGLAを去り、その後「○○の科学」で見かけたことも、ともかくも、S氏の眼の前で鉱石の物質化現象が起り、その鉱石を分析したと言うのである。高橋師のように、光の大天使の協力による物質化現象は、現場から採取した鉱石そのものである。正しい物質化現象は、分析さえ出来る。どこかの霊能者の出したものを、確かな分析所へ持ち込んでみたら如何か。金粉を出す人がいるが、正しいものは純金。おかしなものは銅が主体である。

正しい霊能とは、これ程に厳しいものと理解いただく為に引用したが、正しい光の天使の協力により起る物質化現象は真実そのものである。それでは鉱脈、水脈探しについてもう少し述べよう。正しい光の天使の協力によるものは 百発百中という例である。大本の出口王仁三郎という人がいた。彼については多くの本が出ているのでそれを参考にしてもらえばいいが、高橋師は、この人は宗教の誤りを覚醒させる使命のあった菩薩界の人と、言い残した。彼の伝記には小さい頃から水脈探しに協力した事がいわれている。菩薩界の高霊格の人だから、その確率も想像すると余りある。また、海外ではフイリッピンの心霊術者のアントニオ・アグパオア(昭和58年没、通称トニー)は、イエスの分身・5と高橋師は言い残したが、彼の自伝によると、幼少の頃から金鉱探しに協力した事が綴られている。類希なるイエスの分身だから、その確率は当然といえば当然だろう。イエスの話が出たからもう一つ。イエスの本体は、いまから百四十年後にアメリカのシカゴに生まれると高橋師は予告している。 

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  <気功の一例>                        

                                 

 気功の「気」は病気とか元気、大元の「気」である。気とは心、意識、精(スピリチュアル)である。「功」とは、いさお、手柄、である。人の体に一切ふれることなく、気によって相手を飛ばす人がいる。人の体に触れることなく相手を負かすということは、常識では考えられない。原因の無いものはどこにも存在しない。必ず理由がある。これも、あの世の霊の協力により起る現象。アッと驚く、ビックリするような事を行う人を、「正見」したいもの。ものすごい熟達者は過去世で肉体行をやった人達、とは高橋師の弁。

                            

   <エドガ−・ケイシ−という人>

               

 今世紀最大の、眠れる予言者と言われるエドガ−・ケイシ−という人がいる。質問に対する答を「リ−デイング」と呼んでいる。予言にしても、リ−デイングにしても、あの世の霊の協力によって、眠っているケ−シ−の声帯を利用して語られる。米国ロスアンゼルスのアガシャ教会の故リチャ−ド・ゼナ−氏も、現在のサルバット氏も、英国のシルバ−バ−チのグル−プの故バ−バネル氏も、最近のポ−ル・ソロモン氏も皆、声帯を通して「あの世」から霊示を伝えるトランペット霊媒、スピ−カ−、伝達役である。あの世からの「受話器」の役目である。「受話器」としての使命と役割を持った人達と言える。目が覚めたケ−シ−は自分の語ったことに驚ろくこともあったようだが、完全な受話器であるためには、ある段階の次元までの霊媒は、恣意を入れさせない為に眠ったり、意識を失ったようにしてなされる。高橋師は、いつでも、いかなる所でも目覚めた状態で自由自在に行われ正確無比だった。これは、まさしく次元の違いである。         

 


                              

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   「なぜ予言や予告ができるのか」               

                                 

 「何となく、そういう予感がした」とか「なにか虫の知らせがあった」という体験を持つ人は多いと思う。予知したり予言ができるということは、そういう事実がどこかに既につくられているということである。全くないものは知ることは出来ない。それでは、どこに既につくられているかと言うと、それは「念の世界」、「意識の世界」「霊の世界」、つまり「あの世」に既につくられているということである。つまり、「この世」より「あの世」に先に起こるからである。表面意識(現在意識)ではそれを知ることは出来ないが、光の天使、如来、菩薩などの潜在意識の開発された人は、それを未然に知ることが出来る。知ることが出来るから予言、予告が出来るのである。

ところが、特別の使命を持った如来や菩薩以外の人でも、予言が出来るのはなぜだろう。地獄霊や動物霊に支配されている人は、地獄霊や動物霊からあの世に先につくられている事実を知るからである。霊視、霊聴、予感等の霊示として伝える為に、予知、予言が出来るということになる。それで、あそこは良くあたるという評判によって、人が集まるという仕儀。でも、予言をする人を正しく見ることである。大本教の出口王仁三郎は「現界(この世)に起ることはそれ以前に霊界(あの世)に現われ、霊界と現界は照合している」と説いているが、注目すべきことだ。また、園頭広周師は、「この地上界に起る何日か、何カ月か前に天上界で既に起っているのである。だから見たり、予言したりすることが出来る」と書いている。この世はあの世から映し出された世界であり、本来別々のものではない。この世」に起ることは、先に「あの世」に起るということである。

こういうと皆さんの中には、動物霊や地獄霊が、あの世に先に起きたことを知らせるのも、光の天使がその事実を知って伝えるのも、同じではないかと言う人もいるかも知れない。だが、それは違う。どう違うのか、考察したい。            


                                 

WB00860_.GIF (262 バイト)「動物霊などの憑依による予知、予言と、使命を持った光の天使の予知・予言はどう違うか」WB00860_.GIF (262 バイト)                    

                                 

 地獄霊や動物霊は万能ではなく、知ることの出来る分野は限定される。一局部のことしか知ることは出来ない。だから動物霊、地獄霊が知ることの出来る範囲以外のことは予知、予言は出来ない。初めの方の模式図(予知や予言と、霊の段階の項)によって記述した光子体(A)の地獄霊、動物霊は地上界にへばりついているので、地上の一局部しかわからない。光子体(C)の菩薩界の人は高い位置にいるので、地球までか宇宙までの事象がよくわかる。これは、わかり易く説明するための「喩え、たとえ」だが、これでおわかりのようにはずれたということも起こるし、知ることの出来る分野は、本当によく当ったということになる。だから、低級霊の助けによってなされる予知、予言は、当たったりはずれたりする。しかも事故や死亡の暗いものほど良く当たる。

ところが、キリスト教でいう「光の大天使」、仏教でいう「菩薩」や「如来」などの上段階は、知る範囲が上段階に行けば行くほど広くなるので、その予言、予知は比類なきほどに正確となる。それで高橋信次師の予言、予知は百発百中だった。それと第二点は、光の天使のそれは、勇気と希望を持たせるような予言、予告をする。例えそれが悪い結果となる予言であっても、その原困を教え、明るく生きる勇気を奮い立たせるように教え導く。動物霊等のそれは、不幸なことや、心が暗くなるようなことばかりが良く当り、心理的な恐迫さえする。そして、「私が、その悪い困縁をとってあげましよう」などと言って、お金と引き替えに加持祈祷などで因縁を取ると言う人もいる。何度も言うが、自分の因縁は自分で取り去る以外にないのである。「原困を根っこから取り去る以外にはないのです。」と高橋師は言ったが、すべて「自力」だということは、言うまでもない。   

 


                                 

  「動物霊の名誉のために」                   

                                 

 これまで、ウエブ・マスターは動物霊だの地獄霊だのと、さんざん沽券にした。すべての動物の霊は、動物霊と言うが、家のミ−ちゃんやワンちゃんも、馬のヒヒンちゃんや牛のモ−さんも、みな動物霊。その中でも、ヘビのニョロやら狐のコン助たちが、トンチやカンチに優れて、いたずらや悪いことをしたんだね。地球人の歴史が三億六千五百年なら、特にヘビのニョロは六億年(高橋師)にもなるものだから人間に憧れたのね。そんなこともあって、人間を手玉にとってからかうのがいるんだ。動物霊だってみな立派なのに、特に目立った悪いのがいるものだから、悪いものの代名詞にされてしまったと言うわけ。彼らの名誉にかけても、少し触れてみたい。現世に於て、家庭で犬や猫を飼うのと同じように、実在界では、「使い姫」として動物を使う場合がある。このようなことから、動物霊を神として祭るという誤ったものになった。その実例を幾つかあげる。                

                                 

 1.「エリヤに、によって魚を持たしてやり、ミカンを持たしてやり、色々な食べ物を送りエリヤの飢を小鳥達が皆手伝って生活の環境を整えます。」(高橋信次師講演の中から)        

                                 

 2.月刊『正法』・園頭広周師の記述より要約 WB01360_.gif (855 バイト)         

「昭和四十三年、このまま「生長の家」にとどまっていたのでは真実の正しい真理を求めることはできない。家族六人を抱えて、すぐ生長の家をやめては生活ができない。東京を離れ九州へ帰り、正しいと信じることだけを伝えて、生長の家をやめた後のことを考えようと、福岡の生長の家「ゆには道場」の練成部長として九州へ帰った。ゆには道場で練成を始めると、園頭師が講義を始めると必ず一羽の鳩が部屋へ飛び込んで来て、講義を聴く素振りをする。練成員が円陣をつくって歌うとかならずその真ん中にいる。最後の修了式まで十日間連続して同じ鳩がはいってきた。不思議だ奇跡だというので他の講師が写真を撮った。園頭師は「私はそのことで自分の考えの正しさが、鳩を感動させたのだと思ったが、口に出しては言わなかった」と、写真入りの記述がある。それから三年後の昭和四十六年二月に、園頭師は生長の家を辞め、昭和四十八年三月、初めて、GLA関西本部の講演会で高橋師に出会うことになる。その時、高橋師は「あなたが私のところに来ることは五年前から言って来たのです。ね、そうでしたね」と、随行した人に証明を求めた。その五年前とは、園頭師が生長の家を辞める決意をして九州へ帰り、先の「鳩の奇跡」の年が昭和四十三年であった。そのとき園頭広周師には鳩が使いとして現れたのだ。

また、古代インドの時代、お釈迦様には猿が使いとして現われたという。このように、蛇や狐を使いとして現わしたことがあったので、後世の人が、狐や竜等の動物霊を崇拝するようになったのは、この理由によるのである。先にも述べたが、高橋師は「蛇は地球の人間の誕生の歴史より古い」と明らかにしたが、動物は自分の本性を人間に見せたくないために、いろいろな霊的現象、主として菩薩の姿を見せる場合が多いという。その為に神のお告げがあった、お告げを聞いたと錯覚を起す者があり、遂に動物霊に支配される結果となるのである。高橋師は「天下の霊峰、富士山は今や狐の巣と化し、富士も泣いています」と吐露した。動物霊が変化(へんげ)して菩薩の姿を見せると、恰も自分が悟ったかの如く錯覚を起し、完全に動物霊に支配されてしまうのである。その人達の死後は、地獄界に住し、「人間が狐やヘビの姿になっているのです。そして、神の子人間が動物の支配下におかれて苦しむのです。まことに、おっそろしいことです。」と高橋師は言うのである。万物の霊長である神の子・人間は動物霊より上段階に位置するのだから、動物霊にコントロ−ルされるのは実に愚かなことであり、人間としての本性を決して忘れてはならないのである。こうして、高橋師は、著書の中や講演会で、自称「神」が出てくるという人を登壇させ、聴衆者の前で、その「神」とやらをチエックした。ウエブ・マスターの所有する数十本のビデオやテ−プでは、全例百パ−セントが動物霊か地獄霊だった。正しいものではなかった。高橋師が、昭和四十三年に布教を開始し、昇天する昭和五十一年までの、すべての講演録を所有しているわけではないので、百パ−セントと断言することは出来ないが、自称、神が出ると言う、天狗、小天狗が他流試合のように来た者もあったようで、すべて動物霊か地獄霊であったと言えよう。なぜなら、使命を持った菩薩や光の天使が、それほど多くいると思われるか。それでは講演ビデオの中から、その様子を再現してみよう。    

                                 

 高橋    「いつものように神様を出して下さい」。         

登壇者はお経をあげはじめる。そして神とやらがでてくる。      

 高橋    「神様のおなりです」 笑い。              

 高橋    「あなたはどなた」                   

 登壇者 「○○の神じゃ」                     

 高橋    「○○の神とやら、あなたは人に何を説いているのですか」 

 登壇者「人に幸福の道を説いている」               

 高橋    「ホ−幸福の道をね」                  

と、高橋師と神とやらのやりとりが読く。そして、                            

 高橋    「嘘を言いなさい!そなたは神でも何でもない。本当のことを言いなさい!嘘を言ってもだめだ、みんな見えてんだから。菩薩のような姿を見せているが、お前はただの狐だな、そうだな!」                              

そして、厳しく動物霊をさとした後、動物霊を登壇者から取り除き、「さわらぬ神にたたりなし」という言葉で「現証」は終る。      

高橋師は自由自在に霊視するので、登壇者を一瞥しただけで、全てがわかるのだ。ところが、この登壇者のようなところへ良く当るからというので「お尋ね」に行く人も多いのだろうが、無知とはいえ残念に思う。政治家が、沢山お尋ねに行っているとも聞くが、全く愚かしい。自分で判断できかねて、お尋ねした後でなければ行動できないとは子供よりまだ悪い。自己確立からは程遠いのである。彼らに国をまかせて、この日本はどうなることか。

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   「動物霊信仰」                       

                                 

 動物霊信仰をして、庭の隅などに、キツネなどの動物霊を祭っている人がいるが、正しいことではない。高橋師の”ことば”を引用する。                  

 「動物霊信仰者でも奇跡はあるでしょう。彼等にもそれ位のことは出来ます。ところが動物霊は、所詮 、動物であり、神裡は説けません。ヘビの獰猛さ、キツネのずるさを想像してみて下さい。ヘビやキツネに、慈悲とか愛がわかりますか。まことしやかに人間をだましますが、もともと動物は本能のままに生かされているのですから、こうしたものが人間に憑くと、いっときは利益を与えても、ある程度時間がたつと本性を現わし、人間を食いものにしていきます。熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくゆかなくなったりするのも、その為です。」                        

                                 

  <教祖や熱心な信者の状態をよく観察しよう>        

                                 

 動物例が憑いている教団の、教祖や熱心な信者の状態をよく観察してみよう。顔色が悪い。病気が絶えない。人を非難する。人をおどす。自己本位。エリ−ト意識が強い。比較の観念にとらわれる。我が強い。感情的。欲望的。愛がない。計算高い。無理を平気で言う等である。また教団によっては、動物霊以外に阿修羅(あしゅら、アスラ−)が憑く場合もある。このときは、戦闘的、排他的、一本調子、他をかえりみない等。動物霊は現象界(この世)に非常に執着を持っているから、神理があいまいだったり、あるいは全然説けず、占いに熱中している場合など、すべて動物霊の仕業とみて差し支えない。何々の神、何々の命、○○如来、××菩薩等を喋るようなら、これは間違いなく動物霊である。動物霊や魔王でも奇跡をおこしたり、病気を治したりするが、これと、神理に適った生活の髄伴現象として起こってくる奇跡とは、おのずと、その内容を異にしており、第一その永続性、心身の安らぎという点で、異質であることを知っていただきたい。            

                                 

   <動物霊が支配(憑依)している人の特徴>          

                                 

 動物霊が支配している場合は、神がかりになって、体を上下に動かしたり、合掌している手先が蛇行したり、座ったまま一〜二メ−トルも空中に飛びはねることもある。彼等は人を驚かすところに特徴があると言える。不動明王だの、竜王だの、稲荷大明神と名乗って出てくる場合も動物霊がほとんどであり、まことしやかに振るまうので特に気をつけなくてはならない。このような人びとはまことに危険極まりなく健康にも、日常生活の上においても不調和を来し、お祭りをして供養しろとか多額の金品を要求したりする。動物霊が憑依している人は本能的欲求が強く、したがって憑依されている人は金とか、地位とか色欲に翻弄される。予言する、病気を治す、それだけで信じてはいけない。また罰があたると脅迫するようなことがあれば、これもまた地獄霊である。一番大事なことは、神がかっている人間の品性や言動をよく観察することであり、正道を心の物差しとして生活しているかどうかが問題なのだ。地獄霊が憑依すると、おごり、怒り、そしり、ねたみ、欲望の渦の中にひきずられるため、心は常に動揺し、不安定である。いくら口先でうまいことを言っても、その考えること行為に大きな矛盾がでてくる。そして、不自然な霊力や脅迫に合うと、人はつい盲信、狂信になりがちで、正しく見ることが如何に大事であるかを理解していただきたい。とうとう終りの方は、悪い動物霊の記述になってしまったが、次の説明でこの項を終えたいと思う。           

  


                               

  「竜神、龍王について」              

                                 

 彼らは動物霊達に、動物としての道を教える役職にある天使達である。ヘビや竜ではなく、人間の天使である。仏教でいう菩薩、キリスト教でいう上段階の光の指導霊になるための修行過程なのだ。これはもっとも厳しい修行過程であり、学習なのである。なぜなら、動物霊達は、感情の気性が強く、本能的で、指導はむずかしく、この世の三百年にも当る修行と高橋師は教えた。ただ蛇や竜達が、良く正法を勉強して、竜王達の仕事を手伝うことはあるが、彼等は、竜神でも竜王でもないのである。稲荷大明神、竜神、竜王は仏教でいう人間の天使の役職名なのである。また、「不動明王」とは実在界(あの世)の秩序を正す役目と、現象界(この世)で肉体を持っている正しい心の人々を、魔から守る使命を持った諸天善神の一人である。              

 


                                

 高橋師の「ことば」から  WB01361_.gif (611 バイト)                  

                                 

 「商売繁盛を目的に、よく狐などを祭ってある家庭や店舗があるが、非常に危険なことだといえよう。彼等動物霊達は、盲目同様の人間をからかったり、また彼らも人間になりたいと思っているため、いろいろな現象を出したりする。」      

                                 

                                 

   高橋師の記述から 『大自然の波動と生命』(廃版)     

                                 

「また過去世の中にもいろいろあります。人間から地獄の畜生界に落ち動物になった者もいます。私の友人が太郎という子犬を飼っていました。この可愛い子犬と友人は親子同様に生活をしており、この子犬は自分の好きなテレビをいつも見ていたそうであります。九年の歳月は流れ、我が子同様の子犬も病気によってこの世を去り、老夫婦の悲しみは、ひととおりではなかったのであります。早速多摩動物霊園で手厚くほうむったのであります。この子犬を忘れることが出来ず、いつも墓参して涙にくれていました。この友人がある日親しい家に行き、この話をしたところ突然その家の人に霊的げんしょうが起こり、犬の遠吠えをして、友達の胸の中にとびこんで泣きだしました。暫くしてから、「私は太郎です。お父さん、私は可愛がられて育って幸福でした。お父さん、永生きをして下さい、私はいつまでも守ります。お父さんは神様だ」と申され涙にくれていました。良く尋ねて見ると、九州の炭鉱で働いていた坑夫の子供で、会社はつぶれ食べる物がなくなり、餓死してしまいました。その時に、犬なら何処でも食べ物をさがせるのに、なぜ私たち人間は餓死するのだろうか、こんどは犬いなりたいと思ったそうであります。この少年も太郎という名前であり、九才で亡くなりました。こんどは犬として現象界に生まれたが、全部人間の言葉がわかったと申していました。このように一つの人生航路を踏み外すと、犬であっても過去世は人間の場合があるのであります。私達の魂の遍歴を考えるとき、現象界の衆生は、人間の本性を忘れてはならないのであります。信ずる一念力のエネルギ−は莫大なものであります。」        

                                 

 あの世は「心のままの世界」と言うが、恐ろしいかぎりである。神の子・人間は、まさしく人間なのだ。動物になど成り下ってはいけない。引用した『大自然の波動と生命』は高橋師の最も初期の著書で、 現在は絶版になっているが、「〜であります。」調に、初めのころの師の「かくありなん」、とも思える情感が感じられ、敢えて引用した。高橋師の講演の、数十本のビデオと数十本の録音テ−プを聞くと、「講演や著作は最も苦手とする分野であった」と述べている。講演については、高橋師の分身である江戸時代末期から維新の政治家・木戸孝允に、「腹から声を出せ、ノドからは声帯をつぶし長くは話せない」等と、指導を受けた事を述べているが、講演テ−プ、ビデオの中の師の講話は、その迫力といい、声量といい、決して並の講演ではない。師の講演は神理の言葉だから、砂地に水が吸い込まれる様に心に響く。そして、木戸孝允は酒豪で、木戸孝允の意識を高橋師に入れると、酒をまったく飲まない下戸の高橋師にも、酒が水の様に感じられたと記述している。高橋師の「お酒」については、既述の、『経済界』主幹のS氏が自著の中で「S氏が飲み屋さんへ案内されると、高橋師はホステスさんの話に静かに耳を傾けるだけで、お酒は飲まなかった」、と書いている。                      

                   

霊媒なる人に、酒豪の人を入れてもらう、また、その反対にまつたく飲めない人を入れてもらって、テストされたら如何だろうか。酒を一滴も飲めなかった人がチビチビ呑み始める、大酒のみが飲めない等と、霊査の正しい判断のテストの方法がまた一つ増えたようだ。霊媒はその人を入れるというのだから、そのひと本人になり切るのは当然なこと。また、高橋師の一番最初の講演には、モ−ゼが不得手な師に代わって、仏教について代講した事も言い残している。モーゼは三千年余り前から、天上界から地上界をつぶさに見ていたのだから、二千五百年前のお釈迦様の時代からの仏教の変遷など訳ない事だったろう。しかもモ−ゼは高橋師の指導霊だったとも。   

 


     

  「ユリゲラ−という人」                    

                                 

 高橋師在命中に話題になった人である。当然のことながら、高橋師は彼についても触れ、「ユリゲラーは動物霊がコントロ−ルしている」という言葉が残っている。当時の週刊誌には、気分やで気分がコロコロ変わり、周りの人が困っていた事を報じていた。まさしく動物霊の憑依による霊能である。動物霊だから人を平気で困らせる。動物霊の本性まる出し。霊能力にあこがれてはならぬ。人格の破壊、人間喪失、人間失格となる。正しく見て欲しいのである。ユリゲラ−は動物霊が背後から協力していると高橋師は注意を促した。              

 


                                 

   「サイババという人」                    

                                 

 現代、もっとも注目される人で、アッと驚ろく物質化現象を数多くする人。園頭広周師は月刊『正法』の中で、「インドのサイババの写真からは動物霊のニオイがプンプンしてくる」と記述されている。赤いおベベを着て、灰やブレスレット等を分け与えることによって配下がどんどん増えていくことだろう。正しく見て欲しい。日本人にも彼の許に集う人も多くいるようだが「転ばぬ先のツエ」という。神の子・人間は万物の霊長なだよね。動物は人間の配下ということを、よくよく考えて欲しいのである。動物は人間のように高次元の生きものか、決してそんなことはない。サイババは動物霊の支配下にあると言われているのである。金されあれば、誰だって病院や学校はすぐに作れる。四十年の間に五千万人もの帰依者を集めたそうである。灰を配ってさえいれば、霊の世界に無知な大衆を相手に、錬金術は大繁盛、すごいね。世界中からお金を幾くら集めればよいのだろうか。サイババは法は説けない。詩は択山つくっている。少し変わったことをする人がいると、世界中から同類の人が駆けつけるのである。霊能かぶれの人達よ、早く目を覚まして欲しいと思う。かつて、フィリピンの心霊治療に世界中から大勢の人が押しかけた。その力たるや、心霊術者の多くをウエブ・マスターは疑問視しているが、世界的に有名だった故アントニオ・アグバオア(通称トニ−)は「イエス・キリストの分身・5であった」と高橋師は言い残しているが、その正しい霊能力たるや、相当のものだったと信じて疑わない。このようにフィリピンの心霊術者群の中にはトニ−のような人もいるにはいたのだが、インドのサイババは正しく見て欲しいのである。ついでにシャリ−マクレ−ンにはビジネスのニオイがすると園頭師はいう。正しく見て欲しいのだ。

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   「念写、透視、スプ−ン曲げの謎」              

                                 

    <念写>                           

                                 

 かっては、写真乾板に念写するのが一般的だったが、現象処理のための人の手が介在することを避けることと、簡便化のために現在はポラロイドを利用することが多い。これも、あの世の霊の協力による映像転写である。物質化現象に対して「映像化現象」と言う。暗い顔をしながら懸命に念写に時間をかけるよりもっと外にやることはないのだろうか。動物霊の協力によるものは、動物は気ままな本質をもつので、成功したり失敗したり気ままである。このような霊能力に魅かれて人生に失敗した人が多くいるが、残念である。                        

                                 

   <透視>                          

                                 

 肉体の眼では見えないもの、見ることが出来ないものを視たり、知らないことがわかる等、現代は広義に解釈されている。透視により内蔵の状態を見て病気を指摘したり、見えないものを当てたり、知らないことが解ることを言う。三次元の科学では、レントゲン(CT含む)、MRI、超音波画像表示機等によって、内蔵などの眼で見えないものでもわかる。でも、肉体の眼ではわからない。それがどうしてわかるのだろう。原理は霊視(霊眼)と同じだが、意識(心)に「あの世」の霊がコンタクトして、映像として見せるわけである。あたかも肉体の眼で見るようにるが、あくまでも、肉体の眼で見ているのではないのだから、フォ−カス(焦点)は利用されない。これを心眼(心の眼)霊視、霊眼とも言うが、後を向いていようと、下を向いていようと一向に構わないわけだ。三次元の方向は「あの世」の霊にとって関係はない。有名な宜〇愛○という人が、暗い眼をして少し斜視で霊視されるのをテレビで見ていると良くわかる。三次元としての方向は向いているが、眼は「うつろ」である。                          

                                 

   <スプ−ン曲げ>                     

                                 

 特別に指先に力を入れるわけでもないのに、念力によってスプ−ンが曲る、折れる、フォ−クのようにギザギザになる。何でも良いのだが、信じられないことが起っている。スプ−ン曲げは、もう、ブームだった。ハシカのように急に蔓延し急激に沈静した。これも劇的なものはあの世の霊の協力によるもの。                               


                                 

   「念は正しく使わなければならない」             

                                 

 お釈迦様である、現代の高橋信次師が説いた「八正道」の中の第七番目に、「正念」、「正しく念じる」とある。正しい願望、望みは正しい目的意識を思い持たなければならない。「こうしたい」、「こうなりたい」という「念」、「思い」は、ものを創り出すもの。例えば、小さい頃に極貧の生活を体験したので、大きくなったら大金持ちになるのだと心に誓っていた子が、大きくなったら守銭奴に撤し本当に金持ちになっていく話がある。「念」はものを創り出すとは、このようなことである。念は、その人の分(ぶん)にかなった念であるかどうかが問題なのだ。その念ゆえに、心までダメにしては何の為の人生かわからない。正念に対しては「欲念、邪念」と言うが、その念が正念であるかどうかの判断は、その念によって、自分の心が安らぐか、その念によって「調和」するかの二つが基準である。その念によって、自分だけは満足しても、家庭はガタガタでは、それは正念とは言い難い。不調和な念を持つ人は、「類は友を呼ぶ」というたとえの如く、暗い世界の地獄霊や動物霊を呼び寄せてしまうのだ。次は高橋師の講演筆録より参考にしてもらおう。        

 


                                 

 「祈祷師・拝み屋や海外のブラック宗教の中には念の力によって人を祈り殺してしまうものまであるようだ。祈り殺すという「邪念」によって、相手も同じ「類は類」、同類の人であれば、念によって祈り殺すことも可能かもしれない。だが、もし相手の人が心美しい人で、邪念によって祈り殺そうとした場合、その念は、発した人間の方へ勢い込んで帰ってくるので、遂に祈り殺そうとした人が倒れてしまうことになる。これは、まさしく反射境と同じです。心を美しくみがいている人は、美しくみがいた鏡のごとく反射して相手に帰っていくものです。心の曇った人や曇った鏡は、発信された邪念を受け、吸収してしまう。 だからそこに現象化されてしまいます。最近の教祖諸候はポンポン死んでゆきますね。私等みたいな者が出て、「法」を説くと何か色々都合がありまして、そこで祈るわけですね。ところが私の方には何もないんですから反射鏡ですワ。どうにもならなくなっちゃって、死んでしまうちゅうわけですね。祈った方に助けを求める。皆さん、念は正しく使わなくてはいけませんよ。」                              

                                 

   「念(波)の発信と受信」                  

 簡単な言葉や簡単な図を送ることが行われる。閉ざされた部屋や遠く離れた場所から、念の「送り手」が発信し、それを「受け手」が送られた言葉や図を表示し、それが合致しているかどうかの判定をするというものである。霊能者のスペシャル番組でよく見ることがある。どうして起るのか考えてみたい。                      

                                 

            WB01361_1.gif (611 バイト) 「念(波)の基礎となるもの」 高橋師の「ことば」より   

                                 

 「受信機と発信機は人間が製り出したものです。ラジオやテレビは人間が作ったものです。人間の中には、その作用がすべて整っています。ただそれを自分が受ける能力を持っているか、いないかだけの問題です。皆さんの心の中が、人を恨み、妬み、謗る、そして怒る心をつくったり或いは自分自身がより大きな欲望、足ることを忘れ去った欲望が多くなると心にスモッグが出来てしまいます。それが多くなればなる程、盲目となるのです。」           

                                 

             WB01360_.gif (855 バイト)    園頭師の記述より引用要約する。              

                                 

「『念の速度は光より速い。念の世界には時間、空間がない』と高橋先生は言われた。昭和四十八年九月一日から十日まで高橋信次先生が『インドの時と同じ修業をしましょう』と言われて、十人が選ばれ長野県竜王へ行った。昼間は反省をして、深夜一時から三時まで山中に別々に散って禅定・瞑想をした。離れた所におられる高橋先生が『念』を発せられるとそれを私達がキャッチするという訓練もやった。出来る人も、出来ない人もいた。」                              

                                 

   「どうして『念』は通じるか」

                

念が通じるということは、守護霊(過去世、魂の兄弟)による作用である。困りものは、本当の守護霊ではなく動物霊や地獄霊の協力によって、念が通じることである。簡単な言葉や図は、動物霊や地獄霊でも協力出来るが、その結果たるや、これまでに述べた通り惨澹たるもの。正しく見る必要がある。あるとき、漁船が大しけで航行不能になり、無線も使えず漂流して行くえ不明になった。留守家族には夢枕に立つ、生存を知らせるような感じが読き、それから一カ月ほど過ってから奇墳の生還をしたと言う話がある。平成六年にもヨットマンが生還したと報じたが、このような念の発信受信はどうして起るかというと、念は相手にそのままダイレクトに通じるのではなく、守護霊(潜在意識・過去世・魂の兄弟)を介して行われるということである。時間、空間のない念の世界だから、場所はどこでも、想えばすぐに通じる世界。これで思いだすのは、かって米ソの対立があった頃、電波も届かぬ深海にもぐった戦略原子潜水艦を霊能力で探し出し攻撃を加える「心霊戦争」なる研究をやったようだが、このような心霊力の応用は、「あの世」を介して行われるので、不純なものは伝えない世界だから、実験としては成功でも、いざ本番という時には成功するとは限らない。戦争ごときに加担する念の世界ではない、と知らねばならない。           


                                 

   WB01361_1.gif (611 バイト)  「ノ−チラス号の念波実験」 高橋師の記述から       

 

「 1959年(昭和34年)7月25日、アメリカ原子力潜水艦ノ−チラス号で、テレパシ−実験の詳細が、ソビエト通俗科学雑誌「知識は力」の1960年12月号に「遠隔感応は可能か」という表題で掲載されたのであります。ノーチラス号に一人の見知らぬ人物が乗り込むと、潜水艦は直ちに潜水を開始して、16日間大西洋で潜水航行を読けました。この不明の人間は、その間ずっとあてがわれた船室に入り、一歩も外に出ず、食事を運ぶ水兵と艦長以外はその顔を見た者はいません。この見知らぬ人物は、一日二回艦長から「十字」「星」「円」「四角」「三本の曲線」の五つの符号を書いた、紙片をわたされます。双方が、サインを終わると、艦長はそれを光を通さぬ封筒に入れて密封し、更に、その上日付と時刻、極秘の文字を書き添えました。1959年8月10日の月曜日に、ノーチラス号はクロントン港に入り、この謎の男を上陸させたのであります。そして、今度は飛行機に数時間乗せ、メリーランド州フレンドシップ市空港に送られた後、自動車でアメリカ空軍宇宙局付属生物学研究部長ボヤルス氏の許に連れて行かれた。無言のまま、封筒を差し出すと、ボヤルス部長も、金庫の奥深く仕舞っておいた同じ様な封筒を取り出し、日付順に中身を照合すると、ピッタリ符号の合うものが、70%に上りました。

この部長が、金庫より取り出した封筒は、別の男が16日間、陸地の立ち入り禁止区域内の、一室に閉じこもったまま、自動機械でかき混ぜた、一千枚のカードから選んだものであります。一日二回タイムスイッチで一分間隔に次々とカードが弾き出される。それをジッと見つめ全神経を働かす一念のエネルギー念波力が二千キロも離れた海中、しかも、数百メートルの海底の潜水艦にいる人間に見事伝達されたのであります。1932年から37年頃、ソビエトでは、人間感応作用の実験が具体的に行われていました。この研究も大変進歩しています。またイギリスの文豪H・G・ウエルズの、予言も感応現象であります。ウエルズの一生は科学とテクノロジ−の発達に依る、人類の無限の進歩に対する、希望の中に生きた人であります。文明の発達に従って、政治・経済・精神文明の歩調が合致しないと、人類は自分で自分を滅ぼすようになることを、常に警告して来た人であります。ウエルズは、1933年即ち満州事変の勃発後2年で書かれた未来の歴史小説の中に、支那事変、アメリカの介入、日本の敗北その他1957年まで、世界に起こった多くのことを見事に予言しているのであります。この予言の的中も、感応力の作用により、偉大な指導霊が文豪ウエルズに書かせたものであると、私の指導霊は教えています。」

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  「心のうちから聞こえる声に耳を傾けなさい」          

                                 

 心の底の底から囁いてくれる守護霊の声に耳を傾けて欲しい。守護霊の声は、肉体の耳に外から聞えてくるのではない。外から聞こえてくるのは、動物霊か憑依霊である。また心の内から聞えてくると云っても、心が乱れ騒いでいる時に聞えてくるものは守護霊ではない。正しい守護霊の声は、宇宙創造の神に対して、そして万生万物一切のものに対して、すべての人に感謝し、自分の過去の失敗や、自分の心の暗さに、とらわれなくなった時、そして自分が神の子であることの自覚に立った時に心の内から聞えて来る。静かな落着いた心になった時に、心の内から囁いてくる声にじっと耳を傾けて欲しい。最初は小さく聞き取れなくとも、聞く習慣をつければ、その内なる声は次第に大きくなてゆく。私達が幸福になるためには、心の奥底から起こってくる真実の心を大事にしなければいけないのである。「こうせよ」という奥底からの心の願いを実行することが、一時恥かしい思いをすることがあっても、金銭的にも物質的に損をすることがあっても心の奥底からの「こうせよ」という心に順うことである。そうするとそこから運命がよい方へ転換し展開してゆく。煩悩執着を捨てた後から卒然として湧き上がってくる神仏の心、その心のままに行動することが大事だ。高橋信次師が言う「勇気と実行」なのである。          

                          

 

   

  「人生と虫のしらせ」                     

                                 

 生活の中で、第六感・第一印象、虫のしらせというような精神作用がある。また予感という言葉で表すこともある。たとえば、「何か良い事がありそうだ」とか、「今日の旅行は、とり止めた方がよさそうだ」ということがある。時間が過つと「ア−あの感じは、このことだったのか」ということを経験されたと思う。心が穏やかで、調和されていると、心の底の底から静かに語りかけてくれる。この精神作用は守護霊、つまり潜存意識(過去世)の作用である。                      

もう一度、おさらいをすると、守護霊は、その人の魂の兄弟(本体一、分身五)が潜在意識層にあって、地上界に出ているその人の一生を見守り、魂の向上のためにあらゆる努力を払っている。また、指導霊とは、主として、その人の職業なり現象界での目的使命に対して、その方向を誤らせないよう示唆を与えてくれる魂の友人、あるいは先輩である。守護霊と指導霊を兼ねてその人を守り指導している場合もある。                              

心が穏かで、心と行いが調和されていると、守護霊も指導霊も協力を惜しまない。反対に不調和だと、守護霊はその人を守ることができず、これが長期にわたると不幸を招くことになる。 日本の神道でいっている、八百万神(やおよろずのかみ)といっているのは、この守護霊のことを云っていると、高橋師は教えた。また、この潜在意識の作用、つまり、守護霊の作用は、四六時中あるものではない。                        


                                 

  <宜○愛○という人>                     

 

 テレビにも度々出演され、著書も多く出している有名な女性霊視者がある。あるテレビ番組でタレントさん数人を相手に霊視をされていた。タレントとのやりとりの中で「あなたの家の居間(台所?)が暗い。ヒョ−タンに塩を入れてそこに下げてください」と言われていた。塩を入れたヒョ−タンを下げなさいとはこれ如何に。窓がなくて暗いのなら、照明を点ければよい。家の雰囲気が暗いのなら、家族の者一人一人が明るく調和してオホホ、アハハと楽しい我が家をつくるように努めることである。じとじとと湿気が多いのなら換気を良くすれば良い。会話もなく、調和のない家庭は暗い。そして、問題も多いのである。明るい雰囲気の家庭をつくるには金はかからない。多宝塔や壷を買うこともないのだ。この珍解答にはウエブ・マスターもビックリしました。そして、別のコ−ナ−では、スナップ写真の片隅に霊が写っているという写真が全国から送られていて、それを霊判定をした。その中の一例、空港待合室での怪。空港でスナップを撮った。その写真の中に霊らしき姿が写っていた。女性霊視者が解説して日く、「この人は空港より旅立った人を待っている霊です。あなたの撮影した写真に写ったということは、あなたに助けを求めている姿です。そこにお花をあげ、祭って下さい」と教示した。           

人は死んだら、原子肉体を離れた霊魂(光子体)だけになる。悟った霊魂は地上界に執着せず、天上界、つまり四次元のあの世に帰ってゆく。ところが、この世に執着し、心を残した霊魂は自(地)縛霊、浮遊霊となる。勿論、天上界へ帰らないのだから、地獄霊である。このように死んでも、天上の世界に帰ることなく地上界に執着して、この地上界の人々に困った霊的現象(写真に写る)を起す霊と言う意味で、悪い霊、つまり悪霊と言っている。このような自(地)縛霊の行動は制約される。だから執着した辺りにだけいることになる。「四六時中いるかというとそうではなく、心の目で見て(霊視して)も、いたりいなかったりするはずである」と高橋師は教えるが、あの世にはあの世のル−ルがあり、行動は制限される。ところが、あの世の霊は上段階に行けば行く程、行動範囲も広く自由となる。                             

何かの理由でそこに執着し、地縛した霊魂にお花をあげたり、線香や水をあげたり、お経をあげることによって果して自縛霊が執着を解くことになるのか。否である。この世の私達と同じように、ものわかりの悪い人には、何度も何度も繰り返し教えて、やっと理解してもらえるように、わかるまで教えるべきである。もう、この世の人ではないこと、この世に思いを残す事は愚かなこと、今までのすべてを反省して、天上界に帰ることをわかり易く何度も教えることである。勿論、教え諭すこちらの側が調和され、正法にかなった生活を送っている人ほど、その効果は大きいと言える。それは、ある特別の個人の、あるいはグル−プの特権ではない。迷っている人を、助けてあげようとする愛の心を持つ人なら誰でも出来る。「愛の心を持つ人には、その力が強く出るのです」と高橋師は言っている。また、高橋師の著書、講演の中には何百年もの間、自分が死んだことすら自覚しない霊魂も多く登場するが、これら地獄界の足場をくずすには、地上界の我々が、高橋師が説いた「正法」を実践する以外にはないのである。                      

ところが、日本人の永い習慣の中から、交通事故死した現場にお花をあげたり、小さなホコラや地蔵さんを祭っている。大事な人を亡した悲しみはよくわかる。だが、事故死するには事故死する原困があったのである。急激に肉体と霊が分離しなければならなくなるには、そうならなければならない理由があったということである。そのような霊魂は、自分の死をも悟らずこの世に自縛する者も多い。それで、そこにホコラや地蔵が祭られ花がささげられると、そこが自分の住み家と考え自(地)縛するのである。すると、そこを通りかかった同類の通行人にヒョイと憑依して、事故現場で第二、第三の事故が起き死者が出ることになる。それでは、供養とは何かを考えてみよう。             

                                 

     「供養とは何か」                        

                                 

 供養とは、一人一人がオホホ、アハハと明るい調和された正法の生活を通して、地獄霊にその後姿を見せることであり、正しく教え諭すことである。それが地獄の足場をくずし地獄救済につながるわけ。供養とは花をあげたり、お線香をつけたりお経をあげることではない。                               

 ところで、テレビの中で女性霊視者は”珍解説”をされていたわけだが、テレビは茶の間に無断でズカズカと割り込んで来る。もし間違った放送がされると、全国のテレビを見ている人が皆、間違うということになる。これはもう罪悪。この方は、大学の教授達から霊能についての意見が出され、話題にこと欠かぬ人気者であるが、ある人が「宜○愛○さんを救って欲しい」と雑誌に書いていた。霊が見える人には、見えるなりに悩みがあるのだろう。霊能かぶれの人はよくよく考えて欲しい。ウエブ・マスターは、霊能がなくて良かったと心から思う。光の天使ばかり見えるのなら大歓迎だが、暗い霊ばかり見えたらそれこそどうにもならない。園頭師は月刊『正法』誌の中で、「宜○氏は、幽体離脱も家の軒ほどの高さ。だから暗いものばかりが良く見える」と書いた。最高の境地を「宇宙即我」(うちゅうそくわれ)というが、地球がはるか下に見え、宇宙と一体となる境地もあるのだ。       

  

  「霊視の正しい判断の目安」                  

                                 

 光の天使の作用によって現われた霊視か、または、動物霊や地獄霊の作用(憑依)による霊眼であるかが重要な問題になる。上々段階の光の指導霊や如来、菩薩等の特別な使命を持って生まれて来た人や、正しい生活実践で二次的に現われた霊視であればそれで良いが、しかし全んどの人達の霊視は、困りものの方だと言うのである。その霊視が正しいものか、「困った霊」によって引き起されたかどうかの判断の目安を示そう。           

「暗い霊」によるものは、暗いものばかりが良くわかる。例えば事故死、病死、暗殺、毒殺、自殺などの暗い世界のことがよく見える。先づこれが第一点。第二点は、気分がコロコロ変わり、金に汚くなり、優しさ、思い遣り、明るさがなく、冷たい、すぐ怒る、高慢な態度をとる。風呂に入りたがらず不潔である。                         


                                 

   「霊聴とは何か」                      

                                 

 そばに誰も居ないのに、声が聞えて来たり、ささやくのがわかることを言う。そばに音源がないのなら、あの世の霊の語りかけである。それが正しいものかどうかを高橋師は、「あの世の霊が、見えて、聞えて、話せたら信じなさい」と言った。霊聴などの霊現象があらわれても、語りかけてくる霊の姿を見ることができ、霊の話すのが聞え、その霊と話せ、そして過去世の言葉が喋れたら、全てを判断した上で、その霊を信じても良いが、その内の一つでも欠けていたら信じてはならないと教えたのである。                   

例えば、あの世の霊が語りかけて来たことに対して、それに答えて話せても、その霊の姿を見ることが出来なければ、むやみに信じてはならないということである。どうしてかというと、あの世の困りものの霊達は、その人をコントロ−ルするためには、その人の気を引くようなことを語る。たとえば「余は○○菩薩なるぞ」、「私は○○観音です」とか、その人の心に応じた言葉を用意しているものだから。霊視のできる人が、疑問を持って「あなたは、本当に〇○菩薩様ですか」と尋ねたとする。すると「そうじゃ、余は〇○菩薩だ。私は、そなたにこの世の困った人達を救って貰うために、あらわれたのじゃ、祭るがよかろう。そうすれば余は、そなたに巨万の富を用意しよう」などと言ったとする。でも、その霊の姿を見る能力を持っていれば、「なんだ、お前はただのキツネではないか」とか、「なんだ、あなたは、暗い地獄の霊ではないか」と、その霊にも間違いをこんこんと説くこともでき、その上、霊を救うことにもなるのだ。         

高橋師は憑依霊を取るとき、霊に、じゅんじゅんと説教した。これはすべて高橋師の広い慈愛の心からだった。でも、、憑依された人が憑依霊は取ってもらっても、依然として心を変えなかったために、また、次の同じ様な霊と連れ立って、別の講演会場に来る人もいた。神は、人間一人一人に、自主性を与えてある。高橋師のような偉大な方に除霊をしてもらっても、心が変わらなければ、どうにもならないということを、よくよく考えて頂きたい。高橋師は「その原因となるものを、根っこから取り除きなさい、それ以外にないのです。他力ではありません、自力こそ人間の道です。」と教えたのである。                         

ところで、全国いたる所に、お金と引き替えに除霊をする拝み屋さんや霊能者がいる。なかには「私の問題は霊的な障りかも、お払いをして除霊しなきゃ。」とお考えの人も多い。どうしようもない悩みや苦しみは良く分かる。だが、現在の結果(病気、問題など)は、すべて自分でつくり出したもの。自分でつくり出した問題は、自分で解決する以外にはない。原因は自分にあるから、だから自分が苦しむのだ。自分のせいでないのに、自分が苦しむのは割に合わない。それは当然なこと。自分が原因だから自分が苦しむ。これも、また当然なこと。こうして、苦しみから逃れるには、その原因となるものを元から取り去らねばならないのだ。酷な事を言うようだが、原因を元から取っても、すぐには良い結果は出ない。しばらく時間が経ってから必ず良い結果がでるのだ。原因をつくった時間が長ければ長いほど、良い結果が出るには時間がかかる。また、それも当然なこと。この仕組みも、実に良くできている。どうしてかというと、余りにも簡単に良い結果がでれば、心の修業、魂の修業にならないからである。                          

ところが、一定の時間を悩み苦しむと、その時間の長さに応じて、こんなに悩み苦しむのなら、もう二度と悩み苦しみの元は作らないぞと、決意できる良いチャンスとなる。修正のまたとない勉強なのである。たとえば、十年間も、悩み苦しみの元を作っておいて、これは間違いだったと気がついて修正したら、ほんの1、2ヶ月で良い結果が出たとすれば、また同じ原因を作り、堂々めぐりをする人が多く出るに違いない。「ノドもと過ぎれば熱さ忘れ」まさしく、その通りだと思う。苦しみは短く簡単に済ませたいのも人情で、それも良く分かる。でも、この宇宙の法則は、そうなっていない処に驚かされる。我々は、何度も何度も地上界に生まれて人生を繰り返す。悩み苦しみ失敗して、自主的に勉強して行くもの。失敗して気がつくより、最初から気がつくのが良いに決まっている。そこでお迦様であった高橋信次師は、人生の生き方、心のあり方、宇宙の原理原則を「正法」(しょうほう)として、手とり足とりして懇切に教えてくれたのである。これを、「転ばぬ先の杖」という。正法は真理、神理、神様の法則だから、二つとはない唯一のもの。いつか学ばなければならないものなら、早いほうが良いに決まっている。そう思いませんか。                     

サテ、憑依されていた人が、高橋師より憑依霊は取ってもらったが、心を変えなかったために、また次の別の霊に憑依されて講演会に来る人もいたと述べた。この様な例はいくつもテ−プに残っているが、あの世の霊が見えて、聞えて、話せたら信じても良いと、ことある毎に口やかましく言った。そうすれば間違うこともないということ。見る能力を持っているからといっても、相手が青白い光を発していたり、永い時間、その姿を続けることが出きなければ、間違いなく「困りものの霊」である。光の天使のそれは、淡いゴ−ルドカラ−で、納得いくまでその姿を見せてくれるものだと高橋師は言っている。百のうち一つでも疑問があったら信じてはいけない。光の天使のそれは神理そのものだから、疑念をいだくことは有り得ない。これは、正しさ判定の最低の規準だから、とことん疑ってかかるべきである。疑問があったら、最後までとことん追求すべきである。その結果、「困りものの霊」はその内に馬脚をあらわす。正しきものはいつまでも正しい。神から「人類を救え、人のためになれ、神とのとりつぎの役をしろ」等と言われて立ち上がったという人がいたら、その人をよく観察すること。正しく見ることである。上上段階光の指導霊や諸如来、諸菩薩などの使命をもって出て来た人以外は、見えたり聞えたりするのは普通ではない。ほとんどの例が地獄霊、動物霊が見せているもの。見えたり、聞こえたりする人は、そのときどきの心のあり方、生き方、を勇気を持って正すことである。あの世が見えたり聞えたりせずとも、人生を渡ることも可能だし、生活に支障をきたすこともないのである。見えたり聞えたりする人こそ尋常ではないと知ることである。

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  「自動書記、お筆さき」                    

                                 

意識しないのに 手が勝手に動いて記述を始めること。自らの意志によって記述するのではないから、これもあの世の霊の指図によるものである。他の項で述べている、アガシャ−の霊示を伝えた『アガシャ−の霊界通信』の中に、「あの世から何かを訴えようとする者が全て正しいものとは限らない」と言っているが、よくよく「正見」しなければならない。中山みきや出口ナオの「お筆さき」が有名だが、高橋師と東大教授笠原一男氏との対談『現代人と仏教』の中では、高橋師は、中山みきを高い段階の人とは言っていない。出口王仁三郎は菩薩界の人物だが、出口ナオはわからない(手持ちの資料が無い)。高橋信次師の著作である『人間・釈迦』四巻がある。これこそ自動書記によって書かれた釈迦の実録とでも言うべき世界でも希なる書である。ぜひとも読んでいただきたい。     

 


 

私達は、人の心を見ることも、考えていることを押し測ることも普通は出来ない。その意味では、心とは、次元の異った世界に存在するものと考えられる。一方、物質は、何万色かの色彩によって包まれ、物質界を「色」(しき)と考えるもとになった。物質も私達の肉体も色であり、大自然も色といえる。色である物質一グラムをエネルギ−に替えると、一馬力(七四六ワット)のモ−タ−を三千八百年間も廻し続ける膨大なエネルギ−を持っている。このように、物質のエネルギ−は次元を異にして共存し、肉体のエネルギ−である「心」も次元を異にして共存していると言える。無機物質のエネルギ−より、有機物質(肉体)と同居しているエネルギ−(心)の次元は、はるかに高次元のものであり、その能力たるや、無限で、絶対的なものである。仏教でいう「色心不二」ということと何ら変ることはない。宇宙という物質の世界を支配している高次元の意識、心こそ、神そのものということをお解りいただけるだろう。心(意識・想念)は物を創り出し、最近よく言われる「宇宙エネルギ−」こそ、この大宇宙に遍在する神の意識であり、神の心なのである。神の意識である「エネルギー」、神の子(人間)の意識である「心」を説明する上で、まさしく、時流を得た言葉であり、感激にたえない。高橋信次師は、既に三十数年前(昭和四十年)から、言葉こそ違うが、意識こそエネルギ−という「宇宙エネルギ−」の説明は、記述の中で随所に見られ、今更ながら敬嘆の念を禁じ得ない。         

                                 

  「心とは何か」                        

                                 

 それでは心(意識、精神、、魂)とは何か、高橋師の「ことば」から考えて見よう。                             

  <精神活動>                             

  人間の精神活動である、精神、心、意識、魂について、その一つ一つの概念が釈然としません。  いったい想念とはどういうものか。「こころ」とは何をいうのか説明して下さい。                            

  生命を動かしているものは精神です。精神とは文字通り神の精であり、神のエネルギ−です。  人間の生命活動は精神の働きなくして一日として維持することはできません。もちろん、肉体は食物からカロリ−を補給しますが、食本能という精神活動がなければ生物の生存は不可能だということになるでしょう。心とは、その、神の精というエネルギ−をうける受け場であり、器であります。器である以上は、人によって大きい、小さいがあります。心の大小によって、人の役目も決まってきます。それだけに、心は、人間の精神活動の中心に位置し、心こそは、神につながっている基点であり、絆でもあります。心から流れてきた神のエネルギ−は、人の意識を形成します。精神活動がなければ、自分の存在も、人の存在も認識できません。自分がここにいる。人があそこに立っている、という判断は、心によってうけられたエネルギ−の波動を媒体として、自我という意識活動が行われるからです。想念というのは、内部からの意識活動と、五官を通して入ってくる善悪美醜などの波動の混合されたエネルギ−活動です。つまり想念は五官による影響が非常に大きく、人の意識も想念によって非常に左右されることになります。この意味から想念の浄化は意識の浄化につながり、意識の浄化は今世の役目にめざめさせ、果たさせる大きな要素となるわけです。 

つぎに魂ですが、魂と想念の合成されたその全体をいいます。人の意識は表面十%、潜在九十%の比で構成され、人は大抵表面十%の意識活動で生活しています。したがって五官に左右されるのは表面意識のみで生活しているからです。己の魂を向上させるには、まず潜在意識につながることであり、それには、まず想念を浄化すること、つまり、五官に左右されない生活を送ることが大切である、ということになります。                           

  「五体」とは 1眼  2耳 3鼻 4舌 5身         

  「五官」とは 1見る 2聞く 3叱ぐ 4味わう 5触れること 

  「六根」とは「五官」と意志。五官によって得られたものを基にして行動を起す意志を含めて六根という。       

  「煩悩は眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり」(『心行』より)                           

                                 

  「人間の心はエネルギ−そのもの」

 

               

 

物質の世界

 

 

 心の世界

 

                 物質のエネルギ−は現世の時間・空間に左右される

 

                     正しい想念のエネルギ−は現世 の時間・空間を   超越して物質を支配している

 

    

 E=MC2

 

 

 E=∞

 

                                 

 <高橋師の記述から>                      

  「人間は、誰しも、神仏の精、エネルギ−そのものがあればこそ、万物の霊長として、人間それ自身を成立させているわけです。いうなれば意識の中心点です。人間以外の動物、植物、鉱物の場合は、地上世界の調和のための媒体として、生かされています。つまり、人間はそれらによって、エネルギ−の補給をうけています。ところが人間は自ら生きている生命体です。生きている理由、生かされているものとの相違は、一切の事象を認知する能力、大宇宙と己との一体観、これです。動物その他については、その能力を求めても、求められるものではありません。次に神仏の精を受ける受け場、器が、各人の心です。心そのものは、エネルギ−の受け場、慈悲と愛の織りなす光体そのものの場であり、私たちが日常生活において、心に問う、心にきく反省の相手は、意識の中心にあるところの、この心です。九0%の潜在意識が、想念帯や表面意識に強く働きかけている場合は立派な徳性となって表面に出、人びとの範となるのですが、心や潜在意識の弱い場合、あるいはその働きのない場合は、いわゆる迷える魂といわれるようになってきます。心は前述の通り、エネルギ−そのものであり、そのエネルギ−は波動になります。円の中心は心ですから、中心の波動は細かく、円周に近くなるほど荒くなっていきます。」                    


                                 

                                 

   WB01361_2.gif (611 バイト)   「九0%の潜在意識(過去世、守護霊)と天才児の原理」 <高橋師の記述から>                         

                       

 「この層は、心に通ずる世界です。宗教的には守護霊・指導霊の住む世界であり、それは各人に等しく内在する、心のふるさとでもあります。各人の努力、その一念力は、その守護霊をして、他の上段階にある知人、友人の指導霊の応援を求めることが出来ます。守 護霊そのもの力が、かりに弱い場合でも悲観することはないのです。心に問う、きく、ということは、普通は九0%の潜在意識、つまり守護霊にきけ・・・、ということです。潜在意識そのものは、光のエネルギ−です。各人の守護霊は、そうしたエネルギ−の世界に住んでいますから、そのエネルギ−を、創造、自由、智慧にかえることができるのです。光のエネルギ−は、万物を育む力を持っており、また万物の根源であり、同時に、この世にあるものは、あの世にもありますから、その人に必要なものは、守護霊が無限に供給し得ることが可能になってきます。天才児の才能は、九0%の潜在意識の一部が、その子の大脳に働きかけるためにおきるものです。その子の守護霊があの世で学んだことをダイレクト(直接)で教えるために、本人が今世で学んだことのない、大学生でも解けないような高等数学を解くことができたりするのです。

しかし、その天才児が、増長慢となり、俺は偉いというような優越感や、おごる心に支配されますと、守護霊の働きはとまってしまいます。これはなぜかといいますと、たとえば、電気を自由に流すためには、ゴムやベ−クライトでは電気は流れません。銅、アルミといった導体物質でなければなりません。これと同様に、守護霊は光に包まれており、光の電磁的作用でその者に教える(通信する)ので、それを受け入れる導体物質(表面意識)が増長慢という不導体物質のベ−ルに包まれると、光を通さなくなるからです。人間の精神のエネルギ−を受ける心に、慈悲と愛とは正反対の、人を見下す増長慢や怒りの想念があっては、光が通じなくなるのはあたりまえでしょう。天才が一夜にして鈍才に変わるというのも、こうした理由によります。」

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  「天才少年キムはギリシャの天才科学者タ−ルスの生れ変わり」          

                                 

 天才と言われる人は霊道(心の窓)を開いている人であると高橋信次師は言った。幼少の頃、天才といわれた人が、二十歳を過ぎれば、”ただの人”と言われるのはなぜだろう。心に曇りのない時には、守護霊や指導霊の協力を得て天才的な力を発揮できるのが、年齢を重ねるにつれて、次第に心を失っていく。愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望の「心の三毒」や、心の曇りをつくっているために、守護霊も指導霊も指導できなくなり、直感、予感から浮かびあがってくる天才的な力が閉ざされ、凡人となってしまうのだ。高橋師が憑依霊を取り除く時、「私は自分の心をしっかりと正し、うぬぼれや虚栄心が無いか、そして謙虚な自分であるかどうかを確かめると同時に、○○を救って下さいと心に念じた」と著書に講演に、各所に出てくる。自由自在に力を発揮した高橋師ですら、いつも自戒していたのである。天才と言われる人よ心して聞いて欲しい。              

一九七六年(昭和五十一年)三月、小田原講演会での講演の中から高橋師の言葉を聞いてみよう。昇天の三カ月前の講演だった。   

 


                                

 「丁度、四〜五年前、キム少年という朝鮮の子供が、東大の教授が出題した不定積分を、わずか五歳の子供がテレビで解いていました。私達が高等学校でやったものです。大学の一年位で学んだあの不定積分を五歳の子供が解いたのです。それを天才というのでしょうか。そうではありません。彼は永い転生の過程に、過ってギリシャの時代にタ−ルスという偉大な科学者だったのです。その心の窓が開かれていたから、彼はそのような数学を解くことが出来たのです。しかし、あのキム少年が増長慢になった時には「二十過ぎればただの人」になります。彼が謙虚で、「自分ではない、次元の違った天上の世界からの協力を得ているのだ」という感謝の心を持って行為をしたならば、彼は又、より偉大なる力を出すでしょう。

同じように、大人ばかりが道を説くのではありません。小さな子供でも心の窓を開けば大人に説法をするようになるでしょう。そのような人々が既に隣の国の中華民国にも、我々のグル−プが出ております。それは、わずか七歳の子供です。それが大人達の前で道を説いております。不思議でも何んでもありませ ん。こうして我々は、心の窓を開いた時に智性という無限に近い、そのような力を与えられていくものなのです。そのとき、我々は物質とか地位とか名誉とか欲望だけを満たそうとするもの、そのものの愚さを自分自身で納得出来るようになります。そして、人間の心が本当に調和されてくれば、より豊かな文明が発達し調和された社会が築かれてゆくものなのです。それだけに心を失ったところの文明はやがてお互いに環境を破壊してゆくだけなのです。人間の価値感、こそ永遠のものであり、我々はこの偉大なる心を今、盲目の中から探り当てた、その光明を調和と安らぎの中に我々は生活することが大事ではないでしょうか」                    

 


                                 

  WB00969_.GIF (261 バイト) 「想念帯」は全生活記録 WB00969_.GIF (261 バイト)                         

                                 

 「ここは潜在意識と表面意識がまざり合った世界です。ここには、各人の過去世、前世、あの世での生活の記録と、現象界、つまり後天的経験のすべてが記録されており、これを調べる場合は、この想念帯をみると一目瞭然です。それは何年何月何日、Aという人は、どこで、何をしたか。極端にいうなら、その日、一日のその人の全経験、考えたことまでわかります。現在肉体を持っている上々段階・光の天使は、各人の想念帯の記録を一瞬のうちに、読みとることができます。各人が昨夜見た夢まで当てます。つまり、人間は二十四時間、経験と、記録の連続であるのです。年中無休です。エネルギ−に休息はあり得ません。死んでも魂は残りますから、死人の行く先、考え、行動がわかるのです。想念帯とは、過去世の記録と現世の経験の記録集積所でありますから、各人の現象界での運命は、ここで握られていることになります。つまり・・・決まっているのです。それは職業的に、経済的に、地位的に、いろいろな面にわたって決まっています。想念帯が映画のフイルムとすれば、現象界での各人の生活様式は、そのフイルムから投映された映像であるわけです。しかし、各人の運命には上限と下限とがあって、そのあいだを上がったり、下がったりして一生を送ります。上限とはその人の運命の好調度、下限とは、最低時、一番苦しい時期です。しかも、上限、下限と中間のあいだを、いったりきたりして、その一生を終わる場合が多いのです。現在肉体を持っている上々段階・光の天使の光を受け、神理を理解するようになりますと、下限に落ちることはなく、上限にまで、自分の運命が切り開かれてゆきます。                       

いずれにせよ、各人の教養、徳性、ものの見方、考え方、行動というものは、この想念帯に影響されるところがすこぶる大きく、それは、今世での知識、学問を超えたものです。各人の心理状態もその大部分は、想念帯の影響をうけています。笑い、悲しみ、怒り、苦しみなど、人によってその感受性は異なります。同じ冗談でも、ある人には笑いであり、ある人には悲しみになったり、怒りになる場合がしばしば見受けられます。これは、十%の表面意識の作用もありますが、それ以上に、想念帯の振幅に本人自身が動かされているためなのです。

 

  WB01066_.GIF (242 バイト) 「心理学の今後」 WB01066_.GIF (242 バイト)

              

今日の心理学は、この想念帯の振幅の研究といっても過言ではありません。もっとも心理学も進み、深層心理から、超心理学までありますが、これらは、さきほどの九十%の潜在意識の領域に多少入り、予知、予言、透視などのさまざまな研究がなされつつあります。この意味では心理学も相当進んではきましたが、潜在意識層は、次元の異なる世界ですし、あの世の生物(地獄霊、魔王)が徘徊していますから、興味本位、当てもの主義、名誉欲があって研究しますと、動物霊や魔王を呼びこみます。真に科学として己が空となり、人類のために役立たせることにあるならば、その研究は、たしかに実を結ぶことになるでしょう。」

高橋師は、霊的な心理学探究の危険性にも警告を発した。私達はよくよく、気を付けなければならない分野だと思う。真に科学として研究されるなら、実を結ぶことになると高橋師は言ったのである。

 


 

  「一0%表面意識」                     

                                 

 ここは五官の世界です。すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、そして、これから判断の墓点となるところの各人の意、小我があります。 ともかく意識は外見に敏感で、形の世界にとらわれます。そうして、人より偉くなりたり。金が欲しい。美しい人を側におきたい。うまいものを食べたい。楽しいことをしたい。美しい着物を着たい、見せたい、といった意の働きが強く出てきます。人間の苦の原困が、すべて、人間の五官、六根にあるというのも、私たちが、この表面意識の作用に、左右されてしまうところにあります。通常大脳の働きは、表面意識と想念帯が、その主役を演じています。大脳そのものは単なる電子計算機であり、その計算機は、表面意識と想念帯が指令しているわけですが、本当はこの二つの意識は、指令室ではなく指令所は、その奥の潜在意識でなくてはなりません。ところが、想念帯の層は、非常に厚く、堅いために、人はなかなか指令所の指令をうけることが出来ません。これから少しでも脱皮するためには、潜在意識の声をきこうとする反省が必要です。反省は人間の持つ特権であり、人間再確認の、神が、与えた機会であり、慈悲です。ですから、反省こそ、我ら人間の人間たるゆえんであり、精神向上に欠くこのと出来ない、一大要素であるといえます。                        

                              

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   「自己保存、黒い想念」                   

                                 

 五官、六根に、左右されますと、その人は、やがて、病気や怪我、その他さまざまな障害に見舞われます。なぜかといいますと、人間は本来、神の子、仏の子であり、慈悲と愛、調和を目的として、この世に生をうけたのでありますから、これに反するような想念行為は、当然それに応じた反作用を伴うことになるからです。権力は奪うもの式に、やっと手にした権力者は、今度は追われる立場となって、身の安全に、夜もろくろくねむれない日々を送る。金持ちは、その金を失うまいとしてキュウキュウとする。憎まれ者は、絶えず針の山に、その身を座しているようで、四六時中、腰をうかして生活しているのです。つらい話です。世にはばかりながら、自らを裁き、苦しんでいる。これが法則の姿なのです。人は外見ではわかりません。善人に見えて、実は自分の利害だけしか考えない者もあるかと思えば、悪人のようだが、無類の善人もいるのです。口先や、姿形では、人の心はわかりません。大事なことは私たちの一生は、この世だけではないということです。各人にはそれぞれ過去世があって、今世があり、あの世もあります。そして再び、この世に出て、あの世にかえる。こうした繰り返しの中に、各人の一生は連綿として読いているということ。この世で悪を重ねれば、あの世で悪の清算をしなければなりません。しかしこうした事実は、これまであまり明らかにされず、そのために、人びとは、表面意識の五官、六根にとらわれ、生きているうちが華という考えに陥ってしまうのです。しかも、こうした五官、六根に各人の意識、魂が支配されますと、表面意識と想念帯に黒い塊りができ、動物霊や魔王、地獄霊がその人に憑依し、難病や事故死、自殺などをするようになってゆきます。恐ろしいことです。 

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WB01542_.gif (729 バイト)「現象界に肉体を持っている上々段階・光の天使」(高橋師の「心・意識」のマトメ) WB01542_.gif (729 バイト)       

                                 

 人間の地上における目的は、各人の心の調和と、地上の楽園の建設にあります。この目的は、人間自身が神仏の子であるからです。神仏の子である人間が、なぜ動物のようになり下がったか。それは長い地上での生活にふり回された結果です。オギャーとこの世に出た途端、人間はあの世での生活を忘れます。忘れる理由は、前世、過去世のおさらい、償い、そうして、あの世での生活の経験を、どう生かせるかの心の修行があるからです。おぼえていては、その修行の目的は、なかば失われます。人類はすべて他の天体から、この地上に降り立ったのです。当時の人びとは調和がとれ、地上は仏国土・ユ−トピアそのままでした。人々の年令は五百才、千才を保ち、年もとらずに、あの世とこの世を自由に、行ったり、来たりしたものです。その当時は、人間には原罪というものはありません。結婚して子供が出来ても、その子はあの世の生活を知っていました。ところが子孫が子孫を生むようになり、地上の生活になれた人類は、次第にあの世との交通が途絶え、五官、六根にふり回されるようになったのです。つまり罪をつくりはじめた。罪をつくれば、当然、その罪のつぐないをしなければなりません。蒔いた種を刈り取ることは、自然の法則だからです。かくして、人間は、あの世からこの世に、生まれ出るときに、あの世の生活、前世、過去世を忘れるようになったのです。 つまり己自身の修行が目的となったのです。修行とは心の調和、神仏の心に帰る修行です。同時に、仏国土、神の国を再びつくること、この二つの目的、これが人間の使命であり、責任であるわけです。人類にこの二つの目的を自覚させ、果たさせるため、光の天使がこの世に現われたのです。光りの天使は、「宇宙の原理、人間の在り方、慈悲と愛の神理」を説くために・・・。 それは神仏の命によって、イエス・キリストが天なる父の命によって、愛を説かれたように・・・。                     

釈迦の正法は、宇宙の原理、慈悲と愛であります。人間が小宇宙であることの自覚、小宇宙であればこそ、大宇宙と一体となり、一切の事実を認知できるのです。それは心という一点で大宇宙と結ばれているからです。心を通じて、小宇宙と大宇宙は、通い合えるのです。人びとは神仏の子であり、宇宙は神仏そのものであるからです。現象界おける光の天使は、神仏の命によって、各人の心の眼をひらかせる役目を担っています。ところが各人の心は、転生輸廻という長い歴史の過程に、諸々の想念、諸々の罪を重ねてきました。想念帯というカラの中に、各人の心は、埋没してしまったのです。そのために、普通では九0%の潜在意識は特殊な人でなければ開けないといったありさまとなったのです。開けても、動物霊や地獄霊の支配をうけるのがオチです。いわんや守護霊・過去世の声をきくことはまず不可能であります。そういう状況に落ちこんでいるのが現代人です。しかし天使は、光の伝達者であり、各人の心、各人の守護霊をひき出し、想念帯、表面意識に働きかける使命を担っているので、天使の話を一回でも、二回でも、より多く聴聞することによって、想念帯にキレツが生じ、窓がひらかれるのです。各人の意識は、各人の意識であり、その自由、その意思は、神仏が与え各人が所有するものですから、これは神仏といえども、自由にはならないのです。それだけの特権を、人間各自が持っています。従って、各人の守護霊も、想念帯が、これを迎え入れる自覚が出てこない限り、自由にはならないし、表面意識に顔を出すことさえ出きないのです。

霊道そのものは、いろいろな諸事情が加味されて開くものだからです。それは神仏の計らいであり、光の天使の状況判断にかかっています。同時にこれを受け入れる各人の意識そのものにも理由はあります。いずれにしても、神理を悟った天使の話を聴聞することによって、想念帯をおおっていた各人のこれまでの考え方、想念、教養、徳性に変化が起こり既成概念に各種の疑問が湧いてきます。そうして、そうした疑問は、やがて、回を重ねるにしたがって、だんだん、氷解されてゆきます。しかし、疑問そのものは、各人それぞれに異なり、次第に高次元化されてゆく人もあります。疑問の連続、そしてその回答の積み重ねは、やがて、心に通じます。守護霊は、あの世とこの世をみており、各人の生活を四六時中見守っていますから、その人の意識の状態、魂の状態いかんで、いろいろ指導します。そのやり方は各人各様です。一概にはいえません。霊道が開いたということは、天使の光が、その人の意識に入ったことであり、同時に、内からの光が外に出たことを意味します。想念帯に窓が開くその典型が霊道です。霊道のことを普通は霊能といいますが、霊能が開くと、いろいろなことがわかってきます。人の心はもちろんのこと、病気の原困、明日起り得る出来事、離れていても天使と話しができある人のごときは、三時間も、ある映画館で、映画を楽しんだこともあります。これは自分の身は家に居ながらにしてなのです。こういう人ばかりですと、映画館は、干あがってしまいますが、これは守護霊の存在と、その事実をみせるために、やったことで、年がら年中やるわけではありません。霊能はこうした長所を持っていますが、短所もあります。それは表面意識の作用と想念帯の波動で、本人に欲が生じ、威張ったり、おごる気持や、金儲けの手段に使いますと、危険なものとなるからです。

 

                         arrows71.wmf (1686 バイト)   天使の光で想念帯(銀のリング)に窓が開かれると、そのすきに悪霊が入り込む

                心の図.gif (14925 バイト)想念帯(銀のリングの部分)

 

守護霊は光を体とした、慈悲と愛が身上であり、威張ったり、おごる気持とは、本質的に合わないからです。おごる気持は守護霊の働く場を失います。つまり守護霊はその人についてゆけず離れます。ところが、想念帯の一部は開いています。守護霊は、その人から離れる際に、その想念帯の開いた箇所をふさぎますが、そのスキに、動物霊や、魔王が入ってくるのです。天使は、その人にとって霊能を開かせた方がよいとみた場合は、開かせます。しかし、その慈悲と愛が本人に通ぜず、それを悪用されては、せっかくの慈悲はなんの役にも立ちません。動物霊の憑依など緊急の事態にたいして、天使は、二次的、三次的な配慮をしています。長い目で見た場合、そうした過程がその人にとって必要であることがあるのです。それは本人が夢からさめたときに、ハッキリ自覚されます。そして、その憑依作用が、その家庭を破壊するとみられる場合は、ただちに、動物霊、魔王を取り除きます。そうして、想念帯の窓を閉じてしまいます。霊能そのものは、悟りへの一過程にすぎません悟りとはほど遠いものです。それなのに鬼の首でも取ったように、有頂天になりますと、とんだ間違いをしでかし、天使の慈悲を仇で返すようなことになります。

ところで、私たちが天使の光を求めるその動機とはなんでしょうか。また、天使自身が、みなさんに、なんのために、光を与えるのか。私たちの目的は、ひと言でいえば、安心した生活。それは肉体的にも、精神的にもということになりましょう。ところが、正法というものは、こうした現象的利益と、一致するように出来ているのです。正法とは循環の法則であり、慈悲と愛という幸せを与えてくれるものだからです。循環とは、すべてが、めぐってくるということです。心も、肉体も、エネルギ−の集合体です。宇宙も空間もエネルギ−から出来ています。人間の想念行為も、これと同様に、感謝の想いは感謝として、正しき行為は、それに応じた報奨として、本人にかえってくるものです。ですから正法そのものは、現象利益にも通ずるということです。すべてのものは、円運動を描いて循環しています。小は原子から、大は宇宙まで、すべてが、正法に照らして、円運動を描いているわけです。生命というものは、すべて円運動を描きながら動いているのです。人間の生命も、核を中心に、五人の分身が、円運動を描きながら生き読けています。そのひとつが欠けても、生命体として維持されることはできないのです。ですから、人間の生命が、肉体が、円滑に、円運動を描いてゆくためには、各人が、正法に照らして、正法に即した生き方が必要になってくるのです。                              

それだけに、正法に反すれば、病気や、事業不振、さまざまな悩みを抱くようになるのです。現象利益も、正法を理解し、実行するならば、自然に与えられることを教えています。ですから、現象利益、大いに結構なのです。正法に沿った生き方、つまり、慈悲と愛のみ−−−そこまでゆかなくとも、私たちの日常生活のすべてが、正法から外れないような生き方が行じられるようにしたいものです。「心・意識」についての記述が長くなりましたが、それ程に大事なことなのです。終章にもって来て、じっくりとマトメをしたかったことにもよります。                            

                                 

  <チャクラを開く、手かざしと霊動>              

                                 

 「チャクラを開く」という言葉がある。言葉だから、色々な言い方があっても良いが、ここで言う「心の窓を開く・霊道を開く」と同じである。ある「気功」の達人が、人に向って「気」をぶちこんだら、ぶち込まれた人の体調がおかしくなったので、それから止めたと記述した人がいたが、これも「手かざし」と同義語である。先の図をよく見て欲しいのだが、その人に縁のあった天使の光によって想念帯が開かれ潜在意識が外に流れ出し、所謂 、「霊道を開く」、「心の窓を開く」ことになる。これは、正しい「心の窓を開く」ことである。特に注意を促したいのは、想念帯に開けられた穴から動物霊や魔王などの悪霊がはいり込む危険性があるので、よくよく気をつけなければならない。もう少し詳しく述べよう。                           

                                 

  <手かざしは困りもの>                    

                                 

 「手かざし」をやる宗教団体がある。「手かざし」によって、或いは「気をぶち込むこと」によって、相手の想念帯に穴が開き、動物霊や悪霊そこから入り込む。そして、その人の口を通して語ったり、動作で表れて来る。狐の様にピヨンピヨン跳ねたり、蛇行したりする。これを浮霊や霊動と言っている。「手かざし」、「気をぶち込む」等、このようなことばかりをやっていると、その内に、心の中に他人様が同居した状態、つまり、精神分裂症になって、精神は破壊され廃人となる。恐ろしいかぎりである。

かってGLAでも、会員同士が「光を入れる」と称し、高橋師をまねた手かざしで、奇異な現象が起きたことがある。そのために月刊『GLA』誌上で、会員へ警告がなされた。想念帯に穴が開き、潜在意識(過去世)が表面意識へ同通するわけだから、あの世の霊が語りかけて来たとしても、それが過去世の人か動物霊や悪霊なのか、私達には判断できない。でも、見えて聞こえて話せる人が側にいれば、つまり、過去世の言葉が話せて、霊と問答が出来て、霊の姿を見ることが出来れば、語りかけて来た霊の判定がつく。このような理由で、高橋師の判断を仰いで欲しいという通達になったのである。他の項で述べているが、手かざしによりゾクゾクと配下が増えていくヘビの会話を思い出して欲しい。手かざし様の行為がなぜ危険か考えて欲しいのである。

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   「UFOの謎」  TN00018A.gif (1390 バイト)                             

  <科学万能の時代に、なぜ裸の未開人がいるのか>        

                                 

 この科学の発達した時代に、裸の原始生活をしている未開人がいるのはなぜか、高橋信次師は次のように説明した。「この太陽系はアガシャ霊団により指導されており、霊的に一番早いスピ−ドで進歩している」、と。この科学万能の時代に、電気もガスもなく、近代文明の恩恵に浴さない人達がいる。アマゾン、ニュ−ギニア、オ−ストラリア、アフリカ等に、未だに裸の原始生活をしている未開人がいることに疑問を持ったことだろう。こう述べると、「ウエブ・マスターは人種差別、人種蔑視のようなことを言い始めたぞ」と考えるかもしれない。だが、そうではない。正しく知った上で、正しく理解を示すことも彼等の人生修行を暖かく見守ることにもなり、これも愛なのだ。なぜかと言うと、現在の地球の人類の      1/3は、仏教的に言うと「霊界」以上、1/3が幽界、1/3が他の天体から来た人達と高橋師生は言い残した。また、園頭広周師は次のように記述している。「他の天体から転生した人達は、先づ原始生活の中で魂の修行をして順次、転生輪廻していく。まず、ああいう所に生まれて、この地球という環境に慣れ、それから輪廻転生を重ねてゆく間に、いろいろな面で進歩してゆくことになる」と。

世界人類の1/3は他の天体から転生してきた霊魂と高橋師は言い残した。この地球上にはじめて人間が転生して来たのは、数億光年先のベ−タ−星より三億六千五百年前に、UFOで飛来したと高橋師は言っているが、いまも他の天体から転生して来ている人達がいるというのである。他の天体で一定度以上に進化した霊魂は、この太陽系の地球に転生して魂をみがくのだ。他の天体から転生してくる霊魂があるように、この地球である一定度以上に進化した霊魂は、今度は還らぬ霊となって他の天体へ転生していくと高橋師は教えた。 これより、一九七六年(昭和51年)高橋信次講演テ−プより参考にして頂こう。                               

「そして、我々はやがて又、地球を調和し他の天体へ還らなければなりません。その為には、地球自身が調和し、後光が出てこなければならないのです。皆さん一人一人の心の調和が即、その人を調和し、その家庭が調和されれば家から光が出て来ます。又、国の人々が調和されれば、その国から光が出てまいります。天上の世界からすべてわかります。そして地球からすべて調和された時には地球からきれいな後光が出て来ます。その時が初めて、人類が他の天体へ脱出することが出来る環境が整っていくのです。」                              

                                 

   <UFOとは何か>                     

                                 

 以前から、UFOは巷間の話題を呼んで、随分、本も出ている。数年前にアメリカで、日航の貨物機の乗務員が巨大な未確認飛行物体を見たということで新聞でもとりあげられたが、誤認であったらしいという結末だった。テレビの深夜番組では、未確認物体の模型も作って放送していたが、UFOを見たという人が世界中で数多くいる。だのに、「未確認物体」と世間で言われる程に、その実体も明らかになってない。話は少し飛ぶが、お釈迦様であった高橋信次師は、般若心経の中の「空」は「実在界」、あの世のこと、「色」は物質界、この世のことだと明解したが、これとて永い間、説明がつかず混乱したものである。この「空」の解釈については、ウエブ。マスターの調査では三十通りほどの色々な解説がなされ迷解と言えるものもあったが、「UFO」といわれるものは、「実在界の乗り物」つまり、あの世の乗り物であり、他の天体から来る乗り物だと高橋師は明言したのである。この地球上の1/3は,他の天体から転生してきた霊魂達だということを高橋師が明らかにしたように、他の天体から移動して来る時の乗り物であり、又この世で一定度以上に進化した霊魂達は、今度は還らぬとなって、他の天体へ転生して行くときに使う乗り物、或は、あの世の光の天使達が、この地上界を視察する時に利用される、乗り物だというのである。つまり、あの世の乗り物なのである。

サテ、東京の上空を昼間、UFOらしきものが飛来しているのを確認した人も、数多くあると放送していたが、現在、東京は地球的規模で見ても、世界一、二の大都市であり、その担う役割も大きい。その為に、あの世の光の天使団が盛んに飛来しても何んの不思議もないのである。「あの世」と「この世」は連動しているといわれる。盲目の人生を歩く現象界の人達が誤った道を歩かないように、その一拳手、一投足のすべてが観視され、あの世の中心にすべての事象が報告されているらしいのだ。「汝らの髪の毛一本だにすたることなし」とイエスが言われたように、すべてがお見通しなのである。ところで、UFOを見ることの出来る人もいれば、そうでない人もいる。写真に撮る人もいる。その理由は、「あの世のもの」だから、すべての人が見えたり、写したりすることは出来ないのである。見たり、写したりすることの可能な人も、可能でない人がいても何等不思議ではないのだ。これを一般的に霊視、念写と言うが、これが可能な人は、過去世に於て、肉体業で霊道を開いた人がほとんどだと高橋師は言ったが、このような肉体業によって開いた霊道は、悟りとは程遠く、異質のものであることを知らなければならないと、これまでに何度も何度も話した通りである。      

次に同じく講演の中からUFOについての「高橋信次師のことば」を聞いてみよう。一九七六年(昭和五十一年)二月沖縄研修会ビデオより                             

「実在界という天上界の世界から来る、いわば乗り物とそれから他の天体から来る乗り物があります。いわゆる円盤というものは現実にいっぱい来ております。その場合はスピ−ドによっては色彩がちょっと変わります。私は何回も自由に見ております。けれども実在界というあの世の乗り物は、この地上界の自動車と同じようなものです。それからから又、他の天体から来るものはスタイルがちょっと変わっております。ですから、そのようなアメリカでUFOと言われているものは日本では一杯飛んでおります。」                     

次は、一九七六年五月(六月の最後の講演ではない )の講演テ−プの中から                             

「今から三億六千五百有余年前にベ−タ−星という星より、反重力光子宇宙船という、今でいうUFOに乗りまして、現代のエジプト、ナイル渓谷の東部にあるエルカンタラ−と云うところに着地し、第一艇団の約六千人のベ−タ−人が初めて地球上に降り立ったのであります。ベ−タ−星の人間であっても皆さんの肉体とまったくかわりません。風土気候、いっさい地球上とかわりません。」     

                                 

同じく、高橋師の記述より 

                             

 「−−−空飛ぶ円盤も同じであります。多くの衆生に突然変化をおこさないために、機根を整えさせて、いるのであります。実在界の交通機関であります。円盤は他の星からも飛んで来ますが、実在界とは形式が変わっています。このように実在界と現象界は、密接な関係にあることを知るべきであります。−−−」                      

高橋師はUFOはあの世の乗り物であったり、他の天体から来る乗り物と言い残した。UFOをみた人達の話を総合すると、右と思って見ているとス−ッと左へ移動し、後に見えたかと思うと、いつのまにか前にいる、とまったく変幻自在らしいのだ。この世のものとは思えない程に変り身が速いというのである。先に述べた日航貨物機の場合も、アメリカ当局はレ−ダ−にも確認されておらず誤認ということで幕はおりたが、推測すれば、貨物機のクル−達は確かにUFOを霊視したと思う。この話しが、これから十年、二十年過ってからの情報であれば、事情は少し変わっていたかも知ない。現在の常識では仕方のないことだが、最近の子供向けの本を見ていつもビックリする。「霊魂」とか「UFO」とか「不思議もの」とか、ウエブ・マスターの時代とは隔世の感があるが、ラジオの深夜番組では「超心理コ−ナ−」等というのがあり、高校生が随分と聞いているようである。本や放送でとり上げるのは一向に構わないが、責任ある内容にして欲しいと思う。内容次第では、次代を担う人達を誤らせるから、責任は重大だと言うのである。                             

話は少し飛ぶが、子供が

        「僕、幽霊を見たんだ、本当なんだよ。そう、あの階段の所で!」

 親   「変なこと言うんじゃない。幽霊なんかいるもんか」       

  子供 「本当なんだよ、本当だってば」                

 親    「うるさい、向こう行って遊んでろ!」             

というわけで、その内にその子は何んにも喋らなくなってしまった。そして、それから理解してくれる人がいたので、その子は今までの快活な子供にかえったという話しがある。この未確認物体はあの世の乗り物だから、この地上界の器機では確認できない。だからレ−ダ−では確認出来るはずもありません。まだ、現代に於ては、目に見える「色」(物質界)の世界の機器では、あの世「空」の世界のものは確認できないのだ。            

また、高橋師は昭和四十八年(一九七三年)に次の予告をされている。         

                                 

「今から七百八十年後、エジプトのナイル流域は緑豊かな沃地となり、光や磁気を利用した『反重力場の乗り物』(註・今で言うUFO)によって、他の天体へ自由に行く事の出来る大宇宙ステ−ションが、アフリカの大西洋岸にできます。今から一万二千年前のアトランテイス大陸の文明を築いた霊魂達が地上に出生し、現在の科学文明をより以上に発展させ、世の中を指導するようになり、世界はユ−トピアになります。」                          

 

宇宙ー0034.jpg (3784 バイト)

 

  

そして、同じく昭和四十八年夏、長野県熊の湯での自主研修会で高橋師は次のように言う。                               

「私は七八○年後にもう一度、地球上に出ます。それからまた、他の天体にも生まれます。その天体もわかっています。この地球は七○○年位後には調和されるからです。ユ−トピアになるからです。そん時は、今のような公害は一つもなくなります。そして、今の日本は気候が変わります。現在の、アフリカ、南アメリカ、それからインド、この方面は、現在の日本と同じように、春夏秋冬が最も調和された国になります。そして、アフリカの太平洋岸の処に大きな宇宙ステ−ションが出来、他の天体と自由に交通するようになります。そのようになっているユ−トピアに、私達は生まれます。七八○年後です。その途中において、(註・一五○年後)かつてイエス・キリストといわれた方がアメリカに生まれます。シカゴという処へ生まれます。」                             

                                 

   「宇宙エネルギ−」                     

                                 

 フリ−エネルギ−、霊性エネルギ−、意識エネルギ−とも言う。神とは宇宙を支配する大意識そのものである。太陽も人間も素粒子も、すべてこの大意識の経綸のなかで生かされ生きている。「この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は光明という神の意識だけがそこにあった。」、と高橋信次師は『人間・釈迦』に書いたが     これまでにウエブ・マスターは心=意識=エネルギ−と言うことを、高橋師や園頭師の両師から学んで記述した。いよいよ、記述の総仕上である。ノストラダムスが今世記末の大変動を予告して久しいが、この種の本が売れるというのも、世人の心が寂しいからである。変動の予徴を感得するからだろう。この大宇宙のどこにでも偏在する(あまねく存在する)大意識(神の心)は、エネルギ−となって、万生万物をわけへだてなく生かし読ける。これを言い替えれば大宇宙のどこにでも存在する宇宙エネルギ−は、万生万物をわけへだてなく生かし読ける。神(大意識)の子(意識)である人間は、それぞれが、大意識の一部(意識)を占有して生かされ生きて行く。原子は光の粒子で構成され、光の粒子は霊子というものからつくられて神の子(人間)は、自由、創造、意思の中に、ここの声をあげた。神の計画されたものを実現させるために、人間が創造されたのである。神の子の原点は、男女両性の慈悲と愛の中に生ぶ声をあげたのであった。三億六千五百年の地球人類の歴史の中で、真のメシャ・エルランテイであった高橋信次師は、常随の弟子・ガブリエルだった園頭広周師と共に、「正法」という普偏的な神理・法則を明らかにしてくれた。                    

ウエブ・マスターは、それをお手本にして自分流の書き方もした。しかし、何一つとして、自分のものはない。すべて、高橋師や園頭師から学んだものばかりである。自分流の書き方もしたので、両師の真意をそこなう記述もあったと思うが、そこは、これからの人生の中で、一つ一つ修正していく積りである。中には、「ここまで厳しく書かなくても」という批判の声もあるだろうが、正法に触れる前の無知な私と同じように、この世の原理・原則やあの世のことに無知な人に対しての、愛のムチと考えて欲しいのである。他意は全くない。最終項が宇宙エネルギ−だったが、近未来には日本の太平洋岸に新しいエネルギ−がふき出し、日本のエネルギ−問題は非常に調和され、石油産業は衰退するだろうという高橋師の予告が言い残されている。宇宙エネルギーの利用が先か、「新エネルギ−」が先かわからぬが、これからも生きている限り、「正法」の膨大な資料を公開することを約して筆を置きたい。                             

 

 

 

 

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