
9、正法「子供のしつけと教育」−子供の犯罪はなぜこんなに起こるかー
17、人の役割の任期は、長くても十年まで(長はいつまでが妥当か)
18、ナゼ、多数決的判断に偏ってはいけないか(多数決は平均的な中位の判断に過ぎぬ)
20、喘息やアトピーの原因は、家庭の不調和(話合いの出来ぬ家族関係など)

@ クローン人間について 最新の科学はバイオテクノロジーによるクローン動物(クローン・羊など)を生み出した。いずれは人間も・・・というわけだ。健康で肉質や毛皮の良いクローン動物なら人間生活に欠くことが出来ないので誰も異議をはさむ者はいないだろう。だが、これがクーロン人間となれば話は別である。動物も植物も鉱物もそれぞれに意識がある。彼らは、万物の霊長といわれる人間ほどには高等ではないので、余り問題視しなくてもそれは許されるかもしれないが、人間は彼らと同じ次元で論じるわけにはいかない。
サテ、人間は、肉体と意識(心、魂)が不離一体(心身一如、色心不二)となって同居している。肉体(物質)のみとする唯物論(対語は唯心論という)に凝り固まった科学者達には理解しにくいことかもしれないが、人造されたクーロン人間の肉体に、どこの、どの魂が乗るというのだろうか?生育とか成長というのは、肉体に縁のある霊(魂)が肉体に降霊し支配しコントロールしていくから育つのである。魂(霊)の宿らぬ肉体はただの肉塊に過ぎない。細胞分裂により増殖して成長は行われると現代科学は説くが、肺は肺に、胃は胃にと個性ある特徴を持った臓器に完成されて行くのは霊(魂)のコントロールがあるからである。猿は猿に、ライオンはライオンに成長し、猿が成長の過程でライオンに変わることも無いのは個性ある霊の支配下にあるからである。この神秘さは、神の意思の働きを考えずには誰人も説明できる人はこの世にはいないだろう。こうして例え、最高に優秀な人の模造人間をいかに多く造りだしても、それは肉体的特徴が同じ(コピー人間)というだけのことで優秀な人間になるとは限らない。それは、肉体(肉体舟)を操る船頭さんである魂(意識、心)が問題であるというのである。
これはどういうことかと言えば、例えば天才的な科学者がいたとしょう。この天才的な科学者はこの世だけで育まれたかというと決してそうではなく、永い生まれ変わりの中で絶えず研鑚して来た結果である。今世において関心のある研究に対して、過去世でなして来た資産を心の中より直観(感)とか閃きとして思い出し、研究を伸ばしてきた結果に過ぎないのだ。このように、たとえ天才科学者をつくり出そうとして、既存の天才科学者の細胞やDNA、染色体などを利用して肉体遺伝的なクローン人間をつくり出そうとしても、顔や姿形が似ているに過ぎないだけで、それを支配してこの世を渡る船頭さんである魂(意識、心)が立派であるかどうかが問題ということである。肉体のコピーはできても魂のコピーは不可能だからである。クローン人間の研究の初期段階では、高級霊達が協力して研究もスムーズにいくかもしれない。だが、それが当然かのように行われると高級霊達も協力を止め、そのうちには低級霊ばかりの低級クローン人間の集団が世に蔓延(はびこ)るとすれば、その責任は一体誰がとるというのだろうか。立派な教育をすれば人は立派になると世人は言うが、天性といわれるように生まれ変わりの過程でつくりあげて来た天与の真実も考えなければならない。
参考、地球人はこの地球上だけでも、多い人では二十万回も生まれ変わり死に変わりしている。これは二千年に一度生まれ変わり、地球人類が三億六千年として試算したが、人類は宇宙的存在(この宇宙には七種の人間が存在する)だから原始人類から考えれば輪廻転生は天文学的数字になるかもしれない。簡単にこの世に生まれ変わることができるかというと、そうではなく天上界に帰った人のみが地上に生まれ変わることが出来るのだから、地獄界に留まる人はそれだけ地上での人生体験の少ない人となる。つまり、仏教的呼称の如来とか菩薩、或いは、キリスト教的な呼称の上段界光の天使、上上段階光の天使という方達は、限りなく正道を歩いてきた方達で、人生体験の最も多い最高に人格の高い人達である。

A 臓器移植について
壊れた臓器は、医学的にどうにも手だてが無いからという理由で、提供者の臓器で代用しょうという発想である。そして、代用(移植)するからには可能な限り活き(生き)の良い臓器でなければならない。そのためには旧来からの心臓死ではなく、脳死が法制化されることになった。心臓死を待っていては、取り出す臓器の血流が止まって活き(生き)が悪くなるからである。法律は臓器移植を前提とする時、脳死を人の死と認めると言うものだが、勿論、脳死は植物人間の状態で助かる手だてが極端に少ない状態にあるのだから脳死も心臓死も同じと短絡できるかもしれない。それでは最初に、人間の尊厳死は脳死か心臓死かを考えてみよう。
「太陽(中心)の周りを廻(めぐ)る惑星,恒星などの無数の星星(細胞)は太陽の熱、光によって生かされている。」
人間は小宇宙といわれるが、人間も大宇宙の仕組みと同じように、
「心臓(中心)から出た血流によって個々の細胞は生かされている。」
このように、太陽系では太陽(中心)が働きをやめれば太陽系(神の体)も終焉し、心臓(中心)が働きをやめれば肉体(人間の体)死となる。太陽系は例え終焉しても神の大意識は大宇宙に遍在し続け、人間の肉体は亡くなっても人間の意識(魂、心)は永遠である。このように、人間の尊厳死は心臓死が妥当というのである。
「そもそも、脳の働きとは何か」
現代脳科学では、脳でものを考え、脳で記憶するというが、そうではなく肉体と不離一体の魂(意識、心)がものを考え、記憶するのである。脳は魂(意識、心)との接点、通路に過ぎないのである。つまりコンピューターの機械本体が脳であり、ハードディスクやフロッピーディスクなどの記憶媒体が魂(意識、心)と考えたら良い。卑近な例では、全身麻酔の手術下で、患者があんな夢を見たこんな夢を見たという例は枚挙に尽きないが、麻酔により脳の機能は停止しているはずなのに夢を見るのは魂(意識、心)の働きである。そして、感動したり感涙するときに込み上げてくるのは脳の在る頭からではなく、胸の辺りからというのは万人が知るところである。これらの事実は現代の脳科学では説明できない。ものを考え、ものを記憶するものは体の一部に過ぎない脳ではない、ということを示して先を続けたい。
「心身一如、色心不二」
サテ、肉体が病むということは、心(意識、魂)も同じように病んでいるということである(心身一如、色心不二)。病んでいる心を治さないで臓器を機械の部品でも交換するように移植しても、そのうちには移植した健康な臓器も病気になり永くは良好な機能を維持し続けることは不可能である。人はいずれ死ぬ。人間は永遠の生命であり、また、次に生まれ変わってくるのである(普通の人は約二千年後)。永遠の生命にとって最悪なことは、生き方を変えさせないで延命をさせることである。これはその人にとってまさしく罪悪。
魂(意識、心)を汚させることになる。汚くさせるより、心の罪を重ねさせるより、あの世に引き取られる方が魂にとっては何倍も価値があるということも知らねばならない。死は恐いと人は言うが、死は心の重圧から解き放たれ知らず知らずのうちに重ねた悪を清算するということでもある。このような考えに立ってレシピエント(移植を受ける人)は、ドナー(臓器の提供者)への感謝の気持ちを持つことと、心と生き方の修正をすることである。暗い人は明るく、くよくよする人は大きな心で、という具合に実行、実践するのである。
また、ドナーの心の波動までは現代医学では検査できないから、ドナーが余りにも肉体へ固執し執着が強いと、「俺の体の一部を勝手に取るな」と、移植しても良好な状態が長く続くとは限らない。しかし、例え執着の強いドナーの臓器であっても、レシピエントが今までの生き方を反省し心の改革を図ると、レシピエントの全身は光に包まれ、たとえ執着の強いドナーの臓器であっても穏やかで爽やかな雰囲気(波動)に同化され、良好な状態を続けられるものである。人は、何がなんでも長生きをしたい、或いは長生きをさせたいと海外渡航等の高額医療費を工面する。周囲の者の「何とか生きてもらいたい」という切なる願いも尊い「人間愛」には違いないのだが、「何がなんでも延命を」という願いは一歩間違うと執着になる。生存期間は天に任せ安らかな心で生涯を終えさせるということも大事なことである。病気は病人と、病人の周囲の者へ反省の貴重なチャンスを与えるもの。生きることとは、死とはということを考える機会を用意したのである。これから世界の趨勢は脳死を個体死として定着するのだろうが、すべて天命と感得し平安な心で死を迎えるということも人間に課せられた責任と義務である。
子供がどうしてもできない夫婦のために、代理母が子供のできない妻に代わって妊娠、受胎をすることを言う。これには金銭的問題、婦権者の問題等が吹き出しているようだが、人はあの世で夫婦、子供の約束をしてこの世に生まれてくるのである。「あなたと夫婦になりましよう。あなたの子供にしてください。あなたの親になります」という風に約束がある。これを縁というが、代理母と子供を欲しがる男(主人)の間で、あの世での約束がないとすれば、生まれてくる子供の霊(魂)は、主人に縁のある霊か代理母に縁のある子供が産まれる筈である。だが、このようにどちらか説明できないような不確定な場合の判断は、一般的には女性が十月十日の間おなかを痛め無事生まれるようにと大事に育てるので、女性寄りの縁ある子供が生まれると高橋信次師は教えている。ということは代理母に縁ある魂を持った子供が産まれるということである。現代は色々な医学的手段で子供を産めるが、中には子供を持たないというあの世での約束と決意の人達もいるのである。だから、「どうしても子供を」と執着しないで成るがままに天にまかせて心安らかに日々を過ごすことである。そして、経済的余裕があれば交通遺児,戦争遺児などの不幸な子供らに手を差し伸べるのも一つの選択肢である。この狭い国土に一億二千万人、資源も無いのにアジアの金満国日本。現代は高霊格の人々が縁生によって 生まれ集う国、日本。この国の人々が世界に模範を示す良いチャンスである。

平成九年十二月、政府は景気のテコいれのために2兆円の赤字国債を増長させた。それからはもう次から次に増え、三百兆円も手が届くほどだ。借金まみれの経済大国ではある。家庭にあっては、借金は家人がそれぞれ経費を切りつめ、分を知り足ることを知ってジッと我慢の子であるしかない。浪費すればそのしわ寄せはキッと来るのである。
平成十二年六月には五百兆の大台に乗って増えつづけているが、高橋信次師が亡くなる直前の昭和五十一年(1976年)の研修会では次のような予告がある。
「…皆さんはイタリーの経済破綻を知っているでしょう。日本はこのまま行けばイタリー以上の苦境に立たされるでしょう。…日本には食糧危機はありません。…」
健全で、未来のすばらしい日本を残すためには、家長(首相、政府)は家人(国民)に対して「現在の苦労は キッと先で報われる。ジッと我慢を!」、と説得すべきである。命を賭した覚悟の真実の言葉は、岩(世論)をも動かす。家人の言いなりになっていては、この必然的な結果を改善できずに日本沈没に終わろう。
2000年八月に政府はこう発表した。1999年一年間に、わが国の自殺者は三万三千人を越した、40歳以上が75パーセントと。
これは大変なことである。
自殺とは色々な理由から自分の命を自分で絶つことをいう。天命と言われるように、人は神の命を懸命に生きることにあるのだが、自分で自分の命を自己限定したのだから、自殺はそこにどういう理由があろうとも神への冒涜といえる。
自殺者のあの世の世界は一人一人違うが、概して自分の身の置き場もわからないという光を閉ざした暗黒の世界で、突然雷鳴が鳴り渡ったり、得体の知れない物体から突然かきむしられるという全く安らぎの無い世界である(高橋信次師)。
このような、光を閉ざした環境にある自殺した霊人達は誰かに助けを求めようとする。この世とて同じで、その対象者は知り合いや縁者、同類の人々ということである。助けを求められた人が自殺者と同類の心と生き方をしていると、自殺をした方法と同じように何か首を締め付けられているようだとか、何かフッと身投げをしそうになるとか、暗い気分に襲われる。
また、夢にたびたび出てきて不眠症に悩まされるということにもなる。ところが、助けを求められた人が神理・法則を知り爽やかな生き方をしていると、その霊に対して「あなたは、自分で自分の命を絶ったんだよ。もうすでに死んだことを悟り、それまでの生き方の一つ一つを反省して神にわびるのですよ。苦しいからといってこの世の人に助けを求めてはなりません。全部自分で解決をするという自力です。自信を持ってやってごらん」と諭すこともできるのである。
近世では何人も小説家が自殺をした。今さら亡くなった頃の作風を検討するまでもないが、必ず暗いということも分かる筈だ。これと同じように、役者にしても暗い役を演じるときは、役から離れたら気分を明るく転換して、余りにも暗い役に執われないことである。暗い心は暗い霊に通ずる。これまでの話によりお分かりと思うが、助けを求められた人は、彼等と反対の、明るい生活を実践している後ろ姿を見せることである。それが彼等に反省を促す良い供養となる。意味も分からないお経を上げるより、声を出して、或いは心の中で言って聞かせることの方が何倍も価値はある。あの世の霊には時間も空間も関係なく、即、何処へでも通じるのだから。
14、無理心中したからといって、あの世で添えるわけはない を参照してください

E邪馬台国と卑弥呼
平成10年1月、奈良の黒塚古墳から三十二枚の三角縁神獣鏡がゾクゾク出て、邪馬台国の畿内説が勢いづいているようである。
人は生まれ変わり死に変わりして魂が永遠なら、生まれていたその当時を思い出し、「それはこうで、あれはそう」と指摘しはじめたら歴史は大きく塗り変えられてしまうだろう。ところが過去世(生)を思い出せなくしてしまったのは、人間は永い間に愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望などの「心の三大悪」の曇りによって、この能力を閉ざすことになって過去世のことも、あの世のことも分からなくなってしまった、と高橋師は教えている。そこで、その能力を暗く閉ざしてしまった我々のために高橋師の力で、閉ざしてしまった能力を自由自在に開いてみせたのである。その光景はビデオに多く残されている。また、邪馬台国と卑弥呼について高橋信次師は多くを言い残しているので、ここではそれを見てみたい。1975年(昭和五十年)3月、宮崎の研修会では、
「この人は過去世において卑弥呼であったことを思い出しております.奄美大島から来られたこの二人のご婦人は卑弥呼の女官をしていた方達です。東京でデザイナーのG堂さん、映画俳優の中丸氏の夫人の薫さんは、ともに卑弥呼の大臣をしていた人達です。卑弥呼の過去世を思い出したこの人を中心として、この人達が卑弥呼の時代を思い出すと、今までわからなかった日本の歴史がはっきりとします。邪馬台国は有明海を中心にしてありました。」
これは信次師が昇天する一年ほど前の講演の一コマだが、邪馬台国の当時に縁のあった人達が高橋師の力で当時の言葉を思い出し、それぞれが感謝して語る言葉は現代に生きる者にとっては、チンプンカンプンで何を喋っているのかわからない。現代でも、東北のズーズー弁と沖縄の人がまったくの方言で語り合っても完全に理解するのは不可能だろうが、有明海の近郊の人が何度テープを廻しても、何を喋っているのか分からないのが理解できよう。なにしろ千八百年も前のことで、永い時間の隔たりというものをつくづくと考えさせられる一例である。二,三世紀頃、日本にあったといわれる邪馬台国の女王が卑弥呼で、中国の魏志倭人伝に書かれている人物である。魏志倭人伝とは中国の歴史書「三国志」の中で魏の国に関する「魏志」の一部「東夷列伝」という項目だが、「魏志倭人伝」によると当時,倭に大小三十カ国あまりの国を従えていた邪馬台国があって、卑弥呼という女王が国を治めていたという。卑弥呼は大きな宮殿に女性ばかり千人の召使いを使って、よく神のお告げを知り、それによって人々を支配して、中国の「魏」の国に貢ぎ物をおくり、「魏」の皇帝から「倭王」と認められ金印をおくられる。邪馬台国は九州説と大和(奈良)説があり、歴史上の論争の焦点となっていることは周知の通りである。
つづいて高橋師の別の講演から。
「邪馬台国のとき、卑弥呼が過去世を思い出し、二千五百年前の釈迦のインドの時代、大日如来といわれる方の娘であったことを知ったのです。それで卑弥呼は、大日如来を懐かしんで祭っていたのです。その大日如来がのちに日本に生まれ,天照大神(あまてらす・おおみかみ)として祭られることになったのです。釈迦牟尼如来も大日如来も、どちらも法を説く天上界の同じ仲間なのです。中国から日本へとなってくると、どちらも仏像につくられて拝まれるということになりました。護摩を焚くというのは完全にバラモンの教えで、仏教で護摩を焚くことは絶対にしないのです。弘法大師(空海)が中国に勉強に行った時、五台山で,不空三蔵といってインドから中国に帰化した方があります。この方によって密教というものがつくられたのでありますが、密教はバラモンの教えであります。それが日本へきたら、大日如来を祭るということになってわからなくなってきたのです。」
アガシャ系霊団の大指導霊である天照大神(あまてらすおおみかみ)が日本に生まれ正法を説いた。それが日本の古神道(現代の神社神道ではない)である。三千二百年前のモーゼのユダヤ教、二千五百年前の釈迦の仏教、二千年前のイエスのキリスト教、千八百年前の天照大神の古神道は、共に正法を説いた「一つのもの」というのである。
サテ、卑弥呼の過去世を持つ人は誰か。高橋師の初期の団体である「神光会」(後のGLA)の昭和四十年代初期の会誌「ひかり」にもすでに記述されているが、師の長女・高橋佳子氏である。高橋師が昭和五十一年六月に亡くなると、奥様である一栄氏,佳子氏、実弟の興和氏(イエスの時代のパウロ、鎌倉時代の親鸞として生まれたと言われる)等の中心部は、GLAの会員は四十歳、講師は四十五歳までという特異な発令となってエスカレートする。しかも、そのハイライトは「佳子氏は天使長ミカエルの生まれ変わり」ということにあった。ミカエルとして売り出そうと東京のホテルに六十名の報道陣を集め記者会見を企画したが、報道陣から質問攻めに合って二十歳そこそこの佳子氏は泣き出し、もうミカエルとは言いませんということになる。地方で予定されていた「ミカエルは語る」という講演ポスターは、一晩のうちに剥して廻ることに。そこで、園頭広周師は次のように言う。
「高橋先生は立派に佳子さんを教育された。高橋先生が生きていられる間は親孝行の娘さんであった。肝心な点は先生が亡くなられると、特にSF作家の平井和正氏がGLAに来てからすっかり変わってしまった。一栄会長も最初は私と一緒に、佳子さんの暴走、ミカエル宣言(父・信次は私を生むだけに生まれてきた。五年後には、イエスや釈迦以上の私・ミカエル佳子の前に人類は額ずくのであるという宣言)を反省させようとされたが、全身蕁麻疹で緊急入院されてから完全に変わられた。私の聞いた話では佳子さんが暴力を振るうので、お手伝いさんが「佳子先生がお帰りになりました」と告げると全身に蕁麻疹が出るものだから、このままでは医者から死ぬと言われたらしい。この入院は内密にしてあったが、ある人が偶然に知人を見舞いに行ったら入院中の一栄会長にパッタリ出会い「何を探りに来たの」と叱られている。それに、月刊「GLA」はミカエルの「M」をつけて月刊「MLA」として刷り上がっていたものを私の強硬な反対で止めさせたこともある。」、と。
驚くなかれ、高橋佳子氏の著書「真・創世記」は、発売当初から平井氏が書いたともっぱらの評判であったが,十年後、他ならぬ平井和正氏が『SFアドベンチャー』誌上で自分が書いたと発表した。時間が経つと全てが見えてくる。同じく、園頭師は言う。
「二十歳を出たばかりの佳子さんを、魔に憑かれた男がコントロールすることなど朝飯前であったろう。この人の本には犬神とかウルフガイという得体の知れぬのが登場する「幻魔大戦」、「人浪白書」等があるが、あるフリーライターも「冷静には読めない奇書、小説と現実を混同した妄想狂」と書いていたが、この男がGLAに潜入して高橋先生がつくられたGLAをメチャメチャにしてしまった。勿論、佳子さんや取り巻きも、この男と同類であったのだが。」、と。このように見てくると,佳子氏が昭和五十二年に、「これから五年後には全世界の人類は私の前にぬかずくのであると、そして、父・信次は抜け殻である」と信次師を否定し、GLAを支配して講師団よりメシヤとして祭り上げられたことと、卑弥呼が三十カ国もの国を従え、君臨したという発想が同じとは不思議であった。次に、本当にミカエル天使長は佳子氏であるかどうかを考えてみたい。
「ミカエル天使長はいつも男性か」
人は一般的に、男として生まれたり女に生まれて魂の修行をする。どちらを多く修行したかと いう度合いによって「女らしい男性、その反対に男らしい女性」という人がこの世の中にはいるということになる。男女の使命と役割という根本原則により、男らしい男性、女らしい女性というのが理想である。男ばかりの兄弟の中で育った女性、女ばかりの中で育った男性が思春期を過ぎたら途端に直ってしまったということを経験された人も多いと思う。これは後天的なものである。そして、先天的に、男性、女性としての地上界での人生体験による経験の差、割合というものがあるということも知らなければならない。 このように普通の人は男に生まれたり女に生まれて人生を送るが、中には、女の役割と使命を完全に悟り、男性だけに生まれてくる人がいる。釈迦やイエス等がそうである。 また、その反対に、男性の使命と役割を完全に悟り、女性だけに生まれてこの世に出てくる人がある。釈迦のお母さんであるマヤ様、イエスのマリヤさま等である。このように男に生まれたり女に生まれたり、男だけ或いは女だけに生まれてくる人がいて男女の割合は1対1となり均衡が保たれる。ただ現代は、堕胎,避妊、戦争、交通事故等の人為的なものによって人類のバランスも時間的、空間的に崩れ勝ちになると高橋師は教えた。それではミカエルはどう生まれたのか考えてみたい。
講演や著書の中では、ミカエルはアポロ、エリヤ、マルチン・ルター(宗教改革者)として生まれていると高橋師は教えている。彼等は全員男性である。偉大な使命と役割の天使長であるミカエルは、いつの世も男性だけに生まれてくると判断しても余りに早計だろうか。更に付け加えるならば、天使長ほどの方が、そう易々と悪しき人にコントロールされ道を誤ることはないのではと思うのである。今日まで、佳子氏はミカエルの生まれ変わりという間違いが一人歩きして佳子氏の人格までも変えてしまった。これら弊害は計り知れないのである。ここで天使長のミカエルはいつの世も男性だけに生まれると決めつけたが、これから男と女の特性ということで触れてみたい。女性蔑視ではないことをくれぐれも断っておく。
<参考 1> 男っぽい男性夫婦に子供は女ばかり。女性らしい優しい男性夫婦に子供は男の子ばかりということでバランスがとれる。これによって、彼等はそれぞれの子供の後ろ姿を見て魂の修行をするのだろうか。否、親子の約束は天上界でなされるから、これは当て嵌まらないとも言える。男性が「余りにも男っぽい」ものだから、それを修正するために「女の子として出てくれないか」と天上界で約束をしたのだろうか。 男女の区別は受胎の初期には判然としないが、妊娠三ヶ月頃に赤ちゃんを支配する霊(魂)が降霊(天孫降臨)すると、その霊のコントロールにより細胞が配列されて男女に区別されると言うのである。<参考 2> 女性にイタコや霊媒等の交霊者が多いというのも、女性は妊娠・受胎を通して霊との交流が多いという特殊性からである。
●「女性は如来にはなれない」● 昭和四十八年夏、長野県熊の湯での自主研修会での高橋信次師の講話から。 「ところが、執着のない人達は、一切、飾りなどつけません。普通の飾り気のない質素な服装をしています。心にダイヤモンドを持つということ、それが大事なのです。格好で脅かすようなのはね、人間以下の動物のやること。蝶なんかでもね、雌、雄ちがいますよ。光の天使、心を説く人が、そういう格好をしていたらおかしいんです。あれも飾りたい、これも飾りたい、飾りたいという執着を持っているのはホンモノではないんです。如来というのは上上段階光の大指導霊、なんにも飾っていませんよ。質素です。だから女はね、上上段階の大指導霊にはなれないんです。化粧はする。イヤリングはつける、ネックレスはつける。まあ仏教的に言うと菩薩くらいのところまで。でも、地球上で菩薩というと、偉いですよ。大変な、大変な、永い、永い輪廻転生の体験を経なければなりません。」、と。 女性の役割は妻となり母となって、夫を生かし子供を産み育てることにある。子供を産み育てるためには安心して子供を産める場所、育てる場所がほしいと考える。そのために、急激に環境が変わることに不安を持つところから、女性の考えは、どうしても保守的に狭く小さくなりやすい。男性とは、このような理由によって先天的に心の広さ、ものの考え方が違っている。 そこで「女性はせいぜい菩薩界まで」と高橋師は教えたのである。こう言うといかにも女性蔑視に聞こえるかもしれぬが、人は普通、男に生まれたり女に生まれて魂の勉強をするということを聞けばそれも氷解しよう。いま男に生まれているひとも、ヒョツトしたら来世は女性かも知れないのだから。また、男性でありながら女性になり切ったように振る舞う人もいるが、今世は男性の使命と役割を自ら放棄してしまったのだから、反省のために来世もまた男性として生を得るかもしれない。その逆もまた同じである。 「邪馬台国は佐賀の吉野ケ里か」 高橋師は、邪馬台国は有明海を中心にあったと言い残したが、園頭広周師は平成五年に邪馬台国は吉野ケ里だったと発表した。福岡市の近郊に糸島半島がある。ここは遺跡の宝庫で、吉野ケ里からそんなに遠くはない平原遺跡から、日本で最大の銅鏡(約五十センチ)等四十枚が郷土史家により掘り当てられている。先の三角縁神獣鏡は出ていなものの、こここそ卑弥呼のお墓(古墳)ではないかと推測したい。平原遺跡の近くには四百メートルほどの山(高祖山・たかすやま)があって、近くには日向(ひなた、ひむか)峠とか神崎(かんざき)郡という地名はまさに、「神、太陽、或いは卑弥呼、日の子)に向かって」とか「神の先」であろうか。また、数十キロ半径には「女山(じょやま、ぞやま)という名の山が二つもある。そして、そのハイライトは近くの、千メートルの天山(てんざん、天の山)であろうか。推測すればこうだ。卑弥呼は季節ごとに居所(霊山)を代え,神託・神のお告げを持って政(まつりごと)の中心である吉野ケ里に伝えたのではないか。(平成11年三月、祭壇とも思える遺跡が発掘されたと新聞は報じた)そして、「魏志倭人伝」の言う通りに歩を進めると、どうしても畿内説の有力な根拠になるようだが、千八百年前には、その後の雲仙や島原の火山噴火によって、現在の地形とは異なっていたと考えられないだろうか。また、同じく「魏志倭人伝」によると「男子は年齢にかかわらず、みんな顔や体に入れ墨を入れている」とあるが、平成八年二月、糸島半島の前原市から、一世紀前後の人の顔の入れ墨模様を刻んだ板(人物線刻板)が、国内で初めて見つかっているのも興味深い。 「最初の講演で出てきた二人の卑弥呼の女官は誰か」 一人は東京でデザイナーのG世○子氏である。女性の幹部で、時折ビデオの中では、演壇の師に水差しを持って出てくるのが見受けられるが、高橋師が亡くなる直前、三月の和歌山県 白浜温泉の研修会では、師に造反しているのが伺える。同じく園頭師はその辺の事情を激白する。 「この時は重大な意味を持つ研修会で、二十日の夕方、講師の田○利○氏と高橋先生の実弟の興和氏が秘密の話があるので自分達の部屋へ来て欲しいというので出向くと、「高橋信次先生はニセモノである。釈迦の生まれ変わりでも何でもない、研修会が終わったら私達はGLAを辞めます。先生もどうですか」と勧めた。二十二日の朝、私の部屋に高橋先生が入って来られ、「昨夜、パピアス・マラーが出てきて私の心臓に矢を射た。まだ少し痛い。」と言われた。(註・高橋師の光子体の心臓へ矢を射たということ。あの世の霊だから本物の矢を射ることはできない。)そして、食事が済んで入れ替わりに興和氏が部屋に来て私に「GLAをやめます。先生もどうですか」と再び誘った。人の心の隙に乗じて魔が混乱させているということには気がついていたので、黙ってそれには答えなかったが、これは大変なことになってきた、サタンは身内から造反させて来きたぞと思った。それから、その日の講演は中止になって、講師、助手に注意事項が伝達されることになったが最後まで抵抗して集まらなかったのが銀座のデザイナーのG堂女史だった。全員が集まったところで聴講生は後ろに下げられビデオにあるように幹部、講師に言葉を下さった。」、と。
それでは、その光景をビデオより再現したい。当時のビデオテープはVHSとかベーターではなく、年配の方ならご記憶にあると思うが、幅広のアルマイト製の弁当箱のような形をしたUマチックというビデオテープである。当初GLAから頒布されたテープには園頭師等多くの幹部に声をかける場面が録画されていたが、その内には講師の二人だけで他は全部カットされている。その中の一人の例を挙げる。三楽荘大広間には、舞台の上に演台が設けられ、前列には講師と助手団、後ろに研修会参加者。高橋師は講師団の中にマイクを持って分け入り言葉を掛ける。「おーブッダー」と手を差し伸べ、すがらんばかりにひれ伏す者。場内はすすり泣きと,鳴咽。高橋師はマイクを片手に持ち、別手のタオルでしきりに涙を拭く。高橋師の著書を出している三宝出版社の当時の社長・堀田和成氏の前に古代語(異語)を語り掛けて進み、ひれ伏す氏の背中を手でさすりながら日本語で「あなたは私の書いたものを全て世に問うてくれました。今ここに改めて礼を言います。出されたものは今後、世界各国の…」そして、古代語でまた問い掛ける。すると堀田氏はすがらんばかりに手を前に差し伸ばし古代語で答えながら泣き伏す。師と堀田氏のやり取りの場面の中でも,興和氏の姿が何度か見え隠れする。師は最後の堀田氏の番を終えタオルで涙を拭くと、「私達は天上界から使命を持って出てきた霊団だということを自覚して…・・これからも私は次々と約束を果たしていきます。…・皆さんどうもこんなことに成ってしまって申し訳ありません」、と。
そして、もう一人の女官という人は明治天皇の落胤といわれる堀川辰吉郎氏を父に持ち、独自の国際外交を続けている国際政治評論家の中丸薫氏である。氏の近著(1997・4月初版、文芸社)には、アラブ首長国連邦オマーンでの出来事と高橋師のことも書かれている。

F強制猥褻(わいせつ)と性暴力
大学体育クラブの集団婦女暴行事件から、各報道機関は一斉にセクシアル・ハラスメント、レイプ等の性暴力の特集を組んでいる。挙(こぞ)って書き立てるのは注意を促すためにも意義のあることだが、それは必ずしも被害者の心を安らかにすることにはならないのではないかと思う。ここでは、性を「正法」ではどう説くか考えたい。 開口一番、「それはアナタが無知で無防備だったから」という一言で片付けてしまえば、開きかけていた心も再び硬く閉ざさせてしまうことになる。それではというので、苦しい心の内を全部吐き出させて話を聞いてあげればどうか、それも一時の処方箋かも知れないが何かスッキリしない。それほどに難しい問題かも知れないが、高橋、園頭両師の説かれる正法ならどう解答するだろうか。 「男女の性神理」 @尊敬し愛している者同士が一緒に食事をするのは、尊敬し愛するあまり相手と一体になり相手と同化したいという心の現われである。嫌いな相手とは一と時も一緒には過ごせないものだ。 A夫婦の性生活は、お互いが愛を確認しあい愛を向上するための行事であり、神が陰陽に分かれ再び陰陽が結合するというこの性行為は,大宇宙の天地創造の原理が、小宇宙である人間においても実現する神聖な行事である。 B男性が妻以外の女性との性行為に後ろめたい罪悪感が付きまとうのは、それは相手が、単に性欲を満足させるためだけの相手であり、お互いに愛を確認し合い、魂を向上し合うための相手ではなかったからである。浮気な男性も女性も、どんな相手と接しても、心の満足の得られなかった、霊の満足の得られなかった哀れな人達で、享楽の対象にするから罪悪感が伴うのである。 Cアメリカやソ連に同性愛が多いのは女が強すぎるからである。 「性の四要素」 (園頭師の分類)
@ 目的、 性の結合を行う目的は何か。それが単なる性欲の満足のためなのか、夫婦愛を完成し互いに愛情を確かめ合うためなのか。 A 人、 その人は正しい相手であるか。 B 時、 為すべき時が大事である。人が働いている昼間から行うことは正しいかどうか。 C 場所、 行為には場所が必要だが、為すべき場所であるかどうか。 単に欲望を満足させるために、為すべきでない相手と、為すべきでない時に、為すべきでない場所で、行為をするのは「悪」となる。
「人間の性と、動物の性」
動物の性欲は、種族保存と種族繁栄のために性本能として発情期を与えられている。 それが時には、メスを求めてオス達の熾烈(しれつ)な争いを展開することにもなる。平成十年の干支(えと)の虎は、一週間ほどの記録撮影中に雪の中で百回以上も行為を続けたと自然学者は書いていたが、動物は時期でない時には行為をしないものだ。これは性欲を自ら諌(いさ)めるということではなく、オスを誘う催淫物質も影をひそめ、自然の摂理のままに時期を終え、それからは新しい生命の躍動(誕生)に向けて備えるのである。
一方、自由と創造を兼ね備えた万物の霊長である人間は、種族保存のみならず互いに愛を確かめ合うために、性欲を自由に委(ゆだ)ねられている。ここで大事なことは、自由には「責任」と「自主規制」、または「理性」」という車の両輪があるということである。ここが本能のままに生きる動物と人間の根本的な相違点である。求婚をする発情期の動物達は、きれいな羽根を広げて見せたり、奇声を上げたり等の、特異な行動でアピールするが、人間の男達はどうだろうか。
「アァ、この男性なるもの」この女性を射止めようと思えば、サメザメと偽の涙も流す。 この女性を射止めようと思えば、平気でウソをつく。 この女性を射止めようと思えば、結婚話もチラつかせる。 この女性を射止めようと思えば、気前よく振る舞う。 この女性を射止めようと思えば、母性本能をくすぐる仕種(しぐさ)をする。 この女性を射止めようと思えば、身のほど知らずの物をプレゼントしたがる。 この女性を射止めようと思えば、借金も厭(いと)わずブランドで身を飾る。 この女性を射止めようと思えば、必要以上に快活に面白く喋りまくる。 この女性を射止めようと思えば、実現しそうもない夢を語り続ける、等がある
「性暴力と蓮華女比丘尼(ウッパラヴァンナー)」
古代インドのお釈迦さまの時代、ウッパラヴァンナー(蓮華女比丘尼)という蓮の花のように清廉で美しい女性がいた。この数奇な運命の蓮華女は、結婚をして実家で女の子を産んだ。 ところが、実家へ帰っている時に夫が人の目を盗み実家の母と情を交わしているのを知ってからは、誰にも言えずふさぎ込む日々が続いた。そして、この子が八歳になって一通りの身の回りができるようになったら家を出ようと心ひそかに決心するのだった。月日が経ち、一人家を出て飢えと疲れで川のほとりにうずくまっていると、そこを通りかかった大商人が哀れんで声を掛けた。彼は妻を亡くしたばかりで、気立てのよい蓮華女に求婚をする。それから八年がたった。大商人はある町へ商売の貸し金を取りたてに出かけることになるが、金も取れぬ長い逗留の間に美しい少女と出会い、父親に何がしかの金を渡して二号夫人ということにした。別宅を構えさせて夜も帰らぬ日が続くので蓮華女はそれを突き止める。残してきた我が子もこれ位の齢になったろうかと湯浴(ゆあ)みをさせ髪を梳(と)いてやっていると、何か見覚えがある。よくよく話を聞いてみれば残してきた不憫な我が子であった。
「前の夫は自分の母と通じ、今の夫は自分の娘と通じている」、愛欲の因縁の恐ろしさに家を出て、矢も楯もたまらず釈迦のもとへ急ぐのだった。愛欲の因縁ほど恐ろしいものはない。あってはならないことだが、そのあってはならないことがあるのも、また、人生である。母と子、父と娘、兄と妹、教師と生徒というように、愛欲の虜になると常識も世間も全く見えなくなってしまう。さらに惨めなのは、その間に生まれた子供達の運命である。錯綜した愛欲のしがらみから抜け出すために蓮華女は家を出る道を選んだ。釈迦はその時、出来たばかりの竹林精舎で説法をされていた。その姿は清らかで神々(こうごう)しく、顔は澄み切っておられた。蓮華女はひれ伏して、そのみ足に頭をつけて礼拝した。キリストの時代、売春婦のマグダラのマリアは、キリストの足の埃を払おうとして周りの者に咎(とが)められるが、「汝等の中で罪を一度も犯さない者のみ石を持て」と諭される。足は道を歩むもの、足を潅(そそ)いだり顔をつけるということはその道を歩む誓いのしるしである。蓮華女を認められた釈迦は、愛欲から生ずる悩み、愛欲を超越することの喜び、戒を守ることの大切さと解脱について話を進められた。 次に、園頭広周師は言われる。「夫婦が互いにその愛を確認し合いながらも、どこといって相手を不足に思うわけでもないのにナゼ倦怠感に襲われるのであろうか。それはそこに魂の拡大の喜び、魂の高まりの喜びが感じられないからである。この魂の高まり、魂の拡大の喜びは「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」となって結実するが、不倫の愛欲がいけないとされるのは、それが正しい人間関係でないのと、不倫な愛欲の上では社会愛も、国家愛も、人類愛も築かれていかず、宇宙と一体であることの喜びなど到底体験することは出来ないからである。そして、愛欲の悩みから抜け出るには、その原因である愛欲の状態から飛び出すことである。蓮華女のその方法は家を出るということであったが、特に現代にあっては夫婦が調和するように最大の努力をすることも選択肢の一つである。」、と。 愛欲を超越するためには、愛欲には次の二つがあることを知らなければならない。1.肉体を中心とした、肉欲に伴う愛
2.肉体を離れた魂の愛
この二つの愛の葛藤をキリスト教では「霊と肉との争い」といっている。夫婦の正しい愛欲は許されるが、ともすればこの愛欲は人の心を小さくしてしまう。愛欲は独占欲をつくりだし世界は二人を中心として廻っていると錯覚しがちになる。愛は二つの心が一つになろうとするところに起こる感情であるが、二人が一人となって、そこに一体となった愛の喜びを感じることが出来たとしても、愛がそこにとどまっている限り愛はいずれ苦痛になる。なぜならば、魂は肉体からの飛躍を求め、愛は二人の愛を超えて社会愛へ、国家愛へ、そして人類愛へと突き進まねばならない欲求を持っているからである。我々は夫婦の愛欲を完成させたら、その愛欲完成の基盤を超越して、家庭の小さい枠の中から飛び出して社会を見渡し、神が示された広大な愛を認めて、その愛を実現してゆくことの中に、人生の生き甲斐、魂の喜びを求めていかなければならないのである。
釈迦の説法を聞いているうちに蓮華女は、自分の肉体にとらわれてはならぬ自分の魂を発見し昇華していくのであった。
蓮華女は出家を許され、心の修行にはげんで尼僧の中で第一人者となってゆく。祇園精舎から少し離れたところに小さな森があった。少し淋しいところだが、瞑想するには最適な所であったので、そこに小さな庵をつくって住んだ。ところが、蓮華女には母方のいとこになる青年がいて、彼女が出家をする前から心ひそかに想いを寄せ機会をねらっていた。托鉢に出たすきに、薄暗い庵の中に身を隠し蓮華女の帰りを今は遅しと待っていた。 そして、襲いかかった。 「そのようなことは身の破滅です。馬鹿なことはよしなさい」、と叫んで抵抗はしても男の力に及ぶはずもなかった。それから一人、こんな淋しい所に独りで住んでいたこともいけなかったのではと反省するのであった。そのうちには噂が噂を呼び、釈迦の耳にも入ってしまった。釈迦はその時に言われた。
「愚かな者たちは、その悪の報いが来ない間は幸せだと喜んでいる。だが、いよいよ悪の報いが来ると神も仏もないのかと苦しむことになる。」 蓮華女が自分でことの仔細を告白すると、釈迦は次のように尋ねられた。 「その時に、どのように感じたか」 「焼けた鉄で身を焼かれたようでございました」 「それでは戒律を犯したことにはならぬ」 「ただひとりで住んでいたことも罪にならないのでしょうか」 「アラハンの境地にある者ならば罪にならない」 この蓮華女が犯されたという事件は「宗教と道徳」との違いを考えさせられる。自分から肉欲を欲したわけでもなく、また、そのことによって快感を感じなかったのなら、「それは罪にならない」、と心の問題を釈迦は説かれたのである。そして、それより後、尼僧達が安心して修行できるように、町の中に尼僧院がつくられた。『仏陀をめぐる女性たち』園頭広周著 正法出版社を参照ください。
「強姦によって犯された人は罪悪感を持ってはならない」
自分から望んでもいないのに不可抗力によって強姦された人を見て、これまではその人を汚れた者のように見る風潮があった。だが、その人も「自分は犯された」と罪悪感を持ってもいけないし、周りの者も罪悪視してはならないのである。一昔前には、強姦された人の中には、「もう私の人生はメチャメチャだ、幸せにはなれない」と自殺をする人や独身を通した人もいたと聞くが、まことに残念なことであった。
「性暴力により苦しみ悩む人へ」
心の法則には、「悪い原因があれば必ず悪い結果となり(悪因悪果)、善い原因があれば必ず善い結果となる(善因善果)」という「原因と結果の法則」がある。これを仏教では「因縁」といった。因縁という意味は、因(もと)があったからその縁によって、因に応じた結果が生ずるということである。そうなると、「今まで私はそんなに悪いことはしていません。どうして私だけがこんな目に合うのでしょうか」という不満の声が聞こえてきそうだが、人間はこの世限りという世風に凝り固まった人達には、これに明確な解答を用意することは出来ない。魂(生命)は永遠という生命倫理観に立てば解説できるのだ。アメリカの偉大な霊能者エドガー・ケーシーは「転生の秘密」の中で、今世の運命は前世と関連があるということを教えてくれる。ケーシーはこの「因縁」をブーメランに例えた。ブーメランを投げると自分の所へ帰ってくる。即ち、自分がした通りに返る世界、した通りにされる世界だというのである。 例えば、三十六歳で小児麻痺にかかった婦人があった。それは古代ローマ時代、ネロ皇帝と手を結んでクリスチャンを迫害し、闘技場でびっこになった者をあざ笑っていた。そのことが自分の身に返ってきたのだという。また、「てんかん」になった人があった。この人は前世で性的に放縦自堕落な一生を送ったために,今生ではその反動として結婚できない状態に生まれることによって、前世のカルマ(業・ごお・心の傾向性)を帳消しにしなければならないことになった、と言うのである。

G 正法と「性学」 この世には陰と陽、寒と暖、優と劣、左と右、凹と凸、上と下、遅と速、天と地、男と女、オシベとメシベ、雄と雌というような二体理論(対理論)と、
電気の性質の「陽性、中性、陰性」や、原子の「陰外電子,中性子、陽電子」や、「太陽、月、地球」との関係や、地上の「気圏、水圏、岩圏」や、「海、陸、空」や、「晴,曇、雨」や、「酸性、中性、塩基性」や、「固体、液体、気体」というような「三体理論」がある。
人間は、男女というバランスのとれた「対(つい)理論」の原点である。
三体理論の「三」は、三角関係等というように、安定しない関係である。例えば、「固体、液体、気体」を例にとると、液体を冷やすと固体に、液体を暖めると気体へ「相」を変えるように不安定極まりない。また、地上の「気圏、水圏、岩圏」にしてもそうである。ヒマラヤの八千メートルもの山上に貝の化石が出るというのも、かって、海底だった証拠であり、地球を卵に見立てると、地表は卵の殻の部分に相当するほどに薄い不安定な部分である。
<参考> 高橋信次師によると、この地球では今までに七度の大規模な天変地異が起っており、最近では一万年ほど前の、ムー、アトランティス大陸の陥没であったという。このために、遺跡発掘により歴史の足がかりを調べようとしても、それ以前のオーパーツ(遺物)群は海底や地底に埋もれていて、遺跡発掘の限界ではないだろうか。そして、現代の科学が説明するところによると、火山爆発や地震は、マグマが噴き出したりプレートの隆起や移動が原因と言うが、そうではなく人類の暗い想念が大地を加圧して引き起こすと高橋信次師は教えるのである。
「身体の対理論」
人間の体は対理論の最たるもので、目や耳や手や足は誰が考えても二つである。食物を食べる口は一つだが、排泄物の出口である肛門と対である。それでは鼻はどうか。見た目には一つだが鼻穴は左右に二つある。
どれをとっても無駄はなく、どちらかの一方が無くなっても、残った方で曲がりなりにも機能を果たせるように作られている。左右対称の一体完結型である。それでは性器はどうだろうか。
性器こそは、対理論の除外例である。五体はそれぞれ対でバランスがとれているが、性器はそうではない。
「性器は聖器」
男の性器は外に出っ張った形につくられている。女性のそれは内蔵された形につくられている。対理論ではない絶対一の外に出た男性器と、絶対一の内なる女性器が求め合い一つになる時に、絶対一は対理論として完結されバランスがとれる。これは天地創造の神の心の顕(あら)われである陰陽の調和であるが、光と光の融合、神の完全なる姿がそこにある
「古事記に見る天地・陰陽の創造の原理」
七一二年に太安麻呂らが作った「古事記」がある。
「ここに天神、諸の命もちて、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神に、このただよえる国を修理め固め成せとのりたまいて、天沼矛を賜いて、言依さしたまいき。故れ二柱の神、天浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして書きたまえば、塩こおろこおろに書き鳴して、引き上げたもう時に、その矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて嶋と成る。これお能碁呂嶋なり」
「アメのミナカヌシの神、つまり大宇宙大神霊は、陽の生命力であるイザナギのミコトと陰の生命力であるイザナミのミコトの二人に「この漂っている混沌とした世界を、秩序正しく創造組成せよ」と命ぜられ、天地宇宙を貫き通す原理、大理念、つまり、大意識である「アメのヌボコ」を授けられた。その「アメのヌボコ」で宇宙をかき廻して引き上げたら、そのしずくがオノコロ島(無数の星星)になったと説明する。これは極小の原子から極大の太陽系にいたるまで、全て陰と陽の組み合わせで成り立っていると、古事記は実に壮大な宇宙観を示しているのである。」
「古事記、日本書紀に見る夫婦性生活の原理」
「その嶋に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまいき。
ここに、その妹伊邪那美命に、「汝が身は如何に成れる」と問いたまえば、「吾が身は成り成りて、成り合わざる処一処あり」と答えたまいき。ここに伊邪那岐命詔りたまわく、「我が身に成り成りて、成り余れる処一処あり。故れこの吾が身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合わざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さんとおもうは奈何に」とのりたまえば「然善けん」と答えたまいき。」
大宇宙で、男神「イザナギのミコト」が愛する女神「イザナミのミコト」に「あなたの体はどうなっていますか」尋ねられた。するとイザナミは「成り合わない処がひと処あります」と答えられた。そこで男の神様であるイザナギが「私の体もはみ出して余った処ができました。そこで、私の成り余った処を、あなたの成り合わない処に入れ塞いで、国土や万生万物をつくろうと思いますがどうですか」「それは結構ですネ」ということになった。
「成り余れる処を,成り合わざる処に刺し塞(ふた)ぎ・・」、これが性の結合である。性の結合は神の生命が陰と陽に分かれ、また、元の一つに帰ろうとする神の意思であり、神の創造原理の人間的表現として、いかがわしい動物的行為と見ないで、神聖なものとして扱わなければならないのである。
また、七二〇年に舎人親王らが作った「日本書紀・一書一」には、どう書かれているか見てみたい。
「陽神、陰神に問いてのたまわく、汝が身に何の成れるところかある。対えてのたまわく、吾が身に具成りて、陰の元というもの一処あり。陽神のたまわく、吾が身にもまた具成りて陽の元というもの一処あり。吾が身の陽の元のところを以て、汝が身の陰の元のところに合わせんと思欲うと、しかいう。」
こうして、その天の御柱をめぐって夫婦の交わりをするが、そこには性の素朴さを美しく格調高く語られているのである。
「古事記に見る遠心力と求心力、左進右退の原理」
「ここに伊邪那岐命、「 然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢いて、美斗能麻具波比せな」と詔 りたまいき。かく期りて、すなわち「汝は右より廻り逢え、我は左より廻り逢わん」と詔りたまい、約 りおえて廻る時、伊邪那美命、先ず、「あなにやし、え、おとこを」、といい、後に伊邪那岐命、「あなにやし、え、おとめを」といい、各言いおえて後、その妹に、女人先に言えるは良からずと告りたまいき。然れども久美度に興して生める子は水蛭子 。この子は葦船に入れて流し去りき。次に淡島を生みき。是も亦、子の例には入れざりき」
イザナミのミコト(女の神様)求心力――中心に向かって引き付ける力。
イザナギのミコト(男の神様)遠心力――外へ外へと働く力。
男女は神の前において平等であるが、その働き、役割は違うということである。その役割の最大の違いは子供を生めるかどうかということは誰でもわかる。男は遠心力(陽)であり、外へ外へと飛び出した男を、女の求心力で内へ家へと引き付けるのが女の天分である。安心、安らぎの「安」は「家」の中に「女」と書くように、求心力(陰)の妻が家にいるとき、夫も子供も心が安らぐ。
ところが、男女平等、男女同権、雇用均等の掛け声とともに女が家を飛び出して家庭を疎かにすると、家庭に歪みが生じてくるのは、これが神理に反しているからである。
「吾は左より廻り逢はむ」これが陽つまり男の行動原理であり、「汝は右より廻り逢へ」が陰即ち女の行動原理である。日本書紀一書一には、最初に男神が右から廻り女神が左から廻るが、次に改めて男神左から、女神が右からまわっている。わが国では明治に西欧思想が入るまで、左が尊しとされてきた。左大臣、右大臣でもそうだし、雛祭りでも男雛を左におく。しかし、一般論でも時計の針は左から右へ動き、ネジも左から右へ締める。柏手でを打つときも、左手が先に出て右手が一歩退いて手を打つ。弓を射るときも銃を撃つときもそうだし、歩くときも左足を先に出す。舞台も、左から出てきて右に退く。マクロでは、地球も左から右へ自転しながら、太陽の廻りを左から右へと公転している。ミクロでは陽の原子核の廻りを陰電子が廻転するのも左から右である。枚挙に尽きないが、これが自然の法則であり、陽主陰従、夫唱婦随の原理である。 こうして、女の神様が先に「あなにやし愛、男を」、つまり、「なんと、よい男よ」と言われ、その後に遅れて「なんと、うるわしき女よ」と男神がいわれた。それから性の儀式が始まり「水蛭子(ひるこ)」、つまり、骨無しのグニャグニャ子が生まれ葦船で流した。次も泡のような島で陸地にはならなかった。女が先に「何といい男よ」と言うと完全な子供は出来なかった。それから女が先に出て男を尻にひくのをやめると、今度は次々と正常な国(子)生みがなされたというのである。そこで二柱の神様がどうして出来損ないの子が生まれたか宇宙の中心の神様に尋ねて見ようということになった。すると中心の神様が「女先に言へるに因りて良からず、亦還り降りて改め言へ」とのりたまいき。
天の神様にお聞きしたら「女が先に立ったから立派な子(島)ができなかったのだ、それを反省してもう一度やり直せ」と。それで今度は男の神様が、「なんと美しい女よ」と、先に呼びかけられたら、それからは立派な子(島)ができたというのである
女は男を立てるというのが神理である。このように言うと女性蔑視という声が聞こえて来そうだが、決してそのようなことはない。人間は男に生まれたり女に生まれて魂の勉強をするのだから、現在のあなたがどちらであろうと、今のあなたを懸命に生きることである。
「ナゼ、性器と排泄器官の肛門は同じ場所か」
人間のみならず動物は、肛門の近くに性器はつくられている。食べ物を入れる口は、四つ足の動物に限らず肛門等の排泄器官より上についていて、物は上より下へ流れるという重力の法則に適ない排泄しやすい位置にある。また、ぜん毛運動や胃腸の運動により出口に排泄され易いようにできており、臓器の中でも最下部、最後部につくられている。 こうして、食べ物は、栄養分などを吸収され廃棄分は肛門から出て行くが、肛門が口の近くにないのは衛生上の問題と、口と同位置では高低差が無く物は出にくいからである。
サテ、性器と肛門と同じ場所にナゼつくられているかと言うと、子の宮、つまり胎児の部屋である子宮で十月十日育てられた赤ちゃんが、月満ちて出て来やすい位置は食べ物の廃棄物の出やすい位置と同じで、このために肛門と性器は同じ位置にあることになる。それにもう一つの理由は、夜になり情感が高まってくると、排泄物を出す肛門のそばの性器に、汚いとか不潔であるという感情は最早なく、それどころか積極的に触れ早く一体となりたいと思うものである。男女の一体となる性行為は陰陽の調和であり、神の天地創造の人間的表現であるが、愛の感情は同時に美の感情であり、美の感情はいっさいを浄化して「汚ない」という意識をなくすのである。これらの理由から性器と肛門は同じ位置につくられている。だから性を不浄とか罪悪視してはならないのである。
「性の四要素」
目的 性の結合を行う目的は、夫婦愛を完成し愛情を確かめ合うためか、 ただ単なる性欲の満足のためか。
人 正しい相手であるか。
時 人が働いている昼間から行うのはどうか。
所 なすべき所であるか。
正しい相手である夫と妻が、正しい目的を持って、なすべき時と場所で行うのは「善」であるが、単に欲望を満足させるために、なすべきでない相手となすべきでない時に、なすべきでない場所で行為をするのは「悪」となる。
「夫婦調和と玉転がし(玉せせり)」
男には陽物(凸)の出っ張った柱がある。女には陰物(凹)のくぼんだ洞(ほこら)がある。男の柱で女の玉門を通って洞をかき回すと、「子の宮」の玉(ぎょく)座には、今か今かと待ち望まれた一杯の幸せをもたらす玉のような赤ちゃんが育まれ十月十日かけて出産される。命涌(わ)く陰陽の調和である神の命の現われは命が涌き出る「イユー(命涌)」である。これは祝詞(のりと)の掛け声。男の凸と女の凹は、一目でわかる男女区別の目印である。
我の強い女が男の先に立ち尻に敷くと、男「凸」は出っ張りの「ロ」が無くなって 「□」となり、のっぺら棒で男か女か区別はつかない。男勝りの女は、男「凸」の出っ張り「ロ」を「凹」に取り入れて、のっぺら棒「□」で男か女か分からない。そうなると家庭は混乱する。そこで男は凸に、女は凹に元に戻したら全てはうまくおさまった。 「夫唱婦随」、「陽主陰従」は自然の摂理である。「男は男らしく積極的で、女は女らしく控えめ」なのが最高! 男は、外見の現われは陽だが、内に陰を宿している。女は、外見の現われは陰だが、内に陽を宿している。だから男は女に負けない優しさと包容力を持っており、女は男に負けない強さ,たくましさを持っている。


天と地に分かれた神の天地創造のエネルギーは、太陽によって大地に生命を慈しみ育まれる。天なる父の慈悲に感謝し、大地なる母の愛に感謝するもの。大地なる母によって一切のものは浄化され、新しい生命は生み出される。大地なる母は天なる父によって保たれ生かされるのである。大地は天に先立つことあたわず、女は男に先立つことあたわず、夫の頭(かしら)は天なりき、妻の頭(かしら)は夫なりき。
性器は「聖器」
性は美であり芸術である。天は男。男の象徴は太陽であり、黄金の「玉」である。
黄金の玉から「柱」を通して神のエネルギーは放たれ女は輝き出す。世界の平和は夫婦の調和、性の調和と浄化から始まる。
女は天女でなければならない
夫が仕事に疲れて帰ってきたら、「玉」も手も足も柔らかく揉みほぐす。 ささげ持ついたわりの心で玉をせせり、玉を転がす。血行をうながすと、循環がよくなりエネルギーが通る。柱が元気になったら、妻は柔らかい心と体で包み込めば良い。女が母となり妻となるとき男は救われてゆく。夫のエネルギーが充満し身も心も満たされると、仕事も充実し家庭も円満になる。女が先に立てば性は乱れる。快楽だけを求める男も女も汚い。ねばっこく絡みつく。本当に性は、神聖であり、調和であり、芸術である。快楽で玉を転がすと虚しさが残り、精気は得られない。それこそは娼婦である。天女となる女は、男の生理を満足させるだけでなく、心まで満足させ安らがせる。調和による性と、快楽による性の違いは安らぎがあるかどうかである。女は、妻となり、母となって完成される。
結婚して妻となり、子供を生んで母となり、生理(月経)が終わると、夫の妻から夫の母となって完成される。女、アァこの偉大なるもの。夫婦調和の道は、性の調和で完結する。玉は妻によって光らせ、ささげ持つとき夫も光り輝く。女の性は光り輝く安らぎの玉であり太陽である。男女の二つの光の玉が重なり合うとき、神が二つに分けた陰陽の調和、光と光の融合は神の完全なる姿が出来あがり、世界は安寧の平和になるのである。
「肛門性行為(アナル・セックス)とエイズ」
肛門が、たとえ膣の代用ができると言っても、排泄器官である肛門による性の疑似行為は、正しい筈はない。キスをする口腔も、性交をする膣も雑菌の自浄作用があることは知られている。肛門は沈痛解熱剤を座薬とすることでも知られているように、薬物等の吸収効果の著しい器官であり、そこでの行為が免疫(肉体の制御機能)を壊わし(免疫不全)、どんな結果を生むか想像できよう。神様が排泄器官としておつくりになった肛門を、性器代わりにするとエイズという不治の病気になるのは当然であろう。エイズは動物が媒体となって蔓延したと言われているが、本当にそうだろうか。外に責任を押し付けた卑劣な原因論と思えてならないのである。
その証拠に、エイズは後天的免疫不全症候群(Acquired Immune Deficiency Syndrome)という病名の頭文字をとって[AIDS]と言うのだが、八十℃十分で死滅するほどの熱に弱いウイルスで、B型肝炎の消毒に準ずることで知られる。口腔の異常病変としてアメリカでは歯科で発見されることも多いらしいが、同性愛者に多いこともその辺の事情を物語っているのではないか。
「正法と同性愛者」
同性愛とは異性には余り関心を示さず、同性同士が愛し合うことを言う。人間は、男に生まれたり女に生まれて魂の勉強をする。中には、女性的な魂の勉強も完全にすませた偉大な使命をもつ人は、いつの世も男性として生まれる。イエス様やお釈迦様等がそうである。また、男性的なものも完全に学んだ偉大な使命を持つ人はいつも女性として生まれる。それはマリヤ様や釈迦のお母さんのマヤ様等である。このような例外も有るが、普通一般の人達は男に生まれたり、女に生まれて人生の修行をする。どちらをたくさん勉強したかという度合いによって、男らしい男、或いは女のような男がいる。その反対に女らしい女、男のような女がいることになる。男として生を受けたのなら男らしく、女に生まれたからには女らしくというのが男女の使命と役割である。このように考えると、同性愛者というのは、今世で生まれた「性」の役割と使命を放棄してしまった人達といえるから、来世は、また、今世の「性」と同じに生まれて反省をして、人生のやり直しをしなければならないのである。そして、それが余りに極端な場合は憑依が考えられる。現世は男であるのに女の霊が憑くと男に関心を示す。逆もまたしかり。そうなるのは憑く霊と同類の心を持つからである。
「SM愛好者」
肉体を、縛ったりムチでたたく異癖の人達がいる。相手の行動の自由を束縛し、制限し強制することだが、このような行動原理は、する方もされる方もコンプレックス心理の裏返しである。罪悪感、自信喪失等である。。
「カストロ趣味」
排泄物を飲んだり食べたり、塗り付けて喜ぶ等の奇癖。犬猫は、食べ過ぎて胃がもたれると、人糞や自らの排泄物を食べる。豚は人糞を食べ、自らの糞尿にまみれて不潔極まりないが、彼らはそれでも平気である。人間の、この奇癖の度が過ぎたものは、動物霊の憑依による人格の変異、交代である。正常な人格者は、このようなことをするだろうか。
「妊娠、出産とあの世との関わり」
天上界にいる人だけが、この世に生まれ変わることが出来ると何度も述べた。天上界では、かっての親、お世話になった人、先輩、知人等の縁ある人々と互いに親子の約束をする。「私のお父さんになって下さい、お母さんになって下さい」、「分かりました、あなたの父親や母親となって修行をさせてもらいます」、と約束をする。お父さん、お母さんになる方が一足先に地上界に生まれて行く。両親になる人にはそれぞれ天上界での約束が潜在意識にあって、綾なす縁によって結婚をされる。世間ではよく「赤い糸に結ばれて」という表現をするが、うまく言い当てている。尚、天上界では離婚の約束ごと等は無いと高橋師は言う。両親の家庭生活が始まるとともに性生活も始まり、時期が到来して精子と卵子が調和され妊娠受胎。天上界では、待機所に子供になる人が待っている。送別会も開かれ「もうすぐだね」「ありがとう、前世は研究一筋で勉強ばかりだったから、今度は商売でうんと儲けて困っている人を助けるんだ」「そう祈っているよ、頑張ってね」等と約束をする。天上界からは自分の生まれるべき、両親の生活環境も全部お見通しである。「厳しいナー、余程しっかりしないと環境に流されてしまいそうだぞ」と考える。また、先天的な肉体の障害者は、障害を持つことも事前に承知しており、不完全な体に乗って人生航路を渡るだけに,彼等は「魂の勇者」と言えるのである。人生を渡る肉体舟が不完全というだけで、肉体舟を操る船頭さんである魂が不完全ということではない。
こうして、妊娠三ヶ月頃になると、胎児の肉体を魂が支配することになるが、これを「降霊」とか「天孫降臨」という。天上界から魂が降りてくるという意味である。妊娠、受胎は精子と卵子が結合、着床して細胞分裂が始まり増殖することを言うが、まだ魂が宿らぬうちは、「ぶどう状鬼胎」等のただの肉塊に過ぎない。細胞が人間の心臓に、肺臓に、肝臓にと特徴ある臓器に成長していくのは、人間の魂のコントロール下にあるからである。魂によって細胞分裂がコントロールされ配列されていくときに人間固有の臓器になるのである。つまり、肉体をもつことを望んでいる霊が細胞分裂をコントロールして、配列していくときに健全な肉体はつくられていくのである
このようにして、例えば犬は犬の魂のコントロールによって犬になるのである。進化論で言うように、人間は猿人などから進化したものではない。人間は最初から人間で、猿はいつまでも猿なのである。その証拠に進化途上にあるものはいない筈である。実験動物の臓器の細胞をバラバラにして倍溶液の中に置いておくと、元の臓器のように細胞同士が寄り集まって行くというのも、神とか目に見えない何かの影響を受けていると考えないわけには説明はつかないからである。細胞の分裂、増殖だけで固有の臓器につくられて行くことはないからである。
そして、多くの人が悪阻(つわり)を経験するのは、人は妊娠しているから誰でもが起ると説明するが、これは母体の魂と胎児の魂の相克、つまり、母親の意識と赤ちゃんの意識の、二つの意識の影響である。二つの意識が調和されて来るとツワリは治まってくる。これはどういう事かというと、母親には母親の人生体験の中で、心の価値観というものをつくり上げている。胎児には胎児の、天上界での魂の修行や魂が磨かれ価値観の違いが生ずる。言い換えれば、天上界から降霊したばかりの純粋無垢の汚れを知らぬ赤ちゃんの意識と、家庭環境、社会環境、教育、習慣という経時的に人生の中でつくりあげてきた母親の意識の劣化による相克である。そういう考えに立ってツワリを眺めて見ると、何ともなかった、或いは思いのほか軽かったという人も結構、多いのだ。ひどいつわりは全ての人が経験するものではないのである。
また、嗜好の変化はどうして起るかという問題である。胎児には胎児の、前世での食習慣なり嗜好がある。、母親が普段はそれほど欲しいと考えても見なかったものが妊娠中は食べたくて食べたくて仕方がなかったという人も多い。葡萄のマスカットをザル一杯、毎日食べたという例もあるが、これは胎児の食生活の違いから母親の嗜好が一時的に変化したからである。このように、女性は妊娠出産を通して、あの世とか霊に関係が深いので、女性にはイタコ等の霊媒者が多いという理由になるのである。 こうして、十月十日、月満ちてめでたく出産。目も見えぬ赤ちゃんが一人で笑うのは、天上界の友人知人がそばに来て「ぶじ誕生できておめでとう」「ありがとう頑張るからね」という応答なのである。そうして、目も見える頃になると、あの世とも断絶され、前世のことも天上界での出来事も100%潜在され忘れてしまうのである。これはあの世から見れば一時の死ということになる。こうして、純粋無垢の天使のような赤ちゃんの心も成長するにつれて、自己保存、自我我欲、エゴの心に執(とら)われ、天上界での約束も忘れて、心に歪みをつくり盲目の人生を送るようになっていくのである。 人間は本来、過去世のこともあの世のことも全部思い出せる能力を持っていたのだが、生まれ変わり死に変わりの輪廻転生の永い歴史の中で自らその能力を閉ざしてしまったのである。その能力を失した原因というのは、各人の「愚痴」「怒り」「足ることを知らぬ欲望」という「心の三毒」に在ったと高橋信次師は説いたのである。人間の人生での最大目標は、愚痴を言うな、怒るな、身のほど知らずの欲望に注意せよ、ということなのだ。
再婚の約束はあるのか」
結婚も出産もあの世での約束の上に成り立っていることを述べたが、現実には再婚もし、その再婚の相手に子供も生まれる。それでは離婚も約束して出て来るのかどうか、その辺の事情を考えてみたい。
結婚、出産は約束ごとであり、あの世で約束して出てくる。にもかかわらず、人によっては何度も結婚したり、再婚の相手に子供が生まれる。どんな理由でこうなるのかと言うとそれは、あの世から地上界に生まれると人はあの世の約束を忘れて、五官(眼、耳、鼻、舌、身)にほんろうされて約束の相手を忘れる。所謂、五官主義に陥るわけである。初婚、再婚、再々婚の相手は無縁な人は一人もいない。五官におぼれ本来の約束相手を忘れたというのが真相である。
それでは、初婚、再婚、再々婚の相手に子供が出来るというのはどういうわけか考えたい。初婚、再婚、再々婚の男女には、やはりそれぞれ親子の約束相手がある。つまり、初婚の相手にも、再婚の相手にも子供を生む約束があるので子供が生まれる。たとえば初婚(AとB)の相手との間に子供が二人いるとする。再婚(AとC)してまた二人の子供ができた。次にまた、再々婚(AとD)して二人の子供が生まれた。このような場合、Aの子供は全部で六名ということになる。本来なら二人の筈なのに六名とは多すぎる。しかし、生まれた子供は、最初の二人はAとBの約束だが、再婚のAとCの間ではC側の約束によって、C側に引かれて生まれ、再々婚ではD側の約束によって、D側に引かれて生まれるということになる。
もちろん、Aとも縁が深いし無縁ではないのだが、子供の幸せを願うならば、離婚と再婚、再々婚によりAにまつわる子供が増えることは不幸なことである。CやDはAとは別な相手がいてそれぞれ子供をなすことが理想である。無責任な行動は慎まなければならないが、何度も言うように離婚の約束などはあの世ではしていないのである。
「双生児の魂はどうなる」
一般的には、「ふた子」と言われる人達の魂はどうなるのだろう。それは双生児の兄弟、姉妹は魂の似た者がなるということである。一つの魂が二つに分裂して双生児になることはない。双生児の兄弟は体も、考え方も、仕草も似ており、生ばかりでなく、死まで似てくることも起きるわけである。

H 正法「子供のしつけと教育」 ・子供の犯罪はナゼ起るか・
昨今の社会情勢について報道関係は、子供達が引き起こす犯罪について喧(かまびす)しく伝えている。「悪い結果(悪果)には必ず悪い原因(悪因)がある。また、その反対に善い原因は必ず善い結果となる(善因は善果)」というのが、正法の教えである。高橋信次師はこれを「原因と結果の法則」と説き、園頭広周師は善因善果、悪因悪果と説き、お釈迦様は「因縁」と説かれた。科学の法則である因果律、作用・反作用の法則や動・反動の法則がそれである。因(もと)が有ると、それを縁としてそれに応じた結果が生ずるということである。
最近の子供の犯罪は一時的に吹き出したように見えるが、悪因が依然として断ち切られずに循環し続けただけのことである。これら一連の悪い結果が出たのなら、その原因を徹底的にさらけ出し、悪い原因を修正することが最大の解決方法である。
「その原因は何か」
大きく分類して四つの原因が考えられる。
1、本人の資質 2、家庭のしつけと環境 3、教育の問題 4、社会環境 各論すると次の通りである。
● 1.本人の資質とは何か。
人はこれまで、生まれ変わり死に変わり輪廻転生の人生体験をして来た。多い人では二十万回もの地球上での生まれ変わり死に変わりをしている。ある時は男に、また、ある時は女に生まれて魂(心、霊、意識)の修行をしてきた。普通の人は二千年に一回の生まれ変わりとなるが、特別な使命と役割を持つ人は短期間に何回も地球上に出る。この生まれ変わりの二十万回の根拠は、「地球人類は三億六千五百年の歴史」と「二千年に一回」という高橋信次師の説から試算しているが、人間は、数多い人生体験の中から学んだものを予感、直感として想い出し大過なく人生を送ることになる。この人生体験を「心に内在する智慧(ちえ)」と言い、般若心経の一節で古代インド語のパニャ・パラ・ミタであり、当て字の般若・波羅・蜜多である。「知恵」は今世だけの人生体験から得たもの、「智慧」は輪廻転生の中の数多い人生体験で得たもの、と区別して述べるが、仏教の多宝塔(五重の塔など)は数多い人生体験という「宝」を、屋根の段数・階数の形に表したものである。
ところで、二千年毎に誰でも確実にこの世に出て人生体験をできるかというとそうではなく、天上界へ行ける心の人のみ生まれ変わることができるというのである。 「天上界」を「明るい世界」というが、天上界へ行ける最低の段階を分かりやすく示そう。天上界への最低の切符は「自分さえよければ人はどうでもというエゴの世界」である。ちなみに人類の三分の一がこの段階である。高橋師はこれを「幽界」と名づけたが、まさしく現代の風潮である。このすぐ上の段階は、「ギブ・アンド・テイクで、与えたものが返ってこないとスッキリしない心の世界」である。これを「霊界」と分類したが、これが人類の三分の一であり、下位界の二つで人類の三分の二を占めるというのである。ナンのカンのと言ったって人類の平均的な精神年齢はこの程度なのである。
勿論、上段界ほど素晴らしい世界である。例えば迷惑がかかっても損害を受けても非難せず、原因を振り返り反省する心の世界とか、慈悲と愛の塊のような状態へと、心の段階は上ってゆく。現在の「アナタ」から地位、名誉、学歴を差っ引いたものが真実の「アナタ」である。これは人間性とか人格の段階と言い換えても良いが、図示すると次の通りである。
幽界→霊界→神界→菩薩界→如来界 神
次に、生まれ変わりのできない人について述べる。この心の段階を、神の光を閉ざした「暗い世界」とか「地獄界」という。それは、「人を争わせておもしろがり闘争対立の心を持つ人。信仰をすることによって争いを生み出す人。自分の利益のためには平気で人を陥れ利用する心の人。金銭欲が強く、いくら持ってもいくら儲けても、一人占めにして満足しない欲望の塊みたいな人。ネチネチと執念深く見境なく情欲に狂う人。ひどく怒る人。ひどく悲しむ人。ひどく怨む人。狂思想家。狂エゴイスト。狂宗教家。戦争、闘争の計画者」等である。図にすると次の通り。
修羅界→餓鬼界→畜生界→煉獄→無間地獄→魔王
人間の心の段階を示したが、たとえ人間として生まれていても、心や人間性は色々分かれる。そして、永い生まれ変わり死に変わりの間に培(つちか)われたものを「天与の才」というが、文字通り天から与えられたものではなく、実は自らの責任として長い間に築いて来たものなのだ。次に、たとえ前世で立派な心の段階の人でも、適切な時期に適切な、しつけと教育を受けなければ人にはならないという例を示したい。
●
2.家庭のしつけと環境
「狼や犬に育てられた子供とアヴェロンの野生児」
1920年、インドのカルカッタの奥、狼に育てられていた二人の少女が保護された。姉格をカマラ、妹格をアマラといった。アマラは一年ほどで亡くなるが、カマラが十七歳で亡くなるまでの九年間に手厚い愛情で育てられても、夜になると遠吠えをし、皿をペチャペチャと舐めまわし、服を歯で食いちぎったりした。亡くなる前には讃美歌を震え声で歌ったりしたが、とうとう三才ほどの知能のままで死んでしまった。
(アーノルド・ゲゼル著「狼にそだてられた子」家政教育社 1988年で第三十四刷の隠れたベストセラー著作)
そして、1799年(寛政十一年)、フランスのアヴェロンの森に、木の実や根を常食にしていた十二歳くらいの裸の少年が見つかった。パリに連れてこられるが、医師ピネルは次のように観察している。動きは鈍く、眼は落ち着きも表情もなく感覚機能は退化し、完全に唖の状態、鼻も何の反応も示さず、聴覚と食べる口だけが異常に発達していた。ただ生きていくだけの必要最低限度の感覚だけであったという。
また、平成二年末、南アフリカのヨハネスブルグ近郊で、自宅の庭の犬小屋に、二年余り犬に育てられていた二才半の白人の男の子が見つかった。その男の子は半分の体重で、真っ直ぐに立って歩くことも両手を使うことも出来ない、さながら犬だったという。
これら三人の子供の例は、人間でありながら必要な時期に親の愛情もしつけもなく育つと、人間にはならないという貴重な例であった。幼児の頃に言葉もかけられず、テレビの前に哺乳ビンを咥えさせられて長い間ゴロンと放置されたり、仕事にかまけて保育カゴに入れられっぱなしで言葉もかけられなかった子供は、それが余りにも極端な場合は自閉児になる。 自閉症は名前を呼ばれても自分のこととは思わず上の空で、頭からすぐ足になるという特異な絵を画く子もいるが、必要な時期に親とのスキンシップもなく、言葉もかけられなかった子供が言葉も遅れ、自閉的な症状を現わすのは当然であろう。昔から、「三つ子の魂百まで」と言われるように、三歳頃の母親との情感と、きめの細かい心の交流やしつけは、人間としての情操のために重大な意味合いを持つということを知らなければならないのである。
「家庭の役割」
1、家庭の概念
人が二人いると、その二人の間を社会生活という。夫婦は社会生活の単位である。夫婦があって、そこに子供が生まれてきて親子関係が生ずる。夫婦というヨコの関係と親子というタテの関係の、十字交叉するのが家である。

家の原理が国の原理となっているのが日本である。家が集合して国となる。日本では国と家を一つと見て「国家」という。外国には国家という概念はなく、外国の国は、権力者と大衆、支配者と被支配者という関係である。

太陽も地球も回転している。「+」はキリスト教の記号であり、回転し始めると「卍」となる。これは吉祥卍(まんじ)という仏教の記号であり、さらに速く回転すると卍は「〇」となる。〇は日の丸であり神道を現わし、日本を日の本といい、〇は日本の記号である。〇は円満であり,大調和であり不道心を意味する。夫婦親子の関係がしっかりと廻転し始めると、家庭円満ということになり、そういう家庭から問題児は出ない。そして、そういう円満な家庭によって国が構成されると国が平和になり、そういう国が集まると世界が平和になるのである。
1.「年寄りっ子は三文安」という意味
男女平等、雇用均等という掛け声とともに男と対等に社会に出て行った妻、離婚をして子供を保育所に預ける人など理由は様々であるが、何かの理由で子供と一緒にいて、しつけや家庭教育の時間が持てないという親は、子供と一緒にいるときに特別の配慮をするか、或いは仕事の合間に絶えず子供に想いを馳せる努力をしないと、その分だけ、子供が大きくなるにつれて親を困らせる問題が起きると覚悟しなければならない。子供にとって最も重要なのは母親である。立派な子供に育てるには、母親が賢くなければならない。これは高学歴ということではない。最近は、「学問のあるバカ」「高学歴のアホ」が多いといわれているが、それはさて置いて、次に男の役割と女の役割について述べる。
2.安心や安らぎの「安」は家の中に女と書く。
「男は社会に直接的に働きかけ、女は子供をどう育てるかということを通して未来社会に働きかける」といわれる。男は外で働いて家族を守り、女は家にいて家庭を守り、子供のしつけをするのがその使命と役割である。家の中に母親が、妻がいるとき子供も夫も平安で心が安らぐ。高橋信次師は言った。「経済行為の原点は、男女両性の愛の中からここの声をあげた。男は労働に従事し、女は子弟の教育と家を守った。自給自足の経済が永く続いて、それからは分業社会が現出した。男は外に出て働き女は家庭にあって憩いの場をつくっている。愛と生活の原形は、男女両性がこの地上界に生活を始めたときから、その両性が存在する限り決して失われることはないのである。」と。外に出て働く男の役割と、家にいて家庭を守る女の役割は、どんな時代になろうと永遠に変わらないというのである。永遠に変わらず、恣意のないものを神理、法則という。
「古事記にみる夫と妻のあり方」
夫と妻のあり方を、古事記(712年)、日本書紀(720年)一書一に、わずかな違いこそあれ同じようなことが書かれているので、ここでは古事記を参考にして述べたい。イザナギという男神とイザナミという女神がいた。イザナギはイザナミに「あなたの体はどのようになっていますか」と問うと、「私の体は、つくられた結果、なり合わないところが一つあります」「私にも、なり余った凸出っ張ったところが一つあるので、あなたの凹んだところに刺し塞いで、国(子)生みをしようと思いますがいかがですか」「結構ですね」ということになった。「それではこの宇宙の中心の柱を別々の方向に廻り、出合ったところで (愛の交歓、性交)をしましよう。そう約束をして「あなたは右から私は左から廻ります」、と。
この左と右の問題は、男神(陽)、女神(陰)の遠心力、求心力、左進右退の原理である。それは、外に外へと出ていく男(遠心力)を、女は内に内へと中心に引き付ける求心力の役目。ネジも左から右へ廻すと締まる。マクロでは、地球は太陽を左から右へ自転公転する。ミクロでは、電子は核を中心に左から右へ廻る。生活の中では、雛祭りの男雛は左り。歩くときも左足から先に出し、舞台では左から出てきて右に退く。このように男の陽が女の陰に優先されるのは自然の法則である。これは神の前に男女は平等であるが、その働き、その役割は違うということである。
男は男らしく女は女らしくあることが自然であり、女が男の上に立ち役割を間違えると混乱するのは当然である。陽主陰従は神理である。こう言うと、女性蔑視ではないかという声が聞こえてきそうだが、生まれ変わり死に変わりの輪廻転生の中で、人間は男に生まれたり、女に生まれて心の修行をするのだから、不平等なことは何もない。サテ、その次にどう書かれているか。
宇宙の中心を廻るとき、女神のイザナミが先に「何とまあ、いい男でしょう」と言って交わると、骨無しのグニャグニャ子が生まれたので葦船に入れて流した。次も泡のような子。それで、どうしてこんな子が出来るのか天の中心の神様に尋ねて見ようということになった。すると神様は「女が先に立ったからだ」という答え。そこで今度は男神のイザナギが先に「何とまあ美しい女性よ」と求愛をすると、正常な国(子)ができたという。これは、古事記に見る素朴な性の表現であるが、夫婦の性の結合は、神による大宇宙創造の人間的表現である。
「釈迦(玉那教)が教える、妻に対する夫のあり方」
1.妻を尊敬する
1.道からはずれない
1.家庭のこと、子育てについてなど全てをまかせる
1.装飾品を与える
「釈迦が教える夫に対する妻のあり方」
1.夫が、家のことは全部任せて安心して働けるように処理する
1.身内の人達をよく待遇する
1.夫以外の男の人を心の中で思ってもならない
1.集めた財産をよく守る
〇 物は値下がりをしたときに買い込む
〇 種を買って植える
〇 食料品は自家製にする
〇 家の中にあるものを無駄無く利用する
〇 一日の収支の帳尻を合わせる
〇 財産の額を他人に漏らさない
子供が立派に育つには母親が賢くなければならない。賢くとは、厳しさと優しさを持って子供のしつけが出来ることを言う。子供を十月十日、お腹の中に抱きかかえ愛深く育てるのは、男には出来ない女の特権である。子供が泣くと、あたかも自分の身を切られるように感ずるのは、また、子が切ないまでに母を思うのは、お互いにあの世で親子になる約束の記憶が潜在意識にあるからである。人が神を求める心と、人が母を切ないまでに思う気持ちが似ているのは、母が人を生み育て、神が人間を生み育てられたことと同じだからである。人間を神の子という。人は神の子なるがゆえに神を求めてや止まないのである。人は母の子なるがゆえに母を求める。人は母を思うときに心の中から一切の不浄と争いは消えて無くなる。子供の心を大事にすれば子供に泣かされることはないが、子供のことで泣かされるという人は子供の心を無視し、思いやることをしなかったからである。親が子供にしてやることの第一は、一生忘れることのない思い出を一つでもたくさんつくってやることである。
「怒りと叱りの違い」
「叱る」ということの中には、相手をよくしてやろうという愛情と思い遣りがある。そんなことをしていてはこの子によくない、相手によくないという、子供の、また、相手の幸せを心の中から願う尊い愛の心があって、それが叱るというきびしい言葉となって出ているのである。だから、そのきびしい言葉の奥にある愛情を感じて、その愛情に感謝して叱られたことに子供は涙を流すのである。ところが、「怒る」ということには、ただ腹立たしいばかり、憎いばかりという感情が働いていることを敏感に感じ取って反抗的になる。子供に暴力を振るわれた、子供のことで困っているという人は、子供を叱らないで怒って来たからである。「叱る」ことと「怒る」ことの区別がつかなくなり、ただ甘やかすばかりの弱い父親が増え、強い母親が増えたのが、現在の混乱の因(もと)である。
「夫婦調和の提言」
「天上界へ行ける善い妻とは(釈迦)」
1.母のような妻
1.姉妹のような妻
1.友人のような妻
1.奴婢のような妻
夫に叩かれても怒らず、悪びれず、夫に従順な妻。このような妻は子供が立派に育ち子供に幸せにされる。
「天上界へ行けるよい母とは」
1.賢さをもつ母(賢夫人)
1.女らしい優しさをもつ母 1.慈愛深いが厳しさももつ母
1.品のいい母
1.哀れみをもつ涙もろい母
「天上界へ行けるよい父とは」
1.厳しい父(厳父)
1.男らしい父
1.ほどほどに生活力のある父
1.慈しみの心をもつ慈悲深い父(慈父)
「キリスト教が教える夫婦の調和」
夫は妻につくし、妻もまたよく夫に尽くさなければならない。妻の身体を支配する権利を持つのは夫である。このようにして夫の身体を支配する権利を持つのは妻である。男は女を人生のよきパートナーとして尊敬し女の性の前に額ずく謙虚さを持たねばならない。妻は夫の生命を礼拝し、夫の生命を通して祈ったときに妻の祈りは通ずる。妻が夫を軽蔑し尻にひくとき、つまり女が髪を切って短くする(男の役をする)祈りは聞かれない。
「ナゼ女は長い髪を誇りとして来たか(キリスト教)」
男は神様に祈るときに、頭に何も被らずに直に祈ってもよいが、女は神様に祈るときに、必ず被り物をかぶらなければならない。その象徴として長い髪を誇りとした。
夫の祈り 神 ← キリスト← 夫 (短い髪を誇りとする)
妻の祈り 神 ← キリスト← 夫← 妻 (長い髪を誇りとする)
以上は園頭師の記述要約である.ナゼ、こうも長く夫婦調和、話し合いのもたれる仲のよい関係ということにスペースを割いたかというと、夫婦調和は家庭の基本であり、そこからは絶対に問題児は出ないからである。それを知って欲しい。
「コンピューター時代と家庭教育」
現在の世界人口は五十億、二十一世紀になると八十億になるという。現在でも飢えている国があるというのに、そうなったら一体どうなるのか。現代の子供達は当然考えておかなければならないことだが、子供達がそこまで考えることが出来ないとすれば、親が教えておかなければならないことである。皆んなが認めているように今のまま行けば食糧の豊かさが永遠に続くことは有り得ないのである。最近のハイテク産業の進歩は目を見張るほどに凄まじい。コンピューターもまだまだ進歩する。現在のテレビと同じように端末機が各家庭に一台づつ普及するようになると、コンピューターと医療機器を結びつけ各自の健康診断をはじき出し、薬もプリンターが打ち出した処方箋を近くの調剤薬局へ持っていけば事足りることになる。これはほんの一例だが、コンピューターの発達は自分のことは自分で管理をするという「自己確立の時代」「自力の時代」が到来する。二十年後にはキッとそうなる。それを考えたら親はいつまでも子供を甘やかしていてはいけないのである。そして、コンピューター時代の1か0か、正しいか間違いかというデジタル理論の社会で育った子供たちは、理論的な裏付けの無いものには興味を示さず、そういう類のものは自然に淘汰されていく。宗教等はその典型であり、正法は正に、これからを担う次代の子達にとって打ってつけのものかもしれない。
「まさに来たらんとする光の時代と家庭教育」
高橋信次師は昭和四十年代末に「一万年ほど前のアトランティス時代を体験した人達が、これからゾクゾク生まれて来る、少しはもう生まれている。」と予告した。これらの霊魂達が生まれてくると現代の科学をどんどん推し進め、たとえ幼な子であっても霊的に高等な質問を発し大人達を指導するようになるのである。アトランティス、ムー時代は、現代を凌ぐ超科学文明であった。科学に溺れ、物質欲の虜になった、時の偽政者が、肉体を持って生まれていた光の天使達を殺した。彼等のその想念と行為が原因となって、一夜のうちにアトランティス大陸、ムー大陸は沈められ今はない。輪廻転生によって高位の文明を体験した霊魂群が生まれてくると、当時を思い起こし心の中から記憶を呼び覚まし、時代の変革の嵐が舞い起る。彼らの発想と思念を無視できず、我々の古い考えでは彼らを推し測れないということになる。それでは一体どうすればよいのか。
超科学一辺倒の冷徹な彼等の心に、愛と慈悲の心を芽生えさせるためには今までの既存のものに属さない教えで、心の正しい規準や尺度を説く宇宙的な神理・法則の教えが求められるのである。それは、高橋信次師が説き、園頭広周師が分かりやすく解説した「正法」である。世界人類の軌範は、正法であり八正道の実践のみが地球を救う唯一の道となる。正法が人類の一人一人の心に刻まれると、かってのアトランティス、ムーの再現を打ち止めにでき、恒久の地球平和を確約できるのである。
「親の役割」
子供は「親のいう通りにはしないが、親のする(した)通りにする」と言われる。子供は親の後ろ姿を、親の背中を見て育つのである。親は、子供に対して過保護でもなく放りっぱなしというのでもなく、中道の社会人として通用する常識と教養を身につけさせる手助けと、人格を向上してゆくのに必要な「情操」を教えるのが使命と役割である。人間性を充実させ、人格を向上する情操とは何か。それは、すべてのものに対する感謝、尊敬、愛、思いやり、喜び、謙虚さ、忍耐、譲る心等であり、最初に教えなければならないのが「ありがたい」「ありがたいことだ」「ありがとうございます」という感謝である。
「特に若い親へ」
日本の美人は万葉時代の埴輪に見るように、胸が豊満で尻も大きく丈夫な子供を生めるのが美人であった。特にミス・ユニバースに選ばれてからというものは、こぞって八頭身美人を目指し子供に母乳も飲ませず哺乳ビンを咥えさせテレビに見入っている。そして、主人は優しいばかりの家庭的なパパ。子供の非行暴力が増えた一つは父親の権威が失墜したからである。教育界は「父親は子供と友達になりなさい」とやるものだから一生懸命に子供の機嫌を取ってきた。
一方、男女平等で女性が強くなり、家庭の中でいつも女房から叱られている。そういうさまを見て育った子供が、ゴキブリ亭主に成り下がった父親がフライパンを投げ捨てていくら力んでみたって、腕力は父親より勝る子供が、父親の権威を感ずる筈はないのである。以前は、女性は従順で夫に「ハイ」と従った。子供はそれを小さい頃から見ている。そうすると、子供は父親の言うことは聞くものだと思うのである。父親がしっかりと権威を保っている家庭から非行、暴力少年は出ないものだ。父親がもうどうしょうもなくなって、かっての、ヨットスクールのような所にでも預けようということになるのではないか。
親が子を愛し、子が親を愛し、夫が妻を愛し、妻が夫を愛する。その愛が計算づくであれば裏切られる。職場を愛するならば仕事に一生懸命にならねばならない。国を愛するならば国を破壊するような思想を持つべきではない。人類を愛するならば人殺しにしか使えない武器の生産を止めるべきである。教育界に不祥事が起っているのは教育界に愛がないからである。現代は「愛」という言葉の氾濫の陰で混乱が起きているのも、そこに愛は言葉だけで行為がないからである。
●3.教育の問題とは何か
現在のような家庭教育、学校教育の混乱が起ってきた原因は、終戦後、日本の教育界がアメリカの占領政策に乗せられて「親は子供のいい友達にならなければならない」と指導してきたことにある。友達ということは、親と子供は同列でなければならないということである。同列の関係での教育は成立しない。教育は、教える者と教えられる者の上下の関係ではじめて成立するものである。親は教える者の立場に立って子供に教えなければならないのに、教える立場を放棄して同列になってしまっている。
「家庭と学校で教えなければならないこと」
次のようなことを、肉体的に大人になるその時までに、家庭と学校で教えておかなければならない。
人間は何のために生きているのか
人間はなぜ仕事をしなければならないのか
なぜ、家庭を持つのか、家庭の意義
性生活の意義、なぜ性を大事にしなければならないのか
「教育の公共責任制から家庭責任制へ」
保育、教育を公共責任制にしょうとして壮大な実験を行ったのがソ連であった。ソ連では哺乳期間を過ぎると全ての子供を集め共産主義の闘士を育て上げようということをやった。母親の愛情の欲しいときに無理矢理に引き離され施設に入れられた可愛い盛りの赤ちゃんが、愛情に対する欲求不満から這い這いしながら他の赤ちゃんに噛み付き口は血だらけで、さながら地獄絵の観を呈した。それで国家の方針で育てるということを止めたのである。公共責任制が失敗に終わったのだから、完全に家庭責任制にし、家庭教育でできないところを学校教育に委ねるということにしなければならなかった。
丁度その頃、日本でも日本伝統の家庭教育責任制がアメリカの占領政策によって破壊され、父権の喪失によって、従来家庭教育の責任者であった父親の権威が全く無視されてしまった。教育界が「父親の権威は持ってはいけない、子供のよき友達になれ」と教えるものだから、父親もそうした。一方、母親の方も母乳も飲ませず、ミルクを飲ませて母権を放棄してしまった。そうして,父と母との豊かな愛情を受けられずに育った子供達が攻撃的になって「いじめっ子」になっているのである。いじめの問題だけをなくそうとしても、そのいじめっ子が本来持っている破壊性は他の方面で爆発して「別の形の社会問題」が起ってくるだろう。
「いじめっ子といじめられっ子」
先にも述べたが、父親の権威と母権の失墜が原因だから、いじめっ子をなくすには父親が子供の友達ではなく、はっきりと父親になり、家庭における教育の責任者となることである。そして、母親は深い母性愛を持って育てることを怠ったことを反省しなければならない。一方、いじめられっ子は、父親が権威を持っていないところへ、余りにも母親がベタベタと甘やかして育てるものだから受け身になって、自分から積極的にやるという積極性と行動性に欠け、いじめられるとそれにどう反応していいか分からずますます萎縮する。「ワーッ」と相手に反発の行動に移ると、たとえ腕力では負けても、いじめられなくなるのである。
「高校全入運動の誤り」
教育界は「子供は教育を受ける権利がある」と言って、親の経済的余力があれば進学を勧めて来た。だが、もうこれ以上勉強はしたくない、一日も早く仕事に就いて働きたいと思っている子供も多いのである。人は、この世に生まれる前に自分の人生計画を立てて地上界に生まれてくる。例えば、前世で学問は散々やったので、今度は働くことに徹しようと考えてこの世に出てきた人もいる。教養や常識は身につけなければならないが、高学歴はいらないと自分の心が決めるのである。このように学歴はなくても立派な人の例は今日まで幾らでもあるが、勉強をすることより仕事をした方がよいと考えている子供がいることを全く無視した運動と言える。
「園頭広周師が勧める二つの方法」
「日本の教育をよくするためには二つの方法しかないと思う。一つはPTAが職員会議を監督すること。文部省がそういう方針をつくるべきです。明治五年、学校教育制度が制定されて以来、日本人は、教育は文部省と教師がするものであるという頭になって全部、文部省と教師に任せて来ました。もうそういう考え方は止める時期に来ました。父兄が実権を握るべきです。子供の人格形成の責任は父兄にあることを確認し、教師はその上に立って学科の指導をするという役割の確立であります。もう一つの方法は、小学校から高校まで全部私立にすること。文部省が教育方針を決めるのではなく、文部省は学校の財政的な管理運営についてのみ監督すること。そうすることによって、教育とは親がするものであり、教師は親が出来ない部分を担当するものであるという役割をはっきり決めることです。」
●4.社会環境の問題とは何か
1.金権至上主義の風潮
バブル崩壊という言葉に代表される国民の金権体質である。金権とは、お金の威光を言うが、ものの価値をお金に喩える価値観である。お金は無いより有った方が良いじゃないかとする考え方である。高橋信次師は「人生は心と肉体と経済の調和」と説いた。心も健全で体も健康、お金もほどほどに持つということである。お金はいくら持っても良いが、集めた金をどう使うかがその人の人格、人間性の分かれ目であり、お金は有っても無くてもいいのである。
2.性の乱れと風俗
エイズを代表とする性風俗の混乱は古代ローマ時代の末期を彷彿とさせる。人民の悪い想念が集団的となったとき、火山爆発によってボンベイの街は一瞬にして廃虚となったと高橋師は教えたが、余りにも世情が極端に走ると、自浄作用が起るのである。最近の世界的な世情は目に余るものがある。
3.地上汚染と無責任な風潮
企業は、儲けるためにはなり振り構わず公害を撒き散らす。個人にあっても「皆で渡れば恐くない」式にエゴむき出しである。その風潮が青少年に影響しないと誰が言えよう。
●「マトメ」
以上のように、最近の子供の犯罪原因を、本人の資質、家庭のしつけと環境、教育の問題、社会環境と、四つの項目に分けて述べた。原因が四つも有るということは、相互の関係が複雑に絡み合っているということである。しかし、私は論を進めていくうちに、家庭の在り方としつけが最大の問題点という考えに至った。私も六十歳、数人の子供を育てたが、肥満、登校拒否、いじめ等と体験し、子供達によって勉強させてもらった。子供は親の鑑(かがみ)と言われるが、人生の機微に触れて、人生は魂の修行、勉強にあるのだとつくづく思うのである。子供達よありがとう。

I、女性は如来になれるのか 或る集いで、「女性は如来になれるのか」という問題提起をさせていただいた。その場の雰囲気は、「なれるから如来もいる」「いや、なれない」と賛否両論であった。出典を明かし、ここにこういうのがあると指摘してみたい。それはこうである。1973年(昭和四十八年)夏、長野県熊の湯における自主研修会の高橋師の講話に次のようにある。 「‐‐‐ところが、執着のない人達は、一切、飾りなどつけません。普通の飾り気のない質素な服装をしています。心にダイヤモンドをもつということ、それが大事なのです。格好で脅かすようなのはね、人間以下の動物のやること。蝶なんかでもね、雌、雄違いますよ。光の天使、心を説く人が、そういう格好をしていたらおかしいんです。あれも飾りたい、これも飾りたい、飾りたいという執着を持っているのは、ホンモノではないんです。如来というのは、上上段階光の大指導霊、なんにも飾っていませんよ、質素です。だから、女はね、上上段階光の大指導霊にはなれないんです。化粧はする、イヤリングはつける、ネックレスはつける、まあ仏教的にいうと菩薩位のところまで。でも、地球上で菩薩というと、えらいですよ。大変な、大変な、永い永い輪廻転生、転生輪廻の体験を経なければなりません。‐‐‐」、と。 また、『天よりの使者・高橋信次師は語る』園頭広周編 正法出版社のP128〜P129にこう書かれている。 「弥勒、聖観世音の両菩薩も肉体を持って、正法を伝えています。<中略>両菩薩は、何れも女性です。<中略>両菩薩は、本来、その上の段階の如来であります。上上段階光の大指導霊であります。ところがあの世の如来界には、この二人の女性をのぞいては、すべて男性であり、このため、二人とも遠慮され、如来界から菩薩界に降りてきているのです。そのため、菩薩といわれていますが、本当は如来であります‐‐‐」、と。 この原本は、『天使の再来』昭和四十五年一月初版、有限会社 八起・光書房の「HIKARI BOOKS」の編者高橋信次である。手持ちの蔵書は昭和四十七年八月の第四版だが、これを最後に廃版されている。どうして廃版されたか『天よりの使者・高橋信次師は語る』に詳しい。サテ、それでは前記のミロク、聖観世音菩薩は現代の誰か。弥勒(ミロク)は高橋師の奥様の高橋一栄氏であり、聖観世音菩薩は高橋師の実妹・星洋子氏である。 弥勒は釈迦に帰依した女性第一号で、マイトレーヤーという名前で釈迦の身の回りの世話や釈迦の説法の時に、鐘や太鼓を打ち鳴らして「今夜、どこそこでお釈迦様の説法があります」と、ふれて廻るのがその主な役目で、釈迦が亡くなると生まれ故郷に帰り正法の指導に当たり、タレイヤー、幸、幸子の語源になった、と高橋師は明らかにしている。 一方、聖観世音は、「紀元前七千年頃、アトランテイス帝国で生まれフォロリヤーという女性でございました。弥勒さまはナーダリヤという名前で私の最も親しい女友達でございました」『心の発見・神理篇』そしてBC四千年頃(エジプト)アシカ・ミヨター(女性)。お釈迦様の時代はガランダ長者の末娘でカリナ。AC二世紀(イスラエル)サフイという女性。AC五世紀(中国)林蒋という女性である。林蒋は吾蒋の姉であり、吾蒋は日本に日蓮として生れている。林蒋はこのあと日本に二度生まれて、現代は昭和十年生まれの星洋子氏である。 如来格の女性二人を見ていただいたが、過去世は相当な霊格、光の量の区域であったと推測できても、高橋師亡後のGLAの混乱を園頭師に学ぶと、また、ウエブ・マスターの取材ノートでお二人を辛く評価すると、如来を辞退されても当然のような想いがするのである。ともかくも現在、如来は女性にはいない。この一文を読むと、高橋、園頭両師が説いた正法は、女性蔑視かという声が聞こえてきそうだが、女性には女性の役割が、男性には男性の役割が厳然として与えられていること。子供を産みたいと男性がどう望もうと絶対に出来ないことや、普通の人は男に生まれたり女に生まれて人生修行をする、ということを知ればその疑問も氷解できよう。正法は男女平等、だが、それぞれに役割が決まっていると、理解していただけるだろう。釈迦より以前のバラモン教の中に、女は女の相のままでは如来になれない、男になってからでないと如来になれないという言い伝えがあった。これを「変成男子・へんせいだんし」というが、正法においては、気の遠くなるような沢山の生まれ変わり死に変わりをして、男と女の修行を完全に終えてから如来へと進むと教えるのである。人間は本来、神性、仏性を持ち備えた神の子である。ただの石を磨いてもダイヤモンドにはならないように、もともとダイヤモンドだから光り輝くダイヤモンドになるのである。これと同じように、人間の中に内在されている神性、仏性のみを見てゆくと、やがては必ず大いなる悟りの境地、如来に到達するのである。
J ナゼ、日本人には臓器移植の申し出が無いのか
平成九年十月の臓器移植法施行以来一年も過ぎても、多くの患者さんが待ち望んでいても移植に結びつく臓器提供は無かった。それから一人、二人と増えて、平成十二年八月になっても、やっと十名程度である。意思表示カードを二千六百万枚も配っていながらである。ともあれ一億二千万人もの人口でも、一日に多数の人が亡くなっていても、である。そこで仕方なく海外で治療を受けるか、または生体移植に頼らざるを得ないと親族からの提供が試みられている。それでは、どうして日本には臓器提供の申し出が無いかを推測してみたい。 「その原因は、宗教観に起因する」 欧米のキリスト教等は、魂と肉体は別々のものであるという霊肉二元論である。死によって魂(霊)は神の国に移り、遺体はただの抜け殻と考えている。だから、彼等は遺体に対する執着が薄く、我が国ほどではないのである。我が民族の遺骨に見せる驚くほどの執着は儒教による影響とも考えるが、日本はいわば霊肉一元論であり、死ねばそれでおしまいという無霊魂論の立場を取っている。一度しかない人生なら、一度しか持てない肉体的遺骸ならと固執するのである。日本人にとって、自分の大切な肉体の一部を他人に分け与えるなんて、そう安々と出来る相談ではないのだ。日本人の肉体に執着する現われの中では、亡くなった人の遺骨を食べてその人を偲ぶという「骨噛み」はその最たるもので、とりわけ、五十年も経った遺骨を戦地へ探しに行く日本人が、肉体に執着の薄い欧米の彼等には理解できないのである。このように、日本人にとってはたとえばアフリカの鳥葬での、ハゲ鷲なんかに肉体を食い千切られるなんて、自分の身が切られるように悲惨で想像も出来ないことである。だからこのような倫理観に立った、このような肉体に執着した考えの日本人の臓器では、この項の「トピックス A 臓器移植」で述べたように「俺の内臓を勝手にするな」と、たとえ取り出して移植しても生体の拒絶反応が異常に強いという形をとって、旨く行くとは限らないのである。 こう考えると、海外に渡航して移植を受けることの出来るほんの一握りの日本人は、彼等の肉体にとらわれない倫理観に感謝しなければならないと言いたいのである。日本は経済超大国とはいうものの、唯心論、つまり心の分野ではこの程度の境涯なのである。これから徐々に臓器提供の申し出も増えてゆくとは思うが、「魂は永遠であり、人は生まれ変わり死に変わりする生命体だから、現在の肉体に執着してはいけない」ということを、日本人に教えるのも一つの選択肢と思うのである。
K ナゼ、死刑はいけないか この地球上が理想郷・ユートピアになるには、悪いことをする人が一人もいなくなり、刑務所が空っぽになることである。だが、現代ではまだそれには程遠く法律の裁きによって死刑を執行される人もいる。目には目を、刃には刃をと、死刑に値するほどの極悪非道の輩だから死刑はしごく当然というのもうなずける。犯罪が多発するのを防ぐために極刑で臨むというのもよく分かるし、被害者やその周辺の人々の気持ちも心情的によく分かる。だが、私がここで言おうとしているのは、死刑の是非についての一般論を論ずることではなく、霊的考察から見た死刑廃止論である。 「一念三千」という言葉がある。中国の「天台智ぎ」が使った言葉というが、人の心は悪に心が向けば悪に通じ、善に心が向けば善の方向に通じ、心は羽根をつけた鳥のように無限の方向に自由自在であるということである。どう考えているか人の心の中までは誰にもわからない。何をどう考えているのかわからない輩を、極刑で臨み死刑執行を早急にすませたとすると霊的にどうなるかということである。人間は永遠の生命であり、魂は生きつづけるのである。勿論、死んで肉体はなくなっているから、言葉を発したり体で行動はできないが、同類の人間に憑(つ)いてその人の心をコントロールして目的を果たすことは出来るのである。これはどういうことを言っているのかというと、悪い心のままで死刑にすると、自分と同じような心の他人に憑依(ひょうい)して、同じような事件を何度も起こさせ、これほど危険なことはないということである。我々は極悪人を地上から葬り去ったからこれで一安心、被害者の周辺は恨みを晴らしたと考えるかも知れないが、実はそうではないということを知らなければならないのである。 だから、こういう輩は無期終身刑にして身柄を拘束し、亡くなるまで徹底的に正しい考え方にマインド・コントロールをして、心の革命、心の改革、修正を完璧にさせてあの世へ送ることである。これを完全にやらないで死刑執行はスルナというのである。そして、被害者やその周辺の人達は、許すこと以外には真の心の安らぎは得られないということも知らなければならないのである。
L ナゼ、長江(揚子江)の大洪水は起こったか 平成十年六月以降、中国最大の長江が氾濫して、洪水で約四千人が亡くなり、日本の人口の約二倍の二億三千万人の避難民を出した。これまでに長江は歴史的に氾濫を繰り返してきたが、その頻度は二、三十年に一度から近年はほぼ毎年である。テレビの報道では、人家の庭先の十メートルほどの大木のてっぺんに漂流物の残骸が引っかかり、洪水の物凄さを物語っていた。次の場面では江沢民首相が復興作業をする人達に向かってハンド・スピーカーで「勝利、勝利」とゲキを飛ばしていた。テレビの訳語が適切でないのかも知れぬが、何が「勝利」なのだろうかと思った。この大洪水のために来日が先送りになって、平成十年末に訪問を果たしたのはご存知の通りである。この98年は中米に超大型のハリケーンが襲って一万二千人もの死者を出したり、バングラデシュの高潮で国土の六割が冠水して三千万人が避難して多くの死者が出ている。世人は、これらはすべて気象災害という言葉で片づけるが本当にそうであろうか。最近は気象の一面を捉えてエルニーニョ現象とか、ラニーニャ現象と喧(かまびす)しい限りである。 サテ、長江の大洪水だが、これはエルニーニョや森林乱伐が原因と多くの人が分析するが、本当にそうだろうか。例え、そこに森林の乱伐があっても、長江流域にドカ雨と長雨が降らなければ大洪水にはならないのである。日常生活を潤す適度の雨なら、生活の基盤を失ったり移住を余儀なくされるということもないのである。それではナゼ、長江流域に、ドカ雨と長雨が降ったかということである。その真の原因は何か。 それは、言論は極端に制限統制され、人口抑制のためとはいえ子供も一人しか産めぬという、人間の自由を損なう間違った主義主張にあるとウエブ・マスターは言うのである。高橋信次師は昭和五十一年の六月の師の最後の講演(「高橋師の最後の講演」の項を参照ください)や、五月の講演において、「権力の座について自由を剥奪する」国々は彼等が自覚するまで食糧危機や天候異変は続くと、「中華人民共和国北部」もその内の一つと名指しで予告しているのである。広大な国土に十何億もの人口、この目を見張るような地域の想念の悪が集団的になると、天候異変や天変地異を引き起こすのである。ほぼ毎年起こるという現実を直視して、指導者は反省の上に立って修正しなければならないのである。 2000年(平成十二年)7月のこと、この長江以北流域では雨が降らず大旱魃で、千に近いダムや貯水池が、干上がっている報道が
なされていた。
天は、政府の指導部に反省させるためには、雨を降らせたり雨を止めたりという天候の操作なんて簡単ということを以って銘すべきであ ろう。
M 無理心中したからといって、あの世で添えるわけはない 江戸中期、近松門左衛門が得意な世話物の、「道行(みちゆき)」にみる男女駆け落ちの行き着くところは、それは心中である。外国の近年では、ナチスの総統ヒトラーは前日に結婚した妻エヴァを道連れに自殺し、イタリアのファシスト党首ムソリーニも愛人クラレッタ共にこときれたのである。彼等は、今生(こんじょう)での熱い想いをあの世まで持ち込もうというのである。ここでは、心中によって本当に彼等は、あの世で添い遂げられるのか考えてみたい。
1.男女それぞれの心の段階、人間性の段階、光の量の区域の違い
あの世は光子量の違いが厳然とある世界であり、人間性(人格)の段階によって定住する場所が違うのである。これはどういうことかと言えば、、これまでに何度も説明しているが、例えば男性が幽界で、女性が男性より上の段階の霊界の人間性の人なら、定住する場所が違うのであの世で出会うことはないということを知って欲しいのである。上の段階からは下の段階を自由に見れる仕組だから、この場合は女性が男性の様子を観察をすることは出来ても一緒に話し合うことは出来ない。つまり、人間性の違いがあれば出会いは出来ないということである。
2.心中は自殺行為だからその責任は重く、神への冒涜である
神の子である人間は、神の生命として魂の修行のためにあの世とこの世を輪廻して生き続ける生命体である。だが、せっかく地上界に生れていながら、自分達の都合によって魂の修行を中断するのだからその責任は重く、特に、私ならこうするという余地の残されたものほど重大だと高橋師は教えている。彼等のあの世の世界は、自分の身の置き場もわからぬという光を閉ざした暗黒の世界で、突然、雷鳴が響き渡ったり何か得体の知れぬ物からかきむしられるという全く安らぎのない世界である。このような二つの理由から、二人が添い遂げるということは無理ということを知って欲しい。それどころか自分達の身の置き場さえも分からない程度の者達である。
N インドネシアの天候異変の理由(ワケ)
インドネシアは、政情不安からルピアが大暴落した。平成十年十二月末、NHKテレビではインドネシアの国内事情を報道していた。まとまった雨が降らないので、何と、六年も米を植えられない所もあるというのだ。今年こそはと種籾(もみ)をまいて苗代を作っても、雨が降らないので六年も田植えが出来なかったというのである。六年もなんて、日本では考えられない慢性の非常事態である。スハルト政権は、権力の座に居座って三十年だ。高人格の、高い人間性の長なら百年やったって構わない。 だが、そうではなかったと見えて、反省を促すために天は、数年前から天候異変という警告のシグナルを発し続けていたのである。その一つが数年も田植えが出来なかった。すると、インドネシアの人達は青空を仰ぎ見ながら、天候の所為にしてギラギラの太陽を怨むのである。また、政権の中枢部は、世界的な天候異変だと説明して言い逃れをするのだ。このような非常事態になるからには、そのような権力者を生む土壌が有ったということと、それを許してきた土壌があったわけである。だが、暗い想念が余りにも集団的となれば、反省させる手だてが用意されているということを、インドネシアの人達は知らねばならないのである。記録的な小雨のために、食糧不足によって人口二億数百万人のうち一億人が飢えるというこの超事態の原因を、もっと真剣に考えなければならないのである
O 真(まこと)の男女愛とは 「タデ食う虫も好きずき」、辛い蓼の葉を好んで食う虫もあるように。人の好みもさまざまである。美女と野獣のような容貌の組み合わせの夫婦もいれば、ノッポにチビも、色白に地黒もある。百人百様の好みがあるので、人の世はバランスが取れて小気味がいい。
人はあの世で、
「あなたの夫として、人生の修行をさせてもらいます」
「あなたの妻として、魂の修行をさせていただきます」
と、夫婦の約束をしてこの世に生まれてくる。 それぞれは両親との縁を通して、この地上界にオギャーと生れると、その記憶も九十パーセントは潜在されて約束事は忘れてしまう。しかし、適齢期ともなると恋愛や見合い等、さまざまな形で男女の出会いをするが、あの世での約束は九十パーセントは潜在され忘れているように見えても、「赤い糸で結ばれて」と言われるように、出会いの初めから「もしかしたら、この人と結婚することになるかも知れない」と、互いに予感があっても不思議ではない。この劇的な二人の出会いは、あの世以来の約束を果たした霊的牽引とも言える。 略奪婚や強制婚もあるが、「念の力は、大は小を吸収する」という法則によって一時の平衡は保たれても、それは自然の理に適っていないだけに、いつかは完全な自由を求めて、心の針は解放の方向へ突き進むことになる。 勿論、離婚、再婚の約束事は、あの世では誰もしていない。再婚の相手も、その人にとって縁ある人には違いないのだが、生れてからの教育、思想、習慣、環境等によって、美しいとか、かっこいい等の五感(眼、耳、鼻、舌、身)主義に陥り、あの世での約束を忘れ、相手を間違えて選んだというのが実情なのだ。 さまざまな恋愛論や愛情論もあるが、真の男女愛とは、天上界で約束をした人と知らず知らずのうちに引き合うという霊的牽引によって再会した、魂の感動を覚える愛である。P 人の役割の任期は、長くても十年まで (「長」はいつまでが妥当か) 人は、組織の最高位につくとなかなか居心地が良いと見えて、居座り続け問題も吹き出す。三十年もの国首、二十年近い国際的スポーツ関係の団体長等、様々である。それでは一体、任期は何年が妥当か論じてみたい。
「石の上にも三年」という諺がある。「三」とは初期完成の数字である。三年とは右にも左にも不安定極まりなく、まさに初期完成の期間である。「五」は中期完成を意味し、「七」はラッキーセブンとか、人類の七千年周期とかいうように完成を意味する。七年目の結果を見ると、それまでに経過した期間が正しいものであったか間違っているか判断がつくということである。国家や民族は三十、五十、七十年、・・・で見るとその結果が見えてくる。「七五三」のお宮参りはこの数字的現われであり、三歳から始まり七歳で終わる。
人は、その地位に就いて三年間は海のものとも山のものともつかぬが、この期間は誠実に努力するものである。だが、年を経るにつけて善きも悪しきもどちらにも結実し始めるのが五年であり、七年で完成する。
このような意味合いから、一般の我々ならせいぜい十年、長くとも十年で交代するのが妥当である。尤も、高人格で超人間性の「長」なら百年やったって一向に構わないと言いたいのである。この人間性を見極める人間性・オーラー測定器は、植物の細胞を利用されるとは、高橋師の予告である。
Qナゼ、多数決的判断に偏ってはいけないか(多数決は平均的な中位の判断に過ぎぬ) 現代社会においては、殆どの物事の決定に多数決的な原理が多用される。小は学校のクラス討議から、大は国会運営等である。多くの人が、多数決によって決定されたのだからと暗黙の内に了解し終止符を打ち納得するのである。 だが、小学校の低学年や幼稚園では、間違いなく先生主導で物事の判断がなされる。それはどういうことかと言うと、先生と生徒、園児という同列ではない上下の関係が、厳然として保たれているからである。同じく、大は、ワンマン会社の社主と社員の関係である。これも社主の努力と経験に裏打ちされた知恵によって上下の関係が半ば強制的に維持されているからである。このような少数の例外も見受けられるが、自由と平等といわれる現代社会では、全部と言って良いくらい多数決的原理がまかり通っているのが現実である。それではナゼ、多数決が最高の選択肢ではないのか。 それは、人間には人それぞれの段階が厳然としてあるからである。高橋信次師はこれを「光の量の区域」と教えた。それは、人間性とか人格と言った方が分かり易いかもしれない。学歴でも、地位や名誉や財産でもない人間の「格」である。永遠の生命である人間は、これまでに生まれ変わり死に変わりした体験の中から涌き出る智慧が、直観とか予感となって素晴らしい考えを持つ人もいるのである。それを少数意見として切り捨て無視して良いわけはないのだ。人間的「格」の低い人達が多くいる集団の多数決は、低い段階の平均的な判断である。人間的「格」の高い集団の多数決は、高い段階の平均的な判断である。
だが、何れの場合も多数決によっては最高位の判断には成り得ない。この最高位の人格者の判断によって、話し合いによるものではなく独裁されるものを、神権政治という。
例えば、人が十人いる中で九人の高位の人格者に一人の最高位の人格者の場合の多数決は、高位の判断であり、 九人の低位の人格者に一人の最高位の人格者の場合の多数決は低位の判断となるが、最高位の人格者によって独断でなされる神権政治は、神の意にかなった政治形態である。ともあれ、これが多数決は最高の選択肢ではないという理由である。
R 終身雇用制は、理想的な雇用形態である 不景気という言葉が闊歩し始めると、こぞって、ギラギラの競争原理である年俸制とか、出来高払いとも言える給与体系へ突き進む傾向にある。力の有る者だけが生き延びれる雇用構造というわけだ。 (「働くこと」や経済については、「生まれ変わりの実例」の松下幸之助氏の項にマトメて述べている) 誰彼をいとわず愛されるというのが神の愛だから、能力の有無にかかわらず最後まで面倒を見るという協調原理の終身雇用制は、神の意に適っているというのである。最近の外国のジャーナリズムは、こと新しく終身雇用を口にするが何も目新しいことではなく、これは良き日本の伝統であった。経済成長と言う掛け声とともに西洋一辺倒になって、良きものまでも捨て去ろうとしている日本は、今更ながら西洋の人達によって再認識させられようとしているのである。能力の有る人は、そうでない人の分まで働き、みんなで仲良く人生を謳歌するのは、神の意に適っていると言いたいのである。 これから二十一世紀の経済は、一種の資本主義形態と銀行形態は改良され、全ての人に理想化されて保ちつづけるが、物々交換と言う経済形態も見直される、というのがアガシャであり高橋師の予告である。技術一辺倒で世界一の金満国になった日本は、そうなればこれから一体どうなると言うのか。 ここに良い喩えがある。おなかをペコペコにすかした日本人が、現在の価格で十万円のノートパソコンを小脇に抱えて歩いていた。向こうから牛車に現価なら一万円分の食べ物を満載した外国の人が通りかかった。わけを話してパソコンと食糧を交換してもらうことになったが、「家族もおなかをすかして待っているので半分でよければ」ということになった。こうして、現価で十万円の物が五千円の価値になるかもしれないという話である。物々交換の世とは、これほどまでに価値観の発想の転換をさせられるという世界である。かっての戦中、戦後を体験された皆さんは高価な物がわずかな米と交換された時代をよくご存知だが、現代の子供達は、そのような時代を必ず体験するのである。 サテ、終身雇用制がナゼ理想的な人間の道か、もう一つ示そう。それは過去世からのつながりの中で、縁の有る者同志が組織に集まって来ているということである。かって、あなたが随分とお世話になった友人、先輩、後輩、恩人等が、あなたの会社を盛り立て引き立てようと、自然と一つに集まって来ているのである。経営者のあなたよ!そう考えたら、あなたの部下を粗末には出来ないのである。高橋信次師は講演の中で次のように言っている。
「今の経営者は戦国時代の武将です。刀は持たないがお金という力を持っています。自分の心を作り、自分を完成することをまず優先させることです。職場は、過去世にも縁の有った者が、自然と自ら一つに集まって来て、魂の修行をする場であると言うことをよく知って、職場におけるそれぞれの役割を果たしつつ調和して、経営者は経営者として、労働者は労働者として、それぞれに自己の完成に励んでゆくことです。そしてみなさん自身の転生の偉大さを知ってゆくことです。」、と。
S 喘息やアトピーの原因は、家庭の不調和(話合いの出来ぬ家族関係等)
喘息やアトピーの原因はダニや食べ物等が原因と、まことしやかに語られている。そこにどんな理由がつけられようと、実はそうではなく、家族関係の不仲が原因と正法では教えている。
主人が余りにも厳し過ぎたり、或いは、妻の性格が余りにも強く心の中で裁いてばかりいると、夫婦の心からの会話は段々と遠のくものである。当たり障りの無い会話に終始して、いかにも外見は人もうらやむものでも、それが長期に及ぶと、その家庭の雰囲気、環境を正常な状態に戻すために、天をあげて喘息やアトピーという問題を起こして修正させようとするのである。喘息やアトピーは、ご存知の通り特効薬はない。根治療法はなく対症療法に過ぎないのである。つまり、原因が混とんとして、真の治療法が分かりませんと言うことである。
喘息はゼーゼー、ヒューヒュー、ゲボゲボの喘鳴。アトピーはボリボリかきむしり、むづがしかる。それはそれはもう悲惨で、そばにいても居たたまれない程だ。ましてや自分の肉親なら、どうにかしてやろうと心を痛めるのは当然であろう。特別に調和しようと努力したたわけでもないのに、酷い症状を通して家族の会話が始まると、それが一条の光となって家庭内を照らし始めるのである。あれほど酷かった症状がいつの間にか治ってしまっていたというのは、これが所為である。
勿論、劇的な反省は劇的な良い結果を生むというのも神理だが、酷い症状に対して不快感を顕わにしてうるさがるようでは、ますます酷くなって行くというのも、これもまた神理である。同じ環境の同じ家で生活をしているのに、この子(人)ばかりはどうしてこんなことになるのかとこぼして嘆く前に、極端な生活態度を正してくれる子供(人)の中の子供(人)であり、魂の勇者であるとたたえなければならないのである。特に、大人の喘息の場合、家庭内の不調和を口に出して言わない、言えないだけに、それが内にこもって限界を超すと、喘鳴、咳となって外にあふれ出る。
このように、病気の中でも特に原因が分からない、治療法が分からないので民間療法が山ほど有るという病気の場合は、神の子・人間の生き方を警告したものと考えなければならないのである。
純粋な筈の子供たちが、我々大人達が理解できない事件を引き起こしている。これも国民を反省させる一つの現象に違いないのだが、
それにしても困った問題である。森首相の神の国・発言問題がこの時期に出たというのも、あながち的外れでもなかったと考えるので
ある。人間はどうしようもなく困った時には、神様!と天を仰いで祈るように、日本人の政治代表の首相が、神の子である人間・日本
人が住む国ということで神の国発言があっても何ら不思議ではなかった。神の子が住む国だから神の国なのだ。日本人だけが神の子で
はない。どの国の人間も皆神の子である。アメリカだってアフリカだって神の子の神の国なのだ。
サテ、最近の事件の特徴は、加害者の心の中に異人、霊神、霊人が登場することである。名称は勝手に付けるのだから何でもよいのだ
が、アレッ!と思うような名称の人物が登場した時には、加害者の心の中に巣食って、本人を言いなりにコントロールする悪霊、地獄霊の存在が
ある。加害者の家庭環境、両親の育て方、本人の育った社会環境など周辺の全てが今の本人を作り上げ、結果として悪霊と同類になって悪霊の
言いなりに事件を引き起こすことになったのである。心の問題があったから、既往歴には精神科、心療内科の門をたたくことにもなるが、現代医学
ではどうにも手立てがなかったようである。
では、どう治すか。
心の正しい尺度・正法を強制的に教えながら、運動を強制的にさせ、心と肉体を同時に健康にさせてゆく。
心の問題は正法で、体は運動で治すのである。
特に昼夜が逆転した生活をするので、それを解消させるには運動によってクタクタに疲れさせること。大事なことは通常の就寝時間までは断
じて寝かせてはいけない。
悪霊の活動時間は深夜だから、起こして騒がせるということを考えてほしい。精神活動のエネルギーは睡眠によって補給される。不眠でトロトロ
した眠りは神のエネルギーを受けられぬばかりか、悪霊の憑依を許すチャンスを用意したことになる。
運動で疲れた心地よい眠りは悪霊といえどもお手上げなのだ。
これらの人達は、動きたがらない風呂に入ってサッパリしたがらないので、根気よく強制的に正しい生活の習慣をつけさせなければならない。
昔の人は言った。「健康な肉体に健全な精神は宿る」は正に至言である。
