「正法と辻褄の人生」 ー ウエブ・マスターの懺悔録 −
ウエブ・マスター 八起正法(やおき まさのり)
八起正法(やおき まさのり)、医業。私は、第二次世界大戦中、炭坑の近くの医家の子として生まれました。
算数も読み書きも全くダメなものですから、「この子はお墓のお守りにしかならない」と両親はガッカリしていたようです。友達とは棒切れを振り回して野山を駆け巡ってばかりいたものですから、家族の「この子はどんな服を着せても破いて帰って来るし、袖は青鼻を擦りつけて汚す上に、何を着せても似合わぬ子だ」という言葉が簡単には削り落とせぬ位に私の心にひびきました。
その頃に特筆すべきことは、農家のチャボが襲って傷つき大騒ぎをしたことと、刈り入れのすんだ稲積みの山を飛び移っているうちに足を折ったことです。
十五歳位までの子供の病気やケガは、親の問題が原因だそうです。それ位までの子供の問題は子供そのものといっても、まだ子供の心には純粋さが残されているからまだ悪因は少ないのです。
今でこそよく解かりますが、 私が所帯を持ち子供に問題が起きても、その頃は私達夫婦が原因とは気付きませんでした。
その頃の父は、医業に余り熱心ではなく、素人山師として、満載した坑木を降ろしては花柳界に入り浸ったことが、父の記述にも窺い知れます。時代が時代だっただけに、一かけらの石炭も欲しい戦時のことですから、少し位い寸足らづの坑木でも無審査のような状態で高い値で売れたようです。その揚げ句には、小銭を持って出掛けては好きな酒を飲んだようで、これでは両親に調和がなかったのでしょう。
それでも、久し振りに見る父が大好きで、しばらくするともう父の後を追っかけていました。
その頃のことです。祭りの夜、賽銭箱の中に手を入れて盗ったお賽銭で買い喰いをしました。小さい六本の手は難なく賽銭箱の格子を通り抜け、皆で神社の片隅で頬張るのです。

私の生家は、塀に囲まれた白壁の大きな二階家でした。
或る日、数人の見知らぬ人達が家財道具にペタペタと紙を貼っていました。後で税務署の差し押えと理解できましたが、それから間もなくして、便利の良い駅前に移り住むことになります。父はそこを新天地に求め、小さなモルタルの家が新築中でした。夜になると父母は、モルタルの材料の川砂を川岸から何度も採取してはリヤカーで運び、夜更けて家に帰り着く頃には、私は起こされるばかりのリヤカーのお荷物でした。
それから、新居が完成に近い状態で旧宅を明け渡します。その時、一俵(60キログラム)のお米を餞別に頂き、トラックの私はまるで凱旋将軍のように誇らしげでした。
新居へ向かうと、もうすぐお正月だというのに、まだ窓には一枚のガラスも入ってなく、皆で厚紙を鋲で止めました。私が医療専門校で講師として教えた時のこと、この厚紙のことを「馬フン紙」と話したら、二十歳位の学生達は笑って理解してくれなかったので「厚紙」としておきます。
まだ掘ったばかりの井戸は泥色で大晦日を迎えます。
その日のことです。母が電車に乗ろうと傍らのホームのベンチをふと見ると、フロ敷包みが置き忘れてあったのだそうです。それは搗き立てのホヤホヤのおモチが二十個ほどだったらしく、神様からの頂きものだと家族のお腹の中に納まったことは言うまでもありません。暮れが近づく度にこの話が出て、みんなで涙ぐみます。
暮れは私の誕生日です。誕生日は生んで下さった両親に感謝する日です。なのに、母は末っ子の私に亡くなるまで金品を送ってくれました。
こうして、転校すると新しい小学校には腕力の強いボスがいて、野山を駆けて強いハズの私も、相撲に負けてその日のうちに準ボスです。腕力には自信があるのに勉強の方は相変わらずでした。ひと月もせぬうちに生まれ故郷の仲間が訪ねて来て、近くの八百屋さんでミカンをポケットに入れるのが見つかりました。この時もいつものように母からこんこんと諭されます。
それからは彼らと全く疎遠になっていましたが、大学から帰省の途中で偶然に出会うと、学生の私とは違ってもう立派な大人です。送ってくれるという好意に甘えて見ると、車には若い女性の先客がいました。途中で、私に少し待つように言うと公園の木立ちの中に女性を促して出て行きました。人影がやっと見える暗さになった時、突然の女性の悲鳴です。私がライトを灯け車の警笛を鳴らし続けると、バツの悪そうな顔をして戻って来ても、車内はしばらく気まずい雰囲気に包まれ、それが彼らとの最後でした。
でも、新居の向う隣りの勉強の出来る児は少し勝手が違います。待ちに待った夏休みが始まりました。私が朝から遊びに誘うと、「今日の勉強が終る迄は遊べない」と、ニベもないのです。今までとは様子がまるっきり違いました。その先の児も同じで、待ちに待った夏休みも何んと味けないのでしょう。去年はこんなことをして遊んだ、あんなこともしたのにと思うと、情けなくて仕方ありません。そんな風でしたから、父兄面談のたびに「少しは勉強させて下さい」と言われるのが辛いと母はいつもこぼしました。
それからは今までと環境が激変したために少しは勉強をするようになりましたが、それもつかの間、少学校四年生の春頃から微熱が続くのです。それは兄姉が結核と肋膜炎で療養をしたからに外なりません。診断は肋膜炎(胸膜炎)という胸膜に水が貯まる病気でした。勉強嫌いの私もこの頃には学校を休めば勉強が遅れるという不安が心の片隅に芽生えていました。
この頃には新天地での医業も順調に展開して木造モルタルから鉄筋コンクリートへと代って行きます。
私の仮の病室は舟底天井と茶室付の小ざっぱりした居室で、滋養をつける為に高価な玉子とバナナを食べさせて貰いました。その頃の母は、夜、医業のお手伝いが一段落するとサッと服を着替え、姉の入院する結核療養所へ向い、面会を終えると急ぎ最終のバスに乗って帰って来るという毎日でした。数年前、私は母と一緒に母の里を訪ねる機会がありました。苦しさの一切を語らない母を国鉄(JR)の駅へ送って来た医家の伯父さんが、「何があったのか」と尋ねるとワーッと泣き崩れたという駅は、今はもう廃線になっていて、心の中で「ここだったのか」と思いました。
こうして、三か月の遅れを取り戻すために心を入れて勉強を始めると、それからは学級委員(当時は級長と言いました)や役員にも指名されるので本当に学校が楽しくなり、それからは母が面談から喜々として帰って来るのです。五年生の時は卒業生に対して送辞を読み、小学校の卒業式には答辞を読みました。その当時は勉強の出来る者が送辞や答辞を読むことになっていたようです。四、五、六年生の成績は、全んどの教科が五段階分類で最高の五で、一、二、三年生の成績は、全んど一か二で、音楽と体操のみ三か四でした。
小学校は二つの中学校に分かれ、大好きだった女の子は別の中学へ進学します。小学校五年生だったでしょうか、二学期の席替えがあって、当時は一つの机に男女が二人並ぶというものでした。大好きな子と相席です。その子が帰っているのを見つけると、心とは裏腹に意地悪をして困らせ、その反対に出会わないとションボリして帰りました。隣席が嬉しいのに反対の態度をとったものですから、先生が心配をなさって一週間後にはとうとう席を替えてしまわれ、それからは並ぶこともありませんでした。
これは何を着せても似合わない子、醜男という思い込みがそうさせたと考え、中学の時には眼鏡によって男まえを上げようと考えました。学校の検査の日は曇天で、外光だけの教室は特に見えにくかったのでしょうが、それ以来、私は眼鏡美男子です。
そして、五、六才の頃には幼なじみと〃お医者さんごっこ〃をすると、患者さんはなぜかズロース(パンツ)も下ろします。医家でしたから、針のついていない注射器も傍らには用意してあり、やっぱり何か後めたい心が働いたのか場所は人気のない部屋か押し入れでした。器具を下部に当てていたら患者さんは火がついたように泣き出すものですから、びっくりした先生は唯おろおろして一緒に泣き出す始末です。広い家でしたから一度も見つかることはありませんでしたが、お医者さんごっこはそれっきり止めたように思います。
「他人(ひと)に嘘はつけても、自分の心には絶対に嘘はつけません。」
それは小学校四年か五年の秋の、少し勉強が面白くなって、人のお世話も出来るようになっていた頃です。放課後にソフトボールをした後、教室へカバンを取りに戻ると、なぜか棚の上に答案用紙が無造作に置いてありました。辺りを見回し自分の答案用紙を探し出して答えを書き換え、どんなに慌てて教室を出たか覚えません。返された答案用紙はもちろん満点でした。
同じくそれは中学二年の時です。
答案用紙を返しながら先生はおっしゃいました。「うっかりして皆さんの点数を記録簿に書き忘れたので点数を教えて下さい」と番号順に記録を始められました。私の番になると、躊躇しながら「ハイ九十二点です」と答えると、先生は記録簿から目を離し私の顔をじーっとご覧になり、全てご存知の様子でした。
小学四年か五年生のときです。
大柄なおっとりした男の児がいて、先生はお昼休み前から、その児を相手にソフトボ−ルの練習をなさっていました。焼きもちをやいた誰かが、その児の机の上に山の様に盛られた皿を二枚も置いたのです。それに気付かれた先生は「男らしく謝れないのなら全体責任」と、級長を先頭に男生徒全員のホッペタを思いっきり平手打ちされました。先頭の私のホッペにも勿論のこと先生の手型がクッキリ残りました。生徒達はお互いのホッペタの手型を見比べながらも、先生の悪口を言ったり親につげ口をする児は一人もいませんでした。
小学校一、二年生のことです。
名前から勇ましい、腕力の強い児がいました。その児の関心を買う為に、姉の持っていたミニカメラを貢ぎました。姉の知るところとなり、理由を話して返してもらうと、それからは余計に立場が悪くなりました。
同じく小一か二年のことです。
トマトは、ひと雨ごとに赤く色づきます。三つのコーモリ傘がトマト畑の中に見え隠れして、家に帰り着いた時には、母は見張り小屋のオジさんにしきりに頭を下げていました。オジさんが帰ると、今度は私が母にしきりに頭を下げる番でした
小一の学校の帰り道は下痢気味でした。間に合いませんでしたので、里いも畑に飛び込みノートを破きました。
同じく小一です。
青ノリの程よく塩気の効いた、「ふりかけ」が好きでした。自分で作ってみようと海の近くへ友達の後について行くと、掘り割りには「青ノリの元」が水面一杯にあって、アルミニュームの弁当箱が一杯なんて、ひとすくいです。帰るなり喜び勇んで母に告げると、笑いながら、淡水の水藻と教えてくれました。
この頃のクリスマスには、朝、目を覚すと、枕許にはサンタさんからの贈り物がクツ下一杯に詰まっていました。中からは銅線を巻いたモーターや、盃やら、小間物が一杯出て来ます。この話しをすると、いつも母は涙ぐみました。サンタさん本当に〃ありがとう〃
小学校四年生の時には、兄に教わって三球ラジオ(真空管が三本、並三と言いました)を作って夏休みの製作展で褒められてからは、ラジオばかり作っていると、「明日は学校でしょ、もう止めときなさい」「ハイ、もう少し」とこんな調子でした。最近はICやプリント基板が中心です。真空管時代はフィラメントの発光が闇間に映え、何んとなく温もりと夢がありました。読むのはラジオ製作の本ばかりでした。
御存知でしょうか「ワイヤー・レコーダー」?
テープ・レコーダーではありません。中学校の倉庫に変った機器があるという噂を頼りに、無線部長は部員とともに視察をしました。それはアメリカ製の、テープの代わりに細い金属線に録音されるというものでした。線が切れると結ぶ以外に手はないので、卒業する頃にはワイヤーは〃コブ〃だらけで、奇妙な音を立てていました。その部室は、時には下級生の「性教育の場」にもなりました。講師は部長の私、資料や教科書は家にある婦人雑誌や父の医学書で、講義がすむと慌てて返すのです。
それから少し話は戻りますが、同級生の一人に腕力もあり勉強の出来る早足の児がいました。小学校の卒業式が終ってから、それまでにいじめられたことのある子達が集まって仕返しをしようという謀議が企てられていました。小学校は二つの中学へ分れるのでチャンスはこの日しか無いというのです。私が下級生のアーチの中を送られ涙を浮かべて家に帰っていると、棒や石を持った一団が戻って来るのに出遭いました。尋ねてみると、皆んなでその児を取り囲んだら家の中へ疾風(はやて)のように逃げ込んだらしく、棒も石も使わずに帰るところらしく、これで本当に良かったと思いました。
その頃の子供達は、断念する心、限度とか「ほどほど」ということを心得ていたように思います。
そして、先の早足の子が、中学の帰り道にオス犬を仰向けにして何やら調べていました、何日かして今度はメス犬も調べていました。それから彼は、オス犬とメス犬が交合する時どうしてハズれないかと言う論理的根拠をトクトクと教えてくれました。自らの実地研究により到達した彼の所論は、いま考えると少し無理はあっても、なかなか立派な堂々としたものでした。
また、中学には現代のような立派な講堂も無く、朝礼(朝の校長先生の訓話)では、校庭(運動場)に全員が集合して先生や生徒会役員の話を聞くというものでした。
梅雨のシーズンには朝礼は月の内に何回もなく、夏になると日射病や貧血で倒れる人が沢山いました。現代ならもっと酷いことでしょう。
その時、私は校内を美しくするお掃除の役員でした。腰を下ろした生徒を前に、お立ち台で喋っていると上級生の最前列の女の級長さんのパンツが、みるみる真赤になりましたから気になるやらビックリするやらで、話はもうシドロモドロです。特に、その直後に廊下で出会った時なんて顔をまともに見れない程で、上品な感じの頭の切れる人でした。
同じく、中二の陽差しの厳しい朝でした。
この頃東京タワーが完成しています。東京の学校に在学していた姉から東京タワーの色んな資料を送ってもらい、夏休みの工作は東京タワーでした。原寸の何十分の一という想定で、鉄の針金の十六番線とか八番線とかを切ってハンダゴテで溶着するのです。締切日にはほとんど眠らずに完成させたものですから、目の前が真っ暗になり直立不動の姿勢で倒れました。気が付いた時には保健室のベッドの傍らから、母が心配そうにのぞき込んでいるところでした。こんな事があった後、デパートで開催された「発明・創作展」では県知事賞をいただきました。私の作った東京タワーのそれからは、校長室に展示され大学を卒業する頃には返していただいて、最近まで実家で見掛けていました。
それから、青春時代の潔癖さと言えば兄が正にそうで、親戚の気さくな伯母さんが恥毛の発生時期を話題にされたところ、兄は伯母さんにしばらくは口も利きませんでした。私の変化は中二でした。
中学に入って運動部に見学には行っても、胸膜炎も患い元来健康ではないという理由から入部せず、大学まで文科系のクラブ一辺倒でした。病弱とはいっても中学は殆んど休んでいませんが、正義感と喧嘩は人一倍強くて、弱い者いじめをする者を見るとだまっておれません。授業をサボり背広と革靴をはいて校内外をうろつく一団がいました。顔を合すと私が注意をするものですから、彼等にとっては私のことが煙たくて仕方ありません。そんなある日、五、六人から刃物で囲まれ裏山に連れ出されました。教室でションボリしていると先生方が心配して下さり、後ろ盾を得て彼等より優位に立ち校内は平和でした。
同じく、東京の研修医の頃の国電の中です。
黒帽子をかぶった黒ずくめの見るからに映画の中のヤクザです。喧嘩が始まると乗客は見て見ぬふり、そこで私が「やめんか!」と中に割って入り、それからは乱闘です。公安官に引き渡して終りましたが、私は終りません。その日は、お正月に向けて故郷へ帰る日です。飛行機には間に合ったもののズボンの尻は二十センチも割けて、スチュワーデスも笑っているようでした。
同じく割けたズボンは、医会の幹部です。
お葬式で私を見つけるなり、「破けてねえ、ズボンが」見ると黒のズボンが二十センチは割けていました。そこで、私は後にピッタリと人に気付かれないようにガードをして、それからはムカデ競走やらカニの横ばいが寺の外まで続きました。
歓楽街で夜の店を開いていた頃のこと。
チンピラ風の無銭飲食を見かねて、九十キロの私が男の首を掴んで交番へ直行すると、オマワリさんに「余り無茶なことをしてはいけません」と諌(いさ)められました。
ヤクザな人と言えば父の実弟がいました。
事業らしきことで父を誘い込んだり、生活そのものは正にヤクザで、麻薬(ヒロポン)中毒、アルコール中毒が原因で家庭は四散、最期はガンで亡くなり死体解剖にだけに役立たれたような伯父さんでした。その頃、父は坑木切りで不在でしたので、酒に酔って興白半分に大声を出して戸やガラスを叩き破ったりするものですから、夕方の帰って来る頃になると、私達は立った状態で食事をして逃げ出す準備をしていました。「ガシャン、バリバリーン」、家族が奇声を上げて一斉に家を飛び出します。どんなに急いても私はワーワー泣きながら最後について走りました。そして近所の庭先に潜んでいると、気の毒がられた軒先の主が足を濯ぐ湯を用意させて、親切にも泊めてくれた人情の温かさと真冬のオフトンの暖かさが今も思い出されてなりません。
この父の実弟は自らの生き様ゆえに道を誤り、ついには寝倉も定まらぬアルコール中毒者のような状態でした。私達と一緒に暮していた「おばあ様」に小遣いを無心してはまた飲むというもので、父の申請によりアルコール中毒者として強制措置入院をし、結末はガンにより声を失い、病院に近いと言う理由から最期は私一人で看取りました。連絡を受けた父は一言、「人様に迷惑の掛け通しの人生だったから人体解剖を」と申しました。
彼の特記すべきは二つあります。一つは兄である父には絶対服従で、三歩下って影も踏まずという感じでした。父は山に籠っていた頃の実弟の酔狂が信じられなかった様子で、母は尚さら憐れでした。それにもう一つは、神社と言わずお宮と言わず、お地蔵さんから祠に至るまで巷の神々と言われるものには直立不動で頭を下げる姿を見ていると、偶像を崇拝したり神というものを崇めながらも彼の生活行為は恥ずべきもので、伯父の神仏に頭を下げる姿を見た時、「正しい生活行為こそが正しい信仰ではないのか」という思いに至る「きっかけ」にはなりました。
こうして中学時代は勉強もしラジオも作りました。両親と一緒に旅行をしたという思い出はなく、その為に勉強が疎かになることはありませんでした。私の現代はそうではなく、旅行だアウト・ドアだと私の都合だけで家族を動かすものですから、勉強に身を入れる環境にしなかったことが悔まれ子供達にすまなかったと思います。その頃の私の勉強部屋は、小学校時代の茶室付の仮の病室だった所で、広い応接台一杯に本を広げて遅くまでいたしました。頭が疲れると隠し持ったる婦人雑誌を棚の間から出しては女性器図などを広げ、家人の気配にアワテテ元の位置に仕舞うのです。級友間では「千擦(せんずり、オナニー」も話題に上りましたが、まだ私には経験はありませんでした。
高校受験期には少し離れた大学附設の高校に的を絞って、受験科目にはない教科には出席せず、教室で一人勉強をしました。受験は合格でしたが、まったく恥しいことに一緒に受験した一人の子は小学生の時に私を泣かせた子で、不合格を喜ぶ心が私にはありました。それから、母のサイフから三、四度お金を盗みました。買い喰いをした記憶はありませんから多分ラジオの部品代にしたと思います。
また、大学時代のことです。タクシーに乗ると後部座席に一万円が落ちていました。届けもせず、部屋を訪ねてくる恋人に対する見栄のために格好のいい棚に化けてしまいます。棚を見るたびに心が痛みました。その反面、これまでに三度わずかな金額でしたが、警察へ届けています。
二月には受験戦争から解き放たれた私は有頂天で、頭が良いんだという増上慢の心が一杯でした。それからは兄の所有していたスクーターを分解したり組立てたり、組立てては試運転(無免許でした)の毎日です。受験後は大好きな機械いじりに没頭して勉強は嘘のようにしませんでした。中学の時も中二で送辞、卒業式の時は答辞でした。中学の卒業式での校長先生の合格校報告の時には、一流大学にでも合格したような鼻息でした。夢にまで見た入学式も終えても、それまで三カ月間も勉強の習慣を捨てて機械いじりばかりに没頭していた私は、空気の抜けた風船のようなもので、張りもやる気も消え失せて入学最初の実力テストでは中位の成績でした。
数学のテストの時間です。
初めからの数題はわけもなく解けました。次の問題は全く歯が立たず顔が「ホテッ」て頭が「カーッ」として、下半身の男性自身が急に硬くなって右に置いたり左に置いたり股にはさんだりしている内に、アッと言う間にパンツがネバネバしました。それからはスッキリ落着いて問題を考えられても、解けないものはやっぱり解けませんでした。自らの意志で男性器自身を初めて触れたのは高一の勉強も学校も興白くなく神経性下痢症に悩んでいた頃で、罪悪感も世人が言うようにはありませんでした。
実力テストが中位という、味わったことのない挫折感に苛(さいな)まれ、完全になまけ癖、遊び癖が身についてしまっていた私は、夏に向う頃から神経性の下痢症とかで、下着の検査をしても痕跡もないのに下痢の臭気が車内に充満するような錯覚に悩みました。冷房車のなかった時代で車内の臭いがすべて自分から発する臭いと思い込む軽度のノイローゼでした。
私に似たような同級生も中にはいました。
蓄膿症(上顎洞炎)が勉強の出来ない理由の一つと考えた総合病院の息子は、春や夏の長期休暇の時期には顔面部のありと全ゆる「洞」を手術の対象にして、今度はマユの下から、今回は東京の〇〇医によって耳介のワキから切って…と説明する彼の手術痕は生々しく憐れにさえ思えました。でも、手術の回数の割には勉強は変わりばえしなかったように思います。これと同じような例で口腔外科医から聞いた話は、「アゴが前に出っ張った男の高校生がいて、それが登校拒否の理由の一つと考えた両親は、夏休みを利用して、アゴをウーンと引っ込める手術を大金をはたいてさせたそうです。手術の結果に子も親も大満足でしたが、相変らず登校拒否は続いて好きなギターばかり弾いているのだそうです。」と。
高橋信次先生の一番弟子の園頭広周先生によると、登校拒否、イジメ等の最近の学校問題は夫婦の不仲、家庭の不和が原因ということです。私も子供を通して勉強しました。私の子供の場合は、正にそうでした。
先を続けます。
それからは、学友全員が人を押しのけてでも先に出ようとする競争心に圧倒されて学校が増々いやになり、有るだけの言葉を用意し両親を説得して下宿生活を始めます。それまでに努力をしなかった者が下宿生活を始めたからと言って、急に勉強が出来るハズもありません。そこは大学生を主にした食事付の下宿屋さんで高校生は私一人でした。それからは神経性下痢症も嘘のように治り、新生活は私にとっては夢のようなもので、大学生と遊んだり近くの下宿生活をする同級生との新しい関係が出来て来ます。進学校というのでクラブはなく情熱を傾ける発散の場は体育祭の時ばかりでした。打上げの時に初めてビールの味を知りますが、それは高一でした。
次は高二です。
下宿生活にも慣れ、若さの発散の場を学内に求めることもできないものですから、近くの山に登ったり学友と遊んだりして時間を過ごしました。夜、淋しくなって近くの学友を訪ねると、タバコを吸っている人がいて、「類は友を呼ぶ・類は類をもって集まる」の譬のように、タバコを吸う者やこれから吸い始める者達が集まっていました。タバコを初めて吸ったのは高二の時です。煙たいばかりで何の感動もありません。大学時代はヘビー・スモーカーと言われる位に吸っていても、三十代の初めには完全に止めています。そのきっかけは夜の商売を始めたとき、自分の好きな事をやるのだからタバコの一つ位は止めようという極めて単純なもので、一旦こうと決めると私は意志は固いと思います。禁煙会や禁酒会なるものがあっても、どう理屈をこねても意志の弱い人達の集まりと私は思っています。やめられない人は、止めようといくら心では思っていても、潜在意識では止めたくない心、止めようとは思わない心があるからです。止めたければ心の底から止めると決意して止めれば良いのです。
これまでに、泥酔した事は余りありませんが、大学四年の大学祭の時に一度あります。日本酒を冷酒でラッパ飲みをして街を闊歩した後、先輩のお宅へ泊めてもらいました。交番の前では校歌を唱い、先輩の家に着くと御両親の寝室に入り込み、手をついてご挨拶をしたのにおぼろにしか記憶にないのです。先輩の話と、ご両親の「お行儀が良いのですね」という朝のご挨拶に恐縮するのでした。夜の商売をしている時もほどほどで、失敗もなく酔狂を演じたこともありませんが、これまでの人生の中で私の最大の粋狂は、全んど記憶にない位に飲んで女性を訪ね、心に思うことがあってフスマを三枚、足で蹴破って大暴れしたことです。悪因は悪果でありその原因となるものがありました。
話は元へ戻ります。
高二から高三の時には、友人と連れ立ってストリップ劇場にも何度か通いました。その頃の踊り子さんの音楽はブンガチャッチャの四、五人編成の楽団でした。踊り子さんの最後の曲の終りに、スポットライトの消灯に合わせて陰毛がチラリと見える程度で、ストリップそのものというより、幕間のコントの興白さにころげ廻るのでした。
数年前のビニ本に始まって、それより前の、ブルーフィルムといわれた八ミリ映画、裏ビデオ、そして最近の、一流週刊誌にまでも掲載されるヘアーヌードがあります。時代の流れとともに陰のメディアから、表街道にまで出て来てしまった感じのセックス産業の氾濫は、どのような理屈をつけようと、決して尋常ではないと思います。そして、その行きついたところが、性病だけには止まらず、社会問題化しているエイズの問題です。アメリカへ視察に行った時も、エイズ患者からの医療行為を通しての感染の問題など、悩める先進国アメリカの現状を見て、正に「困れる世紀末」という感じは拭えませんでした。人類はこれまでに「悪因」を作り出して来て、いま、「悪果」としてのエイズの地球的規模での大問題は、臭いものにはフタ式の姑息的な問題解決ではなく、伝染を防ぐ為に「コンドームを」と言うスローガンも必要ですが、それだけにとどまらず、永い時間を掛けても人間教育を地道に続ける以外に方法はないと思います。性の混乱、性の頽廃、性道徳の乱れが人類にとって「困りもの」なので、自然は、エイズ蔓延という大問題を人類に提起して修正を促していると思うのです。
それでは、私の反省を含めて「性」について、高橋信次先生と、その直弟子の園頭広周先生の教えを要約して見ましょう。
「性の結合の目的は夫婦愛を完成し、お互いに愛情を確かめ合うものであり、単なる性欲の満足の為ではありません。神の子・人間の、動物の所謂、種族保存と言う行為のみとするところとは違うのが、この一点です」
このように、
1)性の結合の目的は何か、ただ単に性欲の満足の為なのかどうか。
2)その相手は正しい相手であるか、不倫・売春・浮気の相手なのかど
うか。
3)その為す時間はどうか、人が一生懸命働いている昼間から行うのかど
うか。
4)行う場所が適当かどうか。
この、1)目的 、2)人 、3)時 、4)場所を、園頭広周先生は「性の四要素」と名づけられ、この四つが正しい時、神が陰陽に分れ、陰陽が再び結合するというこの行為が、愛を確認しあい、愛を向上し、魂を向上し合う神聖な性行為となります。そして、相手を次々に変える浮気な男も女も、心の、魂の満足の得られなかった哀れな人達です。浮気をして、買春をして罪悪感を伴うのは性を享楽の対象にしたからで、神の子・人間は本来、性の「正しさの尺度」を心の内に持っているから、その心に照し合わせてわだかまるのです。
ところで、私が淡い恋心にも似た感情を持ったのは高三でした。成績もはかばかしくなく、高二の頃から下宿に数学の家庭教師には来て貰っていましたが、英語の適当な家庭教師がいないからと、質が高いと言われる少人数制の英語塾へ通います。実力テストの結果によって、私は三年生でありながら高二のクラスで勉強することになります。この頃には少し敗北感にも慣れっこになっていたのと、感じの良い女学生がいましたから抵抗はさほどではありません。男子校の私にとってミッション系女子校のその人はとっても新鮮に思えました。雨の日、塾も終って帰っていると、おかかえ運転手つきの車のドアが開き送ってくれることもありました。大きな総合病院の娘(こ)で私の片想いでしたが、大きな総合病院という憧れとミッション系の深窓に育った私の知らない部類の娘という複雑に交錯した心情が、私を余計に駆立て勉強どころではありません。会えない日は、その娘のいる病院を眺めるだけでも心が落着きました。その娘の一家が礼拝に通う教会にも暫く通い、上品なお母さんと一緒に入ってゆく姿を何度か見ることになります。後姿を追っては心がときめきました。
もうすぐクリスマスという日、少し離れた所からその人の家を眺めていると、どんより曇る冬空は季節柄何かもの悲しく、親許から離れて一人暮す下宿生活は自ら選んだとは言うもののもの淋しく、ガラス窓越しに点滅するツリーの明りが今にも泣き出しそうな私の心を一層人恋しくさせます。この娘との結末は、これから述べる大問題の為に私は大学受験も出来ずにストレートに予備校の門をくぐります。一学年下のその人は一年後に現役で私立医大合格をしますが、私は一年浪人を経て同じく合格を果します。こうして六年間の同学年生を数えて行くことになります。何度かの文通を続けながら大学入学後の夏期休暇に入った或る日、私はその娘(こ)を訪ねます。厳格な家風のようで、お母さんにご挨拶の後も二人だけで話しをすることも出来ず家族の者がいつも周囲には居ました。数年後、体をこわして自宅療養に帰って来たその娘を訪ねると、私の永い間に抱いていたイメージとは異なり都会での生活は清楚だったその娘をも変えてしまったようでした。傷心の思いで家に帰り着いた私の、心なしか元気のない様子に父は「どうだったのか」と問い掛けると、「ハイ、初恋は終りました」と元気なく答えました。
その大事件とはこうでした。
それは高三の三学期も始まろうとする直前のお正月の三箇日も明けた頃です。私は学校に戻る為に家を出て、乗り換えの駅頭に立って獲物を狙う鷹のように何かを探し求めていました。広場の隅に観音ドアの高級車を駐車して立ち去る人の影が見えました。すぐに戻るという様子ではなかったので私はゆっくりと車に近づいて、隠し持ったドライバーで三角マドをこじ開けると、手を入れて悠々とドアを開けました。私は「やったあ」という気持で下宿へ向うと、下宿組は周辺のそこ、ここに帰っていて、集団でドライブとしゃれ込んだのです。もうそのときには罪の意識は完全に消え失せて、両親の悲しみの顔など思い出すこともなく、また、車が忽然と消えてしまって、持ち主が大騒ぎしているのではと考えることもなく、若者が楽しくふざけながらドライブするように車を走らせていました。
私は車の中のボスです。どうしてかと申しますと、体育祭の始まる頃には三年生のリーダーが下級生を運動場に集めて校歌や応援歌を教えることになっていました。リ−ダ−は勉強の余り出来ないクラスの、腕力の強い者が選ばれるのが普通なのに、なぜか中位のクラスの私がリーダーでした。それは、私が学年のボス格と些細な事でなぐり合いの喧嘩になって前歯を一本飛ばされます。その子は都会の医家の子で青ざめながら好きになぐってくれと言うものですから、私は卑怯にも空手の型で格好をつけて無抵抗の子を大ゲサに殴っていると、幾つも殴らない内に仲裁がはいります。それまでの私の歯は、小中学を通して歯並びが良いのと虫歯が無いというので表彰されており、大学に入ってからは飛んだ歯を処置しているものの歯列が理想に近いというので、データーを取るための検査を受けている程です。
ところが数日して、その子は私の飛んだ歯の処置費のために、自分の所有するガンや遊具を友達に売っては治療費を工面していると言う噂を耳にします。「お前の誠意は良く解った、一円も貰うつもりはない、心配するな男の喧嘩じゃないか」、と格好をつけたのです。感激したその子は、「あいつは男の中の男だ」、とか何んとか言って同級生に触れ回すものですから、その内にリーダーに祭り上げられたというわけです。放課後の練習は、全校生をボス・グループがバットや棒切れで囲りを固めてくれるものですから、直に心が一つになって成果は上々でした。そのような理由で学年では「ボスまがい」でしたので、窃盗した車の中でもボスでした。
その方面は温泉街へ通じる道で、「ワーワァー」騒ぎながら走っているとジープのパトカーがサイレンを「ウ−ウ−」鳴らしながら道を斜めに閉ぎ停車を命じられました。それからやっと事の重大さに気付く程で、パトカーのオマワリさんが無線で「只今、〇〇温泉方面へ逃走中の窃盗車を見つけ逮捕した」と交信をしていました。ところが、私を筆頭に全員が大人びた顔をしているのに、それぞれが生徒証を出すものですから、三人いたパトカーのオマワリさんは首をそろえて「何んだお前達は高校生か」と心なしかがっかりした様子でした。窃盗車であることを皆は知らなかったと申し立てると、私は一人収監されます。簡単な調べの後、映画の世界でしか見たことのない、鉄格子のはいった六帖一間ぐらいの部屋に入れられました。「車をたたき売って、温泉街で遊ぶつもりだったのか」と詰問する係官の言葉を思い出しながら、不自由な身になって初めて自らの成した重大さに驚ろく程でした。
高校生という配慮からか差し入れられた毛布は多目だったようです。囚人とか刑務所という言葉しか知らない私は、そんな人が身にまとう毛布なんか着るものかという心が働いて、暫くはそのままで板張りに坐っていると留めどなく涙が溢れ、母の顔が、父が、兄姉の心配している顔が浮かんで泣き続けました。初めは拘束され不自由な身の変りように情けなく、口惜し涙から悔悟の涙に変り、終りの方は反省の涙でした。すすり泣く声が響くのか、並列に並ぶ隣の鉄格子の住人が怒鳴りました。ひとしきり泣くと私は泣き疲れて、毛布を三枚もかけて板張りの上に直下に寝みました。
拘束されたその地は奇しくも遠戚が町長で、連絡を受けた叔父さんは教育委員長と共に牢を視察して下さったようです。その時は泣疲れて寝んでいる時だったようで、私の両親に電話で「心配はいらんが、ふてぶてしくもイビキをかいて寝ていたよ」ということでした。そして、夜中だったのでしょう、目を覚すと父母は、兄姉は、一人一人の顔が浮んでは消える中でトイレに立つと、トイレは部屋の片隅にブロックの溝を作っただけの間仕切りもないもので、「ジョージョー」という小便の音だけがシーンと静まり返った牢内に響きます。見上げると壁の上の方に十センチ四方の小窓があって、映画の中ではそこから月も見えましたが私の小窓からは星も月も何んにも見えず、時折、見廻りのコツコツと歩く音だけが聞えました。
明け方近くに少し眠って五時に起されました。身づくろいも終わってしばらくすると、鉄格子の下の小口からベークライトとアルミの食器が差し入れられても、どうしても手をつける気にはなりません。それから本格的な調べと指一本一本の精密な指紋の採取、顔や姿の規格写真のような撮影等の一連の調べを受けました。それから家人と面会すると、母は、目を真赤に泣き腫らして声にならない声で泣きくずれ、兄は大きなゲンコの一つもやりたそうでしたが、係の方から注意を受けていたらしく我慢をしているようでした。
引き取られて外に出ると道には雪が真白に積り、四、五日遅れで新聞の片隅に「医家の息子、車窃盗」と小見出しで出て、学校では緊急職員会議が開かれます。「無期停学」が言い渡された後、私は下宿を引き払い、毎日の自分の思った事、考えた事を原稿用紙に書きます。それを校長先生と担任の先生に読んでいただき、考え方の注意をしてもらいました。こうして、職員室へ作文を持って毎日通います。教室からは先生や生徒の明るい声が聞こえて来て、勉強嫌いに近かった私でも、この時ほど一緒に勉強したいと思ったことはありません。
これは卒業式までの二カ月余り続き、私の卒業式は一人、校長室で行われました。それからの私は卒業はさせるが大学受験のための内申書は出せないという決定でしたから、大学受験もせずストレートに予備校の門をくぐり、学校の名簿には今も私の名前が最後尾に燦然と輝いています。私のこの事実は、或る日突然に車を無断で動かしたのではありません。巷間では、「魔がさして」という言い方をしますが、この「魔がさして」という言葉は如何にも責任を転嫁したようで責任がありません。たとえ魔がさしても毅然と対抗していれば問題は起らなかったハズです。同調したために問題も起きます。下宿ではただ一人の高校生である私は、大学生の中の一人の、配線を直結して車を乗り廻す話に興味を抱き、新月の晩、懐中電灯をたよりに数百メートル先の神社の境内に駐車中の車をモデルに手ほどきを受けます。ラジオ製作が趣味の私にとって、コンセントプラグに電気コ−ドをつけるように簡単で、最初の十一月の深夜は少し冷込んでいたためにかかりが悪く、手ほどきをしただけで大学生は帰って行きます。一人残った私は何んとかしようとしますが、その内にバッテリーが上ってしまい未遂でした。
ラジオ製作の感覚でもう楽しくて楽しくてなりません。罪の意識はなく、この時はスクーターには乗れましたが、車は夏休みに、姉の練習について行く間に経営者と親しくなって、何度か乗せてもらっていました。次の機会には難なくエンヂンはかかります。広い境内でしたからエンヂンの音に怪しまれる事はありません。それからは私の方から誘うほどで、その内には自分一人で実行するようになり、逮捕されるまでには七回の悪行を重ねていました。
私の心の傾向性(カルマ、業(ごう))は、こうと思ったら突っ走る傾向にあります。それも、善にも悪にも見境なく、心の針が「善」の方へ向けば良いのですが、悪の方に向うとそれは悲惨です。
この「心の傾向性」は、物理学では「慣性の法則」とも言われ、一度、フリコを振るとしばらくフリコは振れ続けます。このように一定の心の傾向性を持ってしまうと、止めるまで、つまり心をいれかえて完全に修正するまでは、心は一定の傾向性を持って走り続けます。
例えば、「じめーっ」とした陰気な心の人は、心を入れかえて修正しなければ、何年も何年も、否、ずーっと陰気な心のままです。ところが、「これはいかん」と心を入れかえて修正すれば、「作用・反作用の法則」によってしばらくは周りの者も、「近頃、どうしたんだアイツは」と、とまどい驚ろきから波風も立つかもしれません。
それでも尚、明るい心で毎日を送っていますと、「循環の法則」によって延々と続いた陰気な心の循環の輪が断ち切られ、その内には明るい心の循環に変って、そしてついには完全に明るい心になってしまいます。
そうすると毎日が心から明るくなり、人生も明るく幸せに変わります。「笑う門には福来たる」、これは、正に至言です。じっとしていては決して運命も好転しません。
ところで私の場合は、「悪への道は大河のように大きく、善の道は針のように細く小さい」と言いますが、正にこれでした。大学生も私も同じ穴のムジナ、同類ということであり、「類は友を呼ぶ、類は類をもって集まる」という波長共鳴の法則です。
そして、私が無期停学になっていた二月のことです。
私の義兄は宗教には特別に興味を持った人で、精神修養の為に滝にかかって業・行(ぎょう)でもしてみたらと霊山を紹介します。家人の多くは反対しました。宗教への「正しさの尺度」を持たない私は、滝業が精神修養になるのなら是非ともという一心で、寒風の吹く中を自転車に乗って家を出ます。そこは家から三十キロ程の所で、自転車を手押しの山の小道は思いのほか厳しく、薄暗くなりかけた夕方には目的の寺に着いて来訪の目的を告げました。
その日は雪こそ降ってはいませんでしたが残り雪がそこここにあって、この時季、一人の高校生の突然の訪問は自殺が目的ではといぶかしそうでした。お米を差し出してから宿泊の為のお堂を案内されます。それからお坊さん達が交代で部屋を訪ね、来訪の真意を尋ねるのです。
夜には、老齢で一番偉そうなお坊さんが私を自分の部屋に招き入れ、命の尊さ修業の大事さを説きました。外とは障子一つで隔てられたお堂には、怖い顔をした仏像やら彫り物が安置され、その不気味さと戸を打つ雪混りの風音と、肌を刺すような寒さにどうしても寝つけません。登山用のヤッケ(着衣)とラジュース(小型コンロ)で暖をとっても効果は今一つで、「そんなこと止めときなさい」と忠告した家人の言葉を思い出しながら、大変な所へ来てしまったという後悔が始まりました。
まんじりともせず一夜を明かすと、朝五時の眠りを破るような木板の叩く音で身仕度を整え、お坊さんの仲間に入り食事をいただきます。七時頃には滝場からも岩壁をくりぬいた洞穴からも一斉に読経が始まり、線香の香りがそこら一面から漂って来ます。あたりを散策したり見学をしていると、滝場では白装束に身をかためた男女が数人、入れ替り立ち替り長尺の滝に身を打たせ、今に思うと般若心経のような経文をとなえていました。さすがに雪溶け水は冷たいらしく盛んにセキをしている様子が可笑しいのです。
と、見ると紛れもなくそのうちの一人は今は亡き伯母で、私は身を隠すようにその場を離れました。伯母は若くして主人を亡くし苦労して二人の子供を育てられます。息子の卒業を誰よりも喜んで、ゆくゆくは主人の残した広い敷地一杯に病院を建て、嫁を貰って開業させるのが夢でした。ところが、手塩にかけて育てたハズの一人息子がよりにもよって出戻りの女性と懇になっていると知ると、それから宗教遍歴が始まり縁切りの神様や縁切り地蔵と言われるような霊験あらたかと評判の所を訪ね、その内には滝業もされ息子と女性を別れさせることを悲願とされたらしいのです。
一方、娘の方は旧家の医者に嫁ぎます。娘の主人は、富裕な家柄ではあるが継母という環境の中で育ち、親許を遠く離れて開業しました。その内には業績も確実に上っていき、「こんなに儲っていいのだろうか」という言葉さえ聞かれるようになります。いつからそうなのか知りませんが或る宗教団体の熱心な信者で、地位も名誉も財産も築いた彼は、息子を医大にやっても一人はノイローゼ状態というのです。これは私の卑近な一例ですが、全てを手中にした彼も、家庭の中はこのように混乱していたのです。私がどうしてここで伯母に会ったのかと言いいますと、伯母の紹介で、今は亡き私の姉は義兄と知り合っており、この滝場は伯母と義兄の共通の信仰の場だったのかも知れません。それでは、どうして子供のノイローゼは起こるのか高橋、園頭両先生の教えによって考えてみたいと思います。

一、思春期頃から始まる子供のノイローゼや精神病の原因は幼児期(三歳から六歳頃)に原因を植えつけています。悲しい想い出や、夫婦ゲンカや夫婦の不調和は特になかったか。
二、病死や不慮の死を遂げた、おじいちゃんやおばあちゃんが何かを言いたくて、子供を通して(病気や事故等で)知らせようとする。
三、先祖に断りなしに宗旨変えをしていないか。先祖の霊の中には、自分はその宗教では救われないと思っている霊が、分からせようとするために色々な問題が起る。
四、入信する宗教団体の問題点
(ィ)お題目をあげる問題
日本の仏教の中でも日蓮宗系の宗派は「南無妙法蓮華経」という題目を上げます。それ以外は「南無阿弥陀佛」と言ったり「般若心経」を上げたり様々です。この「南無妙法蓮華経」にしても「南無阿弥陀佛」にしても、二千五百年前のお釈迦様の説かれた仏教に由来するもので、古代のインド語を中国語の漢字に当て字し、それを日本語読みするのですから意味もわかるはずはありません。
「南無妙法蓮華経」は「ミョーホーレンゲンサンガンジュ」と言っていたものに、日蓮が「南無」をくっつけて「南無妙法蓮華経」としました。この意味は「あのドブ沼の蓮の花をご覧なさい、ハスはあのドブ沼から、あのように綺麗な花を咲かせるではありませんか。あなた達の体をご覧なさい、目からは目クソ、鼻からは鼻クソ、汗、大小便。あなた達の体から出て来るものは何一つ綺麗なものはありません。あなた達の体もあのドブ沼と変わらないけれども、その肉体の船頭さんである「心」が、真に片寄りのない中道の物差しを持って生活したならば、心は安らぎ、あのハスの花と同じように調和されて行くのだよ」と、ハスの花を方便としてお釈迦様が説教されたもので、高橋先生の説によるとそれは釈迦が七十代の時だったそうです。
そして、
「南無阿弥陀佛」は古代インド語で「ナーモアミダーボ」と発音し、「ナーモ・南無」は帰依する、「アーミ・阿弥」アミーという名の人。「ダーボ・陀佛」悟られた人。
このように、「南無阿弥陀佛」とは「アミーと言われる悟られた人に帰依します」という意味だそうで、「南無阿弥陀佛」「南無阿弥陀佛」「ナムアミダブ、ナムアミダブ、ナンマイダ−、ナンマイダ−」とお仏壇の前で連唱する人は「アミーと言われる悟られた方に帰依します」「アミーと言われる悟られた方に帰依します」「アミー…帰依します」「アミー…帰依します」ー…。
「南無妙法蓮華経」にしても「南無妙法蓮華経」「南無…華経」「…」。「あのハスの花をごらん…」「あのハスの花を…」…。
お題目というのはこういう意味だったのです。これでご利益があるのなら、私は仕事もせず「南無阿弥陀佛」「南無妙法蓮華経」と一日中お題目をとなえていることでしょう。。古代インド語を漢字に当て字されたものを、御利益があるからと後生大事に、うやうやしく読経するのですからね。これは天上界の困りもののようで、このような宗教の誤りも修正するために、高橋、園頭両師の出生の意義があるのです。
(ロ)お金を集めることの問題
お布施名目の金集め主義や、神の名のもとに、宗教団体を維持するための金集めによって、泣いている人も多いと聞きます。幸福という言葉と引き替えに、金を強制的に上納させられる信者と「追いはぎ」に身ぐるみはがされる人との間にどれほどの差があると言うのでしょうか。
(ハ) 内、外部からの問題
余り行き過ぎますと、自浄作用として先づ内部から問題が起き、それでも修正し切れないと今度は外部から問題が起こるというのです。
(ニ)政教分離の問題
知的文化の指導的原理は、合議性によるものではなく、一人の覚者によって推進され道は開かれて行きます。釈迦がイエス・キリストがそうであり、現代の宗教団体や教祖にはその能力はありません。そうだとするなら、政教分離は当然なことです。
また、滝場の話へ戻ります。
私は昼間の滝場にはいるのは躊躇しますが、それは行者達のような読経が出来ないという理由からで、行者もいなくなった夜の八時頃に明りも消された脱衣所で衣服を脱ぎ滝場へ降りていきました。雪解け水のためか幾スジか流れ落ちる長尺の滝も勢いがなく、水量も思ったほど多くはありませんでした。もう冷たくて冷たくて。お経を知らない私はエイとかヤーとか大声をはり上げ空手の突きのようなしぐさで寒気を吹き飛ばします。一個の裸電球に照らし出された滝場はそれまでに経験したこともない緊張の一瞬で無我夢中でした。滝場から戻った私は空タオルで体の〃そこここ〃を摩擦しても完全に冷え切って感覚もありません。
数日が過ぎ、広いお堂の中の一人の生活も少しは馴れた頃、土曜日の夜が来ました。その日は行者が三人同宿します。年配の男女はそれぞれに祈祷師をしているような話しぶりで、高校生の私に興味深そうにいろいろ問い掛けては霊的な話しをします。いずれも私にとっては背スジがゾクゾクしたり身の気もよだつ怖い話しでした。翌日は一人帰り、二人帰りして、また一人ぼっちです。木々の間から漏れくる遠くの街の明かりは、雨まじりの雪と共に、一層、私の心を淋しくさせ、「やめときなさい」と言った家人の言葉が、またも思い出されました。これは私の青春の一ページであり、滝業は冷たい水に触れる我慢強さとか忍耐強さの修練にはなりますが、悟りとか解脱にはほど遠く、全く異質のものと思います。
それでは、どうして滝業とか肉体業によって、ある日突然、霊感を得て霊視ができた、未来予知や予言ができる、物体移動(トランスポーテイション)等、もう何んでもよいのですが、人間ワザでは考えられないアッと驚くこと(これまでにテレビ等で行われたこと、これから行われる全てのこと)は、「あの世の霊の協力」、によって行われるということです。
理由の無いものはありません。全部理由があります。普通は、霊とかあの世のことが分からないために、人と変わったことをすれば、その人の言う嘘を信じてしまうのです。
不思議はあの世の霊のなせるワザと申しました。
と、言っても、その協力する霊の質が問題で、常識も愛も思い遣りもなく頑固で冷たい人には「類は友を呼ぶ」という法則通り、同じようなあの世の霊が同通し協力しますから、低次元の霊的現象しか現わせないのは当然のことで、ズバリ「霊能を現す人の人間の質が問題です」と言うべきだったかも知れません。
私が言っているのは人間性のことで、首相だから、大学教授だからという地位、名誉を言っているのではなく、敢て言うなら人間性、つまり人間としての「格」と言うか段階と言うか「人格、霊格」とでも言っておきます。
高橋先生は「光の量の区域」と申されました。生き物は死ねば、全てあの世の霊となって、「あの世」(実在界)と「この世」(現象界)を循環して死んだり生まれたり(転生輪廻、輪廻転生)します。
それでは「協力する霊」は何かと言うと、人間の霊や、ヘビやキツネ等の動物霊です。
当然、動物の霊ですから、ゾウさんだって馬さんだって動物霊です。でも、とりわけヘビはネチネチじめじめと暗く、地球人類より歴史は古いと高橋先生は教えられています。キツネは獰猛で奸智(わるじえ)が働くと言われています。高橋先生はビデオの中の「現証」(実証・実演)の時間に、「デッカイ白いフサフサの狐が…」とか、手で大きさを示しながら「こんな大きな蛇が胴から首にかけて…」等という表現をなさっていて、これらの霊が協力して霊現象を現わすのだと理解して下さい。
これは言うなれば「困った霊」の協力ですが、さわやかで、愛深く思いやりがあり立派な人格の人は、亡くなるとストレ−トに天国(天上界)に住まうことになります。これらの人達を総称して「光の天使」、仏教では「菩薩や如来」とか呼んでおり、高橋先生は「光の量の区域」「光の段階」と表現されました。
これらの「立派な霊」「光の天使」の協力とは、先づ、正しい法(神理)を説き、現わす現象にしても、皆んなの役立つことをします。何百、何千という飢えた人達にパンを出して救うとか、誰れが考えても立派と思えることをします。
どここかの国の〃へんてこりん〃な格好をした人が、人をはべらせ空中から灰や色々な物を出して分け与える、こんな見せ物、パフォーマンスみたいなことはしません。
ましてや、真珠を出したり仏像や大黒さんを出したり酒を出したりという低次元のことはしません。少し変わったことをする人がいると、人が集まり持ち上げるものですから困ります。マジックは必ずトリックがありますが、トリックがないのならこれは霊的な低次元の現象ですから、正しく見て(正見)欲しいのです。
この霊場は、あの世のヘビがいる所だったナ−と思っていますので近よらぬ方が良かったのですが、その時は、少しはましな人間になろうと燃えていましたので、憑依(ひょうい・とりつく)されることもなかったと思っています。もちろん、神理をよく知り正しい生き方をして愛が一杯で光り輝く人なら、そこにどんな霊がいようと同類ではないから問題は絶対に起りません。でも、何も知らない一般の人達に対しては、高橋先生が講演の中でいつも大声されたように「さわらぬ神にタタリなし」という言葉を伝えます。
先を続けます。
大学受験を棒に振って、それから私は予備校の寮に入ります。身を入れて勉強することもなく、最初のうちは寮の見廻りをする係の人も厳しかったのですが、もう夏ともなると無いにも等しく、寝苦しい夜は、皆、涼みに夜の街へ出掛けるという具合で、部屋には誰も居ないことさえありました。
その日も熱帯夜の暑い日でした。
夜中に寮から抜け出した私は、一人で夜の街を徘廻していると、高級住宅街の家の前に車が止っていました。大学受験も棒にふって、ストレートに予備校生となった私は、また獲物を狙うタカのような目になって車に近づいて行き、また以前と同じようにドアをこじ開けて中に入り、直結して動かしました。車内のものは盗ったことはありませんが、乗り廻した車は全て同一メーカの車でした。どうしてかと言うと、姉が免許を取った後、練習のために借りたのがそうで、構造が分かっていたからです。

「反省」と「後悔」の違い
高橋、園頭両先生から「正法」を学んだ中で「反省とは、過ちを二度と繰り返さないこと」と学んだ時、そうだこれが本当だと私は心の底から分かりました。同じ誤りを犯さない時に、本当に反省したと言うのです。逮捕収監された後に、私は「反省します、反省しました」と何度も言っているのに、一年もしない内に同じことを繰り返しました。これは「反省ではなく、ただの言い訳、後悔に過ぎなかった」と思います。飲み助が大酒を飲んだ後、もう飲まない、決して飲まないという言い訳をして、舌の根も乾かない内にまた大酒を飲んでその後は少し〃シュン〃として、また暫くしたら…。この繰り返しは、真の反省ではなく後悔です。
この私の結末は、その後もう一度実行しようとしますが、エンジンを廻し始めると玄関のライトが突然灯いて逃げ帰り、これが最後でした。高校時代から全部で九回です。乗り回して放置した車はありません。正直に記述しましたが、持ち主の方には本当に悪いことをしたとお詫びいたします。ゴメンナサイ。
私の悪事から言えること
この私の例からしましても、例えば万引きをして見つかった、そこで言い訳に「つい魔がさしました」という例があっても、まず、その人は必ず何度もやっています。心の傾向性は、フリコ運動のように何度もフリ続けます。一度で思いとどまるほどの人は最初からしません。
これは心の神理・法則です。真実の心は偽りの証(あかし)を拒みます。人に嘘は付けても、自分には絶対に嘘は付けません。悪事を働いた人は、たとえ法律で裁かれなくとも自分の心の中ではそれをもみ消すことは出来ないのです。一時的には睡眠薬や気晴らしによって忘れられたとしても、その内にはまた苦しみは始まります。
原因の根は勇気を出して根元から採る以外にないのです。法律的には時効という言葉があります。この時効という、長い期間に再び悪事を働かなければ、これまでのことは許しましょうということだと思います。これは法律的な許しです。
神の許しである反省、修正には時効はありません。でも心のドン底からもう「やめた」と決意して、本当に止めればそれで良いのです。
高橋先生はこう教えられました。
「原因と結果の法・因縁の法によって、悪事がそのまま結果として人類の上に出てくるのなら、人類はとうの昔に滅びて存在していないでしょう。なんとなれば悪いことは全くしないという人は、この世にはいないからです。だから反省は神の慈悲なのです。」、と。
私がこの懺悔録を「辻褄の人生」として公開し白日のもとに曝す理由は、自分の本当の人間性を明かし、この世でのことはこの世で反省、修正をして、あの世までお荷物を持ち込みたくないのです。
勿論、私自分のためにするのですが、これによって救われる、つまり、心の重荷を取り去ることができる人が一人でもいれば良いし、また、「私は、この人のような生き方はしないゾ」という反面教師となれば良いと思います。
これを公開することに随分悩みました。自伝ですから私の名前を出すことによって、私の周辺に迷惑を掛けないか、それは一人よがりではないかということでした。
悩みに悩んでも、時間はドンドン経って行きます。足踏みをしていると、早く範を示せ、範を示せ、これでもかこれでもかと私の周辺には現象が起きてきました。どうしてこんな俺が、こんなことをと思いました。
これまで私には、いろいろなことが起きています。今時こんなことをしてもと思っても、それが時間を置くと、ア、このためだったのかと思うのです。必ずそれを利用する場が与えられます。この自伝もそうで、数年前に骨格は書いたものです。
二、三の私の不思議を上げますと、正法を記述をするために、あの本が手に入らないかナーと思っていたとします。すると或る日、無性に特定のあの本屋へ行かねばという感じがするのです。それに逆らわずに出向くと、その本に出会うこともあります。
それは、『天と地を結ぶ電話』、イエスの分身5、でフイリッピンの心霊術者の『アントニオ・アグパオアの自伝』などでした。
不思議のハイライトは先に出てきますが、我が子がビルの四階から下へ落ちたことです。幸い軽症でしたが、これも正法の展示館を私のビルの地下に設けるという決意を先延ばしにしていた矢先の出来事で、それから数年間実行して正法のビデオを見せたりパネルを展示しました。今度はインターネット公開を決意して97年12月のクリスマスに98年バージョンを公開しました。いま記述しているのは、99年バージョンとして準備中のものです。只今、平成十年十月八日です。著書は出きあがるまでに数ヶ月を要しますが、インターネットは準備ができれば、ものの一時間もすれば公開できるのですから、スピード時代には打ってつけです。
私は二度の高血圧性の脳出血で肢体不自由ですが、医療の仕事も毎日やっていますし、自動車の運転も、自転車もキーボードも叩けます。リハビリも頑張りました。毎日の仕事の合間に,暇さえあればディスプレイを眺めながらの長時間のパソコン操作は、右手は凝るし目はチカチカです。右手が痛くてたまらない時は、左手だけで一字一字打っています。左手に麻痺があるものの、というよりも左手に麻痺があるので長時間でも痛みも麻痺して疲れ知らずです。ありがたいやら悲しいやら不思議な気持ちです。
「正しいということ」の基準は、「そのことによって調和するか、そのことによって心が安らぐか」という、この二つのことを同時に満足させるものだと正法で学びました。
先を続けます。
また、予備校の寮ではこんな事もありました。寮のオバさんに、とっても可愛い十八、九の娘さんがいて、一人の寮生がその人が好きでどうしようもないと言うのです。世話好きで、おせっかい焼きの私は何んとかしてやろうと考えました。寮は海岸のすぐそばで、潮が引くと砂浜が続きます。ウツボの一杯ついた小岩に腰を下して待っていると、私の廻りを舟ムシがせわしく行き交い、しばらくすると、はずかしそうに、少し〃はにかみ〃ながら彼女は近づいて来ました。私は彼からの手紙を添えて彼の想いを話すと、うなずいて聞いていた彼女は、また、来た道を帰って行きました。
その後のことです。私が大学入学後に友人数人と寮を訪ねると、知らないハズの先生が私におっしゃいました。「手紙を書いたんだってね、とってもいいお嬢さんになっていますよ、どうですか。」いつの間にか、話は私にすり替えられていました。
また、いつも酒の匂いをさせている感じの赤ら顔の先生が、寮内の別棟に住んでいらっしゃいました。熱帯夜の或る日、夫婦ゲンカが始まって、奥さんは「死んでやる」とか何とか言って海に入って行かれると、先生は「やめなさいミットモない!」、と岸から叫ばれます。寮生は、こうこうと明る自習室から一斉に顔を出して眺めていました。いつもは赤ら顔の先生も今夜ばかりは青ざめていらっしゃいました。
夫婦の調和、仲の良い夫婦というのはどの宗教団体でも口を揃えたように説きます、でも、この「夫婦の調和」ということは道徳であり宗教ではありません。
宗教は神を知ることにあります。道徳は宗教に根ざしたものですが、宗教ではありません。私は後半で述べる理由のために夫婦は不調和でした。頭では良くわかっていても、欲望だけが先に立って不仲の原因を取ろうとしませんでした。
夫婦が、仲の悪い原因を取り去ってしまえば、人も羨やむ仲の良い夫婦に必ずなります。見せかけの仲の良さは後で反動が来ます。でも、「その原因を取るのがネェー、難かしいんですよ」という答が返って来そうです。、何んだかんだと言っても、自分で立ちあがる勇気を出さない限りは解決できません。全て自力です。一生懸命努力していると、何か見えない力が働いて旨くいくことがあります。これを「自力の極に他力有り」と言うのです。自力で頑張っていると目に見えない他力の力が働くと言うのです。高橋先生は「他力で救われた者は一人もいない」と言い切られました。この一点を全ての人生の問題に当てはめて、よくよく考えて下さい。
夫婦の仲が悪いとその原則がわからず、「夫婦が仲良くなりますように」と祈ったり、霊能者と言われる人に相談や祈祷を頼みます。ところで私は「無智なる人」と決めつけましたが、夫婦の仲が悪い人の中には、「このままではいけない、方法はわからないが何んとかしなければ」という心で一杯の人は、確かに、人間にとって「機根」(分かる時期)はありますが、これからが楽しみの人、これから期待できる人と言えます。それと言うのも、一人一人の心の中には皆、「正しさの尺度」を持っているので、それに逆らうと何だかスッキリしないのです。その「心の正しさの尺度」は、この世での環境、教育、思想、習慣の中から学んだものもあり、また、生まれ変わり死に変わりする中で勉強したもの(般若心経の中の一節のパニャ・パラ・ミタ。つまり般若・波羅・密多は、内在された偉大な智慧という意味)もあるのです。
先へ進みます。
それに、米軍基地のアメリカ人と話す機会もありました。寒い冬、兄に連れられて英会話友人の家を訪ねました。政府から借り上げられた一軒家の窓という窓は、透明のビニールで二重にシ−ルされ、玄関を入るとカ−ッとした熱気に私達はドギモを抜かれます。中ではダルマ型の重油ストーブが〃ゴウゴウ〃と音を立てて燃えていました。家の外には燃料の入ったドラム鑵が何本も転がり、それは当時の超大国アメリカの豊かさを、垣間見る思いでした。
こうして、一年浪人から公立大学に入学しました。するとすぐに役員に指名され、水を得た魚のように人のお世話が楽しくて仕方ありません。クラブ活動はハワイアンクラブでギターを弾きました。二年生では演芸会の司会が認められて、スウィングジャズ・オーケストラ(トランペット、トロンボーン、サックス、ドラム、ピアノ等の二十名程の構成)の司会をするようになり、大学六年の中で五年間、専属で続けました。プロの司会の手ほどきも受け、千人ほどの聴衆者を前に曲の説明を交えて喋るのです。五年間を通して五十回程の演奏会でした。オープニングのテーマソングに乗って緞帳(どんちょう)が上ると、ステ−ジの脇のマイクがスルスルとせり上り、スポットライトに照らされて第一声から、今までの緊張が解けて話を始めます。私が学生の会長のときには、前年に続いて夏休みの慈善演奏会を企画します。いくつかの楽団と共に十会場でのボランティア演奏会でした。その頃、医会の多くが同窓生で、チケットを買い取り招待したり無料で配布したものですから、会場に入りきれないという笑えない事態も起きました。巷では大物政治家が自分の立場をフルに利用するそうですが、この時も同様のことが起こりました。司会の私が、客席を廻り母にインタビューという〃やらせ〃もありました。各地で、かなりの金品を福祉施設に贈ったものですから、地方紙を飾ったことは言うまでもありません。

それから、入学した夏には、先輩に連れられて売春宿へ参りました。そこは木造の二階家で、雨戸の隙間から漏れるかすかな光にセンペイ布団が見え、〃やり手ばあさん〃と呼ばれる人が、相手の女性に「初めてだからね」と耳打ちしていました。それから、私は何んの躊躇もせず身につけている全てをとりキチンと揃えていると、「お行儀がいいのね」と言いました。暗すぎて顔も見えませんが、脂粉の強い匂いだけが記憶に残っていて、裏通りに出ると何かしら罪悪感と不潔感が先に立って自分の部屋へ戻りたくない気分です。衛生具を付けていたとはいえ、途中で尿意があると聞き学問によって、亀頭に半分かぶっている皮をつまんで袋状にし、その中に小便を小出しにして亀頭の外部と皮の内面を洗うという、所謂、「袋小便」なるものを何回もするうちに不思議に安堵して、それから銭湯で痛くなるほど洗いました。入学して間もないとはいえ、医療人としての自覚も少しは持ち合わせていましたから、次の朝の排尿の時に、つまんだり引っ張ったりしても異常は認められませんでした。
同じく、東京での研修時代のことです。
お盆休みで実家へ帰り友人達と温泉宿へ上りました。可笑しなことばかり喋り続ける相手で、何もできずに二人で吹き出していると、「お客さん、時間ですよ」と〃やり手ばあさん〃がフスマ越しに告げるので、「まだ何んにも。この娘が…」「あんたって娘はしようがないネ」どうも常習者だったようです。夜毎に辛かったのでしょう。すぐに、その人は呼び戻されて代りに別の人が来ました。入れ替わりに、その人は友人へ行っても私と同じで、後で別の人が来たそうです。私はまた東京へ戻り、いつものように患者さんを診ていると、〃キーッ〃とした痒さが下部にあります。それも予告なしに突然襲って来るものですから、その度に中止して、カウンセリング・ルームやトイレに出たり入ったりしました。その内にアルコールガーゼで拭くと少しは治まるものですから、特別な手当もせずに痒くなるとアルコールガーゼ法で二カ月が過ぎた頃、私が夜寝んでいて、余りポリポリ掻くものですから、横に寝ていた女性がフトンをソーッとはぐります。そして、スタンドを近づけて見たら細い虫が明りに驚いて一斉に陰毛の中に逃げ込んだそうです。揺り起された私は何事が起こったのかと飛び起き、深夜だというのにシェービング・ローションで剃り落したことは言うまでもなく、それは〃毛じらみ〃でした。それ以来、痒みもすっきり無くなったものの、私の大事なものも同じようにすっきり無くなりました。
一方、友人はお兄さんの助言によって、戦中、戦後の学童のように粉を振ったり撒いたりしたようで、話を聞いて見ると私の方が一ペンで治ったようです。このように劇的な修正は、劇的な解決をします。でも、その反作用もまたひどく、元通りになるまでは大変でした。高橋先生は『心行』の中で、「己の肉体が苦しめば、心悩乱し、わが身楽なれば情欲に愛着す…苦楽の両極を捨て中道に入り…」と、おっしゃっています。まったくその通りでした。
海外では女性に接したことは一度もありません。外国の女の人と言えば東京時代、外国人相互のコミュニケーション誌に「英会話友人求む、当方独身医」と英語の広告をしたところ、受付さんが困りました。ひっきりなしに英語の電話がかかって来て、その中の何人かと会いました。今で言う億ションに住んでいた外資系企業の秘書の話しです。その頃、私は破格のお給料を戴いていて、車はベンツのクラッシック・カ−のセミ・オ−プンでした。おまけにナンバーが外国の公官用だったらしく、品川とかの地区名はなく、すぐに「3−〇〇」で、銀座辺りを走っていると人が注目します。デイトの日、コーヒーショップとかレストランではなく、車種とナンバーだけを伝えて有名ホテルに出掛けました。
私はその頃三十歳になりません。年上コンプレックスの甘えん坊です。三十位のその人は大きなゼスチャーをして近寄って来ました。すべてが先行リードで、その人の提案による日本酒です。その国にも似たようなお酒があって、懐かしいらしくよく飲みました。ひとつも気取らずその日の内に家にも招き入れられます。全てが済むとその人は綺麗に洗われたガーゼで、また次の時も、実に堅実な人でした。数カ国語が話せて「外国の医学の翻訳本を出しなさい、お手伝いしますから」と何度も言ってくれましたが、私の方に機根が無くて、つくづく残念に思います。
ある日、彼女と車で遠行しました。その場限りの計画に宿舎の目当てもありません。どこもあいにくの満員御礼。無理に頼むと、「ここなら構いませんが・・」とのこと。五十畳の大広間におフトンが二つ。朝は、客が来ぬ間の一番飯でした。
おフトンでもう一つ。ある日、母が私を訪ねてきました。折角だからと箱根へ案内します。食事も終わると、おふとん敷きのオジイさんが、二つのおふとんをピタッとくっつけて敷きます。戸惑った私が、「お母さま」と語気を強めると、二つのおフトンは適当な間隔に動くのです。
元へ戻ります。私が開業の為に東京を離れる時、その人は私の乗ったタクシーを泣きながらいつまでも追いかけました。それから、開業して三カ月が過ぎた頃、観光で来ているという電話を最後に、三十歳ではなく、三十八歳のその人は日本を離れました。その数日後、英字新聞を見ていると、東京の近郊で稲刈に招待された外人さん逹の写真の中に、その人はカスリ姿の人懐かしい顔をしてニッコリ笑って写り、その人は私に全てを教えて帰国されたのでした。
同じく東京です。
ベンツが好きで好きでどうしようもない医家がいて、本も出して名もある人です。彼はB級ライセンスも持っていて、三人でカー・ラリーに出場することになります。写真家で美術家のもう一人は、アセチレンバーナーで鉄の棒を曲げたり付けたりして手動計算機(カリキュレーター)をつける台を作りました。東京タワーから快調にスタ−トすると、ルーカスもボッシュのライトもあかあかと容量以上におもいっきり付いているものですから、火を噴いてそれっきり車は動きません。チャートには部分図しかないのでどこだか分かりません。白々と夜が明け始めると斜め上には雪をいただいた富士山の頂上が見えます。それから東京まで押したり引いたりどのようにして帰ったか思い出すのもいやな程でした。
この時の車は、私が大学を卒業して東京の名のある先生へ押しかけ書生のように勉強に行く時に、父から卒業祝にと買ってもらったものでした。先生の学術講演を何度か聞いているうちに直に教えを願いたいと何度か手紙を出す内に許され、挨拶もかねて母も一緒に同行することになります。
父に挨拶を済ませると、買って十日もならぬ車の後部座席には、フトンとトランクにもつめるだけの道具と、助手席には母でした。兄の研究する大学に寄り、手術の執刀中のために面会の出来なかった私は、兄の車のワイパーに旅立ちの手紙をはさみました。少しでも運転が楽なように、高速道をやめフェリーに乗り込んで見ると、港には旅立ちの約束をしていた女性は来ていました。母には内緒でしたが、岸壁に向いた船室からは特別に身を乗り出すわけでもなく、ソファーに腰を下しただけの自然な姿勢で、ピンクの線書きにされた蝶の絵柄の、私の大好きな正絹の着物を着て見送りに来ていました。船の別れはこんなにも辛いものかと初めて知るのです。ゆっくり離れて行くものほど悲しみを誘います。新幹線の別れなど一瞬のまばたきです。速いとは言っても飛行機は少し違います。デッキからの見送りは雲間に隠れるまではかなりの時間で、これもまた涙を誘います。
東京です。
伊豆は暖かいと言っても小雪がチラチラ降っていました。車はどっしりとしたベンツ、音楽も軽快に鳴っています。横の和服姿の女性は、かつて、着物姿のつり広告で電車と共に走った人で、白いうなじが艶でした。
九十九(つづら)折りの天城を越えてゆっくり降りていくと、立て看板に赤字で「緊急避難所」です。ブレーキが故障した時、そこに入れば満載したトラックでも止るらしく試して見ることにしました。そこで、次の立看板で入って行くと十メートルも行かぬ内に車は落し穴に入るように止まりました。強固なボンネットも跳ね上り、砂の中から這い出るようにして外に出た私達はションボリしていると、ジープに黄色の点滅灯をつけた道路公団の車が偶然通りかかり、オジさん達は驚いたり、呆れたりしながら掘り出して下さいました。青年と出戻りの伊豆の踊り子は、頭の雪も払おうともせず掘り出される車を見ていました。ご免なさい。もう二度と致しません。
昭和の最後の雨期でした。
大河の支流で、女性の家族とゴムボート遊びです。定員四名も守り、ライフジャケットも身に着け、投げ網と何十メートルもあるロープも乗っています。船長の私の乗船注意も終りボートはゆっくりと漕ぎ出されました。その内には小岩が底をついて動きません。押したり引いたりしている内に底のゴムが裂けて水が入って来ると、乗員達は総立ちになったりしがみついたりのパニックです。
タイタニック号にも冷静に行動した人もいたそうですがこの船はそうではありません。次には片方のオールを流します。買ったばかりの新船なので、欲の張った船長はライフジャケットも脱ぎ捨ててザンブと飛び込みました。急流の中の笹舟のようなものです。一回転して岩にぶつかったり、もうこれまでかと観念すると上へプカリと浮かび上ります。
そんなことを続けてやっとの思いで岩の上に這い上りました。岩の周りには急流がウズを巻いています。女性がロープを投げても届きません。次は届きましたが、船長を引き寄せることなど到底出きるハズもありません。きっと、その内に女性も船長の二の舞です。すると彼女の一人娘が、ロープをパッと掴んで岸に戻り大岩のスソに幾重も巻きつけました。完全に固定されたロープは船長の体に巻きつけられます。静かにたぐり寄せられてもナイロンのロープはギューンと伸びて安定しません。すべったり転んだりやっとの想いで岸に辿り着きますが、ベッ甲の眼鏡も片方の皮靴もオールも見つかりませんでした。
私はこの日のことを思い出す度に肝をつぶします。ゴムボートを準備する時、ロープはどうしようかと考えた揚句、持って行かなければならないという感じがしてアンカー(停泊用重り)と一緒に倉庫から出します。
このような 「予感」と言うか「虫の知らせ」はどうして起るのか考えてみましょう。人生の中で第六感、第一印象、虫の知らせ、予感という精神作用があります。例えば「何か良いことがありそうだ」、「今日の旅行は、とり止めた方が良さそうだ」ということがあります。これは守護霊、つまり潜在意識の作用です。

守護霊とは、その人の魂の兄弟(本体一、分身五)の一人が潜在意識層にあって、地上界に出ているその人の一生を見守り、魂の向上のためにあらゆる努力を払っています。
守護霊、つまり自分の過去世(生)がその人の心の内から知らせる、囁くのです。顔についている耳から聞えて来るのではなく、心の奥底から起ってくる 「こうせよ」という真実の心です。心が乱れ騒いでいる時に聞えてくるのは動物霊か憑依霊で、静かな落ち着いた心になった時の心の内からの想いを大事にすべきです。
『守護霊を持て』なんて本に書いてあったりしますと、あたかも特別の霊がいそうに聞えますが、決してそうではなく過去世の自分なのですから、現在のあなたを見れば、過去世も何んとなく推測できます。このように守護霊は皆にあり、最初から皆持っているのです。
また、この世に起ることは、あの世で先に起こります。「あの世で先に起ったことが、この世でも起る」ということは、偶然ではなく必然ということです。あの世で起ったことを、あの世にいる守護霊(自分の過去世の人)が先に知って、私達に知らせるのです。懸命に伝えているのに、私達が聞く耳を持たないとすればなんと情けないことでしょう。心が穏やかで安らいでいると、心の底の底から感じとして静かに語りかけてくれます。この「真実の想い」を大切にすれば、誤りのない幸せな人生を送れます。神道で八百万神(やおよろずのかみ)と言ったのはこの守護霊のことを言ったと高橋先生は述べておられます。勿論、この潜在意識の作用(守護霊の作用)は四六時中あるものではありません。
私のロープ持参は、私の心の傾向性による原因と結果、つまり、雨期で水かさも増しているのに、女性の家族を誘って船遊びをした上にオールを探して激流に飛び込み、泳ぎ難いからとライフジャケットさえも脱いでいるこの馬鹿さ加減。
この必然的に起った事故を、あの世で先に知った潜在意識層、つまり私の守護霊(私の過去世)が、これは大変と必死になって「ロープを、ロープを持って行け」、と教えます。それより前には「今日は出掛けるな」と教えたかも知れません。しかし、生きざまや心の傾向性を知っている守護霊が、この無謀な私を反省させる為に出発を中止させることはせずに、ただ、ロープだけを持たせるように働きかけたのか、或いは、こいつは引き止めても頑固で止りはしないので生命だけは守るが、自分でも思い当るようにギャフンといわせて反省させようということだったかも知れません。今の私は、その時のことを思い出すだけでも怖く、もう絶対にしないぞと思っています。「もうこれで終わり」という場面が二度もあったのですから。
大学三年生の冬です。
解剖の実習も始まって、ホルマリン槽から引き揚げられた献体が解剖台の上には何十体もあります。ホルマリンの異臭と、死体を解剖させてもらうという一種独特な雰囲気をかもしている解剖室では、誰れ一人としてニコリともせず、黙々と解剖書と見比べながら日本語とラテン語を口ずさみ、目を細めたり開いたりしながら心に刻んでいます。細身で長身の通称〃ガイ骨〃先生が、今日はまた刈り上げの跡も生々しく、「この血管は」と尋ねられると「ハイ、〇〇です」とラテン語です。肥満にでも当たるものなら、もうそれはそれは大変でした。脂肪で〃ギタギタ〃になるとメスが全く切れないので、私の先の方の肥満担当者は実習が終るまで嘆いていました。そして、「もう、その内に研師にでもなろうか」、と。
私はそれをいやと言うほど承知していたハズなのに、三十歳後半から八十七キロで、祭で写したハッピ姿の私は、もう小型おすもうさんでした。お相撲さんと言えば、私のやっていたミニクラブやスナックにも時季になると何人も来ていて、ママが紹介して曰く「オーナーのドクターです」って。眼医者、芸者、歯医者は三者と言ったそうですが、一族には皆います。芸者も役者もいて、父の命日なんかで皆んなが揃うと、いつの間にか始まります。その時の私の〃出しもの〃は「赤城の子守唄」のシバオケ(カラオケのように芝居のセリフやフリを練習するテープ)で、それぞれの出しものが始まると、仏壇の近くの母のタンスから衣装をそれぞれに引っ張り出して来るものですから、母も後で仕舞うのが大変だったことでしよう。
死後の世界のこと
ところで、仏壇なんですがね。、私達が死んだら多くの人がお墓や仏壇に住むのだと信じているし、また、そのように教えられてきました。私達が死んでも、この世に執着もなく、つまり、残した妻や子供のこと、残した財産等に心を残さない人(執われのない人・悟った人)は、一時間もしない内に次元の違う「あの世」へ帰って行くし、心のきれいな人は死ぬ頃になると向うから迎えに来ます。私達は輪廻転生(色んな国に生まれ変わり死に変わること・グルグル回る循環の法)する生命ですから、かって、生まれていた当時の、外国人の鼻の高いのやら背の高いスッキリした「魂の先祖」が迎えに来るとビックリすると思いますので、その時は日本の「肉体先祖」が迎えに来て、色いろ教えながら連れて行ってくれます。
二十一日間のこと
我々一般人はどうかと言いますと、死んでから二十一日間は、肉体から離れた霊魂は自分の家の辺りや家の棟にいることは出来ます。最大日数が二十一日間です。二十一日間を過ぎると、どんなにこの地上に執着を持っていようと、皆あの世の収容所へ行かなければなりません。そして、あの世の入口で次のように尋ねられます。「あなたは死ぬ覚悟ができていますか」「死に対する心の用意がありますか」、と。そして、自分が生きていた頃のことをパノラマ映画のように見せられ反省し、考え方を修正します。もし、間違った思想や宗教を勉強した人は、そこでじっくりと反省させられます。今まで正しいと信じて来たのに根底から修正しなきゃならないのですから大変です。だから、間違ったことを説いた宗教家や思想家は、皆を狂わせたという責任を取って暗黒の最も厳しい地獄の世界に定住するのです。そりゃ当然でしょう、間違ったことを教えて多くの人の心を誤らせるんですから責任は重大です。私だって、間違ったことを述べて迷わせてしまったら、地獄は当然でそれも仕方ありません。私は心からもう二度としないと反省をして、この世でしたことはこの世で反省を済ませ、償うものは償ってあの世に戻り、そして次の誕生に備えたいのです。
四十九日のこと
生前の状態を映画のように見せられ、「一生の中で人に見せられるような何かをしてきましたか、これはいいことをしたと満足できる何かをやって来ましたか」、と尋ねられます。そして、その後の二十八日間に死者の生前の魂(意識、心)の状態によって、天上界(明るい世界)へ行くか地獄界(暗い世界)へ行くか決まります。私達が四十九日と言うのは、先の二十一日間とこの二十八日間の合計というわけです。縁者や後に残された人は四十九日間はじっと、そっとしていることです。
死後のモメごと
ところが、その間に一族や縁者が財産争いをしたり、気掛かりになることでもめたりすると、死んだ人の霊がゆさぶられ、一度はあの世の定住地に行っていても、再び執着を持った場に引き戻され、自縛霊・執着霊となって生きている人々に色々問題を起こす困った霊になります。ご存知でしょう、テレビや本でも沢山取り挙げられていますから、如何に多いかと言うことです。これも「類は友を呼ぶ」の法則であり、たとえそこにどんな霊がいようとも、神理を知り調和された心安らかな人には問題は絶対に起りません。問題のあった人は生き方を思いきって変え、自己改革すれば何も霊的なことだからといって怖がる事はありません。だから無知で悩むより高橋先生や園頭先生の本を読んで、原則が分かると応用は自づからできるので悩むより先づ勉強です。
日蓮のこと
先に、「生前の魂の状態によって天上界に行くか地獄界に行くか決まる」と述べました。それではどんな人が地獄で、どのような心の人が天上界へ行くか話す前にもう少し述べます。地獄界。誰れだって地獄の世界へ行きたいという人はいないと思います。ところがそんな立派な人がいました。よくご存知の日蓮さん、高橋先生は次のように講演されています。「日本で有名な坊さんで、菩薩界へ行っている人は少ないですね。日蓮さんもね。永いこと自分から地獄界におった人ですよ。もともと菩薩界なのに菩薩界に入らなかった。自分の蒔いた種が、その後、多くの大衆を狂わしてしまったという責任を負ってね。あの人は、あの世では知らない人はいませんね。あまりにも有名で、謙虚なんです。今の創価学会のやっているようなものではないですよ。心のきれいな人達は、例え貧乏でもりっぱな人がたくさんいる。だから、金額の多寡や地位が人間の値打ちを決めるんじゃないんです。」このように高橋先生は語っておられます。
臨死体験のこと
また、「臨死体験」と言って、九死に一生を得た人が、私は死に臨んでこのような体験をしたという手記や取材集があります。その体験たるや「十人十色」で、それぞれに違います。それぞれに正しい臨死体験に違いありませんが、なぜこうも違うのかというと、それは各人に魂の段階があるからです。臨死体験をした人それぞれに魂の段階、人間性の段階、霊格があり、見てくるところが違うからです。ここが、あの世とこの世の違うところです。この世はどんなところでも見ようと思えば見て来れます。あの世はそうはいきません。低段階の人は、上の段階を絶対に見れない仕組みだからです。光の量の区域が厳然としてあるからです。予告しましたように、天国行きか地獄行きかの魂の段階、人間性の段階の目安を述べてみましょう。如来とか菩薩とかいう言葉を聞いたことがあると思います。これは元来、仏教的な心の広さを言ったもので、ここで言う「光の量の区域」を言っています。
上の方から(1)如来界(金剛界)、(2)菩薩界、(3)神界、(4)霊界、(5)幽界となります。この五つが天上界(明るい世界)に属する段階です。生前、汚く醜く生きた人が、金があるからと言って立派な墓を建てようと、いかに立派な戒名をつけてもらおうと、心を入れ換えて心をきれいにしない限り地獄は地獄なんです。たとえ、首相経験者であっても何人も地獄にいます、と高橋先生は実名も挙げておられます。地位、名誉、財産の多寡ではなく、愛とか思い遣りとか慈悲の多少が尺度です。
天国行きは五段階の切符と申しました。この段階は心の大きさ、心の広さを言うのですから段階は無数にあります。大きく分かり易く五段階に高橋先生は分類して教えて下さいました。最上段階の如来界とか菩薩界の人は、現在の地球上では僅かですから省略して、私達に最も関係の深い中、下段階の「光の量の区域」を取り上げて見ましょう。一人でも多くの人間が、心をきれいにして上段階へ向って努力しなければなりませんが、残念ながら現在は神を頂点としたピラミッド型で底辺の人が多いのです。でも、何百年かしますと、菩薩界の人達が地球人口を占め、それこそ地上天国がつくられて行くとは高橋先生の予告です。右を向いても左を見ても、心美しき思い遣りのある心優しい人達ばかり、考えただけでも嬉しくなります。しかし、そこまで到達するには我々人類はこれから色々な苦難の道を通るようです。しかしながらそれも原因と結果ですから仕方ありません。自分達でつくり出したものは自分達で摘み取る、これは神理、法則です。それでは、心の広さと人間性の段階を要約しましょう。
<天上界の諸相>
「如来界、菩薩界」
愛と慈悲の心だけの人で、人類を正しく導く人。
「神界」
人から損害を与えられても人を非難しない人達の世界で、あの世とこの世を通して一億数千万人。
「霊界」
与えたものが返ってこないと気持がスッキリしない人達の世界で、人類の三分の一。
「幽界」
自分さえ良ければ、人はどうでもというエゴの世界で、人類の大半。
<地獄界の諸相>
「修羅界」
平気で人を陥れ、人を争わせて興白がる人の世界。
「餓鬼界」
金銭欲が強く、欲望の塊りみたいな人達の世界。
「畜生界」
ねちねちと執念深く、性欲に狂う人達の世界。
「煉獄」
狂思想家、狂宗教家
「無間地獄」
戦争の計画者、間違った教えを説く宗教家達の行く世界。ヒットラー、スターリン等
「魔王」
初期の七大天使の一人、ルシュフェルは天上界に帰ることなく地獄の帝王になった
皆さんは、どの界に当ると思われますか。人間の価値は、その人から地位、名誉、学歴、財産を差っ引いたものです。サア、あなたには何が残りますか?
学生時代の間借や下宿生活のこと
大学に入学してからは間借り、下宿、アパートを点々と替り、六年間で平均すると半年に一回の割合になり、十一軒です。入学した当初は八帖一間の間借りです。二軒目は車庫の上の友人の結婚のキッカケになった間借りです。予定より半日早く帰り着くと、友人はいるはずなのにノックをしてもドアは開かずあわてている様子です。今は幸せな奥さんになっている彼女も一緒で、どうも、お取り込中のようでした。そして、大学生活も少し慣れて、コンパだ、スナックだと酒量も多くなって行きます。足繁く通ったスナックの一人をこの部屋へ案内すると、何度目かの夜、火事のサイレンに二人は目を覚まします。四つの子がいるというその人は、今までは何んの感動も示しませんでしたが、サイレンの鳴ったそれからは、私の狭い部屋からもサイレンが鳴り渡りビックリしました。三つ目は、未亡人の下宿で、スクーターを持っていた大学二年生です。
一週間に八回、スクーターを利用しての家庭教師でした。日曜日は二回の掛け持ちです。土曜日の今夜は下宿から三十分の所です。謝礼も頂いてフトコロも暖かく、友人がバイトのスナックへ向います。店が引けると酔い冷ましに、ホステスさんとオールナイトの「寅さん」です。それから、スクーターで 〃ドッ、ドッ、ドッドー〃と下宿棟です。年上のその人は、ここではイヤと言いながら私を万年布団に押し倒します。次の週はその人のアパートでした。なぜか水屋のガラスが鳴り始めると、隣室に気がねして二人でテ−プを貼ったり紙切れをはさむ作業が続きました。数カ月後、当然の帰結として妊娠です。怖くなった私はその人から逃げ出します。一年後にそれぞれはタクシーでした。私は一人、その人は中年の男性と二人です。突然、私のタクシーに乗り込んで来ると急いで車を出すように命じます。タクシーに一人残されたドクターらしき人は、いまいましそうに私達を見送ります。着いた所は出始めの〃マンション〃の名を冠した居宅です。最初の部屋よりはずっと豪華で、それから暫くは下宿とその人のマンションを半々に過ごしました。そんな或る日、二人で車とフェリーを利用して遠行します。観光バスの中では東京の私大を卒業直前の一人の女性と知り合います。失恋旅行だと言うその人には「連れの女性は親戚の女性」と、嘘をつきます。下宿に帰るとその人から連絡が来ていました。
それは冬休みも始まる直前だったので近くの観光地を案内した後、ユ−スホテルをキャンセルして一緒に投宿します。私は医学書、その人は図案と文言を考えています。その人はコピーライターを目指しているらしく、その日は何事も起こらず、翌朝になると私は実家へ、その人は先へ旅立ちました。実家には、訪ねた街並のスケッチを必ず添えたハガキが毎日届きます。何日かして近くに来ているという連絡に、両親の許可を貰って実家にも泊めます。勿論、厳格な家庭ですから部屋は別々です。学生という気安さも手伝って家族も歓待します。次の訪問地へ発つ日に、その人が言うには、お医者様のように優しくいたわりながらだったそうです。旅行中、毎日ハガキが届きます。その人は私より一つ年上だったものですから、私も同じ年と嘘をついた手前、その内に音信不通になりました。なぜかというと、卒業後はこちらで働きたいという申し出に私が逃げ出したからです。
それからのことです。
四年生の時、東京へ遊びに行って連絡をとると、その人はもうすっかり社会人で、感じの良い店に案内されます。酒を飲みながらこれまでの恨みつらみを流暢な英語で語り続け、私は相づちは打っていても何を喋っているのかチンプンカンプンでした。三年後、東京のその人の近くに住むことにはなっても、電話番号を失くしていたために何も連絡が取れずにそれっきりでした。
彼女より一年前の、冬休み直前のことです。
その頃、学生会主催のダンスパーティが盛んでした。今ならさしづめディスコ大会でしょうか。ダンスパーティでは、友人の恋人が私に友達を紹介します。お互いにあと数日で冬休み帰省。実家へ帰った私は家の車を利用してその人を訪ねます。生まれて初めての女性とのおつき合いに、紳士然として後部ドアを開けました。高原のハイウェーは運転席と後部座席との会話です。三時間も経ってから、「助手席に行ってもかまいませんか」との申し出に二つ返事です。それからしばらくして、高原ハイウェーの途中で車が故障をします。一着きりの背広も脱ぎ捨てて、そこここを調べて見てもウンともスンとも動きません。師走の風は冷たくてそのうちに雪も降り始めます。エンジンが廻わないのですから暖房も効きません。コートを着込んだ二人は後部座席に肩を寄せ合うようにして通行する車を待ちました。山の中のこととて電話もなく、二人は家に連絡も出来ません。後で分かるのですが、雪の為に道路が閉鎖されて車一台来るハズもありませんでした。寒くて寒くて凍死なのかという不安も去来して、話続け肩を寄せ合う内には、それまでに経験したことのない気分に二人はしっかりと抱き合いました。陽光がまぶしく照り始める頃には交通も解除され、通りかかったダンプに麓の修理工場へ牽引してもらいます。
大晦日のこと。
今日は修理が上がる日です。近くに良い湯があると、その人の勧めで休息をすると、なるほど、肌がスベスベします。私も少しは真面目で何も起こりませんでしたが、実家へ帰りついたのは紅白歌合戦も中盤でした。

同棲生活
冬休みも終り大学へ戻ると、その人は大雪で交通のストップした中を、十キロも歩いて私の下宿を訪ねて来ました。ここではいやと言われるので、雪の中をホテルへ向かいます。三ヶ月のお付き合いの後、その人は卒業して実家へ帰ります。遠く離れた二人はときどき逢瀬を楽しみました。当然の帰結として、その秋には妊娠の告白を受けます。私は前に責任も取らずに逃げ出したこともあったので、今度こそ「キチン」としようと考えます。麻酔の覚めやらぬ顔で手術室から出て来ると、私が用意をした新居へ向います。
新生活が始まり、その内に進級テストもありました。二科目落してもプライドばかり高い私は、何に喰わぬ顔をして「全てパス」でした。追試の時はパスと言った手前、部屋で勉強することも出来ず、教室や図書室で勉強を済せて帰りました。それから共同生活は六カ月ほど続きます。親に内緒の同棲生活は何かしら居心地が悪く、その後の暫くは別々の間借り生活をしていました。そして、十カ月程の関係が破局を迎えた最後の夜です。我慢に我慢を重ねていたその人は堰をきったように、私への恨みつらみを述べ、重荷が取れスッキリしたという顔で、数日後、お父さんと一緒にトラックに荷物を積んで去って行きました。
娘もいる私は、この時のことを思い出すと胸が張り裂けそうです。両親に対しては同棲生活のことは隠し通しましたが、このような人がいて、好きなこと、結婚も考えたいという想いを伝えてはいました。でも、当然のことながら学生の言うことに真剣には考えてはいなかったと思います。その頃から両親は私に、お嫁さんは親が見つける、勝手に連れて来ても許さないと何度も聞かされて来ました。その頃、兄が大恋愛をして親の意には添わなかったようで、特に私には厳しかったと思います。私は両親に対して「いい子」でありたいと振舞う反面、何人もの女性達には何んと冷たい非道の二面性を持った人間だったでしょう。
小学校六年生の頃まで照れながらも母の「オッパイを少し飲ませて」と言う程の甘えん坊で、末っ子の母は小さい頃に両親を失くすという環境から特に末っ子の私を大事にしてくれたように思います。そのことが私の精神上の自己確立を程遠くさせ、人間的な一人立ちをも遅れさせてしまったのかもしれません。肉体的にも立派で、役を仰せつかって人の上に立ったりするものですから、両親は私の真の人間性を見損なっていたように思います。その人は、その後も思い出したように私の許を訪ねられることもあったので、それを両親に話すと、四年生の秋には両親の命で遠戚に間借りをさせられます。それから、母はその人に会い破談の通告をします。すると、事前に私から知らせを受けていたその人は、悪びれずに母の言うことを聞かれたようで、それを最後に二度と会うことはありませんでした。そのことを聞かされた私は泣き明かし、優柔不断な私の人間性を考えると、どのような責めを受けても当然と思います。
再び恋愛
それから少しは慎重になって、半年後には、一つ年上の会社秘書と恋愛をします。卒業するまでの一年半のお付き合いでしたが、昔がたきの両親は秘書という職業に違和感を覚えるらしいのです。お付き合いが始まって数ヶ月が経った頃、私の楽団のコンサートがありました。司会も終え「どうでしたか」と近づいて行くと様子がへんです。聞きただすと、前にお付き合いしていた彼から私とのことで罵倒されたと正直に告白されます。虫の収まらぬ私は大学の先輩である彼に誤り、その足でその人を訪ね、一言の挨拶とともに、それまでに貰ったプレゼントを突き返し、お付き合いの解消を申し渡しました。すると彼女は翌朝早くから私を訪ねて来ました。それをいいことに丁度この日は彼女が留守の豪華なマンションへ案内するのです。
不思議そうに部屋を見回していましたが、気がつかぬハズはありません。それから一ヶ月も経った頃、その部屋にいると、聞き覚えのある声が玄関にします。「いえ、おみえになっていません」「でも、お靴が」、私はベッドの中で小さくなっていました。それからは、いつものようにお付き合いも戻ります。
一年も経った頃のある日、両親に紹介をするために実家へ案内します。厳格な家庭であること、などをコマゴマと言い含めるものですから、余計に緊張されたのでしょう。車の中の食べ物を片付け忘れたのです。型通りのもてなしも終えて帰ろうとすると、母は私を別室に呼び、整理整頓を指摘しました。青ざめた私は、帰りの道中いつまでもなじり続けました。それからは、その人に対して両親の風当たりが余計に強くなります。卒業後に行われる国家試験も、半年に近づいた頃です。
国家試験対策
国家試験対策のために情報収集のアジトが設けられました。学生会の会長も務めた私はそこに住むことになります。プライバシーが侵害されるからと誰も引き受け手が無いのです。いわば、全国からの情報の電話番でした。各県の大学が持ち回りの会議では、さしずめスパイ映画でした。それらしい人に後をつけられたと言うのがいて、在りもしない盗聴マイクを家捜(やさがし)したあげく、筆談から、別の会場へ移動です。担当が経費がかさむとボヤいていました。やっている事がそうですから皆、後ろめたいのです。私大が担当のときは懇親会も二次会もハデで、ずいぶん楽しい思いもしました。私が開業してからは、九軒の夜の商売も体験しますが、私の心の傾向性にはピッタリでした。その中の炉端焼き店では、オミヤゲ用に仕入れたハズの「海ほうずき」は、コンブに赤唐辛子の、三杯酢の付け出しとして出される寸前だったり、魚市場のセリ帽子も借り受けて直接仕入れもしました。トロ箱で跳ねていた原価二百八十円のカレイが三百円の焼き魚で提供されたり、いつも大入り満員なのに採算が合わないと言う不思議な店でした。ミニクラブの外装には半分に切断加工されたベンツが配置されたり、インテリアの本からいま抜け出してきたようなハイカラさんばかりでした。
話は戻りますが、国試対策ではこんな事もありました。借り受けた盗聴用の隠しマイクも身につけて、出題担当教官への家庭訪問です。外には受信機をつけた車も待機しています。先生はアーとかウーとかおっしゃるばかりで、肝腎な話にはなりませんでした。そんな或る日、他にも応用してみようと考えます。ホテルのベッドの傍にはマイク、少し離れて受信機が隠されました。相手の女性には内緒です。巻きもどしてみると、アーとかウーとかおっしゃるばかりか、バスルームから締め忘れた蛇口の湯音も響き渡っていました。
また、脳出血後のリハビリ病棟では、ジャージャー水を垂れ流してヒゲを剃るものですから、看護婦さんに叱られ恐縮するのです。それから、後遺症で口もきけぬ三十代の隣室の男性は、深夜になると好きな歌を廊下にも響き渡る声で正確に歌うのです。初めはビックリして何度も私は跳ね起きますが、担当の先生方も首をひねるばかりでした。この世には不思議はありません。必ず理由があります。これは憑依現象です。悪霊はウシミツ時に徘徊します。非常識な時間でも起こして声も出ない人に平気で歌わせたのです。同室の、自分のことを原因不明の筋萎縮症と言う三十少し前の男性は、ひとりでは食事もトイレもできないわがまま一杯の青年でした。雄弁な彼に聞いてみると、建設業のお父さんがブルドーザーの下敷きになって死んでから始まったというのです。お父さんの憑依かもしれません。私が所属した青年会議所の理事長経験者は、その頃、一メートル余りの足場から落ちて亡くなりました。地場では大きな企業の跡取りでしたが、代々の金持ちで、先祖の中には死んだことも悟らぬ、執着霊がいたのでしょう。普通は軽いケガですむ高さです。また、高橋先生は、通行人がビルから落ちてきた物に当たって亡くなった例を挙げて、「どうしてこんなことが、信じられない」という場合は憑依です、と講演で述べておられます。その場所を、その時間に、その人が通らなければ事故は起こり得ないからです。
またこんな例もあります。腹痛でトイレに駆け込み、ジダンダ踏んで電車を見送ると、その電車は先では事故で何人も亡くなります。これは言葉は悪いですが護られた方の憑依現象です。例の、あの青函連絡船に乗る前に、オミヤゲも買って、ベンチでついウトウトとしていたら、間に合わずに助かった。このように良い方もいくらでもあります。
高橋先生は、戦時中、船が撃沈され海を漂う中を米軍の機銃掃射を受けられても、イルカが寄ってきて守ります。
また、園頭先生は、戦時中、一通の帰還命令電報で助かります。その島では後に全員玉砕をするのですから。このように、よい方も、悪い方も常識では考えられないという場合は、あの世の霊の協力、悪い方は霊の仕業(しわざ)とお考え下さい。まさかと思われるでしょうが、飲み助がいつも赤提灯の方へ足が向くのも、憑依霊が引っ張って連れていくのです。勿論、当の本人が、憑いている霊と同類に他なりません。飲むとひとが変わる、青ざめて目がすわる等、極端な場合です。何でもかんでも憑依現象の所為(せい)と考えるのもいけませんが、目に余るときは、そう考えてよさそうです。
元へ戻ります
国家試験対策の結末はこうでした。前日には、全員旅館に同宿待機です。アジトには最後の定時連絡がはいりました。急いで受話器を取ると、「山をかける出題は1題もありません。健闘を祈ります」ガーン。皆から対策費も集めてこのザマです。連絡を入れると、それからは各人が遅くまで本を広げたことは言うまでもありません。これは今をさかのぼる三十数年前のことでした
国試の半年も前のことです。
アジトに引っ越した矢先のことでした。そのビルには完成と同時に引っ越します。入居者第一号として住み着くと、三才ほどの女の子が二人、チャイムを鳴らすのです。仲良し二人は、しばらく遊んで帰ると、数日後には一人の子の妙麗のお母さんが挨拶に見えます。「なぜか幸せが来そうという予感で、ビルの完成を心待ちにしました」と、顔を赤らめるその人はうつむき加減に話しました。その人の主人が勤める会社の社長夫人は、寝たきりの社長と家族も捨てて、その人の主人と駆け落ちしたというのです。主人とは親子ほどの齢の差に、先では奥様が可哀相と、相手を思い遣る言葉も忘れませんでした。ただ一通の手紙から生きる望みも消え失せて、かわいい我が子を道ずれに、いっそのこと命を絶とうとします。思い出の場所が、真っ暗闇の中にスポットされたように浮かび、そこへの道が1条の光跡となって続いたというのです。無心に眠る我が子を起こして家を出ようとしたとき、ドンドンドン「早く開けなさい、早く」、何とはなき胸騒ぎに、駆けつけた里の家族でした。それからは、空気の抜けた風船のような毎日の中で、相手不在の離婚が認められます。社長一家はというと、現金や貴金属の大半を持ち出されると、適齢期の二人の娘さんは故郷を離れ家族は四散したというのです。こうして、気分転換に外に出て働くようになった頃に私と知り合います。

その人は、大きな鉄工所に生まれます。戦後は少し停滞しますが、それから起こる朝鮮特需に家運は日の出の勢い。乳母日傘(おんばひがさ)に、接待は広い台所に板さんを入れて、シャミのお姐さん。アルバムには往時の華やかさがしのばれます。主人とは、友人の見舞いに行った病院で急性の盲腸炎を起こして緊急入院、そこで入院患者の主人と知り合います。お付き合いが始まり求婚。両親は猛烈に反対をします。その中でのお父さんの工作機械での事故死。長女に貰った婿養子は、トランク一杯の勲章を眺めるばかりの傷痍軍人上がりで、家業を継ぐ能力はない。そして、惜しまれての華燭の典。それからは手放す一方の資産に、主人は、こんな事にならなければ左ウチワだったのに、という痛恨の言葉を口にし始めます。また、その人のお父さんにまつわる話として、こんなことがあります。その人のお父さんが亡くなると、四十九日もすまぬうちに、人もうらやむ兄弟仲の、広く事業を営む弟が急死。その後では、デッチ奉公のように働いていた孫婿が、仕事場で脊髄損傷の半身不随の事故が起こります。どうしてこんな事が起こるのか園頭先生の記述要約から参考にしてください。
「1983年、実業家の兄弟が次々に亡くなった例」
東京のステーションパーラーを皮切りに、ロス、カナダと次々に店を展開して、年中、日本とアメリカを往復していた人がいた。危機管理と危険防止のために別々の飛行機なのが、今度に限っては奥さんと同伴した。日本に四時間というところで気分が悪くなった。動脈瘤破裂ということで緊急入院手術。一命は取りとめたが亡くなった。葬儀の準備中に次の弟が同じ症状で亡くなった。二つ葬式を出さなければという告別の日にその次の弟が同じ症状で倒れた。そこに居合わせたMさんに、倒れた人の奥さんが「助けてください」と、手を握られた。とっさに、懐に入れていた『心行』を手渡し、一緒に読み始めた。『心行』は、Mさんの娘さんが「亡くなった人に読んで聞かせたら良いと持たせたものだったが、そのうちに病人がムックリ起き上がり一番大きい声で一緒に読んだというのである。元気になったその人が言うには、夢うつつに現れた死んだ兄さんが、お前は来ないでよいと追い返されたということだった。
園頭先生は次のように述べられる。「なぜ次々に死ぬという現象が起きるかといいますと、一番最初に亡くなった人が死ぬという心の準備がなく突然、死を向かえて、しかも金や物質に非常に執着しているためにこの地上から離れたくないと助けを求めてしがみついてくるのです。自分の身内に頼る人がいないと自分が一番心を許していた友人にしがみついてきます。これは丁度、水に溺れた人を助けるのと同じで、助ける人が、その人を救う力があれば救助できますが、助ける力がないと、しがみつかれて一緒に死んでしまうのと同じで、頼られた人が心がしっかりしていると死ぬこともなく、またしがみついてきた霊を救うことができますが、執着の心が強く、心が弱いと引きずり込まれて死ぬということになります。葬式の帰りに死ぬということもそういうことです。「心行」は宇宙の神理と、人間は霊であって肉体ではないから、自分の肉体にも、また一切の金や物に執着してはならないことも書いてあるのですから、「心行」を読んで聞かせると、「そうか」ということがわかって、しがみつくのをやめる。それで三番目の弟さんは「お前は帰れ」といわれて助かられたわけです。」、と。
元に戻ります。
この、出戻りで三つの子の人との交際が知れると、秘書の人は相手の家を訪ね、別れるように懇願されます。このとき私には女性が他に三人いました。おつき合いが、五年、一年半、八ヶ月です。でも、火のついた油は火勢を増してとどまることを知りません。両親の反対をいいことに、国家試験が終わると夜逃げするように部屋を引っ越し皆さんから逃げ去りました。
それは平成のお正月のことでした。
その頃、園頭広周先生の主宰されていた国際正法協会の「新年禅定会」という集まりがありました。会場に隣接した控えの間に園頭先生がいらして、ご挨拶を済ませて暫く先生のお相手をする為に側に坐っていました。先程までは家内が上手にお話の相手をしていたのに、私は、もぞもぞしたりタメ息をつきながら心の中では、「自分をつくろうから構えるのかな」と、自問自答しています。ついには、「実は、私には…の女性がいまして…」と、先生にご挨拶に来られる人があると中断しながら、かい摘んで話しますと、じっと私の話をお聞きになっていた先生は一言、「時間をかけるものは掛けないとね」と短くおっしゃいました。そこで係が呼びに来て、私の挨拶に続き先生の講話が始まりました。後半になると先生は私に女性問題への回答を諄々とお説きになりました。私は頭を下げたまま上げることは出来ません。私達夫婦の不仲の原因は私の女性問題であり、支部長要請の時、こんなに夫婦が不調和で女性問題も引きずっている者が引き受けてはいけない、また、なれる筈もないと考え、健康上の問題も含めてお断りしていました。
暮れの、先生の金婚式の会場でも司会が、夫婦で出席の私達にインタビューをすると、「奥様は…」、「ハイ、明るいところです」。家内に対して、「支部長は…」「ハイ、情が深いところです」と答えました。家内の言葉は、私の女性問題を意味していました。会も引け、夫婦は師走の喧騒と寒空の中を、「言い過ぎたでしょうか」、「いいやそんなことはない」と、そのようなことを話しながら歩いて行きました。
これまでの人生体験を中心にした自らのありかたを綴ってみました。ややもすると、暗くなりがちな私をいつも注意してくれたのは家内でした。心を暗くする反省は本当の反省ではありません。思い出にふけるという一幕もなきにしもあらずで、これまでの、親許にいた中学三年(15才)までの十五年間、親許を離れ下宿生活をした高校一年から予備校、大学、研修医時代までの十三年間、結婚生活の二十数年間、私の人生の原因と結果は、これまで述べた通りです。女性に対しましては、良心のカケラもなく非道なことをしましたことを心よりお詫び申し上げます。すみませんでした。ゴメンナサイ。
それでは、私の脳出血について述べてみたいと思います。第一回目の脳出血後は分院、店舗等の全部から身を引きます。身を持てあました時間つぶしのために、暫し忘れていたカメラを持ち出して花や植物のスライド写真に情熱を燃やしたり、ワンボックスカ−でアウトドア・ライフを楽しみました。アウトドア−ライフは二千ワットの発電機持参のレ−ザ−カラオケ等です。極めつけは、自然派には怒られそうですが電気釜のご飯にホットプレ−トの焼き肉です。女性問題は相変わらずで、夫婦の口喧嘩も絶えずストレス一杯の毎日に、そんな中での二回目の高血圧性の脳内出血でした。一度目から八年経った秋です。数日前には、今だに風倒木の整理もつかぬ巨大台風が通過して、私の医業の看板がグラグラして今にも落ちそうでした。近年にないすごい惨禍をもたらした台風でしたから、どこも依頼が多くて直に撤去できないと言うので、五、六メ−トルもある看板を自分で切り倒そうと考えました。
家庭用ガスと酸素を併用したバ−ナ−でも切れず、溶接器のア−クではどうかなと思ってやってみても駄目でした。四ミリ厚の十二センチ角の鉄パイプを、今度はグラインダ−を買ってきて切り始めると、すごい火花を散らして少しづつ切れます。余り火花が飛ぶものですからもうおっかなびっくりです。看板は四方から綱で引っ張り倒れないように固定もしています。前の日は、衆院選の最後の選挙歩行を終え夜の十時には帰宅しています。お酒は四か月も飲んでいません。その日は日曜日にもかかわらず、朝六時に起きて看板倒しの準備をして、夕方には看板は地面にドシ−ンという音と共に切り倒され、家族と共に大歓声でした。
でも、五分ほど後から様子が少し変でいやな予感が心をよぎります。二度目ですから何となく分かります。自分でもやれるという自信過剰とお金をケチッたばかりのこのザマで、おっかなびっくりで火花を散らしながら切断していた時は相当な血圧だったのでしょう。フラつきながら、物伝いに自分の寝室へ行き休みました。嘔吐はしませんでしたが、何とも言えぬ気分の悪さが始まり時間の経過と共に言語障害と運動マヒが始まるのが何となく感じられます。家内は心配そうに枕元で高橋信次先生がお説きになった『心行』を読んで私に聞かせていると、またまた後悔が始まりました。二度のご褒美なら喜んで受けもしますが、二度の脳卒中など自慢にもなりません。
しばらくして病院へ運ばれます。二十日ほどでリハビリ専門病院へ転院すると、後遺症は運動マヒと言語障害ですから、動くこととお喋べりが治療と考えよく動きました。しかし、運動は自分一人でも何とか出来ますが、お喋りは一人では出来ませんから余り言語のリハビリにはならなかったと思います。なぜなら、私には人を見下げる心があるのか、人見知りをするのか入院患者さんとは殆ど親しく話しをしなかったことも理由の一つです。一度目は半年位で職場復帰も果たしますが、二度目はひどくて二年かかりました。
これまでの記述で明らかなように、私の女性問題で夫婦は不調和でした。夫婦の不仲のために家庭は崩壊、次代を担う子供達を悲しませる現象が現代には日常茶飯事のように起こっています。このような場合、どのようにするのか考えてみましょう。園頭広周先生の「考察と指導」を参考にしています。
<夫と不調和な妻の祈り>
つぎのような順序で祈ります。
一、夫のニコニコしたやさしい顔を心の中にしっかり思い浮かべ、あるいは、夫が自分の眼前に座っているように思い浮かべます。
二、夫に対して心の中で、または、小さな声を出して言います。「あなたは神の子です。わたしも神の子です。あの時はあのようにいいましたが、しかし、私は心からあなたを愛していることがよくわかりました。わたくしのためにも、子供のためにも、あなたは大事な方であるということが、今よくわかりました。すみませんでした。」と、祈ります。
三、つぎに、夫の相手の女性の人を想念して、次のように祈ります。「私があなたを恨んだことをお許し下さい。本当は私の愛が夫の心を満たしておりましたら、あなたとの関係も続かなかったのでありました。本当は私が仕えなければならないところを、あなたが満たしてやつて下さいまして、ありがとうございます。同じ女性の立場として、今のままではあなた自身も、こういう関係はよくないと考えていられると思います。私も夫の心と離れてみて初めて、私がどんなに夫を愛しているのかよくわかりました。あなたもどうぞ心から幸せになってくださることをお祈りいたします」その女性が本当に幸せになっている状態を心の中にしっかりと想念します。
お互いに、夫もその女性も、それでよいと思っているわけではありません。どちらも後ろめたい心を持っているのですから、こういう関係をこのまま続けていても、どちらも幸せになれないということは、それぞれ二人がよく知っており、そういうことを感じていても、どちらもそれを表面に出さないだけのことで、そのような祈りをすると、それぞれの守護霊・指導霊が心の内面から働きかけて、二人の間に気まずくなるような状態をつくり出してしまい、やはりこのままではいけないと思うようになるのです。そのような祈りをしてから、夫を赦して、また、自分も充分に反省しているのですから、大きな母の心で夫を受け入れるのです。
私の半生は反省と後悔の暗い人生でした。この項の終わりに真の反省、本当の反省を園頭先生の記述から聞いてみましょう。
「自分の欠点が修正できると、心が広く明るくなり、「やれた」「やった」という魂の充実感を感じて心が安らかになる。心が安らかになってくると、自然に周囲も明るくなる。周囲の人も変わってくる。こうして、正しい生活は、それまでに修得したよいことを、どしどし積極的に実践して前進して行く中で、自分自身の業の修正を図ってゆくことである。反省ということで多くの人が間違いを犯しやすいのは、欠点、業の修正にばかり気を取られて、よいことをどしどし実践して前進することを怠ることである。そうなると、反省、反省と、いつも自分の欠点にばかり気を取られて心を暗くしてしまう。「俺はこんなつまらぬ人間だったのか」と悲観的になったりして、その揚げ句に自分で自分に「あいそ」をつかして自殺してしまう人があったりする。八正道という正しい行き方の基準を教えないで、反省ばかりを強調するような内観道場で、時々自殺者が出たり、ノイロ−ゼになったりする人があるのはそういうわけである。だから反省、反省といって、心が暗くなるようであったら、そういう反省はやめる方がよいのである。
反省をしたら、「よし、やるぞ」という勇気が出てきて、反省したことを積極的に実践して、そうしてその反省したことに打ち克って、人生の勝利者となる、業を修正して乗り越えられたことに対して感謝することができる、という反省をしなければいけないのである。正しい反省は積極的な人生の推進力になるが、間違った反省は、かえって業に執着して人生を暗くしてしまう。「業・(カルマ)」というと、多くの人が悪い業だけを考えてしまう。業には悪い業もあれば、良い業もあるのである。よいことをする習慣性、傾向性もあるのである。だから、良いことはどんどん実践してゆくことである。良いことを実践したときには、心に喜びが感じられてくる。よいことをしないと、生きる喜びが感じられないのであるから、よいことをしないで、生きる喜びの感じられないままに、心の喜びが感じられな状態ということは、「気づまり」「なんとはない無力感」「心の虚脱状態」「心のむなしさ」などであるから、そういう心の状態のままで、その上にさらに「反省、反省」といって、自分の業の悪い面だけを見つめるから、自分がいやになるのである。自分はそんなに悪い人間とは思っていなかったが、こんな悪い人間だったのかと、自分で自分に「あいそ」が尽きるということになる。どんな人間も、悪いことばかりの人間という人はいない、だから反省する場合は、自分の良い面(長所)、悪い面(短所)とを書き出してみることである。短所だけを書いてはいけない。そうして自分のよい面(長所)を確認した上で、こうゆうことはいかんなと短所を反省して、「よし、今度はこれをこのようにしてやろう」と反省することである。」
<私のすばらしい良い面(長所)>
1、実行力、意志力
1、素直
1、礼儀正しい
1、人のお世話ができる