
初めての講演
八起正法
平成十年四月十日、初めての対外向けの講演を開始いたしました。
当初は、六月頃の講演予定と伺っていましたが、お釈迦様の誕生記念日の四月八日に近い十日と知らせて来たのです。これは好都合だと
考えました。
私の担当は高校同窓会の第五十二回定例会で、メンバーは三十代から六十代の主な同窓生です。職業は、経営者や大学の教授、会社
勤務、弁護士、会計士、医者など多彩な顔ぶれです。
前回の定例会のことでした。
講師は阪大名誉教授で、遺伝子工学の七十余歳の老練弁士でした。終会となり、偶然、エレベーターに二人だけで乗り合わせました。
「次回の講師です。本日は興味のあるお話を有り難うございました。先生の次の役だけに責任を感じます」と挨拶をしますと、
「自然体ですよ。頑張つてください」と二、三の会話をしてお見送りをいたしました。
それから幾日もたたない内に、園頭先生へお見舞いです。
先生へ、私の講演予定と先の講師氏とのやりとりを報告していますと、傍らのS氏から「前の講師が誰であろうと正法ですから」と、勇気
づけられました。
サテ、当日です。前配布用の「講演レジュメ」(要約、まとめ)も用意し、カバンの中には二十四枚の枠付きのOHPフイルム、録音用のポケット
レコーダー、レーザーポインター、タイマー、それからフイルムを汚さぬように白手袋もしっかりと収まっています。スライドとOHPの両方では
煩雑さもあるので、今回はOHPのみにマトメて早目に出かけました。会場は、町の中心にある新聞会館というデパートも入っている定例会場
です。私の持ち場は夜の七時半からの開始でした。演題は「心の法則とあの世」教室です。
知名度が全くありませんから、百席の定例会場に三十二人が来てくださいました。 前回が八十人程でしたから三分の一です。
司会者の挨拶から私の講演が始まりました。パソコンでつくったフルカラーのOHPの出来栄えは思いの外です。
私の投影機とは違って、いかにも高価そうなプロ仕様のオーバー・ヘッド・プロジェクターによって、私の講演は引き立てられたようでした。
ややもすると舌足らずで早口になりがちな私の心の傾向性をいさめながら、ゆっくりとはっきり(?)と努めました。話し始めてものの五分も
すると、おしゃべり好きの弁護士氏とオオボラ吹きの会計士氏が、こともあろうにお互いに体を向き合って喋り始めるのが分かります。
かってジャズオーケストラの司会をやり、演説好きな私にとって、光源をおとした会場といえども一人一人の来聴者がよく見えました。
講演は、私のタイマーが五十四分間を指しましたのでそこで止め、三人の質問を受けました。
一人は工業大学の講師、そして前衆院議員の奥さん、最後の一人は本職の僧侶です。六十歳余りの彼は「この素人の医者が何を言うか」
という想いが見え見えでしたが、マーなんとか一時間半を無事終えました。
この定例会ではこんなこともありました。
この数日、私の出身高校の所在地にある大手のゴム靴会社の倒産が新聞を賑わしていました。地場銀行の頭取がこの会に出席していた
ものですから、ゴム会社の関係者だったのでしょう、泣きながら支援を頼むというハプニングも起き、あたかも、サロン外交の観を呈しました。
そこで、私も高橋先生の講演の受け売りで、「正しい」という判断の尺度は「そのことによって心の安らぎがあるか、そのことによって調和す
るか、この二つを同時に満足させるものが正しいというのだ、それで判断しなさい」と、やったものですから貸す方の頭取も貸される方も考え
込んでいました。
こんなことで、一時間半はアッという間に過ぎ、Yシャツまでかスーツまで届く汗も心地よいものでした。それで少し浮かれて帰途についてい
たのでしょうか、参考見本として持参した私の著書を、あわてて会場に取りに戻るということになりました。
現代は売り込みの時代、自ら知らせる時代と思います。盲目の人生を送る現代人に正しさの尺度、基準を教えるのが正法です。私は胸を
張って、死ぬまで正法を伝へ歩こうと決意しています。
私の所属する医科の勉強会の幹事に頭を下げて話をさせていただこうと考えています。
こうなったら縁のある所には手当たり次第です。 二年前の六月に、九時までの夜間診療を始めたとき、周りの人はどう思うだろうかという
気恥ずかしさの余り、外から見えないように診療室のありとあらゆるブラインドを閉め切ったことを考えると、恥ずかしい想いも数日のことで、
一歩踏み出してしまうと強力な智慧になると思い知るのです。
こうして次の日曜日には、子供達を伴い先生へ講演会の報告と、二人の子供が同時に大学生になったお礼に参りました。
第52回例会レジュメ
「心の法則」は「物質の法則」と同じである。これまで長い間、心と物質は次元が違うと思ってきた。
心と物質は次元が違う筈なのに我々は「それは物だ」と心で認識できるのは心の本質と物の本質は本来同質であり、心の本源と
物の本源は同一だからである。
<心の法則>と <物質の法則>は元来同じである。
1)原因結果の法則 、因縁の法則 因果律、作用・反作用の法則 動・反動の法則
善い原因は善い結果をつくる(善因善果)、
悪い原因は悪い結果をつくる(悪因悪果)。
苦しみをなくすには苦しみの原因をつくらぬこと。至極単純明解。
一人一人の運命は、みなその人の心の結果であり生きざまの結果。
現在の自分は、過去の輪廻転生での生活体験と、現世の原因と結果の総決算である。
2)心の傾向性。業、カルマの法則 慣性の法則
スピードを出した車は急ブレーキをかけても惰性でしばらく走る。心が一定の傾向性を持つと無意識にそのことを行う。いつも
明るくクヨクヨしない性格とか、悲観的な暗いことばかり考える等である。悪い心の傾向性は正し、善いことは伸ばすこと。
3)類は類を呼ぶ、類は友を呼ぶ、 波長共鳴の法則同類の法則
酒好きの人のところへは酒飲みが集まり、マージャン好きはマージャン好きが集まり、静かな雰囲気の人にはそのよう
な人が類は類を持って集まる。音叉は同じ波長のもの同士が共鳴し合いウーンと唸る。ラジオやテレビの電波は見えないのに、
周波数が同調すると音が聞え画像が見える。磁石は鉄分のみを吸い付け鉄分以外はついてこない。朋友、不仲、こうした関係は
すべて綾なす縁によって自然に結ばれ、あるいは離れて行くものである。
4)霊魂の永遠性 質量不変の法則エネルギー不滅の法則 人間の生命(霊魂)は過去世、現世、来世の三世をグルグル循環する。肉体は死ねば三合の灰になると言うが、人間は死んでも 死なない霊魂。霊魂は生き通しのもの。 5)生まれ変わり、輪廻転生 循環の法則 人間はあの世とこの世を循環して魂を磨く。生まれ変わり死に変わりの目的は、一人一人の魂の調和、地上ユートピア(地上天国)をつくること。昼夜の循環、四季の循環、水の循環、酸素の循環、惑星、陰電子の循環、悪循環、善循環等があり、自然界
の一員に過ぎぬ人間もあの世とこの世を循環し、生まれ変わり死に変わりするもの。
「人間の質」 人間の質を人間性とか人格と言う。この段階を簡単に示すと次の通り。上々段階の人や上段階の人は、慈悲と愛の塊の人で、人類を正しく導く人。これを<如来>、<菩薩>という。
中段階の人は、損害を被っても非難しないで原因を振り返り反省する人。博士、学者の多い世界。これを<神界>という。
下段界の人は、ギブ・アンド・テイクで与えたものが返ってこないとスッキリしない心の人の世界。これを<霊界>という
最下位界の人は、自分さえよければ人はどうでもよいというエゴの世界。まさに現代の風潮である。これを<幽界>という。
暗い世界(地獄界)の人の心
人を争わせておもしろがり、闘争対立の心を持つ人。信仰することによって争いを生み出す人。自分の利益のためには平気で人を陥れ利用する心の人の世界。これを
<修羅界>という。
金銭欲が強く、足ることを知らずいくら持っても満足しない欲望の塊のような心の人の世界。これを<餓鬼界>という。
動物の本性まるだしでネチネチと執念深く、見境なく性欲に狂う人の世界。これを<畜生界>という。
狂思想家、エゴイスト、狂宗教家。常に心の中に闘争と破壊の渦巻いている人。ひどく怒る人、ひどく怨む人、ひどく悲しむ人の世界。
これを<煉獄>という。
集団で闘争を計画した者。戦争の計画者。権力を持って大衆を間違った方向へ指導した者。間違った教えを説いた狂宗教家の世界。スタ
ーリン、ヒットラー等
。これを<無間地獄>という。
あなたはどの心の世界に当てはまるだろうか。現在のあなたから地位、名誉、学歴、財産を差っ引いたものが真実のあなたである。
あの世は心のままの世界 あの世は心のままの、心の通りの世界である。同類が集まる世界。例えば、生前に金、金、金の亡者の死後は、右を向いても左を見ても、金、金、金と思いやりもなく隙きあらば蹴落とそうという者ばかりの世界。
また、欲情に狂った者の死後は、どこを見廻してもどこを見ても、全員が肉欲の行為をし続ける世界であり、「もうイヤだ、
こんなことはもう金輪際ごめんだ、止めよう」と心から反省するまでそこに留まらねばならないという苦しい世界である。
だから文字通り地獄の苦しみで、これを地獄界というのである。
一方、高い段階になると、全員が爽やかな心あたたかい高人格者ばかり。生活を乱す者は一人もいない超平和な世界もある。この世はいろんな人格の人がいるから、参考にしたり
模範に出来る。こういう理由で、この世は魂の勉強には好都合である。しかし、あの世は心の段階が厳然としてあるのだから、
自力で自覚しなければならないほど厳しい世界である。反省の習慣のない人は特に今のうちから気をつけていただきたい。
「反省」とは、もう二度と同じ過ちをしないということ。性懲りもなく何度も何度も繰り返すのは、ただの「後悔」に過ぎぬ。
反省は明るい世界、後悔は暗い心の世界である。
「死んだらどうなる 」 人が死ぬと、しばらく自分の置かれている状態もわからぬ無意識状態が続く。死んだのに無意識状態と言うのはおかしいで
はないかと思われるだろうが、魂は永遠に生き続けるものだから、魂にとっては活動していないから無意識状態である。その
内に、お坊さんが来たりお経が上がり始めると「俺はヒョットしたら死んだのかも」と自覚するようになる。それから二十一
日間は地上界に留まることができる最大日数。八十年も九十年も地上界で生活したのだから、懐かしい家の軒や自分の気掛かり
になる場所にいることになる。この世に執着もなく死を自覚し心を悟った人は、二十一日どころか僅か一時間もしないうち
に天上界へかえって行く人もいる。皆がこうなることを望みたい。
次に、あの世の入口で尋ねられる。「あなたは死ぬ覚悟がありますか、死ぬ用意がありますか」と。そして、生前の自分の為し
た一切の出来事をパノラマ映画のように見せられる。それから、また、尋ねられる。「あなたは人前に見せられる、恥ずかし
くないような何かをして来ましたか」と。この回顧映画は反省の涙でまともには見られない。この尋問をする係りの人は、菩薩
界の高霊格の人間である。
そして、三途の川もある。これはこの世への執着を捨てなければ向こう岸(あの世の定着地)には渡れないという次元の違う
大河である。
こうして二十一日間も過ぎると皆な、あの世の修養所に入りそこで二十八日間、各人の心を反省させられる。修養所のそばに
は、無意味なことを悟った人が置き去った物凄いゴミの山がある。本物のお金は持ってこられないから、心の中で持って来た お金などである。この修養所での反省の度合い、生前の思念と行為の生きざまによって、あの世での定住地が決まる。その 定住地は閻魔様等が決めるのではなく、自分の嘘のつけない善我なる心が決めるのである。全部自分の責任。自由にこの地上 界にいることができる日数の二十一日と、修養所の反省期間の二十八日の和が四十九日の由来である。 人が亡くなってから最低限四十九日は静かにしていること。折角、死者が安住の地に定着しようとする時、財産問題等で もめると、死者の魂が揺さ振られ、執着の残る場所へ引き戻されるからである。亡くなってすぐは、毎日の生活の習慣的な 等速度線上にあるので、死者に食べ物を供えるのは意味がある。しかし、あの世にはあの世の生活があるのだから、残され た者が納得の上でその内にやめるのもよいだろう。一人よがりはモメごとの原因。生きた人間のエネルギーのもとは食べ物 と睡眠だが、あの世での生きるエネルギーは神の光である。 このようなレジュメを配布した。