八正道
人間の正しい生き方の基本
八正道・人間の八つの正しい道
中道の道を歩むための、心と生活の基準である中道の生き方を教えるもの。
八正道・八つの正しい道とは何か
正見 (正しく見る)
正思 (正しく思う)
正語 (正しく語る)
正業 (正しく働く)
正命 (正しく生活する)
正進 (正しく人と調和する)
正念 (正しい目的意識を持つ)
正定 (正しい反省と瞑想、禅定(ぜんじょう)する)
正見、正思、正語はこれらの中でも最も大事な基本である。この八つの規範に当てはめて毎日を生活すること。これ以下でもこれ以上あってもいけない。
八正道の目的
生老病死の迷いを消滅させ、恵みを与え悲しみを取り除く慈悲の心で、他を生かし助け合う愛の行為を自然に行えるようになることであり、八正道を学ぶことは即ち法を学ぶこと。それは又、中道の心の具現にあるのである。
八正道にそった生き方
善を思い、善を行う生活をすることである。慈悲の心で愛の行為をすることが、八正道にそった生き方となる。
なぜ中道でなければならないか
自然界の生命を育む条件というものは、自然界そのものが常に右にも左にも片寄らない中道の道を歩んでいるからで、空気、水、太陽の熱、光…等、全てのものが外れることなく調和されている。
気温は暑すぎても寒すぎても生きてはいけないし、空気の組成が少し変わっても生きてはいけない。全て、ほどほどでなければならない。このように人間もこの自然界を構成する一つに過ぎないのだから中道でなければならないのである。
自然界の調和にみる中道
人間を含めた大宇宙は常に相互に関係し合って動いている。太陽系一つをとっても、太陽を中心に九つの惑星が相互に関係し、太陽系という体を形作っている。地上の生活にしても動・植・鉱の相互関係がなければ成り立たない。その相互関係は何に起因するのだろう。
それは大自然の意識(心)なのである。秩序整然とした意識の働きがあればこそ、大宇宙も、地上の生活環境も、調和されている。地球という球体が出来上がったのは、今から三十三億年前(高橋信次)のことである。その頃は火の玉であり、太陽のように燃えさかっていた。生物が住めるようになったのは今から約六億年前のことである。そして,その軌道は昔も今も変わりない。偶然にしては余りにできすぎていると思うのは当然である。大宇宙には意識(心)が存在する。客観的にこれを説明すると、太陽の熱・光に強弱がない、空気に増減がない、一日に昼と夜があって、決して一方に片寄らない。
例えば太陽の熱・光が強くなったり、弱くなったりしたらどうなるだろう。地上の生命は生きていられないだろう。空気が増えたり減ったりしても同じことがいえる。我々の生活態度も食べ過ぎれば腹をこわし、惰眠をむさぼれば体力に抵抗力を失い、もっと体に影響を与えるものは心である。心配事があれば食欲は減退し、睡眠はさまたげられる。どなったり、腹を立てれば血行は悪くなる。人間の体も無理はいけないし、怠惰もいけない。人間は大宇宙、大自然界の中で生活している一構成員に過ぎない。このように、大自然の心は、私達に中道という調和ある秩序を教えているということになり、大自然は調和という中道の心を教えているのである。
人生の目的は何か
人生の目的は魂(霊、生命、意識、心)を成長させることにある。すべての宗教は何かあると、調和しなさい感謝しなさいと、「調和」と「感謝」を教義にするが、調和と感謝が人生の目的ではない。人生の目的は人間は神と一体である神の子であるという自覚を、頭で知ることではなく身体全体で、魂のどん底で自覚すること、つまり大宇宙と一体となる「宇宙即我」(うちゅうそくわれ)に到達することなのである。
この宇宙即我に到達していくには、その人の心の段階があるといって良いが、この宇宙即我を体験する唯一の方法が禅定(ぜんじょう)である。調和し感謝したときの安らかな心の状態で禅定しないと本当の禅定にならず、宇宙即我への道を進んでいけないからである。調和と感謝はただその入口に立っただけで、人生の目的は宇宙即我への道を歩み到達することである。
つまり、神の心の継承者である神の子の私達は、本来、宇宙と同じ大きさの心を持っているのだが、それを小さく自己限定してしまうところに苦しみ悩みが始まるのだ。人生の目的は、それは人生の目的を知ることにある。決して人間は、金銭欲、名誉欲、地位欲、支配欲、ましてや、食欲、性欲などを満たすために生まれてきたのではない。肉体の欲望はみたされても、心の渇きは癒されない。心の渇きを癒すものこそ人生の目的とするのであり、人生の目的を知るために人は生きなければならないのである。
(宇宙即我は「宇宙即我に至る道」園頭広周著 正法出版社を参照)
八正道の各論
正見(しょうけん、正しく見る)
常に第三者の立場に立って、自我の思いを捨て正しく見る努力をすること。正見の反対は邪見。
既成観念を白紙に戻し、物事の真実を知るようにすること。
まず感謝の心を持つこと。
神の天地創造のことわりを知り、人間は神の子として天孫降臨し、調和を実現することが人間の目的であることを知り、その眼ですべてを見ていくことをいう
「わが心をよく知る,知って自由自在にコントロールできる」という力を持つことが、正見できる唯一の条件。事象の一切の原因は人の想念、心にあって現われの世界は結果である。
正思(しょうし、正しく思う)
正しい思いとは慈悲と愛しかない。これ以外の思いは、すべて自我からきている。
正語(しょうご、正しく語る)
言葉は,意思の疎通に欠くことのできない機能だが、心に愛があ れば言葉以前の言葉が相手に伝わり、こちらの意思が正しく伝わってゆくものである。冷静、誠実、愛の心をもって語れということである。
正命(しょうみょう、正しく生活する)
正しい生活は、右にも左にも片寄らない中道にあり、調和ある精神的、肉体的生活を意味する。つまり、正しい生活とは、それは八正道の目的である中道を物差しとして、己の業(心の傾向性)を修正し、中道に適った生活をするということである。正命の目的は自分を正すものだが、詳しく述べると次のようになる。
(目的)精神的、肉体的な調和をめざし、業と化したさまざまな原罪(自己保存の想念)を正すことにある。肉体的な調和をめざして、悪い業となったものを修正して善に替えてゆく生活である。
正業(正しく働く)
地上界のあらゆる生物は、働くように仕組まれている。動物も植物も、そして鉱物さえも、この地上の生きとし生けるものに、その体を提供している。
人間の場合も、その点は老若男女を問わない。幼児は乳をのみ、眠ることがつとめである。学生は学校で学問を学び、社会人は社会のために働く。主婦は家庭にあって子供を守り、夫の仕事が円滑にゆくよう、安らぎの場を与えるものである。働くということは、人間としての義務であり、同時に、人々に必要なものを提供することを意味し、自らの生活を維持し、人々の生活を支えることである。
そして、各人が人々に奉仕するという愛の心が根底にあらねばならないが、今日の社会生活はそれぞれがその業務を分け合い、互いにその生活を補い合い、助け合っている。すなわち、分業化によって、それぞれの生活を支えているというのが実状である。
(目的)1.魂の修行 2.地上界の調和 3.奉仕
仕事をし、職業に就くことが愛の行為にも拘わらず、社会がこんなに混乱するのは、仕事を単に金儲けの手段と考え、人はどうでも自分さえよければいいと思うのがその原因である。
正進(しょうじん、正しく人と調和する)
正進の目的は人間関係の調和にある。正命の目的が自分を正すものだから、その次にくるものは、人々との調和なのである。人間関係とは夫婦、親子、兄弟、友人、隣人、そうして個人と社会の関係である。
正念(正しく念ずる、目的意識を正しく持つ)
念というものは、こうしょう、ああしょう、こうありたい、という目的意識であり、意志の決定であり、行為である。念はエネルギーであり、心の中の創造行為を形に具象化して行くものである。
正定(しょうじょう、正しく反省する・禅定する)
正しく定(じょう)に入るとは、今日一日をふりかえり、八正道の正しさに反した想念と行為がなかったかどうか。あったとしたら、どこに、なぜ…というように静かに反省し検討することである。
そして正道に反したことは神に詫び、明日からは絶対に二度と再び同じ過失をくりかえさないように努力することである。
つまり、正定の第一歩は禅定という反省的瞑想から始まり、第二は反省後の心の統一、第三は守護、指導霊との対話‐‐‐第九は釈迦、イエスモーゼの瞑想である。
座禅の目的は心をカラにし、その空の中から己を見い出そうとし、一般的には無念無想になることが仏を見性することになるという。ところが、釈迦が教えた瞑想はそうではなかった。
釈迦の瞑想の目的は反省にあって一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであったと高橋信次師は教えた。瞑想のための瞑想ではない瞑想的反省は、こうした心のゆがみを修正して本来の丸い豊かな心にするためにあるのである。
反省する場合に大事なことは、まず自分の善い所、長所をしっかりと知り、自分にはこういうよい所があることを確認した上で、悪い所欠点はないか、ということを反省することである。そのような反省をすると、欠点を長所に置き替えることが楽になる。
ところが反省というと、悪い欠点だけを探そうとするから、反省することが苦しくなり、自分がいやになる。そして、悪い所だけ、不満足な点だけを見つけて探し出しているから人生が暗くなり、自殺者が出たりするのは、そういう反省をするからであると知らねばならない。
