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  〈なぜ、線香が使われるようになったか〉

 

お釈迦様の時代、当時の比丘、比丘尼達が精舎(勉強所、道場)で共同生活をするとき、現代のような石鹸もなかったので、

大変に臭かった。

あえて石鹸と言うならば、日本のツバキの葉のようなものを石で潰し、それで身体を洗った。

だが、それでも不充分だったので、、〃せんだん〃の香を燃やし体臭を消したという。それが後の世になると線香をあげることになったのだ。     

死臭を消すのに効果があるが、あの世の霊が喜ぶとか、霊の世界に関係があるものではなかったのである。

ある炭鉱町の落盤事故で数百人の死者が出た。       

知り合いが、死体の安置されている部屋で寝ずの番をすることになった。夏のことで、それはそれは大変なニオイだったそうである。  

消毒薬、ニオイ消し等を応用してみたが、一向にニオイは消えなかった。                

そこで、あるったけの線香を燃やしたら、あれだけのニオイがピタリと止ったというのだから、その効用たるや相当なものでしょう。

また、線香はブヨや蚊を追い払うのに都合が良いし、香りも悪くない。

                                 

  <水や塩について>                      

                                 

 水や塩についても、水は汚れを洗い流すし、塩は調和の結晶だから、だんだんと仏教の中に入れられてきたようである。

また高橋先生はこう説いた。

                                 

「水」については、「酸素と水素は、どちらも極端に火に燃えやすい。この燃えやすい酸素と水素が結合すると、火を消す水となる。      

      2H+O=2HO                      

                                 

 そして、「塩」については、「強酸である塩酸(HCL)と強アルカリであるカ性ソーダ(NaOH)が混ぜ合わされると

      HCL+NaOHNaCL+HO となって「水」と「塩」が出来る。               

塩酸と苛性ソーダは、どちらも骨や金属を溶かすほどの劇薬なのに、この二つが結合すると、安定した水と塩になる。       

人間は水と塩がなくては生きて行けない。物質をボロボロに破壊してしまうほどの塩酸と水酸化ナトリウムが、最も安定した水と塩になる

ということは、これは正に、調和された中道の姿を示している。

この物質の法則は何を教えているのかというと、極端から極端はいけない。中道でなければいけないということを教えており、    

お祓いに、水と塩を使うのは、神の道は中道である。中道に立てば一切の不浄、争いは消えて調和するということを教えているのである。

 

 

 

  〈手を合わせる合掌の由来〉

 

 

神仏に手を合わせる合掌の姿は、右と左の両極端の手を真中で合わせるという中道の姿。

合掌は、右にも左にも偏らない調和を意味し、それは自分自身が左右に偏らない生活を、自分で、自分に誓う

ものである。

題目をあげる場合も合掌をしながらあげるが、題目をいくらあげても心の安らぎは得られない。

心の安らぎは、自らが調和した中道の生活を行なう中から生まれてくる。

愚痴や怒りや、足ることを忘れた欲望の両極端の思念と行為からは生まれてこない。

にもかかわらず、人々は調和の心とは縁遠い偏った思いや行為をしながら、題目や合掌をしている。

これでは、いくら時間を過ごしても、自分自身の生活は調和されない。                                                            

                   

 

  〈仏壇〉                           

                                 

 「実際問題として、仏壇の中に祖先の霊がいるようでは困る。浮かばれておれば、そこにはいない。

いないのなら、手を合わせ供養するというのもなにかそらぞらしい。

また、祖先の霊が仏壇の周囲にいるとすれば、これは困った現象だし、子孫にとっても迷惑至極である。

供養のあり方は、仏壇に手を合わせ線香をともすことではなく、家庭の中が笑顔で健康で、明るく調和されることであり、祖先の霊はそれ

をいちばん望んでいるはず。 

しかし、これまでの日本の習慣として家に仏壇が置かれ、法事やなにかという時に、親戚、知人が集まってきても仏壇がないと、

お互いが気まずい思いをしたり、争いになるようではこれまた困ったもの。

すでに仏壇があって、これまで通りの習慣で朝、晩、水をあげたり、手を合わせたりしている家庭にあっては、これを急にやめ

たり、仏壇を焼いたりしては家の中が混乱しよう。

家中が供養のあり方はこうあるべきだとみんなが理解し、親戚の人達にもわかってもらえばいいのだが、家の者が反対するのに、自分だけ

の一存で事を決めるのはどうだろうか。要は、こうした習慣に染まることのないように、伝統とか、習慣にしたがいながら生きていくのが

正法者である。 

正法と社会の法なり、習慣や伝統は必ずしも一致しないが、やはり時間をかけて修正してゆくようにしたいもの。要は周囲の状況をみながら

対処することである。 

                                 

 

 

  〈お墓、仏壇、数珠、葬式仏教の歴史的背景〉

 

 

 飛鳥・奈良時代の仏教伝来から祖師仏教(法然、親鸞、道元、日蓮)が生まれ、これらは、貴族、武士と一部の町民の有力者だけのも

ので、江戸時代になり、徳川幕府が政策の都合の為に「檀家制度」がつくられた。                            

この檀家制度は、鎖国政策をとる上で、キリシタン摘発のために踏み絵を断行、どこかの門徒にならなければならないという宗門改めを

制定する。               

宗派、生国、年齢、名前、人数、男女数等を末寺から本山に集め、寺が今で言う戸籍係と門徒の統制の代償として寺領を与えたので、 

寺の経営は安定。 徳川幕府の覚え書きにはこう記されている。

「常々、寺に参り、いつも付け届けをして、数珠などを持ち、父母の命日にもお参りし、また家には仏壇を備え、線香や花をあげなさい。

これに反すれば、ころびキリシタンとして処刑する」という「ころびきりしたん摘発の条件、覚え」が出された。

 

 

  〈数珠は計算器だった〉

 

 

 数珠はもともと、ものを数える計算器。           

その証拠に、五つ玉のソロバンを連続させたような形になっている。    

数珠によって数をかぞえ、お百度を踏んだ数の記録、念仏をあげた回数等を計算する小型計算機だった。            

一列に並んでいるのを見て〃数珠つなぎ〃という表現をするが、お寺詣りや葬式の時に強制的に持たされることになったが、数珠は宗教的

に深い意義はなく、永い伝統と習慣の亡霊。

                                 

 

                                 

〈「お盆」、「お彼岸」とは〉

 

 

祖先崇拝の習慣が、生活の中にとけ込み、自然の行事になったもの。

お盆といえば、先祖の霊がわが家に帰ってくるので、それにご馳走を供養して、盆踊りや灯篭流しをして慰めるとともに、人間達も心の

安らぎを得ようとする、今や賑やかな行事。坊さんのかき入れどきで経文も供養されるが、本当のお盆の意味はこうである。

今を去る二千五百有余年前、ゴーダマ・ブッタ〈釈迦)が三十八歳の時の出来事だった。

ゴーダマ・仏陀の最初の弟子で、カピラ・ヴァーストから護衛のために従ってきた五人のクシャトリア(武士)の一人アサジが、マガダ国の

ラジャグリハ郊外を遊行していた時のこと、バラモンのウパテッサ(後のシャーリー・プトラー、舎利佛、舎利子)に声をかけられた。

しかしアサジは、知的な宗教論争を他の宗派から仕掛けられても、それに応じてはならないと、ブッタから注意されていたので、それを避け

るようにした。

シャーリー・プトラーは、アサジを見て、この男はただ者ではない、他のサマナーや、サロモン達(修業者)とは比較にならないほど穏やかで、

顔色も良く、態度も謙虚で、決しておごりたかぶらない姿に、何とか話してみたい、と思っていたので、はるかに自分よりも年少者であ

るアサジに従って歩き、対話できる機会を探した。

アサジが、遊行で貰った粥の入った鉢を左の手で抱えながら、食事の場所を探しているとシャーリー・プトラは、自分で禅定する時に使って

いた草で作った座布団を木陰に敷いて、「サロモンよ、どうぞこの上に座って、お食事を召し上がって下さい」とすすめた。

論争を挑まれると思っていたアサジは、あまりにも親切な行為に対して、「どうも、私のような弱輩者に、ご親切ありがとうございました」と

言った。アサジは、常日頃、ゴーダマ・ブッタから説かれている法を実践していれば、他の修業者の心に、そのような姿で映るのかと思い、

何か胸にこみ上げてくるものがあった。

アサジは言った。「私の師は、コーサラ国のカピラ・ヴァーストの王子、ゴーダ・シッタルダーとおっしゃる方で、すべて原因と結果、

縁生ということについて教えられております。心の在り方を八正道で定め、日々の心と行ないを正して修行しております。

シャーリー・プトラーは、これこそ本物だ。神を祭って祈るのではなく、自らの心の悟りを教えているという事実、これこそ本物だ、これこそ

本物の仏陀であろうと、はやる心を押さえながら、 「あなたの師に紹介して下さい。私の探し求めていたブッタです。私の師は、アサン

ジャーと呼ばれるバラモンで、この師についてウパニシャードを学び、厳しい修行を致しておりますサロモンです。私の親しい友人にも修業者

がいて、本物の仏陀に会うことができたら必ず連絡し合って一緒に行動をしようと約束しています。ぜひ友人と一緒に紹介して下さい」

と言うのであった。アサジは戸惑ったが、ブッタに相談して、明日この場所で返事をすることを約束し、ベルヴェナーに帰った。

ベルヴェナーに帰ったアサジは、今日の出来事をブッタ説明した。ブッタは、その話を聞くとこういった。「その二人は、かつて、前世で

私の法を学び、良く道を修めた者だ、再び今世で道を究め、私とともに衆生の心に光明の灯をともすであろう。遂に、たずねてくる機

会を迎えたが、アサジよ、過去世の友がくるのだ。明日、サロモン達への説法の時に案内するが良いであろう。」すでにブッタは、正

法に帰依する二人のことを知っていたのであった。アサジは、約束の日、ベルヴェナーの多くのサロモン達(修行者)の前で、シャー

リー・プトラーをブッタに紹介した。仏陀は、コースタニヤやウルヴェラ・カシャパー達、千数百人のサロモン達を前に、「今、たずねてきた

二人のサロモンは、過去世において、正法を修めた人達だが、再び今世で道を究め、サンガーの指導者となるだろう。」と言って皆に紹介

した。コースタニヤをはじめ古い弟子達は値、今日入門した者達が、なぜ指導者になるのか、その意味が解らないので、ブッタがお世辞

を言っているのではないだろうかと、大きな疑問を持つのであった。しかし、初めて会うブッタの言葉に驚いたのは、古い弟子達よりその

二人であった。二人は、心の中からこみ上げてくる感激をとどめることが出来ないのであった。懐かしさというか、不思議な気持ちのようで、

ただ嬉しくて、こみ上げてくる理由も解らなかったようだ。しかしその後、サンガーの空気は、古いサロモンの嫉妬心のため、大分調和が

乱れていくのであった。ブッタは全員を集めて、「サロモン達よ、良く聞くがよかろう。法に新旧がないように、弟子に新旧の差はないのだ。

今世だけのことを考えれば、早く来た者、遅く来た者の差はあるだろう。しかし、早く 弟子になった者は、よく後輩指導できるように、

自らを正し、精進することが大切だろう。」ブッタは、過去世も、現世も、来世も見通す力を持っているのだ。最近来たシャーリー・プト

ラーもマハー・モンガラナー(コリータを後に改名)も今世においては、サロモン達より遅く来たであろうが、過去世においては、私とともに

道を説いた者達で、その時から思えば、もっと古い弟子達といえよう。

過去世において修行した両人は、やがてアラハンの境地に達し、転生輪廻の事実を悟るであろう。生命は、過去世の縁によって今ある

のだ。それを、今世だけの判断で、新旧の弟子という差をつけるべきではないのだ。互いに、よく道を極めて、心の歪みを正さなくて

はならないのである。指導者とか支配者とかいうものは、自らが定めるのではなく、他人が、その技量と行動によって自然に造り上げ

られてゆくものなのだ。それが正しいのだ。古いとか新しいとか、武力や権力などによって、人の心を支配することはできないのだ。

智慧と勇気と努力によってつくり出された偏りのない生活の中か ら、正しい道を積み重ねた時に、自ら人はその人間の価値を知り、

慈愛に富んだ心と行ないの指導者を慕うようになるものだ。この両人は転生輪廻の過程で、積み重ねてきた器が広く、豊かな

心が修行によって造られているのだ。やがてその事実を実証するだろう。」と力強く、説法したのであった。

その後一週間目にして、モンガラナーは心の窓を開き、天上界、地獄界を見通す力を持つことが出来、天眼の一人者となったので

あった。その結果、ゴーダマ・ブッタが、過去世において仏陀であったことが実証されるとともに、彼は他の人の肉体的欠陥から心の状態

まで、はっきりと見通すようになったのである。モンガラナーがその天眼で、自らの肉体的先祖や母などが、どこに住んでいたかを見ると、

母は一人淋しく、薄暗い世界で仕事をしていた。モンガラナーは、せめてその母に水でも差し上げようとした。しかしその水は、途端に炎に

包まてまうのであった。このことをブッタに説明すると、「お前の母は生前、自分のことしか考えないで、他人に対しては布施の心もなく、気

の毒な者達に何かを恵んでやったこともなかった。そして、常に自分を中心として、他人に慈愛を与えることなく、他人からの布施ばかり

を望んでいた。自分の意志にそぐわぬ者に対しては、バラモン階級を表面に出してジュドラー達にも厳しい行為をしたのだ。その自ら

の心と行為の結果、火炎地獄に堕ちているのだ。モンガラナー、そなたは母の代りになって、困っている人々にできるだけの布施をしな

さい。お前の母は、その行為を見て、自分の人生の誤りだったことを悟るだろう。肉親のお前の努力が、お前の慈悲が、母親を救うのだ。

そうブッタは諭すように言った。「ブッタのお言葉のとおり、母のため、私のために、悩める衆生に供養します。モンガラナーはそう言い、

その後、日を定めて母親のために、貧乏な人々や病める人々に慈愛の布施を行なっていくのであった。このように本来のお盆の目的は、

亡くなってしまった人々が、この世に在った時、忘れてしまった布施の行為を、生存する子孫が代わって行為することなのである。

                                                                       (高橋信次)

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〈 生老病死 〉                               

 

 誕生とは   

   あの世で一定の時間を過ごした後、この世で肉体を持つこと。

 老とは

   肉体細胞は日々崩れ行くもの。

 病とは                              

   からだは無理をさせれば調子が狂い、休ませなければ壊れるもの。胃が痛いといえば薬をのみ、風邪を引けば薬でおさえ無理をする。

   胃を休ませ、からだを休ませればもとに戻るもの それが自然の摂理

 o死とは

   魂は生き通しのもの、肉体を脱ぎ捨てて魂はあの世(実在界)に還るにすぎない。                       

                                 

 

 o般若心経

   般若心経は有難いお経であり、したがって写経も良し、読誦もまたご利益があるとiいう。

しかし、その意味もわからず、行為のないものが、朝晩上げても光は届かない。                              

 

 o「念力と祈り」

    念力も祈りも、ともに想念の働きである。

    念力は一口にいって我欲の想念であるとしているが、神が光あれといって光をつくり、海をつくり、草木をつくり、人間をつくった。

    これは神の一念によるものである。人間は神の子である。この地上にユートピアを創造してゆく力を与えられ、文明文化

    は人間の一念の産物だが、問題は、その一念に、人間は、我欲を上乗せして生活している、というのが実態。だから、念力は我欲

    のそれだというふうに見られてきた。しかし、念力のエネルギーは神の子の創造力を意味し、したがって本来は、その念力を「正念」

    として使わなければならないもの。

    一方、祈りは「真心」の発露であり、「反省」であり、そうして、それにもとづく行為であり、神との対話を意味し、感謝の心の現われで

   ある。イエスの言葉に「汝信仰あり、われ行為あり」というのがあるが、これこそ「正法の祈り」であり、あやまちなき行為こそ

   「祈り」の神髄であると言える。

                          

  

 o魔とは何か

   それは迷い。肉体がすべてであるという考え方である。

   人間は大事な心を忘れ、知らず知らずのうちに執着、自己保存という神の子に反すると、魔のとりこになってゆくのです。

                                 

                              

 

 

                                 

 

 o法は心の太陽である。

  苦しいからといって、宇宙の果てまで逃げても、苦しみは追ってくる。なぜなら、苦しみはあなたの心の中にあるからである。

                                 

 o赦す

  人生がすべて魂の修業であることがわかると、すべてを赦すことができる。

 

 

 

 o禅定

 禅定つまり反省的瞑想は、正しい心のものさしを知らないでやっては何にもならない。

  心のものさしを持って、善我であるか偽我であるかをはっきり見極めることである。

 「反」というのは、「ふりかえって、かえり見る」ということであり、「省」とは、「少な目にかえり見る」と

  いうことで、一ぺんにどかっとかえり見るということでなくて、少しづつ少しづつ、じっくりと省り見ることである。

  反省は、大きく飛躍するためのもの。雲が晴れたら太陽が顔を出すように、反省して心の曇りを除けば神の子の実相が現われる。

                             

 

「問題」

「ここに、実際に身体で以って人を殺した人がある。口で人を欺し、人を不幸にした人がある。また、ここに実にまじめな人がある。

この人は、心の中ではいろいろと思うが、しかし、そういうことはいけないと知っているので、絶対にそういうことはしない。

人にも親切で極めて『まじめ人 間』である。この三人のうち、一番罪が深いのは誰でしょうか。世尊よ、お教え下さい。」

「それは最後の『まじめ人間』である。」

「悪いことは絶対にしない。人に迷惑をかけることもしないまじめな人が、なぜ、罪が一番重いと言われたのか。このことがわか

らなければ「正法」がわかったとは言えない。勿論、宗教家としても落第である。現在の日本の各宗教団の講師指導者、牧師、司祭、

僧侶、宗教学者に一人残らずこの問題を出して解答を出させてみると面白いと思う。」

                                                              園頭広周先生  

                                

                                 

 o今日の自然科学は、一つの壁にぶつかっています。その壁とは物質のモトである原子、素粒子についての状態は説明出来ても、

その状態を生み出しているところのエネルギーそのものが分からないからです。

  心ある科学者は、そのエネルギーについて、それは神仏の力であると言っています。その通りで、エネルギーこそ、神仏そのもの

なのです。原子を動かしているものは光子です。光子を光子たらしめているものは、霊子というものです。今日の科学、機械では、

光子は発見できても、霊子を発見することはできません。霊子の発見は、なお百年以上を要しましょう。

しかしあえて申しましょう。霊子こそ、神仏であり、エネルギーそのものであります。

                                                             (高橋信次)

 

 

 

 o神より生まれた人間は、永い輪廻転生の旅を経て、神の意識へ帰らな

  ければならない。人生の目的は霊の向上のためであって、地位、名 

  誉、財産を得るためではない。死んであの世の入口で次のように聞か

  れる。

   一、あなたは死ぬ覚悟ができていますか。

   一、あなたは死に対する心の用意がありますか。

  自分が生きていた時のことを映画のように目の前に見せられる。そう

  してまた聞かれる。

   一、あなたは一生のうちに、私に見せられるような何かをやってき

     ましたか。

   一、あなたは生きていた時に、自分でこれはいいことをしたなとい

     うような、自分で満足できる何かをやってきましたか。

                                 

 

 o人の生命を奪うのに、善の殺し方、悪の殺し方というのがあるのであろうか。

                                 

 o神の能力(自由、創造、慈悲、愛)

                                 

 o神仏は絶対に罰など与えはしない。

 

 

 o衆生が現世利益の功徳を願っている心を僧達は利用して、バラモン教

  のバラモンの神々などまでが祀られ始めた。

   ・帝釈天

   ・弁財天

   ・毘沙門天

   ・吉祥天

   ・水天

   ・聖天

   ・不動明王

   ・大黒

   ・鬼子母神

   ・妙見

   ・秋葉

   ・金比羅

   ・稲荷など

  寅さんシリーズの帝釈天はバラモン教の神の名である。    

                           

                                 

 o「なぜゴーダマブッタは日本を転生(再生)の地としたか、どうしてアメリカや他国を選ばなかったのか」

    一口に言えば、正法が伝えられやすいからだった。

 

 

 o「即身成仏はあり得ない」

    即身成仏、という言葉は、万人に通用する言葉ではない。その想

    念と行為が、神仏の子として恥じない人生を送った人々に対して

    のみ通用する言葉であることを私達は知らなくてはならない。

    キリスト教や仏教を学んだことのある人がこの世を去り、肉体や肉

    体的環境に執着を残さなかった場合、その死体は硬直することが

    ない。自分の死を悟り、安らかに彼らの世界へ帰って行く。この

    時は、魂の兄弟達が協力して連れて行く。また、肉体的関連のあ

    る先祖が協力して連れて行く場合もある。          

                          (高橋信次)

                                 

 o「法力」

    法力というものは、エネルギーの集中されたものですが、法とは

    調和を意味し、不調和の力ではありません。つまり、他をいか 

    す、慈悲と愛の発意にのってのみ、行使されるものです。法力と霊

    力、魔力というものは、外見は非常によく似ていますが、中身は

    大分違ってくるわけで、心の歪みを持ったままで霊力を行使する

    と、やがて、その反動がやってきて、その人をうちのめしてしま

    うでしょう。法力と魔力の違いは、欲望という執着があるかない

    かであり、それは自分の心を冷静に見つめればハッキリするで 

    しょう。自分では欲望はないと思っても、欲望を持ってこれを行

    使すると、肉体的に非常に疲れを覚えるものです。力に憧れるの

    は人間の願いのようですが、まず大部分は欲望に根ざしているの

    で注意が肝要です。力を望まず力が生み出されるもの、それが法

    力というものです。

                          (高橋信次)

                                 

 

 

 

 

 o稲荷大明神、竜神、竜王

   稲荷大明神とか竜神、竜王といった善神もいる。彼らは、動物霊達

   に、神の子としての道を教える役職にある天使達である。特に狐な

   どは、霊的に強いものを持っている為、人々の心を不調和に導く事

   が多いので、盲目な人間はこれを稲荷大明神として祭ってしまって

   いる。

     狐は、稲荷大明神ではないのだという事を、私達は知るべき

   だろう。世間では、竜神だの稲荷大明神だとか言われると、狐や 

   蛇、竜などをいっているが、それは誤りである。およそ、蛇や竜な

   どが、私達人間の守護霊になるということは、絶対にないという事

   を知るべきだろう。

    商売繁盛を目的に、よく狐などを祭ってある家

   庭や店舗があるが、欲望を満たすためだけの祭りをするというの 

   は、非常に危険なことだといえよう。なぜなら、狐や蛇や竜達は、

   人間の願いを聞く事が、まずその家庭を混乱に陥れてしまう。祈っ

   て商売繁盛しても、人間はすぐ彼らにお礼をすることも供物をする

   ことも忘れてしまう。そんな具合だから、狐や蛇から必ず不満が出

   て、その家から病人が出たり、商売が左前になったりしてしまうの

   である。欲望の為に彼らを利用すべきではない。

                           (高橋信次)

                                 

 o先祖の諒解なしに宗旨替えをしてはならない。

   亡くなって逝った人が、「自分はこの宗旨によって救われるのであ

   る。死んだらその宗旨のお経で供養してもらいたい」という執着を

   持っていた時、その子孫が亡くなった人に諒解なしに宗旨を替えた

   場合、それでは自分は救われない、と子孫の中で頼んだら云うこと

   を聞いてくれそうな人に祟る(出て示す)。直系の子供に頼んでも

   だめな時は、傍系に出る場合がある。あの世の霊は肉体を持たず、

   言葉で伝えることが出来ないので、子孫の肉体を借りて示すのであ

   る。亡くなった霊の執着は子孫の頭の病気、怪我に現われ、時とし

   て足の病気怪我になる場合もある。              

                           (園頭広周)

                                 

 

 

                                 

 o幸せを求めたいならば、まず悪の想念から離れることだ。

  悪を想えば悪が、善を想えば善がもどってくる。

 

 

 o人間がこの地上に生をうける時は、両親を指名し、自から選んで生ま

  れてきます。親子を選ぶ範囲というものは、おのずと限定されてきま

  す。                             

   一、魂、意識が非常にあい似通っている場合

   一、過去世で親子の約束を強く望む。たとえば、ある人に非常に世

     話になり、その恩返しをしたいという場合

   一、過去世において親子兄弟、友人同士であった場合

   一、あの世で生活を共にし、親子の約束をする場合

                                 

 

 

 o恐山の口寄せにしても、街の拝み屋にしても、数え切れないほどだろう。ある者は、神のお告げといい、観音様が夢枕に立って

人を救えといったとか、後光が見えたとか、耳元で不幸の起こることを聞いたとか、呪咀という、他人を不幸にしようと祈る宗教から、

お浄め霊とかいって、身体を浄めてやる宗教もあろう

なかには、神と称する者が、拝んでいる人間に出て、威厳のある言葉で、人々を威圧して神の言葉を述べる霊媒もいる。

亡くなった人々を呼び出して語る霊媒も多いだろう。それらは、いずれも偶像や糸偏の紙を祭って、その前を神前とか仏前とかいって、

祈りの場所としているようだ。このような人々の多くは、山中で肉体的行をして、修行したというものが多い。

ほとんどが、経文や祝詞を一心に上げている間に、神様が出てくるらしい。彼らは、神様だと思っているのだ。

信じているのである。質問に対しては、当たることも当たらぬこともあるだろう。しかし、質問者のほとんどは、先祖の霊が浮かばれない

から不幸があるとか、屋敷の中にこのような神を祭ってあるが、粗末にしているかとか、なかには蛇を殺した祟りだとか、猫を殺した祟りだ

とかいわれて、祈らせられたり供養させられたりしているのである。また生霊が憑いているから、などという時もあるらしい。

当然、蛇だの狐だのまでが、祈る対象物となっている。盲信や狂信者には、真の姿が見えないし、聞こえないし、話せないから、

ただ一生懸命に信じて、お札や偶像、曼陀羅を祭って祈っている。日本の仏教の中にも、天上界から悪魔が降りてきて、人々を苦しめると

いうのがある。この苦しみから逃れる方法は、一心に呪文を唱えて、不動明王や観音様や竜王のような諸天善神に、お願いしなくてはなら

ないのだと教えているところもあろう。先祖を代理で供養してくれる場所もある。見えない世界だけに、どれが本物か解らないで、

何でも救って貰える、神仏に頼りさえすれば良いと思っている人々が、非常に多いのである。最近では、お光りを与えれば病気が治り、

身体が浄まると指導しているところもあるという。

  また、人間に憑いている霊を本人に出して、皆祭らせてしまう、賑やかな宗教もあると聞いている。人間というものは、欲望が

強い。勝手に何でも神から救って貰おうとしている者達が非常に多い。いずれも他力本願のご利益主義である。他力によって、

心を腑抜けにしてしまえば、指導者の生活も楽になるから、やめられないのかもしれない。

  そして彼らは、神の名のもとに、盲者達や狂者達を支配して行く。富士山のあたりに出てくる、菩薩達の姿は正しいものでは

ない。霊媒でも、自我我欲の強い、感情の起伏の強い者達は、魔王や動物霊が憑依しているのである。常に心の中がいらいらしている。

このような霊媒者は肉体的にガタガタである。しかし彼らは、必ず信者の業を引き受けて、信者の苦しみを柔ら下ているというだろう。

もしこれが真実であるならば、天上界の諸菩薩、諸如来、光の天使達は、あまりにも地球上の人類が戦争をしたり、不調和な心を持った

者達が多いので、皆の病気を引き受けて、あの世に病院を造らなくてはならないだろう。

  他人の業を引き受ける酔うなことはないのである。作用と反作用、原因と結果、法則を知らない者は、何をするか解らない

者達なのである。自らの、心の暗い曇りが、地獄霊を呼んでいるのだ。このような偽善者は、言葉巧みに近寄り、へつらうだろう。

自分に不都合なことがあると、口角泡を飛ばしてののしるだろう。これは、そこに本性をさらけ出している哀れな姿であるといえよう。

いずれにせよ信仰は自由である。正しいものを選ぶか、間違ったものを選ぶかは、あくまでもその人の心にあろう。

                                                                   高橋信次

 

 

 

 o「他力本願」

    まず他力の発生は、人間が十パーセントの意識で生活しているた

    め、一寸先がわからないことと、人のカルマというものが、ちょ

    っとや、そっとでは修正しにくいところに原因があります。祈り

    (願い)や念仏が、こうした人間の弱さから生まれ、今日の信仰

    形態が、仏教、キリスト教を問わず、他力に変形していったの 

    も、無理はないと思われます。しかし無理はないといっても、他

    力では本願(悟り)は絶対に得られません。なぜならば、人間の

    心の歪みは他力では修正できないし、またそのようには出来てい

    ないからです。人間は神の子なのです。この事実をまず認識し 

    て、自覚を持って下さい。さて、この大宇宙は神が創造したもの

    です。神が、その意思と、自らの力で。神は天地創造と同時に、

    創造した現象物質界に、永遠の調和をめざすことを意思しまし 

    た。神の意思の継承者は人間です。避けることは出来ません。同

    時に、人間に生まれたことに感謝を持つべきです。神の子の人間

    は、神が果たされた天地創造のその働きを、今度は人間が果たし

    ていくことになったのです。他力の誤りは、人間の神性、仏性に

    目をふさぐことにあります。日本の他力は、法然、親鸞によって

    開かれたことになっていますが、仏教を大衆化し、衆生の中に根

    を下すには、こうした方法をとるより他に手段がなかったからだ

    と思います。法然は、他力によって神理を悟れたかというと、そ

    うはいかなかったようです。

                          (高橋信次) 

                                 

 

 

o言い逃れをする人は幸せになれない。一切は自分の責任である。  

                        

 o不幸の原因は、総て、あなた自身にあり。 運命は貴方がつくり出したもの。

 

 o愚痴、怒り、足ることを知らない欲望を心の三毒と言います。 この心を捨て去ること。

 

 o『正しい生き方』とは、『一切は自分の責任である』と自覚する生き方。

 

 

 o神は先ず天体をつくられた。大宇宙、銀河系宇宙、太陽系、水、空気、鉱物は造られたままで、それ自体として増殖する生命力

を持たない。そこで自ら成長するものとして植物をつくられた。植物はそこに生えたらそのままで、移動する生命力を持たない。

そこで動くものとして動物をつくられた。

動物は動く自由は持たされたが、与えられた本能のままに生きているだけで、創造の自由は持たない。そこで最後に、完全なる自由、

創造力を持った人間がつくられ、自由の力は人間に委せられるという事になった。それで人間を万物の霊長という。

                              

 

 

   

 o質問 

    「悟った者は、生まれないと仏教では言っているようだが、その根拠はどこにあるのか」

 

  答 

   「悟られた仏陀は、輪廻から解脱し、生死を超越していると言われ

    ますが、あの世も、この世も自由に行き、見ることが出来るた 

    め、肉体の煩悩に惑わされず、アポロキティ・シャバラー(観自

    在)になられているため、生まれることも滅することもないこと

    を悟られております。つまり、輪廻転生における生と死を解脱さ

    れているから、生まれるとか死ぬということはないのです。万生

    万物・生命のある者は、すべて輪廻を繰り返しても、仏陀はすで

    に、過去・現在・未来の姿を悟っておりますから、自分を見失う

    ことがなく、仏陀には生命の転生輪廻にこだわりを持っていない

    から、不生不滅の悟りに達しているということである。」

                           (高橋信次)

                                 

 

 

 

 o光を入れる時は、「あなたは病気が良くなったら、正法を実践します

  か」ということを確認してからやらないといけない。医者が注射し 

  て、一時病みを止めるような気持ちでやってもらったら、それは一時

  的なことでまたぶり返しますから、そうすると、「光を入れてもらっ

  たがだめだった」と、一時良くなったことも忘れていわれかねません

  ので、「良くなったら正法で教える生活をしますか」ということを誓

  わせないといけないのです。

                           (園頭広周)

                                 

 

 

 oなんのために人間はこの地球上に生まれてくるかというと、みな霊の

  向上のためです。

 

 

 o自然の法則、原因結果のままに心を大事にしてきた民族と、世界征服

  大野心を持って戦争を計画し、自分達の目的を達するためには、平気

  で暗殺も人殺しもやってのける民族と、どちらに神は采配をあげられ

  るでしょうか。

 

 

 o世の中には妥協してすまされることと、すまされないことがある。 

  神理を説く宗教の世界では妥協は許されない。

 

 

 o正しい信仰には苦しみが生ずるはずがありません。その信仰によって

  苦しみが起こってきたとしたら、その信仰はどこかに間違いがあると

  いうことになります。

 

 

 o神の慈悲と愛は、「太陽が善人の上にも悪人の上にも等しく照るが如

  く」「雨が善人の上にも悪人の上にも等しく降るが如く」と聖書には

  教えてあるのです。全智全能であり、智慧であり、慈悲、愛そのもの

  である神は、初めから我々に健康と幸福とを与えられているのです。

 

 

 

                                 

 o「先祖に対する供養は」

    まず先祖からは肉体舟を戴き、育てて戴いた感謝する心を持って報恩の行為で示すことが大事だ。

    それには身体を丈夫にして 心を美しく 家庭が円満でいつも笑い声の立つ家で 朝起きれば希望に燃えて 昼は自

    分の仕事に勤勉で 夕は一家団らんの夕食をとり 夜は自由を与えられ。こうした人間の一日に、不満があるはずがない。

    こような生活が、先祖に対する最大の供養である。

    たとえ先祖が地獄に堕ちていても、子孫の平和な生活、光明に満ちた生活をしていれば、地獄霊もその姿を見て、自ら自

    分の非を悟り、己自身の不調和を改め、その霊を昇天させる原動力となる。

    子の幸せを思わぬ親はないはずだし、しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、

    その子に恥じない自分になろうとするのは人情だろう。

    あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはなく、類は類をもって集まるの喩で、その霊は自分と同じ思想、考えを持った人に

    助けを求め、いわゆる憑依作用となって人の体、実際には意識に憑いてしまう。

    すると憑かれたその人は、病気をしたり、自殺したり、精神病になったりする。地上が調和されると、あの世の地獄も

    調和され、あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、まず個々の家庭が調和され、調和こそ最大の供養とい

    うことを知って欲しい。

    先祖の霊に物を供えたり、法事で物を供えることやお経をあげることが先祖供養ではないのである。                          

 

 

 o信心                                                       

   信心とは、己の心を信ずることなり。

 

 oお題目

  〃朱にまじわれば朱くなる〃という諺があるように、迷える霊に対しては、生きている人々の霊域を正すことが自分自身をも救う。

  心を失ったお題目を何万回上げようとも、忍耐力と声帯の練習のみで、自分自身の心を救うことは不可能である。

  お題目の神理を生活の中に生かすことこそ、自分が悟る近道であることを知ることだ。                            

 

 

  o感謝の心                                 

  雨が降り風が吹くと、大気は浄化され植物が育つ。明日の生命と生活が約束されていることを知れば、大自然のこの

  計らいに対して、感謝の心は湧いても、文句などは出ない。

  人はまず天に感謝し、地上の環境にも感謝すべきだ。

  また、食物も生きている。感謝の心を持ってこれを摂れば、その食物は滋養となり、血や肉となって健康を維持してくれる。

  反対に、ぜいたくをし、不満の心で食する場合は、食物もその人を嫌い、栄養にはならない。

  物を大事にし、いつくしむ人には、万物は喜んでその人に奉仕してくれるのだ。

 

 

 o神社仏閣                                 

  神社仏閣は、原点にかえり、生きている人間の心の道場とすべきだ。

 

 

 

 o魂の故里 

  生まれた故里が恋しいと同じように、魂は魂の生まれた故里を恋い慕う。

  切ないまでに故里を恋い慕う心が神の信仰心である。神は私達の故里である。

                                 

                                 

 o「地上になぜ争いが絶えないか」

    平和な実在界と、そこに光の大指導霊や、光の天使達がいるのに、なぜ戦争や争いや、病気があるのだろうと疑問を持つのは

    当然である。

    それは実在界(あの世)とこの現象界(この世)とは次元が違っているが、この地上界の人々の心の調和によって霊囲気が清明に

    なれば、あの世から通信は可能だが、人々の心と生活の態度が、怒りっぽい、金銭欲が強い、情欲に溺れ、他をそしる、地位や

    名誉ばかりを追う、形式主義に陥いると、地上の人が不調和になっているので、なかなか天上界は指導出来ないのである。

                                                     

                                 

                                 

 o天を仰いで神に感謝する人はあっても、大地にひれ伏して感謝する人は少ない。

  お題目を上げて死者が成仏するなど、とんでもない話だ。

  他の宗教を邪宗と決めつけ、信者には罰が当たると脅迫し、自らの心にまで足枷をはめた、それは哀れな人々である。

  信者もまた罰など当たるはずがないのに、恐ろしがっているのだから呆れたもの。

 

 

 

o弁財天や大黒天

  弁財天とか大黒天は、金儲けの手助けのように思っている人々が多いが間違いである。

  弁財天とは、

  心の中に埋没している、転生輪廻の過程に造り出された私達の智慧の宝庫を開くための協力者である。

  大黒天は、

  肉体を持った光の天使達が、正法を流布する時の協力者である。経済的な援助や環境を用意する諸天なのである。

  現代人は、これに祈れば財産に恵まれると思っている人が多いが、全く金儲けには縁の遠い諸天善神なのである。

   

                              

 o如来や菩薩の数

  あの世とこの世に、

   如来(上段階光の大指導霊)は四百二十五人。

   二万人近くの菩薩(上段階光の指導霊)。

   一億数千万人の光の天使が実在界におられる。(一九七二年(昭和四十七年)現在 高橋信次)

                                 

 

o宗教と道徳の違い                                 

 人間は善いことをしなければならぬ、と言う。それは道徳の世界である。

 人生は善いことをすることだけが目的ではない。

 ここからが宗教の世界に入るのだが、人生の目的は、善いことをすることを通して神の存在を知ると同時に、その神と自分との

 関係を自覚することにある。

 

  o折伏

  何人折伏すればあなたの業はなくなる、とか言われれば、欲望のある者は一生懸命になる。そうした信者の姿こそ、哀れである。

  組織の細胞になっているため、自分自身、何も解らなくなっている。

  信仰することによって、むしろ苦しみと疑問の渦の中で、この人生を送っているのである。そうした疑問も、罰が恐ろしくて疑問を持てな

  いという指導者も哀れである。

  

 

 

 o行き詰まったときに

   考えが行き詰まると、考えは堂々廻りをするばかりだから、こういう時には「おまかせの祈り」をすることである。

  自殺する人達はこういう祈りの仕方を知らなかった人達で、「人事を尽くして天命を待つ」というのは、こういう時の言葉である。

  祈れば必ずその人にとってふさわしい道が開けてくる。

 「人事を尽くして天命を待つ」という「おまかせ」の心境になった時に、即ち自力の極に他力があるということになって、天上界から

 協力があることになる。

 自殺した、一家心中したという記事が出るたびに、そういう人達に「正法」を知らせねばと、自分の力不足を悔やむ。

  「捨てる神もあれば、拾う神もある」という諺は、人間が一切を捨て切ったら、必ずよくなる、運命が開けてゆく事を教えたものである。

  また、「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」という諺もある。諺とは、言に彦(日子)と書く。日子とは神の子であり、神の子への言葉、

 即ち神理を現わしている。

                                                         

 

 o正しくない心とは

  正しくない心とは、人を憎む思い、怒り、そねみ、愚痴、中傷、足ることを知らぬ欲望など、こういう想念を言う。なぜ正しくないかと言

  うと、自己保存が主体になっているからだ。人類の歴史の大半は争いの歴史、闘争と破壊の歴史、自己保存の歴史である。

                                                      

 

 

 o「天に在しますわれらの父よ」は現在の教会キリスト教にあるパウロ教であり、

、「大地なる母に感謝する」は原始キリスト教である。

 

 

 心のあり方

 社会的には法律にふれた人を悪人というが、宗教は心のあり方を問題にする。

 自分は法律にふれる悪いことは何もしていなくとも、心の中で怒り、妬み、悲しみ、不平不満の心を持てば、それは宗教的には悪という

 のである。だから、幸福になろうと思ったら、見せかけの表面的な明るさではなく、心の底から明るい心にならなければならない。

                                 

 

 o転生輪廻(循環の法)

 転生輪廻(循環の法)というものは、万生、万物ことごとく整然と行われ、しかも滅すること。増えることもなく永遠に循環している。

  (般若心経の一節、不増不滅)

 

 

 o

 肉体は人生航路を渡る舟にすぎない。肉体は朽ち果てても魂(意識・心)は永遠

 

 o崇拝

 「お釈迦様の教えの中に、念仏を唱えて阿弥陀様を拝めと、どの経典に書いてあるのか教えて欲しい。

  仏教の根本は、苦しみから解脱する道を教えているのであって、正しい実践生活を説いているものである。

  従って、偶像や曼陀羅を拝めとは、どの仏典にもないはずである。        (高橋信次)

  

 o地獄救済

  地獄救済は地上に調和された天国を作ることから始まる。

  地獄界は地上の人間が自己本位に生きたあげく、創り出した世界である。地獄界には、あの世の太陽の光はまったく当たらない。

  光が当たらなければ、彼らは生きることが出来ない。

  そこで彼らは、地上の人間から生きるエネルギーを吸収して生きている。その意味では地獄霊は吸血鬼である。

  彼らはこうして、生きた地上の人間から悪のエネルギーを吸収して、暗黒世界で生きている。

  地上が愛の生活に満たされれば、地獄霊の生活の足場をはずすことになり、人間社会も明るくなる。

  またこうすることは、地獄に堕ちた肉親縁者の霊達の絶大な供養ともなり、また彼らに反省の機会を与え、人間界と地獄界の悪循環

  の絆を断ち切る大きな基礎となる。

 

 o 小国・日本の隆盛                               

  文化が発展するのは、高級霊がそこにたくさん生まれてきているからであり、生まれなくなれば、そこは文化が衰退し、また、高級霊が生

  まれた地方に新しく文化が興ってくる。

 

 

 o汝信仰あり、我、行為あり イエス

                   

 o知識のある者は、まずその知識を捨てよ

  我執にとらわれる者は、一人で生きていると思え

  権利を主張する者は、義務をまず果たせ

  執着のおろかさが理解されてこよう 

 

 

   o先祖供養                                                                

従来の宗教指導者の多くは、眼に見える肉体的現象に、信仰の対象を求めてきた。その結果、肉体先祖がすべてのように考え、

魂までも肉体先祖から戴いたものであるかのような錯覚を犯してきた。そのため信仰は、先祖に対して立派な戒名を上げ、立派な墓地に

埋葬し、経文を供養すれば、成仏がなされるというように変化してしまい、そうした行為によって子孫も救われると思うようになってし

まった。つまり、葬式仏教・儀式による先祖供養に陥ったということである。一宗一派の教祖と称するような人々もそんなふうに教え、

その教義をまた信仰している信者の何と多いことか。

イエスも釈迦も、先祖を拝めとは教えていないのである。もちろん私達は、先祖や両親

の縁によって、肉体を戴いたのであるから、感謝する心を忘れてはならない。しかし、その表現は、両親に対しては報恩の行為によって報い

ることが出来る。兄弟姉妹が仲良く生活することも、その孝行の一つである。

  亡くなった肉体先祖に対しては、感謝することが当然であるが、良い戒名をつけよとか、良い墓を造れとか、良い仏壇を造って

祀れとかいう先祖がいたならば、この先祖は一〇〇%地獄にいるか、霊媒に憑いている不調和な霊が言っているのであるから、私達は気

をつけなくてはならない。

主として動物霊の仕業である。この現象界の墓や仏壇に未練や執念を持っているような霊は、地獄に生活して

いるため、家族の不調和な暗い想念に憑依して、家の中をさらに不調和にする場合もある。仏壇の前だけが供養の場所ではない。先祖

に対しては、拝む対象としてではなく、感謝に対する報恩供養が望ましい。

体が健康でいることも、立派な社会人として調和された生活をしていることも、供養の方法なのである。

現代宗教の多くは先祖信仰になってしまい、信心の根本も分からなくなってしまった。

この原因も、神理が永い歴史的な年月の間に、智と意の解釈で他力本願の傾向となり、それにまつわる職業意識などが、仏法の神理を

人々の心深く埋没させてしまったことにある。                (高橋信次)

 

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o精神エネルギーの源泉                                

 精神的に疲れたという人は、精神エネルギーの源泉は神仏にあるのであり、感謝することによって絶えず補給を受けられるという

ことを知らない人達である。

   試しに、心を鎮め、眼をつむって

    「神様ありがとうございます。

    仏様ありがとうございます。

    ご先祖様ありがとうございます。

    ご両親様ありがとうございます。

    …と感謝してみて欲しい。                 

  疲れていた心は一ぺんで安らかになり、「これではならぬ」と、新しい勇気が湧いてくるもの。感謝の心を持つのが人間として自然

  のことだから、感謝の心を持つと心が安らかになって、疲れるということはあり得ない。

  だが、感謝しない我の心を持つと、心がくたびれて来る。

肉体的な疲れは食べ物を食べ休息すれば直るが、精神的な疲れは食べ物を食べたのでは直らない。

精神的エネルギーの源は神仏にあるのだから、神仏や神仏がつくられた大自然や先祖や親に感謝する心を持たないと直らないのだ。

                                 

 o「諸行無常」と「諸法無我」と「涅槃寂静」

   「諸行無常」

    一切の諸々のものは、すべて移り変わるもので、片時として一定の姿をとどめているものはない、ということである。

    これまでの宗教家、宗教学者は、形あるものは常に変化するという、変化する面のみにとらわれて、変化する姿の奥に変化しない

    ものがあるということに気がつかなかった。       

   「諸法無我」とは、

   第一原因者即ち神即大宇宙大神霊がつくられた法には、そのまま素直に順うべきで、その法は人間の我の力を以

   ってしては、なんら変化を加えることは出来ないものである、ということ。

   「諸行無常」「諸法無我」の本当の意味がわかれば、「涅槃寂静」という悟りに入ることが出来る。

   「涅槃」の本当の意味は、怒り、妬み、怨み、悲しみの心がなくなった状態ということで、肉体を持って生きている間にそうなった

    のを「有余涅槃」と言い、死んでそうなるのを「無余涅槃」と言う。涅槃とは煩悩がなくなった状態、煩悩がなくなって心が

    安らかになった状態を言う。              

                   

 

 

 o恨む心を持てば、その想念が現象化されて自らを苦しめる。不調和な

  環境には、同じ心を持った霊が集まってくるため、たとえ生きている

  人間であろうとも、地獄の霊が支配出来る状態が整っていると事故に

  見舞われる場合が少なくない。彼らは自分のために人間に供養するこ

  とを促し、幾度かの事故を続けさせる場合もある。

小さな子供の場合

  は、両親の心の調和度が反映されているから、子供に事故が起きる現

  象というのは、両親の心の在り方、生活の在り方について反省を求め

  ていることを予告している。子供の自己保存本能は、自我我欲という

  にはあまりにも純粋であるからである。  

  良く「魔がさした」というように、私達の生活の内部には、心の針 

  が、電流計や温度計、自動車のスピードメーターのように、善と悪、

  明と暗の間をふらふらと動いている。悪の暗い想念にその心の針が指

  す時、私達に魔がさすのである。

その故に、常に心の針を光の善の世

  界に指示するような生活が、人生の修行目的の一つとならねばならな

  いのである。

  「金持ちは三代続かない」という言葉も良く聞く。肉体先祖は人生航

  路の舟の提供者であるとは、何度も述べた通りであるが、信仰的な

  立場からそれを祀ることが宗教的行事の一つになっている。

しかし、

  そうした慣習的宗教的な考え方が、子孫に対する過保護となって財産

  や地位を残そうとする。先祖の供養、自己の欲望のために自己保存の

  人生を送ってしまう人が多いのである。その結果、死者になっても、

  神理を悟っていないため、財産や子孫に未練を持って成仏することが

  できない。家族の心に不調和な原因を残し、財産争いだの病気だのと

  いう遺産を残すということになるのである。

  

財産というものは、自己のためのものでもなく、社会人類のものでも

  ないということを私達は知らなくてはならないのだが、そうした執念

  が、旧家と称する家には多い。先祖の悪霊の影響が多いため、慈悲と

  愛を失った冷たい環境を作りやすい条件になるということなのだろ 

  う。従って、先祖の供養が、形式宗教化してしまうのである。

  ではどう対処するか。生きている人間の心を正法に帰依すること、こ

  れが先決である。彼らも、そうすることによって自然に自分の非を悟

  って行く。むずかしい哲学化した経文をあげて解るような霊であるな

  らば、すでに現象界のことなどは心配せず、天上界で悠々と生活して

  いることだろう。現象界の心配をするような霊は、いつまでも意識が

  浄化されない低級霊なのである。両親を始めとする肉体先祖の供養 

  は、子孫の感謝報恩によってなされるもの、と知るべきである。

                          (高橋信次) 

                                

 

 

 

 

 o愛とは全面帰投である。相手を生かすためには、自分のすべてを相手

  に投げ入れて、相手と一つになり、相手の喜びを自分の喜びとして自

  分がなくなることである。

愛とは自他一体の感情ともいわれる。自分

  と他との区別がなくなり、自分が相手であり、相手が自分であり、自

  分と他とが一つの思いになることである。            

  私が愛を実感したのは、宇宙即我の境地に入った時であった。自分の

  意識が肉体を抜け出して地球が下に見えてきた瞬間、人間も動物も植

  物も鉱物も、すべては神の一つの生命であることがパッとわかった。

  すべては分かち難い一体なる生命であった。この一つの生命であると

  いう自覚を愛というのだということがわかった。

  人類愛、動物愛、植物愛、自然愛、それらはすべてこの一つであると

  いう生命の自覚から発せられる言葉でなくてはならない。だが、ここ

  で整理して置かなければならないことは、神は、動物、植物、鉱物 

  を、人間に奉仕するものとして創造されているということである。そ

  れらのものは、人間に奉仕するためにあるのであるから、それらのも

  のが人間の存在を脅かす時は、人間の生存の秩序のために淘汰されて

  もよい存在であるということである。 

  最近、ペットの飼育が問題になっている。そのペットが近隣の人々に

  害を及ぼすようであったら、当然整理されなければならない。長崎市

  では、泥棒猫が家の中まで荒らし廻って困るという市民の苦情が多か

  ったために、猫の捕獲器を貸し出した。これに対して動物愛護団体が

  動物愛の名の下に反対運動を始めた。これは動物愛護団体の人々が間

  違っている。そこに見られるのは動物愛の名によるペット飼育者のエ

  ゴでしかない。現に各家庭は泥棒猫の被害を受けているのである。そ

  の事実を知りながら、被害を受けた人の立場も考えないで自分の主張

  だけをするということは、なるほどそれは動物愛かも知れないが、そ

  れよりももっと次元の高い「人間愛」を忘れている。愛の中でもっと

  も優先されなければならないのは「人間愛「「人類愛」である。

  法律において正当防衛が罪にならないのは、これも愛のゆえである。

  我々は一人一人の存在は、尊い神の生命の存在であることをまず考え

  なければいけない。それが人間の尊厳である。その尊厳な人間の存在

  は神から許されているのであるから、なにびともその尊厳を犯しては

  ならないのである。それを一つに結んでいるのが人類愛、人間愛であ

  る。その尊厳さを破損しようとする人間がいて、そのままでは自分の

  尊厳さが危険になるという場合、それを防ぐのは当然のことである。

  犯罪とは要するに人の尊厳さを傷つけ脅かし危殆に瀕しめる行為であ

  る。人の尊厳の根拠は神の子であるということである。神の子である

  ということは、同時に神であるということでもある。神の尊厳さを持

  って行動しなければならない人間が、自らその尊厳さをかなぐり捨 

  て、さらにその上に他の人の尊厳さをも傷つけ殺そうとする時に、そ

  うする者が罰せられるのは当然である。

 o要するに人生の目的は霊の向上にあり、大自然は中道調和の道を教え

  ているのであるから、人間は神の子であることを知り、足ることを知

  った生活をして、欲望・我執にふり回されないようにすることであ 

  る。足ることを知るということは、我慢であったり、あきらめであっ

  てはならないのである。心の安らかさを大事にした生き方である。

  「与えられた環境、仕事に対しては、全力を挙げてこれに当たる。そ

  れは欲望に燃えてそうするのではなく、調和に役立てるためにそうす

  るのである」と書かれてあるが、例えば、給料十万の人は、「おれは

  十万だが、欲望を持ってはいけないというからこれで我慢しよう、十

  万もらっているんだから十万だけ働けばいい」と思うのでなくて、 

  「十万円ありがとうございます。これで感謝して生活しよう。おれの

  仕事は十万円以上になっても、仕事は全力を挙げてやる」と、常にプ

  ラスになる仕事をするのである。そういう心で仕事すれば、必ず給料

  も上げてもらえるし、運命も必ず開けてゆくのである。

  国鉄のヤミ手当てを受けていた人達は、金銭的には儲けたように見え

  ているが、心の面では大きなマイナスわつくってしまっている。だか

  ら、その人達の家庭には、金銭で補うことのできない問題、また、ヤ

  ミでもらったより以上の出費を強いられる問題が必ず起こるのであ 

  る。こういう類の問題は、「悪運、盛んなれば、天に勝つ」というよ

  うに、その人が威勢がいい時は起こらない。悪事がそのまま罷り通る

  のである。だが、一旦なにかのことで心が弱気になると、一ぺんに吹

  き出てくるのである。ヤミ手当てをもらっている時には起こらない 

  で、随分時が経ってから起こってくるから、ヤミ手当てとは関係のな

  い問題が起こってきたように思ってしまう場合が多いので、あの時は

  働かんでもらった、儲けたという心だけが残って、なかなか反省しに

  くいわけである。

  私は宗教家として起つことを決めた最初の頃、さつま芋をもらえばさ

  つま芋に、米をもらえば米に、野菜をもらえば野菜に感謝して、それ

  を風呂敷に包んで下げて帰って、下さった人々に感謝して食事した。

  その時はその時で足ることを知って生活をしていたから、私達の家庭

  は心が豊かであった。周囲の親戚はハラハラして見ていたわけであっ

  たが、私の生活は、いつも足ることを知った生活であった。しかし、

  どうしてもこれでは生活出来ないという状態が、子供達が大きくなる

  につれて起こってきた。そういう時には真剣に祈った。明日がどうな

  るかわからないという時も、心を鎮めながら祈った。すると必ず解決

  して行くのであった。周りの人達から見たら、これ以上の貧乏はなか

  ったと思う。私はそれを我慢して耐えたのでも、仕方ないとあきらめ

  ていたのでもなかった。今はこうしていても、自分にはもっと大きな

  舞台でやらなければならないことがある。自分の人生がこんなことで

  終わる筈がない。自分に使命があれば、必ず道は開ける筈だという希

  望の祈りが常にあった。調和に役立ちたいという心からの願いで努力

  する時は、必ず天上界からの協力が得られるのである。      

                          (園頭広周)

                                 

 

 

 

 o魔とは何か、それは迷いです。                 

  肉体がすべてであるという考え方です。             

                                 

 o大乗仏教は他力信仰を説き、小乗仏教は自力信仰を説いた。

 o「要は正法を理解して、それを実践する以外にない。指導者となる道

   もそれしかない」

 

 

 o反省のチャンスは神が私達に与えた慈悲なのだ。

 

 

 oたとえば、人類があの世て学んだ理性にもとづいた行動をとるなら 

  ば、風水害、地震、火山の爆発、疫病等による天災はもちろんのこ 

  と、人為的災害も消滅し、地上は植物が繁茂し、その植物、鉱物か 

  ら、まったく新しい発明発見がなされるように仕向けられてくるで 

  しょう。

                                 

 o「愛は男女の愛からはじまって、親子の愛、隣人の愛、社会の愛、人

   類の愛に発展して行くものだ」

 

 

  o「苦悩は殆んど自分の誤った想念と行為から起こるものです」

                                 

 o「動機は正しくとも、方法が誤っていたら、結果は悪となる」

 

 

 o高橋信次先生は偉大な使命を持たれた方でした。その人の心のテープ

  に記録されている過去、現在とそれによって起こりうる未来の出来事

  のすべてを知り、また天上界から地獄界からすべてのところを自由に

  見て帰ることの出来る霊能力を持っておられた。         

                                 

 o高橋信次先生は観自在となり、身体からは絶えず光を放っている。す

  ると、先生と過去世に縁が深かったものは、この光によって心の窓が

  開かれ、現世の記憶を飛び越えて過去世の記憶が甦るのであり、過去

  のことが昨日のことのように思い出されてくる。先生は現象として、

  光を当て光を入れられると、習ったこともない過去世の言葉で語り出

  す。                             

                                 

 o幸福者

   「多くのモノを持つ者と持たざる者、そのどちらが幸せであろう。

   持つ者か、それとも持たざる者であろうか。もしも、多くを持つ者

   かそれを失うまいと、持たざる者がそれを欲するとすれば、そのい

   ずれも不幸であるといわざるを得ない。一日の食糧は数斤のパンで

   十分であるし、居住の空間は数平方メートルで足りるからである。

   物の多少に幸、不幸であると考える人は本当に不幸である。なぜな

   ら、自分自身を含めてあらゆる物質は、やがては大地や大気に還元

   されてしまうからである。幸せな人とは失う物のない人をいう。」

                                 

                                 

                                 

 

 

                                  

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