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  正法と経済

 - その目的と在り方 -

 高橋信次著

   目次

  序論

     経済と人間の関係        一九七三年十一月号『GLA』誌

     神と人間について             十二月      

   人生の目的                   

       人間のなすべきこと           一九七四年  一月号

     正業の意義                 二月     

     魂を豊かにする               二月     

     相互の調和                 三月     

     奉仕の精神、心               四月     

     電子頭脳および経済論            五月     

     ケインズ論                 六月     

    悪性インフレ                  

     インフレの要因               七月     

     何故起きるか                八月      

     資本主義自由主義経済(多国籍企業)     九月     

     社会主義経済と資源問題           十月     

     資源ナショナリズム            十一月     

     経済成長と公害              十二月     

  流通の問題              

     流通経費            一九七五年 一月号 

     卸売り機構                 二月

 近代社会の思想的背景と現代経済社会の仕組み

     心の偉大性と自由性             三月

     真の自由人(真の悟り)           四月 

     自由思想と科学、技術の発展         五月    

     愛こそ総てである              六月    

 労使の問題

     インフレ、デフレの原因は欲望にある     七月    

     経済の根本原理にしたがえ          八月   

     一人一人が経営者で従業員          九月   

結論

     責任と自覚ある共同社会           十月    

     相互扶助、家庭の愛を社会に広めよ     十一月    

     釈迦、モーゼ、イエスの教えの原点を求めよ 十二月    

     正法を生活に生かす      一九七六年 一月号                                          

 

 

(一九七三年十一月)

      一

本橋は、さまざまに変化し、目的を見失いつつある現代経済の姿にメスを加えながら、正法に照らした経済の在り方、経済とは一体何で

あるのか、人間は経済の奉仕者なのか、それとも経済が人間の生活を豊かにするためにあるのか、未来社会の展望などにわたって論を進

めてみたいと思う。

まず経済の概念について考えてみよう。

辞書によると、経済とは金を儲けたり、使ったりする各種の行為又は状態をいう、としている。

経済学は、人間の欲望充足のための手段として経済を見、ここに焦点を合わせながら、学問としての論理を展開する。

現実の経済行為は、辞書や経済学のとらえ方を裏書きするかのように、激しく、冷酷なまでに動いている。

それこそ、政治も、教育も、化学も、労働も、文化も、現実の経済の動きの前には手も足も出せず、これに翻弄されながらも、かろうじ

て命脈を保っているといえるようだ。

何をするのも金、生きるも金、いうなれば経済の御厄介にならぬものとてないのが現実であろう。

このために、私達人間は経済の奴隷となって、経済の奉仕者になり下がってしまった。物や金は人間の生活をより便利に、豊かにするた

めにあるのに、人々はこれを求めて右往左往せざるを得なくなっている。

親子といえども銭金は他人だし、遺産相続をめぐる兄弟姉妹の争いは、財産が大きいほど激しく揺れ動く。殺人や裁判沙汰は、新聞紙面

を毎日のように賑わしている。

企業には亭年制が設けられ、人生の大半を企業に奉仕しても、その時期が至れば辞めて行かねばならない。

利益を生むためには、物を独占し値上がりを待つ。価格維持には惜しげもなく廃棄処分にする。

福利が先か、利益が主目的か。利潤追求を目的とした今日の企業組織は、人間主体の経済を地平線の彼方に追いやってしまった。

今日の企業体は、封建社会の遺物であった家の組織に似ている。

徳川幕府が築いた家の組織は、権力維持と謀反を防ぐに役立ったが、人間不在の形式主義に流れ、人びとは家に忠誠を誓うおかしな組織

が出来あがってしまった。城主といえども自由にならず、家臣もまた主君のためより、家の存続に喜んで死んでいった。家を中心のお家

騒動は、人間のみにくい業をさらけ出し、小さな人間をつくっていった。

家の組織を強固にした大きな理由は経済にあった。つまり、家を存続させることによって、家臣一同の生活が維持されて来たのであっ

た。跡継ぎがなく、あるいは謀反の疑いが出たりすると、家は断絶され、家臣は四散の憂目に会った。だから家臣は、家の組織、家の維

持のために喜んで奉仕した。

封建社会より進歩した筈の今日の文明社会だが、その中身を覗くと前時代の組織と少しも変わらないことに気付くだろう。ちがった点

は、切り捨て御免や士農工商のはっきりした区画が薄らいだにすぎない。が、しかしついこの間までは、殺すも生かすも経営者の胸一つ

であり、格式と階級意識は、まだまだ消えてなくならない。

ともかくこのように、経済と人間の関係というものは、昔も今もあまり変らないし、人びとは経済の奴隷となってその一生を過ごしてし

まう。

ここでもう一度、人間とは何かを問い、あらためてその価値と目的を振りかえって見たいとおもう。

人間の目的については、拙書(『心の原点』など)や本誌(『GLA』)を通して述べてきたがそれは神の意思である調和、全なる心を

この地上に具象化して行くにあたるのである。

私達の好き嫌いの感情に拘らず、人間はそうした約束の下に生れて来、その約束を果たさなければ、その分量だけ苦悩を味わうように出

来ている。

偉大なる神は、実在のあの世と仮象のこの世を創られると同時に、人間をつくられた。

そして中道という神理の中に身をかくされた。

私達人間が一ト目神の姿を拝したいと願っても、それは不可能になった。

しかし私達の心は、常に神の意識に直結し、それから離れることは出来ない。神は人間に神の心を与え、調和という目的に向わしめるこ

とをしたからである。

他人にはウソはいえても、己の心には嘘はいえないという厳粛なる事実、また他を愛する心、哀れみの心。

通常こうした心を良心といっているが、その良心はどんな人にも植え付けられている。

どんな残忍な悪人でも、一人になった時、良心の呵責(かしゃく)に悩むものだ。

私達の目に映ずる大宇宙は、とてつも無く大きい、その大きい大宇宙は神の意思にもとづいて無限の空間にひろがっている。

天体にきらめく無数の星々に、神の子の人間が住むこともなく、それらの星々は単に空間の一点にとどまっているとすれば、大宇宙は生

命のない塵の集団にすぎなくなるであろう。大宇宙の存在と神秘を感ずるものは、ほかならぬ人間だけであるからだ。

宇宙は呼吸し、人間もまた呼吸して生きている。

大宇宙は膨張、収縮を繰り返しながら、人類の調和を待っている。すなわちこの大宇宙には人類の住める惑星は無数に転がっており、人

類の降下を待っている。

地球以外の他の天体には、その天体に適応した人類が住んでおり、それらの人類は地球人類より優れた人達もおれば、劣った者達もい

る。

しかし地球人類を待つ天体は、こうした既存の人類が存在する惑星ではなく、まったく新しい新天地の天体である。もちろん他の惑星に

住む人びとも地球人類と同じように、新天地を求めて移住している。

このようにして、人類の住める惑星が一つ一つ増えて行き、そうすることによって大宇宙そのものも拡大され、調和の輪を広げて行くの

である。

なぜ、こうするのかと人は問うであろうが……。

その前に、人間はなぜ退歩をのぞまず、向上を求めて止まないのだろうか、ということを考えて欲しい。

神の意思は無限の向上と調和を求めているのだ。 

その具体的な表れが人間なのだ。

神は意思を持たれ、人間はそれを行使する者なのだ。

そうして、魂の永遠の向上を希求して行く者が人間なのである。

地上界の生活行為は、この魂の向上を図るための手段である。

生活が目的となり、魂の存在をないがしろにした時に、人間は苦痛を味わうようにできている。

迷い、悩み、さまざまな事件を引き起こして行く。

戦争、災害、病気、孤独、死、これらに人びとは引き込まれ、人間の本性をいよいよ失っていくのである。

人類は目を開かねばならない。経済の奴隷となり、魂を忘れてはならないのだ。

経済は、魂向上の手段であり、足場であることを、今こそ認識しなければならないのである。

 

 

 

(一九七三年十二月)

神と人間について、もう少し触れてみよう。

よく人はこういう疑問なり質問をしてくる。すなわち神は何故に存在する、大宇宙や人間を創造されたことは分らぬでもない。だが、神

はどうしてあるのだろう。もし神があるとすれば神のまたその上の神があるような気がしてならない。今日の科学は、なぜについては何

一つ答えないし、答えることが出来ない。したがって人間もまた神の存在に答えることが出来ないように思われるが、この点はどうなの

だろうというわけである。

私達人間の思考は五感の影響をうけている。すなわち物質的であり、物理的に出来ているといえよう。宇宙船が地球から離れ、地球の引

力圏から脱して、人間が宇宙船内を自由に遊泳出来ても、依然として私達の思考方法は物質的物理的なのだ。

神がなぜ存在するかの問いには、それ自体の発想と、こうした思考の仕方では導き出せないのだ。

物理的思考とはラッキョウの皮をむくようなものだからである。一枚一枚むいてゆくうちに全部なくなって、サテ一体、ラッキョウの本

体はどこにあるのか、本体がないのにどうしてラッキョウが出来ているのか、ということになるだろう。

人間を創った神があるとすれば、神を創った神があってもいいではないか、神の神はどうしてないのかというのは、ラッキョウの思考と

全く同じといっていいだろう。

三次元の思考はどうしても鶏論議になってしまうのだ。卵が先か、鶏が先か、いったいどちらが先に生まれ鶏が出来たか……。

どはいっても、今日の科学は宇宙船を飛ばし、原子エネルギーを発見した。コンピューターは人間の頭脳に劣らぬ複雑な計算を可能に

し、科学の行手に不可能はないような気がしてくる。しかし永久運動が容易に発見できないように、三次元的思考ではなぜに対する答え

は出てこないのだ。

ここに私達の迷いがあり、物質科学の限界がある。

虫一匹、卵一つも創作出来ない私達である。

神の存在云々の前に、私達はもっと自然の大なる英智に対して謙虚になる必要があるだろう。

森羅万象の生命の営みをみると、そこには整然とした侵し難い秩序があり、その秩序によって万物は生かされている。

神はなぜ存在するかの問いは間違いなのだ。

なぜではなく、神は在るべくして在って、私達はその中で生の営みを続けている。

人間そのものについても人間は何故存在するかの問いに誰一人として答えることは出来ないだろう。人間もまた在るべくしてこの地上に

立っているからである。

神の問題は心の問題につながる。

自分の心が把めない者にどうして神の存在が理解出来よう。

にも拘わらず人間は神の存在について答えを求めようとする。傲慢というほかはない。

神がなぜあるかを知りたいなら、まず自分の心を知ることだ。自分の心を知ったときに神の偉大な英知、慈悲、そして愛の営みを悟るこ

とが出来よう。

神を単なる物として、物質的なとらえ方をしようとしても理解できるものではない。

動・植・鉱の物質は神の慈悲の表れであるが、物質としてそれをみる限りは私達の心に訴えてくるものは非常に小さいといえる。なぜな

ら、私達のこうした問いかけに対して、神は何一つとして語ってはくれないからだ。

しかし、私達が己の心の神性にめざめ、心がひらいた時は、動、植、鉱のさまざまな働きが、何を意味し、何を為しつつあるかを知るこ

とが出来よう。

この時私達は、万物という物質が相互に関係し合い、助け合い、互いに他をいかしていることを知ることができる。

すなわち、神の偉大な営みを悟ることができるのである。

神があるとすれば、その上の神があろうという考えは、五感六根を中心としたものの見方であり、これでは何時までたっても神の英知に

ふれることはない。

神の英知に触れ、人間の存在を認識したいと思うなら、まず傲慢の心を捨て、自然の在りのままの姿を静かにながめ、自身の心をひらく

べく努めることだ。

神は自ら求める者にその扉を開く。

頭を空ッポにしたときに光を与えてくれる。

与えられた仕事に感謝し、奉仕の心を抱く者に幸せと導きとをあたえてくれよう。

神の道は針の穴より小さいということは、己の心をみつめることの少ない人びとが余りにも多いからなのである。

神は何時でもその門戸をひらいている。

いつどこにいても慈悲と愛の手を差しのべてくれる。

神はなぜ存在するのかという疑問は、心を外に向けたときの問いかけなのだ。

内省とふだんの努力を惜しまぬ者は、謙虚と勇気と情熱と、そして常に忍辱とを忘れないだろう。

かくて、神と人間と全宇宙の在り方が己の心を通して、教えられ、そして悟ることが出来るだろう。

いたずらに迷妄の淵にたたずみ、自分を失ってはならない。

人間は神の子である。

神の意思を受け継いだ行為者なのだ。

自己保存と我欲におぼれるときは、神は人間を正す意味で反省を促そう。

自己保存と我欲が地上を蔽えば、神は、陸地を海に、海を陸地に変えてしまうだろう。

人類はこうした経験を幾度となく重ねて来た。だから大地が揺れると、人間は重心を失ない恐怖心は頂点に達する。

天変地変の災害は安穏に暮らす人びとの想像を越えた大きさで何時もやってくるのだ。

私達の記憶は、それを訴え、二度と再びこのことなきよう誓いを立て、地上に生を得たのだが、環境になれ、生活に押し流されてくる

と、このことを忘れ、目前の利害におぼれてしまう。

私達の目的はこの地上にを仏国土・ユートピアにすることなのだ。

仏国土とは調和ある世界のことだ。

完全調和はこの地上界が物質界であるが故にこれでよいという限界はない。百年前まで人間が空を飛ぶことは夢であった。しかしその夢

が今では何んの雑作も無く飛ぶことが出来、月まで行ける時代となった。現代の夢は、火星に移り、そして他の惑星へと発展し、ひろが

って行こう。

調和のひろがりと内容の豊かさについても、それと同じである。これで良い、という限度がないのだ。進めば進むほど、よりたしかなも

の、より充実したもの、より内面的なものへと進み、調和の質と量を高めて行くことになる。

そうして私達は限りない調和を求めて、魂の進化を図っているのである。

調和というと、外的な、物質的な、健康的な、明るい社会を誰しも想定する。もちろんその通りにちがいない。

しかしそうした外的な調和はどこから生まれるかといえば、まずもって、各人の魂の進化、魂の調和にあるのである。

魂の調和がなければ豊かな環境すら作り得ないではないか。

このことは現代の物質文明を一ト目見ればハッキリしよう。

心不在の文明が邪悪と不信とに満ち、争いと苦悩の多い社会であることは誰の目からみても理解できようからである。

 

 

 

(一九七四年一月)

  二、

人間のこの地上界での目的は何か、生活の目的は何か。

それはすでに述べたように、魂の永遠の向上を求めて行くことである。

私達人間が神の意識から分かれ、単独の魂を与えられたその時からはじまっている。

このことは、好むと好まざるとにかかわらず、私達はそうした目的を持って、人間として生まれて来たのである。

これは観念や、形而上的なそれから考えられた命題ではない。

観念や形而上の事柄は主観的であり、これを認識しようとすると、人それぞれの体験によるところに左右されよう。しかし、ここでいう

人間の目的というものは、人が慈悲と愛の調和を求め、正しい生活を実践していくならば誰でもが認識し得る自然の条理なのである。

私達は外的な感覚的な生活に追われ、自分の心をふりかえる余裕を持たぬので、認識出来ないものについては、つい否定してしまう。そ

のために、真実なものと、そうでないものの判断がつかず、一生を食うこと(一切の欲望を含めて)に費やし、そうして、極めて外的な

比較の観念の中におぼれ、自分を見失って行く。

食うことも大事だが、しかし、空の真実を知ることは、もっと大事なことなのだ。

空の世界を知ると、地上での食うことの摂理も理解されてくる。

食うことは、私達人間の肉体維持のための神が与えた本能であり、そうしてそれは自分自身を含めて、種族保存と調和の世界を築く基礎

的要件であるのだ。

したがって、食うことは人生のすべてではない。食うことは、魂の向上という己の調和と、全体の調和を図るためにあるのである。

人はどんなに生きても、大低は百才までである。百才という才月は長いようだが、過ぎてみると泡のようにはかなく短い。その短い人生

に、人はどうして足ることを知ることを知らぬ欲望、名誉、安逸等を求めようとするのだろう。

社会の混乱は、人びとがこうした外的な欲望に心を向け、それに執着を持ってしまったためにおこってくる。

人はどんなに頑張っても、裸で生れ、裸で死ぬのであり、食う為に人をおしのけ、威張ったところで、そこに何があるというのだろう。

金が貯まり、財をうづ高く築いたとしても、三度の食事を五度や十度にするわけにはゆくまい。遊びや娯楽にしても過ぎてくると、孤独

と不安が襲ってきて、体のあちこちに支障がおきてこよう。

いつも元気に空を飛ぶ小鳥のさえずりをきくと、人間の欲の深さにあらためておどろきを覚える。彼等の一生はその日暮らしである。一

日一生の彼等は、財も、金も貯えようともしない。それでいていつも元気で、飢えを知らない。神は、彼等が飢えないように、彼等の腹

を満たす食べ物は何時も用意してくれている。もし彼等の仲間が、食べ物を独り占めし、地上のどこかにかくしたとすれば、他の小鳥達

は飢えに泣くことだろう。しかし彼等は、一羽たりともそのような我侭や欲望を発展させることはしないのだ。だから、彼等の仲間は、

その日暮しだが何時も元気で、空を駈けめぐっていられる。

小鳥達のさえずりを耳にすると、人間社会の愚行が影絵のように浮び、小鳥達に教えられる。

人間は、自由と、創造と、この地上を調和する能力を保有している。そうして、そうした能力を通して、その魂を拡大し、神の心と一つ

になることに向かって進んでいる。

つまり、神の偉大にして無限の広さを持つ意識から分かれた個々の人間の魂は、転生輪廻を通して、神と同等の無限の意識にまで発展さ

せることなのである。

個々の魂が神の広さにまで発展させることによって、眼に見える大宇宙も、無限の発展(質的に)が可能となるのである。

私達はそうした約束の下に生れ、魂を持ったのである

この目的は、あの世、この世を通して変ることがない。

したがって地上での私達の為すべきことは、この目的に合致した、それでなくてはならないだろう。

小鳥達が他を侵すことなく、全体の調和を維持できるもの、彼等もまた彼等の世界の中で、そうした合目的の下に生かされているから

だ。

人間が小鳥達とちがうことは、前述のように、本来の自由と、創造と、地上全体の調和という役割が与えられ、生かされ、生きている神

の意識を保有した魂であるという点だ。

小鳥には、小鳥達だけの世界しかない。彼等には水中の魚や人間社会にまで調和を促す能力は与えられていない。しかし、人間は、小鳥

を含めて、全体の調和を進めていく神の代行者、神の意思を受け継ぐ行為者なのだ。

だが、その人間が小鳥以下になり下がっているというのが現実ではないだろうか。

さて、人間の目的がそうだとすれば、私達はどう生きるべきか、どう為していくことが神の意思に合致するかである。

私達の生活を支える仕事についても、その仕事の目的が食うためにのみあるとすれば、人間は小鳥以外になってしまうだろう。

世の混乱が食うことを土台にして、人のことより自分のこと、他人が苦しんでも自分が困らなければ痛くもかゆくもない感覚が、そうしたものを生み出している、といえるだろう。

人間社会が小鳥以下になるのは、自由と創造の能力が与えられているので、悪にも善にも通じてしまうからなのだ。

人のことより自分のことというものの考え方は、小鳥達とはちがった能力があるから生じてくる。だから人間は人間同士で争いをはじめ

てしまう。

小鳥達同士で殺したり、殺されたりするだろうか。しない筈だ。他を侵さないので、自分も侵されない。つまり、彼等は、自分の分を守

って生活しているので、安定した共存を可能にしている。

私達人間も、まずこのルールを守ることだろう。

財を独り占めし、自分さえよければ良いという考えが、混乱の元凶を為している。

もっとも現在の経済社会は、そうした混乱や個人の欲望、自己主張の上に成り立っているので、これを否定すると、現代経済社会の歯車

が狂ってしまうことになるが、しかし、本当はそうはならないのだ。

このことはまた後で述べるが、まず私達は、人間のこの地上での目的をしっかりと自覚し、仕事の意義、生活の目的、人間の本質(この

ことは既に述べた)を胸に収めることが必要だろう。

八正道の中に、正業という規範がある。

正業とは、正しく仕事をすることをいう。

私達の仕事は生活と直結し、仕事と生活というものを切り離して考える事が出来ない。したがって正業の在り方は、そのまま、生活の在

り方にもつながって来よう。

また、今日の経済社会が利潤追及のシステムの上に組み立てられ、神の子である人間の目的からすると、これはまったくの反対行動であ

り、そうした意味からも、正業の在り方は、私達人間の一日における生活活動全体を規制するということにもなってくるだろう。

 

 

(一九七四年二月)

正業には三つの目的が秘められている。

己の魂を豊かにする

調和

奉仕

の三つである。

まず、一について説明しよう。

私達は次元の異なるあの世からこの世に出生してくるときには、一人も例外もなく、こんどは医者になって病に苦しむ人びとを救ってこ

よう、あるいは商人となってさまざまな財を人びとに分け与えてこようといって出生する。

出生の目的は人生の経験を、職業を通して、仕事を通して積んでいくのである。

経験は魂の輪を広げ、心を豊かにして行くものである。

私達は経験のないものを理解することは困難である。

善の素晴らしさ、悪の醜さというものは自分に経験がないと本当に知ることは出来ない。

人殺しや犯罪者の心理状態は、これらを経験しないと理解できないかというと、本当は理解出来ないものなのだ。

自分がその局面に立たされ、追われる身となって、世間をはばかった生活をすることによって、はじめて悪の愚かしさ、悲しさ、醜さを

知ることが出来よう。

人間はもともと集団の中で互いに手を取り合って生活して行くように仕組まれている。世間をせまくした孤独の生活というものには人間

は堪えられないのである。

宗教や哲学に興味を抱く人々の魂は、たいていはこうした人生の明暗の生活をくぐり抜けて来た人々が多いといえよう。

いうなれば、魂の経験が多く、さまざまな仕事を通して現在ここに立っているからである。もちろんその経験というものは、何も今生の

それをいうのではない。長い転生輪廻の過程において、そうした経験が、ものの真実に近づき、人間に対する理解に度合いを深め善に喜

びを見出すことが出来るようになるのである。

私達の身近かな五十年、七十年の人生についても、そのことが言えるのではないだろうか。

人生経験の乏しい小学校一年生に、四十代、五十代、あるいは老人達の悩みを解決する能力を求めようとしても、それはもともと無理な

ことではないだろうか。

少なくとも、これらの人達を納得させるには、納得させるだけの説得力と、にじみ出た経験が必要になるだろう。

そうした能力というものは、やはりいろいろなことを学び、さまざまな苦楽の経験がそうした能力を引き出して行くものであろう。

魂のキャバシティ(容量)はこのように、さまざまな職業、仕事を通して、はじめて、その豊かさなり、広がりを示して行くものであ

り、やがてその魂は宇宙大にひろがり、神の心に触れ合うように進んでいくものである。

人間の出発が神の意識から分かれ、そうして、神に帰って行くのは、人間に与えられた天命なのだ。目先きの安住を求めて、そこに何時

までもとどまることは許されない。

それは各人の魂が今世と訣別し、あの世に帰った時にはっきりと理解されよう。

勿論、ある次元にとどまる魂についてはそうした人間の天命を知ることがなく、地上界に執着し、魂の前進を遅らせる者も数多く存在す

るが、しかし、それでもやがてはそれを知り、再び、地上界に出生し修行し、悟って行くものである。

こうみてくると、この地上界における職業仕事というものは、それ自体に目的があるというより、各人の魂の経験を積むためのよきパー

トナーであり、手段ということになるだろう。

職業に貴賎はないし、職業によって人格まで評価することはこれまた全く愚かなことといわねばならない。

前世は名もなき一介の市井人であっても、今世は歌手や俳優となって世界的に有名になった者もおれば、その反対の者もいる。

ペテロという人はイエスの弟子として有名である。

そのペテロは二千年前は貧しい一介の漁夫にしかすぎなかった。

イエスの意志をついだが、伝道には学問の貧しさから随分と苦労したようである。

そこでペテロは、こんどは地上に出生した祈りは学問をみっちりと学び、事物の理解をふかめたいと学問の道にはいり、東大の総長まで

になった。

イエス伝を遺して他界した矢内原忠雄という人がかってのペテロである。

こうした、例は非常に多いし、前生の仕事を今世でも為しつつある人もいるが、大抵はちがった職業に就き、その仕事を通して、人生体

験を深めている。

私達の一日の仕事の量というものはほんのささいなものに過ぎないだろう。

その意味では五十年、七十年の短かさを痛感する。

仕事や職業に、人生の全部を賭けようとすれば、大抵は悔いだけが残ることになるだろう。

しかし仕事を通して、人生に目的を見出し、人間としての価値を希求する者には満足と喜びが与えられるだろう。

価値ある行為というものは、より多くの人々に、どれ程の喜びと人生に生き甲斐を与えて来たかにかかっている。

仕事をより多くすることは社会にたいして大きな貢献をしたことになるが、神の眼から見た場合は、仕事の量よりもその質のほうがずっ

と重要視されるのである。

秀吉という男は、天下を平定したが、しかし、それは極めて表面的なことであって、彼の死後は再び戦乱が起こり、人心は再び動揺し

た。

社会を安定し、生活を豊かにすることは大事なことだが、それを裏づける心の安定がもっと大切なことを、歴史が教えている。

物質のみに走った栄誉栄華は砂上に建てた楼閣のように長くは続かないし、人心を真に安定させることは出来ない。

人心の安定と生活に喜びを与えるためには、神の心に適った物と心のバランスのとれた中道以外にはないのである。

中道の根底にあるものは心である。神の意識である。

その意識を根底にして、物と人心とのバランスが図られることが地上に住む者の在り方でなければならないのである。

それにはまず、なんと言っても人間の目的が調和にあり、仕事というものは各人の魂のキャバシティを広げていくものであるということ

を理解する必要があるだろう。

仕事の量より質が重要だということは、この地上界の人類の歴史が五官六根に左右され勝ちであり、五官六根の苦闘の歴史であったから

である。

否、この事はこれからもまだ続いて行くであろう。目先きの利に追われ、食うに困れば力づくでも奪い取るというのが地上界の意識であ

る。

アラブの石油問題が米・ソの利害が一致し、戦争より話し合いが自国の利益になると、米・ソが判断すれば戦争にまでは発展しないので

ある。

すべてが物質的な利害によって動いている。

利害がこわれれば戦うしかないのが地上界を蔽っている人類の考え方だ。これでは物心両面の調和ある社会は成就できない。

そこで、物に走っている人々の心が、魂の転生を知り、永遠の生命体である己のいのちを理解するよう、神は作用、反作用という法を通

して教えている。しかしそうした中にあって、心に灯をかかげた人々にたいしては慈悲の光を与え続けているのである。

こういうことで、まず私達は、職業や仕事そのものに正業の意義があるというよりも、正業の第一の目的は、そうした仕事を通して己の

魂をひらき、経験をより豊かにして行くことなのである。

 

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(一九七四年三月)

前号で述べたように正業の第一の目的は己の魂を豊かにするためにあった。

それは食うためではなく、生活を通して『空』の実在を認識し、正業の第二の目的である人々との相互の調和に役立つことであるわけで

ある。

調和の意識―めざめは、『空』の真実を理解し、あるいは自覚することによって、より促進されてこよう。

調和とは何か、それは私達の地上での生活を真にエンジョイするものでなければなるまい。仏国土、ユートピアの社会は、調和された社

会である。個の意識は全体の意識に結びついた社会でもある。

私達の自然的生活環境は、すべて神の慈悲によって、相互に生活が成り立つように仕組まれている。太陽の熱、光のエネルギーによる生

物の成育、動、植、鉱の相互依存の関係というものは、神の慈悲によって生じた調和された関係なのだ。

もし私達の周囲に、植物が一つもなく、荒漠たる砂漠のみとしたら、私達の、つつがない生存は許されないであろう。植物は私達に食べ

物を与え、酸素を供給し、色彩に変化を与えて、生活に喜びとゆとりをもたらしている。

鉱物の普遍的価値については論をまつまい。私達が立っている大地、水、その他必要な供給物資は、すべて天然の鉱物資源から供給され

ている。

自然的環境というものはこのように、私達の生活に必要なものを与えている。

しかし、一方において、私達人間も、植物、鉱物にたいして、彼等が成育できる環境や価値を生みだしている。

植物の生育には私達が吐き出す炭酸ガスが欠かせない。また私達の排せつ物は植物の肥料になっている。今日では、農耕肥料は化学化さ

れて、私達の排せつ物は末利用資源として処理されているが、しかし、こうした状態が私達の人体に今後どのような影響を与えるか、や

がて体質の変化や遺伝子としての問題を投げてくるのではあるまいか。

鉱物がそのまま大地に眠り、末利用のまま放置されていてはその価値は半減されてしまう。人間や動物の生活に生かされるだろうか。利

用されて、はじめて鉱物資源としての生命がよみがえってくるといえよう。

問題は、こくした資源が人間の恣意にもとづいて乱獲され、鉱物資源相互のバランス、循環の利用が無視されてくると、地盤沈下や海水

汚染、空気の汚染にもつながり、人間の生活それ自体に大きな問題を与えてくる。このことについては後述する現代経済社会の中で述べ

てゆきたいと思うが、ともかく、私達人間と自然の環境というものは、こうした相互の作用によって調和されているのだ。

すなわち、たがいに補ない合い、助け合って、その生存を許し合っているのである。

正業の目的である私達人間相互の関係も、大自然が教えている調和ある生活が、正業の第二の目的でなければならない。

現代社会は、百年前、千年前のそれとは異なり、専門化され、分業化されて、単独では生きられないようになっている。

もともと人間は集団の中で生活し、集団から外れて、勝手気侭に生きられるようには出来ていない。

このことは独り人間のみではなく、各種の動物も集団生活の中でその生存が許され、植物も鉱物もこの点は変わらない。

石炭や石油、金、銀、銅などの鉱物資源は決まってある一定の場所に塊まって眠っている。だからその資源を堀りつくしてしまうと、他

の塊まった場所を探し求めなければならない。

集団生活は自然の摂理だからである。

人類創生のその出発も、旧約聖書にある通り、アダム(男)とエバ(女)の複数からはじまっている。

このように私達は複数の中で、集団で生活することによってのみ、子孫を残し、歴史がつづられるのである。

ロビンソンクルーソーのように、単独の生活を望んだり、あるいは風流人をよそおい、自己陶酔におちいるのも、またヒッピーに人生の

生甲斐をもとめることも、何れも調和という自然の摂理からすると離れることになるし、これでは人類は死滅するほかはないのである。

ことに現代は、分業化が進み、誰も彼も自給自足の生活が望めなくなって来ている。これは人類の増加につれて、経済システムが合理化

され、生活内容が向上されて来た結果にほかならない。

経済生活の原則であり、そして、よりゆとりある文化生活、精神生活を求めるために私達は最少の費用で最大の効果をあげる努力はこれ

からも続けられるであろうし、この原則は、いかなる社会にあっても変わることはないだろう。

こうみてくると、私達は自分の生存を保つためにも、仕事を通して、他を生かしながら生きて行かねばならない。

職業に就き、仕事をして行くことは人間として当然の義務であり、責任であろう。

さまざまな職業に就き、その道に励むことは、自分を生かし、他を生かすことにほかならない。

そうしてこうした行為そのものは、全体を生かす調和の基礎となるのである。

すなわち職業に就き、仕事を為して行く事は、自然の摂理である助け合い、補い合い、許し合う愛の行為につながる。

男女の和合を愛というのは、たがいに足りないものを補い合い、助け合うことを意味しているからであり、仕事を通しての愛の行為と

は、その仕事に自分の能力を出し切り、他を生かすことなのである。

調和といい、愛という言葉は、極めて抽象的な概念として、これまでは把み難いものとうけとられてきたようだが、大自然が示す摂理を

紐解いて行くと、調和も愛もその真意は誰でも理解が出来、行為の上に表わして行くことができるものである。

イエスが愛を説いた。愛を説くには説くだけの理由があった。その重要な理由としてはイスラエルを中心とした中近東地区は当時も不毛

の地であり、生活が苦しかった。その貧しい生活を互いに分け合い、生きて行くには、愛という助け合う心と行為が必要だった。人間と

して、心を豊かに、広い心をつちかって行くには、たがいにはげまし合い、許し合う心の触れ合いがどれほど大事であり、それがまた神

の心につながり、自然の摂理に合致した生き方でもあった。

愛の行為は私達地上における光なのである。生きる道標なのだ。

仕事も愛の行為の表われでなくてはならない。

ところが現実はどうであろうか。私達の経済生活は欲望を中心として動いている。自分さえよければ他はどうでもという自己保存が愛の

心を小さくさせ、エゴが人間社会を包んでいる。

労使の争いにしても、それぞれの立場で、どうして、こうも主張が変わってくるのかと思われるほどちがってくる。

ひと頃組合活動は政治的色彩がどんな小企業にも強く働いたようだ。最近ではこれが政府関係機関企業に集中されてきたようである。年

々戦術も変わり、巧妙になってきているが、その目的が経済目的か政治目的かによって、争議の内容も大分ちがってこよう。

どちらに比重がかかろうとも、争いによる平和は望めないものだし、組合活動が労働者の生活向上が目的なら、まずもって使用者側の理

解を求めることが必要だろう。労使の争いは、使用者側にも責任があるし、使用者のエゴに大きな原因があろう。

アメリカで自動車王となったフォードは、車の販路を広げるために、自社の労働者に思い切った高給を支払った。三カ月の給料で自社製

の車一台を買えるようにしたのである。当時としては破天荒なやり方であった。そころが、これによってフォード社の需要はグングン伸

び、またたくまにアメリカ市場の八割を占めてしまった。

 

 

 

 

(一九七四年四月)

フォードの経営理念はどこにあったかというと、利潤をあげることより奉仕にあった。独占より平等を求め、金持ちの独占物であった自

動車を大衆に分け与えることを念願とした。

当時は、自動車は金持ちでなければ買えないし、乗ることも出来なかった。金持ちだけを相手にしても会社は十分経営出来た。しかし、

フォードはそれをしなかった。

フォードは晩年、自動車王となっても奢る心を持たず、自ら薪を割り、靴を磨いた。自分の身の回りことで自分で出来ることは人任せに

することをしなかった。

一九〇九年、わずか一万台の生産台数であったものが、一九一四年には二十五万台に達し、アメリカの自動車市場の過半を占めるに至っ

た。

私達は単独では生きてはいけない。動物も鉱物も、集団の中で互いに助け合いながら、それぞれの持ち場を守り、その持ち物を十全には

たすことによってのみ、全体に寄与することが出来る。全体に寄与することは、とりも直さず、自分自身をも寄与してくるのである。

正法は私達に何を教えているか、それは生活の正しい循環であり、正しい循環は、一人一人が奉仕の心を持って、与えられた持場を守

り、全体を生かすことにある。自分さえよければよい、生きているのは自分だけと思うようになると、私達の生活の歯車は自分を苦し

め、他をも苦しめることになる。

八正道の正業の第一の目的は自分の魂の輪を広げていくことであり、第二に全体の生活を豊かにすることであり、第三に、奉仕の精神に

つながることでなければならない。

ここでフォードの例が出たので、マルクスについて少し触れてみることにする。

マルクス経済学は、今日、世界の国々を二分する程の影響力を持ち、人類に緊張と混乱を及ぼして来ている。彼の目的は財の公平な分配

と争いのない社会の平和にあったようだが、経済法則は人間の意志から独立して存在するとして、弁証法的唯物論と歴史唯物論を展開す

る。

マルクスによる資本主義の矛盾は生産の社会性にもかかわらず、所有の私的性格であって、このため、恐慌や失業、ブルジョアジーとプ

ロレタリアートの階級的対立が必然的に現れるとする。

国家を階級国家と定義したのはマルクス・エンゲルスであり、それによる基本的生産手段を所有する階級が、同時に政治的に支配する階

級であるから、国家機関はこの階級のために活動することになる。奴隷制国家は奴隷所有者を支配階級とする。同じく封建社会は土地所

有者が支配し、資本主義社会は資本を所有する者がそれを所有しないものを支配する、というわけである。たしかに、マルクスが指摘す

るように、歴史の流れを一瞥するとこのようなとらえ方が出来てこよう。

さて、マルクスは一八一八年から八三年の間、エンゲルスを友に持ち世にいうマルクス資本論を書きあげた。彼はドイツに生れ、ドイツ

で育った。彼の目に映ったものは、その日暮しの労働者であり、資本家は国家を動かし、労働者は彼等の奴隷のように見えたのである。

共産党宣言をした一八四八年の産業界は、電気の利用はまだ初歩的な段階であり、エンジンは蒸気機関に頼っていた。今日のような流れ

作業による大量生産方式というものは全然なかった。過少需要で経済は成長することが出来ず、このため労働者は生存ラインすれすれの

資金しか与えられなかった。経済の仕組みも幼稚であったし、好況と不況が大きく揺れ動いた時代でもあったので、彼のいう産業予備軍

(失業者)が巷に常にたむろしていた。

そこで彼はこう推論を下した。生産力が発展すればするほど労働者は貧しくなる。至るところにストライキが起こり、資本家と労働者が

争い、やがて資本主義から社会主義の必然の経過を辿ってゆくだろうと。

彼はドイツ人であるから、彼の理論はまず母国ドイツに現実になって現われ、適用されるであろうと見たようである。ところが彼が生前

中には彼の理論は多くの人びとに知られたものの、母国ドイツはこれを受け入れないばかりか、彼の考えとはちがった方向で発展して行

った。そればかりか意外にも彼が物故した後、彼が全く夢想だにしていなかった。ロシヤに突如として革命が起こり、彼の理論をレーニ

ンが受け継いだのであった。

当時のロシヤは帝政国家であり、ヨーロッパでも、もっとも遅れた農業国家であった。人口の約九割りは農民であり、しかも帝政ロシヤ

は日本と戦争をし、バルチック艦隊の壊滅によって国内の混乱はその極に達していた。ひとにぎりの貴族が大多数の農民を支配する。そ

の上、日露戦争の敗退で革命の機運はいやが上にも盛り上がっていたのである。しかし、マルクスの書いた資本論がロシヤに持ち込ま

れ、ロシヤに生かされるとは歴史の皮肉であり、マルクス自身、夢にも思わなかった。彼の夢はあくまで母国ドイツであり、彼の論理は

資本主義の発展が社会主義、共産主義に進むことを必然の過程としてとらえているのをみても、夢と現実のちがいがはっきりしよう。今

日のソ連邦はマルクスの図式通りには運営されていないようだ。また、この理論を推し進めるために多くの血が流されたことは見逃せな

い。

不思議なことに、マルクス理論は発達した資本主義国家に受け入れられず、ロシヤや、中国、北ベトナム、その他の機械化や工業化の遅

れている国々に利用されることである。これは、人種差別に等しい階級意識の強い社会、支配と被支配の関係の際立った国家ほど受け入

れられることを意味しよう。つまり人間平等、そして隣人愛が失われてくると、マルクスが歓迎されてくるようである。

マルクスはいくつかの誤りを犯している。まず実際的面についてみると、産業予備軍である。生産の過程において資本家が利益を上げ

る。利益が上がるから再投資を行う。こうした二つの過程からがやがて過剰が生じてくる。資本の過剰は利潤率の低下を来たすので、労

働者の過剰と窮乏化はさけられないという。ところが現実はどうかというと、この百年間、利潤率は一向に下がらないのだ。下がるどこ

ろかドンドン上がって生活が豊かになった。つまり経済の成長によって、企業家は新しい産業を生み出し、新しい商品を生み、新しい職

種を作り出していったのである。商品が百年前も今日も依然として変わらず、同じ物に限定されてくると、マルクスの利潤低下の法則が

適用されてくる。資本主義は経済の多様を促がし、産業予備軍をもたらすこともなく、この二十八年間の我が国の経済成長をみても、失

業者どころか、人が足らず、どこも人手不足で困り抜くという状況であった。したがって、マルクスを受け入れる必要性を感じない。も

ちろん、資本主義にも限界があり、問題もある。これはまた後で述べていくが、利潤率の問題以外にも誤りが目につく。労働価値論がそ

うだし、資源の問題、公害の問題についても触れていない。

特に重要な問題は彼の考えの根底が唯物論であり、そのために経済問題は人間の意思から独立して存在するという点であろう。

私達の住む世界についてはことごとく、私達の意思に無関係なものは一つも無いといえる。とりわけ経済問題は私達が思うこと、考える

ことがそのまま具象化して現われてくるものである。その現われをどうして人間と無関係なのだろうか。

企業規模が大きくなると人は組織の歯車となり、組織が利潤を生み出すことはたしかにある。しかし人が組織の歯車とはいっても人がい

なければ組織は何の用も為さない。人がそれぞれの役を担って働くから、組織に生命が宿ってくる。企業は人なり、というのは、どんな

ぼう大な組織にあっても、人の意思の反映でないものは何一つとしてないからである。

電子計算機は人間の頭脳を応用した。コンピューターはある時は人間の頭脳以上の役割りを果たし、将来をも予見する。

 

 

 

 

(一九七四年五月)

電子計算機が人間の頭脳の代役を果たすようになれば労働人口は先細りの傾向となり、マルクスがいう様に産業予備軍の急増も考えられ

てくる。第二、第三の産業革命である。

装置産業の代表といってもいい化学工場の機械化は凄まじいほどである。

あるS工場では製造部門二十六人で三交代制をしき、一カ月で一万二千トンの製品をつくっている。同系列会社の旧設備は、百五十人も

働いて月産六千トンしか生産できない。一人当りの生産性をみると、前者が五百トン、後者が四十トン、十三倍の生産性格差を生じてい

る。

また石油専用船(タンカー)の合理化も進み、二十万トンの巨船に、船員はわずかの二十数名で足りるというのも出て来ている。

そこで、こうした機械化は労働者を駆遂し、失業者を巷にあふれ出すようになるが、しかしオート・メーションがすべての産業に当ては

まるかどうか。

また、前月号でも触れたように、経済の成長は、すそ広がりをうながし、新しい産業、商品、職種を生み出して行くのである。

電子頭脳は、与えられた計算は可能としても、創意とか工夫、感情、心については苦手である。

コンピューターは人間が運用してはじめて役に立ち、彼らが勝手に動き出したら、地上はおしまいである。

アメリカが介入したベトナム戦争は、コンピューターで弾いて計算された戦争とも言われている。

戦争は数年で終結するとみられたが、事実は十四年もかかっている。コンピューターは人間の感情や心をとらえることが出来なかったのである。

マルクスはフォードの人間性によって、その考え方がくつがえされたといっていいだろう。フォードが労働者に高賃金を払い、大量生産

方式をとることによって、社会を豊かにし、人びとに奉仕した。

今日の我が国を含めた西欧先進国の経済発展の原型は、フォードの体験的な経済哲学を基礎にしているといっても過言ではないようであ

る。

マルクスは、あまりにも理論に走りすぎた。彼の願いは平和と平等にあったようだが、その目的の急なために、人間を見ることをおろそ

かにしたようだった。

経済法則は人間の意思に関係なく動くという誤りを犯している。

たしかに、現実は人間の意思とは無関係に様々な諸現象をつくり出している。インフレにしろ、デフレ現象にしても、個人の意志に関

係なく、生み出されて行く。

しかし、インフレ、デフレといっても、それを動かしている者は誰なのか、誰でもないほかならぬ人間ではないだろうか。インフレ、デ

フレが突然、降って湧いたわけではあるまい。

人間社会における諸現象の基礎は、すべて人間の意思の下にある。

ただし、意思する方向と、思う、考え、念ずる、方向がちがってくると、両者の間に開きが出てくるのだ。

私達の本来の意思は、健康で、平和で、豊かな暮しを望んでいるはずだ。そうして、こうした意思の下に、正しい想念行為が為されるな

らば、私達の生活は平和で喜びに満ちたものとなろう。

ところが現実の私達の生活行為は、こうした意思をいだいている反面、自己保存、欲望追及の想念が絶えず動いている。つまり、本来の

意思と、想念との間に、大きなギャップが生じているのだ。そのために、意思とは無関係に、社会の流れが変わってきたりしてしまうわ

けなのだ。

そこで原則的な結論を急ぐとこの問題は、経済法則のメカニズムを、正しい軌道に乗せればよいということになる。意思と想念とを合わ

せればいいのである。そうして、本来の人間性にもとづいた想念と行為を、経済にも当てはめて行けば混乱はさけられることになる。

森羅万象は循環という自然の摂理の下にある。この循環の摂理を正しく生かすか、自己本位に流されるかによって、混乱と秩序の分かれ

目となるのである。

人間の歴史が、経済問題のみならず、平和と豊かな環境を望みながら、戦争と混乱に明け暮れた所以のものは、自己保存と足ることの知

らぬ欲望に心がとらわれ、それにもとづいた想念行為にふり回されたためである。

誰しも病気をしたいとは思わないだろう。不幸になりたいなどと考える者は少ないはずだ。しかし病気をしたり、思わぬ蹉跌をきたし、

自分の意思に関係なく運命が変わって行くのは、毎日の想念の在り方にかかっていることを無視してきたからなのだ。

先月号で『私達の住む世界についてはことごとく、私達の意思に無関係なものはない』と書いた。

これは現代人が、そしてまた私達の肉体先祖が、自己保存を中心とした理念行為に、本来誰しも意思として内在している平和で豊かなそ

の心の大半を明け渡してしまったがために、そう書いたのである。

したがって、こうした意味においては、インフレにしろ、デフレにしても、私達の意思の下に動いているのであり、経済法則が私達人間

の意思とは別個に存在することはないといえるだろう。

マルクスは、人間の心を理解できなかった。そうして、そうした前提の下で理論を組見立てて行ったので、さまざまな誤りが、目につい

てくるわけである。

思い出して欲しい。

「善には善、悪には悪」という自然の掟を。そうして、思う、念ずることは現象化につながって行き、それは本人の意思とは別行動をと

って現象化されるということをも、忘れないで欲しいのだ。

ところでマルクスは実在界(あの世)から使命を持って生まれて来た。その使命とは、当時の社会は彼が悩んだように貧富の差が激し

く、労働者の生活はひどかった。資本家はどんどんふとるのに、労働者はその日暮らしであり、生かさず殺さずの形を変えた一部の者に

奉仕する奴隷とあまり変わらなかった。

彼の目的は、この矛盾を訂正する理論をうち立て、人間性を中心とした社会改革の柱になることだった。生産と消費の円滑な運営が目的

だった。

ところが彼は、現実に目を向けすぎた。そうしてその考え方が次第に唯物的方向を辿るようになり、人間から離れていったのである。

彼の目に映じたものは、資本主義のさまざまな矛盾、不平等であった。そしてその不合理の原因は、資本主義の下にある経済の仕組みで

あり、この仕組みこそ不平等の元凶とみたのである。

確かに、それまでの経済組織は、アダム・スミスに代表されるように、所謂、古典資本主義が、人々の生活を規制していた。

アダム・スミスは一七二三年に、イギリスに生まれ、六七歳で生涯を閉じている。

彼は一七七六年に富国論をまとめ、今日の資本主義社会の基礎づけをしている。

彼は当時の重商主義を批判し、富みとは金銀ではなく、年々労働によって生み出される生産物であるとした。生産物は利己心の経済行為

によって生産されるが、しかし見えざる手によって導かれて、公共の福祉を増進するとみたのである。資本主義はこうして全体の調和を

もたらす機能を持っているので、これをさまたげる一切の保護政策はつつしみ、自由放任こそ経済発展の基礎というわけである。

現在の我が国の経済、そして西欧先進国にみられる経済組織が、いかにアダム・スミスの考えを底流に動いているかが、はっきりしよ

う。

経済が幼稚なときは、これでもよかった。しかし、経済規模が次第に拡大され、景気のバランスが大きく揺れ動くにつれて、持てる者と

持たざる者の格差がひろがり、不平等のミゾが深まってくる。

 

 

 

 

(一九七四年六月)

不平等のミゾは、今日のインフレ、デフレをみれば明らかであろう。インフレは富を偏在させ、悪をつのらせ、デフレは暴動と混乱を生

む。

インフレの問題については後で詳説するがアダム・スミスのいう自由放任にはマルクス同様問題があった。自由放任の前提には、人々の

利己心が支えになっており、経済行為と利己心は切っても切れない関係のようにみられているからである。

経済生活が利己心、足ることを知らぬ欲望を主体に動いている間は、私達の生活は何時になっても調和されない。そうしてまた、人々の

欲望を押さえつけた、あるいはある制度によってしばりつけても円滑にはゆかないものである。

しかし今日までの私達の政治的、経済的環境は、人間の利己心、欲望は当然の権利であり、人間性にもとづいたそれであるとしてこれを

認め、これを踏まえた諸制度が考案されてきたのであった。このため、争いと欲望はつきることなく、安らぎある生活は、制度的には合

理化されてきているが、日増しに遠ざかっているというのが現実であろう。

自由放任制には制度そのものに大きな欠陥があった。簡単に説明すると、次のようになる。

ある時点で商品が売れ出すと企業家は生産設備を拡張しよう。設備の拡充、投資はそれの生産者、原料生産者がうるおうことになろう。

いきおいここに働く労働者の賃金も上がってくる。労働者の所得が増えてくれば消費が拡大しよう。生産拡大と消費の拡大が行われる

と、やがて供給過多が景気上昇過程のうちに見られるようになる。企業倒産が出始める。倒産が出れば失業者を生じ、消費は停滞し、景

気は下降に這入る。

放任経済の下では、こうした景気のパターンが周期的に襲い、運動にはすべてはずみがつくので、犠牲者が多く出たのである。

話しを前に戻して、マルクスの時代は景気の上下動が激しく、古典的資本主義社会の矛盾が目についた。マルクスは、その矛盾がまず祖

国ドイツにおこり、共産社会はやがて全世界に広まるとみたのである。インターナショナルの波は彼の予見の通り、全世界に伝わって行

くが、心の自由、行動の自由を束縛した制度は大多数の人々に受け入れられず、今日に至っているといえよう。

マルクスは人間の平等、分配の公平を求めながら、人間の本質、心を中心とした人間性を見逃がしており、時代が進行するほど、彼の考

えは遠のいてゆくだろう。

ところでマルクスが没した一八八三年に、イギリスにケインズが生まれている。彼は第一次大戦後のイギリス経済に関心をいだいた。そ

してまず「貨幣論」、つづいて「雇用・利子および貨幣の一般理論」を発表し、新しい理論体系をたてた。俗にケインズ革命とも言われ

ている。

アメリカ、西欧ヨーロッパ、我が国の経済政策の根幹が、アダム・スミス以来の自由経済を基礎としたケインズ理論による混乱経済であ

ることは周知の事実である。マルクスにかわる革命理論といえるし、自由社会にとって彼の出現は、ある意味で、救世主だったといって

いいかも知れない。

彼の理論を一口にいうと、需要と供給のバランスを政府が受け持つ。景気が上がれば、金融を引き締め、下がればゆるめる。投資支出は

乗数効果によって、実際の支出よりも何倍もの需要を喚起することが出来るというものである。

またケインズは分配の不公平を是正するため高額所得者、金利生活者を批判し、遺産による不平等をある程度否定する。つまり、福祉政

策の導入である。年金、社会保険、老人保護など。福祉制度は一面からみると需要を永続させ、景気を維持させる効果もあり、投資のこ

うした社会化は、今日のイギリス労働党にみられるように、政党の政治理念に深く結びついていった。

彼の考えはいっ時、企業家の批判を浴びた。しかし国家による有効需要を造り出すことが分ってから次第に彼の論にしたがってゆく。こ

とに戦時経済によって国家の支出が企業をうるおし、戦後も冷たい戦争によって国家と企業の関係はいよいよ密着し、企業家は、批判者

から強い支持者にかわっていったのである。この制度によって、経済恐慌も起こらず、失業者も出ないばかりか、餓死者もでないことに

なった。

戦後の我が国経済は、このようなケインズ方式によって、戦前までに見られた景気の波に国民がさらされることなく、高度経済成長に酔

うことができたといっても過言ではないだろう。

ケインズ理論は古典派資本主義の欠陥を補って余りがあったが、経済の成長が進むにしたがってやはり大きな壁に突き当っていく。

ケインズはマルクス同様に、生産力の発展を無前提に肯定している。ケインズによって物価の上下動はおさまったが、しかし下がること

を知らず、上がりっ放しである。

ケインズ以前の通貨は金本位制であった。金の増減が通貨の量を決定して来た。

景気が上昇し、生産、消費が大きくなれば、通貨量も大きくならなければならない。

ところが、通貨量は一定なものだから、生産があがると価格は下がらざるを得なかった。

価格を維持するには生産を沈静化するしか方法がない。そこで、景気の循環は金本位制による通貨量と取引量の差によって動かされると

いうことになろう。

例を貿易にとってみると、国際収支が赤字になると、対外支払いのための大量の金が国外に流出することになる。金の流出は国内での銀

行券流通高(兌換券)が減り、国内経済はデフレになる。失業者があふれ物価は下落する。物価が下落すると輸出ドライブがかかるの

で、国際収支はやがて均衡状態に向かう。金本位制は外国為替相場の安定を保証するが、しかし一面、国内経済が激しく揺れ動く欠点が

あった。

一方、通貨量と共に変動するものに金利があげられる。金利とは一言でいえば金の値段である。その値段は、通貨量が減ると金利が上が

り、増えると下がる。

資産家は金利の上下動によって投資したり、控えたりするので景気変動に一層のはずみをつけて来た。そのため、企業家は景気の上昇過

程はいいが、いったん下降に入ると深刻な打撃をこうむることになる。

ケインズは、ここに焦点をしぼった。そうして景気を上げすぎない、下げすぎない操作を国が行えば、この矛盾は解消するとしたのであ

る。

すなわち、景気が下がれば、公共投資を増やし、新規事業をおこす。道路、鉄道、港湾等に対する投資である。また高所得者の課税を重

くし、社会福祉事業を広め、低所得者に分配し需要を刺激する。

しかしこうした操作は金本位制ではやりずらい。金本位では景気の良し悪しを通貨量が自動的に決めてしまうので、操作のしようがない

からだ。いうなれば金本位は経済成長をとめてしまうのだ。

そこで登場するのが管理通貨である。ケインズ政策の中心を為すものはほかならぬ管理通貨制度であったといえよう。

しかし、ケインズ理論にも欠点があった。前述のように、彼の場合は経済成長を無制限に発展させる政策であり、成長がとまれば、たち

まちにして需要不足が表面化する。いうなればゼロ成長は不可能なのだ。いやが応でも、成長経済を維持し、大量生産、大量消費の使い

捨て経済のメカニズムを回転させていかなければならない。

しかし、世界経済は戦後二十九年を迎えて、成長経済のその前述に暗影を映し出している。

その一例は、地球資源の問題であり、管理通貨によって、世界各地にばらまかれた不換紙幣(主にドル)の洪水による悪性インフレであ

る。インフレの大きな要因として賃金の高騰も上げられる。また、大量生産によって各地に公害が発生し、人身をむしばんでいること等

である。

 

 

 

(一九七四年七月)

    三、

ついこの間までの我が国は高度経済成長の名の下に、国民の大多数がこれに踊らされていたといってもいい過ぎではないだろう。年率一

〇%の成長が仮に今後十年続いたとすれば、日本列島は煤煙都市と変わり、山川草木はみる影もなく、しぼんでしまうだろう。

いったい私達の日常生活にとって物が沢山あった方がいいのか、それとも自然と物との調和を保ち、人と自然の語らいをつづけるべきな

のか、今や人々は重大な岐路に立たされている、といえるだろう。

私達は自然を破壊し富を得たが、自然破壊は人間の存立を危くする。死と引き替えに富を求めるか、それとも、生きて安らぎある生活を

つづけるか、その選択は、ほかならぬあなた自身にあるといえよう。

さて、私達の生活のおびやかし、世界的な規模で発展し続けている悪性インフレについて、一瞥してみることにしたい。そうして、現在

のインフレが、どこから出発し、どこに根があるのか、まったく、新しい視野から展望してみたいと思う。

多くのエコノミスト、評論家は、この小論をみて、冷笑するかも知れない。しかし、いつの日かこうした考えをとり入れ、生産と消費と

いうものを合理化してゆかなければならないと思う。なぜなら、このまま進めば私達の生活はやがて破綻を来たし、混乱、暴動、戦争は

さけられそうにないと思うからである。自国の利益のみを求める経済の運用は、最早、狭くなった世界経済の下では運用し切れなくなっ

ている。

とくに、経済生活は人口の増加と密接不可分な関係にある。年々増大する人口と、その生活を維持するためにも、ある程度の成長経済は

さけられない。しかし、自己保存、足ることを知らない欲望を基盤とした生産と消費の運用は、やがては地球資源を枯渇させ、戦争や混

乱をひきおこす要因となってくるからである。

戦争と経済の悪循環は、広い地球であった時代はまだ救いがあった。しかし、第二次大戦、ベトナム戦争の教訓は、戦争による経済的利

益よりも、その負債の方がはるかに大きなものがあったことを教えている。

今日の悪性インフレの引き金となった第一の要因はベトナムを焼土と化したアメリカの物量投下にあったといえるだろう。

アメリカがベトナムに投じた軍事援助額は約一.三五〇億ドル、経済援助は五〇億ドルともいわれている。

つい一年ほど前、日本が二〇〇億ドル近い外貨を得て好況に酔い、世界からエコノミックアニマルと、白い眼でみられたことは記憶に新

しいが、ベトナムに投じたドルに比べれば、ものの数ではない。

戦争がいかに大きな犠牲を伴ない、そうして物量の大消耗につながって行くかが、これで一目で理解できると思う。

ドルの乱発によって、物と金とのバランスが崩れていった。

大量生産、大量消費の使い捨て経済は、こうした戦争や民需を通して年々拡大され、消費のための生産ではなく、生産のための消費に変

っていったため、資源ナショナリズムが台頭し、石油をはじめとした鉱物資源、食糧、木材等の輸出国は年々輸出抑制の政策をとりつつある。

こうした傾向は今後ますます強まる方向にあり、ことに鉱物資源は化石燃料(石油、石炭など)をはじめとし再生産がむずかしく、再生

産がきくものでも莫大な資金と高度の技術を必要とするため、資源ナショナリズムは強まりこそすれ、衰えることはないだろう。

資源ナショナリズムはアラブの石油にみられたように、買手市場から、売手市場に変わり、需要が増大すれば天井知らずに暴騰する。

石油は軍事に、経済生活に、欠くことの出来ない重要な資源であるが、他の資源についても世界的な形でこうした傾向に拍車がかかれ

ば、残るは、生きるための武力に訴えるしかなくなってくる。丁度、我が国が米、英両国から経済封鎖をされて、太平洋戦争(第二次大

戦)に突入した、あの時を想起すれば、この事情はたやすくのみ込めると思う。

このまま、この事態を放っておくと、日本沈没どころか、世界沈没にもなりかねない。

今日の世界的なインフレは、このような混乱の前兆とみて、いいのではあるまいか。

インフレーションの語源はラテン語のenflare(インフラーレ)から来ている。その意味は『ふくらます』ということだ。

この言葉が使われたのは、一八六一年のアメリカの南北戦争で財政支出が膨張した時を嚆矢といわれている。

アメリカのフィッシャー、イギリスのマーシャルはインフレは通貨膨張によって起こる物価騰貴といっている。つまり、通貨数量説であ

る。

今日のインフレはドルの乱発からはじまったのだから、通貨数量説に原因があるといえよう。

しかし、インフレの要因は、今日では、これだけでは片付けられない。経済的には、これ以外に、いくつかの要因が挙げられてくる。

すなわち、原材料騰貴による輸入インフレ。週休二日制、公害防止等による投資増加がもたらす福祉インフレ。経済構造の変化から起こ

る需要シフト・インフレ。財産の所有主の移転に伴なって価格が上昇するストック・インフレ。たとえば、土地、株、貴金属、絵画、ゴ

ルフ会員権の移転を通じてインフレが促進される。寡占、独占によって需給操作が意のままになる管理価格インフレ。そして前述の通貨

数量説がとりあげる過剰流動性によるインフレなど。

経済成長に伴なって、インフレの種類は、どんどん増えているといえよう。

サテ、ここで経済企画庁がまとめた四十八年版の経済白書をみてみよう。

世界的インフレの進行とその要因について興味ある資料を載せている。

アメリカをはじめ、日本を含めた先進六カ国の、ここ数年におけるインフレの要因が何に起因しているかを、年度別、要因別にあげてい

る。

年度は一九六八年から七三年一〜三月までの五年と三か月間。

要因別では、@国内需要。Aアメリカを中心とした海外需要により拍車がかかったもの。B景気拡大下の賃金上昇。C景気停滞下の賃金

上昇。D輸入コスト上昇。E国際収支黒字による通貨供給増、に分けられている。

そうして、こうした要因によって、物価上昇に結びついた年度を明らかにしている。

各年度を通じて、全体的なトータルでみると、Dの輸入コスト上昇がもっとも多く、二四件。国別ではイギリス七件、アメリカ五件、フ

ランス四件、日本とイタリア三件、西ドイツ二件の順。(注、国別件数は、単年度に生じた要因を一件として数え、物価上昇に結びつい

たもの。)

次がCの景気停滞下の賃金上昇で一七件。内訳はイタリア六件、イギリス五件、

アメリカ三件、西ドイツ二件、フランス一件、日本はゼロ。

次の@の国内需要によるものが、全体で一五件。国別は、日本とフランスが各四件、

アメリカと西ドイツが三件、イギリス一件。

Bの景気拡大による賃金上昇は、全体で一二件。内訳は日本、西ドイツ、フランスが各三件、アメリカ二件、イギリス一件。

最後にEの国際収支黒字による通貨供給増は西ドイツ六件、日本二件の八件となっている。

以上の要因別から、各国のインフレは、ドルによる通貨危機は七三年二月の変動相場制によって抑制されたので、景気拡大による需要ひ

っ迫(@)と賃金上昇(BとC)と輸入インフレ(D)があげられ、その前途の容易ならざることを示している。

 

 

 

 

(一九七四年八月)

世界インフレの要因は前月号で掲げたように、一、輸入インフレ(D)と二、賃金上昇(BとC)三、景気拡大による需要ひっ迫(@)

によるところが目立っている。

これらの要因を、国別の国情に照らして説明すると長くなるので、省略するが、今日のインフレの傾向が経済的にどこから来ているか

は、右の要因から理解がつくと思う。

ここでお断り訂正したいことは、六二頁二行目に「国別件数は単年度に生じた要因を一件として、数え物価上昇に結びついたもの」とし

たが、通算年度が五年と三カ月なのに、要因別ではこれを上回る(輸入コスト上昇ではイギリスを七件とした)件数となったのは七二年

を上期、下期に別けて各一件と数え、七三年一〜三月を一件としたため、こうした件数になった。説明不十分だったことをお詫びした

い。

さて、インフレの要因は前述のように三つ挙げられるが、この三つについて順を追って説明すると、その第一は、六〇年代後半から起っ

たアメリカ国内のインフレであった。

インフレの原因はベトナム戦によるアメリカ国内の需要逼迫と、賃金上昇による価格競争力の低下であった。このためアメリカは輸入需

要を強める事になり、アメリカの国際収支は大幅な赤字が続く事になった。アメリカの赤字は日本、西ドイツの黒字をもたらした。我が

国は二〇〇億ドル近い外貨を得たが、これらのドルは円に替えられ、ダブついた金は土地や株、木材、紙、大豆、石油製品、果てはモチ

米等の買占めに走らせる事になった。我が国のインフレはドルの過剰流動性から始まったわけだ。

第二は、すでにみて来たように賃金の上昇だ。六〇年代以降の主要国の賃金上昇率は、労働生産性の上昇を上回り、景気停滞期に入った

七一年、七二年についても一〇%をこえる上昇となっている。

景気停滞期の賃金上昇にたいする物価上昇の遅れと、完全雇用政策による賃金上昇率の下方硬直性の増大があげられよう。

第三の原因は、輸入品の物価上昇である。今日の経済は一国の自給自足、単独では生きてゆけないようになって来ている。それぞれの国

が分業し、たがいに製品、材料を依存し合って成り立っている。このため、一国のインフレ、デフレは他国に波及しやすい状況をつくり

出している。アメリカがクシャミをすれば、日本は風邪をひくという比喩が底の浅い日本経済を指して言われたが、これは今日といえど

もあまり変わらない。GNP(国民総生産)世界第二位といわれても、日本の経済はアメリカを抜きにしては考えられないからだ。輸出

の三割はアメリカ一国である。あとの七割を約二十カ国が分け合っている。

一位のアメリカと二位のリベリアでは二・七倍(七一年)ものひらきがある。

輸入品の価格上昇について、今日もっとも重大視されるのは、一次産品の価格上昇である。国際原料市況は七〇年〜七一年に軟化した

が、七二年六月に入ってからは棒上げである。

国際商品相場指標の代表的指標であるロイター指数(イギリスのロイター通信社が発表している指数)をみると、一九三一年九月を一

〇〇として、七二年五月頃までは五五〇であったものが、七二年六月から七三年六月までの一年間に一、〇〇〇の大台を記録し、同年一

二月には一、三〇〇台に達している。七四年六月二十日現在では一部投機筋の投げ物があって同指数は一、二五〇台に軟化しているが、

成長経済の原則をゼロやマイナスに、落とさぬ限り、こうした一次産品の需要は増えることがあっても落ちることはない。

ロイター指数は小麦、綿花、銅、スズなど、国際貿易の重用度に応じて一七品目選ばれており、国際商品の動きをみる上に重要な指標の

一つになっている。

さて以上の三点が、今日の世界インフレの経済的要因として挙げられよう。

そこで次に、ではこうした要因は何故起るのか、戦争にしろ、需要の増大にしろ、賃金上昇にしても、どうして起ったか、あるいは起さ

れるのであろうか。その根底にあるものは人間の欲望なのだ。欲望のさまざまな発展が私達の生活環境の変化をもたらし、そうして、自

分の首を自分が締めているという結果をつくっている。人間は欲望のドレイとなっている。欲望に振り回されているのが現代人であると

いえる。

システムの上では企業中心の消費経済にある。消費のための生産ではなく、生産のための消費になっている。会社の利益のためには企業

は血眼になって、新しい製品を市場に送り出す。

自動車、テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機等は耐久消費財である。これらの製品は使い方いかんでは十年でも十五年でも持つはずである。と

ころが、企業側からすれば一商品が十年も十五年も使われたら会社が潰れてしまう。月産五十万台、百万台という商品生産の操業をとめ

たら、会社は一日として成り立たないのだ。つくり出された商品は、否でも応でも買ってもらわなければならない。購買心理をあおるに

は、目先をかえて新製品をドンドン作る。モデルチェンジをはかっていくのだ。

需要をかき立てるには宣伝しかない。人々の欲望を刺激する宣伝によって半年前、一年前の商品を使っていては恥ずかくて仕方がないと

いう雰囲気をつくり出すのだ。

今日の経済の歯車はマーケッティング技術を支柱とした拡大再生産に支えられているのである。人々はそれに乗って生活している。そし

て、次々と登場する新しい商品を所有するために、夫婦は共稼ぎを強いられている。

アメリカのサラリーマンは大抵、副業を持ち、朝早くから夜遅くまで働き通しという。つつましく、平凡な生活に耐えるなら、夜遅くま

で働き、金を求めなくてもいいはずである。ところが、欲望をそそる商品を所有するには、こうしないと買えないというのだ。

隣人がテレビを買えば自分も持たぬと劣等感が家族にまで及ぶ、現在の日本がこうした空気をつくっており、これがまたGNP世界第二

位にのし上げた原動力になっている。こうして、社会が経済的に発展?すればするほど、めまぐるしく、せわしく、動き回らなければな

らない仕組みになっている。

今日では五年先、十年先のことは普通では予測がつかない。老舗といっておっとり構えていたら生きのびることが出来ない。立派な店舗

を構えていても、地下鉄が出来、高架がつくられ、道路が広がって行く時代には、人の流れが何時どう変るか分からないからだ。

今日の世界インフレの演出者は誰かというと、ほかならぬ企業である。株式会社という企業集団がインフレをつくり出しているのだ。勿

論、企業を支えているのは人間であり、人間を抜きにしては何も語ることは出来ないが、人々の生活の基盤が企業を中心に動いているの

で、企業という利益第一の組織に人々がふり回されているといえよう。

そのインフレも昔の場合は生産規模が小さく、戦争とか放任経済による矛盾が作り出してきたが、今日のそれは生産規模の拡大によっ

て、地球資源の乱獲が高まり、その資源の先が見えてきたために、需要と供給のギャップがインフレを招いているのである。

経済企画庁の資料にもそのことがハッキリと裏づけられており、インフレの各国の共通的要因は輸入資材の高騰、つまり、生産に必要な

原材料が年々うなぎ登りに上がっているという事実。それがアメリカをはじめ西欧先進国、それに日本にも共通していえる要因をなして

いるのだ。

輸入資材の高騰は需要増からきており、その需要は企業の拡大生産に原因がある。生産を縮小すれば失業者が巷にあふれ、社会不安が巻

き起こるので、一度動き出した拡大生産の仕組みは、そう簡単には止めることは出来ないのだ。ここで現代のジレンマがある。

 

 

 

(一九七四年九月)

ひと頃、適度のインフレは企業活動を助け、成長経済を維持するということで、インフレ是認論が大手を振っていたが、昨年六月頃か

ら、顕在化した悪性インフレの波によって、インフレ是認論は一ぺんに吹き飛んでしまった。

悪性インフレは昨年十月の中東戦争による石油危機によって頂点に達したが、しかし、それ以前からジワジワと押し寄せ、石油危機がな

くとも、インフレは日本を襲っていたのである。ただ石油危機によって、一度に表面に吹き出たといえよう。

日銀発表による六月上旬(昭和四九年)の即売物価指数は前年同月比で実に三五・二%の上昇となった。政府の総需要抑制策と金融引締

めで物価は一応沈静化の方向にむかっているが、わずか一年足らずで即売物価が三五%も上がるなどということは戦時ならともかく、平

時では異常事態ということがいえる。

前月号でも触れたように、インフレの演出者は誰かといえば、それは株式会社という企業である。企業集団がインフレを生み出してい

る。拡大された生産設備はそうやすやすとは縮小出来ないし、縮小すれば失業者が巷にあふれ、社会不安が表面化する。

今日の政治の目標は社会福祉の拡大と完全雇用であり、これを抜きにしては政治は語れないだろう。国民の側もそれを望み、その能力の

ないものは政治の場から姿を消す以外にないわけだ。

国民の大多数は企業という利益追及の組織の中で生活しているので、企業がマイナスになる政治は手のつけようがない。政治の場は、国

民の経済生活が如何に豊かに円滑に進められるかにかかっており、そのためには、企業活動が十分その能力が発揮しうる環境をつくり、

これに参加している人びとの経済生活の安定を図ることが目標になってくる。外国から日本株式会社と悪口をたたかれても、これを育

て、維持しなければならないのだ。

企業はこうした国家の保護の下に発展し、今日に至っているのがソ連、中共などの共産社会を除いた西欧先進国の経済制度だが、しかし

企業は資本の参加によって運営される利益追求のいわゆる法人組織であり、利益がなければ資本は逃げてしまう。つまり、企業は利益を

産むことによって成り立っている。

政治の目標である公共の福祉とこうした利益追求を第一におく経済活動とは、しばしば衝突をくりかえし、このためさまざまな規制を国

家が行い、監視をつづけている。しかしながらアダム・スミス以来の考えが根底にあるかぎりは、経済活動は水が低きに流れるように資

本の集中、利益の独占、排他的自己保存のメカニズムはさけられないのである。

 

今ここで多国籍企業というものについて概観してみよう。

多国籍企業とは、一般的には世界企業とも呼ばれ、当初ヨーロッパを中心に設立され。シェル石油(アメリカ)ユニリーバ(オランダ、

イギリス)等があげられるが、今日ではヨーロッパなど先進国に子会社を持ち、多角的に経済活動を展開する米系企業を指している。た

とえばGM(ゼネラルモーターズ)スタンダード石油、フォード、モービル石油、U・Sスチール等々、そのほとんどがアメリカ系で、

日本では、新日本製鉄、日立製作所などが世界企業三十位のランクに顔をつらねている。

目的は市場の確保のほか、労働力と生産資源の利用を狙っているのが特徴だが、ここへ来て、進出先国と問題を起こしつつある。それは

母国の本社に経営が左右される事もあって、進出先国の政治理念(国家目的)と相反する面が出て来ているためである。

たとえば、本国の本社が製品の値段を上げれば子会社も上げる。本社がストをすれば、子会社もストをやる。規模が小さいうちはまだい

いが、今日の多国籍企業は、進出先国の経済の五〇%、六〇%に上がる大企業に成長しているところもあって、製品の値上げは、その国

の物価政策に影響を与え、ストは労働政策にも関係してくるのである。

国内産業の五〇%以上が外国資本によって牛耳られるようになれば、その国の経済政策ひいては国民生活は外国に依存せざるを得なくな

り、形を変えた一世紀前の植民地化とかわりはない。

いな、多国籍企業の進出によって、相手国の経済を握れば、これは新たな植民地化であり、我が国に対する東南アジア諸国の反日思想

も、こうした海外投資の行き過ぎから生じつつあるといえるのではあるまいか。

多国籍企業は今日アメリカを筆頭に西ドイツ、イギリス、フランス、オランダ、日本などその数は三百社から四百社にのぼり、その海外

依存率は次第に大きくなっている。スタンダード石油、モービル石油、キャタピラーなど主な世界企業の海外活動は当該事業体の四〇〜

八〇%にも達しており、その生産額も三千億ドル(一九七一年)にものぼろうとさえいわれている。

こうしたことから昨年秋の石油危機はメジャー(国際石油資本)に対するOPEC(石油輸出国機構)の反逆ともいわれ、国際間の緊張

が相次いで起こっている。

多国籍企業は本社のある本国でさえ押さえがきかなくなっている。アメリカの国際収支は一九六〇年代から悪化をはじめた。これは大企

業間の海外投資がさかんとなったので、ベトナム戦争と併行して、六〇年代後半にはアメリカは大幅な赤字を出すに至った。あわてたア

メリカ政府は海外投資を規制しはじめたが、このことが海外で生み出された余剰利益が本国に戻ることをこばみ、ヨーロッパにとどまっ

たため、ユーロ・ダラーとなってヨーロッパ通貨を圧迫し、通貨不安を引き起こす原因ともなったのである。

このような多国籍企業は、今日ではさまざまな問題を惹起せしめている。また、こうした企業活動は国の制約を離れて独り歩きをはじめ

国境のない第三帝国を築きつつあるといえる。企業の自由競争はたしかに生産を拡大し、消費生活を広げて行くが、その行きつくところ

は、資本の集中であり、利益の独占である。そうして企業群のピラミットの頂点がいわば多国籍企業といえるし、企業の目指すところは

かつての我が国の財閥、企業の系列化につながってゆくといえる。

こうみてくると、ひと度、組織された企業は、それ自体運動をつづけ、生産は生産を呼んで、拡大再生産の自律運動は天井知らずにひろ

がってゆくのである。

話を前に戻して、今日の悪性インフレの要因は、前月号にも触れたように、一、輸入インフレ、二、賃金上昇、三、景気拡大による需要

のひっ迫の三点にあったが、その根底に流れるものは企業の拡大再生産にあって、これら三つの要因は、いわば現象的に表面に表れた原

因であり、問題の核心は企業活動そのものであり、更に、つきつめれば人間の限りない欲望に根があるといえるのである。

つまり、資本主義自由経済はアダム・スミスのいう個人の利益追求にその経済活動の基礎を置いており、企業は、その活動を助ける組織

だからである。

そこで繰り返すが、人間の限りない欲望を助長するような制度なり組織というものは、ゆきつくところは破壊であり、闘争につながって

しまう。

人間の欲望はこれでよいとする限度を知らない。放っておけばどこ迄も広がってゆく。その欲望の展開が今日の経済社会といえようし、

アダム・スミス、ケインズをふまえた、混乱経済は無限の発展と、豊かな社会をつくると予想されたその夢も、地球資源の枯渇という、

つい二年ほど前まで考えられなかった非常事態を迎える事によって、資本主義社会も、ようやく先が見えて来た感が深いのである。

では反対に社会主義ならどうかというと、人の心はどんな強権をもってしても、これをしばることは出来ないし、やがては反体制運動が

起こることは歴史が証明している。

 

 

 

 

(一九七四年十月)

 朝日新聞七月二〇日付の記事によると「ソ連経済は再び低迷の兆し」の見出しで次のように報じている。

 ソ連中央統計局がこのほど発表した六月の工業生産は、昨年同月比伸び率で六・四%と今年上半期で初めて六%台に転落した。また労

働生産性の伸びも同四・四%と一〜五月の七・二%から急角度に落ちた。各省別に見ると、六月の計画目標を達成できなかった省がガス

工業、石炭、重機械、木材加工、セルローズ、製紙、建設機械、道路機械、公益機械製作の六省にのぼっている。特にセルローズ、製紙

工業省は二、三月も月刊目標が未達成に終わっており、ブラーツク木材コンビナートの製紙パルプ工場がこの六カ月間に生産目標を六万

一千トンも下回ったほか、アストラハン・紙・パルプ・コンビナートでの工場管理者と従業員とのいざこざなども悪影響を及ぼしたと指

摘されている……。

 記事はこのほか細かく報じているが、企業活動が国営になり、予算や命令、組織が複雑に入り組んでくると、個人の自由活動の余地が

少なくなり、生産目標は下限に押さえられ生産性は急角度に落ち込んでくる。

 我が国の国鉄は日本最大の企業として知られている。従業員四十五万人をかかえ、北は北海道から南は九州の果てまで、その鉄の帯は

約二万キロに及ぶ。戦前までは国営とはいえ独占の強みで黒字を計上していたが、戦後は自動車の発達と内航海運のピストン輸送から赤

字に転落した。経営は国営に準じた公社(パブリック・コーポレーション)として昭和二四年、駐留軍の強い要請で衣替えしたが、組織

の肥大化と、人事の硬直化で時代に即応した転換がきかず、マンモス企業であるが故に国の要請も強く、こうしたことから自己資本(一

兆五八九六億円)を上回る一兆六千億円(四十八年度末国鉄監査委員会報告)にのぼる累積赤字を出すに至り、利子補給やさまざまな国

の援助をうけねばやってゆけぬありさまとなった。

 我が国の国鉄とソ連の国営企業とはさまざまな点で比較する方が無理だが、公社の発想はもともとソ連の独立採算制度を模して考えられたもので、それだけに何か共通的なものがうかがえる。

 ソ連の場合は革命後五十四年(革命一九二〇年)を経、国民の間に不満と不信がめだち始めており、官僚国家の弊害が産業活動の上に

現われて来た、といえなくは無いだろう。

生産を上げるためには残された手段は強権であり、強権と生活の規格化は過度の管理社会ではさけられぬ宿命といえよう。

 人びとの心が人生の目的を知り、その役割に任じて平等互恵の、調和された物心両面の経済社会を望むならば、生産消費のアンバラン

スは起こりようがないだろう。だが、物質至上の思想を背景に社会主義ないしは共産社会を推し進めようとすると、もともと欲望の何た

るかを知らずに動いているのだから、いつしか支配と被支配のシステムが、出来上がり、官僚化の弊害はさけられないものとなる。

 こうみてくると、社会主義も一つの壁に突き当たって来ているといえる。

 さてインフレの原因とみられる資源問題について若干触れてみよう。

 資源問題が今日これ程世界的な視野で騒がれて来た一つの理由は、例のローマ・クラブの「人間の危機」レポートが発端になってい

る。日本でも翻訳され、一九七二年五月にダイヤモンド社から出版されている。

 ローマ・クラブは一九七〇年三月、スイス法人として設立された民間組織で、世界二十五カ国、約七十名の会員から成り立っている。

メンバーは、科学者、経済学者、教育者、プランナー、経営者、などから構成され、公職者は含まれていないのが特徴である。したがっ

てイデオロギーや国を代表する色彩が無いのが特徴だが、先般、東京で開かれた同大会では政治的発言がめだち、メンバーの足並みの乱

れがあったのは遺憾だった。

 クラブの目的は最近とみに深刻な問題になって来た天然資源の枯渇化、公害による環境汚染の進行、発展途上国の爆発的人口増加、軍

事技術の進歩による大規模破壊の脅威など人類の危機を如何にして回避するかを探索することを目的としている。

 さて、同クラブが発表している地球の鉱物資源の耐用年数を挙げると次の通りである。

            幾何級数的耐用  現在埋蔵量を五倍にした

     資 源    年数指標(年)  場合の指標(年)

   アルミニュウム    三一        五五

   クローム       九五       一五四

   石 炭       一一一       一五〇

   コバルト       六〇       一四八

   銅          二一        四八

   金           九        二九

   鉄          九三       一七三

   鉛          二一        六四

   マンガン       四六        九四

   水 銀        一三        四一

   モリブデン      三四        六五

   天然ガス       二二        四九

   ニッケル       五三        九六

   石 油        二〇        五〇

   プラチナ属      四七        八五

   銀          一三        四二

   錫          一五        六一

   タングステン     二八        七二

   亜鉛         一八        五〇

 ここで数字のとらえ方について説明すると幾何級数的耐用年数指標とは世界経済の成長が年率七%で進んでおり、そのため資源使用量

は年々加速度が加わり、このテンポで進むと現在地球上で発見されている資源埋蔵量は、アルミは三十一年、金は九年しか持たないとい

うのである。

 たとえばクロームの埋蔵量は約七億七千五百万トンといわれ、現在の年間使用量(百八十五万トン)で行くと、そのストックは約四百

二十年間という計算である。ところが世界のクローム消費は年二・六%で増加しているのでこれでいくとわずか九十五年しか持たないと

いうのである。また、下の数字はこの埋蔵量が今後各地で発見されて、仮に五倍に増加したとしても百五十四年で底をつくというのであ

る。

 このようにして百年以上ストックが可能なものは、幾何級数的耐用年数指数では僅かに石炭のみで経済危機をもたらした石油にあって

は後二十年しか持たない事になっている。仮に未発見の石油が現在の五倍程になったとしても五十年で底が尽きるという訳である。

 経済の成長が資源ストックを食い潰すということを今日ほど切実な問題としてクローズアップされたことはかつてなかっただろう。化

石燃料に至っては、再生はむずかしく使ってしまえば元には戻らないことを知るならば、経済の成長に何等かの規制を加えなければなら

ないことがこの数字からもうかがえる。

 ローマ・クラブの数字については各種の見方があって悲観的すぎるという議論もある。が、しかしストック年数に多少のズレはあった

としても、その事実は無視するわけには行かないだろう。いずれはその時がやって来て代替物を求めなければならない。仮に、技術の進

歩に期待し、代替えによる不足分を補うことを考えたとしても、技術には莫大な資本と労力が必要だし、技術の進歩にも限界があること

を知る必要があろう。

 技術については、また後で触れるとして、右に見たように、ローマ・クラブの発表によって地球資源の重要性があらためて認識され、

それによって資源ナショナリズムの下地がつくられ、市場は買い手から売り手に、ここ一、二年の間にがらりと一変してきたのである。

その代表的指標が既述したようにロイター指数などに表われており、世界をインフレに巻き込みつつあるといえる。

 

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(一九七四年十一月)

 資源問題についてもう少し触れてみよう。ここ一、二年の我が国の物価急騰は、戦後経済においても、国際的に見ても異常であったと

いえる。

わが国の場合はこれまで消費物価は上がっても、卸売り物価は比較的安定していた。大企業は生産性の向上によって賃金引き上げを補っ

て来たし、賃金引き上げを価格に転嫁しなくてもやってこられた。

卸売物価が上昇に転じたのは昭和四十七年八月頃からで、翌四十八年八月からは棒上げとなった。四十五年平均に対する上昇率でみる

と、四十八年七月には西ドイツを抜き、十二月にはアメリカ、イギリスを追い越し、先進主要国ではインフレと破産状態に悩むイタリア

に次いだ上昇率となった。消費者物価については、これまで最高のイギリスを抜き、ついにトップにおどり出ている。

いったいこの原因は何なのだろう。

日銀調査によると、ロイター指数の急騰と歩調を合わせて卸売物価指数が上がっているのである。つまり、輸入物価指数と同一歩調で上

がっている。

このほど発表になった経企庁の四十九年版(四十八年度)経済白書も、物価急騰の約六割は、原油をはじめとする一次産品の市況高騰に

よると分析している。残る四割は国内の需給ひっ迫によるとし、賃金の影響はこの時点ではさほど大きくはないと見ている。

これを時期的推移でみると、四十八年一月から三月には、四十七年秋口からはじまった海外一次産品価格の急騰の影響が出はじめ、四十

八年度に入って国内需給のひっ迫が高まり、工場の事故や用水不足で物不足が表面化した。四十八年秋に入るや例の石油危機の発生を契

機として海外要因が再び勢いを増し、国内需給要因としてはインフレ心理が拡大し卸売物価をいっそう持ち上げる原因を作った。

もちろん、この物不足現象は、化学工場等の相次ぐ爆発事故、用水不足だけとはいい切れず、一部商社の買い占めも物価高騰に輪をかけ

ている。

ともあれ、今日の物価高騰の大きな要因は、資源ナショナリズムの台頭によって、もたらされたことは否定できないだろう。そうしてそ

れは、石油危機を契機として、一層顕著になりつつある。

そこでいったい、資源ナショナリズムというものが、どうして、生じてきたかである。すでに述べたように、資源の枯渇にその理由がみ

られるが、資源ナショナリズムは現実的には、巨大な国際資本に対する抵抗として表れて来ているのである。一国の経済の中で、多国籍

企業が占める割合が、国民所得の五〇%、六〇%、否それ以上に昇るようでは、もはや、独立国とはいえず、しかも有限な資源は、使っ

てしまえば、いずれは枯渇し、枯渇後はどうして生活していくか、ということを考えれば、当然、自衛手段に訴えてくるようになる。

企業の国営化、生産調整、輸出の規制、価格の引き上げ等は、これら資源国の残された手段になってくる。

ちなみに、通産省調べによる現在設立されている生産国同盟を挙げてみると次の通りである。

OPEC(石油輸出国機構)加盟国

―  ベネズエラ、サウジアラビア、イラン、クウェート、カタール、インドネシア、

リビア、アブダビ、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル、イラクの十二カ国

OAPEC(アラブ石油輸出機構)加盟国

―  サウジアラビア、クウェート、リビア、イラク、カタール、アブダビ、

アルジェリア、バレーン、シリア、エジプトの十カ国

CIPEC(銅輸出国政府間協議会)加盟国

―  チリ、ザイール、ペルー、ザンビアの四カ国

IBA(ボーキサイト生産国機構)

―  ギアナ、ジャマイカ、シエラレオネ、スリナム、オーストラリア、

ユーゴスラビア、ギニアの七カ国。

UPEB(バナナ輸出国同盟)

―  パナマ、グァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、コロンビア、

エクアドルの七カ国。

水銀生産国グループ 加盟国

―  アルジェリア、スペイン、メキシコ、ユーゴスラビア、トルコ、の五カ国。これにカナダがオブザーバーとして参加している。

このほか鉄鉱石、錫、天然ゴム等の生産国が同盟を結ぶ動きが出ている。

右に見るとおり、その資源産出国はいずれも発展途上国である。しかしその資源はいずれも国際経済のうえで欠くことのできないウェイ

トを占めている。

ところが、これら資源保有国における探鉱生産、消費国への資源供給は、寡占的支配体制を確立している巨大国際資本である。

たとえば銅についてみると、七二年時における自由世界銅鉱石生産の四四・七%はアングロ・アメリカをはじめ、ケネコクト、アサル

コ、ニーモンドといった大国際資本が占めている。

アルミニウムは七一年時で自由世界生産の六八・九%、ニッケルに至っては、七〇年時にインコ一社で五三・八も占めている。

いかに、国際資本が、国際経済に占める役割が大きく、資源保有国の不満をもたらしているかが分かる。

ことに発展途上国の経済発展の遅れは、年々開くばかり、いわゆる南北問題が今日、国際経済の上において、大きく立ちはだかってきた

のも、こうした国際資本の寡占化体制による一国の経済支配が見られるからである。

資源ナショナリズムは、自国が供給する資源を利用して高度成長を遂げている先進諸国に対する不満と反発であり、したがってその資源

をテコとして自国の経済発展をはかろうとする動きを示すのである。

石油をはじめとした産出国同盟は、国際資本の支配から脱皮して、自国の経済自立を図ろうとするものであるが、一方において、これら

の資源価格は、これまでは先進国の景気に支配されて来たので、産出国が同盟を結ぶことによって、そのシェア拡大をはかるというネラ

イもあるわけである。そうすることによって、買手から売手市場に方向を転換し、価格の安定と、自国の経済を有利に導くことが考えら

れてくるわけだ。

資源保有国のこうした動きは、我が国にとっては致命的打撃を与える。我が国は原材料を輸入して、これに加工を施し、付加価値を生み

出し、輸出によって生活している。

輸入材料が高騰すれば、その影響は石油にみられるようにモロにかぶり、価格の高騰、輸出不振につながってくる。

資源ナショナリズムは我が国にとって大きな痛手である。

四十八年度にみられるような動きが今後も続くとすれば、我が国の経済は立ち行かなくなってゆくだろう。我が国の資源は人的資源と勤

労と技術である。この三つの力が、GNPを世界にのし上げた一面の原動力といっていい。

しかし、原材料の高騰によって、インフレが加速されれば、輸出によって支えてきた産業構造は一朝の夢となり果てて行こう。

もっとも資源保有国は我が国の技術を必要とし、自国の利益のみ考えては、これまた経済の安定は期し得ないだろう。

文明は、生活を均等化し、相互の結びつきをいっそう緊密にしてゆくものだ。それだけに何かか少しでも狂うと、全体の機能をマヒさせ

るモロさを持っている。早い話、ガスや電気がとまれば、都会生活は明日にも暗黒と化し、生活の機能はとまってしまう。これと同じよ

うに、世界経済の機能も自国の利益のみでは成り立たなくなっているのだ。

しかし、多国籍企業と国際資本は、こうした機能にこれまで確かに貢献をして来たことは否めないが、次第にその力を増すことによって

自国の制約すら拒否し、どの国にも属さぬ、第三帝国として世界経済を撹乱に導いたことは、これまた見逃せない事実であると言えよ

う。

  

 

 

(一九七四年十二月)

今日の悪性インフレの原因はどこにあるかについて、本誌七月号から十一月号の五回にわたって、大雑把ではあるが見てきた。

その結果、インフレの原因は、さまざまな経済的要因が重なりあって作られてきているが、ここ一、二年のもっとも大きなファクターは

石油をはじめとした輸入原材料の暴騰ということが明らかになった。

そうしてまた、その原材料を騰貴させた遠因はどこにあったかといえば、国際大資本、多国籍企業の弊害がこれらの資材を高騰させる大

きな作用を及ぼしていたことが分かってきた。

つまり、インフレをつくり出している原因は、企業エゴによる利潤追求によるところが大きく、このためインフレを終息させるには、こ

れに何らかの制約または視点を変えた、まったく新しい対策なり、制度なりを考えなければならないことが、うすうす理解されてきたと

思う。

アダム・スミス=ケインズ方式では、地球はやがて公害にも襲われ、過度のインフレによって、やがて人類の生存すらあやしくなる、と

いうことも感じられてきたと思う。

インフレについてはいろいろなとらえ方があるが、要はその根底に流れるものは人間の欲望の開放であり、それが企業活動に取り入れら

れ、利益の追求、そうして、利益の分捕り合戦が年を追うごとにエスカレートしてきているところにあるわけである。

たとえば企業内についても労働組合の組織化、巨大化によって賃金の引き上げがエスカレートしており、これが物価にハネ返り、インフ

レを助長している。

近代経済社会は市場メカニズム、価格メカニズムを支柱として動いている。ところが、そのメカニズムの有効性が失われ、価格に信頼性

がなくなってきているところに問題がある。

あるエコノミストは今日のインフレについて、こういう見方をしている。

今日のインフレは大衆組織による民主主義である。組織化された民主主義はどこへ突走るか。それはより多くのパイ(所得)の分捕りに

向かって走り出す。

世界中どこに行っても組織化が行なわれ、自分の所得の増大を狙って戦術を練り、組織力にものをいわせ、相手がきかなければストをや

る。ニューヨークでは巡査のストまで行なわれている。

今日の民主主義の考え方はどこにあるのかといえば、労組も、農民も、教職者も、医師も、自分の欲望を抑えたりすることは、人間性に

背く封建社会的行為であり、欲望の解散こそヒューマニズムの現われとみている。

経営者でも政治家でも、頭の古い連中は反民主的封建的な人間だから、こうした連中は組織にものをいわせ、ひきずり降ろさなければな

らない、というわけだ。

こうして賃上げはとめどもなくエスカレートし、今年の我が国の春闘でも三二・九%という大幅なものとなった。こんなことを毎年くり

返したとすれば、十五年後には一人当たりの年間賃金はゆうに一億円にふくれ上がるだろう。

これではインフレにならないのがおかしいではないか、というのであるが、たしかに、現在の社会は組織化された大衆民主主義であり、

いわば徒党を組んで、自己の欲望を果たそうという動乱の世といえるだろう。

 

さて、今月は、過度の利益追及によってもたらされる公害の問題について若干触れてみたい。

つまり公害が私たちの生活にどのようにハネ返ってきているか。

一昨年の六月、ストックホルムで、国連人間環境会議が開かれ、環境汚染に対して

『人間環境宣言』というものが発表された。

『われわれは、歴史の転回点に到達した。いまやわれわれは、世界中で環境への影響に対しいっそう思慮深い注意をはらいながら行動し

なければならない。無知、無関心であるならばわれわれの生命と福祉が依存する地球上の環境に重大かつ取り返しのつかない害を与える

ことになる』

というもので、環境汚染の問題はこの宣言にもあるように今や重大な局面にまで発展してきているのである。

ローマクラブの報告を参考にしよう。

まず人間にとって欠かすことのできないものはエネルギーである。また富を表わす指標の一つは、一人当たりエネルギー使用量である

が、現在この使用量は年平均に三・四%(人口成長を含めた総量)増加している。

人類の工業用エネルギー生産の九七%は化石燃料(石炭、石油、天然ガス)と使っている。これらの燃料が燃焼されると、他の物質とと

もに大気中に炭酸ガスが放出される。最近では年に約二百億トンの炭酸ガスが化石燃料の燃焼から発生している。

大気中の発生率は年約〇・二%の上昇を示しているので、そのうち半分は大気中に、残りの半分は主として海洋の水面で吸収される。化

石燃料から原子力に変わることがあるとすれば、大気中の炭酸ガスの増加をとめることが可能である。

しかし、エネルギー使用には副次的な影響が出るものであり、これはエネルギーの種類に関係がない。

すなわち、熱力学の法則によれば、人間によって使用されるエネルギーのすべては最終的に熱の形でまき散らされる。この結果、局地的

には放出される熱、あるいは熱汚染が、水棲生物の均衡を破壊する原因となる。

四千平方マイルに及ぶロスアンゼルスの盆地に毎年放出される廃熱は、大地に吸収される太陽エネルギーの五%にのぼるといわれる。現

在の成長率でいくと排出熱は西暦二〇〇〇年までに、降りそそぐ太陽エネルギーの一八%に達するものと見込まれている。

一八%というと、普通なら三〇度ですむところが三五・四度に高まることになり、そうなれば河川のプランクトンが死滅し、それを食べ

ている小魚、さらにそれを食べる魚まで死滅してしまうことになる。

現に、海流の流れの弱いバルト海は有機性廃棄物の蓄積が増えた結果、海水中の溶解酸素量は次第に減少し、海底部の海水中には溶解酸

素濃度がゼロとなり、海棲生物が存在することができなくなったと伝えられている。

このほかDDT、水銀、鉛、カドミウム、PCB(ポリ塩化ビフェニール)や放射性廃棄物等も汚染物質として、最大の関心を払ってゆ

かなければならないことは、すでに我が国の公害病患者の続出によっても明らかである。

西暦二〇〇〇年には現在の人口は約七〇億人が見込まれ、これらの人々がアメリカと同程度の高い(一人当り)GNPを持つとすれば、

環境にかかる総汚染負荷量は、少なくとも現在の十倍になるものとみられる。

そうした場合、地球の自然システムは、このような大規模な撹乱に耐え得るかどうか、甚だ疑問とならざるを得ないわけである。

公害の問題は、これをはっきりとつかめるものもあるが、大部分は大気中に拡散し、それが自然や人体に、将来どのような形で現われて

くるかは、現代化学では未知数である。がしかし、局地的には非常に明確に現れてきていることも事実であり公害問題は、経済の成長に

比例して、ますます大問題になってきているのである。

さて、公害は経済成長に比例して大きくなることは、前述の説明で十分理解ができようし、我々の身近な生活環境をふりかえってみて

も、年々大気は汚染され、地盤は沈下し、水質汚濁もひどくなる一方である。

ローマ・クラブもその点を指摘し、今後これ以上の経済成長は取り返しのつかない危機をはらむと警告しており、経済生活の新しい転換

を求めている。

すなわち、最小の費用で最大の効果を上げようとして、これに企業のエゴが、露骨に、現われ、その結果は地球資源の枯渇をうながし、

公害をまきちらし、インフレをつくり出しているのである。

 

 

 

(一九七五年一月)

   四、

これまでインフレ問題、公害の問題を述べて来たので、生産と消費を結ぶ流通問題についてふれてみたい。

というのは流通問題は物価高の最大の原因と見られており、ドラッガー(アメリカの経済学者)をして、流通は経済の暗黒大陸といわし

めているように、学問的にも経済研究の暗黒大陸をなしていると思われるからである。

すなわち近代経済学は、生産こそ価値ある活動とするマルクス経済学から一歩も出ておらず、流通問題は未開発の分野といってもいいか

らである。

さて理論的問題はあとにゆずるとして、まず現実的に流通経費が価格に占めるウエイトはどの程度になるかについてみると、たとえば、

カラーテレビの原価はただの二万円、

ウイスキーは三十円にすぎない、また三千円の万年筆がなんと百五十円といわれている。果たして実際にそうなのであろうか。

先日、NHKが牛肉と野菜の産地から小売までの流通マージンについての追跡調査を実況放送していた。その追跡調査の結果はどうだっ

たかというと、正確な資料は何ひとつ集まらず、追跡レポートは全くお手上げの形となった。

牛肉も野菜も産地は過剰生産であり、したがって小売価格は安くなってもよい筈のものだが、一向に下がらず、むしろ値上がり傾向を示

している。

そこで、NHKはどこでどう値がつり上げられているか、まず産地の声をきき、次に第一次卸、第二次卸、と順次上がっていって、最後

に小売店で仕入値段をつきとめるわけだが、どこの店にいっても誰一人はっきりした数字を示してくれなかった。比較的はっきりしてい

たのは産地側であり、このため産地側の値段と小売価格の幅をみると二・五倍から三倍になっていた。

こうした調査は、経済企画庁、通産省、総理府などでも度々行なっているが、正確な数字はどうしてもつかめない。

そこでその理由についてあげると生活必需品については価格がたえず変動しており、ことに野菜、鮮魚などは毎日ちがう。毎日ちがうか

ら、そのちがった値段で小売価格を決めたらよいと思われるが、仕入れたものが即日全部売れるとはかぎらない。もう一つの理由は卸値

段のように、小売値段を毎日仕入値段に合わせていたら、値段が高くなったときはお客が寄りつかず商売にならなくなってくる。

こうしたことから、仕入値段の高低にもかかわらず、小売値段は一定水準以下には落とせない、ということになってくるようだ。同じよ

うなことは問屋や卸についてもいえてくるし、このため、消費価格は一向に下がらないということになるわけである。

メーカー品についてはあとで述べるが価格の硬直性がみられる。

国際的にみて、我が国の流通機構の特徴をあげると、まずその第一に企業規模の零細性にある。小売業の一店当り従業員数は、昭和四十

七年度で三・四人(全国平均)となって

いる。これがアメリカだと五・三人、イギリス五・一人、西ドイツ五・四人である。

店舗の零細性と店舗数が他国と比べ多いということは流通経費の増大をうながすことになる。ことに人件費が集中的に多くなろう。

一方、我が国の場合は中間取引の比重が大きいことである。小売業に対する卸売業の比率を販売額についてみると、アメリカ一・五倍に

対して、日本は三・八倍と大きい。日本の経済機構は問屋を中心に発展してきているので、小売価格に占める流通経費の比重がどうして

も大きくなってくるようである。

その典型的な存在が我が国の総合会社である。すなわち第三の特徴として、一九七〇年の販売額(経済企画庁調査)についてみると、日

本のそれは一〇三・八億ドル、イギリス一〇・六億ドル、オランダ九・五億ドル、イタリア五・二億ドル、フランス三・七億ドルとなり

日本の総合会社の販売の巨大さが目を見張る。

こうした日本の流通機構の特徴は、中進国の階段において、過剰労働力を吸収しながら貿易を発展させ、経済成長をはかって来た歴史的

特徴ともいえる。

しかし、インフレがここまで高進し、消費者物価、卸売価格が世界第一、(イタリアを除く主要五カ国)ということになると、流通経費

を黙って見過ごすわけには行かなくなってくる。

総合会社についてもう少し触れてみると、その機能拡大には貿易の急拡大がある。商品別取扱いシェアをみると、経済企画庁調べで輸入

品四八・四%、輸出品三四・〇%、国内品一三・七%を三井物産など六大商社が扱っている。これが一次産品の輸入になると食糧は約七

五%、大豆約八〇%、主食用大麦七八%という大きさである。五〇%以上にのぼるものは、飼料用大麦、原糖、コーン、マイロにわたっ

ている。このほか、木材、綿花についても三〇%〜四八%までが六大商社が受け持っている。

いかに商社の機能が巨大であり、戦後貿易に果たした役割が大きいかがうなづける。

こうしたことから、我が国の総合商社は情報提供の機能、商品、市場開発機能、需給調節機能などを持つように、産業構造の変化のなか

でシステムオルガナイザーとしての役を果たしているといえる。

商社の役割としてもう一つ見逃せないことは、投融資機能の拡大と、リスクの増大に対する負担をあげることができる。

上場千五百二十八社の内、六大商社が特殊順位十位迄占めている企業数はなんと五百八十八社、つまり三八・五%に達し、また対外投資

件数のうち三七・一%(六百五十八社)は六大商社が関係している。

国内関係の子会社数は実に六百七十四社に及んでいる。

こうしたことから投資収益についてみると、商社の資金コストは、製造業をやや下回るといわれるが、投融資利回り水準は製造業をはか

るに上回っているといわれている。

四十七年後半以降、四十八年度にかけて、流通過程における投機的行為が目立つようになった。

買占、売り惜しみが生活必需品にまで集中したため、国民生活全体に大きな影響を与えることになった。

自由経済下にあっては、投機機能が果たす役割を無視することは出来ないが、企業の目的が利潤の追及をめざす以上は、どうしても行き

過ぎてしまうことになる。

資本と企業の行き着くところは、さきに国際資本、多国籍企業にみたように、その弊害はさけられない。

ここへ来て、石油暴騰による世界経済の混乱に乗じて国際石油資本、いわゆるメジャーが巨額の利益を得ているということで、ようや

く、国際世論が高まって来ているが、こうした流通機能は一方において巨額の利益をもたらし、他方においてさまざまな弊害を与え

ずにはおかない、という矛盾を含んでいる。

何れにせよ、流通経費をいかにして節約するかということで、これまでメーカーによる小売店の系列化(家電、医薬品、化粧品など)次

に、総合スーパー、レギュラー、チェーンなどの流通機構内部の組織化、第三には包装技術の向上、コンテナ輸送の拡大、在庫管理技術

の向上、高速道路網、港湾施設の整備など、流通機構の短絡化がとりあげられてきた。

しかし、こうした努力にも拘わらず、反面において、市場の硬直化を招き、系列化の過程ではメーカーの影響力が強まり、価格は一向に

下がらないという結果になった。

たとえば、メーカー系列下では販売競争は価格競争という形ではなく、リベート競争、マージン率競争という形となって現れた。

販売額を上げるためには、小売店のマージン、リベートなどの販売奨励を進めるため、最終末端価格は上げることはあっても下げるわけ

にはゆかないし,したがって価格維持協力金、早期支払に対する報酬といったものまでメーカーは負担せざるを得なくなったからだ。

 

 

 

 

(一九七五年二月)

医薬品の再販制度は市場価格の硬直性を示すよい例である。たとえば、メーカーの販売促進費は同制度を採ることによって大巾にふえて

いる。開発銀行の資料によると、薬品メーカーの販売促進費は昭和四十年度で約百六十億だったものが、四十九年度では実に五百億円に

も達している。

メーカーが小売店を系列化すすことによって、流通経費の負担を軽くすると考えられたことが実際には販売奨励のための諸経費に食わ

れ、その効果はさっぱり上がらなかった。

一方、すでに記述したように、零細過多の小売店が欧米のそれより多いということ、すなわち我が国の小売店数は約百三十九万店。販売

規模も小さく、賃金高騰の今日では、小売商の生産性の低さはマージン率の上昇につながってゆく。

他方、総合商社を代表とする問屋機構の存在は、流通経費を押し上げる事はあっても、下げる素地を減殺している。

話は変わるが、今から十六年ほど前に「流通革命」という言葉が叫ばれ、通産省、運輸省、建設省共管でこの問題が大々的に取り上げら

れた。

すなわち、流通機構の短絡化ということから、コンテナ輸送の拡大、包装技術の向上、パレットのプール化、高速道路網の拡大、港湾施

設導入が進められた。

コンテナ輸送はまず国鉄が採用し、ずっとあとになって海上コンテナが出現した。コンテナ輸送は肩荷役を機械化するので、人件費の大

巾な節約となる。それまでの鉄道貨物輸送は積荷、積卸しはすべて労働者の肩荷役に頼っていた。所得倍増による政府のかけ声によって

人件費はうなぎ登りにのぼったので、コンテナの採用は流通経費の節減に大きな期待が持たれた。海上コンテナはアメリカのベトナム軍

事輸送に効果を上げたことから、我が国もこれを採用することになったもので、港湾整備は海上コンテナ輸送に呼応して整備されていっ

た。

こうした施策によって、それでは流通費用はどれほど節約になったか。つまり、消費者価格引き下げにどれだけ寄与したかである。消費

者物価の趨勢をみるかぎりは、少しも下げていないのである。全国平均の消費者物価はこの十年間で、年平均すると、約八%の割合で上

がり放しである。下がったことは一度もない。

なぜ下らないのだろう。流通機構の機械化によって、こうした輸送業者が利益を一人占めしたのだろうか。事実はそうではなく、ひと度

はじまった機械化の導入は連鎖的に次から次へと相次いで起こり、減価償却がまだ完全に終らないのに新機械を購入しなければならない

状況におかれたからであった。したがって、人件費は大巾に減ったが、設備投資に大量の資金が必要となった。輸送経費を下げるどころ

ではなかったのである。

もっとも輸送の機械化によって、大量の貨物の荷さばきが可能になったことが、流通革命の救いといえばいえようが、それもホンの一時

であって、交通の渋滞によって末端の輸送効率は年々下がる一方であった。レール輸送、海上輸送は合理化されても、これでは流通経費

は上がることはあっても下がることにはつながらないといえる。

近代文明は化学に裏打ちされた技術導入による合理化の上に立っている。が、この技術こそ、多くの問題をふくんでいることを知るべき

だろう。すなわち、資本と技術の関係を明らかにする事によって、近代文明の矛盾が浮彫りにされてこよう。同時に、この問題は、近代

人を支えている思想にも大きく関係してくる問題であり、今日の危機は、経済の危機というより、むしろ思想の危機である事をまず知る

必要があるだろう。この問題は、またあとで詳しく述べることにしたい。

さて、本題に戻って、流通のムダが価格上昇につながることは否定できない。といって生産と消費をつなぐ流通機構を抜きにした経済機

構を考えることはできない。近代経済は生産の集中、大量化を促がす。しかし反面、消費は分散少量化である。この二つを結ぶ接点は流

通であり、したがって、その大部分の商品は生産、流通、消費という過程を通らざるを得ない。

この意味において、いわゆる卸売機構というものは、なくならない。 今日のように、多様な商品が出回ってくると、卸売機能はますます

必要になってこよう。

問屋無用論は物価がハネ上がると叫ぶが、集荷と分荷という問屋機能は、大量生産と分散少量消費という図式の下では、これをさけて通

ることは絶対にできない。仮りに問屋を素通りして、メーカーと小売店を直結したとしても、この両者のどちらかが、集荷と分荷機能を

持たなければ経済運営は円滑にゆかないからだ。既にみてきたように、メーカーによる小売店の系列化によって、流通費用が削減できた

かというと、事実はその反対であった。また問屋機能はメーカーが受け持ち、ここでも無用論は通らなかった。

そこで大雑把ではあるが制度面からみた問題の一つは、多段階卸売機構であり、これは我が国の特徴といえるようだ。つまり、集荷のた

めにまず産地問屋があり、中継問屋があり、分荷のための一次卸、二次卸、三次卸というように分かれている。当然、そうした問屋の手

を経れば数パーセントのマージンが含まれ、流通経路が複雑になれば、消費価格にそれが含まれることになる。

欧米のそれは、我が国のような多段階による卸売機構はないようである。前月号でもみてきたように、比較的多いと思われるイギリスの

商社の販売額でさえ我が国の商社の一〇分の一である。卸売業者の取引は少なく、製造業者から小売業者が直接商品を買って商売をして

いる。また、欧米では電話で注文を取ったり、倉庫、輸送なども合理化されていると聞く。我が国の場合は多くの従業員をかかえ、人海

戦術で商売をしている。

生協活動がふえてきたのは、こうした流通機構に問題が多いからである。

第二の点は、流通機構は物を中心とする生産に比べて、多くの人間の組み合わせによって動いていることである。そのために問題を非常

にむずかしくしている。

欧米がそうだから我が国もそれにならえといっても、流通分野における制度、慣習、市場の条件、生産の形態、構造のちがいを一挙にひ

っくりかえすわけにはゆかない。実際には、長い時間をかけねばならないようだ。

メーカーによるマーケッティング活動が活発となり、メーカーが直接販売活動に入ってきたのは昭和三十五年頃からであった。アメリカ

式の大量生産、大量消費を目標に、「消費者は王様」「消費は美徳」ということでその活動が始まった。マーケッティング活動の前提

は @ 製品の差別化、、特徴化 A 大量広告 B 流通の系列化にある。Bのそれは卸、小売をメーカーの支配化におき、他社との

競争をさけ、専売による利益をめざした。自動車、家電、化粧品など巨大メーカーは、これによって莫大な利益をあげた。マーケティン

グはこのため、寡占価格を生み、消費者の力が及ばないところで価格形成が行なわれた。アメリカ式のそれは合理的で一見いいようだ

が、市場条件がせばまり、独占価格を生むことになる。流通経費を下げようにも下がらない。こうした意味で、いちがいに日本の流通機

構はムダが多い。アメリカ式がいいとはいい切れないものがある。流通費用節減には、流通機構の合理化をめざさなければならないが、

問題はやはり人間になってくる流通は経済制度が社会化、計画化されても無くならないし、無くすことは出来ない。

結局この分野で働く人々の、ものの考え方に大きく左右されてこよう。

今日の不況下のインフレが、経済的には石油危機を背景とした点では疑う余地がないのだが、経済を動かす者は誰かというとほかならぬ

人間である。したがって、人間自身が変わらない事には、インフレも、デフレもさけて通れない。ことに、資本主義、自由主義の社会に

あっては、その振幅はまことに大きく揺れ動くことになるのである。

 

 

 

(一九七五年三月)

   五、

これまでインフレ問題を通して、現実の経済社会の姿と、その歪について、簡単ではあるが見てきたので、こんどは少し角度をかえ、近

代社会の思想的背景と現代経済社会の仕組みについて、概観してみることにしよう。

まず古代社会は、王が支配権を握っていた。メソポタミヤ文明、エジプト文明、エーゲ文明、ギリシャ文明……、そして、今世紀に入っ

てローマ帝国とつづく。

中世社会にはいると、王から神が支配権を持つに至る。この場合の神は、神の名を借りた絶対的権力である。

近代社会はどうかというと、産業革命、市民革命によって神から個人が支配者となる。自由、平等の名の下に、個人はようやく周囲の束

縛から解放される。何をするのも自由であり、人は人、自分は自分である。現代はまさに、この自由主義、個人主義、民主主義の世であ

る。

ここ四、五千年の人類の歩みは、大きく分けて以上の三段階に区分できるようである。

さてそこで、近代社会の考えは右に見るように、個人が支配権を握っている。つまり何をするのも個人の自由であり、個人を侵す者は、

国家といえども、罪悪と見られている。我が国の憲法は、いわゆる自由憲法ともいわれ、国民の権利主義については最大限、個人の自由

を保証している。明治憲法と比べると、まるで月とスッポンほどの相違である。世界でもマレにみる自由憲法であり、国民にとって、あ

る意味では、これほど恵まれた国はないといえよう。

では、この自由思想の考え方は、どこにあるかというと、近代は信仰から悟性の解放をもって始まる、いわゆる、合理主義がその根底に

流れている。

悟性とは一口にいうと、人間の感覚にもとづく概念の働きである。いうなれば思慮分別である。悟性の働きを基本として、神も国家も侵

し得ない個人が確立する。すなわち、AはAであってBではない。BもまたBであってAではない。AはAであり、BはBであるという

のが、その考え方だ。これをもっと平たく言うと、あなたはあなた、わたしはわたし。あなたが何をしようと、わたしの知った事ではな

い。これが今日の民主主義なのだ。しかし、Aが生きるためにはBとの関係がなければAは生きられないし、Bもまた生きて行くことが

できない。この思想が経済に向けられると、分業、交換が必要となり、市場が生まれてくる。市場は、価格で売買されるが、価格は需要

と供給の関係で決まる。一方、人と人との関係は、契約によって結ばれ、利害が相反すれば、その契約はいつでも破棄される。この合理

主義は、あらゆる面に顔を出しており、今日の民主主義の母胎を成している。

人間から思慮分別を抜きとったら気違いである。よくある盲信、狂信になってしまう。したがって思慮分別が悪いのではない。問題は、

感覚から得た思慮分別だけが、人間だというところに問題がある。

思慮分別だけで、人生が思う通りに行った、という人がもしあったら、お目にかかりたい。思慮分別程、実は、当てに出来て、当てにで

ないものはないからである。

 

向こうから自動車が走ってきた。危ないからさけようとする。ところが、その自動車はさけた方に突っ込んできた大怪我をした。

子供が高いところから誤って下に落ちた。大抵なら即死のはずが、傷一つ負わずに済んだ、という例は枚挙にいとまがない。

このように、人間には悟性だけでは計れない作用が働いており、その作用は、それぞれの生活態度、とくに心の在り方によって、よくも

悪くも働くのである。まず、このことを胸に収めて欲しい。

個人が支配者とは個人の自由をいっているわけだが、その自由が悟性によって人間関係まで延長すると、問題が出てくるのである。つま

り、心と肉体はその機能するところは、心の在り方で大分ちがうということだ。

元来、自由であるものは各人の心しかない。肉体は不自由にできている。本当は肉体も自由になるのだが……。肉体が不自由だという認

識は、人間には心の自由があるので、それでわかるのだ。また、人間は自由だという考えも心が内在しているから、そう思うわけであ

る。

例えば、どこどこへ行ってみたいと心は思う。すると心はもう既にそこへ飛んでいる。飛んでいないと思うのは、肉体があるからであ

る。ところが、肉体をそこまで行かせるには、歩くか、電車や自動車、飛行機に乗らないと行けない。つまり、肉体を物理的にそこへ運

ばないと、目的の場所に行けない。まことに不便なものである。

これに対し心はなんでも思えるし、創造も自由だ。心は、さまざまな夢を描き、その夢の中に、自分を置くことだってできる。このよう

な能力は人間を置いてほかにない。

思うこと、念ずることが自由なので、人はさまざまなクセを持つことになる。これを業ともいうし、カルマとも言う。その業に自分が翻

弄されてくると、何でも思える自由が、こんどは思えなくなってくる。つまり、ある小さな枠内でしか、ものが思えず、考えられず、次

第に、いら立つようになってくる。心の中が悶々としてくると、ノイローゼ、精神病に発展してくる。

ものに執着すると心が小さくなり、執着から離れると大きくなる。思うことの一念の針を、自分本位に置くと、小さな自分になる。他を

生かし、助け合う関係の中に自分を見出すと大きくなる。

このように自由とは、思うこと、念ずることの自由性にあるのだが、本来の意味はもっと次元が高いものなのだ。

思うこと、念ずることは、普通は肉体という五官(眼、耳、鼻、舌、身)を通して発展する。通常これを一〇%の意識活動という。とこ

ろが、私たち人間は、肉体という五官を持つ以前に、個の魂として、次元のちがった世界で生活している。この時の自分は、この世の肉

体はない。魂の自由性に、すぐさま対応できる光子体というボディーを持ち、どこへでも飛んで行ける。銀河系宇宙の地球以外の他の天

体にも行けるし、素粒子の世界をも覗くことができる。これを三次元的(この世的)にいうと、私たちの心は、宇宙大の広がりを持って

おり、したがって、地球内の出来事、宇宙の生成が、手に取るように分かる、ということなのだ。この活動を、潜在された九〇%の意識

活動ともいう。

人の心〜魂というものは、このように偉大であり、しかも大きく広い。

各人の心というものは神の精(エネルギー)を受け入れる器であるが、魂とは、そのエネルギーを消化している意識であり、個性であ

る。

各人の心は神と直結しているので、大宇宙につながり、それはまた大宇宙だといえるのだ。

これを別な見方で説明すると、大宇宙の空間は、いつ果てるともないエネルギーが充満している各人の心であり、その空間に点在する地

球を含めた星々が、個性ある魂、つまり現れの各人ということになるだろう。

身近な例で説明すると、三十七億の人類は現れの世界では別々な顔、形をしているが、心は一つに結ばれている、ということだ。

ここまでくれば、こころと肉体の関係が、どういうものかおわかりだろう。

肉体の自由を求めて、各人が勝手な行動をとれば、一つに結ばれている心の機能がはたせなくなり、自由を求めていながら、いよいよ不

自由(病気、災害…)になるということだ。

各人の心は自由であり、宇宙大であり、一つであるものが、五官による一〇%の意識活動に翻弄され、肉体の自由を主張すると、この地

上は混乱に輪をかけることになる。

今日の民主主義、自由主義の考えは、いわば理性というもう一人の人間と、悟性の人間が入り交ざっているのだ。

 

 

(一九七五年四月)

神から離れた人間の主体性、そして、自由の主張、自由意思、自由な行動というものは一見、正当のようだが、正当ではないのだ。人間

は神から離れようとしても離れることはできない。なんとなれば人間は神の子であり、神の庭で生活するものであるからだ。

現代人は神という言葉を非常に嫌う。また、神というと、いかにも、保守的な頑迷固ろうな人間が想像され、そういう言葉を吐くとさげ

すまれ、劣等感さえ感じさせてしまう。まことに困ったものである。

神という言葉にどれほど嫌悪感をいだこうとも、私達は神から離れることはできないのだ。神は、この大自然を創造され、私たちはその

創造物の中で生かされているのだから、どんなに自己を主張しても、主張しきれるものではないからだ。ビルを建て、鉄道を敷き飛行機

を空中に飛ばしたとしても、これらはすべて自然という神の体を借りて可能にしたものであり、自然から一歩も外にはみ出したものでは

ない。大宇宙からみた人間の小さいことといったら、お話にならない。人間は肉体的自我を主張すればするほど小さくなる。何故なら、

「もの」には限界があるからである。地球全体を自分のものにしたとしても、太陽から見れば九の惑星の一つにしか過ぎない。地球の衛

星の月まで独占してもまだ小さい。「もの」を独り占めしているうちに、肉体の方が老朽化してこよう。肉体の方はいつまでも生きつづ

けることは出来ない。彼の欲望の根底には、肉体や物がすべてであるのだから、肉体が滅びる死とともにすべてを失う事になる。これほ

ど無意味な、これほど無価値な人生はないだろう。

悟性という言葉は神から独立した人間であり、主体性のある自由人を指しているが、感覚の人間、思慮分別の人間が、どうして悟性とい

われるのだろう。悟性の意味合いからして、悟性は知性に繋がり、悟性は知性の働きであるとして、近代は知性を駆使した科学文明が発

達する事になる。二十世紀の文明は、まさに化学の非常な躍進を遂げた人類史上、希にみる唯物思想中心の社会であり、自由を謳歌した

物質文明の世紀といえるだろう。

 

悟りについてはいろいろな解釈があるが、悟りの最高の境地は神を知ることであり、神と人間が表裏をなしたことを意味する。つまり、

感覚だけの人間が、内在する神性を認識することによって、神と一体となることである。ここに至って、人は、はじめて、主体性ある自

分に復活し、神の自由性を発揮することが可能になる。悟性とは、本来、そうした意味だったのではないだろうか。

ところが、中世から近代にそうして近代社会の悟性の在り方をみると、神から独立した人間、神から拘束されない自由人、人間の知恵に

よる化学文明へと発展する。歴史の進み具合から見て、また、今日知性派と自称する人々の行動をみても、神という言葉を嫌い、神から

独立した人間こそが、人間らしい人間、ヒューマンな人間像としてとらえられている。人間は善と悪とがまざりあい、喜怒哀楽の人生こ

そが人間らしい生き方であり、そこには、親しみと、人間臭さ、人間としてのふくらみ、豊かさがあるとみられてきた。したがって、イ

エスやモーゼは人間ではなく、また、釈迦も神話の中の人間であり、人間が求める人間ではないとする。ひどいのになると、これらの人

々は架空の人物であり、想像上の人物という者さえある始末である。

感覚や趣向、感情、そして、自分の知識の枠内でしかものを見ない、ものをとらえようとしない、また、そうしたクセや生き方を是認す

るのが、現代人の姿であり、今日いう悟性の人間なのであろう。悟性の人間は、自由があるようで自由が無い、主体性があるようで主体

性がないのだ。

現に、悟性にもとづく資本主義社会は手詰りをきたしているではないか。個人の自由を解放しながら個人の自由はえられず、その自由を

得るために、今日では徒党を組んで行動を起こすようになっている。何々組合、何々運動、何々団体……。世界を見ても、大きくは東西

両陣営ブロックにわかれている。第三勢力として中国の出現、さらには西欧諸国にみられる経済ブロックの結束、石油産出国による団

結、資源国同士の連盟というように、個人の自由は、利害が一致する者同士が手をとり合い、要求することによって、達成される、とい

う風に変わってきている。

悟性は、感覚的な思慮分別にもとづくものだから、個人の自由、個人の主体性は当然、欲望の解放をもって、まず始まるだろう。欲望の

最短距離にあるものは、ほかならぬ肉体の維持であり、生きることであり、生きるためには、経済的欲望がなによりもまして優先されな

ければならないだろう。

こうして近代社会は経済を主軸に、経済を中心に動かざるを得なくなっている。また、感覚的、肉体的自由、肉体的な主体性を持つ為に

は、経済的豊かさがなければならない。経済の豊かさが、悟性にもとづく自由を約束し、人権の確立、主体性が維持されることになる。

現代の資本主義、自由主義は、こうして、悟性の解放、欲望の解放をもって幕が開かれ、化学技術の進歩をうながしてきたのである。

しかし、前述のように、物には限界があり、物は有限であり、そうした中にあって、人々が、より経済的豊かさを求め、自由を求め、要

求が激しくなってくると、利害の衝突が至るところでみられるようになる。一人の力より多数の力を結集するしか、個人の自由は期待で

きなくなってくる。

こうして、国内だけではなく、世界の至るところで、経済ブロックが形成され、一つのパイをめぐって、たがいに相手をけん制し、力で

奪いあう、という形になってきているのである。

前月号でもふれたように、人間の自由性は各人の心にしかない。自由を求めて、肉体的自由、欲望の自由はいくら求めても得られるもの

ではない。

また、自己の主体性を求めて心が外に志向すると、外界の動きに常に心が翻弄され、主体性の確立どころではなくなってくる。現代人を

みれば、自分をふりかえれば、この点は一目瞭然である。

くりかえすようだが、人間の自由性は心の中にあって、その主体性も、心に内在されている。

しかし、この点について、人は疑問をいだくにちがいない。神が総てであるとすれば、人間が自分の神性を発見できたとしても、そこ

に、どうして人間の自由があるのか。

また、神がすべてであり、人間は神の子であるとすれば、人間の主体性は論理的にも、実際的にも確立できる道理がない。また、神のふ

ところ深くはいっている人間には、自由も、主体性もあり得ないではないか、と反問されよう。

こうした反問は、知性による反問であり、心を知らないがために起こる疑問である。まさしく、世に言う悟性の働きしか、心が働いてい

ない証拠だ。

神は法の中にあるのだ。したがって宇宙の秩序が神であり、実在の証である。

人間が神性の自分を発見したとき、つまり、神を見たとき、悟ったとき、人間は法と共に在ることを認識し、その法を行使することが可

能になるのだ。

モーゼの現象、イエスの奇跡、そして、ブッダの偉大なる慈悲は、すべて、法の行使であった。

解脱とは、人間にまつわるさまざまな緊縛から遠離し、法とともに生き、法の行使者になったことを意味する。

だから、現実の物理現象を超えた現象、奇跡が行使できるのである。

人間は、ここに至って、初めて、真の自由人となり、真に主体性が確立されたことになるのである。

  

 

 

(一九七五年五月)

現代人の精神的方向は既に述べたように、個人の自由主体性の確立などという理念はどうやら忘れられてしまい、個人は、単に組織や団

体の細胞と化してしまっているというのが現状であろう。自由の目的、自由の理念が、もともと人間の神性にもとづくそれではなく、神

から離れた独立した人間、欲望につながる悟性を出発点としているために、こうならざるを得なかったといえるのではないだろうか。

個人の主権確立の思想は、まず一六八〇年、イギリスの人身保護法や個人たちの商品売買の自由の主張によってはじまっている。その後

一六九〇年、ロック(イギリス)による「社会契約説」が発表され注目を浴びる。これの影響をうけて、一七〇七年にイギリスに織布工

組合というのがつくられ、労働者の主張がはじめて認められる。これは今日の労働組合の先駆をなしている。この年の五年ほど前、我が

国では元禄十五年を迎えており、赤穂浪士の吉良邸討入りで太平の世につむじ風を巻き起こす。権力に抗してよくやったということから

庶民の間でヤンヤの喝采を浴びた。イギリス人とくらべると、当時の日本人の意識の程度がわかるといえよう。

ヨーロッパにおける市民的自由の思想運動は、一七八九年におこったフランス革命、それと同じ年のアメリカ合衆国憲法の制定によっ

て、ようやく定まってくる。アダム・スミスの「国富論」はフランス革命前の一七七〇年に完成している。同じくイギリスから一七九〇

年、ベンサムが「道徳の原理」を発表し、「最大多数の最大幸福」という道徳原理、経済的自由主義、代議制が唱えられ。理論的にも実

際的にも、自由主義、資本主義の時代へと突入して行く。

むろん、放任経済にはさまざまな矛盾が露呈され、労働組合の強化、巨大化に伴なって、実質的には社会改良主義へと変わってくる。

しかし、自由主義思想は現代においても生きつづけており、また、社会改良主義とはいえ、アダム・スミスの自由競争の原理は、ヨーロ

ッパ、日本など、いわゆる先進諸国の経済活動の基礎的原理をなしており、そうして二十世紀に入って、ケインズの管理通貨制度によっ

て、その原理を生かしながら今日に至っていることは余りにも明白な事実である。

 

ロックの「人間悟性論」は物質文明の先鞭となったが、これまで記述してきたように、人間自由論の背景にはさまざまな矛盾と問題をは

らんでいる。封建制度の束縛から離れた人間は、否応なしに自分の身を守るための生活活動が優先され、経済活動が中心をなしてくる。

今日の自由経済社会の危機は、とりもなおさず自由主義思想の危機でもあり、人間の基本的な在り方を問いただす時期に直面していると

いえる。そしてそれは同時に、経済活動の在りかたにもつながってこざるを得ないわけである。

二十世紀は科学時代といわれる。神から離れた人間の関心は、自然界に大きく眼をひらいてゆく。それまでの人間は、自然は神であり、

自然にさからうことは神の怒りにふれることであり、地震や雷鳴は神の怒りと考えたわけである。ところが、神から離れた自由人は、自

然界のさまざまな不思議に敢然と立ち向かい、冒険と、新しい発見を次々となしてゆく。人間は自然界に挑戦し、自然を征服することに

よって豊かな生活が期待できると夢見る。人類の進歩は自然との対決にあって、自然を恐れては何も為しえないと考えたわけだ。

こうしてそれまで哲学の範畴に入っていた自然科学は、物理学、化学、生物学という学問に分科し、物理学はさらに、地球物理、宇宙物

理、原子物理と分科してゆく。

化学は自然界の法則の発見にある。自然界の複雑な相互作用はこれを一つ一つ分離し、単純化しないと、法則の発見は非常にむずかしい

ものとなる。悟性の働きは人間の感覚が基礎である。したがって感覚の整理は、ものを単純化、細分化することによって、はじめて可能

となろう。宇宙全体を一つの運動の場と見るいわゆる直観的な思惟とは明らかに相入れない思考作用である。こうして今日の化学は悟性

の働きの下に単純化、細分化されてきた。

自然界を取り巻く生態的な作用を、一つ一つ分離し、そこにまつわる法則を発見することによって非常な発展を遂げる。すなわち、さま

ざまな自然法則を人間が希望するように組み替え組み立てることによって、人間社会に貢献するようになる。つまり技術の進歩である。

科学が科学のままでは何の意味もない。科学が技術に結びついて、人間社会に貢献することによって、はじめて大きな意味を持ってく

る。

電気の発見によって電灯が考えられ、夜の不自由さが解消される。空気抵抗を利用して空飛ぶ鳥と同じように、人間も空を飛ぶことので

きる飛行機が発明される。蒸気の圧力を利用して蒸気機関が発明され、人々は労せずして遠くまで行けるようになった。

産業の発達は、科学が発見した法則を利用し、これを組み立てる技術によって、前進した。今日の大量生産方式は科学技術の非常な進展

に伴なって発展して来たわけだ。人々が欲する物を大量に供給することが産業の発展と豊かな生活へと導いてくれる。

だが、ひとたびはじまった技術の導入は次の新しい技術の導入へとつながってくる。新技術を次から次と受け入れてゆかなければ、市場

は飽和点に達し、企業活動は行き詰まってしまうからだ。

話は変わるが、まず最初に大量生産方式がとられたのはイギリスの繊維企業である。好況時にはどの企業よりも利益をあげたが、不況の

嵐が吹きまくると、こんどはどの産業よりも甚大な影響をうけた。大量生産は物を安価に大量に供給する方式としては欠かせないものだ

が、製品がひとたび行きわたると、過剰生産に陥り、その反動は恐ろしいほどのみじめさで襲ってくる。

このため、今日の生産方式はいわば技術革新に裏付けされた新製品を次々と市場に送り出すことによって、維持されてきたわけである。

過去十五年ほどの我が国の産業の歩みは、まさに技術革新の掛け声の下に高度経済成長を維持し、推進して来たといってもいいだろう。

しかし、大量生産はイギリスの組織企業の例にみたように、やはり行きつくところはそれに対する反動である。技術革新によって、企業

はその好況をいわば半永久的に持続することが可能とみられてきたが、実際にやってみると、やはり問題を先に持ち越してゆくに過ぎな

いことがわかったようである。

日本の高度経済成長の秘密は大量生産による過剰生産を技術革新でこれを補い、消費をふやす市場開発がこれと併行して推し進められて

きたためである。

生産のために必要な物は機械である。機械はひとたび購入すればその対用年数は五年、十年の長期にわたる。企業はその期間内に購入し

た機械の償却費を出し、利益を上げねばならない。しかし、五年、十年で償却し、新機戒を購入していては他の競争社会に先を越されて

しまう。さらに前述のように、半永久的に需要を喚起して行くには新技術による新機械の購入を早め新製品を市場に送り出して行かなけ

ればならい。こうして、先に購入した機械の償却がまだすまないうちに、企業は新機械の導入を図って行く。新機械は前の機械より、よ

り大量の生産を促し、高度になってこよう。それでなければ企業の採算がとれないからだ。

こうして、生産された商品は、こんどは消費者の欲望を刺激させて、これを消費させるため、市場開発の名の下に企業はあらゆる宣伝戦

を展開する。既に述べたように消費のための生産ではなく、生産のための消費に変わっていった。

労働生産性は新機械のたび重なる購入によって、確かに上がってくるが、新機械を購入する資金事情はいつも逼迫している。企業資金は

株式市場を通じて行なわれるが、大量の資金は金融機関を通じないとうまくゆかない。

 

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(一九七五年六月)

日本の大企業の平均的自己資金は先般、通産省がはじき出した計算によると、土地を再評価しても二七%程度といわれる。再評価しない

以前では十六%程度である。アメリカの五〇%、六〇%にくらべるといかに低いかがわかる。したがって企業は借金経営という不安定な

状況下に常におかれており、自転車操業的な経営をつづけなければやってゆけないのが実情になっている。技術革新は半永久的な需要喚

起にその目的があったようだが、経営をつづけるうちに、それは一種の麻薬となり、借金経営は慢性的となってくる。いつ倒産に追いこ

まれるかわからないというのが企業の実情であろう。この一年間に、あの会社がといわれる老舗がいくつも倒産の憂目をみているのも、

単に、経営者の責任と一口では片付けられない何かがあるようである。

こうみてくると、技術革新は拡大生産を促す一方で、経営はいよいよ不安定になってくる。うまく時流に乗り利益を上げた者は次の手を

打つ機会をつかむが、大部分の企業は薄氷を踏む自転車操業に追い立てられ、五年先すら見通すことが困難という状況下におかれてい

る。こうして各企業は借金経営を余儀なくされ、借金の返済には常に新しい技術と新製品によって、新規需要を開拓せざるを得ないわけ

である。

石油ショック以前の町の騒音を考えて欲しい。そして、人々のいそがしく立ち働くさまを考えて欲しい。何がそうさせるのか、何でそん

なに人々は忙しく立ち働かなければならないのか。新しい商品が次から次と生産され、消費者の心も休まる暇とてない。レジャーといっ

ても家族連れで郊外に出ても、人、人、人の渦で、レジャーどころのさわぎではない。行きも帰りも満員電車にゆられ、家に戻ったとき

は、子供も大人もクタクタである。電車が混むから今度は自動車をと思っても、高速道路で低速、と道路は車が満員なので、歩く方がま

だ早いという皮肉な現象が至る所で起こっている。

戦前の十年は、今日では一年にも相当する。つまり、すべてが、それだけテンポを早めて回転している。人の心も、物も、昨日の流行

は、今日では掃き溜めに捨てられる運命にある。事実、この百年間の我が国の経済成長のあとをふりかえると、この十年間の生産高は過

去九十年間のそれに匹敵するほどのテンポで進んできたのである。つまり、九十年間かけて成したものを、わずか十年間でそれを成し遂

げているのだ。機械化が進んでいるのでそれだけ生産力も拡大されているわけだが、しかしそれだけ人々は多忙な毎日を送らざるを得な

くなっているわけである。

大量生産、技術革新、永久需要の喚起を裏で支えているものは、何かといえば、資金である。金である。金には金利がついてまわる。ケ

インズは金利生活者を憎み、その資金を利用して、のうのうと生活している金利生活者の金を何とか働く者にも回したいと考え、いわゆ

る管理通貨制度というものを考え出したが、どんな制度も法律も抜け道はあるものであって、今日では金融機関がそれをやっている。借

金経営の企業は、借金返済のために忙しく立ち働かなければやってゆけないのだ。自由企業は必然的に資本を中心とした経営つまり、資

本主義になっていく。資本主義とはよくいったものである。資本主義とは文字通り「金のため」であり、人々は金の奴隷となって、その

身を縮めている。

アメリカと日本では国民の気質もちがうし、習慣もちがう。国民の蓄財傾向は、我が国は、世界でも一番高い。このため、資金事情が潤

沢であり、ひと頃はその潤沢な貯金があるため、金利も安く、企業はその安い金利を使って、企業活動を伸ばすことができた。高度成長

を裏で支えてきたものは、こうした潤沢な資金事情であった。したがって、アメリカ企業の自己資金比率をみて、日本企業の経営状況を

一概に云々できないが、しかし戦後の傾向は、戦前には全くみられなかった特徴であり、しかも借金はあくまで借金であり、不健全経営

であることは間違いない。企業がつまづけば、多くの債権者が泣くことにもなる。したがってアメリカ企業にみられるような自己資金比

率が少なくとも、五〇%程度になっていることが好ましい。ところが、前述のように、八四%も借金を背負うようではこれまさに綱渡り

経営といってもいいだろう。

話を前に戻して、拡大生産にはその原型であるイギリスの繊維産業にみられたように、やはり、行き着くところはそれに対する反動であ

る。技術革新によって、いわば半永久的な需要喚起をめざした高度成長も、問題を先に持ち越してゆくに過ぎないのである。反動は石油

ショックによってまず現れた。そうして、これによって、無限とみられた地球資源が有限であったこと。第二に、自由競争によって、公

害問題はどうしてもさけて通ることができないこと。第三には、産業の無制限な拡大はそれ自体不可能なこと。第四に需要の連続的な喚

起は、やがて、人間の精神生活を破壊することなどが挙げられる。

こうして、今や自由思想にもとづく、資本主義経済のさまざまな矛盾が露呈されてきたが、それにはまず我々は、自由思想そのものにつ

いて、そして人間とは何かについて、ここであらためて、問い質す必要があるのである。我々はあまりにも経済のドレイになり過ぎてき

た。それは、これまでの自由思想そのものが悟性にもとづくそれであったがため、社会の機構、組織、法律、その他の考え方が、これに

準じて進められてきたし、人々もまた、これこそ人間らしい生き方と考えてきたためにほかならない。

しかし、私たち人間は、神を離れては何事もなし得ないし、安らぎある生活は期待できないのだ。自由思想は人間を幸せにするために考

えられたが、結果はこの思想ゆえに、経済の奴隷に自らを追い込んで来たということを知らなくてはならないだろう。

愛こそ、すべてである。愛なくば人間社会は互解するしかない。愛の精神を、政治に、経済に、文化に、科学に生かすことである。

真の自由人は、愛の行為者である。なぜかといえば、真の自由は愛という行為によって果たされるからなのだ。

私たちの心は自由である。この心の自由を本当に認識すると、肉体をまとった人間社会は愛という絆によって保たれるということが理解

されるからだ。

しかし、心の自由を認識できないまでも、人は一人で生きてゆく事はできないことを、まず、理解するだけでもいいのである。

人のことを人間という。人間とは人の間と書く。人の間とは、人と人ということになろう。つまり、人間とは、人と人との間に存在する

存在者ということになるだろう。

人間は、人と人とのつながりにおいて、はじめて、人間として立つことができるのだ。

人間悟性論のように、AはAであってBではない。BはBであってAではない。貴方は貴方、わたしはわたし、といってしまっては人は

エゴにならざるを得ない。これでは行き詰る。

もともと人間はこうはできていないので、本来の人間に立ち戻り、人と人とのつながりの中で他を生かし、助け合う愛の行為によって、

AもBも安らぎある生活が可能となる。 

今日、人と人との信頼感が失われているという。経営者と労働者、政治家と大衆、先生と学生、医者と患者、親子の間にも不信感が生ま

れている。

何故こうなったか。誤った自由思想、民主主義思想が私たちの心を毒し、誰も彼もが、エゴに走っているからなのだ。

金のためには、人はどうでも自分さえよければ良い、という欲望がこうした人間関係の絆を断ち切ろうとしているからなのだ。

人間を物としてしか認めない思想がはびこると、人間は動物以下になり下がり、信頼感も失われてゆく。

まず、人間にかえることだ。

神の子の人間にかえったとき、私たちの社会は、調和と安らぎが生まれてくるものである。

 

 

  

(一九七五年七月)

  六、

資本主義経済の矛盾、思想の欠陥についてこれまでその概略を述べてきた。読者はこれによって自由主義思想の誤りと、自由経済の混乱

の原因がおおよそ理解できたと思う。

そこで今回は労使問題について大雑把ではあるが取り上げてみたいと思う。というのは労使問題は純然たる経済問題というより、経済行

為の主体である人間の問題であり、また労使が調和されないかぎり、経済問題は永遠に解決されないだろうからである。また、この点に

かんする限りこの問題は、経済制度にあまり左右されないといってもいいだろう。すなわち、経済制度が変わり、社会主義、計画経済に

なったとしても、労使関係は依然としてついてまわるからである。つまり、管理者と非管理者の関係はどんな場合にも不可欠の要件であ

り、私たち現実の現象社会にあっては、この関係を無視して物事が円滑に運営されるとは思えないし、それは事実上不可能であるからで

ある。。

もちろん、労使強調だけで経済が調和されるとはいわない。自由経済にあっては経営者は常に見込み生産を強いられ、そのうえ同業者と

の競争が絶えずつきまとい、ちょっとした見込みちがいが経営を危殆に追い込むことになるからである。したがってこの問題は労使以前

の問題といえようが、しかし妙なもので労使が協調されている企業が経営困難になるということは実は少ないのである。消費者の方向が

変り、転業を余儀なくされることがあっても労使が協調している企業は必ず打開の道が開かれるものである。大企業となって転換がむず

かしい場合もあるが、それでも最小限度の犠牲でその危機を乗り越えることができよう。企業はやはり人なのである。人の和が企業を盛

り立て、企業を安定に導くものである。

さて、そうした意味で労使問題を取り上げるわけであるが、企業は人というように、人の和が先決である。人の和を実現させるにはどう

すればよいかである。結論を急げば労使双方が裸になって譲るべきところは譲り、助け合うところは助け合うことが大事なのだ。互譲の

あり方は対話である。対話を通して、両者のわだかまりがあるとすれば、それを取り除く努力、原因の究明が肝心であろう。

 

 

核心に入るまえに、まずインフレ、デフレの原因はどこにあるかを、角度をかえてもう一度みることにしたい。多くの経済学者は金と物

とのアンバランスがインフレを進行させる、そうして、そのアンバランスは原材料の値上げ、管理価格、輸入インフレなどさまざまな理

由からおこるとしているが、この点についてはこれまで述べてきた通りである。

だが、その根底に流れる原因は何かというと、ほかでもない人間の欲望、足ることを知らぬ物質欲、独占欲が経済全体の歯車を右に左に

ゆさぶるためなのである。

欲望の一方の先端がいわば賃上げ闘争であり、もう一方は企業であり、使用者側の自己保存である、利益追及である。つまり利益のため

には手段を選ばぬ飽くなき欲望が価格をつり上げ、インフレやデフレを招いている。例をあげると、日本列島改造論による土地価格の暴

騰である。一年で二倍も三倍も土地価格がハネ上がり、サラリーマンは手も足もでない状況となった。暴騰の原因は企業が大量に土地買

収に乗り出したからであり、庶民の住宅問題は政府の掛け声とは反対に行き詰まってしまった。企業の土地投資は先行投資であり、投機

であった。列島改造で先行きの値上がりが見込まれたからであった。戦前の土地価格は駅や町の中心地を軸に次第に四方に広がって価格

形成がなされたが、列島改造論後の土地暴騰というものは、こうした原則は通らなくなり、市街地とか農村に関係なく、ところによって

は僻地の方が高いという現象さえみせた。価格の値上がりは貨幣の下落であり、インフレである。しかも、土地の先行投資は不動産会社

だけならまだしも、それこそ、あらゆる企業が金に糸目をつけず総出動する、というすさまじさであった。企業のこうした利益追及は何

も土地だけに限らない。利益が上がるものなら何でもお構いなしである。戦前には到底考えられなかった公共企業であり政府の間接的、

直接的保護をうけている、あるK電鉄などは、それこそこっそりとパチンコ店を開き、莫大な利益をあげたといわれる。私鉄は国鉄とち

がい兼業はある程度認められているが、パチンコ店やマージャン屋の兼業は認められていないであろう。なぜなら公企業として政府の保

護(免税制、低金利による融資、減税など)をうけているのだから、その利益金で儲かるからといって、公共の福祉にもとるような営業

行為は許されるはずのものではないからである。

ともかくこのように、企業の利益追及は人々の経済生活全体に、さまざまな影響を及ぼし、経済の正常な流れを変えている事は事実なの

だ。

一方、ここで問題にしたいのは賃上げ闘争である。賃上げ闘争が価格を押し上げインフレを助長させている事実である。

たしかに賃上げによってサラリーマンの生活は楽になった。また賃上げによって消費が拡大され、生産活動も順調な伸びを示し、生産と

消費の拡大がはかられた。しかしその間口が拡大されれば何か事が起きるとその反動もまた大きいわけである。だから、一時はみんなが

利益を得たように思うが、反動がきた時にはその打撃もまた大きい。今回の不況では、高い利益を上げ賃金の高い企業ほど打撃をうけて

いる。こうした意味から、やみくものベース・アップはさまざまな問題を惹起するであろうし、さらには、ベース・アップをしても製品

価格に影響を与えない、輸出価格を上げない、というようなものでなくてはならないだろう。

ところがこうしたベース・アップによって消費者物価指数は年平均八%(最近十年間)もあがっている。消費者価格の値上がりはすでに

記述したが、この八%の値上がりは石油ショック以降暴騰したものを案分すると、こうなるわけである。石油ショック以前の平均は年四

〜五%である。この値上がりは定期預金金利とトントンである。普通預金なら完全に消費者物価に追いつかず、年々その目減りは開くば

かりである。

消費者物価は主に中小企業が受け持っている。大企業の賃上げが決まると、中小企業も上げざるを得ない。これまで人手不足が中小企業

を圧迫してきたので、否応なしに、大企業に右へならえ、であったからだ。ところが中小企業は大企業ほど生産性は上がらない。したが

って賃上げは大抵製品価格に転嫁せざるを得ない。こうして消費者物価は年々上がりっ放しとなったわけだ。消費者物価が上がれば家庭

の台所に直接ひびいてきて、名目は向上しても実質賃金は思ったほど上がらないばかりか、常に消費者物価指数に追いつ追われつであっ

た。こうして賃金と物価の悪循環はくりかえされ、インフレはとめどもなく進行してきたわけである。

日本の中小企業は圧倒的に多い。その率は全体の九割近くにのぼろう。従って中小企業の労働人口は大企業のそれより圧倒的に多く、こ

うした人達は大企業のベース・アップによって、少なからずその負担を負わされて来たといえるだろう。例年、大企業の賃金より中小企

業の賃金の方が低く押さえられるから、大企業の賃金アップは大部分の国民の負担の上に築かれてきたといっても過言ではないのであ

る。大企業が受け持つ卸売価格はたしかに横バイをつづけてきた。それも大巾な賃上げにもかかわらずである。そのわけは労働生産性の

向上にあったといわれる。労働生産性の中身は大企業のオートメ化が進み、人は計器とにらめっこしていればいいからであろう。しかし

ここに疑問がある。

あるエコノミストが指摘していたが、生産性の向上とは、生産の貢献度をいうのであろう。大企業の生産性の貢献度は労働者のそれより

も、生産のオートメ化によって上がったはず。とすればオートメ化による生産性の向上は労働者側から見た労働生産性は逆に下がったこ

とを意味しないだろうか。

 

 

 

(一九七五年八月)

 機械も使わずに一日十個の生産物を二十個にしたとすると、たしかに、労働生産性はあがったことになる。しかしながら、人間の労働

には限界があるであろう。寝ずに働いたとしても従来の生産を三倍、四倍に上げることは不可能なことである。二日や三日は可能であっ

ても、そう長くは続かない。また、そうした徹夜作業で生産性を上げても体力に限界がくるし、その限界を越えると、こんどは反対に生

産はガタ落ちしてくるだろう。

 結局、こうした限界を補うものは機械であり、その機械が生産性を上げているわけである。とすると、生産の貢献度は労働ではなく

て、機械にあったといえるだろう。

 大企業の生産性は、こうした新機械の稼動によって上がってきたが、しかし、それにもかかわらず賃金アップは常に中小企業が追いつ

けぬ高い線で決定されてきた。そのため、ひと頃は、この両者の格差はひろがる一方であったが、労働者の不足という新しい事態を迎え

るに至って、中小企業は製品価格に賃金が転嫁しても、高いベースに引き上げざるを得なくなった。

 消費者物価が上がることはあっても、下がることがないというのも、こうした企業間の賃金競争についても原因があった。賃金のレベ

ルを平均化しようとすると、どうしても日本の場合は右にみるように企業の二重構造的欠陥が露呈され、物価を押し上げる事になってし

まう。そこで通産省は、中小企業近代化を促進するため、さまざまな法律をつくり、融資の道や企業合同、協同組合化の奨励に躍起とな

ったが、中小企業の特殊事情もあってそう簡単には先へ進めないというのが現状である。

 

 いぜれにせよ、この問題はひとまず置いて、我々は、経済の根本的な原則に目を向ける必要があるであろう。

 というのは、経済の根本的な原理は、私たちは働いた分しか食えない、ということである。これをもう一面から見ると、生産したもの

しか消費できない、ということだ。

 とすると、生産性を上回る賃金アップはどのような結果になるかは自明の理であろう。物価を押し上げ、貨幣価値が下落するというこ

とは、生産されたもの以上に消費を求めていることになりはしないか。つまり人々は、働いた分以上のものを要求しつづけている、とい

うことになるのではあるまいか。

 我々が、経済の原理を無視しようとすると、早い話が、インフレになったり、デフレになったりするのである。つまり、物と金とのバ

ランスを崩し、社会不安を生み出すことになる。インフレだ、デフレだと騒いでいるときには、我々は事態の成り行きを見きわめ、一人

一人が反省する必要があるであろう。経済を動かすものは、ほかならぬ人間であり、組織や、機械そのものに、それが本来あるわけでは

ないからである。

 インフレによって名目賃金は上がっても、実質賃金が下がってしまえば、期待する生活は望めないであろう。昨年の秋頃だったか、経

済企画庁に毎日のように陳情団がやってきた。その陳情団の一団は、政府はいつまで総需要抑制策をつづける気か、このままでは企業は

参ってしまう。多少のインフレは景気を刺激し、企業意欲を増すことだから、もう、そろそろ金融をゆるめ、財投をふやし、景気刺激策

をとって欲しい、というわけである。この種の陳情団は財界をはじめとした、いわば生産者側であった。

 ところが、これとは反対にもう一団の陳情団があった。それは消費者を代表する主婦連の人びとである。彼女らの主張は、インフレは

絶対にいけない、これ以上物価が上がれば生活は苦しくなるばかりだし、どんなことがあっても、今の政策を堅持し、場合によっては、

もっと、厳しい抑制策を取って欲しい、というのであった。

 仲に入った経済企画庁は弱ってしまった。いったい、この両者のどちらのいい分をきいたらいいのか、迷ってしまったというのであ

る。生産者である男性側は、インフレやむなしというが、消費者である女性は、絶対まかりならぬという。そこで、企画庁はたび重なる

陳情に、こう答えたそうである。

「ご夫婦で、ひとつ、じっくり相談して欲しい。我々にそれぞれちがった意見を持ちこまれても、どうすることもできない。我々は皆さ

んの望む方向で手を打たせてもらいます……」と―。

 この話しは非常に興味ある問題を含んでいる。

 というのは、生産者、消費者といっても、もともとは一つの屋根の下で生活しており、この両者をハッキリと区別することは、事実上

不可能なことなのである。また、この問題は、何も男と女の区別にかぎらず、経営者、労働者についてもいえることなのである。

 要求する賃金が生産性を上回るとすれば、その反動は、やがて会社を危機に追い込み、自分の首を、自分で締めることになってこよ

う。あるいはまた前述のように、諸物価を押し上げ、家庭の台所にひびいてくる。儲かった、得した、と思ったのもつかの間で、不適当

な要求は、まわりまわって自分のところに還ってくることになる。

 結局のところ、誰一人として純然たる生産者、消費者はいないということになろうし、儲かった、得をしたものは一人もいないことに

なるであろう。

 こう考えてくると、もっとも素朴な原則に立って、

 「生産したものしか消費できないという経済原理を、一人一人があらためて認識する必要があるのである。

 賃金闘争、あるいは労組の紛争について必ずしも経済的要求だけではなく、その裏には政治色彩をもって争われるものもある。ある団

体のそれは、政治変革を目的として行われているようである。

 その目的は、争議を通して社会不安を助長し、政治態勢を変えることにあるのだから、要求する内容も、国民が支持してできそうなギ

リギリの線までかかげていく。

 政治体制を変えるといっても、今日のその中身は経済問題が主たる目的であり、分配の公平化にあるのであろう。ひらたくいえば、み

んなが苦楽を分かち合うということであるが、すでに累々と述べてきたように、経済問題は要約すると、生産と消費の二つのテーマしか

なく、それも働いた分しか食えない、という原理をまげることはできない。この原理は、どんな社会が出現しても変わる事はないし、社

会主義、共産社会になったからといって、急に国民の生活が楽になるというものではない。

 否、むしろ、生活はかえって厳しくなるかもしれない。社会主義社会は、反面からいうと福祉国家であるから、税金が重くならざるを

得ない。医者はタダ、鉄道は低運賃、家賃は安く、ということになると、その分だけ国が負担しなければならない。国の負担は国民の税

金で賄うしかないから、何でもタダは聞こえはいいが、働く者にとっては大変な重荷になってくる。イギリス経済が、今日、危機にひん

してきているのは、いうなれば、揺り篭から墓場までの福祉が、一応制度化され、一人一人の負担が重いこと。生活に不安がなくなる

と、こんどはその反動がやってきて、労働者自体が、あまり働かなくなってきたから、ともいえるだろう。

 これは多少問題はちがうが、イタリア経済については、賃上げ闘争が過激化する反面、働かないで要求のみ強いために、世界有数の借

金国家にまでなり下がってしまった。

 

 福祉政策は時代が進むにつれて、避けては通れない問題であり、政治、経済目標も当然これに焦点がしぼられてくるが、しかし、だか

らといって、生産に見合う消費、生産性に見合う賃金、そうして、働くことの目的なり意義、人間としての自覚、等々、こうした問題を

抜きにした制度や、考え方を推し進めようとすると、そこに、さまざまな問題を惹起せしめることになる。つまり、経済原理が自然と働

いてきて、その国なり、世界経済の円滑なバランスをくずすことになってくるのである。

 

 

 

(一九七五年九月)

 理想はどんなに高く、夢のような世界を描いたとしても、争いを通じては何事も成就し得ないものである。

 これを心の世界からいうと、争いの波動(エネルギー)があとあとまで残り、その反動が必ずやってくるからである。ふつうは、目に

見えた感覚の世界しか、わからないから、心の作用については無視してしまうが、しかし、形の世界は心の投影であり、心のバイブレー

ションは発信者に必ず返る、という法則をしらなくてはならないだろう。たとえば、水面に小石を投ずる。すると、水面は波紋を描き、

四方に散って行くが、やがて、岸に当たって、波紋の中心に戻ってくるのと同じ理屈である。

 理想はなんであれ、力で押せば力がかえってくる。手段が争いなら、その結果は争いとなる。この意味で目的のためには手段を選ばぬ

考えほど危険なものはない。

 ある権力を力で倒し、制度を変えたとしても、中身(心)の伴わぬ制度ではなんにもならない。

 政権は奪い取るもの、労使は争い、賃金は獲ちとる、との思想があると、経済の安定、人心の安らぎは、いつになってもやってはこな

いだろう。

 ちなみに従来の賃金決定の要因を挙げてみると大略次のようになる。

 マクロ指標からみた賃上げ決定要因は、まず、労働市場の需給関係に強く影響をうけている。人手が足りないと上がり、余ると下が

る。物の需給と同じ理屈である。次いで、企業収益、生計費、労組の交渉力というのが、これまでのパターンであった。

 行事化されている春闘の値上げ要因を見ると、@全国の消費者物価指数 A有効求人率B国民所得に占める法人所得の比率、などが参

考となり、決定されているようだ。

 こうした要因を背景として、業種別では、まず鉄鋼がベース・アップをする。つづいて電機、造船、私鉄、自動車の順で右へならえす

る格好である。しかし、次第に、こうした右へならえの傾向は年ごとにちぢまり、収益の上がっている企業が上げると、他もこれに追随

してあげるようになり、近年は、鉄鋼、電機の順序通りには必ずしもいっていないようである。

 いぜれにせよ、労働省が調べた昭和四十八年時の賃上げ決定要因をみると、おおむね、世間相場で上げて行く傾向が多いのである。つ

まり、二、三の大手メーカーがまず賃金を決定すると、これを横目でながめながら、あげてゆくという仕組みである。

 すなわち、企業別の賃金決定要因は、世間相場で上げるというのが全体の三四・八%、企業業績を加味するが三〇・四%、つづいて、

労働力の確保、物価上昇、その他となり、世間相場が圧倒的に大きな比重を占めている。これを規模別に見ると、世間相場で上げるとい

うのが、中小企業が三三・一%、大企業が五一・〇%となり、中小企業は企業収益に左右され、大企業は労組が強いので世間相場で上げ

ることが目立っている。

 ここで、なぜ、これを挙げたかというと、労使関係というものが右の傾向をみてもわかる通り、依然として相対的であり、賃金は奪い

とるという力関係が背後にうごめいているからである。ことに、昭和四十九年にみられた春闘は、対前年比三三・二%という大きなもの

となり、物価上昇下とは言え、このアップ率が、企業収益とか、世界経済の流れというものを外して決められており、そのために、今

日、自分の首を自分で締める格好になっているのである。

 石油ショック以前の消費者物価はドルの過剰流動性を軸に、我が国経済の二重構造による要因と管理価格による値上がりがもっとも強

いとみられるが、その後の状況を見ると、輸入原材料の暴騰によるところが大きく、賃金アップは日陰にかくれてしまう程だった。一次

産品は石油ショック以来、世界不況に見舞われたために、昔の買手市場に変わりつつあったが、しかしここにきて再び上げ歩調に転じ、

売手市場に変わってきている。こんなことは今までにないことである。不況でも下がらないばかりか、逆に上がるという現象はやはり、

資源に限界があり、その資源が一国経済の支柱であるとすれば、景気、不景気に関係なく上げざるを得ないというのが道理であろう。

 とすると、世界経済の動き、流れというものは、石油ショック以来大きく転換した、とみるのが妥当であり、このため、今後の在り方

は消費を節約し、企業経営は合理化によって、高い材料費をカバーしてゆかなければならないということになろう。つまり、コストは上

がるが、製品価格はでき得るかぎり、現状を維持しなければならないだろう。ことに日本の場合は、アメリカやヨーロッパ諸国とちが

い、原材料の大半を外国に依存しているので、諸外国とは体質がまるでちがっている。安い原料が手に入った高度成長期とはちがい、高

い材料で経営を維持するとなれば、経費のムダを省き、付加価値の高いものを生産してゆかなければ、世界経済から淘汰されてゆくだろ

う。我が国は輸出で食べているのだから、今までのようにアメリカの真似をしていたのでは到底やってゆけまい。

 とすれば、昨年の春闘のような、高いアップ率は製品価格を押し上げ、不況をより一層深刻なものにしていくことになろう。現に、

五、六月の輸出状況は次第に頭打ちとなり、国内消費(デパートの売上げ)も低迷をつづけている。高いアップ率から消費は増えるとみ

たこれまでの考え方は、今日では通用しなくなっており、むしろ、反対に、低迷をつづけている。その原因については消費者の自己防衛

から、懐に入った金は消費より貯蓄にまわっているとみられており、事実、サラリーマンの貯蓄性向は上がっているが、しかし、それよ

りも、物を買いたくとも買い控えざるを得なくなっている。ホンの一部の業種を除いて、生産部門はたいてい二〜三割の操短に追いこま

れており、残業どころの話ではないのである。したがって、サラリーマンの実質収入はしばしばマイナスとなり、そのうえ、インフレ不

安心理も加わって、消費に回す金はいよいよ細っているというのが現状ではないだろうか。もちろん、好況の後には不況は付きものであ

り、なにもかも高賃金に原因を求めることは出来ないが、しかし業種によっては生産性を上回るアップ率となり、これが不況を一層深刻

なものにしつつある。つまり、高度成長期の感覚で経営者も労働者も賃金問題を考えていたところに問題があったといえるだろう。不況

下の物価高は石油を始めとして原材料高に原因があるのであり、これはいうなれば価格革命というこれまでにない異常現象であり、これ

に対処するには、諸経費(消費)をつめて現価格を維持する、あるいは付加価値の高いものに切り替えてゆくしかないだろう。

 また、こうしたことからマクロ的にはある期間、縮小均衡の形をとらざるを得ないだろうし、現に、昨年のGNP成長率はマイナス

二%であり、昭和五十年時も、トントンないしはマイナスになる恐れさえ出てきている。年々一〇%の成長率を誇った我が国経済も、こ

こへ来てマイナスに落ちこむということは、あらゆる面で高度成長時の歪が表面化し、不況を一層深刻なものにしてしまっている。いず

れにしても賃金問題は、これまでのような感覚で処していくと、我が国経済は大変なことになろうし、一方において経営者自体もこれま

でのように対立したものの考え方をとっていては、これからの企業経営は非常にむずかしいものとなってきよう。

 この項の冒頭で述べたように、労使は裸になって、企業という共同社会の連帯を深めるような方向に持っていかなければならないし、

またそうしなければ、その企業はやがては淘汰されていくであろう。また共同社会という連帯感は、労使という従来の立場から離れる必

要があろう。つまり、一人一人が経営者であり従業員であるという意識にめざめなければなるまい。そうして、そうした意識を反映した

制度づくりについても考えてゆかなければならないであろう。

 

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(一九七五年十月)

  七、

 経済問題は語り出すとこれでよいという限界がないほど深く、間口が広い。人間に直接間接に結びついた問題だからである。

 したがって、これまで述べてきた程度で今日問題になっているさまざまな諸現象をいいつくしたとはいえないわけだ。まだまだ爼上に

乗せて検討してゆかねばならない、重要な問題がある。

 しかし、それらをここで揚げ問題提起をしても、いざ実行に移すとなると、多くの混乱や弊害が伴ってくると思う。正法という根本が

すでにハッキリしているわけなので、経済問題もこれに沿って、極端な摩擦をさけ、段階的に進めていくしかないであろう。

 こうした意味でのこの小論も、そろそろ結論を出し、正法に沿った経済の写真といったものを挙げながら読者自身も思索され考えても

らいたいと思う。

 既にこの論文の冒頭に述べたように、

 八正道の正業とは、@魂の修行 A調和 B奉仕の三点にしぼられる。

 これ以外に正業の在り方を求めようとすると、必ず欲望につながっていく。

 欲望につながると、現代と同じように歪みが生じ、混乱が絶えないことになる。

 既述したように、アダム・スミス以来の資本主義経済は、人間の欲望を基礎として動いているので、これでは行き着く先は飢餓しかな

いだろう。なぜ飢餓しかないかといえば、地球資源には限界があり、欲望のままに放っておけば、これらの資源は食い潰されてしまうか

らである。

 さらに問題は人口の異常増加が挙げられ、これも放っておくと食糧と人口とのバランスを失い、戦争と人口絶滅という二度と再現でき

ない地上の楽園を失うことになる。

 したがって、経済問題は正業という人間本来の姿にかえって、共同社会の楽園に向って駒を進めてゆかなければならないことになろ

う。

 よく、次のような質問が出される。

 人間から欲望を抜き取ったなら発明発見も努力も失われ、経済は停滞してしまう。現にイギリス経済は福祉や社会保障を制度化したた

め、労働者は働く意欲をなくし、経済の歯車は次第に低下の度合いを深めているではないかと……。

 たしかにいわれる通りなのだが、人間としてのなんの自覚もなく、いたずらに政治家の人気取りと労働者の欲望を満たすために、こう

した制度を取り入れてゆけば、行き着くところは沈滞しかなくなってくる。社会保障は、生活の安定と生活条件の質の向上にある、と思

うが、しかし、こうした制度をとり入れてゆくとなると、まず、その前に人間とは何かという問いが必要であり、人間としての自覚の上

にたった制度でないと、その反作用は致命的になってくるだろう。

 ここでいう欲望とは自分の立場しか考えないエゴをいうのである。相手はどうでも自分さえよければどうでも良い。あるいは、あれが

欲しい、これが欲しいという節度を失った欲求を欲望というのである。

 足ることを知った均衡ある欲求を維持するならば、公害や戦争には発展しないだろう。

 この辺を間違えると、欲望の正しい概念をとらえることができないし、迷いが生じる。

 では、そうした足ることを知った生活でも人びとの意欲が沈滞しないかというと、沈滞しない。

 人間としての正しい生き方を自覚したならば、これまで以上に意欲を増し、発明、発見あるいは労働生産性の低下もきたすことはない

だろう。

 例を挙げると明治維新である。維新前後に活躍した憂国に志士たちが、個人の要望を果たすためにこれに参加しただろうか。おそら

く、ちがうだろう。彼らは一身を投げうって国のために殉じていったにちがいない。もちろん、志士といわれる中には自分の野望を果た

すために働いた者もいるだろう。しかし、あれだけ多くの志士が死に、しかもなおかつ革命にも等しい改革をやれたというのも、これら

の志士たちの、私心を去った献身があったからではないだろうか。もし、彼らに、革命後の新政権のポストなり、天下に号令する野心の

ようなものがあって、自己の欲望を果たすためだったとしたならば、明治維新は到底実現できなかったにちがいない。

 いつの時代も青年のエネルギーは大きい。青年のエネルギーは私心から離れると爆発的な威力となって発揮される。それだけに一つ間

違うと、こんどはとんでもない方向につっ走る。

 最近では毛沢東の紅衛兵、ヒットラーの親衛隊、太平洋戦争に突入する導火線となった二・二六事件、キューバの革命など、熱気に満

ちた青年の行動は一国を左右する。また、ある宗教団体の青年行動隊をみても、青年のエネルギーが個人の欲望を離れることによって、

大きな力となることは洋の東西を通じて明らかである。

 こう見てくると、その是非は別として、エネルギーの集中は私心よりも自覚によるところの方がはるかに巨大であるといえるではない

か。

 個人の欲望、集団の欲望が働くときは、かえって、さまざまなマサツを起こし、収拾のつかないものになってくる。

 私たち人間は右に見たように、欲望にほんろうされなくとも、立派にやってゆけるし、発明、発見も、より急速に前進するのではある

まいか。

 近代社会は制度の改革に力を注いできた、制度の在り方は、たしかに重要である。しかし、いくらいい制度を持ってきて据えたところ

で、中身の伴わぬ制度ではなんにもならない。馬子にも衣装という諺があるが、衣装によって美しくも、みにくくも見えてくるが、しか

し、メッキはやはりメッキであり、すぐにはげてしまう。

 ヘンな話しになって恐縮だが、昔ある大名が側女を求めるときに必ず化粧を落とさせ、ボロを着させて眺めたという。生まれたばかり

の生地のままで見ないと眼が幻惑されて、美女を求めることができないというわけだ。

 制度の問題もこれと同じように、その制度を動かす者はほかならぬ人間であり、人間自身の心が変わらないかぎり、どんなによい制度

も画餅になってしまうということである。

 社会福祉制度にしろ、社会主義にしろ、その考え方は悪くはない。しかし、欲望を温存させてのそうした制度は必ず破綻きたすことに

なってこよう。

 こうした意味で、まず、私たちは人間はどこから来てどこへ行くのか。働くということはどういうことか。人間とは何か、という問題

を提起し、正しい自覚にもとずいて、経済の在り方というものを考えてゆかなければならない。

 正法の在り方については『心行』に累々述べてあるので、ここではそれを省き結論を急ぐことにする。

 正法にもとづく経済の姿は「共同社会」である。責任と自覚にもとずいた共同社会こそが、生活を安定させ、調和の基礎となるもので

ある。

 まず、ひ近な例から話を進めると、私たちの家庭である。家庭生活は社会の縮図といってもよいだろう。家庭の延長、投映が社会であ

る。

 この意味から、家庭が混乱すると社会も混乱する。家庭が安定すると社会も安定する。

 しかし、今日、家庭と社会というものは個別の存在として考えられ、家庭と社会は独立した形で動いているようである。

 そのために、両者の関係は常にバランスをかき、社会が混乱しても家庭は維持しようとし、家庭が混乱しいても、社会生活(職業人と

しての)だけは維持しようと努めている人が多い。こうしたバランスを欠いた生活態度では家庭も社会も良くはならない。

まず、家庭を整え、そうして社会を安定させなければならないだろう。

 

  

(一九七五年十一月)

 私たちの家庭は相互扶助の共同社会をつくっている。それはまったく社会の諸制度に関係なく、社会主義国であろうと資本主義国家で

あろうと、将又、封建的君主国家であろうと、一歩家庭内に踏み込むと人間的な共同社会、いってみれば原始的共産社会、相互扶助――

助け合いの社会が形成されていることを知るのである。

勿論、家庭も社会の風潮にはついて行っているが、人間的感情においては外的社会制度とは別に、この点だけは連綿とつづいているのが

実情ではあるまいか。

すなわち、親子、肉親の関係にあっては、病気や災難や、財産の移譲についても社会制度の制約や法律を離れて別個な形で動いており、

子供が病気をすれば親や肉親はその病気を自分の身を削っても救いたいと願うだろうし、他から借金しても子供の健康回復に全力をつく

すだろう。また、財産の移譲に当ってはそれが表に出れば租税の対象になるので、子供のために、親はさまざまな考えをめぐらせ、子供

の将来に備えることであろう。

ある人は子孫に美田を遺さずといっているが、子を思う親の感情というものはモノでなければ精神を遺したいと願い、子の行く末を案ず

るであろう。このようにもしそうした愛情が人間社会に失われ、お前はお前、俺は俺といった個人エゴが家庭の中にまで徹底したとすれ

ば、人間社会は百年を待たずして崩壊してゆくにちがいない。

幸いな事に、社会制度がドンドン変わっていっても、家庭内は愛の絆で結ばれ、夫婦、親子はたがいに自分の手足であり、分身であると

いう意識で、無意識のうちにもつながっているように思える。

戦後この方、我が国にアメリカ民主主義が降って湧いて、戦中戦前の軍国主義の反動が爆発的に起こり、核家族化の進行と同時に、親子

の断層と、契約的夫婦の出現が見られ、人間主義の家庭崩壊さえ危惧されるに至っているが、しかし、人間主義を離れて人間はなく、戦

後三十年を経た今日、戦前の家庭環境を望む声が強くなっているのはなぜだろう。また、たいていの家庭はそうした方向で家庭を維持し

ているだろうし、扇情的、たい廃的なマスコミの宣伝とはウラ腹に、庶民の家庭は静かに、ひっそりと、守られているのではあるまい

か。その証拠に、新しい住宅がドンドン建てられているし、革命的な政治改革を望むものは一部を除いてはほとんど見られないことから

も、うかがえよう。

家庭は利害を超えて愛という感情によって支えられ、経済はそれに付帯してついてまわるというのが実情であろうし、また、そうした家

庭経済のありかたこそ、社会の中の経済の在り方ではないだろうか。家庭が独立し、部族が生じ、民族が形成されてくると、こうした家

庭内での経済方式は一変され、利害が相反した形をとってくる。なぜ相反するのだろう。欲望という機関車に私たちは幻惑されるからな

のではあるまいか。

ビジネスと家庭経済。この両者を同時的に考えようとすると無理が出てくるように思うが、それでは、ビジネスという多忙さの目的はい

ったいなんなのだろうか。高度経済成長は猛烈社員のビジネスマンによって支えられてきたが、行き着いたところは今日の矛盾したイン

フレと不況ではなかったか。人を押しのけ、働き、働いて得た結果というものは、無情という秋風だったのではあるまいか。

ヨーロッパの人々は日本人の勤勉さを評価はしても、立食いソバで外に駆け出して行く心情には理解できなかったようである。高度成長

という経済の歯車が商社マンの多忙さをつくり出していた。彼らにとって立ち止まることは死を意味していた。他社に抜かれる、他社を

リードするには急ぐしかほかはなかったのである。

仕事の場と家庭はたしかにちがうだろう。職場は汗する緊張の場であり、家庭はそれをいやす憩いの場である。家庭の憩いを職場に持ち

込んでは職場の厳しさは失われ、人間はダメに成ってしまうかも知れない。

したがって、ここでいいたいのは家庭の相互扶助の精神が社会や職場の中に行くと、どうして生かせないかということである。そこには

企業人としての厳しさだけが要求され、人間は企業を維持する一歯車にすぎなくなっているからではあるまいか。

企業は人間のためにあるのではなく、企業のためにあったようである。このため、企業自体も消費のために生産するのではなく、生産の

ために消費をあおり続けてきた。しょせんは人間が動かす企業なのだから、こうした状態がいつまでも続くわけがなかった。

家庭と社会というものは一つである。両者が独立して存在するわけではない。しかも、社会は多数の家庭が集まって構成されるのだか

ら、家庭の中で生きつづける愛を中心として動いて行く家庭の線上に社会を置かなければ社会の安定は期し難いのではないか。愛のない

社会は無情の社会といえよう。愛がなければどんな制度を持ってきても画餅に終わることだろう。なぜかといええば人間は単独では生き

られないし、相互の作用によってのみか、生かし生かされ得ないからである。

では、愛と経済をどのように考えるか。愛は感情であり、経済は法則という歯車にそって動いて行くものなので、この両者をどう結びつ

けてゆくかと人は問うだろう。たしかに一見、この両者は相入れない別世界の運動形態といえるだろうし、両者の性質はたしかにちが

う。しかし愛のない経済、心のない経済は本来存在し得ないものであるし、愛と経済は立派に成り立つということを知って欲しいもので

ある。

そこで愛とは何かである。これはすでに正法という立場から述べてきたように、他を生かす助け合う行為をいう。

愛は男女を通じて、まず発現されよう。なぜなら、男と女というものは、それぞれ神より与えられた個性を持ってこの地上に誕生してお

り、男女の助け合う行為がなければ人間社会は成り立たないからである。

どんなに人類が増えようとも、あるいは少なくなっても、男女のほかに中性的人間の存在は許されないし、また、男女の均衡が甚だしく

片寄ることがないのも、神の摂理にしたがって、この地上は動いているからである。この両者は地上で戦争や災害が起こらぬかぎり、常

に平均化され、その量と質は常につり合いを保って維持されている。

私たちの周囲にはさまざまな男女が生活している。このためアダムとエバという原理的な認識をともすれば忘れがちであるが、アダムと

エバの原理はこの地上界を成立させる大原則である。したがって、この原則を忘れたときから、社会の混乱が始まったといえる。

人間は男と女という性の異なる中に愛という他を生かし合う神の意思の働きによって調和へと向かうが、その愛の方向は身近なものから

遠くの者へと発展する………。愛が発展した社会を共同の社会と呼ぶ。相互扶助の社会ともいう。

始めの人々は自給自足経済であり、男と女はそれぞれの持ち場があって、男は労働を、女は家庭と子弟の教育に力をつくし、男女はたが

いに足りないものを補い合い、助け合って生きてきた。

やがて、人々は増えつづけ、経済生活は分業と同時にそれぞれの専門の業を受け持つようになり、自給自足経済は分業経済へと発展し

た。人々は必要なものを物々交換によって分け合い、おたがいにの生活を助け合った。

今日の経済社会は、この分業による交換経済であり、それぞれが職業を持ち、生産に従事するということは、需要という他の人たちが求

める―他を生かす行為をしていることになるのである。つまり、仕事をするとは他人の生活を助ける愛の行為に通じるというわけであ

る。

ところが、すでに累々述べてきたように、経済行為を通じて人々の欲望がつのり、欲望の奴隷となっていったために、経済行為は利益追

及の唯一の足場となり、人々の生活は常に不安と混乱の中にあえぐようになっていったのである。

 

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(一九七五年十二月)

社会生活の発展と共に分業化が進み、分業、専門化が高度化されてくると、前月号でも触れたように、相互扶助の愛の精神が次第に失わ

れ、企業本位、仕事中心の思想や考えが先行し始める。そうなると人間は経済行為の中の一歯車に過ぎなくなり、経済の奴隷に落ち込ん

でいく。ものの事実が分からなくなり、何が正しく、何が不正なのかも不明になってくる。

すでに述べたように、経済行為は愛の理念を背景に前進させなければ、どんな有機的な制度を考案し社会に当はめても、遂には行き詰ま

り、その反動は、愛の理念から離れていればいるほど大きなものとなる、ということである。

この事実は石油ショックを通して我々は身近に体験したであろうし、高度成長がもたらす弊害が如何に大きなものであったかを考えれば

自明のはずであろう。否、我々はそれ以前から第一次大戦後における経済の混乱を体験してきた。また、それ以前の江戸時代、戦国時代

においても経験してきた。にも拘わらず制度はちがっても同じことを繰り返しながら今日に至っているのである。

方向を見失った時、あるいは混乱が起った時、人々がまず最初に考えなければならないことは常に物事の始まり、原点に目を向け、その

考えを遡及させることである。

すでに述べたように、経済行為というものはアダムとエバという男女の両性から始まっている。人間がこの地上界に肉体を持ち、その肉

体を維持するには生活という経済行為を離れては成り立たない、ということは誰でも知っている。だが多くの人は、この両性の出会いが

単に男女間の精神的な愛だけの出会いとしか見ないが、あるいは亨楽の対象としか考えないのではあるまいか。地上生活にとって欠くこ

とのできない生活の場という大事な出会いを置き去りにしているようである。

仏教は色心不二を説き、中道を明らかにしている。

モーゼもまた、アダムとエバになぞらえて、色心不二と中道を説いているのだ。

モーゼは偏った見方、考え方を極度に恐れ、常に、調和ということを教えた。

十戒の思想は奴隷から解放され、ともすれば欲望に流される人々の心を引き締めるためにとられた法であり、十戒を貫く考えはあくまで

調和にあったのである。

この事実はアダムとエバの愛と、生活の象徴的な叙述の中から、十分にくみとることができるのである。

 

色心不二とは肉体と精神、生活と心、量と質とを指し、この二つのものは、たがいに相補いながら両者とは統一された場の中に存在する

ものなのだ。

経済行為の原点は、男女両性の愛の中からここの声をあげた。男は労働に従事し、女は子弟の教育と家を守った。自給自足の経済は永く

久しい間続いたのである。

今日分業社会が出現し、自給経済の小規模経営から、大量生産という大規模経営に移ってはいるが、しかしアダムとエバの生活の基本形

は決して失われていないのである。すなわち、男は外に出て働き、女は家庭にあって憩いの場をつくっている。

愛と生活の原型は男女両性がこの地上界に生活を始めた時から、そして、その両性が存在するかぎり、決して失われることはないし、愛

の行為のない社会は永続きはしないのである。

愛とは他を生かすことであり、助け合うことである。

自然はそれを教え、ブッタは中道という自然法の中から、慈悲という精神を人々に教えた。私たちの肉体は、そして精神的安らぎは、自

然の愛の懐の中ではじめて芽生えるものなのだ。

私たちが食する物は、どれもこれも皆生きている。植物も動物も、私たちの口に入る物は皆生きものから摂っている。植物や動物の献身

によって、犠牲によって、私たちの肉体が、精神的安らぎが、保たれている。つまり、彼らの愛の献身によって、私たちは生きられるの

である。

しかし万物の霊長である人間が、自分の能力や才能におぼれ、慢心を抱き、植物や動物の無益な殺傷をつづけると、自然の循環が失わ

れ、自らの生命をもちぢめることになる。

魚資源の枯渇、空気の汚染、森林の不足、水資源の不足など、さまざまな公害は高度成長という人間の自我欲望から発している。

経済行為が単に利益追求という自我欲望の手段と化し、需要と供給の愛の原則は全く失われてしまったといえるのである。

今こそ、私達は欲望充足の修羅にも等しい経済行為から、本来の姿である愛の経済行為に戻らなければならない。経済行為が修羅場であ

るかぎり、私達の苦しみは永遠に付いてまわるだろう。なぜならば、循環の法則は私たちの心に思い、行為に現すことによって付いてま

わるからである。

 

物価と賃金は、今、悪循環をつづけている。それぞれが欲望の徒と化し、一つのパイをめぐって、奪い合いを演じているからである。

まず、人間の原点にかえり、経済行為の真の在り方を理解する必要があるのである。

 

ある会社の社長は裸一貫から今日の地位を築いた。会社も家庭も自分の努力の結果として今日を成したと彼は自負していた。

ところが、ここに来て、家庭も会社も自分の思うようにならず、会社は無期限ストに突入した。家庭は家庭でノイローゼの息子がおり、

娘は彼のいうことをきかず派手に遊びほうけている。

何かが狂っている、どこかが間違っている、と彼は思った。しかし、そう考えてもその何かがなんとしても分からなかった。会社のスト

は長期化し、赤字は累積する一方である。このままでは会社は倒産し、一生かけて築いてきた財産は一朝にして失うかもしれなかった。

彼は正法に目を向けた。そして、心の琴線にふれた。迷妄の扉が開かれてみると、自分が歩いてきた道がいかに自我欲望の塊りであった

か思い知ったのであった。

彼は、何日も反省を続けたのであった。会社の危機と家庭崩壊の原因を懸命になって、さぐりつづけた。その結果は家庭も会社も自分を

中心に動き、思い上がった増上慢と我欲が今日の危機を招いていることを悟ったのであった。

彼は泣いた。そして、自らを裸にした。家庭の妻や子供に今日迄の自分の非を詫びた。

会社は赤旗が立ち、アジビラが至るところに貼られ、オフィスは見る陰もないほど汚されていた。血走った目をした労組員が彼の来社を

こばむほど労組員の心は硬化していた。

彼は全社員を一堂に集めると、正法に触れたいきさつを語った。そして自分の非を認めた。そうして、会社再建の方策を社員と一緒に腕

を組んでいきたいと自分を投げ出した。

社員は社長の百八十度の変り方に目を見張ると同時に、社長がその気なら我々も協力を惜しまないと、組合員も裸になった。

何日もつづいた長期ストは、一転して和解され、赤旗は路上に投げ出され、アジビラはきれいにはがされた。

今ではこの会社は、労使の協調の下に赤字から黒字に変わっている。家庭もまた彼の真撃なザンゲによって昔の労働時代の明るさをとり

戻すことに成功した。

この物語りは、心が変わると周囲が変わるというよき見本といえようが、愛の心が家庭や事業をいかに調和させるか、論より証拠であ

る。

 

ある評論家は、経営に宗教理念を取り入れると会社を潰すと提言している。この人は真の道徳、宗教というものを知らないから、こんな

ことを平気で口にするのである。

会社とか、経営というものは誰が動かしているのか。ほかでもないそれは人間なのだ。人間が動かしているとすれば、人間に立脚した経

営をしなければいったいどうなるのか。拝んだり、祈ったりすることが信仰と考えているとすれば、この評論家の宗教観、道徳観を、ま

ず、切り替えてもらわなくてはならないだろう。

 

 

 

(一九七六年一月)

さて、正法と経済というテーマで、二年余りも連載してきた。関心のある読者は、この小論を読まれ、その大よその考え方が理解された

と思う。

細かい問題に触れることによって、実際の経営なり商売上に役立ててもらえるわけであるが、今日のように分業化がさかんになり、相互

依存が強くなってくると、一会社、一次業態のみの問題としてこの問題は扱えない要素も含んでおり、ことに正法は人間主体の、それも

心の問題が大きなウェイトを占めているので、これ以上論を進めると、この面の理解が全体的に深まってこないと、時には誤解や抵抗だ

けが強くなり、逆効果になりかねない。

この意味から、この小論は現状の矛盾点とこれに対する本来の在り方を説明するだけにとどめ、何れ機会を見てテーマをかえ、再度、連

載したいと考えている。読者によってはこれからが正法と経済の本論と期待される向きもあろうと思われるが、本稿を進めてくるに及ん

で、前述のような理由が考えられ、又、本稿は経済問題の本質を理解してもらえば、本稿の目的はなかば達せられたと考えたからであ

る。

 

最後にここで書き加えておきたい事は、正法を生活の上に生かしてゆく最良の方法は、やはり人と人との対話ということである。経済問

題は特に対話と協調が欠かせない。労使の不信、生産者と消費者の不信感というものは、いわゆる正しいコミュニケーションが行われて

いないからだと思う。話し合いを通して相互理解が深まれば、双方のわだかまりは自然と解消してくるものであるし、この事実は前月号

にも触れたように、倒産寸前のある運輸会社の例からも納得されると思う。

もちろん、対話の姿勢が問題であるが、しかし当事者が裸になって真実を語ろうとするならば、問題の糸口はいくらでもついてくると思

う。

 

我が国のインフレが先進国の間でも、最も高い水準にあるというのも、労使双方の譲り合いが欠けているからであり、裸になった真実の

対話が不足しているからではないだろうか。

先進国の中でもインフレの度合いが最も低い水準にあるのが西ドイツである。西ドイツの物価安定策はそれこそ官・民が一致して情熱を

傾けている。ひと頃はほとんど物価が安定していた。日本の消費者物価が年三〜四%と上がっていた時分に、ほとんど動くことがなかっ

た。石油ショック前後から上がり始めたが、これは外国から労働者が西ドイツに流れ込み、山猫ストをやるようになったために上がった

といわれる。ドイツ国民のせいではないといってもよいだろう。

それほど、西ドイツは物価が安定している。では独り西ドイツだけがどうして安定しているかといえば、理由はいくつか挙げられるが、

労使関係が格段に安定しているからである。五〇年代初めから労働者の経営参加が法制化され、労使双方の不信感や不必要な賃上げがな

くなったからだ。ベース・アップをする場合は単に一会社の利益のみで、これをするのではなく、国際収支や物価全体の問題にまで気を

配り、その上で決定する、というやり方である。

もちろん、政府自体も単に物価安定策のカジ取りを、金融政策だけに依存せず、財政、為替、独禁政策など多様な政策手段を相互補完的

に発動して強力に推し進めている。

西ドイツのインフレに対する関心はどの国より神経質である。第一次大戦後の天文学的インフレをドイツ国民はいやというほど経験して

おり、その経験が今日の物価安定に大きく寄与しているからであろう。

 

しかし、それにしても労使双方の協力体制がどの国よりもしっかりしており、それが今日の悪性インフレを抑制する形になっている。そ

してその大きな柱に、労使の対話、協調があるからではないか。一事業体のベース・アップに他の物価や国際収支の影響まで勘案すると

いう姿勢は我が国においても学んでゆかなければならない問題であろうと思う。

それぞれが自己を主張し合い、より欲望を充足しようとすると経済は、中身よりも名目のみがふくらみ人びとの生活はかえって苦しくな

る。今日の我が国の過度のインフレがそれを物語っている。

一方、生産というものは消費があって初めて成り立つのであるから、利益配分の方法も一事業体内の問題として処理する考え方は片寄っ

ていないだろうか。戦後この方の利益配分の仕方は、消費者不在のように思われる。つまり、生産性が上がり、利益が上がると事業体に

関係する者以外は何等その恩恵に溶することがないのである。物価はあがることはあっても下がることがない、というのが何よりの証拠

であろう。生産性が上がり、利益は上がったということは消費者の需要、つまり消費者の協力があったからではないか。

したがって、その利益配分は消費者にも還元する、つまり、生産性が上がったその何%かを物価を下げて消費者に還元することではない

か。

経済行為は相互の調和、奉仕にあるとすれば、こうした相互扶助の行為こそ正法に通じた商法といえるのではないか。戦前の商業道徳は

こうした行為が自然のかたちで行われていたように記憶する。

それが高度成長が始まった昭和三十年頃からはこうした商業道徳はまったく姿を消し、如何にして消費者をだまし、買わせるかに企業努

力が集中した。たとえば需要をつくり出す方法として、

@ 気安く買わせろ 

A 混乱をつくり出せ

B もっと使わせろ

C 捨てさせろ

D 無駄使いさせろ

E 流行遅れにさせろ、

といったさまざまな企業戦略が考えられ、こうした戦略にもとずいて消費者を欲しがらせる宣伝が行われてきた。商業道徳もなにもあっ

たものではない。

 

この小論の最初の方でフォードの例を挙げた。フォードの経営理念は、分業社会における生産と消費を結ぶ経済行為のひな型といっても

よいと思うが、その考えはあくまで全体に対する利益が企業の利益にもつながるということである。いわば社会奉仕の精神がフォード社

をアメリカ第一の自動車産業にのし上げる結果を生んだ。企業本位の考え方では結局は経営を行き詰まらせ、社会不安をつくる何者でも

ないといえるだろう。

世界経済はいまや大きな曲がり角に立っている。これまでのような高成長は従来の方式の下では不可能であろう。全体のバランスを計り

ながら生産と消費、労使の協調を進めて行かなければなるまい。

十年、二十年前とくらべ産業規模も生活の条件も変わってきている。したがって、それだけ、より全体的な視野から企業の在り方、経営

の方向というものを考えて行かねばならないだろう。

正しい見方、考え方というものはより高い、より全体を見渡せる立場が求められよう。時にはその見方は次元をも合わせて考えねばな

らないだろう。また、そうしたとらえ方をすることによって、混乱や不安をさけることが出来よう。

愛とは全体を生かすことであり、したがってより高度の見方は、それはそのまま愛の見方に通じてくるであろう。

中道の精神は何時いかなる時にも生きている。時代に関係なく、思想に関係なく、場所にも関係なく、生き通しの神理である。したがっ

て、経済問題も行き過ぎればインフレとなり、後退すればデフレとなって、人びとをして中道の均衡を求めるよう作用する。

反作用に対する軌道修正には理屈抜きの反省しかない。他をよりよく生かすにはどうすべきか、旧来の陋習を捨て、まず白紙に戻り、経

済とは何かを、もう一度改めて問うて欲しいものである。

そうしてそれぞれが正しく生きて行くにはどうすればよいか、経済の在り方はどうあるべきか、一つ、おのおのが、白紙の立場で考えて

みて欲しい。(完)

 

 

 

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