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   「心行」の祈願文の解説

              園頭広周師による解説

 

「祈願文」は、禅定する時の祈りとして、また、人のために祈る場合、天上界よりの加護をお願いする場合に非常に大事な欠かしてなら

ない「祈りの言葉」なのであるから、一言にして言えば、奇跡を起こす祈りの言葉であり、よくこの意味を会得することである。

    祈願文

   祈りとは、神仏と己の心との対話である。同時に、感謝の心が祈りである。

   神理に適う祈りの心で実践に移る時、神仏の光はわが心身に燦然と輝き、安らぎと

   調和を与えずにはおかない。

    前文

私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました。

慈悲と愛の心を持って調和を目的とし、人びとと互いに手を取り合って生きて行くことを誓い合いました。

しかるに地上界に生まれ出た私たちは、天上界での神との約束を忘れ、周囲の環境・教育・思想・習慣そして五官に翻弄され、慈

悲と愛の心を見失い、今日まで過ごして参りました。今、こうして正法にふれ、過ち多き過去をふりかえると、自己保存、足るこ

とを知らぬ欲望の愚かさに胸がつまる思いです。

神との約束を思い出し、自分を正す反省を毎日行い、心行を心の糧として己の使命を果たして行きます。

願わくば私たちの心に神の光をお与え下さい。仏国土・ユートピアの実現にお力をおかし下さい。

  前文解説

いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通して発生したものなのであろうか。それは、神の意識から、神の子としての我々

の意識が離れた時に、親なる神を、神の子である子供が慕うという自然の感情から発したものであり、更に人間が、あの世天上界からこ

の地上に生を受けた時に、あの世天上界を慕う感情として、何かあると必ず天上界、神を慕わずにはいられない心情が、祈りとして祈ら

ずにはいられない心となって現れたものである。

魂の故郷である天上界では、思うこと、考えることがそのまま祈りとなって神仏と調和していて、祈ることは即行為することであり、行

為することが即祈りとなっている。

ところが、人間はこの地上界に肉体を持つと、この肉体が自分であると錯覚して、天上界で持っていた時の全なる心と、それに基づく行

為を忘れてしまって自我に生きようとして五官に左右され、六根にその身、その心をまかせてしまう。すると、煩悩という迷い心が起こ

ってきて、本当の自分自身、神より与えられた神の子の意識を埋没させてしまってどうにもならなくなってしまう。すると苦しみが生

じ、いろいろ不本意なことが起こってくる。

「苦しい時の神頼み」、自分の考えでなんとかなると思っている間は神を思い、神に祈るということはしないが、もはや自分の力ではど

うにもならないとなると、思わず神を思い出し、神に祈る心になる。それは、煩悩に振り回されてどうにもならなくなった人間が、最後

は神に頼んだらよくなることを知っている心があるからである。

「人生苦」というものを、ただ苦しみだけとしてとらえて、「苦しい、苦しい」といっている間は苦しみが続く。そういう人が多かった

から釈尊は、「あなた方は人生は苦だ、生きることは苦しいことだと考えてきたであろう」といって説き出されたのである。

苦しみを苦しみとして、その現象だけにとらわれていると苦しみはなくならない。ではどうしたらその苦しみから解脱することが出来る

のであろうか。それは、その苦しみの揚げ句に、神に祈りたくなるその心はどうして起こってくるのであろうかと考え始めるところから

苦の解脱は始まるのである。だからして、苦しみが起こってきた時には、その苦しみを苦しみとだけ考えるのをやめて、この苦しみは肉

体の煩悩に執着した結果であって、神を忘れ、本当の自分を忘れてしまっていた結果だったということに気づいて、その苦しみは神を思

い出させ、本当の自分を思い出させて下さる警告であったと感謝して、ではどうすればよかったのであったかということを反省すると、

その苦しみから抜け出すことができるのである。

「苦しみ」を「苦しみ」とだけ考えて「どうぞこの苦しみを救って下さい」と祈る他力本願の心の中には、いつも苦しみが描かれ想念さ

れているから、自分の心の中に苦しみを描き想念している間はその苦しみはなくならない。今、現れている苦しみは、過去に自分の中

に、忘れていた神を思い出して感謝し、本当の神の子の自分の意識を取り戻さなければならないのだということに気づいて、その苦しみ

は、本当の自分にかえれという警告だったのであると感謝するようになると、その苦しみは自然になくなってくるのである。

なくなるばかりではなくて、その苦しみを見ながら、心の中には感謝の思いがいっぱいであるから、その感謝の明るい心がやがて現象化

して幸福がくるのである。こうなることを昔から「禍転じて福と為す」といってきたのである。

「苦しい時の神頼み」というのは、煩悩に振り廻された人間が、最後に求めるものは、己自身の魂のふる里であり、そのふる里こそ、自

分を救ってくれるもう一人の自分自身であるということを、無意識のうちに知っているとことから起こってくる無意識の行動なの

である。だからして、そういう時に心を内に向けて、もう一人の自分を探し求めることをしないで、心を外に向けてあちこちにお参りな

どして他力信仰をしていたのでは一向に問題の解決にならないのである。助けを求める自分と、助けを求められて救いの側に立つ自分と

は共に一つであって、救いの側に立つ自分とは「心行」の解脱の中で述べたように、潜在意識を通して潜在意識層に働きかけてくれる守

護霊・指導霊である。

本当にその人が反省をして「どうぞ助けて下さい」と真剣に祈ると、潜在意識層に働いている守護・指導霊が心の内から囁いて、どうす

れば救われるかを教えてくれる。余りにも問題が大きく複雑していて守護・指導霊に力がない場合は、守護・指導霊の求めによって、よ

り高い次元の天使が慈悲と愛の手を差しのべてくれることになっている。

このように「祈り」というものは、自分自身の魂のふる里を思い起こす想念であり、同時に「反省」という、自分自身を改めて見直す立

場に立った「祈り」でないと、ただ泣きつくばかりでの祈りでは意味がないし、本当の救いにはならないのである。

苦しいから助けてほしいというだけでは愛の救いの手は差しのべられない。なぜかというと、今の自分の運命というものは自分自身でつ

くり出したもので、そうなったのは誰の責任でもない、自分自身の責任だからであって、自分自身がつくり出した責任であるのに、自分

はなんにもしないで、誰か外の人が救ってくれるということになったら、その人は悪いことをするばかりで一向に魂は向上しないことに

なる。

人間は神の子であり、神の子たるに反した行動をした場合は、その分量だけ償うことが神の子としての摂理であって、反省し懺悔して祈

る時に、初めて神仏は慈悲と愛を与えてくれるのである。

人間はこの世に肉体を持つと過ちは避けられない。その犯した過ちを修正して救う手段として与えられてあるのが、反省と祈りであり、

祈りというものは、このようにして肉体を持った人間が本当の自分自身を知り、本当の自分自身を知ったところから神仏を思い起こす想

念として神仏が発生せしめられたのであることを忘れてはならない。

祈りは単に祈ることだけではいけないので、祈りはその祈ったことを行為に示さないと本当の祈りとはならないのである。

唯、口先で祈るだけでは愚痴の繰り返しになり、失敗した自分自身をその都度思い起こし強く印象することになって、神の子としての新

しい自分自身を発見し、創造することにならないからである。だからして、祈りには、神の子としての自分を自覚したその心と、神に感

謝し、すべてのものに対する感謝の気持ちが祈りにならなければいけないのである。

多くの人は現在与えられてある自分の環境、境遇というものに不満を持ち、こういう環境、境遇に生まれてこなければよかったと思って

いる。潜在的にそういう不満を持っているから失敗もし不幸にもなるのであるから、現在与えられてある環境、境遇というものに、神が

与えて下さった自分自身の魂の最良の修行の場であり、ここを通らずしては魂の向上は絶対にできないのであるという自覚と感謝の心が

神に向けられた時に、心の底から真剣な祈りとなってほとばしり出るのである。

我々は、神の加護と、多くの人々の協力なくしては一時も生きて行けない。自分の運命を天命として、その使命を果たして行くために

は、人間はどうしても祈らずにはいられないのが人間である。この祈りの本質というものは変わらないが、このように考えてくると、祈

りにも段階があり、各人の心のあり方、調和度、現在与えられてある環境・境遇によって、祈りの内容は一人一人違うことになる。

要するに、祈りの本質とは、祈りは天と地と、神と人間、神と自分とをつなぐ光の架け橋であり、神との対話であるということである。

人は祈った時に、神に心を通ずることができるのである。もっとも実際には、その人が神に向かって祈る時、その祈る心を「よし」と見

た守護・指導霊、或いは光の天使達が、その人の問題に対して解決の示唆を与えてくれるのであるが、だから、祈ったことに対する答え

は「直観」となってその人の心の中から浮かび上がってくるのである。或いは時として「天からの声」として耳に聞こえてくる場合もあ

る。

この天と地と、神と人間との架け橋である祈りは、各人の心の調和度により、問題の大小により、大きくもなり、小さくもなりするもの

である。

大きな使命を自覚している者はそれだけ祈ることも大きくなり、また、大きなことの実現には時間もかかることになり、自分のことだけ

で満足している者はそれだけ祈ることも小さくなり、小さいことの現実にはそう大して時間もかからないということになる。

 

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  前文「親の恩」

「私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました」

なぜ、前文の一番最初にこの私たちが、この地上に生まれて来たのは両親からであるということが書かれてあるのであるか。

信仰の原点も、道徳の原点も、教育の原点も、すべて私たちが今ここに存在しているのは親があってこそであり、その親と自分との関係

を明らかにすることなしには、信仰も道徳も教育も存在し得ないからであります。

親不孝というほどではなくても、親に対する感謝もしないで、「信仰信仰」と走り廻っていたのでは本当の信仰になりません。同じよう

に、まず親に対する感謝の教育をしない教育では本当の教育になりません。即ち「恩」を知るということが人間の道徳の根本ですから、

「恩を知らざる人より悪い人はいない」と西洋でも言っていますが、

釈尊は、「世間、出世間の恩に四種あり」と言っていられます。世間とは在家の人々のこと、出世間とは在家を捨てて僧となった人々の

ことで、結局すべての人間は四つの恩があるといっていられます。

父母の恩

衆生の恩

国の恩

三宝(仏、法、僧)の恩

この四恩は一切衆生の平等の荷なうところである。と言っていられるように、「父母の恩」「親への恩」が一番最初に出てきているので

あります。

高橋信次先生は、次のように言っていられました。

「私たちはあの世で誰と夫婦になり、誰と親子になるかを決めます。『あなたは、私のお父さんになって下さい。あなたは、私のお母さ

んになって下さい。そうして、あなたをお父さんとし、あなたをお母さんとすることなしには勉強できない魂の勉強をさせて下さい』と

約束をするのです」

どういう親から生まれて来ようと、それはみな自分がお願いして選んで来た父母であるというのです。

よく「親らしいこともしていないで、なぜに親に感謝できるか」と言う人があります。親の顔も知らないという人たちもあります。世の

中はさまざまです。

私が生まれた頃、親は貧乏でした。四、五才頃だったと思いますが今でもそうですが、鹿児島は毎年台風が来ていました。六畳二間に少

し土間があるその長屋はトタン屋根でした。風でトタンがめくれて家中、雨が降り込んで来て「起きろ」と起こされても眠くて「むし

ろ」にくるまって寝たことを記憶しています。小学校に行くようになって、友達が買ってもらっているようなものを買ってもらえません

でした。金持ちの家の子供を見ると羨ましく思い、もっと金持ちの親のところに生まれればよかったと、ちょっぴり親を怨むというほど

のことはありませんでしたが、親に不足をおもったこともありました。

私の青年時代はずっと戦争でした。私も戦地へ行って病気になり、約一ヶ月半位寝ている間にすべて生まれて来た時からのことを反省

し、心から父母に感謝しました。すべての恩に感謝しました。そうして、もういつ死んでも心残りはないという心境になった時、私は

「宇宙即我」の境地に入ることが出来たのでした。

ロスアンゼルスのアガシャ協会のウイリアム・アイゼン氏から「アガシャの説法」が送られて来て高梨さんに翻訳してもらった文章の中

から必要な部分だけを書くことにします。

 地球に戻る魂

さて、この世には何千万もの女性がおり、魂を出現させる運命を持っています。同様に、この世に子供を出生させる運命を持たない女性

も何百万もいます。そういう女性たちは、子供を出生させることに関しては、過去世にあいて、もうすでに使命を果たしたからです。前

世では大いに奉仕したので、自身のチャンネルを通して現世に魂を出現させる必要性を持たないのです。

(これは前世で子供をたくさん産んで、子供の世話に一生懸命で自分の魂の勉強をする暇がなかった。それで今度は、子供を持たずに、

一人の人間としてじっくり魂の勉強をしようということで、子供を持たないことに決めて生まれてくるのです。だから、子供を持たない

人は、子育てに使わなければならないエネルギーはいらないのですから、その分を自分自身の魂の成長と、人のために使わなければなら

ないのです)

生とは最も興味のある学問の一つであり、且つ科学の眼で見ると最も神秘的なものに映ります。

その魂がオーラーの波動、つまり親の醸し出す雰囲気の中で、アニム(電的原子)を支配し、それ自身の王国に造り変えてしまいます。

その魂はその波動やその他さまざまな想念を支配し、その波動や想念は、その魂が実際に出生する時には、いわゆる、魂に備わったもの

になるのです。

(もともと、人間本来は神の子の意識です。この地上界は、神の子の自己実現の場としてつくられたのであり、その自己実現のためには

完全な自由が与えられてあります。

だから人間は、善いことをするのも、悪いことをするのも自由です。何をするのも自由ですが、その自己実現の法則として正法(仏法)

即ち、原因・結果の法、動・反動の法、作用・反作用の法、輪廻転生の法、慣性(業・カルマ・心の傾向性)の法等が、神によってつく

られているのであり、神の子である人間はその自由意志を持って、いかに法則(正法)を駆使して自己実現をしてゆくかです。

その自己実現の途上において、自分が原因をつくったままで、その結果がまだ現れていなかったものについては、この次に生まれた時に

その結果を受けなければならないということになって、その人の反省と、反省の結果の想念が、いわゆる業となって、本来の神の子の自

分の意識に付着して生まれて来るということになります。

そのために人間は、生まれて来ると、まず業を修正してから、神の子の自己実現に取り組むということになったのであります)

地上界に魂が生まれて来るのは、みなさんが肉体を持つはるか以前に確立された、神の法によって自動的に営まれます。それは神の法な

のであって「なぜ」ということはないのです。それは神の法なので自動的なのです。

(殆どすべての人は、神が定められた周期の波動に乗って自動的に出生して来ます。その神の波動が起こってくると、喜んでその波動に

乗って生まれて来る人と、生まれたくないと思ってあの世に執着していて、ひとたびその波動が起こると、どうしても生まれて行かなけ

ればならないのにしがみついている人があり、その波動はむりやりにその執着をはがして生まれさせます。その時にその魂は、全くの盲

目の状態となって地上に肉体を持つことになります。

そういう人たちは、魂が盲目の状態になっているから、「あの世はない」「霊はない」「神はない」と平気で言うようになるのでありま

す。

同じ年、同じ時期に生まれて来る人たちは神によって起こされた波動の同期生なのです。

同期生だから同じ年に生まれた人たちは、どこか似たような共通点があるので年廻りによる運勢というようなものを人々が考え、その年

廻りによる守り本尊というようなものを考えたのです。それはまた実際に、同じ年、時期に生まれた人々の魂を指導する使命を持った指

導霊が必ずあります。そういうことが「仏に値い奉ること難し」即ち、お釈迦さまの世に生まれさせていただくということは全く有り得

ない難しいことだといわれる所以であります。

考えてみて下さい。もし私たちが、百年前に生まれても、百年後に生まれても、高橋信次先生の法は聞くことは出来なかったのです。

高橋信次先生と、またお釈迦様と、同じ時代に生まれ会わせることが出来たということは、それだけ私たちの魂の縁があったわけです。

如来の境地になりますと、出生の自動的な波動に乗らないで、自由の自分の生まれる時期を選ぶことが出来ます。そういう境地になるこ

とを「涅槃」といいます。だから涅槃の境地になると、この世に生まれて来ないことも出来るのです。そのためにインドの時、釈尊は涅

槃に入られたということで、釈尊は再びこの世に生まれて来られることはないと言われるようになったのですが、釈尊は五個の五百歳即

ち二千五百年後に東の国に生まれるということを予言され、そうして高橋信次先生として出生されたのであります)

しかも、道を歩む一個人として、我々はそうした出現を観察し、その輪廻界のすぐ近くまで飛んで行って、そこでは魂が親に引き寄せら

れて行く様子を観察できるのです。

 

   アガシャの説法・親子の因縁について

  因果関係

時には親となるべき人は生まれて来る魂を拒むこともあります。なぜでしょうか。不調和な因果関係のために、潜在意識が無意識のうち

に道をふさいでいるのかもしれません。

(本当は親子となるべきであったのに、その親となる人がこの世に生まれてからの環境、教育、思想等に災いされて子供を生むことを拒

否することがある)

輪廻のことを知り、地上界に戻りたがっている魂がおります。その魂が気づかぬ内にカルマの波動が働き、その魂が肉体に引きつけられ

てゆきます。魂が肉体に、この地上に戻ろうとする時、過去世に関しては表面意識では記憶を失っています。しかし本当の自分自身の魂

はすべてを知っているのです。

「火花のごとき神の生命」(アガシャは人間のことをこう呼んでいる)は、この地上界に輪廻転生してくる生命、魂は、それが神の偉大

なる生命の一部であり、何回輪廻転生をしてもすべて同一生命、魂であることを知っている。我々は、我々自身の生命を地上界に誕生さ

せることによって地上界に奉仕しているのです。我々の本当の生命、魂はどのようにして地上界に出現するかもすべて知っている神なの

です。どの親であろうともすべては過去世に縁のあった、過去世にも親であった方々なのです。

幽界、あの世の低い段階には、再び肉体に宿ることを認識してない生命がたくさんあります。地上界で認識したことがすべてであると思

って、あの世での学習を全く受けつけようとしない生命がおります。しかし、地上界を去ってから四十年、五十年すると、突然魂が閃く

のです。目覚めがあるのです。幽界で目覚めた瞬間、自動的に扉が開くのです。それからすぐに一人になりたいと思います。他にわずら

わされたくなくなります。

いわば孤立した状態にいる時に、自らの魂に啓示が与えられそれに耳を傾けることになります。

(地上界に生きている時に、人と群れて騒いでばかりいた人は、あの世に帰ってから一人で静かに考える、反省するという習慣を全く持

っていないから苦しむのである。一人で考えることの大事なことに気づくのは四十年、五十年とかかるというのである。日本の古神道、

そして仏教の習慣の中に、五十年祭または五十年忌を終るわと、取り立ててその人のために供養しなくてもよいといわれてきたことはア

ガシャの説法と不思議に一致している)

そこで指導霊がやって来ます。指導霊はより高い次元の世界から霊人としてその前に出現します。指導霊はより高い次元の世界のことを

徐々に、いろいろと教え、知らせ、そして話をします。「無量の意識」のより高度な、より精妙な事柄については、それまで記憶を失っ

ていたので初めは奇妙に映ります。

しかし、それ以後は度々指導霊の訪問を受け、その指導霊は生命の明白な神秘面を確実に説明します。例えそれまでは記憶を失っていて

も、もう基本的な知るべきことは知りました。でも今、この事実を意識するようになり正しく適切な時を経て「無量の意識」(神の生

命)から降臨した指導霊からそのことを教えられ、指導霊は肉体に宿ることについての情報を知らせ、地上界への転生の準備をさせま

す。より高い神の世界から来た指導霊はあの世の記録を調べ、その内容を知り、次に地上へ転生して行く霊に告げます。

「幽界のこういう場所にある人がいます。そこへあなたを連れて行きます。そこでその女性に会えます。今から二百年位するとその女性

は地上界で生活しています。その方はあなたのお母さんになって下さる方です

このことが指導霊によってあらかじめ二百年前に告げられます。このようなプログラムを遂行できるためには指導霊はどれだけ進歩して

いなければならないかおわかりでしょう。

親となり子となるべく定められた二人は、指導霊の導きと働きによって様々な惑星を訪れたりして多くの経験を積むでしょう。その女性

は自分がやがて輪廻について知ることになり、ある友の親となることを見、未来の息子となり娘となってくれる友と何度となく話し合い

をします。二百年の間、指導霊はしばしば二人を訪れ、二人はそれぞれ進歩します。

さて、いよいよその女性、未来の母親は生まれ変わる時が来ました。瞑想状態になります。(瞑想は地上界だけでなく、あの世でも大事

であることを知るべきです)

女性の表面意識は突然記憶を失い、魂は転生して最終的に地上界へ生まれるという過程を通ってゆきます。

興味深いことは、その女性の子供となるべき魂は、指導霊の導きによってその母親となるべき魂が地上界へ生まれ出てゆく状態を見るこ

とを許されます。地上界へ生まれ出た魂が子供から成人へと成長します。地上界で子供となるべき魂は、母となるべき女性の行動をずっ

と見守り続けます。

そろそろ子供となる魂を受け入れる準備が出来ます。親となるべき魂のオーラーの波動が働く瞬間を待ちます。魂となっている「火花の

ごとき神の生命」は親のオーラーの力の波動、力で顕現します。

その子供は二百年の間、あの世でその女性を知り、いろいろな経験を積んできます。

幸いなる神の子たちよ。結果はこうです。子供が生まれ成長し、三才になり、五才になり、親近感がますます強くなって子供は親に、親

は子供にひきつけられてゆきます。その子供が大きくなり、偉大なる芸術家、偉大なる音楽家に、それとも何かの偉人になるとします。

そうなるのも、それは二つの魂がこの地上界に生まれ変わる以前に母子があの世で学習していたことなのです。

地上界の神の子たちよ。こうした因縁の絆があるのです。

このようにして親子の因縁は大体二百年前に決まるのであり、二百年にわたるあの世での心の交流があって、そうして親のオーラーの波

動に乗って子供となる魂が妊娠して、それから十月十日の妊娠の間の経験によって生まれて来るのであるから、親子供に、子供が

親にひかれる情愛は実に実に深いものがあるのです。それが神が定められた法則、神の意志なのであるから、そのことに反する心を持

ち、行為するときに、動・反動・作用・反作用の法則によってその結果は受けなければならなくなるというのもまた当然だということに

なるのであります。

以上のごとくでありますから、祈願文の前文の始まりに

 「私たちは神との約束により 天上界より両親を縁として この地上界に生まれてきました」

と書かれてあるのであります。

このことが神の思し召しであり、私たちの魂はそのことをよく知っておりますから、親子の情愛の深さ濃やかさの話を聞くと「それが本

当だ」と深く感じて涙が溢れるのであり、親と子が争う話を聞くと「そんなことってあってよいのか」と思うのであります。

ですから、「親の恩に感謝する」ということが人間の信仰の原点であると書いたのであります。

高橋信次先生は、「親子の縁は天上界で決まるのであります」とさらりと言われましたが、高橋信次先生が説かれたことの真実性はアガ

シャの言葉によって裏付けされている面が大きいのであります。

さて、人間の運命についてぜひ知っておかなければならないことがあります。人生には絶対に変更することは許されない、もし変更しよ

うとすれば必ず不幸になる基底部分というのがあります。

どういう親から生まれたか。

男であるか、女であるか。

どういう人相で生まれたか。

いわゆる自分が生まれてきた条件です。

例えば、よく「こんな親のところに生まれなければよかった。もっとよい家に生まれればよかったのに」とか、「女に生まれて損した、

男に生まれればよかった」とか、「もっと美人に生まれればよかった」とか、こういうことをいくら考えても絶対に変えることは出来ま

せん。絶対に変えることは出来ないことであるのになんとか変えられはしないかというような気持ちを持つと、その人は必ず不幸になり

ます。その絶対に変えることの出来ない部分を「運命の基底部分」といいます。

いくら「こんな親のところに生まれて来なければよかった」と思ってみても、また新しく生まれ変わって出て来るというわけにゆきませ

ん。また、男が女になることも、女が男になることも出来ないし、今のような人相も、思って見たからといって細い目をぱっちりと出来

るわけでもないし、高くすることも出来ません。考えても絶対に変えることは出来ないのに、それを何とか出来るように思って心をイラ

イラさせると、それだけその人は不幸になるのですから、ムダな心のエネルギーは使わないことです。ムダな心のエネルギーを使うかわ

りに、思ったら思っただけ幸福になる方向に心のエネルギーを使う方が賢いのです。

ですから運命を幸福にしようと思うならば、思っても変えることの出来ない基底部分はそのまま素直に受けて感謝して、思ったら思った

だけ変えられる部分(可変部分)に心のエネルギーを集中することです。

親を変えることは出来ませんが、心の持ち方によって環境は変えることが出来ます。男が女に、女が男になることは出来ませんが、男は

男として、女は女として幸せに生きる道があります。顔の道具立ては変えることは出来ませんが、顔全体、身体全体から発散する雰囲気

は変えることが出来ます。

今まで子供を持つことが出来なかった人は、過去世で子供のことでこりごりして、もう子供はいらないと思ったからですが、しかし子供

のいない生活というものはどこかに侘びしさがあり、年を取るにつけて、やはり子供がいた方がよかったなあと思うようになるものであ

ります。

この世で子供のうちに死んで行く霊があります。子供は子供のままの姿であの世に行きます。するとあの世でその子供を育てる役目の人

がいます。その子育ては、今生で子供を持たなかった人が、この次に生まれ変わってきた時に、今度は立派に子育てが出来て失敗しない

ように、あの世で早く天上界へ帰って来た子供たちを育てる勉強をすることになっているのです。それですから、子供に恵まれなかった

という人は、あの世へ帰ってからまごつかないように、この世にいる間に子供たちに愛情を注ぐ訓練をしておいた方がよいということに

なります。

(これまでの日本の宗教界で、親子の因縁が詳しく説かれたのは正法協会だけであります。戦前に親孝行の道徳は説かれましたが、この

ように親子の因縁が教えられることは全くありませんでした。戦後は親孝行は封建的な道徳だといってアメリカの占領政策によって否定

されました。そういう間違ったことをやるからアメリカは没落するということになるのです)

信仰をする者が最初に忘れてはならないことは、一体どうして人間は祈りたくなるのかということです。それは人間が天上界からこの地

上に生まれて来た時に、魂のふる里である天上界を恋い慕う自然の感情として発生したものであります。

その証拠は、皆さんがすぐ実験してみられるとよいのであります。合掌して、「神さま、ありがとうございます」と言ってみて下さい。

そう言った時、あなたの心はきっと何とも言えず安らかになるはずです。

その反対に、手を合掌しないで後ろ手に組んで、「神さまなんかあるか、馬鹿野郎」とでも言ってみて下さい。どんな心になるでしょう

か。

そのように「祈り」というものは、自分自身の魂のふる里を恋い慕い思い出す自然の感情であり、同時に「反省」という自分を改めて見

直すという立場に立った「祈り」でないと、救いにはならないということであります。「苦しいときの神頼み」というように、反省もし

ないで、ただ苦しいから助けて欲しいというだけでは、救いの愛の手は差し伸べられないのであります。

自分の運命は自分でつくるのでありますから、自分自身でつくり出した不始末を自分で反省し、修正しないで、「神さま、助けて下さ

い」というのでは余りにも無責任だと思いませんか。反省も修正もしないで祈ったらそれで救われるというのでは、神は悪い者の味方を

されて、この世は悪い者が増える。悪いことも勝手次第ということになるではありませんか。それが神の御心ではないはずです。

人間は神の子であり、神の子に反した行為はその分量だけ償うということが神の子に与えられた摂理です。反省し、懺悔して祈る時に、

神仏は慈悲と愛を与えてくれるのです。

「祈り」というものは、このようにして、肉体を持った人間が神仏を思い起こす自然の感情として発生したものであります。

「祈り」は同時に行為とならなければいけません。口先で祈ってばかりいて、行為とならないのでは祈りは聞かれません。行為は完全で

なくても、真心をもって行為しようというその真心があると、その祈りは聞かれることになります。神はその行為だけではなく、その真

心を見られるのであり、同じような行為をしていても、その人に真心がなく、やれと言われるからやるとか、人が見ているから仕方がな

いからとか、そういう心でやる行為で祈ってもそれは聞かれることにはならないのであります。

そうであるがゆえに、祈る心の中には、また、自分は神の子であるという自覚と、神の子人間として生かしていただいているという感謝

の心がないと、本当の「祈り」とはいわれないのであります。

現在与えられてある環境、境遇というものは、神から与えられた自分自身の最高最良の魂の修行の場であり、ここを通らずして魂の向上

は有り得ないのですから、現在与えられてある環境、境遇を最高最良の場としてそれに感謝する心を天に向けた時、その心は祈りとなっ

てほとばしるのです。

人間は一人では生きられません。神仏の加護、大自然の恩恵・動・植物のお蔭、人々の協力という相互関係なくしては片時といえども生

きて行けないのであり、現在与えられてある環境、境遇を天命として、その中で使命を果たして魂を磨いてゆくためには、自然に人間は

祈らずにはいられないものなのです。

「祈り」の本質というものは変わりませんが、祈りには、その時のその人の心境により、また、環境、境遇の変化によっていろいろな相

違があり、段階がありますが、「祈り」とは、天と地をつなぐ光の架け橋であり、即ち神仏との対話であり、人は祈った時に神仏と心が

通ずるということになります。

人間は祈っても祈らなくても神仏に生かされているのでありますが、日常生活では心が外に向いている場合が多いですが、行為そのもの

が祈りであるといっても、やはり心を静かに内に向けて祈る時に改めて神仏に対面することになるのであります。

こういうことがよくわかって祈願文の最初の次の言葉を読むと、「祈り」というものがよくわかってくるのであります。

 

   祈り

祈りとは、神仏の心と己の心との対話である。同時に、感謝の心が祈りでもある。神理に適う祈り心で実践に移るとき、神仏の光

は我が心身に燦然とかがやき、安らぎと調和を与えずにはおかない。

祈り−対話−感謝−実践−光−安らぎ−調和。このように言葉を並べてみると、仏教は「安心立命」(心を安らかにして、生きることに

喜びを見出す)を説くものであるということの意義がよくわかってくることになります。

熱心に信仰しているといっても、心の中はいつも不安で、生きていることに少しも喜びが湧かないという信仰は間違っているのでありま

す。

「私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました」

このことについてはすでに詳しく述べました。この地上界への誕生は両親を縁としているのであり、天上界で親子の縁を約束するのは神

の計画による並々ならぬ因縁によることであり、のっぴきならない。しかも最高、最善の魂の環境を選んでその親の下に生まれたのに、

その両親に反抗し、不平を言い、親不孝をするということは、その最高、最善の魂の修行のチャンスを呪っているということになります

から、それは同時に自分の運命を呪っていることになりますので、親不孝をしている人の運命は絶対によくならないのであります。親に

感謝し親孝行している人は自分の運命に感謝し祝福していることになりますから、親孝行している人は必ず幸福になるのであります。

親に対する感謝というものは人倫の第一の鉄則であるのに、アメリカは占領政策によって親孝行の道徳を禁止し破棄したために、そうし

てまた日本の共産革命を企図している日教組の教師達は一斉に「親には感謝しなくてもよい」という教育を始めたために、本気で親を殺

すような子供が出てきたのであります。

週刊誌に「親孝行の教育をしようとする教師は教員室で村八分にされる」という記事が載っておりました。

一日も早く学校から「親不孝の教育」がなくなって、一斉に「親孝行教育」をするようにしなくてはいけません。しかし、そういうこと

を待っていたのではいつのことになるかわかりませんから、各家庭で親がそのような教育をする必要があります。

「慈悲と愛の心を持って調和を目的とし、人びとと互いに手を取り合って生きていくことを誓い合いました」

「人生の目的」とはこのことであります。この地上界を調和させることが目的であります。

その人の思想行為が、すべての人、すべての物との調和を目的としているか、いないか。それが神の心を生きているか、どうかの基準で

ありますから、調和を目的とした行為は必ず幸福になるが、不調和な行為にはそれに等しい不幸が訪れるということになるのでありま

す。

「しかるに地上界に生まれ出た私たちは天上界での神との約束を忘れ、周囲の環境・教育・思想・習慣そして五官に翻弄され、慈

悲と愛の心を見失い今日まで過ごして参りました」

これまでは社会全体が、無神論、唯物論であり、資本主義も共産主義も物を中心とした思想であって、すべては金と物中心で、人生の目

的といえば、地位欲、名誉欲、権力欲、金銭欲等、個人について言えば食欲と性欲を満足させることだと教えられて来ましたから、多く

の人々はそういう心になり、正しい心のあり方を説かなければならない宗教界までが資本主義思想に支配されて、「金をたくさん献金す

ると救われる」と説いている。

心が乱れ、正しい心の基準がわからなくなったから世の中は乱れて末法となり、忌まわしい事件が頻発し戦争もなくならないのである。

「今こうして正法にふれ、過ち多き過去をふりかえると、自己保存、足ることを知らぬ欲望の愚かさに胸がつまる思いです」

正法−即ち仏法とは大自然の法則であり、仏陀といわれた釈尊が説かれたから「仏法」というのである。

今まで正法誌で、また「心行の解説」の中で詳しく説いてきたことであるが、改めてまたここに書くことにする。

正法−仏法−大自然の法則

原因と結果の法則 これを「因縁」とも「因果」ともいう

動・反動の法則

作用・反作用の法則

した通りにされる、与えれば与えられ、奪えば奪われる。愛を与えれば愛が、憎しみ

  を持てば憎しみが返ってくる。

循環の法則

天体の運行、分子、原子の運動、四季の循環、人の輪廻転生、ありとあらゆるものはみな「円運動」をする。

慣性の法則、業の法則

心にも物にも慣性がある。物の場合は慣性というが、心の場合は性格の傾向性とか習慣という。または「クセ」と言う。宗教

的には過去世からの「クセ」を「 」と言う。人には生まれつきのクセというものがある。それは過去世からのものである

が、そのクセを直さないと運命は変わらないのである。

類は類で集る。

明るい心を持てば明るい運命が、暗い心を持てば暗い運命がやってくる。

「笑う門には福来たる」「泣きっ面に蜂」

正法即ち仏法を生きるとは、人間神の子の自覚を持って、どのようにこの法則を駆使して人生の目的を達するかというその生き方の基準

ということである。

キリストが「一点一画も捨たることなし」と言われたように、現在の自分というものは、過去の心のあり方と行為の総決算に外ならな

い。

たとえ現在自分が不幸であるといってもそれは自分がつくったのであるから、誰をも怨むことは出来ないのである。

自分を自分で不幸にする最大原因が「自己保存」である。自己中心的、自分本位の心と行動であるから、自己保存の心を持つ人は、人の

立場は考えない。一番恐ろしいことは、現に大自然即ち神の恩恵の中に生かされているのに、自分が生きていると思うことである。誰の

世話にもなっていないと思うことである。この心ほど忘恩の心はない。自分一人で生まれてきたように思って、親から生んでいただいた

ということは思わないのである。

狂信・盲信がなぜいけないかというと、狂信、盲信する人たちはすべて自己中心的で、自分さえよければよいと考えて

それは本当の神であるか

信ずる値打ち、資格があるのか

そういうものを信じたらどういうことになるのか

そういうことは全く考えない。即ち知性、理性を全く働かせないのである。

正法を知って過去の失敗を振り返ってみると、その原因は「自己保存」であり、足ることを知らない金銭欲、物欲、所有欲、地位欲、名

誉欲、権力欲等である。

着れる物であれば何でもいいのに、多くの人が着ているものはきたくない、自分一人だけの服を着たいというのは、自分一人がみなと違

っているという自分を認められたいという欲望と、自分しか持たないという所有欲の合作である。

多くの女性は、メーカーが勝手につくり出した流行の宣伝に踊らされて、自分では個性的で時代の最先端を行っていると思っているが、

しかし見渡してみると周囲はみんな同じ色、同じ型のものばかりということで少しも個性的ではない。

足ることを知ると、心が大事だということがわかるから流行は追わなくなる。如何にお化粧をしても心の汚れを塗りつぶすことは出来な

い。正法を知って実践すると心がきれいになるから素顔の美が輝いている。それだけ化粧品代もいらなくなる。流行を追って服を買う必

要もなくなる。

このように考えてゆくと正法を知ることは経済的にも得の道なのである。

「私たちは神との約束により天上界より両親を縁として この地上界に生まれてきました」

これまで説明してきましたように、親子になるということは実に深い深い因縁のあることで、人間がこの地上で、天上界で決めた親子の

因縁を実現するかどうかは、子供がオギャーと生まれてきた時のその母親の想念の如何にあります。もっと厳密に言うとその子供を受胎

した時の想念です。生まれて来る子供は必ず縁があるのです。「この子は生みたくない」「厄介な時に妊娠した」等とそう思うことは、

親も子も生まれてくる前の縁を破棄することになり、親子どちらも運命を狂わせて苦難の道を歩むことになりますから、縁というものは

大事にしなければいけません。

    祈り

なぜ人間は祈りたくなるのか。

「苦しい時の神頼み」と言います。自分の考えでやっていることが順調にいっている間は神ということを思い出せない人でも、さて、す

べて行き詰まったということになると思わず「神さま!」と叫びたくなる心はどうして起こってくるのでしょうか。それは、人間が、あ

の世、天上界(実在界)からこの地上界に生を受けたという事実から始まります。

魂のふる里である天上界で、我々は神があるということを知っているのです。神の世界には、一切の悩みも苦しみもないということを知

って私たちは生まれてくるのです。あの世で思うこと、考えることは、そのまま祈りの行為となって神仏と調和しているからです。その

ことが潜在意識に記憶されているからです。ところが人間は肉体を持つと、こうした天上界、前世の記憶は生まれた瞬間にいっぺん消さ

れることになって、いわば白紙の状態で生まれます。記憶していると、天上界、前世のことと現実のこととがごちゃ混ぜになって現実生

活が混乱するからです。赤ちゃんは生まれると間もなく音が聞こえ、ものが見えるようになる。自分の外に「もの」があると知るように

なる。そうしてそこへ親が「神仏はない」「霊はない」というような認識、即ち「もの」がすべてであるというような考えを持って接す

るから子供は次第に「神仏はない、霊はいない」と思うよになるのです。

子供は小さい時は、人間とは心であり霊であるということを知っています。それは小さい子供が人間の絵を描く時に、頭からすぐ手足が

出ている絵を描きます。

大人はこういう絵を見て子供は間違っていると言います。

しかし、子供がこういう絵を描くのは、子供の心の中には肉体という認識がないからです。眼で見る、耳で聞く、口が動く…、だから顔

という実感はある。手も動く、足で歩く、だから手足があるという実感はある。

保育園や幼稚園でこういう絵を描いて持って帰ってきた時が、子供に対する教育の重大なチャンスです。もっともそれ以前から教えてお

かなければならないことですが、こういう絵を描いて持って帰ってきた時に「化け物を描いてきた」と思わないで、「神がある」「人間

は霊である」「天上界がある」「人間は前世があり輪廻転生するのである」ということを教えてやることです。

天上界や前世の記憶は生まれた瞬間に現在意識からは消えますが、潜在意識の中には記憶として残っているのですから素直に「そうだ」

と思って聞くことになるのです。

このことを思いますと、近代物質科学、唯物論が発生する十五世紀以前の人のことはよくわかりませんが、それ以後に生まれてきた人間

は生まれた時から「神はない、霊はない、あらゆるものは物質だけである」という「しつけ」「教育」を受けて、そうでなければもっと

幸せな人生を送れた人たちが、そういう間違った「しつけ」「教育」を受けてきたために、どんなに苦難の道を歩んできたかを思うと誠

に残念でなりません。

せめて会員のみなさんだけはそういう間違った「しつけ」「教育」をしないで、正しい「しつけ」「教育」をしてもらいたいと思いま

す。どんな小さな赤ちゃんでも潜在意識は目覚めているのですから、お乳を呑ませながら、あやしながら、「あなたは神の子です。素晴

らしい霊です。約束によって生まれてくれてありがとう」と、そういう意味の言葉を囁きかけるのです。私は五人の子供をみなそんなに

して育てました。五人の子供はそれぞれに個性も能力も違いますが、子育てで苦労したということは全くありませんでした。むしろ子供

が成長してゆくことが楽しみでした。そうして育てられた子供たちが、やがて正法を知って輝かしい時代をつくっていってくれることと

思います。

ところが人間は肉体を持つと、心ない親から「神はない、霊はない、ものだけがある、人間は肉体だ」ということを教えられ自我に生き

ようとします。近代唯物科学の発達は「人間の自我意識を増長拡大し、自我を主張することが正しいことだ」という思想を生み出しまし

た。だから外国では交通事故をやると、絶対に自分が悪かったとは言いません。必ず相手が悪いと主張し合うのです。日本人はたとえ自

分の方が正しくても「すみません」と言います。もし外国で日本式に「すみません」と言ったらそれこそ大変です。「それみろお前は自

分が悪いから謝ったのだ」と言われて多額の弁償をさせられることになります。

「すみません」と言える世界で唯一の国、それが日本です。同文同種といっても隣の中国でも「すみません」は通用しません。これまで

の日本の外交の失敗は、日本が正しくて中国側に原因があったことでも、しかし総理が行って簡単に日本式に「すみません」と言ってし

まったことです。一ぺん「すみません」と言ってしまうと、今度はかさにかかってきて「お前が悪かったからこうしろ」と、援助をせび

り取られるということになるのです。

近代物質文明、自我を主張することを正しいとしてきた西洋文明は没落します。肉体が人間であるという自我意識は神理、即ち神の心で

はないからです。

自分が正しい場合でも素直に「すみません」と言える唯一の国日本は、必ず神に守られることになります。「すみません」と言えるのは

自我がないからです。自分は正しくても、自分が正しい行為をしたことで相手がいくらかの心の痛みを感じたら、その心の痛みを感じさ

せたことはすまなかったなあと、相手の心を思いやるところから「すみません」という言葉が出て来るわけです。

日米、日中、日韓等、日本と外国との関係は、自我を滅却して自我主張をしない日本と、極大に自我を主張する外国との関係ということ

になります。

日本人は「すみません」という一言で過去はすべて水に流すとということをしますが、外国人に対しては「すみません」と言ってからが

大問題だということになりますから、外国人に対しては徹底して論争することです。日本人は「すみません」で一切を水に流すというこ

とが身に染みついているために、相手を論争し、相手を批判することを悪いことのように考えるクセがあります。この考えは改めなけれ

ばいけません。相手の主張に対してこちらが黙ってしまえば、相手は自分の主張が正しいと認めたと思うのです。たとえ言われた人が心

の中で黙殺していたにしろ、はっきりと口で文書で反論しない限りは相手は自分の主張が正しいと思い込むのですから、そうなったら自

分が誤解されて損することになり、問題の正しい解決になりませんから主張すべきことはするという積極性を身につけないと国際人には

なれません。

人間は肉体であると考えるところから一切の煩悩が生じます。肉体の自分を大事にすることが善だと考えると、人より多く食べたい、多

く見たい、多く聞きたい、きれいに肉体を飾りたい等と五官の欲望に振り回され、その煩悩の欲望に自分が埋没して、かえって苦しみを

つくり出してしまいます。

二十一世紀は、自我拡大、自我主張の西洋物質文明と、自我滅却の日本文明との争いということになります。外国には「奥ゆかしい」と

いう言葉がありません。控え目にしていること、質素にしていることが偉大な証拠であるという考え方がありません。教養のない人は自

己主張が強く派手に振る舞います。しかし教養のある奥ゆかしい人は万事控え目です。奥ゆかしいという言葉は、心の美しさ、心の偉大

さを、目に見えない世界を思いやる心を持つところから生まれた言葉です。

しかし、自我滅却がよいからといって黙っていたのでは相手に理解してもらえませんから、主張すべき時には主張することが必要です。

私がユダヤのフリーメーソンは警戒すべきだと言っているのは次の理由もあります。

「人間は金持ちになって余裕が出来ると心に余裕が出来る。心に余裕が出来るといろいろなことを考えるようになる。考える人が増えて

くると、我々が仕掛けた政策が間違いだということに気づくようになる。そうなっては困るから、我々はゴイ(ユダヤ民族以外の民族)

に金を持たせないようにするのである。そのために我々は、ゴイに欲望を先取りさせて(家が欲しい、いい服が欲しい、旅をしたい)ク

レジットやローンを組ませるのである。欲望を先取りしたいと思う者はすぐそれに飛びつく。飛びついたが最後、クレジットやローンの

支払いのために一生をすり減らせるということになり、金の奴隷になって高尚な考え方は出来ないようになる。そのようにして我々はゴ

イを墜落させるのである。欲しいものはクレジットやローンで買わずに堅実に貯金をして、そうして買う方が経済的にも精神的にも得を

するのである」

あなた方はこのフリーメーソンの考え方を見て「そうだ」と思われないであろうか。しかし物価特に土地の値上がりを考えると早くロー

ンで買っていた人が得したと言えるが、しかし考え方の基本としてはなんでもかんでもクレジットでローンでという欲望を優先させる考

え方は、高尚な人間性を埋没させて金の奴隷となることになるから、やはり自分の霊、心を大事にする考え方、そういう生活をすること

である。アメリカの場合はニセドル、ニセ小切手が多いから現金取引を嫌ってクレジットの方が銀行から振替えられる方が安心だという

社会事情があるからアメリカ人はカードをたくさん持っているほど信用度が高いということになっているが、日本はそういうことはない

のであるし、特にまだ人間的に成熟していない、分別の足りない、欲望に走りがちな若い人がクレジットカードをたくさん持つというこ

とは危険である。

煩悩に悩むという心だけの苦しみを持っている上に、更にクレジットやローンの金を返済しなければならないという金にまつわる苦しみ

が生じてきたら、心の安らかさは吹き飛んでしまうことになるから、やはり釈尊の教えにあるように「足ることを知る」ということは大

事なことである。

(以上のようなことを書きながら私はまた考えた。皆さんはいろいろな宗教書、仏教書を読まれて、ここに書いてあることは正しいと思

うが、さてこれを日常生活に実践するということになるとどうすればよいのであろうかと、戸惑いを感じられたことはないであろうか。

私が若い時に特に仏教書などを読んでそう感じたのですから、おそらく皆さんもそう感じていられることと思います。その点、私が書く

ことは、すぐ日常生活に応用できるようにやさしく解説してあるのですから、特にここに書いたような子育ての根本になることは今から

すぐ実践してほしいと思います)

「慈悲と愛の心を持って調和を目的とし、人々と互いに手を取り合って生きて行くことを誓合いました。しかるに地上界に生まれ

出た私たちは、天上界での神との約束を忘れ、周囲の環境・教育・思想・習慣そして五官に翻弄され、慈悲と愛の心を見失い今日

まで過ごして参りました」

我々の意識、魂は、神の意識です。高橋信次先生は「神の意識の当体」といわれました。なぜ我々は神を思うことが出来るのであるか。

それは我々の意識・魂が神であるからです。

今までの宗教は、人間を神とは離れた異質の存在だと認めて、そうして神の恵みを受けよう、神に頼ろうという信仰をさせてきました。

自分自身を神と離れた別々の存在と見て、そうして神と一つになろうとすることは矛盾です。祈りは、人間が神から離れた存在であると

気づいた時に(そういう時に悩み苦しみが起こるのである)神と一つになろう、神の意識に帰ろうと気づいた時に自然に起こってくる衝

動なのですから、だから、神に祈りたいという心が起こってきたら、祈ることを恥ずかしいと思わないで素直に祈ることです。

祈っているうちに心が安らかになってきます。

正法を深く知るには、祈るという習慣を続けることです。

調和の反対である憎しみ、争い、嫉妬、羨望、怨み等を、なぜ悪いと思うのかというと、それは我々の意識、魂が、調和が正しいという

ことを知っているからです。

例えばあなた方の顔に泥が付いたとします。するといやな気持ちがしてきて洗い落としたい、きれいにしたいという心が起こってくるで

しょう。そういう心になるのは、顔はもともと泥が付いていないのが本当であるからです。私たちの本当の心、意識、魂は、調和が正し

いということを知っているから、調和の反対である、憎しみ、争い、嫉妬、怨み等の心を持つと「ああこれはいけないことだ」と思うこ

とになるのです。

その「調和」は、慈悲と愛の心でなければならないというのです。

あの世で慈悲と愛による調和の大事さを学び、知った魂が、地上に肉体を持って生まれて来てその調和を実践し実現したいと思って生ま

れて来たのに、なぜ不調和な人生を送ることになるのか。それは「周囲の環境、教育、思想、習慣、そして五官に翻弄されるからであ

る」というのです。

「心行の解説」の中でも書きましたように、人間は「オギャー」と生まれて来て空気をいっぱい吸うと、その空気を吸ったとたんに前世

とあの世の記憶は全部消される仕組みになっています。消されるといってもそれは現在意識の表面に浮かび上がってこないということで

潜在意識の中にはちゃんとあるのです。その潜在意識に記憶されていることは、成長するにつれていろいろな体験をすることによって浮

かび上がることになっています。

「正法は実践である」というのは、実践することによって潜在意識の扉が開かれ、あの世の記憶を甦らせることが出来、神の意識に通ず

ることが出来るからです。

実践のない知識、禅定瞑想では悟りは開けないのです。最近ある人を通じて入ったニュースでは、西ドイツで瞑想禅定が流行してノイロ

ーゼになる人が増えてきているということです。フランスでもそういうことがありました。それはある人がフランスで禅道場を開いたの

ですが、生活の実践は説かないので「無だ」「空だ」と、心を空っぽにする坐禅をやらせたからです。ノイローゼやいろいろな病気にな

るのを「禅病」と昔からいっていますが、修業途中で禅病になって死んだ若い僧たちがたくさんおります。このようなことになってくる

と、いよいよ私がヨーロッパに出掛けて行って指導をしなければならないようになってくるのではないかと思っていますが、とにかく

「オギャー」と生まれてきた時にいっぺん過去世のこと、あの世のことは現在意識で思い出せなくされてしまいます。いわゆる白紙の状

態になるのです。生まれたばかりの赤ちゃんが、耳が聞こえ、目が見えるようになって知るのは、生まれた所の環境と「物がある」とい

うことです。そうして、いろいろしつけられ、教えられ、経験してゆきます。やはり一番長く親と一緒にいることによって親の言うこ

と、することによって子供は色づけされてゆきますから、親のしつけ、行動が大事だということになります。

保育園、幼稚園、学校へ行くようになるとまたそこでいろいろなことを教えられ勉強します。その教えられた勉強したことが正しければ

よいのですが、間違ったことが教えられると、その子供の人生は大きく狂ってくることになります。ここに教育の大事さがあります。間

違った教育がされ、その間違ったことを正しいと信じた子供たちが大きく人生を狂わせてゆくことを考えると、なんとしてでも正しい教

育をすべきであると思わざるを得ないのです。

家庭でも学校でも、正しいことが正しくしつけされ教育されていたら、そんなに苦しいまわり道の人生を送る必要もなく幸せに暮らせた

はずの人たちが、間違ったしつけ教育をされたばかりに苦しみ悩みの人生を送ることを考えると、何とかしなければとじっとしてはいら

れない気持ちになってきます。

どこかの坊さん達のように、また、いろんな教祖達のように、世の中のことは馬耳東風と少しも関心を持たずに、間違ったことを平気で

説くというような真似はとても私には出来ないことです。

人間を一番大きく狂わせてきたのは「思想」です。

主義とか思想、哲学は、人間が考えることの出来る考え方の一部であって全部ではないということをよく知って下さい。ここにも釈尊が

説かれた「全体と部分」の話をあてはめることが出来ます。

ある角度から見た場合と、それとは違った角度から見た場合と、まるっきり正反対だという場合でも、それは見る人の角度による部分的

な見方の違いであって、それは全体の一部でしかないので、もっと違った角度から見ればまた違った見方も出来るわけです。

例えば、人間を単なる肉体であり物体だと見る人は、肉体を楽しませることだけが幸福だと考えます。即ち五官の奴隷となっている人た

ちがいます。そういう人たちは死ねば灰になっておしまいであると考えます。

心、精神だけを重視する人たちは、心を大事にするということで極端に精神主義的になって、五官の欲望を押さえようというので肉体

行、難行苦行をするようになります。そのように心、精神を大事にするという人でも人間は灰になっておしまいであると考えている人が

多いようです。以上二つはともに唯物論です。

一方に、人間は死んでも灰になるのではない、肉体は死んで灰になっても魂は死なない、永遠に存在すると考えている人たちもたくさん

おります。

二十世紀に生きる人間を一番大きく狂わせてきたのは、世の中のすべては「金」であるという思想を吹き込んだ資本主義思想と、世の中

にあるものはすべて「物」だけであって、その「物」を公平に分配すれば人類は幸福になるという共産主義思想です。

資本主義思想が初めて言い出されたのは今から約三百年前であり、共産主義思想が言い出されたのはわずか百四十年前である。資本主義

思想は主としてイギリス、アメリカが、共産主義思想はソ連、中共が実験をしてきて、既にアメリカもソ連、中共も没落しつつあり、依

然として武器生産をやめず軍備を拡張して、世界から戦争がなくならないことによって、以上二つの主義思想は失敗であることが証明さ

れつつあります。

世界の主導国家の指導者達が、主義思想による一方的な偏見を持ったことと、ユダヤのフリーメーソンの陰謀により、人類は第一次、第

二次世界大戦の悲惨さを経験しなければならなかったことは残念です。

だからして今後の世界平和は、資本主義思想ではなく、共産主義思想でもなく、勿論ユダヤのフリーメーソンの思想であってもいけない

ということがはっきりなってきたわけです。

この二つの大きな思想とユダヤ政策によって人々の心は大いに混乱させられ、金のために平気で人を殺し、主義思想に反したといっては

人殺しをする。そうして個人一人一人の心のあり方も混乱させられて多くの人が苦難の人生を歩んできております。

あまつさえ、「人を救う」と言っている宗教家が金を目的にして間違った教えを平気で説いて、人を救ってやるという言葉の裏で人を苦

しめてきています。

多くの人々は大局的なものの見方、判断が出来ないために目先のことに振り回されて苦しみを重ねています。

そこで高橋信次先生は、「資本主義も共産主義もともに唯物論である。唯物論によって人間は幸福になることは出来ない」と言われたの

であります。

こうして、人生のすべて、世界の歴史を達観された高橋信次先生の感慨がこの稿の冒頭の言葉となっているのであります。

「しかるに地上界に生まれた私たちは、……、慈悲と愛の心を見失い今日まで過ごして参りました」

というこの言葉の中に、正法に依ればそのような苦しみを経験しなくてもよかったのに片々たる主義思想や五官に振り回されて苦しんで

いる人類への深い深い悲しみの涙と共に、その奥にある高橋信次先生の慈悲の心を知ることが出来るのであります。

このように考えてきますと、よくこそ高橋信次先生の教えに触れることが出来たことの有り難さをまた味わうことが出来るのでありま

す。

「いまこうして正法にふれ 過ち多き過去をふりかえると 自己保存 足ることを知らぬ欲望の愚かさに 胸がつまる思いです」

「いまこうして正法にふれ、過ち多き過去をふりかえると…」とあるように、このことは何を意味するかといいますと、よく世間的に一

般的に言われているような反省では真の反省になっていない。正法を知った上での反省でないと正しい反省とはならないのであります。

多くの人は、謝りさえすればそれで罪は償われたと考えています。そうしてまた同じ過ちを犯してしまいます。そしてまた謝る。

例えば、「腹を立ててはいけない」ということは誰でもが知っているし、今度はもう腹を立てまいと考える。毎回考えていてもそれでも

腹を立てるのは止まない。それはなぜでであるか。それは正法を知らないからである。

正法を知ると人間は何のために生まれてきたのかという人生の目的がわかり、正法は神の心であり、正法に順うことが神に順うことであ

り、原因をつくるとそれはみな結果となって自分に返ってくるということがわかるので、自分が幸福になるためには進んで善いことを

し、悪いことをしてはいけないし、その法を守ることによって魂が成長してゆくのであるということを知るからです。

多くの人は、腹を立ててはいけないということはよく知っている。しかし、そうすることが魂が成長することであるということは余り考

えない。考えないのはそのように教えられていないからです。

高橋信次先生は「道徳によっては人は救われない」と説かれました。しかし多くの人は道徳的に立派であればそれを人格者だと言い、そ

ういう人は高い霊界へ行って救われると思っています。

例えば「喜怒哀楽を色に表さず」というのは儒教が教える道徳です。

「嬉しいこと、喜ぶべきことがあっても、腹が立っても、悲しいことがあっても、また、楽しいことがあっても、それを顔色に出しては

ならない」どんなことがあっても顔色一つ変えないようにならなければいけない。嬉しい、楽しいといってはわぁーわぁー飛び立って喜

んだり、悲しいと言っては顔に出しておいおい泣いたりするようなことはしてはならないということです。

昔の武士教育がそうであったし、我々の子供の頃の教育もそうであった。

もともとこの言葉は、相手の人の心を思いやるという憐憫の情から発したものである。

例えばボクシングの試合で勝った者がリング場で飛び上がって喜び、果ては肩車に乗せて喜ぶという行為は私は好きでない。なぜなら負

けた相手の気持ちを考える時、そんなに踊り上がって喜ぶ訳にはゆかないではないか。自分が嬉しいからといって「嬉しい、嬉しい」と

いってはしゃいでいた時に、そこに悲しい思いをしている人があったら、その人を一層悲しませることにならないであろうか。自分が悲

しいからといって、わぁーわぁー泣いて歩いたら、それを見た人たちは不思議に思い、いやな気持ちにならないであろうか。終戦前は、

喜怒哀楽を極端に顔や態度に表すと、それを「はしたない」「非常識だ」といって戒めたものですが、最近はそういうことがなくなりま

した。

それでは絶対にそういうことをしてはならないのであろうか。昔の人は静かに喜び、静かに人知れず泣きました。怒る時でも静かに怒り

諭しました。そうする人を「慎み深い人だ」と尊敬しました。

「喜怒哀楽を色に表さず」という言葉の奥にあるのが釈尊の「忍辱」の教えです。忍辱というと多くの場合、どんなに罵倒されても少し

も怒らずににこにこ笑っていること、やわらかな心で受けることだけと解釈しているようですがそれだけではないので、嬉しい時、喜ぶ

べき時でも周囲の人々の気持ちを思いやって慎み深く喜ぶということをも教えてあるのであります。

高橋信次先生が道徳では人は救われないと言われたのはどういうわけであるかといいますと、最近の人々の心は、嬉しい時、喜ぶべき時

の心の中には人に対する優越感、自分を誇らしげに思う心の中に人に対する軽蔑、人を見下げた心のあること、怒る場合は怒りの心が、

悲しい時には自分が悲しいだけでなく自分で自分をダメだと思って卑下する心、同時に人の幸福を羨ましがる心などがあるからです。そ

ういう心を内に持ったままで表面上は何事もなかったような取り澄ました顔をしていたのでは、見た目には立派に見えても心の内にはい

ろいろな感情が埋もれているからです。釈尊が説かれた「忍辱」の心の奥にあるのは、人生の目的を知った調和に基づいた相互扶助、人

類はみな兄弟であるという平等互恵の心、正法という正しい環境の法を知った生活行為の心で、この心は釈尊以前からも説かれ続けてき

た心です。

こうして釈尊が説かれた正法の心がわかってきますと、喜んだこと、悲しい思いをしたことなども、今まで当たり前だと思ってきたこと

の中にも反省しなければならないものがあります。また、人がほめられた時、人が幸せになった時、なんとなくそうでない自分を自分で

情けないと思い、その反動で「あの人が不幸になればよい」等と思われたことはないであろうか。

そういう小さいことはさて置いても、親を悲しませたり、人と争ったり、これくらいはと思って盗んだり、自分本位の考え方で相手と争

ったり、「あれも欲しい、これも欲しい」「ああしてもらいたい、こうしてもらいたい」「思うようにしてくれない」等、いろいろな感

情に翻弄されて心は苦しみをつくっているものです。そうした自分の心を反省してゆくと全く自分自身の愚かさに自分で愛想が尽きる位

です。

こうした自分自身に対するやるせない思いを親鸞上人は

「小慈小悲もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」

と言われ、

パウロは「己の為さんとする思いはこれを為さず、かえって為さざらんとする思いこれを為すなり」

と嘆かれました。

正しい信仰をするには、まず過去の醜い自分に自分で愛想を尽かすということが必要であり、大事なことです。

そこまでは親鸞上人もパウロも正しかったのですが、それから先が違ったのです。

親鸞上人は自分を反省された場合、こんな悪い自分を自分で救うことが出来るわけがないと思われたことから、限りなく尊い力のある方

に救っていただく以外にないというので「阿弥陀如来」を立てて阿弥陀如来さまに救っていただくというので念仏を唱えることを説かれ

たのです。

パウロも同じように「キリストのみ名を唱えよ」

と説かれたのであります。他力信仰はこのようにして生まれました。人間は長い間他力信仰によってしか救われないと信じて

「南無阿弥陀仏」「アーメン」と唱えてきたのですが、高橋信次先生は、「他力では救われない、自力でないと救われない」と説かれま

した。

 他方から自力へ

熱心に親鸞信仰をしている人たち、敬虔なクリスチャン達は、人間を神の子であるというのは増長慢も甚だしい、悪いことをする自分が

自分で自分を救えるわけがないといいます。

ちょっと考えるとそのように思えますが、果たしてそうでしょうか。私たちはここで考えることをやめないで、もっと考え方を押し進め

る必要があります。他力信仰をしている人たちは思考停止をしているのです。

人間が悪いことをした時に、悪いことはしてはいけないという心は何処から起こってくるのでしょうか。悪いことが悪いままでよいとい

う人は一人もいない筈です。下手な絵を描いた人はもっと上手な絵を描きたいとは思わないでしょうか。試験に不合格であると今度は合

格しようと思わないでしょうか。

人間には確かに悪いことを思う心があります。しかし悪い心を持っているのをそのままでよいと思う人は一人もいない筈です。九十九%

よい心を持っていても一%悪い心があれば、一%の悪い心位はよいさという人もいないでしょう。人間はどういう心になることを望んで

いるのであろうか。それは百%きれいな心を持つことです。だったら悪いことを悪いままでよいと思わないで、少しづつでもよい心を持

つようにすることが正しいのではないでしょうか。

腹が立った時に腹を立たないようにするのは、自分がしなければならないので、念仏や題目をいくら唱えてみたところで、腹が立たなく

なるということはないでしょう。自分の腹が立たないようにするのは自分自身でしかありません。試験に不合格だったら自分がもっと勉

強することです。

私の家から少し行った所に菅原道真公をお祀りしてある大宰府天満宮があります。受験期になると何百万という人が合格祈願に来られま

す。みんな目的の学校に合格できますようにと祈願するのですが、合格する人もあれば不合格の人もあるわけです。合格した人は試験問

題が正しく解けた人で、解けなかった人は不合格です。ちょっと実験してみて下さい。何も勉強をせずにいて、試験問題を机の上に広げ

て「この問題を解いて下さい」と一生懸命祈っていてそれで解答が出て来るでしょうか。絶対に出て来ません。この世のことは自分でし

なければなんにも出来ません。自分の心のこともそうです。

釈尊は「まことに怨み心をもってしては怨み心を解くことは出来ない。怨みなき心をもってしてのみ怨み心を解くことができる」と説か

れました。「阿含経」の中にある有名な言葉です。多くの人はこれを聞いて「なんだ当たり前のことではないか」と言います。そうで

す。当たり前であることが尊く有り難いのです。

病気になって治ることも有り難いですが、それよりも有り難いのは病気にならないで健康であることです。事故にあって助かるよりも事

故に遭わないことです。すべてのことがそのまま自然に有り難くなる。それがよいのです。

戦争がなくなりますようにと平和祈願をしても、戦争を仕掛ける人があると、戦争はなくなりません。大衆の与論によって歴史はつくら

れると唯物論者、社会・共産主義者は言いますが、それなら大衆が話し合って「これから戦争を始めようか」と討議して始まった戦争と

いうものがあるでしょうか。戦争を計画した時に、黙っているというのは戦争をすることに同意した、賛成したということになります。

そういうわけで世界平和実現のためには個々の大衆の善悪の発言が大事な影響力を持つことになるわけです。

政治のことは政治家に、教育のことは学校の先生に委してしまって、大衆は言われたままに動いているという現在の社会のあり方も、も

とはといえば、信仰という大事な問題を、あなた委せの他力信仰としているというところから起こってきたものです。すべてのことを他

人委せにしないで、それぞれ一人一人がしっかり考えるということにしないと改革も行われないのです。

自分でしなければならないといっても、自己本位、自我我欲の自分であってはならないということはいうまでもありません。正法によっ

て「人間は神の子」と知ったその神の子の自分であることを中心にして物事を考えることです。自分だけよければよい、人はどうなって

も構わないという考え方が自己本位の心ですから、自己本位の心の中には、人は不幸になってもどうなっても構わないという心がありま

す。そういう心を果たしてよい心ということが出来るでしょうか。

「人間は神の子である」ということは、自分だけでなく、みんなも神の子だということです。自分がよいと思うことはみんなにもよいと

いうことにならなければならないし、みんなが悪いということは自分にも悪いことになります。

人間はよいことをしたら誰も自分をほめてくれなくても、自分で自分をほめる心があります。反対に悪いことをすると自分で自分を責め

る心があります。よいことはよい、悪いことは悪いということを知っている本当の自分、その自分をを「真我」と言います。この「真

我」が自分であることを自覚させ、真我の命ずるままに生きることを教えるのが正しい信仰であって、人間を「罪の子」だとか「罪悪深

重の凡夫」であるといって、人間だから悪いことをするのも仕方がないといって悪い自分を改めようとしないのは正しい信仰の道ではな

いことに注目する必要があります。だからして正しい信仰をする人たちは、親鸞上人やパウロの教えを超える必要があるのです。

如来といわれる釈尊の教えと、そうでない親鸞上人、パウロの教えとにははっきりとした違いがあることがわかられたと思います。

                                            月刊『正法』

 

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  祈願文について説明いたしましょう

 

祈願文は、既述のように六章から成っています。このうち、第一章から第四章までが「心」、第五、第六章が、「肉体」についての祈り

の言葉です。

それですから、祈願文は、心と肉体、宇宙と人間の関係を、もっと短い言葉で表現し、魂と神仏の一体化、己自身・指導霊の調和をはか

る、もっとも身近な想念であり、魂の叫びであります。

またこれを唱えるとき、人は、各人の調和度によって調和され、その調和した心で行為に移るときは、心の位置はいっそう高まってまい

ります。

 

まず第一章をあげてみましょう。

 

  大宇宙大神霊・仏よ 我が心に光をお与え下さい 心に安らぎをお与え下さい

  心行を己の糧として 日々の生活をします(己の心に一日の反省をする)

 

 さて、ここまでの第一章は、大宇宙の全なる大神霊に対して光と安らぎを求めています。

大宇宙は、生命発祥の母体であり、大宇宙なくして、我々は存在いたしませんので、発祥の母体に、まず光を求めます。

すると、その光は各人の心の調和度にしたがって降りそそいでくるのであります。

心から唱えますと、心に安らぎを覚えます。安らぎは、各人の魂・意識に光が伝わってくるために起こる現象です。

光を受けたなら、大宇宙の正法の生活こそ宇宙の法に適うものでありますから、宇宙の経典、人間の経典である「心行」にもとづいた生

活を送ります、と最後の節で宣言するのです。この宣言が、ひじょうに大事なところです。

ふつう祈りというと、お願いごとで終わる場合が多いようです。お願いすればなんでも適えると思いがちです。これは人間の弱さ、もろ

さからくる迷いです。神と人間を切り離した迷信からくる自己満足です。

祈りというものは、人間が神の子としての自覚と、それへの感謝の心が湧き上がってくるときにおこる人間本来の感情であり、そうした

感情が湧き上がってくれば、当然、これにもとづいた行為というものがなければならないからです。

祈りの根本は感謝であり、その感謝の心は行為となるものでなければ本物とはなりません。

大宇宙大神霊の光を求めると同時に、心行を己の糧として日々の生活をします、と唱えるのも、こうした理由からです。

また真の調和は、己の心を信じ、行うことにあります。そうして、信じて行なう過程に、“祈り”というものがあるのです。

正しいと思っても、間違いを犯すのも人間、善なる行為と信じても、相手のうけとり方いかんでは、不善と見なされる場合もあるかも知

れません。

人間の想念、行為というものには、これが絶対正しいと自分では思っても、そうでない場合がひじょうに多いのであります。

そこで、人間は、神仏の偉大な救いを求め、その求めた中から生活するように心がけることが大事であり、救いも、またそこから生まれ

てくるものです。

 

 日々のご指導 心から感謝します

 

祈願文の第一章の最後の節は、こう結んでいます。

日々のご指導ということは、太陽が東から昇り、西に没する、春夏秋冬の転生輪廻、植物の生態、動物たちの生活……こうした姿という

ものは、われわれ人間にたいして無言のうちに正法の実体、実相というものを教えています。人はパンのみにて生きるに非ず、まず、自

然の姿、人間の存在というものを静かにふりかえる時に、そこに、大宇宙、大自然の計らいというものを人間は知ることが出来ましょ

う。自然の日々の教えにたいして私たちは、心から感謝の気持ちが湧き上がり、その心が第一章の最後の節となるのであります。

 

第二章は、神の命をうけた上々段階、あるいは上段階光の天使に、光を求め、感謝するための祈りです。

すなわち、第二章の祈願文をあげると次のとおりです。

 

 天上界の諸如来 諸菩薩(光の天使) 我が心に光りをお与え下さい 心に安らぎをお与え下さい

 心行を己の糧として日々の生活をします 日々のご指導 心から感謝します

 

諸如来、諸菩薩は、あの世とこの世を善導する光の使者です。

私たち人間にとって、一番身近に感じ、救いの手をさしのべてくれる人が、光の天使であります。人間が迷いの淵にたたされたとき、決

断を迫られた瞬間、あるいは病床の中にあって、心を新たにし、反省し、祈るときには、これらの天使がその人の魂・意識に光を投げ与

え、その人を救ってくれます。

人は誰しも転生輪廻の過程のなかで、こうした天使と接触を持っており、したがって救いはどんな人間にも与えられているのでありま

す。

縁なき衆生救い難し―という言葉がありますが、本当は、縁なき衆生というものは、一人もいないのであります。この意味は、今世で救

われる者と、そうでない来世いや、再来世でなければ光のかけ橋にのぼれない人もあるので、今世と限定したときにこうした感慨がでて

くるのであります。魂の遍歴というものは、外見では決してわかるものではありません。前世、過去世、あの世の生活、と一口にいえば

簡単ですが、実は、過去世とあの世というものは、人間が想像する以上に複雑であり、魂によっては今世でどうすることもできない者も

あるのであります。

しかし、本来人間はみんな神の子、仏の子ですから、反省するときには光の天使の救いをうけられるのであります。

この意味で、第二章を唱えたときは、上々段階光の大指導霊の光をはじめ、諸如来、諸菩薩の光が伝わってくるのであります。

 

諸天善神の加護

第三章は、諸天善神の加護を求める祈りです。

 

  天上界の諸天善神  我が心に光りをお与え下さい  心に安らぎをお与え下さい

  我が心を正し、一切の魔よりお守り下さい  日々のご指導 心から感謝します

 

諸天善神とは、人間の魂を悪魔から守るいわば法の番人です。心が正しく、慈悲と愛の心を失わず、調和の生活を送っている人たちにた

いして、これらの天使は、いつでもどこにいても守ってくれます。

諸天善神にはどのようなものがあるかといいますと、不動明王、魔利支天、八大竜王、大黒天、稲荷大明神…といったものがあります。

 

不動明王は、心の正しき者を守護する天使。

魔利支天は、心の正しき者が過ちを犯さぬように善導してくださる天使。

八大竜王は、心の正しき人を守ると同時に、人間以外の一切の生物を統轄管理し、生物相互の生存に必要な措置を講じてゆく天使。

大黒天は、光の天使を側面から応援する。地上においては心の正しき者、正法を護持するための経済援助をはかってゆく天使。

稲荷大明神は、五穀豊穣の手助け、情報の収集、また正しき者を助けてゆく天使。

      その方法手段は、ある特定の動物霊を指導し神理を教え、その動物霊を手足のように使う。

 

このように、諸天善神は、法を守り、光の天使の活動がしやすいように、その行動を側面から応援してゆくと同時に、心の正しき者の味

方となって、あの世における人間の意識界と、現実の地上世界の両面にわたって、働いている天使たちであります。

諸天善神は、光の天使になるための修行の場であり、役柄であります。しかも、如来、菩薩をも救う力が与えられております。

人間は所詮、神仏にはなれません。誤ちを犯し、これをさけられないのも人間であるとすれば、諸天善神の助けを借り、その救いにたい

して、感謝し報恩するのは当然であります。

 

守護・指導霊の祈り

 

  我が心の中にまします守護・指導霊よ  我が心を正しくお導きください  心に安らぎをお与え下さい

  日々のご指導 心から感謝します

 

第四章の祈りは、私たちの潜在意識層に在る私たちの本体あるいは分身にたいしてであります。その本体、分身が、守護霊となり、指導

霊となって、現象界に出ているその人の一生を見守り、魂の向上のためにあらゆる努力を払っています。

守護霊、指導霊について若干の説明を加えますと、まず守護霊は魂の兄弟(人生の生命は本体一人、分身五人から成る)の一人で、ほと

んど専属的について守っている霊です。したがって、ある人の五十年の歴史(想念行為)を調べようとするならば、その人の守護霊から

きけばわかります。この場合ききだすこちらの意識が相手方より低いと、それは不可能になります。あの世の意識界は、自分の意識より

下位の者の意識は見えても、上位の者の意識をのぞくことはできないからです。

指導霊は、主として、その人の職業なり、現象界の目的使命にたいして、その方向を誤らないよう示唆を与えてくれる魂の友人あるいは

先輩であります。たとえば、医者として過去世に経験のない者が今世で医者となった場合、その人の心の調和度によって、より高級な指

導霊がついて示唆を与えてくれるのです。

また人によっては、守護霊と指導霊を兼ねてその人を守り、指導している者もいます。

ともかくこのように、私たち現象界の人間にとって、いちばん身近にいる魂の兄弟たちに、常に感謝し、「祈り」という調和された想念

と行為を怠らないならば、その人の一生は、真に、安らぎのあるものとなりましょう。反対に不調和ですと守護霊はその人を守ることが

できず、これが長期にわたると不幸を招くことになります。

 

 自然への感謝

 

これまで述べてきました一章から四章までの祈願文の内容は、宇宙の心と人間の心を結ぶ祈りです。人間は、心と肉体とから構成されて

おりますがそのもっとも重要なのは、各人の心です。心は、素直に、のびやかで、自由自在でなければならないのに先天的、後天的因果

によって、その円満さを欠き、性格がいびつになっています。それを修整し、もとのまるい心にするために、四章までの祈り、その祈り

心にもとづいた実践行為によって、人の心は、次第に修整されてくるのであります。

いうなれば、四章までの祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋です。

 

第五章は、肉体維持に協力される、動・植・鉱にたいする感謝の祈りです。

 

  万生万物 我が現象界の修行にご協力 心から感謝します

 

私たち人間は、五体という肉体を持っています。肉体のない人間、これはあの世の人です。あの世の人は、光子体という肉体と異なるボ

ディーを身にまといますが、この世は、原子細胞からできた肉体という船に乗って人生航路を渡っています。したがって、舟を浮かべる

には、水が必要、燃料が必要であります。この地上は、私たちが生まれる以前から、私たちの肉体保全のために、あらゆる素材を無料で

与えてくれています。もしも、この地上に、私たちの生存に必要な食べ物、水、太陽の光が与えれられていないとするならば、私たちは

この世に出ることも、生きて行くこともできないと思います。科学の進歩によって、太陽光線を人工的に創り出すことが、仮に、できた

としても、その素材は大自然から求めてこなければなりません。つまり、肉体維持に必要な素材は、すべて、大自然から与えられている

ということを悟ることが大事です。

万生万物に対して感謝し、万生万物をいつくしむ心、これが第五章の祈りです。

 

先祖に対する感謝

第六章の祈りは、先祖代々に対する感謝と供養です。

 

  先祖代々の諸霊 我々に修行の体をお与え下さいまして 心から感謝します

  諸霊の冥福を心から供養いたします

 

現在、こうして肉体が与えられ千年に一度、二千年に一度しか出てこられない現象界に在るというのも、もとをただせば先祖の、たゆま

ざる調和への努力の結果です。

したがって、先祖にたいして心から感謝するのは人間として当然の義務であります。

義務とは供養を意味します。供養とは、調和への行為です。感謝の心は、調和への行為となって、はじめて循環され、己も、そして先祖

の諸霊も神の光をいただくことができます。

この世の人が調和されるとあの世の人も調和されます。あの世の人はあの世の環境に安住しがちであり、向上は容易でありません。これ

は自分が住んでいる下位の世界は見ることはできても、上位の世界をのぞくことができないからです。そこで先祖の諸霊は、時おり子孫

の家庭を見にきます。その時、家庭内が争いや不調和に満ちていますと、地獄霊の場合は、自分のおかれている環境が苦しいために、家

庭人に憑依し、苦しみからのがれようとします。すると、その家庭内はいっそう不調和になります。家庭が調和されておれば、おかれて

いる環境、想念に疑問を持ち反省するようになります。一方、高級霊の場合は、家庭が不調和ですとその家庭を守りたくても守りようが

なく、反対に自分より調和されておれば、その家庭から反省の材料を得ることになり、その家庭を守りやすくなってますますその家庭内

は調和されることになります。先祖の供養とは、感謝の心が祈りとなって、調和の心が行為されたときに、はじめて実を結ぶものであり

ます。

 

神仏との対話へ

 

祈願文に書かれている一章から六章までの意味は、これで一応おわかりいただいたことと思います。

 

祈りというものは、感謝であり、行為である。祈りというものは、天と地をつなぐかけ橋である。祈りというものは、神仏との対

話である。

神仏との対話とは、各人の守護霊・指導霊との対話であり、守護霊・指導霊はあのよの天使の導きをうけており、天使は神の意を体して

いますので、守護霊・指導霊の導きは、そのまま神の導きであるといってもいいのです。

ただいい得ることは、各人の心の調和度によって、その対話の内容も変ってくるということは否めません。このため、その毎日の生活の

中で、正法に適った反省と努力、忍耐と献身、人間としての義務を果してゆくことが望まれます。そうして、こうした生活の積み重ね

が、やがて自分自身の品性を高め、神仏との対話にまで向上してゆくのであります。

祈りについて気をつけることは、人間はややもすれば、祈ることによって他力的になってゆくということです。祈りが他力にかわったと

き、その祈りは祈りとしての意味をなさなくなってきます。勿論、祈りは、守護・指導霊の力を借りることにはちがいありません。しか

し正法の祈りは、神の子の自覚にもとづいた祈り心で行為するというのが、祈りの真意なのです。他力は行為を棚上げして、神仏の力に

すがってゆくものです。人間凡夫という前提で・・・。この点をまちがえますと、大変です。

色心不二という言葉があります。物も心も、ともに大宇宙の心から出発し、この心を起点にして、万生万物ができあがっておりますの

で、人間の場合、心と肉体とを健やかに、健全に保つためには、中道という神意にそった生活をすることが必要です。

私たちの祈り(行為)も、色心不二という中道の心にまで高めてゆきたいものです。

                                          月刊『正法』 

 

 

 

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