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   正法と百の人間模様 C 八起正法

 

 その三百一、

 誘惑される人

 悪魔は人を誘惑することはありません

誘惑は、自分自身の心のうちにあります

  

 その三百二、

 経験する人

 人は、ややもすると平坦な道を選びたがるものです

しかし多くのことを知るには、多くの困難に突き当たらないと知ることはできません

  

 その三百三、

 悟りの人

 まず己を知ることです

今の己を知ることができに人は、永遠に、悟ることはできないのです

  

 その三百四、

 実践の人

 人は反省することによって前進します

それからは、反省後の中道の実践にかかっています

実践のない反省は、観念の遊戯にすぎません

  

 その三百五、

 勇者

 真に努力する人は勇者です

勇気は知恵から生まれ、智慧(仏智)は怠りなく努力するそのなかから生まれます

  

 その三百六、

 今に生きる人

 明日を頼んではいけません

人の人生は今を置いてほかにありません

  

 その三百七、

 行いの人

 人を見るには、言葉より行いをみなければなりません

  

 その三百八、

 天国と地獄の人

 天国も地獄も、人の心が作り出します

天国の住者は、布施(慈悲)と、他を生かす協調(愛)の行為のできた者です

地獄は、我執に心を奪われた者が集まるところです

  

 その三百九、

 一歩一歩の人

 正法は、一日怠れば一日遠ざかります

一年怠れば一年離れます

僥倖(まぐれ当たりの幸運)という言葉は正法にはありません

  

 その三百十、

 奇跡の人

 奇跡は、自ら助ける者に与えられるのです

正道に励む者の報奨として、自覚の機会として、迷いを打ち消す証として、神が与えてくれた慈悲であり愛です

  

 その三百十一、

 安心の人

 安心は誰のためでもなく、自分のためです

人をうらみ、そねみ、ぐちり、逃避に自分を置くと、それだけ正法から離れることになります

自分が愛しいと思うならば、まず行じることです

今生で行じられない者は来生で、来生で行じられない者は再来生で、いつかは行じなければ、安心という至宝を手にすることはできませ

 

 その三百十二、

 自分との戦いの人

 正法は自分との戦いです

己に克つことです

業の自分に負けると、その分だけ来世に持ち越し、もう一度やり直さなければなりません

二つでも三つでもいいのです

自分の業を正し、人生の一ページを飾るようにしたいものです

  

 その四百十三、

 毒を食べた人

 人の中傷、ねたみ、うらみをそのまま受け取り、相手を非難すると、中傷、ねたみの毒を食べたことになります

毒は体をこわし、周囲を暗くします

   

三百十四、

心臓は人間の太陽と考える人

太陽系は太陽を中心にして水星、金星、地球、火星、木星、土星など九惑星が自転、公転してとどまることを知りません

もちろん、もうしばらくすると、太陽の上に大きな惑星が写し出されて驚くことになるようですが、十惑星の真実は置いておくとしまして

太陽の周囲を地球が自転、公転しながら三百六十五日四分の一の周期で再び同じ軌道を回転し続けるように、生命の流れ、生命の運動というもの

は、常に円を描きながら進歩していきます

心臓という肉体にとって大事な器官は、肉体の生命活動を維持促進するために休むことなく働き、、各器官が機能を果たせるように新鮮な血液を送

り込んでいます

送り出された血液は体全体を通って、やがて再び心臓にまい戻り、また新しい血液となって各所へ散ってゆきます

心臓を太陽とすれば、送り出された血液は、太陽の熱、光のエネルギーとみていいでしょう

そのエネルギーが胃や腸、肝臓、肺臓という惑星に生命を与え、その生命活動を助けているのです

と同時に、胃腸や肝臓の働きが心臓の働きを促しています

このように、太陽は惑星を生かし、また惑星も太陽の働きを促して循環を続けています

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その三百十五、

転生輪廻を信じる人

人間の魂は、永遠に生まれ変わり死に変わりして、とどまることをしりません

この世の生活が終わればあの世で生活をします

水の生命が、気体(雲)液体(水)固体(雪や氷)と三相に変化するように、人間も前世、現世、来世の三世の循環をくりかえします

生命というものは誰彼なく、すべて循環という輪廻の過程を通るように仕組まれているのです

 

三百十六、

人間と大宇宙の関係が不思議な人

人間の心は宇宙大の広がりを持ち、人間は神の子です

人間の肉体構造が宇宙と同様につくられています

それは星の数と体の細胞の数が同じといわれています

人間の細胞数は六十兆個といわれ、大宇宙の星々は六十兆個といわれる根拠ですが、これからそれも新しい発見がなされるようです

大自然を神が創造したように、人間もまたこの地上を創造してゆくのです

 

その三百十七、

人間は神の子、を信じる人

人間は神の子です

神の子だから、自ら律し、自ら創造し、自ら、この地上を調和させてゆくものです

人間は神と同様に、自由な意思が与えられ、その自由な意思で、どう創造しようと、それは神の子に許された権能です

天があり、地があり、男女の区別のある相対界であるからこそ、より進化した調和を生み出すことも可能です

人間は自由な意思と、自由な創造力を与えられ、それが神の子の権能として行使できるために、悪も善も自由に任されており、人間は神の子である

ために、その責任は自分で償わなければならないように出きているのです

 

その三百十八、

反省をする人

正道を口にしながら、他人を見下し、あたかも自分が善人のような錯覚に陥っていないか

正道を口にしながら他を誹謗し、正しく素直な人々を罪におとし入れようとしていないか

人から注意されると、自分が他を誹謗したことを忘れ、反省することなく自己弁護をしていないか

増長慢の心が常に自分を支配しているので心が不安定ではないか

霊聴、霊眼などの現象によって、それがあたかも、本物の映像、声のように信じていないか

正、不正の判断がしにくくないか

善と悪のケジメがぼやけていないか

不平、不満の心が自分を占め、心が混乱していないか

このようにして、八正道のフイルターを通して項目を一つ一つ判断して行くのです

 

その三百十九、

転生輪廻(生まれ変わり)を思い出す人

人は誰しも転生の記憶を持っています

その時々の人生の体験、人生の教訓、ものごとの道理、心のあり方、人生の目的、無常の真意、義務と責任、こういうものが人の智慧として記憶され

ているのです

今生で学んでいなくとも、いつでもこうした智慧が心の中から思い出され、人生の指標として人生の羅針盤として、出番を待っています

正法では、今世で学んだものを知恵といい、過去世で学んだものを智慧と区別しています

このように智慧は心の宝です

心に内在された智慧、パラミタ(般若心経の中の波羅密多)です

この世で学んでいなくても、過去世の記憶をたどれば、心の中からフッと涌き出て誤り少ない人生を送ることもできるのです

それは一〇%の心を正し、心の記録装置である想念帯を浄化することです

想念帯が浄化されると、想念帯の内側に眠っている九〇%潜在意識が目をさまし、想念帯の一角に窓が開き、意識の表面に流れ出てきます

そうすると、人の心、社会のあり方、いままで気づかなかった事象や道理がわかり、こうなると心が休まり安らぎのある生活が送れるようになります

それでは、生まれ変わりの転生をどうすれば、紐とけるかを述べます

それには想念帯の浄化であると先に述べました

想念帯の浄化は、八正道という物差しに照らし、毎日の思うこと、考えること、毎日の生き方を反省し、正道に反した想念行為を改めて行くことです

そうして肉体中心の執着という荷物をおろしてゆくことです

執着から解き放たれると、人は生死の境を超えることができ、裸の自分になると、潜在意識の奥に眠っている生まれ変わりの記憶が、ドッと流れ出ま

この最短の方法は、想念帯を汚す最大のものは、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望ですから、これを中心に、先ずなくして見てください

 

その三百二十、

国の財政がとても心配な人

今日は、平成十五年八月二十日です

国の財政が逼迫していることは、このウエブの中でも、散見的に何度も書いていますが、高橋先生の予告にありますように、当時のイタリアの窮状に

も匹敵するような財政破綻がいずれ来ます

現在の国の財政状況は、分かりやすく申しますと、給料は四十五万円の人が、支出は八十一万円ということです

誰が考えても、国の財政が借金まみれであることに、危惧を抱かない人は一人もいません

高橋先生は、「日本は世界の中で一番光が出ていています、あと二百年は栄え、、食糧危機はありません」と予告されているのですから、安心して一

刻も早く、たとえ一時的に経済が沈滞しても、族議員や抵抗勢力にブーイングされても、国家百年の大計に、ユメユメ怠りなきよう、天に蔵をつくる勇

者は、政治家にいませんか

 

その三百二十一、

法律と道徳と正法の違いが疑問の人

古代社会は、社会生活の決まりが、宗教と深く結びついていましたので、

自我の意識が薄く、生活そのものが共同的でしたから、その規範を破る人は少なかったのです

人口が増えて行くと、共同生活の秩序を保つため、いわゆる「道徳」が生まれました

今日の法律は、こうした道徳が基礎となり、社会の調和を目的として確立されたと言えましょう

こういう意味で、法律は菩薩心の現れであり、半ば強制を伴いますが、道徳は良心にうら打ちされているといえます

道徳は人間としての義務感、良心が柱になっています

もうこうなると、正法のなんたるかがおわかりでしょう

道徳は社会生活の規範であるのに対し、正法は、その規範を超えた神の心そのものであるといえます

 

その三百二十二、

愚痴る人

グチは自己保存に深く根ざしています

自己保存は自分を握って離さない、自分が、自分がという自己中心の心の状態です

グチというのは、言ってもどうにもならないことを言って嘆くことです

このどうにもならないことを言って、本人は憂さを晴らすのでしょうが、それを聞かされた人は、気の毒です

気の毒とは、気は精神であり心の毒です

つまり気の毒とは、他人の心の毒を食わせて申しわけない、忍びない、ということです

愚痴は自分だけならまだしも他人の心に暗い陰を落し、その影響や計り知れません

例えば、夫婦間の問題を、奥さんが子供に絶えず父親の愚痴を言って聞かせたとします

それは長い間に、子供の心に暗い影を落として、思春期に酷い場合はノイローゼ、心の障害を引き起こすことにもなります

それほどグチの悪影響は深刻なものなのです

それと同時に、自分の心にも神の光を閉ざした悪循環の最たるものであり、神の子の己を否定し、人間疎外感と孤独を生みます

 

その三百二十三、

怒る人

怒りというのは、腹立ち、おこる、気にさわる事があって興奮することです

これもグチと同様、自己保存に深く根ざしています

怒りは、興奮によって何も関係のないものまで八つ当たりをして、破壊を意味します

こうした状態を霊視しますと、黒、赤、灰色の妖気がただよい、悪霊や動物霊に支配されているのが見られます

いうなれば、あの世の最低の悪霊に身も心も蹂躙されているということです

怒れば心臓はドキドキと血液の循環にも悪影響を及ぼし、それが絶えず続くと循環器障害を引き起こす原因ともなります

また食欲や睡眠にも影響します

睡眠不足になれば、日常生活にも仕事にも影響し、心まで不安定にし、こうした状態が長く続けば、仕事も行き詰り、病気や災害も誘発することにな

るのです

 

その三百二十四、

欲望一杯の人

足ることを知らない欲望というのは、金銭欲、物欲、名誉欲、地位欲、権益欲権勢欲、政治欲、集団欲、団体欲、有名人欲、プレイヤー欲など多くの

過度の欲望に身を焼く人たちがいます

これもグチ、怒りと同様に自己中心の自己保存に深く根ざしています

足ることを知らない欲望は、自己を失わせる最たるものといえます

欲望が過ぎると相手を蹴落とし、ますます神の子の真実を閉ざし、想念帯を曇らせてゆきます

 

その三百二十五、

心の三毒の人

これまで連続して述べました愚痴、怒り、足ることを知らない欲望の三つを、一番心を汚すという意味で、心の三毒と呼んでいます

人間の精神、肉体をもっとも不安定にする想念がグチ、怒り、過度の欲望なのです

精神と密着した、私たちの体は、思うことがただちに現象となって現れます

笑いは胃腸の活動を高め、怒ったり悲しめば、心臓の運動や睡眠をさまたげます

こういうように、想念は、その人の心と肉体に敏感に反映して行きます

これは、嘘のつけない心と、神から与えられた正常な肉体まで汚してしまうのです

そして、目的と使命を担ってきた今世の自分の運命、天命を狂わせ、新たな諸々の原因(業因)つくっていくことになります

多くの人は、心の三毒によって、原因と結果の堂々めぐりをしており、二千年の昔も今も、心の面ではあまり進歩がないというのも、この悪循環から抜

け出せないというところにあります

今世の原因が、今世で辻褄が合って清算されればいいのですが、清算されなければ、あの世に持ち越し、来世でおさらいしなければなりません

このように、人類にとって「心の三毒」というのは心を汚す最たるものと理解いただきたいのです

 

その三百二十六、

正法、正法といいますが、それは何ですかと疑問の人

正法には三つの柱があります

その一つは大宇宙を支配する大意識です

正法では、大宇宙の創造神を「大宇宙大神霊」と呼称しています

二つ目は、生まれ変わり(転生輪廻)です

三番目は、慈悲と愛です

この三つが正法の要です

布施の行為は慈悲の現れであり、慈悲は神の心から生まれます

正法を信じながら行為として布施ができなければ、その人はまだ正法を理解していないといえます

米一つ作るにしても、自然の環境、自然の恵みと人々の協力があってはじめて可能なのです

こうした生活用品の全ては、自然の条件と人々の協力の賜です

こうした現実を見れば感謝の心が芽生えてくるのは当然です

人はまず素直にこのような現実を認め、感謝の心は報恩となって形に現わして行くものです

慈悲の心は神の心であり、その心は布施となって、無理なく自然と行えることが大事です

魂の前進、向上は布施という慈悲の菩薩行を通して約束されるのです

人間は自分を過信したり感謝の心が失われてくると動物以下に成り下がり、行為のない人が行くあの世の姿というものは、想像以上の苦界であると

いうことを知るべきです

布施は金品だけではありません

自分のもっともしやすい方法で人々に奉仕することが、立派な布施になります例えば、優しい思い遣りのある言葉などの、人が人生を歩き易いように

手を差し伸べる全ての行為をいうのです

そして、愛は地上の光です

このように、大宇宙大神霊という神の存在と、生まれ変わり、慈悲と愛が正法の真髄なのです

正法の悟りは、生活を通して、中道の心を体験として、学んでゆくところにあります

次に、正法は霊能者をつくるのではなく、悟るためにあります

 

その三百二十七、

終身雇用は神の意思、を主張する人

日本の古きよき時代の、伝統的な雇用形態である終身雇用は、神が求める最高の雇用形態であると、当ウエブの中で何度か書いてきました

この項では、ナゼ終身雇用が最高のものかを述べるのではなく、それが実証された一例をお知らせしたいのです

自動車のトヨタに対する格付けがトリプルAという最上級の格付けになったことは、すでにご存知の方も多いと思います

格付けしたのはムーディーズという格付け会社ですが、五年前にトヨタは、ムーディーズに格付けを引き下げられています

その理由は、トヨタの終身雇用制度は、企業力を弱めるというものでした

欧米の考え方は「アダムとイブ」の説話に見られるように、人は放って置けば悪いことをするものである、だからアメとムチを使い分けて働かせねばな

らないという性悪説に代表されてきました

一方、日本は性善説の、人間というものは、人が見ていようと見ていまいとも、人は一様に自分の能力の範囲で懸命に励むもの、という考えです

格下げした当時のムーディーズの考えでは、終身雇用によって膨大な人件費を維持すると利益が減るという、アメリカ流の考えからでした

これが今回、最高益の更新による更なる財務体質の実現によって、最高のトリプルAです

それは当然なことでしょう

この欧米流の見方をすれば、日本が世界の経済一等国になったのは、日本的経営という終身雇用、年功序列などに有る、更にまた、この制度によ

って従業員や家族に与えた将来への安心に有るというのです

確かに、そういう見方も一面を突いていると思いますが、正法の立場から申しますと、日本という、ちっぽけな資源もない島国が、世界の経済の盟首

になり得たのは、かって、モーゼが、釈迦が、イエスが人の道を説いたように、今度は人類の生き方の規範を、日本に高橋信次として生まれて、正法

という名称によって説き広めようという霊団が日本のそこここに生まれて、色んな分野で力を合わせるという快挙があった、と著者は言いたいのです

もし、それが神の思し召しであるのなら、正法が世界に広がるまで、この国の隆盛はとどまる事を知りません

それを阻むものがあればそれは退けられ、立ちはだかることはできません

このように悠久の盟主日本は留まることを知らないのです

 

その三百二十八、

謙虚な人

人は自分を過大評価しがちです

地位、名誉、知識が人より優れているからといって、そのような偏見があるとすれば、悟るということはできません

人は永遠の生命として、何億、何十億年の年輪を重ね、転生輪廻して、現在、ここに在るのです

何億、何十億年の過去世の人生体験は、潜在意識の中に沈み、容易に外に出てきませんが、人はこうした過去を持ってここに生きています

その長い年輪とこの世の短い一生とは比べものにならないひらきがあるのに、

その短い一生の中で得た知識、地位、名誉におぼれるとすれば、いかに薄っぺらで頼りないものか、おわかりいただけるでしょう

こうした、心の潜在意識の中から涌き出てくる正法の智慧は、この世の知識が呼び水にはなっても、知識そのものから生まれてくるものではありません

謙虚に素直に、正法に沿った想念と行為を重ねて行く内に、これまでの幾多の人生体験が智慧となって、心の中から忽然と現れてくるものと知ってく

ださい

己を知り悟るためには、先ずはさておき謙虚な心から始り、謙虚な心を持ち続けることです

謙虚な心の修業は、今を置いて次に生まれ変わるまで、チャンスは訪れてこないと自覚することです

 

その三百二十九、

参禅の人

参禅によって人は悟れません

自分の想念、行為を中道という大自然の尺度に合わせることによって悟れるのです

参禅の風習はバラモンやヨガから来ています

禅宗の由来は、五世紀の頃、インドの僧であった達磨(ダルマ)は、仏教やバラモンを学び、これらを基礎として開いています

ダルマは菩薩界の人ですが、その求道と意志の強さは抜群で、インドから中国に渡って後、面壁九年の行を積んでいます

その求道の心が光明を呼んだのですが、ダルマはそれを座禅によって得たものと錯覚したのです

同じように、真言密教も、源流はヨガやバラモンですが、菩薩である弘法大師は、晩年、霊的な諸現象が現れ、このため真言密教を仏教の正統のも

のと誤認してしまうのです

正法は、俗界から山奥に身を隠し、雑念から離れるのではなく、俗界にあっても、それに染まらぬ聴和を維持できなければ、悟ったと言えないのです

 

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その三百三十、

足ることを知る人

欲望にはこれでよいとする限界がありません

人間の心が宇宙の広さを持つように、欲望も、その限度を知りません

心の不安と混迷から人間が解放されるには、それにはまず足ることを知った生活を送ることです

生まれたときが裸なら、死ぬときも裸であり、財産の一つもあの世へ持つていけないのです

そうだとするなら、生きていける物だけあれば充分なのです

遺産数兆円といわれた政商は死ぬとき「いくらあっても持って行けないしナ」

と、いまわの時に言ったとされますが、生まれる時が裸なら、死ぬ時も裸という、人間はみな平等なのです

ここで足ることというのは、人生の目的と使命を悟り、中道という大自然の法にそった正道を知った、生活を指しています

このように足ることとは、我慢ではありません

足ることを知った生活とは、抑圧された生活でもありません

伸び伸びとして、人間らしい安心した生活をするためのものなのです

 

その三百三十一、

他力信仰の誤りを確信する人

現在の宗教のほとんどは他力信仰です

他力信仰は今や全世界をおおっています

日本では、最澄(伝教大師)が天台宗を定着させた頃までは、まだ自力信仰でした

法然による、念仏信仰がもてはやされるようになり、他力信仰は定着します

他力では人間を本当に救うことはできません

神の子の己を信じ、その心を生かした生活こそ安心への道なのです

その後、日蓮が念仏無間地獄といったのは、念仏さえ唱えれば人を殺しても何をしても許されるという誤った考えを批判したものです

他力は業との妥協です

したがって業の是認に結びついていくので、人間は他力で救われたものはいないのです

自分を助けるものは自分しかいないという自力です

 

その三百三十二、

波羅蜜多の大事さを知る人

波羅蜜多(はらみた)は般若心経の一節です

古代インド語でパラミタといいます

詳しくはプラークリット語です

内在された偉大な智慧に到達するという意味です

波羅はパラーで、行く、到達するという意味です

蜜多はミターで、貴重なものが内在する、貴重なものが家の中、心の中にという意味です

蜜はインドでも玄奘法師の中国の当時も大変貴重なもので、それを当て字にして蜜が多い、と表現したものです

これはどういう意味かと申しますと、人間は永遠の生命として、何億、何十億年と生きています

人間はその数多の人生体験の智慧が心の中に内在されているので、それを小出しにしながら、人生の羅針盤として大過ない人生をおくることができ

るのです

心の中にある蜜のように貴重なもの、その智慧に到達する方法を教えるということです

 

その三百三十三、

イラク戦とかってのベトナム戦が気に掛かる人

ベトナム戦は半年で終わると、アメリカのかっての国防長官は豪語しました

実際は、二年、三年と続き泥沼にはまって苦戦したことは、ご記憶の方も多いと思います

コンピュータではじいた計算と実戦とでは大きな狂いがあったのです

しかもこの見通しが、アメリカ経済を大きく揺り動かす導火線になろうとは、予想できなかったのです

イラクもベトナム戦も、どちらもアメリカの大国意識から出発した戦いです

イラク戦は、アメリカを中心とした多国籍軍によって、あっけないと思う程に短期間に終わりました

それからのイラクでは、カメラを銃器と間違えるように、現場におもむく兵士の想いもわからないばかりか、現地人の心をつかむこともできていません

どちらの戦いも、敵が分からないという神出鬼没のゲリラ戦に突入していますコンピュータなどの近代機器は計算ならお手のものですが、応用問題は

解けません

人間の心情を、計算で解こうとしても無理なのです

近代戦争はアフガニスタンから始って、イラクからイスラエルへと戦火は飛び火して、中東の宗教戦争の観を呈しています

つまりイスラム教圏とキリスト教圏の戦いの様相です

人類を救うはずの宗教が戦争の道具になろうとは、地も落ちたものです

 

その三百三十四、

人間を小宇宙と信じる人

大自然を大宇宙といい、人間を小宇宙ともいいます

地上の水圏は七十一パーセント、陸地は二十九パーセントです

人間の肉体も水分が七十一パーセント、骨の蛋白質、燐酸カルシュウムなどが二十九パーセントで、地球と人体は同じように構成されています

また、人間の誕生、あるいは死も、女性の生理も、干潮、満潮に深い関係を持つています

これらが人間を小宇宙という根拠です

 

その三百三十五、

先祖供養の目的を知る人

家庭の和合、調和が先祖の最大の供養というのは、あの世の先祖が、子孫の家庭を見守っており、例え先祖の霊が地獄におちていても、子孫の調

和ある家庭をながめることにより、自分自身の不調和を改め、その霊をして昇天させることになります

子の幸せを願わぬ親はいないはずです

しかも子供が親より立派であり、温かい家庭を築いていれば、親は子に励まされ、その子に恥じない自分になろうとするのは当然です

あの世もこの世も、少しも変りません

先祖供養というのは、お茶やお花やお備えをすることではなく、子孫が明るく楽しく暮らすことなのです

調和こそ最大の供養です

 

その三百三十六、

憑依作用を知る人

人は地獄におちれば文字通り苦界にあえぎます

類は類をもって集まるの喩で、その霊は自分と同じ思想、考えを持った人に助けを求めます

これはいわゆる憑依作用となって、人体、実際には意識に憑きます

すると憑かれた人は、病気をしたり、自殺をしたり、精神病になったりします

憑かれた人が病気をしたり、精神病になったりするのは、憑いた霊は地獄霊

や悪霊といいます

立派な霊なら病気になったり精神病にはなりまさせん

立派な霊が憑けば、明るく爽やかに清々しい気分になるのは当然なことです

悪霊も、光の天使も自らの心がそれを呼び込むということです

人間であるからには、悪霊と同類の心のあり方をしないということです

 

その三百三十七、

殺生を知る人

人間がこの地上に生存するかぎり、最小限度の殺生はまぬがれないものです

米を食べてはいけない、魚を食べてはいけないとすれば、人間は餓死する以外はありません

植物ならよい、動物はいけないという根拠はどこにあるのでしょうか

植物にもそれぞれの精霊がいて、人間の言葉で話をし、喜怒哀楽までみせます

このように、動物と植物の違いは静的か動的かの違いだけです

昔の出家僧は妻帯も認めず、動物食を口にしなかったのは、その栄養価の高さが本能を刺激しやすいということにあったようです

こうみてくると動物食はいけないという考えも、こういうところにあったのでしょう

生物界の殺生というものは、本当は自然の摂理なのです

土の中のバクテリヤを昆虫が摂り、昆虫を小動物が食べるという、そのくりかえしは生物間相互の生存を助けています

昆虫を含めた動物界の生存競争は、必要以上に殺生していませんし、生存に必要なものしか摂らないように、人間も無益な殺生をしてはいけないの

です

 

その三百三十八、

正法の理念を知る人

正法が出て流布される時は、文字で書き残され証明される文証、理論的に解明し証明される理証、現象によって証明される現証の三つの証が理路

整然と用意されています

そうして迷っている人達に、人間としての使命と目的を悟らせてゆくものです

 

その三百三十九、

覚者が出る時期と場所を知る人

悟られた観自在者が出られ法を説く時期は、世の中が混迷して乱れた末法の時期です

末法とは、何が正しく何が間違いか混沌とした、正しい尺度の無い時期です

他力信仰が全盛の時代です

戦争、紛争の多き時代です

尺度は金と物だけという物質社会に流された時代です

神理が届かぬ、もう世も末という時代です

こういう時代を末法の世といいます

こういう時代だからこそ、使命を持つた悟られた人(如来)が、計画的に時期を決めて地上に出られ、人間の生きる上での正しい尺度を教えるために

出生されるのです

末法の時代は正法の時代とも重なります

正法の時代は、あの世から光の天使が、かって説いた神理を再び元に戻すため、塵を払うために出てこられる時代です

イエスは、モーゼの十戒から千年以上も経って、モーゼの精神は悪い因習を持っただけのものになったので、イエスはその精神をよみがえらせるた

めに地上に出ますが、磔刑にされ、年若くしてこの世を去らなければなりませんでした

一方、釈迦は、今から四千二百年前にエジプトで説いた神理はインドに渡り、バラモンの経典へと変り果てたので、釈迦は露払いと古い陋習を破るた

めにインドに生まれ道を説きます

こうした光の大指導霊は、完全に古い因習が受け継がれている環境には決して出てきません

その因習にひきずられ、同じ間違いを犯さないために、あくまでも第三者の立場で自ら悟り人類を導いていかねばならないからです

この時期に高橋信次先生は、かって釈迦として説かれた仏教を、その精神をよみがえらせるために、日本に生まれ、正法という呼称で道を説かれた

のです

 

その三百四十、

正法が出ると、どうなるかを知る人

正法が流布されていくときは、必ず魔が競いたち、邪魔をします

正法が広まると彼らの生きる場を失うから必死です

暗い地獄の世界からは地上に出生できないために、仕方なく生きた人間を通して、生きた人間に憑いて、その欲望を果たそうとします

自分さえよければ良いという彼らの想念は、現在のこの経済社会においても現れています

たとえば、独占、企業エゴ、労使の闘争、公害、不信、裏切りなど様々です

釈迦の場合は、パピアスマラーが行く手を遮り、釈迦教団内の弟子達の心に入り暗躍を重ねます

イエスの場合も、ユダの反逆以前も妨害は起こります

モーゼの場合も外部からの攻撃が終わると、次は内部からと撹乱されたのです

魔界に住むあの世の地獄霊は、地上に生まれ変れぬために、彼等はうめき苦しみ、スキあらば人間の心に食い入り欲望を果たそうと躍起になります

正法は魔にとって大敵です

正法が地上に浸透しては、地上の悪しき人をあやつることもできず、地上での欲望も果たせないので、彼等も正法をつぶそうと必死なのです

つまり地上での魔の暗躍する場がなくなるからです

人間を含めた物質界は光と陰の両面を保ちながら維持されています

このため人の心も光と陰が投影されるように仕組まれているのです

換言すれば、人の心は天使と悪魔の心を合わせ持っているということです

そのために天使のような清い心の人が、一夜にして悪魔の支配下に置かれることも起きるのです

魔に打ち克つには、それは中道の心しかありません

正法の目的は中道であり、まずものの見方から、自分の立場を捨て、客観的に見る目を養い、置かれた立場に固執しないで、欲望のままに見てはい

けないのです

正法の一切の尺度は、大自然が教える中道の神理です

 

その三百四十一、

中道の心を知る人

中道の心は大自然が教えています

太陽の熱、光に強弱はありません

空気に増減はありません

一日は昼夜の別があって、決して一方に片寄りません

ですから、この地上に生命が生かされ、調和という環境が与えられています

正法の目的は中道であり、私たちの心も肉体も、片寄らない中道が必要なのです

 

その三百四十二、

魔の誘惑を知る人

魔の誘惑はなにげない会話の中から入り込みます

「大変ですね、そんなに働いて体でもこわしたらどうします、奥さんがかわいそうです」

こう人から言われると、それまで何とも感じなかった人でも

「そうかな働き過ぎかな、家内が不満をいだいているかな…」

そう考えて、仕事をセーブし、ものの見方を変えてゆき、そうしてそれを契機として、素直な心に影を落としてゆく人もいます

魔は自分の心にあります

したがって内から外へ、外から内にむかって、常にゆれ動くものです

指導者が誤った方向に動くと、多くの人々は迷い苦しみ、魔の支配下におかれてしまうのです

このように、他人の何気ない一言からはじまり、仰々しく魔は、憑け入ってはこないのです

それは、善意の忠告か、邪悪に満ちたお節介かを必ず見極めなければなりません

それだけに、口の多いお喋り人間には、注意が肝腎です

 

その三百四十三、

般若心経の人

般若心経は学問からでは理解できません

般若心経は心の在り方や行い方と、色である「この世」と、空である「あの世」を説いています

ところが般若心経の中には、般若波羅蜜多への道が説かれていません

般若波羅蜜多というのは、インドの言葉で、パニヤー・パラ・ミタがその語源であり、中国で当て字になっているので、これを解釈しようとしても正しく出

きない理由です

パニャー・パラ・ミタという意味は、「内在された智慧の宝庫に到達する」という意味なのです

永遠の生命である人間の心には、いついつどこで生まれ、兄弟は何人で、どういう仕事をして、こうして死んだという数多の人生体験が宝ものとして、

記録されているのに、その記録されたものを思い出す道、方法が説かれていないというのです

そこで高橋信次先生は、この到達する方法を説かれますが、簡単に述べますと、人の心を一番汚す、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望を捨てて、八

正道である中道の人生を送る中から到達できると説かれたのです

それを多くの聴衆者へ証明するために、多くの面前で自由に実演されたのです

その講演ビデオは全国に数多く残されているので、見られる機会も出てくると思います

それを霊道現証といい、次はこれについて述べます

 

その三百四十四、

霊道現象を証明する霊道現証の人

霊道現象は、魂の永遠性を証明する現証の一つです

八正道を学ぶことによって心の中に内在された偉大な智慧がひもとかれ、過去世の人生体験の智慧が想いだされるのです

このように霊道現象は、聖書の中の使徒行伝第二章と、華厳経十地品に記録されており、その記録と、ここでいう霊道現象はまったく同じであり、現

実に起きています

「私は、いつどこで生まれ、兄弟が何人いて、そこで正法を学んだ、そのときの同志、先輩、友人が現在、この会場にいる、誰と誰がその人たちです」

と、はっきりと実証されるのです

ここで、その一例を再現するとこうなります

高橋信次先生は会場の中から適当な人を登壇させられます

「ハイ、坐ってください、心を丸く、落ち着けてください」

それから先生は祈願されます

「…光をお与え下さい、安らぎをお与えください、私たちは両親を縁として…」

先生は登壇者の頭上から、或は離れた所から手を向けたり、円を書いたりされます

そこで、高橋先生は、登壇者の過去世の言葉を投げかけられると、登壇者も同じ言葉で応答をするのです

例えばヘブライ語ですと、登壇者は日本人ですから、これまでに一度もヘブライ語を喋ったことがないので、最初は声帯も付いていきませんが、時間

を置くと流暢に高橋先生と会話を始めます

そこで先生の解説がはいると、会場の者は「なる程」とわかるわけです

こうして古代インド語、古代中国語などを駆使されて、先生は登壇者が生きていた当時の言葉で語りかけられますと、登壇者は同じ当時の言葉で応

答しますから、生きていた当時はこういう言葉で話していたのかと、登壇者も会場の人も理解できる訳です

登壇者本人は、当時の言葉が自分の声帯を通して、とめどもなく飛び出すので、懐かしさと感激で、涙、涙です

先生はこのようにして、魂の永遠性、転生輪廻、生まれ変わりの事実を通して、「人間は一度限りの人生ではありません」ということを、先生の能力を

駆使して皆に教えられたのです

口で、「人間の魂は永遠です、この世限りではありません」と、いくら叫んでも理解できないものはできないのですから、先生は実演によってそれを教

える以外になかったのです

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 その三百四十五、

苦楽の原点を知る人

人は心の偉大さ尊厳さを知って、その心で現実の生活をして欲しいのです

苦楽の原点は、あれが欲しい、これが欲しい、あいつが憎い、負けてなるかという、私たち毎日の心の在り方にかかっています

心が外にのみ働くと、ものの本質を知ることなく争いや欲望がつのってくるのです

現実の社会は、物質至上の考えが大手を振ってのし歩き、公害、バブル経済、デフレ、エゴが巷に溢れ、混乱しています

人が物にとらわれ、肉体中心に心が片寄り、自分を失って来ますと、苦しみ悲しみだけとなります

人類の歴史は五官におぼれ、肉体を中心とした苦楽の歴史なのです

現代の心の不安は、心を外に向け過ぎて、それにとらわれ執着すると起こるのです

心の安らぎは、心を内に向け、反省に立った正しい生活から生まれます

生活に安らぎを得たいのなら、自分の生活を整え、明るく自然にそった生活をして欲しいのです

自然にそった生活には、どこにも無理がありません

 

その三百四十六、

妊婦

赤ちゃんは母親の胎内で三ヶ月頃に形成されます

魂は、この頃に胎児の中にはいり自分の体を確認します

この頃に、母親はつわりという現象が出ます

つわりは母親の意識と胎児の意識のズレが原因です

胎児への入魂は各人が自らえらんだもので、こうして十月十日、出産と同時にあの世と断絶します

出産はあの世からみると死です

赤ちゃんは一週間ぐらいたつと、教えないのに笑顔を見せます

これはあの世にいる魂の兄弟や友達が、赤ちゃんの前途を祝福したり、はなむけの言葉に対する応答なのです

厳しい物質文明の奴隷と化さぬよう、病める諸々の衆生を救う目的を果たすために、赤ちゃんの魂は笑顔をみせるのです

 

その三百四十七、

赤ちゃん

赤ちゃんが出産されこの世に出てくるときは、全員が全員みな社会のため自分のためにと、希望と気概を持って出てきます

ところが、成長するにしたがい、自己保存が育っていって自我の虜になってしまう場合が多いのです

自我心の芽は、五官によって培われていきます

現代は資本主義と社会主義の二大思想が対立し、争いの根本は、すべての規準が物質経済におかれ、人間信頼という、出産時の約束を忘れ去っ

たからに外なりません

私たちの生命はあらゆる体験を積んでここにあります

偉大なる王として民衆を支配し、或は、最も厳しい奴隷的な環境に、或は商人として、農家としての体験があるのです

これはみな自分が望んで、或は自分で選んだ心の修行場です

現在地球上という環境のなかで、その本性を悟るべく修行しているのです

 

 その三百四十八、

因縁の人

ものにはすべて原因と結果があります

喜び、苦しみ、病気にしても、そこには必ず原因があるものです

そこで、その結果を修正するためには,まず原因を追求し、その原因を正さなければなりません

原因をそののままにしていては、結果の好転を望むことは出来ません

いびつな心が悪い結果を生み出しているのですから、本来のまるく大きな心にするように、その原因を、正しい物差しによって一つ一つチエックをして、それからはそのような原因をつくらぬように努力することです

高橋信次先生は、これを「原因と結果の法則」、と説かれ、園頭広周先生は、これを噛み砕いて、「善因善果、悪因悪果の法」と説かれ、お釈迦さま

は、「因縁の法」と、説かれたのです

 

その三百四十九、

反省と懺悔の人

今から二千五百有余年前に、釈迦により正法神理が説かれています

正法神理にそう生活というは、中道という物差しで、原因をとりのぞく反省の行為を怠らぬことと説かれました

また二千年前にもイエス・キリストは、愛を説きます

愛に生きるには、まずその罪を懺悔することであるといっています

反省も懺悔も同じことです

仏教では反省を止観といっており、禅定も中道に照らした反省にありました

反省と行為が正しければ、間違った原因はとりのぞかれたことになるので、神の光が注がれ、生活は自然と整ってくるものなのです

仏壇に線香と灯明をあげて念仏を唱えれば、心の安らぎがあると考える人はそれは逃避的、自己満足、自分をごまかす自己欺瞞といっても言いすぎ

にはなりません

他力では絶対に人は救われることはないのです

 

その三百五十、

足ることを知る人

大事なことは足ることを知った生活です

足ることを知らないために争いが絶えません

足ることを知れば、一人で地上界に生きているのではないので、感謝の心も生まれてきます

感謝の心は、行為によって人々に尽くすこと、社会に還元することです

感謝は行為という勇気なしには実を結ぶことはないのです

形あるものは崩れ去り、全ては無常です

今は健康でもやがてはあの世へ帰って行きます

病気に苦しんでこの世を去り、病気の原因を反省せずあの世へ帰ったときには、その病気の状態であの世に堕ちてゆくのです

思うこと、行うことは、神による善なる自分の心の裁きにあっているのだということを知らねばなりません

釈迦は、六年の苦行の後、三十六年間の過去を反省します

一週間の反省ののち、一切の苦しみというものは自分自身がつくりだし、苦しみから解放されるには苦しみの原因をつくらないようにすればよいことを

発見していったのです

そして、それから四十五年間この神理を説き、それは後に中国に渡り、日本に伝わり、現代は他力に変り、葬式仏教、観光仏教、学問仏教に変わり

果てたのです

 

その三百五十一、

正しい信仰者

一秒一秒の生活、心の在り方が信仰です

勇気をもって修正する自分に、すべてが託され、悟りの彼岸も、八正道という正道を行じるなかにあることを知らねばなりません

八正道を行じる中道の毎日の生活に信仰はあるのです

 

その三百五十二、

偶然は必然であると信じる人

人には運、不運がつきまとう、といわれます

運、不運は現世の原因と結果の法則から来たものか、過去世からのものか普通はわかりません

と申しますのが、人にはそれぞれ、過去世という魂の遍歴があります

その遍歴によって記録された想念と生活行為があります

そのために、そういう記録された因縁に引かれ、その人の気質をつくり、性格に影響を与え、能力などを形作って行きます

同じ両親でありながら、子供は楽天家もいれば、神経質な子もいます

親の育て方、生活環境もありますが、実はこうした先天的な魂の遍歴に影響されていることが多いのです

ですから、こうした魂の遍歴という先天的要素を外しては偶然、必然は語れません

運命の予知が可能だということは、偶然の連続ではなく、物事が必然の方向に動いている、つまり偶然は偶然ではなく、必然ということです

だから予知ができるということになります

もう一つの方向からこれを論ずれば、この世に起きることは、先にあの世で起きるので、あの世で起きたことを先に知って、それが分かるので、予知

が出きるということになります

この世で起きることは、先にあの世で起きるということは、ものごとは偶然ではなく、すべて必然ということになります

人はそれがわからないので偶然とか、運、不運で片づけてしまうのです

人は、偶然とか運、不運を口にする前に、まず神の子の自分に立ち帰り、今を正しく生きるよう努力することです

運はそうしたなかからひらけてくるのです

 

その三百五十三、

八正道の人

八正道を行ずる人は、人のことより自分中心にものを考え、行動してはなりません

勇気をもって自分を捨てることによって、苦楽の淵から離れることができます

八正道を行ずるときの勇気は、虚勢や見栄、外見を気にしているときは出ません

嘘のない裸の自分に立ち返ったときに自然に涌き出るものなのです

八正道はできないという人は、難しいとか、挫折感は性急な心がそうさせるのですから、慌てず急がずゆっくりと実践することです

八正道が、できないという人は、それはできない自分というものが心の中にドッカと腰をすえているためですから、そうした自分が少しでも無くなってく

ると、次第に心は軽くなってくるものです

八正道は、まず反省から始ります

反省の仕方は客観的な立場から自分をながめ、相手を見ることです

そうしていると、ものの見方、考え方、行動が八正道に適ったものになってくるものです

自分を捨てるために勇気をもって努力しなければなりません

勇気ある行為は客観的なもので、自分ではなかなか気づかないものです

 

その三百五十四、

自分をつくる人

何をするにしても基礎が大事です

自分の心が不動のものとなれば、どんな事態が起きてもハネ返してしまいます

ところが、心が出来ていないと、人の噂や変った話しを耳にすると、心がゆらぎ自分を失います

自分自身は神性の自分であり、慈悲と愛の心を持った自分自身です

神性の自分を確認する物差しが八正道であり、心に法灯をともし、調和の輪を広げて行くのは、神の子の当然の義務であり、責任なのです

 

その三百五十五、

今日は平成十五年八月三十日です

今年は我が国経済社会にとって、試練の年になるようです

広げすぎた高度経済成長も先が見え、不況下のデフレです

作用反作用は、その振幅が大きいほど、大きく揺れ動きます

自己保存と足ることを知らぬ欲望の反作用は、現実の経済の動きを見るといちばんよく理解できます

こうした経済事情はどうして生じたかを、静かにながめる、よき機会ともいるのです

日本人は、八正道の中道を軸に、毎日の生活を送るようにしなければ物質中心の考え方に傾いてしまいます

 

その三百五十六、

諸行無常を感得する人

諸行とは、大宇宙を含めた物質世界の生活行為を指します

また、その生活行為は、刻々と変化を繰り返し、常なき状態です

生ある者は一刻といえども止まることなく常に変化し、動いています

ですから諸行は無常なのです

この言葉には重大な意味が秘められています

それは神の意思であり生命の実態です

形あるものは、生命の実相を通して存在し、絶え間ない変化の過程を通して生き続けています

変化し、形は変っても、生命それ自身の意識は永遠に変ることなき生きとおしの自分であるのです

生者必滅の姿はあっても、魂の永遠性は不動です

諸行は、無常であるからこそ生命は生き永らえるのです

無常は魂の進化を約束するのです

あの世とこの世があって魂の輪廻があるから、この世に生死があり、絶え間のない動的な生命の永遠行があるのです

 

その三百五十七、

今に生きる人

私たちはこの世の動きに心をとらわれてはなりません

生き通しの自分を失わぬことです

この世の動きに心が奪われ執着すると、その執着の分量だけ自分の心を傷つけます

この世・現象界は魂の修行の場であり、魂進化の大切な場所なのです

地獄で苦しむ諸霊は、その全部がこの世に心を奪われた人たちなのです

私たちの住む世界はめまぐるしく変化しています

今に正しく生きる人とは、自己保存と足ることを知らない欲望の渦に引き込まれない自分をつくる人です

 

その三百五十八、

祈る人

あの世では祈りという概念はありません

ナゼなら行為が祈りとなり、調和されているからです

ところがこの世に生まれると、病気や家庭不和、事業不振などにより祈る気持ちが湧いてくるようです

この世は一寸先がヤミですから祈る心がわくのも当然です

でも本当の祈りというものは、現実的な幸、不幸ではなく、現在、生かされている、それ自体に感謝することであり、その感謝の想いで、日々の生活を

行じることが大切です

このときこそ、人は、真の安らぎを得、環境も、健康も整い、天命のままにいきることになります

天命に生きるとゆうことは、自分が地上に生まれてきた目的、使命がわかり、それに向かって生き続けることをいうのです

私達の祈りも、ここまで高めたいものです

自分を救うものは自分しかありません

自分に負けそうになったら祈るのです

祈る心で自分をふるい立たたせなさい

 

その三百五十九、

慈悲の人

病気にたおれた人、迷っている人、心をなくした人々に対しても無限のいつくしみの心、なさけの心、これを慈悲といいます

人々の関係でも、慈悲の心で接するようになれば、現代のような独りよがりのエゴイズムも、たちまちのうちに消えるでしょう

慈悲の本質は、あの太陽のように、誰かれなく生かし続けようとする無私の心です

決して、慈悲の安売りをしてはなりません

慈悲の安売りとは、慈悲の名を借りた自己満足の結果であり、慈悲の言葉に酔ってはなりません

さらに慈悲の要求とは、甘えです

自分はこれだけの事をしているから、自分は、自分はという心で、やたらと人に無心をしたり強要することはいましめなければなりません

真の慈悲は、太陽のように、無限に熱光を供給してやまないものなのです

 

その三百六十、

愛の人

ここでいう愛の本質は、愛憎の愛とは違います

本当の愛は、神の愛をいいます

神の愛とは、無私なる心、思いやりの心です

おごる心のない人、穏やかな心の人、争いを好まぬ人、こうした心の人は神の愛を受け、天国の住者です

ただ、愛の根本は慈悲と同じですが、働きは許しであり、相互扶助にあります

人間がザンゲし新生とするとき、神は愛の手をさしのべ、その罪を許してくれるのです

もう一つ大事なことは、相互扶助です

助け合う心は地上における光です

慈悲を縦の光とすれば、愛は地上の横の光といえます

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その三百六十一、

正法の正しさを知る人

これまでの信仰は、教祖のすべてが信者に対する教えにつながって、その影響は絶対的であり、盲信、狂信を生んできました

ところが、正法についてはそういうことがありません

なぜかと申しますと正法は、自分という存在を抜きにして有り得ないからです

正法の出発点は自分を発見することからはじまり、自分から離れた正法はないからです

サテ、そこで、己自身を知る、正法を知るには,己の心を信じ、八正道を行い、反省を通じて得られるのですが、負けない自分を支えてくれるものは,

やはり自分なのです

自分を救うものは自分しかありません

これまでの信仰のように、教祖や念仏が救ってくれるのではありません

 

その三百六十二、

霊能者

霊媒や霊能をもつ人は、ほとんど前世で「肉体行」をやっています

滝に打たれ,火の上を歩き、釘をさしたり,土中に埋まって肉体をいじめ、きたえることによって、耐えるという抵抗力が表面意識と潜在意識が同通し

て霊能が起ります

ところが、霊や霊界の正しい法則を知らずして霊能におぼれますと、つい有頂天になり振り回されて、魔王や動物霊のまたとない獲物になります

今世で『行』らしい「行」をしていないのに、フトしたことで霊能を身につけた人は,大抵,前世でも肉体業をやっています

その能力を過信し溺れると,動物霊や魔王に身も心も明渡してしまうのです

行者の末路が哀れ、畳の上で死ねないというのは,こういう理由からです

霊能は,神の子の自分に目覚めたときに,二次的副作用として起るものです

霊道は、中道の心を失わず,人間らしい、正しい法にそった生活を送るならば自然にひらきます

過去世の言葉(パラミタ)を語る霊道は,反省と調和によってひらきます

これは偶然あるいは自分の意思に関係なく起る場合がありますが,関係ないとはいえ、九〇%の潜在意識はそれをよく知っているのです

即ち九〇%の潜在意識層にあるその人の守護霊は十分それを知っていて,意識の中から現出されてくるのです

この過去世を語るパラミタの霊道は過去世の意識がよみがえるというすばらしいものであり,霊道者は,現在以上の心の調和が必要です

その霊道を,当てものや,自分の欲望のために使うとすれば、その反動は必ず自分に振りかかって来るはずです

 

その三百 六十三、

頼る人

この地上の生活は一寸先がヤミといわれます

人間の意識量は,わずかに一〇%しか通常は働いていないのですから,一時間後,一分後の自分の運命さえわからないですごしています

そのために、

金に頼るか

人に頼るか

地位に頼るか

天に頼るか

神仏に頼るか

何かに頼らないと心もとないのが人間の心でしょう

このため、「祈り」は頼りない人生の,救いとして他力信仰の中で重要な位置を占めています

しかながら頼る「祈り」で人は真に救われないのです

仏壇に手を合わせながら夫婦喧嘩をする,また,昔の念仏行の中には,人を殺しても念仏をあげれば救われる、などとしたようですが,こういう祈り

は祈りとはいえません

「祈り」は頼ることではありません

正法の「祈り」は行為を意味します

健康で,家庭が円満で,毎日の生活が調和されて送れるということは,大自然をはじめ,守護霊,指導霊,先祖の恩恵によるものですから,「祈り」

は,感謝の心の現れなのです

他力の信仰は,神と人間を切り離し、人間を凡愚(ぼんぐ)と見ているのに対し,正法の信仰は,人間は神の子であり,神と人間は一体であると説い

ているのです

この地上生活の中で,神の子の自分を生かすには,祈り心を通した行為しかないということです

イエスの言葉に「汝信仰あり、我行為あり」とありますが,これこそ「正法の祈り」であり,誤りなき行為こそ,「祈り」の神髄ということです

 

その三百六十四、

「信」と「行」の人

信というのは、信仰、信心、信用,信頼,神を信ずるという,人と人とが、たがいに相手を信頼し,約束を守り,その約束を果たしているので社会生活

が正しく営まれています

信というものは,人間が生活する上での必要条件です

行というのは、それは,生活の場における反省と,努力の行為です

煩悩(原罪)を菩提(天国)と化する,行為です

ところが,既成宗教は拝むことが「行」となり,教団を維持する,拡大するために駆けずりまわって、信者を勧誘するというのが「行」というようになり、

人間的努力,反省は二の次になっています

こうみてきますと、信に片寄っても,行に走りすぎてもいけませんし、信と行は車の両輪なのです

真の信は,神の子としての自覚であり,行は,その自覚にもとずいた生活行為であり,正道に適った反省と努力が「行」です

それゆえ,正法は,信と行が一体となり、中道という生活行為が,無理なく自然に行えるようになるのが正法者なのです

正法は,信じ,行うことによって、たしかな生きがいを感じてくるものです

 

その三百六十五、

本体一、分身五の法則を知る人

人間の、本体一と五分身の理由は、この大宇宙が、神の大意識を母体に熱,光,電気,磁気,重力から出来ているので,人間もこれに合わせて本体

一(大意識)分身五(五つのエレメント)の組み合わせになっています

そして,人間は三つの系列からできています

一の系列,男本体一,男分身五

二の系列、女本体一,女分身五

三の系列、男本体一,男分身二、女分身三

     女本体一,女分身二、男分身三

これは一の系列から三の系列を含めて,男女の均衡が保たれるように男女の数は同じです

人間は、

第一に宇宙の大意識から,

第二に個としての生命があの世に生まれ,

第三にこの世に姿を現わすのです

一度この世に生まれた人間は、この世とあの世の転生をくりかえし、この世に生まれるときは,両親という縁をへて誕生します

つまり,大意識から離れた生命は,あの世,両親、この世という三つのプロセスを踏みながら永遠に循環するのです

 

その三百六十六、

三位一体を知る人

地球に生命が宿るのは,太陽,月,地球という三位一体の構成からです

地上は気圏,水圏、岩圏からなっています

原子は,陰外電子,中性子,陽電子からできています

電気は,陽性() 中性() 陰性()からできております

細胞は原形質,細胞質,核の三つから構成されています

大自然の中の物質の成立は,宇宙の大意識(大宇宙大神霊)をまず出発点として,第二に熱,光,電気,磁気,重力という五つのエネルギーが組み

合わさって,物質という第三の現象化が行われます

一度,物質化されたエネルギーは,時間がたつと,分裂という過程から、再びエネルギーに還っていきます

また、エネルギーの物質化は、エネルギーが集中されてできあがり、大意識()を離れた五つのエネルギーは,集中,分裂(分散)という過程を通し

て、あるときは物質化され、エネルギーにもどってゆくという三つのプロセスを踏みながら,永遠に循環するのです

 

その三百六十七、

天国と地獄の分かれ目を知る人

人の意識はビデオレコーダーと同じように、その人の想念と行為を全部、四六時中、記録し続けています

死んであの世へ還ったときに、その記録された中身が善と悪に分けて、どちらが多かったかによって、善行が多ければ天国へ、悪行が多ければ地獄

に堕ちます

あの世の功徳は,この世における善と悪の比率が,問題なのです

この世での人生のあり方,生き方が大事なのです

 

その三百六十八、

宗教の、教導の大事さを知る人

正しい宗教を教え導びけば、感謝され,その感謝の心は,大きな愛念となって,その人の心と生活を、より豊かにしてくれます

このように,人々を教え導く功徳は非常に大きいのですが、教え導く人が人からよく思われたい,あるいは自分の欲望を満たすため、教える優越感の

ためとすれば、そのうちに反作用がきます

本来,教導というものは、広く高い心から行うものですが,知識ではなく滅私の心が伴わないと,意味がありません

正法のそれは,まず自己の確立です

確立された後に人々を導くことですが,正法を信じたならば,その信じる心にしたがうのです

その中で新たに疑問にぶっかれば,疑問は理解につながり、信をより深く,強くしてゆき、功徳はこうした中から生まれてきますし、自己の心も磨かれ

ていくものなのです

 

 

その三百六十九、

憑依された人

憑依とは、人の心に地獄霊,動物霊が憑()くことをいいます

憑依されると、ひとりよがり,無口,多弁、ウソつき、深酒などです

これが進行すると、病気や災難,家庭不和,事業の行き詰まりとなります

病気の約七割は憑依によるものです

以外に多いとお気づきのことと思います

歩道を歩いていて車に突っ込まれる、頭上から鉄材が落ちてくるなど,まさかと思われるのは,同じように憑依によるもので、そのとき、そこを通らな

ければ事故は起きないからです

憑依がさらに進行すると精神分裂、気違いです

こうなると心が悪霊に占領されるので眠れなくなります

ノイローゼはほとんど憑依によるものです

なぜ憑くかと申しますと,本人の物の見方,考え方が非常に片寄っており、欲望や執着が強いために、これと同じような動物霊や地獄霊が寄ってくる

のです

「類は友を呼ぶ」という喩のとおりです

憑依は憑いたり離れたりして、心が片寄った想いに支配されると憑き,そうでないと離れます

酒を飲むと人が変る,しらふの時は生真面目というのも、そうです

憑依の時間が長くなるにしたがって、性格が変り,病気勝ちになります

精神病は、その憑依時間が長時間になるために起るものです

 

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その三百七十、

人の性格と憑く悪霊のタイプが疑問の人

人は欲望が強くなると動物霊が憑きます

感情が激しく動くと,自縛霊や魔王が憑きます

知能におぼれ増長慢になると動物霊,地獄霊が憑きます

意志が強すぎ,頑固になってくると自縛霊,魔王が憑きます

しかし、これらは傾向であって,内容によって憑依も様々です

憑依は,向うが勝手に寄ってくるのではなく,自分が呼び,自分がつくり出しているといえます

片寄った想いがあるから、アンバランスな精神状態がるから、彼らは集まるのです

憑依から自分の意識を守るには,それは正道に適った想念と行為が必要です

ですから自分でおかしいと想ったならば,自分の心を平静に保つようにして,八正道に適った生活を送るように心がけると、そうすると向うの霊の波動

と合わなくなってきますから、憑依現象も自然と解消されてきます

 

その三百七十一、

本体,分身、生まれ変わりの順番が疑問の人

人間は,本体一,分身五の六つから成り立っています

本体,分身の関係は,人間に限らず,動,植,鉱全部についていえます

 動物の場合は,細胞の要素を大きく分けて六つに分類されます

核、原形質膜、ミトコンドリア,ゴルジ体、中心体、脂肪粒の六つ、この六つの要素が、たがいに補い合って,細胞という組織をつくっています

この細胞の六つの要素が本体(核)一,分身五(原形質膜、ミトコンドリア、ゴルジ体,中心体,脂肪粒)の構成になります

ですから人間以外の動物についても、細胞がこのように分かれる場合は、一本体五分身ということになります

 植物もこの例にそって、核(本体一)があり、その周囲に、原形質膜,液胞、色素体、細胞膜(分身四)の五つから構成されます

ですから,植物は動物よりも、一つだけ構成要素が少ないことになります

鉱物の場合は、原子番号に核を加えた数が本体と分身の数になります

たとえば炭素の原子番号は六です

六とは陰外電子の数です

これに核の一つを加えると七となります

つまり本体一,分身六の関係になります

このようにして、水素は二、金は八十、銀四十八、塩素十八、亜鉛三十一、鉄二十七、銅三十が、本体と分身数を合わせた数となります

このように、物質の構成は、そのモトである生命の構成にしたがって形作られているわけです

形の世界は心の反映であり、このため、本体、分身の関係も、生命の組織をそのまま、形の上に反映し、細胞も、素粒子の世界も同じよ

うな姿になって現われるものなのです

不思議なことに、生命と物質というものはそのように出来ています

太陽系のそれも、太陽(核)と惑星(分身)が、相互に作用し合っています

魂の転生輪廻は、どういう順序で行われるかと申しますと、原則的には順番です

Aが出れば次がB、Bの次はC、というように、A(核)BCDEF(分身)が順次、この世に出て、人生の修行をするのです

ただし、その課程で修行を積む者と横道にそれ、地獄界に堕ちる者があって、全体のバランスを崩すことがあるので、その場合は、あの

世で話し合い、BならBが短期間に二度、三度、出ることもあります

こういう場合は比較的に少なく、多くの場合は順繰りです

 

 その三百七十二、

公害の被害者も、想念が問題か疑問の人

病気、災難、事業不振、家庭不和など、すべてにわたって原因があるから結果となって現われます

公害についても同じです

例えば、毒を同じ量食べても軽くて済む人、酷い人、死に至る人などみなちがいます

そのときの健康状態にもよります

しかし、それ以前の問題として、日頃の想念と行為が、そのときの健康状態をつくっているといえます

いずれにせよ、公害病も、人それぞれの想念U心に直接関係のあることだけは知って欲しいのです

 

 その三百七十三、

デモや闘争は、神の意に反するか疑問の人

平和のためにデモをする、幸福を得るために闘争をすることですが、

目的が平和なら手段も平和でなければなりません

目的が平和なのに、手段が闘争なら目的も闘争になります

平和を唱え、闘争を行使するのは、矛盾もはなはだしいのです

全体の幸福のためにデモる、世論を動かすには、こうする以外にはないというのでは問題です

正法は、内から外へ及ぼして行くものです

全体の幸福を願うなら、まず自分自身の心を幸福にさせることです

幸福の何かを知らずして、どうして、人にその幸福を分け与えることが出来ましょう

正法はまず自分の幸福から出発します

そうして全体の中の、一人一人の幸せが目的です

 

 その三百七十四、

教祖

大抵は、教祖と称する人の背後で、ヘビや狐、魔王、仙人界の霊人が操っている場合が多いのです

占いではありませんが、よく当たります

病気も一時的に治します

大事なことは、教祖の想念行為がまともであるか、奇行が多いか、感情的であるか、女好きか等、裸の人間を見分けることが大事です

人間性の高い菩薩界の人(ボサター)以上になると、威張ったり、天狗になったり、霊を利用して相手をおどしたりは絶対にしません

普通人と何ら変わらず、それでいて神理を実践し、人々を教化していきます

偉大な宗教家は、普通の生活をしながら、それでいて奇跡や神通力を行使し、多くの人々を救います

また、神様に、という理由で不当に金を要求したり、ぜい沢をしたり、罰が当たるなどと脅さないし、何億円も使って殿堂をつくったり

もしません

奇跡は、この世から見ると奇跡や神秘力に見えますが、実在界、あの世から見ると当たり前のことが行われているにすぎません

人間の意識は実在界に通じており、それが認識できれば誰でも出来るものです

宗教というあらたまった概念で考えることもないのです

 

 その三百七十五、

正法者の問題が気になる人

正法を学んで一番犯しやすい問題は、心の問題を頭でいくら学んでも、本当の理解はできないものです

八正道は正しいと思ったならば、それを実践してみることです

実践すれば心が開け、悟りに近づくものです

悟りは神秘力を促し、悟ったから神秘力、奇跡が生まれるのです

また、悟りには段階がありますが、必要なことは誤りを修正し、修正したことが自然に行えることです

無理なく修正できた一つ一つが、悟ったといえるのです

まず足元から悟って行きましょう

この世での目的は、自分の心の傾向性、つまりカルマ(業)を修正すること、もう一つは地上ユートピアを建設することです

 

 その三百七十六、

カルマが疑問の人

カルマは、業(ごお)、心の傾向性ともいい、これは執着から生まれます

自分中心のものの考え方が執着を生み、カルマをつくって行きます

カルマは大きく分けて三通りあります

1、 先天的なもの

2、 両親による肉体遺伝

3、 環境

です

一つ目の先天性のカルマは、気質として現われます

意志の強弱、内向型、外向型、悲観的、楽観的などです

これは先天的と呼ばれるように、人間は永遠の生命として、何度もの過去世での人生体験の中でつくり出した心の傾向性ですから、修正

に手間がかかるのは当然です

二つ目の肉体遺伝は、

血液型、色盲、内臓の強弱など、こうしたハンディがものの考え方を変え、執着をつくるのです

三つ目は、教育や思想、生活環境によってつくられるのです

カルマというものは片寄った考え方、見方が執着となり、その人の生活を規制し苦しみに追い込んでゆくのです

八正道はカルマを超え、中道の心を養うのです

カルマを超える道は、八正道を実践するしかありません

要は、心の中にカルマの種を宿さぬことが大事です

カルマというものは、たえず、ぐるぐると輪廻しています

そのため、なかなかそれからぬけられません

ぬけるためには勇気と努力、そして工夫をもって当って下さい

 

 その三百七十七、

各人の使命が疑問の人

人には使命が一人残らずあります

その使命は現在、あなたのおかれている環境の中で、立派に果たしていけるものです

使命は何か特別な役割のように聞えますが、特別なものではなく、現在与えられている環境を明るく、正しく、調和された世界をつくっ

て行くことです

それには八正道の物差しで、片寄りのない自分をつくり人々をして感化して行くことです

 

 その三百七十八、

迷いと悟りが疑問の人

悟ったならば迷いはありません

迷う間は、悟ってはいないのです

迷いは偽我の自分があるために起こるものです

迷いの内容が夫婦間の問題や、仕事、病気といったもので、自分で解決できない場合は、尊敬できる目上の人に相談するのも、一つの選

択肢です

人によっては現在の環境から離れた場合が良いという場合がありますし、その環境に堪えようとしてかえってカルマをつくることがある

からです

 

 その三百七十九、

古代語(異語)をしゃべる人

大事なことは、そうした現象にとらわれず、現象を現しているその人の私生活、言動、人柄、性格などを、じっくりと観察することです

守護霊や指導霊が背後にいて、そうした現象を現しているとすれば、その人の日常生活は普通の人と変わらず、それでいて、キチンとし

た生活を送っているはずです

ところが、自我が強く、欲望は人一倍であり、中傷や人を非難することが平気であれば、背後霊は竜か他の動物霊とみて差支えありませ

こうした場合は、考えも行動も一貫性がなく、クルクル猫の目のように変わり、その場その場の思いつきになります

滝に打たれるなどの肉体行を積んだりすると、こうした危険が常につきまとっているといえます

霊道現象というものは、正しい生活行為にもとづいて開く場合と、滝行などの行によって念力で開く場合があります

これからも、そうした古代語らしきことをしゃべる人が出てくると思いますが、その霊道現象を鵜呑みにせず、それが本物であるかどう

か正法に照らして、見る,聞く、考えることです

 

 その三百八十、

勉強のし過ぎでノイローゼになった人

勉強、勉強でそれに振り回されていると、ノイローゼや精神病になることがあります

こうした現象も霊道現象なのです

また人によっては、そうした中で突然、神がかりになり霊現象が出た場合は、大抵、過去世で何らかの行を積んでいることが多く、モノ

が当る、病気を治す、霊力がすごい、というだけでその人を信じてはいけません

大事なことは、まず常識的に判断して、言動をよくたしかめることです

 

 その三百八十一、

神、仏、が疑問の人

神とは、宇宙に遍満するエネルギーであり、法であり、無限の意思なのです

その法なり、意思にふれて、神の意を現実に生かし、人びとを導いていく者を如来といい仏というのです

仏教は中道を教えているのですから、肉体もおろそかにはしません

しかし、中道の根本は心であり、心は神につながっているので、神と仏とは、不離一体を成すものなのです

この世が混乱と不信に満ち、争いが絶えないのも、人の心の何たるかを知らず、心をおろそかにした生活を送るからなのです

 

 その三百八十二、

執着の人

自己満足、自己顕示、愚痴、中傷、逃避、傲慢、争い、独善、差別、排斥、嫉み(妬み、ねたみ)、

これらは人の心に毒ができ、執着は、神の心から一番遠いのです

 

 その三百八十三、

死を急ぐ人

鳥も動物も倉をつくりません

彼らは、その日の生活に満足をしています

人間だけが、明日の糧を求め争って、死を急ぐのです

 

 その三百八十四、

正法の人

正法は大自然の法則です

自然の姿が変わらぬ限り,正法も変わりません

正法は永遠です

自然は常に、人間に、生きる方法を教えています

 

 その三百八十五、

神理の人

正法の理は、神の理をいうのです

正法の神理は、自然が教える教えなのです

心は万物を生かし、愛はすべてを癒します

心まるければ肉体もまたすこやかです

正法にもとづく神理は、永遠にして不変です

 

 その三百八十六、

行(ぎょう)の人

行のない正法はありません

正法は生活の中に生かされ、生きています

自然を見ると、一刻も休まず動いています

自然は常に動き、常に行じ、正法はそのまま生きています

正法は知識ではなく、観念でもない、あくまでも行なのです

正法者は行じて、はじめて自然と一体となるのです

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 その三百八十七、

想念の人

人の想念も輪廻の循環を続けています

悪を想えば悪が、善を想えば善がもどってきます

幸せを求めたいならば、責任、博愛、勇気、努力、向上など、

善の想念をいだくように心がけることです

 

 その三百八十八、

幸福者

多くを持つ者がそれを失うまいとし、持たざるものがそれを欲するとすれば、そのいずれも不幸です

一日の食糧は数片のパン、居住は数平方米でよいのです

物の多少に幸、不幸があると考える人は、不幸です

幸せな人とは、失う物のない人です

 

 その三百八十九、

慈悲と愛の人

慈悲を法にたとえれば、愛は法の実践です

慈悲を神仏とすれば、愛は人間の行為を意味します

慈悲は、万生万物に無限の光を与えるものであり、

愛は、助け合い、補い合い、許す行為をいいます

慈悲も愛も、自ら助けるものに光は与えられるということです

愛を求める者は、愛の行為を示し、慈悲の門をくぐろうとする者は、法の心をくみとらねばなりません

末法の世を救うものは正法であり、慈悲なのです

慈悲を生かすものは愛です

慈悲を神仏の縦の光とすれば、愛は横の光です

 

 その三百九十、

柔和な人

怒ってはいけません

怒りはそこにどんな理由にせよ、その波動は自分に返り、魂の前進をはばみます

自分に厳しく、人には寛容さを、忘れてはなりません

柔和な心は、神の心であり、法の心でもあるのです

 

 その三百九十一、

妥協の人

妥協は自我が伴うので、ぬるま湯につかったような気分に似てすっきりしません

しかし妥協によって、一時の平衡が保たれるのも事実です

たがいに自己主張を通そうとすれば、この世は暗黒です

妥協は、一時しのぎの防波堤になりますが、永続性はありません

妥協には心からの共感がないからです

 

 その三百九十二、

調和の人

調和は無限の進歩と安らぎを与えます

調和の根底には愛が働いているからです

愛を地上の光とすれば、調和は宇宙の光です

 

 その三百九十三、

愛の人

愛には自己主張がない、おごりがない、へつらいがない

苦しむ者があれば、その苦しみを癒し、悲しむ者には、生きる希望を与えるのです

愛は調和への偉大なかけ橋なのです

愛がこの世に満つれば、地上にユートピアが誕生しましょう

神はそれを望み、辛抱強く見守っておられます

 

 その三百九十四、

とらわれの人

執われの心がある間は、苦しみ悲しみは消えることはありません

とらわれの原因は生老病死です

執着から離れたいと願うなら、自己の立場を離れ客観的な目を養うのです

そうすると「もの」の実相が明らかとなり、とらわれの心から解脱することができるのです

 

 その三百九十五、

自由人

人の心は、無限の自由と、無限のひろがりを持っています

その心がひらくと、この世だけでなく、あの世も見通せ、大宇宙の果てにまで旅することもできます

人がその心を獲得すると、執着の心がいかに小さく、せまく、頼りなく、そのおろかさを悟ることができましょう

真の自由人は、執着を捨てた人です

 

 その三百九十六、

夢の人

夢をみない人はいません

夢は、そのときどきの、その人の想念と行為を、偽りなく表現します

めざめているときは、押さえられているその想念が、夢の中では、まるで生き物のように自由気ままに動いてしまいます

夢の中で正しく行為することができるようになったときに、その人は悟りを得たといえましょう

 

 その三百九十七。

運命の人

 運命に惑わされてはなりません

正法者は、運命を超える自分を確立できるのです

運命から自分を切り離すには、まず他人の目で自分を眺めることです

そうすると、運命の原因がはっきりととらえられ、自分の運命に苦痛を感じないばかりか、他人に対しても、博愛の心が大きくひらいて

きます

 

 その三百九十八、

勇気ある人

調和ある中道を歩もうとすると因習や環境などによって、前進をはばまれることがあるでしょう

それを恐れては、現状に甘んずるほかはありません

因習や意見の相違を乗り切るためには、相手の心を傷つけないように、智慧を使い、勇気をもつことです

目的のために蛮勇をふるっては、かえって波紋を起こします

神は、求めるものの心に応じて、道をひらいてくれるでしょう

 

 その三百九十九、

責める人

人を責めてはいけません

たいていは、自分の心を、自分で非難していることが多いのです

自分のまわりのことは、自分に無関係であることは絶無といってもよいからです

しかし、なかには光にたいする陰の場合もあるでしょう

そういう場合は、時を待つことです

縁なき衆生は、時が経たねば、救うことはできないものです

 

 その四百、

真に愛の人

愛に自己弁護はありません

愛に立場はありません

愛に報償はありません

愛に自我はありません

愛に甘えはありません

愛に苦しみはありません

愛に楽しみはありません

愛と憎しみとは、諸刃の剣のようにみる人がいますが、そういうことはあいません

憎しみは自己保存であり、憎しみをかくし持った愛は、真に愛とはいえません

助け合い、補い合い,許し合える、その心が愛の心に通じ、その行為が、神の心につながって行くのです

 

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