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  正法と百の人間模様D 八起正法

 

 その四百一、

 誘惑される人

 悪魔は人を誘惑することはありません

誘惑は、自分自身の心のうちにあります

  

 その四百二、

 経験する人

 人は、ややもすると平坦な道を選びたがるものです

しかし多くのことを知るには、多くの困難に突き当たらないと知ることはできません

 

 その四百三、

 悟りの人

 まず己を知ることです

今の己を知ることができない人は、永遠に、悟ることはできないのです

  

 その四百四、

 実践の人

 人は反省することによって前進します

それからは、反省後の中道の実践にかかっています

実践のない反省は、観念の遊戯にすぎません

 

 その四百五、

勇者

真に努力する人は勇者です

勇気は知恵から生まれ、智慧(仏智)は怠りなく努力するそのなかから生まれます

 

 その四百六、

今に生きる人

明日を頼んではいけません

人の人生は今を置いてほかにありません

 

 その四百七、

行いの人

人を見るには、言葉より行いをみなければなりません

 

 その四百八、

天国と地獄の人

天国も地獄も、人の心が作り出します

天国の住者は、布施(慈悲)と、他を生かす協調(愛)の行為のできた者です

地獄は、我執に心を奪われた者が集まるところです

 

 その四百九、

一歩一歩の人

正法は、一日怠れば一日遠ざかります

一年怠れば一年離れます

僥倖(まぐれ当たりの幸運)という言葉は正法にはありません

 

 その四百十、

奇跡の人

奇跡は、自ら助ける者に与えられるのです

正道に励む者の報奨として、自覚の機会として、迷いを打ち消す証として、神が与えてくれた慈悲であり愛です

 

 その四百十一、

安心の人

安心は誰のためでもなく、自分のためです

人をうらみ、そねみ、ぐちり、逃避に自分を置くと、それだけ正法から離れることになります

自分が愛しいと思うならば、まず行じることです

今生で行じられない者は来生で、来生で行じられない者は再来生で、いつかは行じなければ、安心という至宝を手にすることはできませ

 

 その四百十二、

自分との戦いの人

正法は自分との戦いです

己に克つことです

業の自分に負けると、その分だけ来世に持ち越し、もう一度やり直さなければなりません

二つでも三つでもいいのです

自分の業を正し、人生の一ページを飾るようにしたいものです

 

 その四百十三、

毒を食べた人

人の中傷、ねたみ、うらみをそのまま受け取り、相手を非難すると、中傷、ねたみの毒を食べたことになります

毒は体をこわし、周囲を暗くします

 

 その四百十四、

波動の人

自分に一点のやましさがなく、心の鏡を磨いておくと、人の非難は、発信者のもとに勢いこんで返って行きます

人の想念は光と同じように、波動と速さを持ち、必ず発信者に返って行くものです

 

 その四百十五、

極楽の人

あの世の極楽を望むために正法を学ぶのではありません

現在の極楽(心の安らぎ)を得るために行ずるのです

極楽も地獄も、現在の、自分の心のなかにあります

 

 その四百十六、

現象利益の人

現象利益を求める信心は、信心ではありません

信心とは、字の通り、自分のウソのいえない神の心を信じることです

正法にめざめてくると、人は、義務と責任の生活になってきます

現象利益は、そうした生活の中から、自然に湧いてくるものです

 

 その四百十七、

平等の人

守護霊はどんな人にもついており、その人の心に応じて指導霊が指導してくれます

自分はダメだ、これでいいのだ、といってあきらめてはなりません

人間は皆平等であり、神は公平であることを忘れてはいけません

 

 その四百十八、

愛の人

山を動かし、海を分かち、川をせきとめる力があっても、愛には抗(あらが)えないのです

愛は、すべてを癒す神の心です

人を救うものは超能力ではなく、愛の力であるからです

 

 その四百十九、

さばきの人

思うことは現われます

思うことは創造の出発点です

ぐち、怒り、不信、中傷、我欲・・・

悪の思いを心の中につくりだしてはいけません

神のさばきは、形よりも、心の姿を見るのです

 

 その四百二十、

信頼と理解の人

親子の道は、愛と義務、信頼と理解とによって生かされます

主義主張におぼれ、執着や偽我に流されてくると、家庭は、不信と疑惑を招き、生活の基盤を失うことになります

 

 その四百二十一、

自戒の人

忍耐は、ひとつ間違うと執着となり、自信は、すぎると増上慢となります

ものには表裏の相がついてまわり、人の心は、悪に染まりやすいのです

常に、自戒の心を忘れてはなりません

 

 その四百二十二、

努力の人

人は結果のみに期待し、努力を惜しむ悪いクセを持っています

人生の意義は、結果ではありません

努力する過程のなかに価値があり、光があるのです

 

 その四百二十三、

役割の人

人は皆平等です

平等という意味は、神の前に、人間として平等であるということです

能力、顔立ち、容姿などの相違は、平等不平等に関係がありません

もしこうした点ですべてが同じであったなら、この世の修行も、それぞれの役割も必要としません

ちがった形でこの世に出てくるので、魂磨きが可能なのです

 

 その四百二十四、

全なる心の人

五官に左右されると、自分を見失います

五官を超えた九〇%の意識、全なる心に、自分の意を合わせ、生活することです

そうすると色心不二という中道の心を知ることが出来るのです

全なる心は、第三者の立場に立った公平な見方、考え方、念じ方によって、とらえることができるものです

 

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 その四百二十五、

体験の人

 体験は尊いのです

体験こそ正法を知る大きな手がかりであるからです

しかし、体験、体験といって、体を動かすだけが彼岸に至る道ではありません

考えることも、人の話をきくことも体験の大事な要素です

何事によらず、一方に片寄ると、実りは少ないのです

  

 その四百二十六、

義務と責任の人

欲は偽我と執着から生まれます

欲がないと、人は生きられないと思われています

しかし、人としての義務と責任を自覚し、これにもとづいた想念と行為があれば、自分を生かし、人をも生かして行くものです

 

 その四百二十七、

足ることの人

足ることの生活は、人間として自覚を基礎におけば、よりたしかなものとなりましょう

足ることの限界は、心に抵抗があるかないかによって判断出来ましょう

期待や我慢が内にある間は、足ることの限界点を踏み出しているといえます

足ることの中身は、それゆえに、人によって皆異なり、千人千様といえましょう

 

 その四百二十八、

忍辱(にんにく)の人

正法は自力であり、己の限界を試すことも必要なことです

忍耐、たえしのぶことは、自分を向上させる意味で大事なことですし、正法を理解したならば、実践し、その限界点を上げるようにした

いものです

 

 その四百二十九、

謙虚の人

一升のマスには一升の水しかはいらないように、人にはそれぞれ器というものがあります

おごり、高ぶる心ほど自己を見失うものはありません

慎み、自戒し、謙虚な心こそ、神の心に適うものです

 

 その四百三十、

神の道の人

悪の道は入りやすく、神の道は毛穴よりも小さく、忍苦を伴います

今の自分がどの道を歩いているか、すぐにもわかることです

神の道を行くか、悪に身をまかすか、その選択は誰でもない、自分自身です

 

 その四百三十一、

五体の人

肩の力を抜くと怒る心がおさまるでしょう

悲しみが襲ってきたら大きく背伸びするのです

判断のつかぬときは、天を仰ぐことです

あせりが出たら,瞑目し、心を静めることです

人の心は一念三千、しかし五体(肉体)の動きで、心の針を平常に戻すことも出来るのです

 

 その四百三十二、

青空の人

正法は、神の子の、己の心を信じることです

我があり、期待があり、望みがあり、執着があり、損得がある間はその心ではありません

幼子のような、雲ひとつない無我の青空こそ、己の心です

 

 その四百三十三、

無我の人

無我の心に照らして自分を見るのです

八正道の正しさは、その極点にいくと、無我の心となります

 

 その四百三十四、

重荷の人

人の一生は重荷を背負い、坂道を上がるものといいますが、そのようなことではありません

重荷も、坂道も、我がつくり出したものです

我を捨てれば、心は軽く、人生の喜びを覚えるでしょう

 

 その四百三十五、

前進の人

時は前に進むのみです

人も後ろへ退(さ)がる、ことはできません

ならば、貴重なこの人生を有意義にすごすべきではありませんか

  

 その四百三十六、

 公平の人

 天は公平にして無私、人もまた平等にして差別なき心の所有者です

だのに人の世は、能力の別、好みの別、体力の別、知識の別、節度の別、喜怒哀楽にも相違がでるのはなぜでしょうか

働く人と、その義務を怠る人

行動する人と、傍観する人

学ぶ人と、遊楽にふける人

今日に生きる人と、明日をたのむ人

自分に厳しい人と、人を責める人

愛深い人と、薄い人

和合を旨とする人と、争いの種を蒔く人

謙虚な人と、自分を高く見せようとする人

責任を果たす人と、依頼心の強い人

足ることを知る人と、欲深き人

こうした相違が、平等であるべき人間に不平等をもたらしています

しかし、天はけっして不平等には扱ってはいません

現在の、それぞれの人の姿は、過去、現在を通じて、集約された自分自身をつくりだしているからです

  

 その四百三十七、

 灯台の灯の人

愛とは寛容です

包容です

許しです

もし、この地上に愛がなければ、人の世は水のない砂漠をゆく旅人に似て、飢渇に泣き、他をかえりみるいとますら生まれてこないでし

ょう

愛は、助け合い、補い合い、かばい合い、許し合えるその中に生きています

義務、責任、勇気、献身・・・

こうした行為は、愛のなかから生まれます

愛は、神の光です

地上の灯です

暗闇にさまよう人びとの心にうるおいをもたらし、生きがいを与えてゆくものです

愛とは、まさに灯台の火なのです

だが、愛におぼれてはなりません

愛は峻厳です

愛は自分にうち克つ者、より向上をめざす者に与えられるからです

灯台の火は、それを求めるものに与えられます

灯台の火は、船を動かすことはできないのです

  

 その四百三十八、

 意思の人

 人は差別なく全員悟ることができます

早いか遅いかの違いだけです

しかし、早く悟れば、それだけ自由が早まり、遅れれば苦しみの期間が長くなります

どちらを選ぶか、それは各人の意思が決めるでしょう

  

 その四百三十九、

 苦の種の人

 楽は苦をつくり、苦は修行と考えなければなりません

人は誰しも楽を求め、苦から遠ざかろうとしますが、それは間違いです

苦の種を宿さぬようにすればよいのです

  

 その四百四十、

 悪の人

 悪を犯さぬ人は一人もいません

悪とは自我(偽我)であり、足ることを知らぬ欲望であり、自己保存です

  

 その四百四十一、

 悟りの人

 表面意識は悪です

潜在意識は善です

これを知った人は、悟りの段階に入ったといえましょう

  

 その四百四十二、

 先祖供養の人

 先祖供養とは、過去世で修行した生命の兄弟たちに劣らぬ自分を磨くことです

それがまた、肉体先祖の供養にもつながるのです

時の流れにゆだね、今世の目的を忘れれば、天の配剤を自ら汚すことになりましょう

  

 その四百四十三、

 真・善・美の人

真・善・美

真(しん)はまこと

善(ぜん)は行為

美(び)はその結果です

まことの行為は、神が人間に与えた祝福の、はなむけ、です

美とは神の光です

人間は、誰しもこの三つを具有し,生きてゆくものです

  

 その四百四十四、

 諸行無常の人

 諸行は無常の中にあります

生ある者は滅し、一日は今日しかありません

変化変滅の現象界にとらわれず、生き通しの自分を発見する者こそ、安らぎと調和が与えられます

諸行無常の真意を理解してください

  

 その四百四十五、

 とらわれの人

 見て見ないで下さい

聞いて聞かないで下さい

語って語らないで下さい

心にとらわれがあると、心定まらず、自己を見失います

  

 その四百四十六、

 真の勇者

 真の勇者は、過去にとらわれず、未来を望まず、今に生きるものをいいます

  

 その四百四十七、

 地位・名誉の人

 学識や地位、名誉や優劣の感情に心が揺れる間は、人は、苦界の淵から抜け出すことはできません

  

 その四百四十八、

 解脱の人

 解脱とは、怒り、そしり、嫉妬、愚痴、中傷、貪欲、その他さまざまな偽我、欲望想念から超えて,因縁生起の原因を見極め、輪廻の

制約を受けぬことをいいます

 

 その四百四十九、

転生輪廻の人

人間の魂は転生輪廻という神仏の計らいから、一歩も外に出ることはありません

なぜかと申しますと、人は神仏の子であり、神仏自身であるからです

神仏は無限の進化をめざし、無限の調和を目的としています

人の転生は、この目的のもとに永遠に続いてゆくものです

人がもし、この意に反し、恣意を求め、自我に身をおけば、その人は、その分量だけ償いの労をとらなくてはなりません

物質もまた輪廻をくりかえしています

集中、分裂という課程を通して、そのエネルギーは永遠の活動をつづけています

その活動の目的は、生命の転生輪廻を助け、あるいは媒体としての役割を果しています

生命も物質も、このようにして、転生輪廻という神仏の法の下に、神仏の目的を果たせるために、生かされ、生きているのです

  

 その四百五十、

 意識の人

 人が目覚めているときは、肉体が自分と思っています

しかし、眠っているときの自分は、肉体が自分と思ってはいません

肉体の自分は、何もわからず、無自覚であるはずです

これは意識が、肉体から離れるからです

親も兄弟も、妻も、子供も、友人も、職場も何もわかりません

目が覚めて、初めて肉体の自分を自覚し、妻や子供のあることを知るということは、この世のいっさいのモノは、自分という意識がなけ

れば、この大宇宙も、地上界も、自分の肉体も、認知することができません

それほど、自分の意識というものは偉大であり、己の意識は、宇宙大のひろがりを持っているものです

この意識こそ、神の心に通じた己の心です

 

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 その四百五十一、

感謝の人

私たちは裸で生まれたのに、裸のままでは生きられません

衣食住という自然の恵みを得て、はじめて生きる希望が湧き生存を可能にするのです

自然の恵みを無駄にしてはなりません

物を大事にするとは自然の恵みに感謝する行為なのです

 

 その四百五十二、

自然を生かす人

万事は循環の法にしたがっています

心も、肉体も、自然も

人が欲望に翻弄され、自然を欲望の具にすると、自然は循環のバランスを崩し、死に至ります

自然の死は、人間の死につながります

自然を生かす工夫を怠ってはいけません

 

 その四百五十三、

危機の人

人類が現状のままで進むと、衣食住の危機に見舞われます

それもそう遠いことではありません

今こそ人類は自然の環境を整備し、自然と人間の調和を図らなければなりません

それにはまず、足ることを知った生活をすることです

 

 その四百五十四、

己を知る人

神の存在を知りたいと思うなら、まず、自分の心を知ることです

自分の心を知ると、そこに神の偉大な英知と、慈悲と、愛の営みを発見することができます

 

 その四百五十五、

寛容の人

生活には妥協が伴います

しかし、心まで妥協し、調和を崩すと苦悩が生じてきます

己に厳しく、人に寛容こそ正法の生き方といえましょう

 

 その四百五十六、

集団の人

人は単独では生きられません

これでは一代限りです

人は集団で生活し、助け合って生きてきたからこそ、人類に歴史があります

人は集団の中で生まれ、育ち、成長し、魂が向上されるのです

逃避は神の意思にそむきます

 

 その四百五十七、

才能と人格の人

人の才能は、絶えまざる努力と、工夫とによって育ち、成長します

才能はその人の宝といっていいのです

しかし才能が、その人のすべてを表しているとはいえません

才能と人格とを混同し、才能を優先すると、現代のような混乱した社会を招きます

神が求めるものは、その人の人格です

その人の全人格が、神の心に適っているかどうかが問題なのです

 

 その四百五十八、

貴賎の人

人の貴賎は生まれではなく、その人の生活態度にあります

 

 その四百五十九、

想念の人

すべての出発は、心にあります

想念にあります

「想」とは、心の上に相(かたち)と書きます

「念」は心の上に今と書きます

想念とはそれゆえに、心の中で常(今)に相(かたち)を描くことをいいます

発明、発見、善悪、美醜は、すべてこうした想念によって生み出され、形となって現われてくるものです

 

 その四百六十、

使命の人

太陽系は太陽を中心に、九つの惑星と、三十二の遊星が、整然と歩調をそろえ、決して気ままな行動をとることをしません

これと同じように、人にはそれぞれ器というものがあります

人はその器にしたがって、今世での役目を果たして行きます

人間の五体が、五体として成立するには、各諸器官の有機的な機能が必要です

それぞれが自己主張し、手足が頭を、頭が腕を望むとすれば、どうなるでしょうか

五体はバラバラとなり、人間は一日として生存することはできないではありませんか

 

 その四百六十一、

一つの悟りの人

悟りというと、宇宙即我の体現のように思われています

事実それに違いありません

しかし、悟りの本来の姿は、自分の一つ一つの、心の歪を修正することであり、これへの精進につきるのです

それゆえ、その毎日の日常生活において、自分が気付いた欠点を正し、その正した事柄が、無理なく自然に行えるようにすべきです

悟りというものは、自分の欠点を修正し、その修正した事柄が、無理なく行じられたときにいえる言葉なのです

そうして、一つの悟りは、大きな悟りを導くカギを握っています

正しく見ることが出来れば、正しく思うことも語ることも、自然に整ってくるものです

決して忘れてはなりません

身近な、現実の自分の想念と行為について、一つでもいい、悟るようにこころがけましょう

 

 その四百六十二、

自由人

風流に身をまかす人、俗界から超然とする者が、自由人のように言われますが、真の自由人とは、社会的な制約の中にあって、それにと

らわれず、為すべきことを果して行くものをいいます

 

 その四百六十三、

無償の行為の人

天使(如来)は、人の中にあっても、もまれず、汚されず、人びとの意識を高め、神の祝福が与えられるよう、無償の行為をいとわぬ者で

 

 その四百六十四、

天使の人

天使は人を見て、人にとらわれません

社会を見て、社会に動かされないで、常に神の心に住して、その心で毎日をすごします

 

 その四百六十五、

足る者の心の人

足ることは、自己満足、小成に安んずる、欲望を押さえることではありません

明るく、積極的に、正道の生活を実践する者をいいます

それゆえ、足る者の心は、人生の目的を知り、いやしくも欲望に動揺し、現象にとらわれることはないものです

 

 その四百六十六、

真の人間の人

真の人間は、常に主体性を持ち、心は豊で、自由であり、それでいて連帯意識を持ち、社会の義務を果し、人びとの心を明るく、素直

に、そうして、その喜びを分かち与えて行く者です

 

 その四百六十七、

現代の人

現代にとって、もっとも必要なことは、長い歴史の過程で積み重ねた、人びとの自己保存をくつがえし、自由と連帯の、本来の人間性を

回復させる努力を、惜しまないことです

 

 その四百六十八、

思想、習慣の人

思想はその人の行動を束縛し、反省のない生活習慣は、執着心をつくってゆきます

思想や習慣のズレは、親子の断絶を生み、嫁と姑の争いの種になります

労使の対立、信義の崩壊もまた然りです

地上に調和と進歩を願うならば、自己中心の欲望から離れた反省と、それにもとづいた生活行為を為して行く以外にありません

そして、それはまず、自分から行じることが必要です

 

 その四百六十九、

悪のにがさを知る人

悪は思ってはいけません

しかし悪を思わぬ者はいないでしょう

悪を知らなければ、善のよさも、愛の尊さもつかむことはできません

私たちは悪のにがさを知ることにより、より豊な、愛の心を理解することができましょう

 

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 その四百七十、

宗教の人

今日では、釈迦の慈悲、イエスの愛はすっかり哲学化され、お経はあげるもの、信仰は祈るものと変わってしまったために、神理の光

が、影をひそめてしまっています

仏教もキリスト教も、その根本は、心の教えであり、人間は心であり、正しき心こそ、信心、信仰の対象でなければならないとするとこ

ろにあります

 

 その四百七十一、

異語を語る人

生きていた当時の、過去世の言葉を語ることを、異語、異言といいます

高橋信次先生は著書の中で、「過去世の言葉を語る霊能者は百数十人に上る」、とありますが、高橋先生亡くなられる頃には二百人余り

がいたようです

その言葉は、中国、インド、チベット、イスラエル、エジプト、インカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシヤ、スペイン、アトランテ

ィス、ムーなど多種多様です

この霊能者の大部分は、これらの言葉を、現世では習ったこともなければ、学んだこともないのです

それなのに、過去世の言葉が自在に出て、高橋先生も各国語を話され各霊能者と自由に話し合われました

そうした霊能者は当時の言葉を、自分で翻訳して人びとにわかるように自分の過去を語りました

このようにして高橋先生は、皆さんそれぞれに過去世、過去生があり、この世だけではなく過去世も来世もあるのですと、魂の永遠性

を、面前で公開して教えられたのです

ところが、高橋先生の霊能により強制的に心の窓を開かせられ、想念帯に穴をあけられた人たちは、自由自在に過去世の言葉を語りまし

たが、先生が亡くなられると、その能力も失せ、ただの人になった例が多いのです

八正道の正しい生き方の随伴現象として起きる、過去世の言葉を語る霊能は、先生が亡くなられても、いつまでも続いています

その一例は、高橋先生の一番の高弟である園頭広周先生は、園頭先生が亡くなられるまで、その能力は続きました

園頭先生に最後まで常随した著者は、その辺の事情をよく存じています

現在、過去世の言葉を語る人がおられる場合は、その言葉が動物霊か、地獄霊か、真実の守護霊か、普通は判りませんので、その人の行

動をじっくりと観察してください

ニセ者は、そのうちに馬脚を現すものです

正しい人はいつまでも正しいのです

我々にできる方法は、ただ、この一点です

こう申しますのも、外国人の悪霊が、いかにも守護霊かのように語った例がありますので注意が肝要です

 

 その四百七十二、

神社仏閣にもうでる人

神社仏閣に行って、人が利益追求のみを願い拝んでいるとしますと、その想念は、やがてその神社、仏閣を包み、欲深き動物霊の住家と

なり、そこにきた人が、自己本位と欲念で手を合わせると、そこにいる動物霊を呼び込むようになります

信心は厚いが年がら年中病気が絶えない、商売がうまくゆかない、お参りに行って交通事故に会った、というのは、たいてい、こうした

動物霊信仰に身をおく場合が多いのです

神社仏閣へ行って、手を合わせることが信心、信仰ではありません

また、ある宗教団体に所属することが信仰ではないのです

 

 その四百七十三、

最高の霊能者

高橋信次先生のような高霊格の人は、相手の人の過去世、現世、来世が全部わかり、現在、その人が何を考え、何を思っているか、病気

があれば病名も、霊視、霊聴、物質化現象など、全部が自由自在です

たとえば背後で動物霊や悪霊がどんなにうまいことを喋っても、霊視が聞けば姿が見えますから、「ウソをいいなさい、お前はただの動

物霊ではないか」というように真の霊能者には絶対にウソがつけません

もし、霊能者といわれる人がいたら、冷静にして、霊能の段階をテストしてみてください

千に、いや万に一つもおかしいところが見えたら、絶対に信じてはいけません

多くの霊能者といわれる人は、動物霊や悪霊の配下にあることを、肝に銘じてください

エセ霊能者にも家族があり生活もあるのですが、いつまでも悪事を重ねることは許されません

高橋先生は著書に、「霊視がきく者は数十人にのぼる」とありますが、最終的には、百人ほどいたようです

 

 その四百七十四、

動物霊信仰の人

動物霊信仰でも奇蹟はあります

彼らにもそれくらいのことはできます

ところが、動物霊は、しょせん動物であり、神理は説けません

ヘビの獰猛さ、キツネのずるさを想像してください

慈悲や愛はわかりませんし、まことしやかに人間をだましますが、もともと動物は本能のままに生かされているものですから、こうした

ものが人間に憑くと、いっときは利益を与えますが、ある程度時間がたつと本性を現し、ついには、人間を食いものにしていきます

熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくいかなかったりするのも、そのためです

 

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 その四百七十五、

教団の人

教団の教祖、熱心な信者の状態をよく観察すると、動物霊が、その教団を支配していると、顔色が悪い、病気が絶えない、人を非難す、

人をおどかす、自己本位、エリート意識が強い、比較の観念にとらわれる、我が強い、感情的、欲望的、愛がない、計算高い、無理を言

う、などです

また教団によっては動物霊以外に、阿修羅(アスラー)が憑く場合もあります

このときは、戦闘的、排他的、一本調子、他をかえりみない、などです

いずれも、言うことはふるっています

けれども、日々のその人たちの言葉、行動を冷静に観察すれば、おのずと認識される筈です

 

 その四百七十六、

巷の霊能者

普通、霊能者といわれる人は、いろいろなものを当て、予言をしますが、多くの場合は動物霊が背後に憑いている場合が多いのです

動物霊は現象界(この世)に非常に執着を持っていますから、神理がアイマイだったり、あるいは全然説けず、占いに熱中している場合な

どは、すべて動物霊の仕業とみて差支えありません

また、何々の神、何々の命(ミコト)というようなことをしゃべるようなら、これは間違いなく動物霊です

 

 その四百七十七、

奇蹟の人

動物霊や魔王でも、奇蹟をおこしたり病気を治したりしますが、これと八正道を行ずる、神理に適った生活の随伴現象として起こってく

る奇蹟とは、おのずとその内容を異にしており、第一、その永続性、心身の安らぎという点で、まったく、異質であることを知って欲し

いのです

このように、奇蹟をおこす人がいても、それを、鵜呑みにすると危険です長い時間をかけて観察する意外にありません

 

 その四百七十八、

大宇宙や太陽系を、人体に見立てる人

人間を称して、小宇宙といいます

なぜ小宇宙というかと申しますと、人間そのものは大宇宙とつながっており、大宇宙の縮図といえるからです

人体は、約六十兆からの細胞からなりたっています

そうして心臓、肝臓などの諸器官は、特有な細胞集団によって形成され、肝臓は心臓になれませんし、特質をもって心臓に依存していま

大宇宙の、六十兆といわれる星々の中で、地球は地球としての特質をもって太陽に依存しています、

太陽系や大宇宙を人体にみたてると、人体と実によく似ているのがわかります

地球や火星の円運動が可能なのも、太陽があるからであり、太陽の熱、光がなければこうした円運動、生命の躍動は停止してしまうので

また、人体各部の諸器官が、その機能を果せるのも、変わりない心臓の働き、血液の循環によってです

太陽が機能を停止すれば、太陽系は終焉し、これと同じように心臓が機能を停止すれば、小宇宙である人間も、死となるのです

こうした大自然の仕組みに照らすと、人間死は、心臓の停止が、尊厳な人間死ということがおわかりでしょう

脳死は、移植だけを考えた便宜的な死です

心臓が停止するという、真の人間死を待っていては、各臓器が移植に適さないので、なるべく新鮮な臓器を移植するには、心臓死の前の

脳死を、人間の尊厳死としなければならなかったのです

現代の医療の現場は、それはそれで仕方ないとしても、これから人間は永遠の生命と認知されるようになり、肉体に執着することのおろ

かさを知るようになると、心臓死は、人間の尊厳死として、少しの時間の経過を置いても各臓器は臓器移植に適するようになるときが、

きっと来ます

移植のためだけの脳死が、修正される日が来るのです

 

 その四百七十九、

怒る人

人間が感情的になったり、怒ったり、悲観したりしますと、体のどこかに、支障をきたします

胃腸はとりわけ敏感ですから、その働きを弱めることになります

病いは気からというのは、実は,こういうところからきたのです

 

その四百八十、

平成十五年九月中旬の連休を利用して三日間、中国のチンタオ(青島)を訪ねました

二年ほど前に完成した韓国ソウルのインチョン(仁川)空港を経由して、日本でも売られている青島ビールで有名なチンタオへ入りました

かっての手狭なソウル空港から、近代的なインチョン空港を経由して、今度は老朽化が目立つ、中国・チンタオ空港は、かなり見劣りが

したものの、五年先の中国でのオリンピックでは、当地はヨット・レースの開催地になるらしく、空港ビルが建設中のため、二年も経て

ば立派な空港が完成する筈です

そんなこんなで、出国するときは、いくつかある免税店も閉鎖され、使い残しの中国の貨幣「元」も使わずに出国しました

でも、経由国の韓国のインチョン空港での乗り換えの時間に、空港内の銀行でマネー・チエンジをして、韓国の名品、朝鮮漬けに化けま

した

中国を訪問して、いくつか土産は買いましたが、なぜか最後は朝鮮漬けなのです

韓国の免税店では、円やドルは受け付けても、すぐ隣の、元は受け付けないのです

このようなところで、経済大国の日本の力をまざまざと見せつけられたようでした

グループの中の一人は、三十年ほど前のヨーロッパへ行ったときのトラベラーズ・チックを手許に出して「まだ使えるかな」と見せてい

ましたが、一ドル三百六十円の同時代のもので、私がアメリカへ遊学したときのものが家を探せばどこかにあるかもと、懐かしく思い出

されました

 

当地、青島は観光をした国道、数キロの道の両側には、延々とビルや高級住宅が完成、または建設中で、まさにラッシュという様子を呈

していました

気候が温暖なこともあって、全中国から投資目的に、造れば完売ということもあって、人は余り住んでいそうにもないのに、実情はそう

だというのです

二年前のテロによる米国ビル爆破の二、三日後に訪ねた中国・上海のあの活気とは違った、青島には止められそうにもない胎動が見られ

ました

中国は、正に、これからの魅力溢れる未来国です

福岡を出発する日は、前日に台風が通過した直後のために心配もされましたのに、例の如く「心行」を心で念じたからか、機体は微動だ

にせず、何事もなくソウルに着くことができました

中国滞在中に見たNHKのBS放送では、その台風は韓国に甚大な被害をもたらしたと報じていました

定泊した五つ星のホテルには、インターネットをつなぐターミナルも、パソコンを貸し出す用意もありました

往きは快適そのものでしたが、帰りのソウルへ向けて中国を飛び立つたときは何事もなかったのに、乗り継いで福岡へ向けてソウルを出

るとき、舞い上ってすぐにエンジン不調のためか、四百人乗りの満席のジャンボ機が数分間、機体が異常な振動を始めたときは、一瞬、

身構えました

十年程前の広州、桂林を訪ねたときは、古い機体のためか、シートの一部は鉄板が剥き出し、足許にはちぎれた酸素マスクが転がってい

て度肝を脱ぎます

さらにアメリカへ遊学のときは、出発する前日に、上司から送別会を受けて飲みすぎと貝が当たったのか、機上では大層な気分の悪さを

経験しています

別のアメリカ訪問のときには、バスによる大陸横断に参加して、三日目にはシートに座ると尻が火を噴いたように痛くて、尻を挙げた

り、座る位置を変えたり、車窓からは延々と砂漠だけで、どうすることもできなかったことを思い出しますから、バスの大陸横断なんて

大学生だからできたのでしょう

サテ、青島は、島ではなく大陸の突端です

由来は、近くの小島・青島なのだそうです

この山東省に除福が生まれ、世界各地、とりわけ日本各地に、かの除福伝説を残しますが、秦の始皇帝の命により不老長寿の秘薬を求め

て旅立ったという土地柄なのです

正法の創始者の高橋信次先生は、秦の始皇帝由来の楊貴妃は、今生はマリリン・モンローに生まれ変わったと教えてくださいましたか

ら、それなら、ひょっとしたらモンローに関係のあったといわれるケネディ大統領は始皇帝の生まれ変わり?かと、推論は拡がるのです

高橋先生の講演ビデオかテープに記録されていれば、私も信じますが、「そのように聞いたことがある」、というだけでは、にわかには

信じません

これから全国に数百本も残されている講演ビデオ、テープを検証してみる必要がありそうです

高橋先生の講演ビデオ、講演テープをインターネット放送局で流すように企画していても、先立つお金の喜捨が集まらず足踏みしていま

すが、いずれ、正法がお茶の間にヅカヅカと踏み込むのです

アメリカの大統領と万里の長城の始皇帝は、地位、名誉、実績共に申し分ありません

更に、過去世で不老長寿を過度に求めた結果が、今世は凶弾に倒れて若死にするというカルマ(心の傾向性)の修正が避けられなかったのか

なと、推論のド壷にはまってしまいました

また、「道教」という中国の宗教の本山が、奇岩が多い千百メートルほどのロウ山にあります

秦の始皇帝も、漢の武帝もここを訪れたという名刹です

ここロウ山は、名水、ミネラル・ウォーターが出て、青島ビールの源泉なのだそうです

道院の見学も終え集合場所へ着いたので、傍の便所へ行き戻って見と、私がいないというので、二人が捜しに行ったというのです

便所は集合場所から三十メートルの場所で、時間は五分ほどでした

高血圧で二度も倒れた私は、飲尿も続けましたが、再度の闘病から、もう三度目は植物人間間違いなしというので、三度の食後に欠かさ

ず降圧剤を飲んでいるものですから、利尿剤が効いて自分の意思とは関係なく膀胱に畜尿するので、便所が目に付くと、排尿したいとい

う意思に関係なく便所へ行くようにしています

頻尿というのは尿意をたびたび催すことのようですが、私の場合はそうではなく自分の意志で排出するのですから、講釈もややこしいの

です

それで、先ほど便所に行っていたようだから、私がまた、便所へとは誰も思いもよらなかったのでしょう

外国もいろいろ歩きましたから、ついクセが出て、声をかけることもなく無断で場を離れたことを反省しました

ロウ山は青島ビールの源泉と申しましたように、その青島ビール工場・記念館も見学いたしました

日本のビール工場をいくつか見学しても、どこでもビールの接待を受けた上に入場料も払わなかったように記憶していますが、お国が変

われば、お金がかかるのです

おまけに、通信社か何かのインタビューを、同席していた三人で受ける羽目になりましたから、一人が「とっても飲みやすいので僕は好

きですが、アルコール濃度が少し低いのでそれ程、日本では受けなかったかも」などと答えていました

かって、日本が統治した関係もあって、歴代の日本人社主の写真や展示された三菱のモーターが目を引きました

さらに、独シーメンスの古いがまだ現役のモーターを、シーメンス本社から引き合いがあっても、それに応じないとも解説していました

中国一の自慢の工場も、日本の超近代的な工場から見れば、それなりに素晴らしいのです

私の持論として、観光旅行は物見遊山と考えていますから時間の許す限り全部見てみたいのです

外国ともなると、そう来られるものでもないから、朝から晩まで絶えず歩き回って、うろうろと視察するのです

一回目の脳出血後に歩いたオレゴン州・ポートランドは、どういう訳か名誉市民證も持っており、訪問が三度目ともあって、街並みも懐

かしく自分でも驚く程に独りで歩き回りましたが、今になって見ると、よくもまあ何ごともなく無事だったと胸をなでおろしています

一度目のポートランドのことです

まだ独身のとき、勉強のために滞在していたものですから、ポルノ全盛の時代に、個室でポルノを見ながら、自分でシコシコ独りHをし

ていると、いきなりドアが開いたので、僕も相手も気まずい思いをしたのは、鍵が壊れて不完全なのに確認を怠ったという僕のミスでし

一人入れる位の小さな部屋に、十六ミリのフイルム映写機が設置され、コインを入れると動き出し、ここという場面にくると切れるの

で、見続けるには次ぎ次ぎとコインを入れるというものです

コマ送りのジイジイいう音を聞きながらというものは、デジタルではないアナログは妙に懐かしいのです

ズボンを半分だけ下ろして、前を隠した格好なんて様になりません

平成十五年の七月十九日の大水で、地下室が水没して八ミリ映写機も十六ミリ映写機も八ミリビデオも、VHSもUマチックも全部廃棄

しましたが、形ある物はなくなり消えても、人生体験だけは、このように消えてなくならず諸行無常なのです

もう一つ、宗教的なものでは、カトリックの天主教会がありました

この地は、ドイツが統治していた関係からの教会ともあって、チャペルの全高が百メートルあり世界でもっとも高い教会でしたが、建て

替えられて、現在は五十メートルあって、それでも見上げるように高いのです

十字架の形を模した会堂には、左右に五台の懺悔台が設(しつらえ)られ、荘厳な雰囲気を醸していました

青島の第一夜です

宴も終り、グループ全員でカラオケに行くことになります

グループ全員、少しを除いてホテルは個室です

今まで、このグループから私が参加した海外旅行は、全部二人部屋だったのに、今回は、外に同室希望はいないという事情からか、私も

旅行には是非とも行きたいからと、個室に同意しました

SARSの影響を心配して、当初、決まっていた青島をキャンセルして、東北旅行となります

ところがSARSも収まって、再度、青島へという経緯があります

これまで参加した旅行は全部が二人部屋なのに、どうして今度は個室なのと、家内が異議を唱えました

もう、こうなってはいけません

「やめろ!」「行くな!」の大合唱に、家族は険悪なムードです

このような背景があって、旅行に出してもらったというわけです

カラオケは一人につき、二百元、約三千円です

酒の飲み放題とカラオケ代の込み料金です

横に接待だけの女性がつけば別料金です

カラオケは二十五型ほどの普通のテレビに、歌詞の国語を選ぶディスプレイがあります

英語、仏語、独語・・というわけです

日本語を選ぶと、五十インチ程のプロジェクタータイプのテレビに、日本語歌詞のカラオケが始まるというわけです

各国語が用意されているのですから、曲数は多くありません

グループの一人は、百曲か百五十かなと言っていました

この時点では女性はついていません

次に、男性の相手ができる、つまり同衾できる女性が我々の前に十数名が立ち並びます

そこで指名が始まります

私も、一人一人の容姿を見定めます

並み居る女性を名指しで選ぶというのは、いくら女性大好き人間の私でも、憚られます

宗教人としての使命と、私の意思によって、お断りしました

都合上、皆には病気のせいにしましたが、意思は強いので、自分でしないと言えば、しないのです

海外には何回も旅行していますが、これまで一度も、この手の経験はありません

日本では、スナックなどを十軒ほどやっていましたこともあって、その方面も派手でした

酒の飲みすぎと食べすぎによって小型お相撲さんから、二度の高血圧性の脳卒中です

今回の旅行三日間に、お酒はビールをコップ一、二杯程度でした

国内では集まりに出ても、乾杯をグラスに口をつける程度ですから、色がビールに似ているのでいつもウーロン茶です

外国人女性は、東京にいるとき、ヨーロッパの人と一年ほど恋人でしたから、海外では、外国人女性との関係はありませんと言うのが正

しいでしょう

カラオケには、大水の水没により私が廃棄したものと同じ画面が出て、アー、DVDもLDも、VDも、通信カラオケも全部なくなって

しまったと、一瞬、沈んでしまいます

現地添乗員に案内されたミヤゲ屋で、中国語表示の,例のバイアグラを求めた人もいました

福岡より同行した、自分の旅行会社の社長である添乗員さんは、足許の危なげな私によく気遣ってくださいましたが、六十九歳にしては

元気そのもので、いつも最後まで酒を飲んでいて驚きました

いわゆる、お酒好きの部類なのでしょう

行程の中で、グループの一人が彼に向かって声を荒げる場面もありましたが、よくお世話してくださいました

この小さな旅行会社からは、参加人員全部のパスポート・ナンバーや生年月日、生まれた都道府県名が記載された一覧表をいただき驚き

ました

元へ戻ります

 

青島空港を出るときのことです

メンバーの一人が、何か注意を受けています

防犯チックに引っ掛ったようです

彼を検査場の片隅で待っていると、他のゲートの荷物チックがテレビに映るのが見えます

電気、機械大好き人間の私は、興味しんしんです

テレビの一つにカラーの荷物の観察画像が映り、もう一つは白黒の透視画像でした

見えないものを見るには、MRI,CT、X線、胎児を観察するのによくご存知の超音波などがありますから、写真機のフイルムを感光

させないためにも放射線を遮蔽する上でも、超音波かなと、想像の域は、どんどん拡がりました

係官が、「荷物の中にナイフが見える」と画像を見せて指摘したというのです

果物を切るのに、ホテルからナイフを借りて返し忘れて、果物の王様といわれるドリヤンに使用しますが、臭いが独特なので、海岸端へ

持って出て果物ドリヤンを解体したらしいのです

ドリヤンは東南アジアの熱帯の果物で、トゲのようにデコボコしていて人の頭位の大きさで味は絶妙に美味く、高級アイスクリームに入

れる位ですが、皮質の臭いが腐った玉ねぎなのです

福岡では〇〇果物店に置いている、とドリアンの主が教えてくれました

このような背景があって、紙袋の中のナイフを係官に放棄して、この検査も程なく終わりますが、食べ物ではもう一つの彼のエピソード

があります

別の中国旅行のとき、ゲテモノを食ったのか、ひどい下痢でした

自分の部屋の便器を詰まらせ、さらにグループ内の便器を詰まらせて廻ったのです

というのは、トイレット・ペーパーが純粋なパルプのために、思うように水に溶けなかったのが原因のようで、どこもここも水が引かな

いのです

海外旅行に出ると、いつもそれを思い出します

再度、ドリヤンにもどります

残りを、マイクロバス観光にも持参していて、山に掘られた日本軍、その後の独軍が使用した地下司令室を視察したとき、その傍らで、

残りのドリヤンをご相伴になりました

グループの一人が、地下室を出てから手つかみで切ってくれ、私も地下の壁とノブをさんざん掴んだ手を洗うことなく手つかみで貰らい

ましたから、さすがの私も抵抗があって、おいしい果物の王様もじっくりと味わうことなく一気に飲み込みました

狭い地下壕のひんやりした暗闇の中を、手探りに近い状態で歩いたはずです

折角、ドリヤンの主が、濡れたタオルを持参していたのですから、タオルのおシボリで先に手を拭いた上で、食べたらと、思うことでした

それからドリヤンでべたつく手を、そのタオルで拭いたことは言うまでもありません

順番が違うと、こうもややこしくなるのでしょう

そうしていますと、グループの一人は姿が見えないというのです

地下壕に閉じ込められていて、係員が扉を開けると出てきましたから、歴史大好き人間の彼は、得心のいくまで熱心に、くまなく視察し

ていたのでしょう

それからは、トイレの主の私と、地下壕の主と、或るときフラリと居なくなったバイアグラの主の三人が、集合時の要注意人物に指定さ

れ、次の旅行から番号点呼にしようとなりました

電波・観光塔の青島タワーのことです

回転展望台があるというのです

高台にあるタワーからは展望は最高なのに、あいにく靄がかかって、いまいちでした

広い展望レストランに客は一人、グループの一人が「動いていないぞ」、それほどに、回転が遅いのです

すると一人が、「早すぎると都合の悪いことが起こるので、これ位が」というのです

理由を聞いてみると、アメリカかヨーロッパ旅行のとき、回転する側に物を置いて用事を済ませてヒョイと見たら、物は彼方に動いて大

変だったらしいのです、それで納得

青島の博物館でのことです

流暢に日本語を話す、館の案内人がつきました

かなり歴史に詳しいのがグループに何人もいて、案内人も説明に力が入っているようです

さすがに中国は五千年の歴史があるというだけに展示物も圧巻で、みな感激していました

ところが、一通り見終えると、「どうぞこちらへ」と案内され、お茶も出て、黒檀のガラスの家具に入った、レプリカ(模造品)らしい数品

をつけて、送料込みで百五十万円というのです

これまでに買ってくれた名古屋の人の住所、氏名のサインを見せて、「どうですか」というのです

博物館で百万円余りの商売ですから、驚いてそれからは白けて、苦笑する人もいました

迎賓館のことです

毛沢東も有名な要人も、独軍の司令官も泊まったことのあるこの建物には、来訪者を見定める覗き窓がついていました

上から階下を覗いて、居留守をつかうことがあったかもしれません

我が家にはこんなに広い部屋の余裕もありませんから、電気、機械いじりが趣味の私には、部品を求めて自作により、防犯ベル、防犯・

監視ビデオカメラが車庫といわず玄関といわず何台もついていますが、デジタルではないアナログのノゾキ窓がなんとも悠長で、味わい

深いのです

毛沢東は、ソクラテスの生まれ変わりと、高橋信次先生は教えてくださいましたが、あの毒杯を飲んだ大哲学者は、玄関の前に座り込ん

で夜通しで考え込んでいると、朝帰りと勘違いした悪妻の鑑(かがみ)クサンチッペに、汚いバケツの水を浴びせ掛けられたというのです

そんなこんなで、福岡へ帰り着きました

入国検査、手荷物検査の前にグループ全員で挨拶を済ませ、めいめいは各ゲートへ向かいます

手荷物検査は、バッグを開けることなく問答で済みました

成田ではない、東京羽田国際空港でのことです

アメリカ遊学を終えて、帰り着きました

腹巻には三冊のポルノ雑誌です

やっていることがどうしても後ろめたいので、オドオドして、どの列につこうかと何度か位置を変えていると、さすがにプロの目は節穴

ではありません

係官が寄ってきて「どうぞこちらへ」と案内され、二人の係官からサムソナイトの大型スーツケースなどを徹底的に調べ上げられました

隣の部屋では、どうも女性らしく、カツラも取らされているようです

私の場合は、余りに私がオドオドしているので、ダイヤを隠し持っているかのように疑われたようで、ポルノ三冊は没収、始末書を書か

されて放免されても、迎えに出た友人等は、ポルノゆえに足止めを食っているとも知らず、私がションボリして外に出たときには、そこ

にはもう誰もいませんでした

こうして、福岡国際空港を出ると家族が迎えに来ていました

子離れが出来ぬ父親の私は、余ほどのことがない限り、迎えに出ないと機嫌が悪いので、今回も申し合わせたように待っていました

夜の八時頃ですから、皆な引き連れて、箱崎の放生夜へ足をのばしました

賑やか大好きの私は、覗かないと妙に落ち着きません

それから終わるまでの三日間、毎夜通い続け、百円パーキングにも随分世話になりました

家族もホトホト呆れていましたが、最後の夜の十二時です

どんどん店仕舞も進んで、お化け屋敷の人形も、仕掛けも次の出番まで、おあづけとなって、トラックへ積み込まれていました

風船屋さんも空気を抜くのに大変です

大きな風船は、空気が抜けないように吹き込み口が二重になっていて、ストローを差し込んで、手で押さえながら一個一個、空気を抜い

てゆくので、思いの外か、大変なのです

仮眠から翌朝片付けをしようとする店もあれば、飛び石連休の次の縁日に向けて旅立つ人もあり、そこに人生の縮図を見るようでした

父が、小学校に上がったばかりの私の手を引いて、小屋架けの浪花節(なにわぶし)に連れて行って、はぐれた私は、父を探して泣いた

暗い小路を思い出していました

サテ、これで旅行記も終わりましたから、それではパソコンの電源を切って、天神のアジアマンス(アジア人の交流会で民族的なお店が並

ぶ祭り)へ、出掛けることにしましょう  H十五・九・二十

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その四百八十一、

 小乗仏教と大乗仏教が疑問の人

 たとえば八正道は小乗仏教で、自分一個の悟りであって、現代には通用しない

現代は人を救ってこそ、己も救われる、すなわち大乗仏教こそ、本筋だというのです

小乗、大乗は誰が定めたのかといいますと小乗のはしりは、普賢(ふげん)であり、大乗は竜樹(りゅうじゅ)が考えたようで、八正道こそ正

覚であり、菩薩への道なのです

ウソのつけない自分の心に問う、聞く、の生活

つまり正しく、見る、思う、語る、仕事をする、生活する、道に精進する、念ずる、瞑想する、の八つです

瞑想とは反省です

一日をふりかえって、己の心に問う、聞くことです

そうして、人をそしった原因は何か、怒った理由はどこにあったか、を反省するのです

すると、自分をかばう心があった、自分のみをいたわる心が強かったというこということになり、自己保存のむなしさがわかってくるは

ずです

まず自分自身を神仏の心に調和させるのです

己が調和せずして、どうして、人を調和させることができましょう

そして人びとを救うことです

これを菩薩行といいます

自分さえ悟ればいいというものではありません

人びとにもその福音を伝え、愛の手をさしのべるのです

仏教には小乗も大乗もないのです

あるのは、お釈迦様の教えなのです

二千五百年の間に人の知恵が入り込んで、変わってしまったというのを誰も否定できませんが、この時に、かって、釈迦であった高橋先

生は長野に生まれ変わられて、現代に「正法」という名称で仏教を説かれたのです

もっと厳密に申せば、モーゼのユダヤ教、釈迦の仏教、イエスのキリスト教は人類の正しい生きる道を説いた正法なのです

真のメシヤであるエルランティは、三億六千五百有余年前にこのうら若き地球に飛来され、最近は分身にモーゼ、釈迦、イエスや天照大

神を持ち、モーゼにはヤーベとして、釈迦には梵天として、イエスにはエホバとして、日本の古神道には天つ神として、エルランティ

は、それぞれ名前を変えて天上界から教え導いた現代のエルランティは、高橋信次という名前で、ユダヤ教の、仏教の、キリスト教の、

古神道の、神理を再び明らかにし、修正し、露払いをするために三億六千五百有余年振りに生まれられたのです

 

 その四百八十二、

タイム・マネジメントの人

一日二十四時間というのは、神様が万物に与えられた不変のものです

この一日を他の人と同じように使っていますと、能力の差は多少、違っていても似たり寄ったりですから、人より抜きん出るには、他の

人とは全く違う時間の使い方をする以外にありません

それは「〜しながら」の活用と、無駄なく、仕事を圧縮してやり終えるということです

ひらめきとメモ用にポケットサイズのテープレコーダー

思いつきをすぐメモるペンとメモ

情報整理用のレンズ付きフイルム(写真機)

小型電卓または携帯電話で代用

言うまでもなく最近の携帯電話は、画像も録音も、計算機もメモも、旅行先の天候も、ウエブなど情報は何でも有ですから、携帯電話を

活用してオールラウンドに活躍している人もいます

 

 その四百八十三、

せっかち人間

空が明るくなったら、鶏鳴と共に音楽で起きだし

排便と歯磨き、新聞に目を通すことを同時進行させ

テレビに目をやりながら時間を見、新聞に赤線で囲みながら朝食をし

一日の予定と計画に目を通し

誰よりも早く出社して、朝浮かんだアイデアを再度確認し

デスクの上には電話機は勿論、メモ帳、電卓、ワンタッチ式電話帳があり、緊急度別、重要度別に書類を整理するポケットがついている

そして、打ち合わせをしながら昼食を食べ

お風呂に入るときはテレビやラジオを持ち込み

夜寝るときは自分本位に性のポーズを楽しみ、せっかちにセックスを済ませる

こういう人は猛烈人間であり、出世を期待されるかも知れませんが人生の目的と使命を忘れている人といえます

 

 その四百八十四、

 健康を自己管理する人

 健康は自己管理する以外にありません

体力を維持管理するには天然ではない精製塩と、天然のものからかけ離れた白砂糖の摂りすぎに気をつけて、適度な運動と睡眠などの休

息をとれば、よいのです

さらに、愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望を心から抜き去り、栄養は人間の歯の形から野菜、果物が2、肉、魚が1、ジャガイモ、イ

モ類が2、ごはん、パンが3、という割合でまんべんなく食べるのが自然です

 

 その四百八十五、

先祖が疑問の人

先祖には肉体先祖と魂の先祖があります

普通は、先祖は肉体先祖をさします

ところが魂の先祖こそ、その人の過去世です

過去世に劣らぬ自分をつくることが、この世に出生した目的です

過去世といわれても我々はわかりませんが、現在の自分は、過去世からの集約された自分ですから、現在の長所を伸ばし、短所を長所に

かえる努力が大事で、これが魂の先祖へえの報恩です

そして、肉体先祖へは、人に博愛の行為をなすことが大きな供養となります

 

 その四百八十六、

意識の同通は憑依、が疑問の人

 意識が通じ合うことをいいます

怒りの想念に支配された人は、あの世の怒りに燃える世界に通じ、修羅の人は修羅界に、動物的本能に翻弄された人は畜生界に通じます

人の心は一念三千であり、思うところに針が動くので、悪の想念を抱かぬようにしなければなりません

  

 その四百八十七、

 憑依された人

 心が悪に支配され、動物のように、本能、感情ののみに支配されてくると、このような動物霊が近づいて人の意識を占領し、二重、三重

人格をつくっていきます

過度に怒りっぽい、ぐちっぽい、衝動的な性格者、自閉症、ノイローゼなど、分裂気味の人は、ほとんど憑依されています

憑依から抜け出すには、心が平静なときに、その苦しみの原因を取り除く努力が必要ですが、執着にかたまった心をほぐすには、肉体的

な運動も効果があります

 

 その四百八十八、

動物霊とは何か、が疑問の人

 あの世にいる動物たちの霊のことです

主にヘビ、キツネなどが人間社会に割り込み、さまざまな悪現象をおこします

日本ではヘビ、キツネが多く、外国ではキツネは少なくヘビが多いようです

日本にキツネが多いのは稲荷信仰のせいかも知れません

  

 その四百八十九、

 悪と善の人

 悪とは自己保存をいいます

人はどうでも自分さえよければよいという想いが、自己保存をつくり出します

善はこの反対で、自己保存の我欲から離れ、人びとと和合の生活をめざすもので、家庭も社会も明るくします

その反対に自己保存が強くなると、怒り、ぐち、足ることを知らぬ欲望、そねみ、自己満足、自己嫌悪、怠惰、うらみ、ねたみといった

表面的な感情想念に支配され、家庭や社会の混乱の原因になって来ます

 

 その四百九十、

実在界が疑問の人

実在界とは、あの世のことです

この世を現象界といいます

映画にたとえますと、この世・現象界は映画のスクリーンです

映画を映す映写機は、あの世・実在界にあるわけです

この世は、あの世の投影です

少し見方を変えますと、あの世に先に起こったものが、必然的にこの世に少し遅れて起こりますので、先にあの世で起こったことを、あ

の世で先に知った霊が、この世の霊能者へ知らせると、この霊能者は予知能力があるということになります

あの世で先に知った霊とは、光の天使や動物霊、地獄霊などがありますが、動物霊や地獄霊の教える予告、予言は当たり外れがあり、光

の天使のものは、光の量の区域、つまり人間性や霊格によっては百発百中もあり得ます

 

 

 

 その四百九十一、

 

循環の人

 

この世の一切のもの、すべてはグルグルと円運動を描いています

地球の自転公転、それにもとづく昼夜、四季の移り変わりがあります

またあらゆる物質も、質量不変の法則にしたがい、循環を続けています

人間の魂も、生まれ変わり死に変わり、転生を輪廻し続けています

循環のないものは、この世にはありません

このように、循環の法というものを理解しますと、人は正しく生きなければならないということを自覚されて来ます

  

 その四百九十二、

 信心の人

 信心とは、人に嘘をつけても、自分に嘘のつけない正しい心を信じることです

ペーパーの神や偶像を崇(あが)めることではありません

人の心の中には自分を守り、指導してくれている守護・指導霊が存在しています

正しく、素直な心になりますと、守護・指導霊が示唆を与え過ちの少ない人生を送れるようになります

反対に自己保存、足ることを知らぬ欲望に心が支配されると本人に指示を与えることが出来ずさまざまな不幸が本人を襲うことになるの

です

 

 その四百九十三、

信仰者

 

他人に嘘をつけても、自分に嘘のつけない善なる心にしたがって、正しい生活を送ることを信仰といいます

でも、現実は偶像崇拝がはびこり、マンダラや、お経を読誦し、祈ることが信仰と見られていますが、それは大変な間違いなのです

なぜかと申しますと、人の心の中には守護・指導霊がいて、その人を守り、指導しており、自力の生活が可能であるように人間はつくら

れているからなのです

人間というものは、物を創造し、広く自由な心を所有できるのは、人間をおいて他にはなく、動物、植物には与えられていないのです

地上に天国や地獄をつくり出す者は人間であり、動物植物には、その能力はありません

この点を理解されると信仰の在り方が明らかとなり、自力ではない他力は、その善なる心と、創造と自由な機能を放棄することになり、

人間失格を意味することがご理解いただけると思います

 

 その四百九十四、

止観の人

文字通り、とどまって見ることです

正しい止観は、正法という八正道を尺度にして反省することであり、反省と実践とによって、人間ははじめて前進することが出来ます

  

 その四百九十五、

 五官六根の人

 五官とは眼、耳、鼻、舌、身の五つです

これらの機能が人間にはそなわっていますが、これに心が翻弄されると、自分を失っていきます

五官を通して、より広く豊な心をつくり出してゆくのがこの世の私達の目的であり、五官にまどわされず、五官を超えて行かねばなりま

せん

この五官に「意」を加えて、つまり意識、心を加えて六根となりますが、六根煩悩を超越して人間は、万物の中で、ただ一つ心を持った

動物ですから、創造できる心、自由な心を通して大自然界のユートピヤを築く使命があるのです

  

 その四百九十六、

 念の人

 念はエネルギーです

地上の必要物である衣食住などは、人間の念によってつくられ、大宇宙は神の意によって創造されました

思う、考える、念ずることがなければ、これらのモノを作り出すことはできません

念は単なるエネルギーですから、善にも悪にも通じ、さらに循環の法が働いていますので、このために善(博愛)には善が、悪(我欲)には悪

がハネ返って来ます

念は正しく使ってこそ生きてくるものです

 

 その四百九十七、

霊道の人

普通、霊能、あるいは霊道と呼んでいます

霊道というのは、文字通り霊の道がひらくことですが、芸術家などの中に、割合多く見られ、天才などは霊道を開いている人がほとんど

です

霊道がひらくと、透視力、幽体離脱、人の心を見抜く、物品引き寄せ、物質化現象などが人に応じて可能になります

これらは、その人が行うというより、その人の背後で手助けしている霊がおり、その霊が、その人の目的意識に合わせて行うのです

手助けする背後霊の段階が非常に問題でして、光の天使なら願ってもないのですが、動物霊、地獄霊などの低下位界の手助けはそのうち

に、その人を食いものにし、地獄の底へ引きずり込むので注意が肝心です

また、その人が全然それを望まないのに、そのような超自然現象が起きることもありますが、そういうことは少ないのです

どうしてかと申しますと、あの世の霊は、霊道者の心に合わせて行うからであり、各個人の自主性が重んじられるからです

ただし、霊道者が、仮に万年筆の物質化現象を望んだのにボールペンに変化することはあります

また目的に対して時間的なズレが起こり、希望はしないが、恐怖心や心の動きが現象化することがあります

霊道は過去世でその道に修行した人が大部分ですが、過去世で修行しない人が今世で初めて霊道をひらくと、分裂症に陥り、変人になっ

たりします

やたらと滝に打たれたりして、霊道を求めることは、こういう意味で非常に危険です

 

 その四百九十八、

ノイローゼ、精神分裂の人

ノイローゼや精神分裂は霊の憑依です

地上界にはすでに亡くなって地獄界におり、厳しい環境に耐えかねて、この世に執着する霊たちが多くいます

彼らは、この世の同じような心の持ち主に、生きる場を求めます

そこに、この世の不平不満、執着に凝り固まった同類の人に、類は友を呼ぶ法則にしたがって、地獄霊や動物霊を呼び込み、心の病を引

き起こすのです

こういう人たちは、恨み、怨み、悲しみ、哀しみ、悔しさ、三角関係、失意、つらみ等が心の中を占め、溜め込んでそこから離れること

ができないために同類の霊を引き寄せ精神病になってゆきます

ウツ病、ソウ病はみなこうしたことが原因なのです

春先になると誰もいないのに、一人でニヤニヤしてブツブツ喋っている人がいますが、霊視すると、彼らの脇には地獄霊がいて、いろい

ろ語っています

精神病になると悪霊が支配するために、寝せないので夜眠れません

悪霊は、暗黒の深夜に活動することからご理解いただけるでしょう

 

 その四百九十九、

高橋信次先生の、「地獄界探訪」

 高橋先生は自由に地獄界を訪問されました

先生は、ご自身の守護霊である不空三蔵に心の中で依頼されます

瞑想をされていると、肉体から先生の意識、心が抜け出して、スポットライトを浴びたようにして光のドームの中にいり、エレベーター

のように薄暗い方へどんどん下へ降りていきます

先生が着かれた場所は、陰気で底冷えがし、大地はジメジメして感触が悪い所です

樹木は薄黒く、緑の葉も生気がありません

小さな村の入り口にたたれ、一軒の薄暗い家を覗かれると、ランプの灯りを囲んで数人がたむろしています

先生は、思い切って声を掛けられると、車夫のような薄汚れた仕事着と頭は角刈の男が出てきて、ジロジロ見ながらあごで会釈して「入

れ」と命じます

通された部屋は十二畳ほどで、床の間の正面には白髪の老婆が口は耳まで裂けて座っています

「これはうまそうな肉付きのいい(この当時の先生は小太りの中肉中背)獲物が飛び込んできた、逃げ出さないように戸口で見張れ」と、ヤ

クザ風の男が出刃包丁を突き出し、

「さあ片腕をだしな」

先生は「食べたければどこなりとサア、腹一杯になったら私の話を聞きなさい」と、老婆の方へ先生がにじり寄られると、皆はあっけに

取られて後ずさりして何にも言えません

自分さえよければ人はどうなってもという者ばかりで、愛のカケラも持ち合わせぬ輩なのです

でも、先生の肉体を「どこなりと好きに食べなさい」と供養する慈愛の言葉に彼らの殺気立った心も、普通人のそれと変わり、口まで裂

けた老婆も平静さが甦ります

「まぶしく光り輝くあなたのような方と初めて会いました、神様ですか」

「あなたと同じ人間です」

老婆は両手をついて額づくのです

老婆は、身を売られて吉原という遊郭で働いていたことを告白し、先生の諭される言葉に悔悟の涙さえ見せて、これまで生きてきた一つ

一つを反省するのです

「ここは地獄という所ですか」

「そうです、もうあなた方は二百数十年も、ここにいるのです」

「今は江戸時代ではないのですか」

「現代は昭和といい、建物はガラスで光り輝き、馬ではない何倍も速く走る自動車の時代です

約三時間、先生はここで時間を費やされ、大きく息をつき、意識は先生の肉体を支配し、禅定(ぜんじょう)を解かれるのでした

地獄界にはその人の心の状態により段階がありますが、この餓鬼界という地獄の世界には、年中暗闇の世界でランプ程のわずかなぼんや

りとした光しか与えられておらず、自分以外は皆敵であり、いつ敵から食べられるかもしれないという、食われては生き返り、お互いに

食い合いをして、いくら食べても満腹することはなく、いつも飢えにおびえているという苦しい世界です

上の段階から地上界、修羅界、餓鬼界、畜生界、煉獄、無間地獄、魔王となります

無間地獄は、ドイツのヒットラー等のいる完全な暗黒で、自分の居場所さえわからぬという世界です

 

 その五百、

 禅定の人

 禅定、瞑想をしていると、幽体離脱して意識が自分の肉体から抜け出て、異次元の世界へ行くことがあります

自分の意識、心が抜け出しているときの肉体は、主人のいない抜け殻であり、このため、外部から肉体へ声をかけられてもタイム・ラグ

があって、しばらく時間をかけないと正常には戻れません

こういう場合は、はるか遠くのほうから人の声が聞え、自分を呼んでいるような感じです

 

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