title-人間・高橋信次.gif (14719 バイト)

人間・高橋信次師の経時的記録

WB00941_.GIF (1211 バイト)    どう生きてどう去ったのか

 

  

    

 

 

 

photo-高橋ーフォト.jpg (19616 バイト)

 

 

photo-高橋ー二日市.jpg (15278 バイト)

 

「人間・高橋信次」                           

    

 いまから二十年ほど前の昭和四十年代から五十年代の初頭、日本じゅうが安保やオイルショックで頭を痛めていたころ、中肉中背で丸顔の実に誠実そうな一人の男が、場内からはみ出しそうな聴衆者を前に、何やら意味のわからない言葉で問いかけていた。相手はというと、これも同じような言葉で返している。場内はセキひとつしない。じーっと見いっている。むろん誰れも何を語り合っているいるのか皆目わからない。間をおいて男は解説をいれる。そこで会場の者は、なる程と理解できる。男は相手の方に身体を向け、片方の手のひらを頭の上からかざすような仕草をしたり、離れて円をかいたりする。そして、なおも言葉は続く。すると相手は感情がこみあげてどうしようもないのか、堰をきったように想いをぶっつけはじめた。「ブ・ッ・ダー」しぼるような声が場内一杯に拡がる。そして、すがらんばかりにひれ伏して手を差しのべ「観自在者ブッダー」男は「そなたは、よく私のところに来てくれました。こんじょうもまた一緒にやりましょう…」男もハンカチを目に当てている。会場の中からもすすり泣きの声が。「リヤ オ エレ…ソレ ポコラ…パニヤ インダ…」そしてすかさず男の解説がはいる。ひと区切ついたところで「…男前がこんなになっちゃいまして…」男は照れ笑いすると、会場からは笑いが。「嘘じゃないんです。真実なんです。皆さんも過去生まれた体験を皆もっているんで す。皆さんの心をヒモ解いてゆくと、それがわかるんです…袖すり合うも多少の縁! ありがとうございました」場内は拍手のウズに。男の解説するところによると、二千五百年前の古代インドの時代、縁のあった者同志が時空を越えて出会った時、懐しさでどうしようもないのだという。そして、霊魂は死ぬこともなく生きとおしのものだから、今の自分がまっとうに生きていなければ、あの世で、或は次に地上界に生まれた時に、嘘のつけない善我なる自分が裁いて、バッチリ反省させられ辻褄が合う、と男は弁を閉じた。

そして、なんと昭和五十一年六月、男は自から予言した死の直前、こういった。「三億六千年前の七大天使と共にこの地球に飛来した中心霊・エル ランティである」、と。そして、またもいった。「モーゼの説いたユダヤ教と、釈迦の仏教、そしてイエスの説いたキリスト教を一つにするために肉体をもったのだ」、と。そして「神理は一つであり、宗教の間違いを修正することに自分の使命はあった」、と言ってのけた。とてつもなく大変なことを言って昇天した男がいたものである。「仏陀とかエル ランティだとか冗談じゃないぜ」「魂は永遠だと…?」「あの世だと…死ねばこの世限りに決ってんじゃんか」「このクソッタレめが!」男が伝道を開始してから、このような罵詈雑言がどこからともなく聞えた。しかし、男はまたもいった。「すぐに信じてはいけません。疑って疑って、もう疑う余地が無くなった時、そのとき信じなさい」と、自信たっぷりに言ってのけた。成書を引っ張り、受け売りのような空真似の講演をする演者の多い中で、この男の口から飛び出す言葉は奇想天外、今までに一度も聞いたことのない話の連続だった。そうこうする内に、一人集り二人集りして男の講演会場はいつも超満員。そして、ついには既成の新興宗教が、二万とも三万ともいわれる信者を引きつれて鞍替え、宗教界をアッと驚ろかせたりもした。そして山ほどの多くの「とてつもないこと」を言ってのけ、数多くの著書、講演ビデオ、録音テープを残した。そして来聴者の心に多くの神理を刻み、四十八歳の若さでその生涯を閉じたのである。この耳なれない男の名は、高橋信次。この男こそ釈迦、イエス、モーゼの本体、真のメシア(救世主)エルランティだったのである。 

 

 

 

ホームページ.gif (1592 バイト)                     

                                 

  〈驚ろくべき出生の秘密〉                   

 日本じゅうに金融恐慌が吹き荒れていた昭和四年(一九二九)<昭和二年・一九二七の説も>、夏が終り高原のそよ風が頬をなでる九月二十四日、一人の玉のような男の子が生まれた。中部地方の臍に当る位置、浅間山を北に見て、小諸、軽井沢の近く 四WDの車やキャンパーが集って夏の夜の喧噪にマユをひそめる住人も多いという浅間おろしの吹く信州・佐久高原、中込の近く。幼くして死んだ二人を除くと、十人の子の中で男三人女七人の真ん中、貧農の二男として高橋信次は生まれることになる。本名は治男(春男の説も)。成人して信次と改名、その理由は、同じ部落に同姓同名の人がいて、郵便などの混乱による。出生地の選択について信次は、こういっている。

「今度、生まれる時、誰がどこに出るかを天上界で会議をもったのは、寛永二年(一六二五)だった。はじめ僕は北海道にと考えたが、遠すぎる。東京に近くて最適な所はないかと思案の上、風光がインドのカピラ(釈迦の生まれた王宮の在所)に似ている佐久平を選んだのです。そして次に、相談相手となる人を僕のそばに出そうということになって、インド時代のプルナートラヤー・ヤニプトラと呼ばれた人。それから日本に富樓那という名で生まれ、いま税理士の佐藤さん、彼とは小、中学校から、ずっと一緒です」と。

「ヘェー生まれる場所を自分で決めてくるのか。自分で決めたんだったら、暑いとか寒いとか、こんな処で生みやがって、なんて言えないナ」

そして、父について信次は、こう言った。

「僕の父はインドの時代のシュット・ダナー王(釈迦の父)であり、その後、日本に生まれ変わって、鎌倉時代の源頼朝」

「ナニッ 源 ヨ・リ・ト・モ!」

「マーマ、落ちつけ落ちつけ、最後まで」

信次の懐古談によれば、信次の父は黙々と働く人で、子供の成長を楽しみ地味な人生を送って七十五歳の生涯を終えた。信次が悟りを開いてしばらくした頃(昭和四十四年頃)、おやじが、「治男、お前はわしの子だろう」という。「そうですよ、それがどうかしましたか」と言うと、「いや、昨夜、武士が出てきて「あれはわしの子だ」という」、その次の夜、「また、昨夜の武士が出て来て「わしの子だ」という。そうしたらターバンを巻いた二メートルくらいの白い服をまとった男が出てきて、「あれはわしの子だ」という。治男どうしてなんだ」、と。それで信次はどうしてこういうことになるんだろうと思って、信次の父に関係する霊を呼び出してみた。そうしたら、最初、武士が出てきて「源頼朝めにございます」という。僕が今度日本に生まれて法を説く上で、日本の体制を整える必要があって幕府をつくったのだとい う。そうしたら「武士という者はなかなか権力闘争が強くて困りました。それで今度は、何も関係のない百姓に生まれることにしました」という。その後ろに、インドスタイルの大きな男の人が立っている。そして「インドの時、あなた様を生ましていただいてありがとうございました」という。インドの時のカピラの城主、僕の父親だった人。その人が日本の源頼朝と生まれ、そして今の父となった。縁というものは、ふしぎなものですね」と信次は言った。               

「仕事も自分で選ぶのか。それじゃあ自分の職業に不平不満も言えんじゃないか。会社が悪い、上司が悪いと」

「生まれた環境もすべて全部自分の責任というわけサ」

そして、母に関して信次は次のように明かした。

「僕を生んだ母は、キリストを生んだマリヤであり、その後、日蓮を生むことになった」、と。

「オイオイよせやい。今度はマリヤ様か。二千年前のマリヤ様が、次は鎌倉時代の日蓮の母か、ヘェー、だんだん大変なことになってきたゾ」

信次の、母の回想によると、信次の母は無学なりに「心まで貧しくなるな」とか「雨滴によっても穴はあく、いつの日にかは」、「一寸の虫にも五分の魂」そして、他人の悪口を言えば「人を呪わば穴二つ」などと諺を引用して子供達に教えている。そして、明治三十一年生まれの母が、信次を妊娠した時から、ふしぎな声が天から聞えるようになり、夜道を歩いていると、足下がスポットを浴びたように明るくなり、懐中電灯もいらなかった。

「まるでSFの世界じゃないか」

そして、信次の家には不思議と物貰いが集まって来て、心から親切にした。それで、みんなから、生き神様と言われていた。信次も言う、心のきれいな人だと。                          

「マリヤ様だったら、当然だろうナ。流石にマリヤ様は人に出来ぬことをなさる」

「園頭広周(元国際正法協会会長)という人が、昭和五十五年に生家を尋ねた。八十三歳のお母さんは新築の家に一人で住んでおられ、眼鏡も補聴器もいらず、縫いものをしておられた。色々と信次について話しを聞いていると、度々話を切上げては奥へ行かれる。その内に三人分の昼食を用意されて、どうしても食べてくれと勧められた。そして次のように言われた。「あの子は、親に心配をかけまいと自分で何んでもやる子でした。でも治男は死んでいません。治男は今も生きています」と何度も繰返された。信次の生まれた家は、信次がお母さんのために家を新築したので、半分こわして通路になり、後の半分は一行が訪ねた日に取り壊わすことになっていたのが、雨が降ったために取り止めになり、写真に残せた。そして信次が背のたけを計った柱の傷を指し示した。そして、別れる時、ふところから紙包みを取り出して差し出されたので無碍に断るわけにもいかず、いただいたのだそうだ」

「九州から尋ねて来てくれた人への思い遣りというか、心遣いが痛いようにわかるネ」

「一万円だった。そのお母さんもすでに亡くなっているが、信次は大変にお母さんの感化を受けている」

信次は次のように言い残した。「インドの時のマヤ(釈迦の母)なる方 に、「今度も私の母になって下さい」とお願いをしたが、「今度は休ませて下さい。インドの時は苦労しましたので」といわれるので、それではというのでマリヤ様であり日蓮の母にお願いした」、と。        

「マヤ様は釈迦を生むと産後の肥立ちが悪くて、すぐに亡くなってしまうからナ。大変だったわけだ」

「そう、逆子だった。それで亡くなることになる。しかし、これとて釈迦がこの地上界で自から悟るための手段として、マヤ様は天上界の計画によって天国へ召されたのだ」

「へー、天上界って無慈悲なことをやるもんだネ」

「イヤ違う。我々は永遠の生命だからナ。死んでも、また生まれてくるのだから。これまでも、この地上界では何万回も、いやそれ以上、生まれ変わって来たのだから。しかし、その時、マヤ様は大変だったわけだ。わかる。」

「ところで、釈迦は生まれてすぐ歩き出し、イエスは腋の下から生まれたというゾ」

「これも信次は修正している。そのようなことはなく、イエスは普通のように生まれ、釈迦も我々と同じだ。後世の者が神格化して作り変えたのだ。」

「なる程、そうしてみると、彼等と同じように我々も、同じように父や母を自分で選んで、この世に出てくるのか」

「そうだ、縁というものを通して。だから我々が、マヤ様やマリヤ様のもとに生まれようと思っても、それは不可能だということ。今の君のお父さん、お母さんをまた選んでも不思議ではない。ところが我々は無智なものだから、自分で選んでいながら、恨んでみたり、不平不満を言う。ナンセンスってこと」

「なる程、父母への感謝、報恩とは、こういう意味があったのか」

ともかくも、信次の父の過去世の名が源頼朝であり、シュット・ダナー王であった。そして、母の過去世の名がマリヤであり、日蓮の母であった、と。                               

「釈迦の時のマヤ様は、今度はお断わりになったのか」

「そう。しかし、日本に生まれられている」

「やっぱり日本に。話しが出来すぎていないか」

「うん。霊団の一人として、その方は関東地方の蜂須賀侯爵家に生まれ、蝶よ花よの優雅な生活であった」

「片や優雅な生活、マリヤ様は貧農の妻、明暗だネ」

「とんでもない。どちらがより良い魂の勉強になったかということだ。金持ちとか貧乏というのは、魂の修行のための環境にすぎない」     

                      

 〈生い立ちの不思議〉                      

   生死の境を何十回も往復

 十歳の秋(九月三日)の夜八時、それまでは病気という病気もしたことがない信次が、心臓は停止し、突然、死んだようになってしまった。その日は三時間ほどで息をふき返したが、それ以来、夜八時になると、しゃっくりが出て呼気だけになり、四、五秒で完全に心臓は停止する。信次の母は信次の死体を抱えて、耳許で信次の名を呼んだり、揺り動かしたり、どうにか息をふき返えさせようとした。家族の者も、どうすることも出来ず心配そうに見ている。もう一人の信次は、その推移を全部見ている。そして心配を掛けまいと、声を掛けるが、誰れも、気がついてはくれない。その内に医者が来て、唇はぶどう色、顔面は蒼白、手足は柳のように萎えている信次の診察をして、カンフルや浣腸をした。もう一人の信次は、それを全て見ている。その内に、薬の匂いがしたと思ったら、心臓が動き出し、本来の自分の肉体に戻っていた。このような分身現象が定期的に起った。その時間は十五分から数時間というものだった。医者も診断をつけかねて、その内に来なくなった。家族も、あきらめて、その経過を心配そうに見ているだけだった。その間、もう一人の信次はと言えば、忍者のように自由自在、変幻自在で、どんな隙間も通り抜けることが出来、故人と会ったり、美しい花園を散歩したり、信じられそうもないことが展開されていった。

「今で言う幽体離脱ってことか」

「そう、信次は原始肉体と光子体の分離という言葉で説明している。勿論、幽体離脱と言っても、それには段階がある。我々の人家やビルの高さまでの幽体離脱から、地球が眼下に見えたり、宇宙や極限の果てまでの離脱もあるが、それは、その人の心の広さにも比例する。正しく見ることだ」

医者にも見離された信次を、両親は仕方なく、色々な神社祈願にも連れていった。近くの鍼灸師のもとへも行った。そして信次は村はずれの小さな白山神社へ通い、朝夕の六時の二回、社の掃除と瞑想にふけり祈願するのが日課になった。ある日、信次が母と成田山へ詣でた時、不思議な墨染衣を着て顔を深く隠したまんじゅう笠姿の、見知らぬ旅僧が、信次の顔をなでながら「病気は、近々なおる。そして、お前の眼は二重孔であり、一生懸命に勉強すれば霊力を持つことになろう」、と言った。

「二重孔って、何に?」

「つまり、あの世も、この世のすべても、未来も透視する力」

「色々な言い方があって大変だね」

「それも仕方ない。その内に適当な言葉に定まる」

信次と母は、その語りをびっくりして聞いていた。その通り病気は半年ほどで治り、もう一人の信次も出ることはなくなった。そして、その僧と同じ姿をした旅僧が遊んでいる信次に、色々な言葉をかけ、「今晩はこの川岸で泊まるから、夕方まで解らない勉強を教えてあげよう、と菓子をくれたりした。それで坊さんの横に坐ると、信次の将来について優しく導いてくれ「心というものが、全ての元である」と難しいことも教えた。ある時は同じような旅の僧が家に尋ねて来て、「信次は元気に生活しているか」と良く話しかけていることがあった。このように信次の家には不思議と旅僧の来訪が多く、信次に対して、正しい心を教えていった。しかし信次は学問は余り好きではなく、神仏の話しになると生き返ったようになり、学校から帰れば、山野を駆けめぐる日々であった。

「ヘェ、見知らぬ旅僧が尋ねて来ては、教ヘ導いた。不思議と言へばフ・シ・ギだナ」

「私も考えていた。確かに不思議だネ。実は、信次が言い残した言葉の中に、フイリッピンでイエスの分身(5)が肉体舟に乗って修業している、というのがあるが、それはフイリッピンの心霊術者・アントニオ・アグパオア(通称トニー一九三九〜昭和五十七年)であった。イエスの分身であるだけに、その霊能たるや相当なものであったろうと疑う余地もないが、トニーの自伝によれば、同じ体験をしているのも、実に不思議だとは思わないかネ」

「ヘェー、そんなことがあったのか」

「それは、トニーが七歳の時、黒染めの絹のような服をまとい、腰には白いヒモを巻き、白ヒゲのアポと呼ぶ一人の男が出て来て、山小屋につれて行った。そこに不思議にもトニーにピッタリの服が用意されていた。そこでアポはトニーに、色々な物の調和(シンフォニー)、心について教えていった。トニーが独りでいる時も、いつもアポの存在が感じられ、瞑想を教えたり、植物や、動物の内なる調和を学び一体となること等を教えて行くが、一定の教育期間が終わるとアポの姿は消え、次には心の中から霊的に教えていったことが詳しく述べられている。このように使命を持って生まれて来た人達には、天上界の協力によって、霊人が物質化現象と言うか、人間の姿となってこの世に現われ、不思議な協力をして教え諭していくもののように見える。そして、この自伝の中で、トニーの心霊力が高まり、世界的に名声が広がるようになると、世界中から人々が押しかけていく頃、増上慢になって金や女に溺れていく内に、その心霊力も一時的に消え、悩んでゆくことが記されている。だが、心霊ツアーで行った日本人女性との肉体的関係が原因で、残念なことに短命であった。先述した園頭氏の発行する月刊『正法』誌によると、園頭氏は当時バギオに飛び、腐心していたことが窺い知れる。そして、バギオにトニーは六角堂をつくったが、余り神聖な場所ではなかったので、先のフィリッピンの大地震で埋没してしまった。」                              

「霊界の不思議というが、そんなことがあったのか」

「イエスと言われた人の本体が、これから百五十年後に(昭和四十八年当時、信次は百八十年後と言っている)アメリカのシカゴに生まれた時、本体イエスは分身トニーのカルマ(心の傾向性)をも修正しなければならず、気の毒と言わざるを得ない」

「使命を持って生まれてくる人は、特に大変なんだネ」

「それは当然だろうナ」                      

「ちょっと待てよ。先程から分身(5)とか本体とか、それ何に?」

「信次は『本体と五分身』の法則について、次のように説明している。」

 

 人間は、大自然界の中の一つの構成員にすぎません。植物が、核(本体一)を中心に、その周囲に原形質膜、液胞、色素体、細胞膜 の四つから構成され、本体一、分身四の関係となる。動物の場合は、核(本体一)を中心に原形質膜、ミトコンドリア、ゴルジ体、中心体、脂肪粒 分身五、つまり本体一、分身五の関係になります。同様にして、鉱物の場合は原子番号に核を加えた数が、本体と分身の数になります。例えば、炭素の原子番号は六、核が一つに外電子が六ということですから、本体一、分身六の関係となります。このように人間も動物ですから、本体一、分身五の関係には違いないのですが、実は人間の場合は、この大宇宙が神の大意識を母体に、熱・光・電気・磁気・重力という五つのエレメントからできていますので、人間の生命体もこれに合わせて本体一(大意識)、分身五(五つのエレメント)の組合せになっています。人間を称して小宇宙というの も、生命の成立が、このように大宇宙の構成と同じようにできているからです。

 生命も物質も、三つのプロセスからできています。地球に生命が宿るのは、太陽、月、そして地球という三位一体の構成。地球(地上)は気圏、水圏、岩圏から成っており、原子は、核外電子、中性子、陽電子からできており、電気は陽性(+)、中性(N)、陰性(−)から、細胞は大きくわけて原形質、細胞質、核の三つから構成されています。物質の成立は、宇宙の大意識をまず出発点として、第二に熱、光、電気、磁気、重力のエネルギーが組み合わさって、物質という第三の現象化が行なわれています。生命もこれと同様に、まず第一に宇宙の大意識から、第二に個としての生命が、あの世すなわち実在界に誕生し、第三に現象界に姿を現わすのです。

 一度、現象界に出た生命体はこの世とあの世の転生を繰り返し、この世に生まれ出る時は、両親という媒体(縁)を経て、姿を現わします。つまり、大意識から離れた生命は、あの世、両親、この世というプロセスを踏みながら、循環の法のなかで生きるように仕組まれています。     

                                 

〈生命体(魂)の転生輪廻の順序〉

 魂の転生輪廻は、それではどういう順序で行われるかといえば、原則的には順ぐりです。Aが出れば次がB、Bの次はCというように、A(核)BCDEF(分身)が順次、現象界に出て修行する、というのが原則です。ただし、転生輪廻の過程で、修行を積む者と横道にそれてしまう者(地獄の暗い世界に落ちる者)もあって、全体のバランスを崩すことがあるので、そうした場合は、あの世で話し合い、前記の原則にこだわらず、AならAが短期間に二度、三度、現象界に出て修行することもあります。しかし、こういうケースは比較的少ないようです。大半は順ぐりに出て修行することになるわけです。先述の「横道にそれてしまう…。」ということは、我々人間の霊魂は天上界に帰った者のみが、この世に転生することができます。ですから、横道にそれ、地獄の暗い世界に定住したものは、地獄の世界からそのままこの世に転生することが出来ないのです。一旦、天上界にもどって、それから、この世に肉体を持つことになるのですから、この意味において、混乱が起こるわけです。

 

 

輪廻転生の順序.gif (7806 バイト)

                           

先に進むことにしよう。

信次は平賀小学校(現・城山小学校)を卒業すると野沢中学校(現在の野沢北高校・進学校で名高い)に入学するが、二年で中退、仙台陸軍幼年学校にはいる。この時、両親は合格通知が来て初めて、試験を受けたことを知った。そして、中学より始めた剣道は以後、信次の生涯に少くなからず影響を与える。やがて戦争は激しくなり、そのむなしさは友人の死によって倍加されていった。信次十八歳の時、信次に親切にしてくれた女性に片想いをするが、恥ずかしがって何も言えなかった。少年時代の思い出のひとこまであった。信次は陸軍幼年学校から士官学校に進んで航空士官と なって出兵。その時、十二時間、海に漂い海防艦に救われる。それは不思議とイルカが信次のそばに寄って来てくれたので、米軍の機銃掃射を免れたことによるが、信次の身体には弾丸の破片が残った。

「ヘェー、イルカがネ。イルカは賢いと言われているが、何か天上界からの指令というか、何かがあったのだろうか。そして、後日、伊豆の海岸でイルカと話をしたと伝えられている。」               

「ウム、もう一つ戦争の時の例を引こう。先述の園頭氏が出兵していた時、中国でのこと。機銃掃射を受けた。ここだと思って、氏は、ここに戦争があるという観念を捨て坐った。軍刀を立てかけ瞑想をはじめた。氏の周辺に落ちる爆弾という爆弾、弾丸が不発に終わって落ちて来た。最後の一機が超低空から風防を開け手投げ弾を投げつけ、諦めて帰って行った。安らぎの心の世界は明るい光明の世界、戦争は暗い闇の世界、暗闇は光によって消えたのだ。」

「SFの世界だネ」

「心の世界、意識の世界というものは、それ程、大切なもので、想念はものをつくり出し、人間は、霊性に目覚め、その偉大性に感謝しなければならんのだ」

「そして、もう一つ、園頭氏が生長の家の講師の頃、道場で研修をはじめると、一羽のハトがやってきて、講義を聞くような素振りをしたり、皆んなの輪の中にはいって、なかなか去ろうとしない。講習会の間、やって来ては仲間にはいる。その時の写真も残っている。みんなが不思議だ不思議だ、と」

「お釈迦様は猿が使い姫に」                    

「使命のある人達には、このようなことがあると見える」

そして、信次は、航空隊で沖縄に出撃したことがあると聞いた、と園頭氏は書いている。

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

                       

 そして、終戦。敗戦を迎えた多くの兵士達は故郷の山河に迎えられていく。こうして信次は、幾度かの生命の危険にさらされた生活から解放され、ひとまず両親のもとへ帰った。やがて人々は破壊された環境を再建するために立ち上がる。それから、信次は二カ月の後に上京した。復員の時渡された金二千三百円、それに父親から貰った牛一頭が信次の資本であった。信次は大学入試認定試験にも受かり、日大工学部電気工学科に入学。大学では自然科学や理科系の学習を主としたが、常に心の問題を中心として霊的問題のきっかけをつかむための学習をした。そのために学友は「哲学科へ行ったら良いよ」と言ったり、変わり者の予言者などと呼んだ。しかし、宗教書を読む気はサラサラなく、神秘の世界には常に探求を続けた。瞑想に耽ってみたが、心に一時の安らぎができても、一時的なもので、もとのもくあみであった。信次は食糧難の時代に、芋の買い出しをしながらの勉強が続いた。そして、生活のために石鹸を作って売ったり、部品を買って来て電気蓄音機を組立てて、生活を立てた。そして、この頃から親しい友人から将来の予言的なことを頼まれると、一枚の紙の上に字が現れ百発百中した。

「紙の上に予言が現われた? まるでテレビのマジックショーだね」

「その辺について、著述家・上之郷利明氏の取材があるので要約してみよう。」

信次の妻・一栄「結婚して間もない時のこと、知り合いの人と神様の話しをしている。信じられないような話しも出てくる。ウソでしょう、というようなことを言う人がいると、願い事を紙の上に書いてご覧なさいということになる。その紙をローソクの火の上にかざして何やら念じていたと思ったら、紙の上に願い事に対する答が文字となって写し出されているんです。私もはじめは、あらかじめ紙に答えを書いておいて、あぶり出すあのやり方なのじゃないかと疑って、自分で文房具屋さんで紙を買って来たりしたのですが、どんな紙を使っても、ちゃんと、そのときそのときの願い事に対する答が出るんです。」、と。

「驚ろいたネ。信じない訳にはいかないナ」

こうして、この頃には、他の宗教への遍歴もし、色々な宗教団体を尋ねた。その中から信次は狂信、盲信している人々を見ていると阿片の恐ろしさを感じるのみであった。そして、信次は主として日大で学んだが、一 時、東大へも通っている。しかし卒業論文が「神的エネルギーは下はアメーバから上は大宇宙に至るまで」というもので、やや規格はずれであったので、教授の嘲笑を浴びたという。そのために卒業資格を得ることができなかった。                           

「偉大な覚者に対して卒業を認めなかったとはネ」          

「判で押したような規格学生を流れ作業のようにつくり出す現代の大学のような考え方では、それも仕方あるまい」

そして、信次はその他に医学も天文学も学んでいるが、信次流のやり方で勉強すれば、それで良かった。二十五歳の時、電気関係の仕事をするために大田区上池上に、五、六人の従業員とともに小さな工場を借りた。仕事は自動制御装置がその主なものであった。しかし、信次はやはり生身の青年であることに変わりはなかった。欲望のとりこになり、異性への憧れが、いつか心を占領し、それに悩むようになって行った。

                     

 

 

花ー0020.jpg (5120 バイト)            

                                 

 〈結婚の秘密とその縁〉

 信次が妻・一栄と初めて出会ったのは、昭和二十八年、信次の取り引き先の電気メーカーでのこと、信次が出入りする内に、一栄を見染めた。信次は一栄に、自分の将来について四十八歳の生涯について予告し、事業上の問題についても言及した。

「なにかきっと特別な秘密があるんだ。これも恐らく、お父さんやお母さんのように」

「マー聞け。一栄は熊谷の青果商の娘。成人式を迎えると、とにかく東京へ出たいと思った。両親を説得し、知人の紹介で日本橋の電気メーカーに勤めると間もなく信次と知り合ったのだ。信次は、一栄について、こう言っている。一栄は、インドの時代、マイトレーヤーと呼ばれ、最初に釈迦に帰依した四人の女性のうちの一人で、読み書きが出来、聡明であった。釈迦教団の中での仕事は、今夜は何処そこでお釈迦様のお説教がありますと、日中に鐘をならして知らせて廻ったり、お釈迦様の身の廻りをよくみた。釈迦が亡くなると、故郷に帰り、弟子達に仏教を指導する。そして釈迦の言った未来について詳しく書き残したので、未来仏と言われた。マイトレーヤーは改名してミロクと呼ばれた。そして、またタレイヤー、サチとも言い、サチ(幸、幸子)の語源となった。」

「マイトレーヤーとミロクは同一人物なのか。成書に『やがて現われる世界の真のメシヤはミロクかマイトレーヤーなのだろうか?』というのも何かそらぞらしいナ。そしてメシヤでもなかった」

「信次は、またこう言った。僕達が、誰を父として、母として、誰を妻としてこの世に出るかを決めたのは寛永二年だった。インドの時のヤショダラ(釈迦の妃)に、もう一度、一緒に出てくれと頼んだが、インドの時は苦労しましたので今度は休ませて下さい、と言われるので、ババリーのところから来たマイトレーヤーに頼んだのです、と。」

「お母さんにも、妻となるべき人にも断わられたってことか」

「釈迦の妻の場合、釈迦二十九歳の時、妻と子ラフラをおいて出城、ヤショダラにしてみれば、仏陀の妻として、夫を人類のために捧げる道は厳しかったのであろう。」

「釈迦の子供はラフラであった」

「ラフラとは古代インド語で障害物・邪魔者という意味であると信次は明らかにしている。つまり出家の邪魔に」

「妻と子をおいて出家」

「信次は言っている。釈迦が亡くなって最初に反省したのは、出家したのはいけなかった。在家のままで道を説くべきだった。だから今度は家庭を持ったのです」と。

 信次は側近の者へ、いつも「僕は四十八歳までのことは、この世に生まれてくる時に予定してきました。僕がいつ死んでもよいように、心の準備をしておきなさい」と言っていた。                              

「こうして見ると、妻や夫の場合も約束して出てくるのか。お互いに不平不満を言って、結婚するのを失敗したと言うのも、ちょっとおかしいことになる。全部、自分の責任って言うことなんだネ」

 そして、信次は、手形詐欺にあって、結婚を目前にして、経済的苦境が訪れるが、取引会社の社長の協力によって結婚。新しい人生を踏み出し、独身生活に別れを告げた。

「妻・一栄は、こう言っている。先生は最初から神様のことしか頭にない方でした。婚約時代にも、映画につれて行ってくれたのは「ホワイト・クリスマス」の一回だけ。喫茶店でお茶を飲んでいても、道を歩いていても、神様の話しばかり。他の人から見れば、先生は確かに〃変わった人〃という感じだったかも」

 結婚はしたものの、手形不渡りによって会社は倒産。信次は事業に失敗して一文なしになった。信次は言う。失敗の原因は経営の未熟にあった、と。失敗は信次にとって良い体験となった。

「倒産の予告から本当に倒産。そして結婚か」

「上野の地下道でも何日か過ごすことがあったようだ」

 信次夫婦は、アパート暮しであったので、鍵一つでどこへでも行ける身軽なものだった。職を失した信次は、近隣の人の相談にのり、その薄謝によって生活を続けた。信次はこう言う。「近隣とのつき合いにも不思議な現象が始まり、予言はほとんど適中し、相談に来る人が狭いアパート一杯にあふれることもあった。だが、なぜ予言が当るのか、自分にも答えられなかった。そのため、自分自身そのことを信じてはいなかったし、邪心もなかった」、と。

 昭和三十一年(信次二十七歳)長女・佳子生まる。妻・一栄は、こう言う。信次は、生まれる子供はみな、女の子だからと予告したので、女の子の用意をした、と。のち、二女生まる。

「長女・佳子は〃あの〃卑弥呼だった」

「今度はヒ・ミ・コかい」

「講演の中で信次は 〇△さん達は、ともに卑弥呼の大臣をしていた人達です。卑弥呼の過去世を思い出したこの人(佳子)を中心にして、この人達が卑弥呼の時代を思い出すと、今までわからなかった歴史がはっきりとわかります。……そうです、この言葉が当時の言葉です……。有明海を中心にしてありました。……」

「有明海周辺の当時の言葉が…」

「二千年前の言葉。テープを何度廻してもチンプンカンプン」

「現代でも、沖縄の人と東北の人が、方言まる出しで喋ったら、チンプンカンプンでサッパリわからない。当然と言えば当然。二千年の時空を越えて」

「その当時に生まれたことのある人が、それはこうで、あれはこう、と過去を思い出せたら、歴史は塗り替えられるかも」

「神の子・人間は永い歴史の中で、その力を閉ざして盲目の人生を歩くことになった、と。『GLA』誌の前身の『ひかり』に次のように書かれている。『高橋佳子さん(十三歳)、東京大田区在住。彼女は、お釈迦様の時代、すなわち印度時代に、祇園精舎を寄贈した、須達(スダッタ)長者の娘デルナーという女性でありました。日本ではヒミコとして約一九〇〇年前、九州大和姓国で生まれ数多くの伝説を残しましたが、< 中略>  古代語では一般の人はわかりませんので、現代語で昔日の模様をいろいろ語ります』、と。」

 信次は企業倒産ののち八年の空白をおいて、昭和三十九年(信次三十五歳)、ある銀行の会長の支援によって、東京大森にコンピューター端末機器を製造する三百三十平方メートルほどの「高電工業株式会社」を設立。当初資本金百万円。

                                 

 昭和四十年(信次三十六歳)

信次は「人生の羅針盤」なる器具と小冊子を世に出した。前書きの中で「……大自然の陰中陽、コンパスの春夏秋冬を知り、自分の原因結果を……」と書いている。

「色々なことが良く当ったらしく、『法』の勉強より、この器具に関心を持つ会員が多くなったので、製造中止、廃版にした。」

「利益になりさえすれば、どのようなものを販売しても平気な、現代の風潮に照らしてみると、まさしく人類を導く人の姿勢が」

 

花ー0021.jpg (4062 バイト)

 

 

信次の周辺

 もっとも早い時期に信次の弟子になった観音寺住職・村上宥快氏に語ってもらう。

「探し始めてから三カ月たったある日、見覚えのあるクリーム色の小誌が出てきた。紛れもなく発明者の住所と氏名がさん然と輝きわたっている。〃高橋信次〃この人だ。大田区大森……早速、電話番号を調べた。夢中になって何かに憑かれたように電話した。『高橋様ですか』というと、すぐに答えが返って来た。『高橋信次です』その声音は全く慈悲に満ち溢れた音量であった。実は先生の羅針盤についてお伺い致したいのですが、というと、先生は待っていましたと言わんばかりの応答だった。先生のご都合をお聞きして、指導をいただきたいと申し上げると、快諾されたのである。昭和四十一年二月になって気候もゆるみ小糠雨の降る日、妻と二人で尋ねた。立合川の川岸の近くは住居と街工場のある街並であった。二階の応接室へ先生自から案内して下さった。ソファーがあった。余り立派なものとはいえない。この洋間に製図盤がひっそりと部屋を占めていた。直ぐエンジニアであることが分った。私も自己紹介した。年の頃は私より十歳ほど下であることを知った。妻も何か物凄く人懐しく思ったようだ。直に十年の知己のような感じになり、この後一カ月に一度、或いは隔月位に足を運ぶようになった」、と。

 信次の事業は順調に伸び、神奈川に長野にと、小さいながらも生産工場を設備した。こうして事業も陽の目を見ることが出来たのである。妻・一栄は信次の語る神仏に関しては否定も肯定もしなかった。

 妻・一栄「先生は、『こんな見せ物みたいなことをやるのは本意じゃないんだ』と疑いを抱いている人達に対して自分の霊能力を証明するために、色々の〃奇蹟〃を見せた。たとえば、『山から石を取って来て見せよう』と何か念じている。パッと掌を開くと、本当に石が乗っていた」、と。                               

「魔法じゃないか、トリックがないのなら」

「そうだナ。どうして、このような事が起るのかと言えば、信次は言っている。次元の違うあの世から、あの世の霊の協力によって行われる。だから自由自在。

「かつて、目から真珠を出したり、饅頭の中から大黒様を出していた人がいたが……」

「あの世の協力する霊の質が問題。滝にかかったり(肉体業)、拝んだりして出てくるものは、ほとんど動物霊か人間の地獄霊。正しく見る(正見)ことだョ」

「モーゼやイエスの霊能は?」

「正しい光の天使達の協力によってなされた。かつてイエスが一切れのパンで何千何万という人を助けたとあるが、あの世の霊の協力によって、パンの物質化現象が起り、本当に多くの人が救われたと信次は言い残している。しかし、目から真珠を出して、ネックレスでも作るつもりだろうか。全く考える次元が違う。正しい人なら、その力でパンやミルクを出してアフリカの飢餓で死んで行く子供達を助けようとは思わないか。」

 信次は常に生活基盤を根底にした神仏について、考えていた。その頃から信次の義兄は病弱であったので、姉夫婦は創価学会に狂信的となった。当然、信次の家にも折伏に来た。地湧の菩薩は強引な折伏によって仏法を説くことはしない。闘争と破壊の想念行為は菩薩の心ではない、と信次は述べている。このようなこともあったが、事業は順調に展開して信次は、経済力がなくては人々を救うことも出来ないと思い、金儲けに専念した。本筋とは異なった方向に進んだのである。その結果、信次は従業員との意思の疎通、会社内部の混乱、家庭の混乱の渦に入っていった。

 

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

〈悟りへの道〉

 昭和四十三年(信次三十九歳)

 二月頃から、信次の周辺には不思議な現象が起り始めた。父の死以降、信次は仏壇の前で瞑想するのが日課になっていた。二月三日、午前一時、仏前に灯明を上げて、心の調和を計っていると、突然風もないのに、灯明の炎の高さが二十五センチになった。本来なら三センチのものがである。それが、炎が自然に小さくなり、今度は蓮の華に変化し、最後は蓮の実に変わった。この変化を信次達は驚いて見ていた。

同じく二月五日、ローソクの火が二十二センチ位になり、炎の先が二つに割れ、次第に蓮の華に似てきて十五分後、蓮の実そっくりに変化した。家族はただあっけにとられて見守っていた。やがて信次の前に、肉体先祖と称する十四代前の先祖が名乗り出て来た。信次の生まれた佐久の地は、戦国時代、甲斐の武田勢によって支配されていた。その時の、信次の肉体先祖であった。(比較用語・魂の先祖)「私は、あなたの先祖、竹之丞半九郎友幸(十四代前の頼朝の子孫で武田信玄の軍門に下ったとされる)である。それから、信次に語り始めた。千石平の林の中で戦死したこと、塚を調べればその謎が解けるとまで詳しく説明した。その塚の中には、私と息子の首が入っている。恐らく甲冑と刀はすっかり錆びているであろう。「今私は肉体先祖として、あなたにこの事実を話すことが出来て喜ばしい」といった。その後、信次がこの話を佐久の人々にすると、やはり首が二つと、錆びた金物があったことが証明された。先祖は、こうも言った。「肉体的子孫を佐久の地に残したのも、いつかはこれを知って貰うためである」と。この頃から、肉体的先祖という問題についても、信次の探究の具体的な糸口が解かれていった。「肉体先祖は、この地球上に適応した肉体として神仏が保存したものであり、魂の乗り舟である」ことを、信次は悟って行ったのである。

「肉体先祖と魂の先祖か。難しいネ」

「そのようなことはない。信次が明らかにした一例で説明しよう。」

                                 

 (肉体先祖)                          

        高橋家→父                                 

                               |高橋信次    (十人兄弟の二男)

               ○○家→母

                              

  (魂の先祖)                          

                   三億六千五百年前のエルランテイ   三千数百年前のモーゼ 二千五百年前の釈迦

                  二千年前のイエス 二十世紀の高橋信次

 

 エル・ランティに於いてモーゼ、釈迦、イエスを三位一体と信次は修正した。(キリスト教会では、イエス、聖霊、教会を言っている)ユダヤ教も仏教も、キリスト教も神理は一つ。           

                                 

 釈迦の生命                           

  釈迦 (インド)   不空三蔵(インド)天台智ぎ(中国)   伝教(最澄)

   空教(日本) 木戸孝允(桂小五郎)

                              

 イエスの生命                          

  本体イエス(紀元前三十二年、紀元一年でないことに注意)

  @クラリオ   BC四千年頃エジプト 

   Aマグガリス   ADニ百年頃イスラエル

   Bフワン・シン・フワン・シンフォー AD四百年頃  中国

   Cバロイン AD千五百年頃 英国      

    Dマグネチオ    BCニ千年頃   エジプト                 

                                 

「なる程、こういうことか。」

「一般的には、先祖と言えば肉体先祖を指しているが、魂は永遠なのだから『魂の先祖』ということも頭においてもらわなくては困る」

このように「肉体は魂の乗り舟にすぎない」ということを、信次は悟って行ったのである。その後、信次が親しい人々に光を与えて心を調和させると、次々と霊的現象が起きるようになった。この頃、会社の仕事は相変わらず忙しく、信次は浅草にビルの建設を始めていたが、昼中は浅草のビルの建設現場と工場とをかけもちで追われる毎日だった。

 一九六八年(昭和四十三年)七月三日、遂にくるべきものがきた 。多くの人々に光を与えることにより、霊的現象が起きるので、信次は、これは自分の能力以外の作用が働いていることを悟ったのである。霊的現象についていろいろ話しているうちに、ある時、義弟が

「ぜひ私にも現象を見せてくれ」と頼んだ。信次は、午前一時、義弟の心を調和させ、光を手のひらから送っていると、彼の口から昔の侍の声が出て来て語り出した。義弟は、自分の口を通して語るのだが、自分で自分が何かを語っていることに非常に驚いた。信次は、無責任のようだが、義弟を支配している霊を見ることが出来ないので、口を通して語る事実を信ずる以外にはなかった。世の中には、霊媒とか口寄せとかあるが、何も祭っていないし、自宅の応接室で実験するのが常だった。霊媒や口寄せのほとんどが祭壇を祭って、経を唱えたりすると、霊が出てくるようであるが、信次には道具は何も必要としなかった。

「信次の代々の宗派は?」

「曹洞宗ではあるが、その影響はみられない」

 七月五日のこと 。義弟の口を通して、

「この者が、四十年の二月、自動車事故を起こして七日間意識不明になっていた時、この者を助けたのはこのわしである」と重大なことを語り出した。中学三年の三学期に自動車とオートバイの正面衝突という事故で、意識不明になり死線をさまよっている時、義弟の口を通して語っている霊が協力して助けたと言うのだった。

 七月六日、信次は、自分自身で探究し続けてきた「もう一人の自分」を、ようやく発見できる段階へきた。

 七月七日の夜、信次は義弟を中心にして、再び実験することにした。霊的現象はやはり起った。その夜の霊は、日本人ではなかった。昨日までの霊と違って、言葉が通じない。「昨日まで話しておられた霊と代って下さい」と告げると、昨日の霊に代わった。

「義弟の場合は眠ったように、無我の状態で語るのかナ」

「眠れる予言者と言われたエドガー・ケーシと同じように、眠ったようにして霊言を伝えている。アガシャ教会のリチャード・ゼナーや、サルバット氏も同じだ。降霊会といわれるものは、ほとんど、この方法である。しかし、信次の場合は目覚めて行われていることが最大の相違点なのだ」

 そして、昨日の霊は言った。「私はあの世で修業の身なので、私の師を紹介しよう。アフリカで修行された偉大な方で、通称ワン・ツー・スリーと呼ばれる方だ。この方から学んで欲しい」と告げた。次にワン・ツー・スリーという霊が義弟を支配して、外人訛の聞きとり難い日本語でゆっくりと語った。それでも聞きとりにくいので、「ゆっくりと、正しい日本語で語って下さい」と二、三度言うと、霊は強い語気で「お前は増上慢だ。自分さえよければ良いと思っている。自分の地位や経済のことしか考えていない。お前のような偽善者は人間の屑だ」と大変な叱りようだった。そして、さらに、「信じなければ、お前の今までの不調和な行為を皆に聞かせてやろう。お前は十八歳の時、佐藤という女性に片想いをしたろう」等と自分しか知らない少年時代の想い出を指摘し、信次の心の中に刺してきた。そして、「あの頃の純真な心はどこへやった。まだ言ってやろうか」と念まで押した。

信次は「はい、自分の今までの行為は、私が一番良く知っています。悪い点はなおしますから許して下さい」と信次が言うと、ワン・ツー・スリーは「今のお前の心は、口惜しさで一杯なだけではないか、自分を改めるというが、心からの言葉ではない」とまで言った。義弟の口を通して語るのだが、義弟の芝居にしては出来すぎているので、信次は信じないわけにはいかなかった。その瞬間、「信ずることは当然のことだ」と思ったことが返事となってはね返ってきた。まったく、どうにもならない。信次は、意を決してワン・ツー・スリーに「私を守っておられる方はどなたですか」と勇気をふるって質問すると、「それではしばらくまて」といった。それから、一分位して、「フワン・シン・フワイ・シンフォー」という霊が義弟を支配して、語り出した言葉は古い中国のそれのようだった。名前が覚えられないので「もう一度、お名前を教えて下さい」と二、三度くり返すと、「この馬鹿め、お前のような愚かな者と語るのはやめだ。この馬鹿者め」と丁度、中国人が文法を度外視して語るように、片言の言葉で、信次を叱った。七月三日を境にして、信次は食事ものどを通らない状態となった。普段の仕事も手につかず、従業員から仕事のことを尋ねられても上の空で、精神的ショックとはこのようなことだ。常に他人が心の中に同居しているようで、信次はやり切れるものではなかった。

 

花ー0022.jpg (4257 バイト)

 

 

 七月八日の夜がきた。九時頃帰宅すると、応接間で、義弟の肉体を、ワン・ツー・スリーや色々な霊が支配している様子だった。信次と顔を合わせるなり「私はワン・ツー・スリー、あなたは今まで何をしていましたか」といった。義弟が、いままでのように瞑想しなくとも意識を支配してしまっている。「はい、浅草の建設現場で打ち合わせをしておりました」と信次は答えた。「また嘘をついている。現場には昼までしかいなかったはずだ」といった。そして、パチンコをやり、タバコを三個とったこと、料理屋で芸者をあげて飲んだことや芸者の名まであげた。追求は、まだ続いた。信次は仕方なく、思うことも止めようとした。どうにもならない。「見ざる、言わざる、聞かざる」のようにしようと思った。(三猿の教えは、天台大師・釈迦の分身の「天台智ぎ」の教えであると信次は明らかにした)心で思うことまで刺して来た。どうにでもなれと思ってソファーに坐っていた。

次にファン・シン・フワイ・シンフォーがワン・ツー・スリーと代って信次に語り出した。「私はお前の守護霊だ。お前とは前世において友人だ。仏教を学んだ仲間でもある。私は、お前が地上界に生まれたときから守護していたが、お前ほど世話をかけた男もいない。今までの心構えでは地獄行きだし、お前の家庭も会社もすべて分解してしまうだろう、と言った。前世で仏教を学んだと言うが、全く記憶はなかった。自分は日本人なのに、なぜ外人が守護しているのだろうと疑問に思った。どのように護っているのですかと尋ねると、「お前の善なる心の在り方を、お前の心の中で指導しているだ」という。「本来なら守護霊などしたくもないが、約束をしたから護っているのだ」という。そして、さらに、「他の霊と代わりたいくらいだ。約束をしなければ私がやるべきでないが、お前のような人間を護るには、きびしくやらねば仕方ないから私がやるのだ。今から三日間の猶予を与えるから悟れ、宇宙のどこへ逃げても、また死んでもつかまえてやるから覚悟して悟れと言った。守護霊は、「七月九日から三日間で、すべての方針を正せ」と信次に期限をつけた。何をどうして良いかわからなかった。信次のすべてが、守護霊に一目瞭然で、信次の心を正すまで、私達は眼を離さないと言った。信次の悩みは、並大抵ではなかった。信次は、僅か四日で八キロもやせてしまった。食事ものどを通らず、家庭は凍結したような環境に変わってしまった。

七月十二日

 何んとかしなければならないとあせった。期限の日である。どうにもならない。信次は守護霊への疑問を、高野山の修行僧に聞いたが、「そんなことは聞いたこともない」と言った。上野の寛永寺の門もたたいた。「一番偉い方にお会いしたい、これこれの理由でぜひとも救って欲しい」と哀願した。「そのようなことは私には解らない」と言った。仕方なく、手が痛そうにしていたので、信次は、痛みをとってあげましょう、と一念力を集中して五分ほどで痛みを止めた。老師は、千葉の中山寺に行けば、わかるかも知れないと言った。信次はタクシーで中山寺へ行った。山門に腰をおろして考え込んだ。思い沈み、自分自身のことを反省した。あと期限は少ししかない。他人から満足な解答を得ることを望んだのは、自分からの逃避であったと思い返した。一週間、信次の心は沈み自己を失っていた。善なる行為を取り戻し、悪の想念行為を捨てるために心から反省した。ワン・ツー・スリーもシンフォーも悪魔かも知れない。神が弱い人間をいじめるはずはない。今夜は、たとえ殺されても良い、もし彼等が悪魔であるなら、私が善に変えてやろうと、信次は一大決意をするのだった。信次はようやく心も落ちつき、ワン・ツー・スリーやシンフォーとの対決しかなかった。

信次は、京成電車に乗り、国電に乗り換えて家に帰った。信次の心の中にはおだやかさがよみがえってきた。信次は「今晩は殺されるかもしれない。どのような現象が起るかわからないが、もう大丈夫だ。彼等と対決して、もし悪なら善に変えてやろうと思う」と妻に語るのだった。すると、信次の心の中から、シンフォーの声がした。「今のような心を忘れるな」、と。妻は「お父さん、しっかりとした気持ちで再出発しよう」と励ますのだった。しばらくすると義弟が帰って来て、ワン・ツー・スリーが、義弟の口を通して、シンフォーと同じことを言った。「今晩はお前の心が正しく変わったので、天上界では光に満たされ、お祝いがある。こちらでもお祝いしよう」、といつになく慈愛に満ちた優しい言葉であった。

家族一同、新生一家のためのお祝いをした。こうして、〃もう一人の信次〃を追求して三十二年、遂に目的の一幕が開かれたのである。それからは、義弟からではなく、信次に直接、ワン・ツー・スリーからもシンフォーからも通信されるようになった。その後、義弟には、アインシュタイン博士の霊が出、極微の世界と極大の世界について説明していった。「自然の法則こそが人間のあり方を教えている」とも説いた。指導霊のワン・ツー・スリーは正しい人生の在り方と、神の子の証しについて信次に本を書くことを指示した。そして協力するとも言った。八月に入ると、心という問題をくわしく説明した。一カ月前はあらぬ方向への探究をしていたが、今は、もうすっかり心も晴れて、探し求めていた〃もう一人の信次〃について解明もはっきりと目鼻がついたようだった。

「悟りを開いたのは昭和四十三年七月十二日ということだね」

「そう、信次は言っている。『お坊さん(村上宥快氏)、僕は悟りを開いたんだ。それは七月十二日です。今生のことや前世のことも、何んでも分かるんだ。悟りは素晴しいものだ』、と。また、こんなこともあった。『先生はお寺の山門で考えられた。市川支部の地区座というのは、この山門から百メートルも離れていないところで行っておりましてね。ごく最近まで、今考えてみると嘘みたいなことなのですが、たった三、四十人の集まりに、わざわざ話しにおいで下さいました』(渡辺泰男)、と。」

「そして、アインシュタイン博士の霊が出て来て…」

「そう、信次がある時、アインシュタインの霊を呼び出した。そのとき『私の相対性理論は間違っていました』と頭を下げた、と。真空は全くの空・真の空間ではなく、エネルギーに満ちた空間である、と。宇宙エネルギーと呼んだり、霊性エネルギーと呼ぶ人、も。相対性理論に対して絶対性理論、と。」

                                 

昭和四十三年九月十八日

 夜ともなると秋の気配があった。ソファーに坐っている信次の妹を見ると、インドのピンクのサリースタイルをした美しい女性が蓮の華のようなものを左手にもって、頭を下げながら笑っている。次の日も同じようなことが起った。薄紅色の絹織物をつけ首飾りをつけている。二人の内の一人が妹にはいりたいと言った。不安だったが了解した。と同時に心眼が開かれ、霊視が利くようになった。妹は観音様の膝の上で一週間近く過ごしたようだ。

「信次の妹は?」

「星洋子、水産業従事者と結婚のち離別。」

 

              

(妹・星洋子の転生輪廻)                         

BC七千年頃(アトランテイス帝国)フォロリヤー(女)  BC四千年頃(エジプト)アシカ・ミヨター(女)   BC五百年頃(インド)カリナ(ガランダ長者の末娘)ACニ世紀(イスラエル)サフイ(女)   AC五世紀(中国)林蒋(女)この後日本に二度生まれる星洋子

 BC五百年の釈迦の時代のインドのガランダ長者は、五世紀に中国に中蒋という名で生まれ、八世紀には日本の空海(弘法大師) となった。中蒋の子供は林蒋と弟の吾蒋であり、吾蒋は十三世紀の日蓮となる。

 

                            

「慈悲と愛について」                 星洋子

 読者の皆様は、愛という言葉をよく聞いておられるし、又、実行しておられると思いますが、先づ男女の愛について、ふれてみたいと思います。人間がこの世に出生する時、人は実在界において生活していた…中略…日々の生活に励んで下されば、皆様方の守護霊を通じて、生活そのものに大革命がおこる筈でございます。                  

                                 

 九月二十三日、信次の中学時代の学友の佐藤氏(前述)が、親しい友人のK氏を信次に紹介した。二人の背後に、金色の光に覆われているインドスタイルの守護霊がはっきりと出た。守護霊同士、互いに話をしている。信次には、それが見える。しかし、信次の指導霊・ワン・ツー・スリーが「過去世の名前は教えてはならない」と信次に注意した。「なぜ我が家にばかりに、この現象が起るのだろうと疑問を持ち始めた。「核という中心になるものがないと形は成り立たない」と言った。そして、十戒の成り立ちや偶像崇拝の間違い。ゴーダマやイエスの時代の神理にもどることが、人々を救う唯一の道であると言った。 こうして信次は、日中は会社、夜は原稿書きと多忙な毎日が続いた。これは心の教えであった。

「この頃から『土曜会』と称して、集まって来た同志達に神理を説いた」

「同志達は土曜日の夜を楽しみにしただろうネ」

「深夜まで、それで後、時間が早く切り上げられることになった。午後七時より十時まで」

 九月頃から、良く見せていた、一人の仏像のような美しい女性が信次の前に現われた。

「私は、ミロクと申します。しばらくでございます。」信次の妻の守護霊と言った。信次の妻・一栄は二十数年間、信仰には余り関心がなかった。信次が、インドの時代の経文となって朗々と声に出して唱えた時、妻の心は神理の光に照らされて、大粒の涙をとめどもなく流していた。信次は「今日から一週間、午前一時から二時まで屋上に出て今までの人生を良く反省して心の調和を計りなさい」と注意した。

 十月二十三日夜、信次が調和の光りを与えたところ、遂に守護霊が直接支配し、語りはじめた。「私はミロク菩薩と呼ばれているものでございます。ご本体の心の眼が開かれましたので、私が守護霊をつとめさせていただきます。」

 

(妻・一栄氏の転生輪廻)                      

BC七千年頃(アトランテイス帝国)ナーダリヤ(女)インドの釈迦の時代はマイトレーヤー(女)

死後ミロクと呼ばれる。十五世紀(中国)ガラン(女)現代の高橋一栄氏                                 

                                

 「行ずることの真意」               高橋一栄

「私が霊道を開いたのは一昨年の十一月(昭和四十三年)。この正月で、丁度、一年と一寸になります。この間、いろいろな体験をしましたが、昨年の八月頃だったと思います。私は、仏教でいう苦集滅道の苦をなくすには……中略…… 己を静かにみつめ、静かに行動してゆくことも、一つの悟りの方法だと思うのでございます。」                

                                 

 十月三十日、霊的現象が起ってから記述してきた「大自然と生命」に関して、信次は指導霊の意見を聞くことになった。信次の前には、ワン・ツー・スリーが立っている。身長二メートル以上もある大男で、両腕に腕輪、頭には黄金色の戴冠(ティカラー)をかぶった古代エジプトの王様のようである。もう一人のフワイ・シン・フワイ・シンフォーと呼ばれる守護霊は、あごひげを短くのばした、血色の良い、一メートル七〇センチ位でエジプト人のスタイルで麻のような白色の着衣で腰をヒモで結んでいる。二人は信次の書いた人の道を黙って聞いていた。今、あなた大丈夫、私もう必要ない、嬉しいような、淋しいような、私涙でてくる。涙を流して語った。守護霊も眼頭を押えていた。信次も、また涙がこみあげてきた。しかし、地位も名誉もお金もいらぬ、死んでもいいのだと、すべての執着心を捨てた七月十二日から、百八十度人生の考え方が変わったのである。しばらくたってから、ワン・ツー・スリーはモーゼであり、フワン・シン・フワイ・シンフォーはイスラエルに生まれたイエスであったと初めて明らかにした。「イエスと言えば、あなた聖書暗記してしまう、間違いこわい、あなた人の道わかった。今、伝える」と言った。二人はもう大丈夫ということで信次に本名を教えたのである。

 

〈天上界での講演〉

 十一月二十四日午前一時

信次は今までの人生の在り方について、思ったこと行ったことの一切を、八正道という心の物差しではかり、誤った原因を追及してみた。身体がゆれ始め、胸のあたりが暖かくなり、やがて「もう一人の信次」が身体の前に飛び出すのであった。ドームの中に入る。ワン・ツー・スリーが迎えに来た。野外の広場は広大で、スロープは無限に続いている。そこには様々のかっこうをした人がいた。古代インドやエジプト、キリスト教の制服の人等の万国の人が何万となく整然と並んでいた。信次は、ワン・ツー・スリーの指示に従って「物質と生命」という題で、一時間半ほど講演した。みな胸には信次の日本語が自国語に変わるマイクロホンのようなものをつけていた。「もう一人の信次」の講演が終わると万雷の拍手をあびた。「もう一人の信次」が肉体にもどるとともに震度3ほどの地震があった。妻を起そうとすると、「今、あなたの講演を聞いておりました」と同じ情景を話した。信次の家に集ってきていた人々の中で、すでに心の窓を開いている人は、すべて信次の講演を聞いていたのであった。

「天上界で講演をしたのか」

「司会がモーゼで、その前にミカエルが講演した」

 一九七六年六月五日(二日目)講演より

「心行」というものの成り立ち、それは現代は、ミカエル大天使が持っていますが、その中をめくって見ますと驚ろいてしまいました。「我見聞し正法に帰依することを得たり」という最初の出だしが、「我正法に目覚正法流布のために一命を投げ出す」という書き出しの最後が「禅定三昧の境涯に到着せん」と全く同じです。そして、私のは地球的に書いてありますが、天上界のものは宇宙的でした。ホンのわずかしか違っていなかった。ですから書かせられていたと言うことですね。現代もミカエルといわれる大天使が、丁度この位(二〜三十センチの立方形、 ビデオより)の本にして、私自身が出てくる前の計画一切、現在も書かれている本、将来も出す本、それに記録されてあります。実はそれは私ばかりではなく、皆さん自身の心というものをヒモ解いていけば、恐らく計画書があるはずです。

「見本となるものがあって、書かされていた、と。正直で立派だナ」

「さすがにメシヤ。ところで、悟りを開いたのは昭和四十三年(一九六八)。明治元年(一八六八)から丁度、百年。不思議だと思わないか。そして、同じくこの年、信次は、正法は東京から関西へ、そして九州へと移り、九州で燃え拡がって、それから逆に九州から関西、関東へと移り、ついに、アメリカに渡り、アメリカで燃え拡がった後、日本へ帰ってきて、日本全体が知ると予言した。」

 

〈集り来たる縁生の弟子たち〉

                                 

 信次は、昭和四十四年(一九六九)二月の東京の講演会で「やがて、私達の仲間が関西からグループとなって現われるだろう」と予告した。「天上界へ行きますとね、全体が見下ろせる。そうすると、私達のグループが何処へ出ているか、皆わかる。あの世で約束して出てきているんですからね」

 

C・Aの手記から                     

 三月、「知人の誘いで先生のお宅をうかがったのです。長男をつれて二階の応接室へはいりますと、厚手のセーターを着込み、ズボンも高価なものとはいえません。光を入れ、先生は何やら唱えておられましたが、「もう心配いりません、大変でしたね」と。十七年間の病苦から解放されたのです。一年になりますが会社も休みません。私も霊道をひらかせていただきましたが、カピラ城で配膳係だったそうです」           

 

 四月、浅草の建設中のビルも完成間近かであった。毎土曜日の勉強会に集まって来る人は百名ほどになり、信次の家にははいりそうになかったので、ひとまず三階を解放して精神復活運動に提供することになった。三、四百人ははいる。最初は一階と地階は飲食関係、二階と三階にサウナと超音波風呂のつもりであったが、信次は指導霊に、「身体のアカを落すところはどこにでもある。使命を忘れては困る。お前の出版した本を通して多くの人が集ってくるだろう。」と諭されて、百八十度転換、心の垢を落とす場所となった。                         

「地下鉄の出入口の上にあって大変便利だ。八起(やおき)ビルという。イエス様の忠告によって十字架を入れて補強しているので地震にも強いとか。指導霊によって計画を転換したことは述べた。その時のはなし。信次は迷った。モーゼの霊が強い口調で言った。『強行するならそれでも良い。一人も客が入らないようにしてみせる。嘘と思うなら明日、外を見ていよ』、と。翌日、信次は外を見ていた。前を通る人がビルの所までくると、全員そっぽを向いてビルの反対側を歩いて行くではないか、これでは客は一人も来ないと諦めざるを得なかった。」

「困っただろうネ」                        

「それから、ビルの鉄骨が組み上った頃から、六十位の乞食が三階部分に住みついた。その乞食が仲間に「あそこの管理人になるんだ」と言いふらしているのを信次は聞いた。ある日、温泉旅館から電話がきた。お宅の社長さんがお金を持って来い、と。信次は不審に思いながらお金を持って行った。仲間を五人連れて豪遊しているのだった。どうしてこんな事になるのだろうと禅定・瞑想して過去の意識をヒモ解いてみた。すると、釈迦の時代、乞食のじいさんは衣類の行商であった。竹林精舎の前を通るとき、いつも衣類を布施していた。信次は「まあ、お世話になったんだから仕方がないネ」とニコニコしながら楽しそうに話していた。結局、その人は本当に管理人になった。」

「そして、もう一つ。ビルの二階にS医院がある。一流企業の副社長(現在・社長)が診察を受けた。『うちの家内は浪費癖で困る。それに効く薬はないものか』、と。奥さんは有名企業の娘さんで、毎月の請求が二、三百万。S医師は『いい薬がある。この上に高橋という先生がいる。その人の話しを聞くことです』、と。しばらくして、上から下まで着飾った、婦人が信次の所へ来た。「ウチの主人はケチでケチで困るんです。ケチにつける薬はありませんか」、と。その婦人は、しきりに指を動かす。キラキラと光った、立派な指輪を認めて欲しいのだな、と信次は思った。「りっぱな指輪ですね」と言うと「これ〇カラットですのよ。差し上げましょうか」と。「いただいても隅田川に捨てるだけですよ」「まあ、勿体ない」、と。そしてそれから信次は、足ることを知ること、お金持ちの使命は、困っている人に手を差しのべること等をこんこんと話した。

 過日、信次はこう言っている。女性はせいぜい菩薩界まで。女性は、ネックレスはしたい、イヤリングはする。このように本質的に身を飾ろうとする。赤ちゃんを生み育てるので、どうしても保身、保守的である。その点、如来は身を構わない。どのような服装でも気にしない。だから女性はせいぜい菩薩界まで、でも菩薩になるためにはなかなか難しい、と。それで、釈迦やイエスの教える「夫の妻に対する心構え」は、妻を尊敬する、妻を軽蔑しない、道からはずれない、妻に権威を与える、装飾品を与える、ということになる。しかし、いくら飾り物といっても、ほどほど。ダイヤモンドより心の錦。」

 そして、先の医院にかかわる話しをもう一つ。そこの院長はプロレスのアントニオ猪木氏を、信次に紹介した。例のモハメ・ド・アリとの一戦の前。信次は暫らく瞑想をした後アリキックを伝授した。結果はあの通り」

「猪木氏も縁のあった人なんだナ」

「信次は相手の守護霊に弱点を聞き、伝授した。」

 

 四月八日、「大宇宙神光会」OD IGHT SSOCIATION(GLA)という名称で立教。しかし発会式の講演では、信次も上ってしまい、指導霊(モーゼ)が一時間半、「仏教の歴史的変遷」ということで代講した。

「モーゼが仏教の歴史を」

「当然! 天上界から何千年もの間みて来た」

これを境にして多くの人々が集まってくるようになり、宗教家も様子を見にくるようになった。

                                 

山梨県の下部温泉にて

 講演・「物質と生命」、はじめての持出しの講演だった、と渡辺泰男氏は『道しるべ不動心への道』には記述しているが、園頭広周氏は月刊『正法』百十四号には「全国の中ではじめて講演されたのが、盛岡の健保会館であった」と書いた。その中で園頭氏は次のように書いている。

「高橋信次先生が、まだ悟りを開かれる前、肥料の商売をしていられて、肥料代を集金に盛岡に来られた。その時、泊られた宿が、今はホテルになっている。なかなか金をくれない、一週間泊っていられるうちに金がなくなり、帰りの汽車賃も借りて帰られた」と。

 そして、この盛岡のTさん(昭和四十三年より正法に帰依している)は、次のように園頭氏に話している。

「あと三百年位すると、東北地方から北は、人が住めなくなるほど寒くなる」と信次が言っていた、と。そして、このTさん一族が主となり、最初の講演会の一切の準備をしている。そしてこの頃、信次は言っていた。 

「四十八歳までしか計画してこなかった」、

「結婚は陰陽の調和である」、

「反省は根っこからその原因を取りなさい」、            

「まず神の子の自分に立ち帰り、今を正しく生きるように努めることである。運はそうした中から開けてくる。」、「男は現実社会の改造を担当し、女はその子供をどういう子供に育て上げるかということを通して、未来社会を建設するのである」、と。

 もし、最初の持出しの講演会が盛岡であったとすれば、信次の最期の講演が盛岡(昭和五十一年六月四〜五日)だったのは不思議である。   

                                 

 五月、N・T子、信次の力によって霊道を開く。一万二千年前のアトランティス時代から男に生まれたり、女に生まれたりして仏教やキリスト教に縁があった人。

後日談「私は高橋先生の力によって霊道を開き、転生輪廻の証明役として過去世の〃ことば〃を、皆様の前で語りました。ところが、いつか私は先生と呼ばれるようになり、全国から手紙をもらうようになりました。私はただの主婦でございます。このようなことで皆様を誤らせてはいけないと考え、身を引いたのです。」霊道をひけらかし、増上慢になってしまった人の多い中で、まさしく霊の段階を思いしらされる事実である。」 

「男として生まれたり、女として生まれたり?」

「そういう場合もある。人間は、釈迦やイエスのように、いつも男として生まれる人、マリヤ様やマヤ様のように、いつも女として生まれる人、そして男として生まれたり、女として生まれたりする人がいる。多くは男に生まれたり、女に生まれたり。しかし、男らしい女、女らしい男もいるように、今世に男として生まれたからには男の使命が、女として生まれたからには女としての使命がある。男として生まれていながら失敗した人は、来世も男として修業することになる。女の場合も同じ。男は男らしく、女は女らしくが一番」              

 

 八月

 「植物の精との会話」

 佐久高原で、信次はグラジオラスやダリヤを眺めていた。大人とも子供ともつかない愛らしい少女が花の中から出て来て、にっこり笑って頭を下げた。そして人間を少し批判した後、消えていった。藤や松の木の記述も。

 

 十月                              

 「身体の透視」

 信次が心眼でよく見ると、内臓が構造図のように、はっきりと出て、癒着している立体図が見えてきた。「あなたは、来年の二月中には、今までの苦しみから解放される」、と。予告通りになった。

 同じく十月

 東京・高田馬場観音寺に於ける講演要点。

演題「生命と物質 すべての中心は心」

 地上の目的は調和にある。神仏はエネルギーそのもの。人間は核を中心に五分身から成る。インド時代の現象が現われる。肉体を焼けば三合の灰になるというが死なない魂。転生輪廻を続ける生命。

「この世に生をうけ、まず私達が疑問に思うことは、何のために肉体を持ってこの世に生まれてきたかであります。しかし、その本論を述べる前に何故に……中略……大宇宙そのものであることを忘れてはなりません。」

 

 十一月、

 マイトレーヤーの従兄であったピンギャーが日本人として生まれているのがわかる。    

 

 

花ー0025.jpg (4926 バイト)                   

                    

             

 十二月、S氏(工学博士)の手記「信じがたい事実」        

 S氏は昭和四十二年、八月から九月にかけて、ジャワ島で金山の調査をした。ジープ数台に機材をつんで、二十五ケ所から試料採取を行った。平均六g/屯という結果だった。四十三年十二月、S氏は知人と、信次のもとを尋ねた。山の写真と簡単な地図を持参した。話しを聞いた信次は一、二分瞑目したと思うと、合掌した手が頭の位置へ上った時、コロコロと三個の鉱石が落ちてきた。そして、信次は言った。日本円にして一億円、日本人技術者十名、現地人五十名、その他発電機、採掘用トレーラー、同ショベル等を準備すれば可能だ、と。S氏は、その三つの鉱石を実物大のカラー写真におさめ、証拠づくりをして、東京通産局まで持ち込んで分析を依頼した。一つは二七・五g/屯、あとの一個は〇・三g/屯、最後の一個は証拠品として自分の手許においているので、お見せしますと記述した。

「ナニッ、鉱石の物質化現象が、目の前で起きた」

「ところが、後日談がある。信次は「私はS氏に裏切られました。S氏によって大事に保管されていた鉱石は、悪用されては困りますので、私の霊力によって消しました」、と。

(S氏は信次師存命中にGLAを去ったが、このようなことがあって高橋師は存命中に、この記述が載っている『天使の再来』を廃版にした、と園頭氏は記述している。)

 

 昭和四十五年(一九七〇)

 五月、川越市の大野孝子宅に起った実話。

パウロの母親としての生命。故永田春水画伯の四日の葬儀の日の出来事、その日は、丹精こめて書かれた孔雀の掛軸が棺のそばに掛けてあった。

大野孝子氏の隣りの奥さんのはなし。

「不思議なこともあればあるもの、四日の朝、七、八羽の孔雀が私どもの庭におり立ち、やがて先生の庭に飛んで入り、桜花の中をゆっくり三回歩いて回り、玄関の前でひとしきり鳴くと、いずことなく飛んで行きました、と。そして、その日の夕方、茨城の弟氏の家に、一羽の鳩が舞いこんできて、家人の手や肩に乗り、頬をついばむばかりか、なかなか去らなかった。皆、口々に、おじいちゃんだ、おじいちゃんだといって、なつかしがった、と。

「名人の描いた絵の中から抜け出して…、というのは本当かもナ」

「そのようだネ」

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

 

 同じく五月、

 信次のもとへ、一人の青年が青い顔をして訪ねてきた。その青年は、信次の前に坐ったきり一言も喋らないで信次の顔を見ていた。ところが、「私は胃腸です。この方は暴飲暴食で、時間もかまわず、絶えず食糧を送り込まれるので困っております。私達は休んでコンディションを整えなくては大変なのです。すみませんが、この方に腹八分ということを教えてやって下さい。」、と。そこで信次は注意を促した。

「胃腸の意識が語り出した。余程のことだったろう」

「そうだろうね。信次も、このようなことは珍しいことだ」と記述している。また、こうも言っている。「心臓殿が(笑い)言いました。あなたの過去世の体験をヒモ解いてみると、コーカサス時代は腹六分でした。それで、当時の人は二百年、三百年と長寿だった。もっと前は五百歳、千歳と」

「五百年、千年! オイオイ」                   

「イヤイヤ、最近の心ある医者が言うには、現代は飽食ゆえに短命になっていく、と。食事一回くらいぬけ、と。戦争で満足に食べれなかったことが、今の長寿世界一に? 現代の子供達の時代はわからないゾ。ある人が言っている。一日百五十キロカロリーもあれば生きれると。」

 

 八月、

 十ページばかりの「ひかり」という機関誌が発行される。

「ノアの箱舟現象は、地球上に人類が住むようになってから何回となく、くり返されてきました。< 中略  >しかし、人類が独占欲、支配欲に心を傾斜させてゆきますと、その反作用として、それこそ、突如として天変地異が襲ってくることを予言しておきましょう」

                                 

 同じく八月                           

  講演「生い立ちよりGLA発足まで」

                                

 八月十五日〜十七日                       

 静岡県藤枝市にて第一回研修会開かる。この研修会にて十三歳の中学生二人が心の窓を開く。

「霊道が開かれたことが悟りではなく、正法への一頁であるにすぎない。そして、永遠の生命を悟るための実証である」と信次は言った。  

 

 

花ー0026.jpg (4066 バイト) 

 

 十二月二日

 創立時の「大宇宙神光会」をGLAに改称。GOD   LIGHT  ASSOCIATIONの略    

 一九七〇年(昭四十五年)の一年間で七十名近くの人が霊道をひらき、生活に生かしている、と。                     

 佐藤正忠氏は、信次と知り合ったのは昭和四十五年だった。東京ゆかた社長の河合氏の紹介で信次を尋ねた。ホンモノかニセモノかこの眼でたしかめようと思った。事務所の入口には「神光会」という看板があった。信次は、「佐藤さん、ぼくをためそうと思ってきたでしょう。それでいいのです。大いに疑問をもってください」と言った。そして、佐藤氏が次点に泣き、選挙違反で秋田刑務所にいた時のことを、こまごまと指摘、佐藤氏は、度胆をぬかれてしまった。氏しか知らないことだった。講演会場でのこと、氏は、当時世間を賑わせていたヤシカの七億円不明金のことでヤシカの創業者である牛島善政社長と一緒だった。信次は課長以上の名を書いて下さいと指示、「この人です」と言った。U社長は「その男にかぎって」、と反論したが、まさしくその男だった。

 そして、もう一つ、新宿に京王プラザが開業する前、氏はI社長を信次に紹介した。 展望台をつくりなさい…海外の農協の客をとるように…とこまごまと指導した。それに沿って方針が立てられ成功している。

 そして、ある日、佐藤氏は信次の事務所を不意に尋ねた時、「お父さんに会いたくはありませんか」というので信次の妹を霊媒にして実験することになった。…正忠! 苦労かけて、すまない…、「父と話しているとしか思えなかった、現に父の声である。ショックな体験だった」、と。そして、氏が大森の自宅を尋ねた時、松下幸之助が、小学校という学歴でなぜ、あのようにと信次にぶっつけてみた。しばらく目をつぶった。「ルカ…ルカ…佐藤さん、ルカという人がいませんでしたか」と信次は言った。キリストの弟子の一人でルカ伝もある…。そして、信次は「人類を救おうという…使命をもって生まれたのです。それにはまず、この人を経済的に豊かにしてあげようという神の意志なんです。…一人の人間の力で、こんなに成功するわけがない。でも、松下幸之助さんはそのことを知らないし、自分の使命についても知っていない…。悟っておらんと申しております」、と。「教えてやりたいですね。松下幸之助に会ってくれますか…」と言うと、「時間さえ折りあえば、会ってもいいですよ」と信次は言った。佐藤氏は翌日、さっそく松下に会見を求め、大阪のロイヤルホテルが指定された。氏は、信次の予言の内容をことこまかに話した。すると、松下は「ほんとですか、はは…、私がルカの生まれ変わり?」と、そして、「光栄なことですな…」「一度、この高橋信次さんに会っていただけませんか」と佐藤氏が言うと、「いや、私も会いたい。その方にぜひ紹介して下さい」と言った。松下は半信半疑のようであった。それでも松下は「ぜひその方に、お会いしたいです…」と言った。さっそく帰京した佐藤氏は、信次にそのことを伝えた。「喜んでお会いしますよ。でも松下さんは、まだよくわかっておりませんね…」と言った。佐藤氏は松下の秘書と、信次の会う日時を何回となく連絡したが、結局、機会が見つからないままに不帰の人に。

「大変、センセーショナルなことだネ」

「まず、霊媒について、この日本中に霊媒という人は沢山いる。しかし、その人がホンモノかどうかの目安は、目的とする人を霊媒に支配させるのだから、その語りから、しぐさまで、まったく同じでなくてはならない。生前、東京弁しか喋っていなかった人が、関西弁で語るようなら…。正しく見ることだ。見えぬだけに、だまされやすい」

「なる程、それはそうだナ」

「それに、故松下氏について、信次はこう言ったと園頭氏は記述している。今度、僕たちが出て行く時は、交通機関が発達して、伝道には金がかかることがわかっていた。釈迦やキリストの時代はてくてく歩いて伝道すれば良かった。だが今度は違う。それであの人は「今度は私が先に出て、金儲けして準備します」といって出たのです。だから、あの儲けた金は僕の運動のために提供すべきだった。そのために、大阪の近畿ナショナルの社長さんが、松下幸之助さんと僕が会うのを準備して下さったのだが、松下幸之助さんが会わなかった。儲けたのは自分の力だと思って、僕のためには一銭も提供しなかった。僕はなにも松下さんからもらわなくても、僕は僕でやっていきますよ。あの人が儲けたのはそういうわけで、天上界の人たちが協力してくれたのです。しかし、松下さんはこの世に生まれてくる時に、「正法の伝道のために準備しておきます」と約束して出たんだから、人をなんとか救いたいという気持ちはあった。だから、PHPをつくって人間教育をするということになったのです。松下幸之助さんは生まれてきた時の約束を果たさなかったから、あの世へ帰ったら叱られますよ」と。   

 また、「正法のために、経済的な協力をするという使命のあった人、このような人を大黒天という」とも言い残している。

「どこそこに、幸之助さんの蔭の子供が…どのような状態で」、と世間が知らない頃から、高弟の一人は聞かされていた、と。しかし、後述するが、信次亡後、GLAは、例を見ないほどの混乱が起ることになるので、経済的協力がなかったのは天上界の思し召しか。そして信次は、先の佐藤氏について次のように記述している。「株式会社経済界の佐藤主幹の守護霊は、朗らかな方で、当時のことを語り、現在肉体を持っている者の批判をすることもある。」、と。

 幸之助氏は、九十四歳の生涯を閉じた。晩年の氏は補聴器をたよりに、やっと話を聞くことはできたが、声を出すことが出来なくなった。どこへ行くにも車イスであった。そして、隠れた陰徳も積んだ。何十、何百億と社会に寄付し、教団や、神社仏閣にも多額の寄付も。そして、ポーンと七十億円という私財を投じて、茅ケ崎に松下政経塾もつくった。しかし、今世では幸之助氏と信次は縁はなかった。

「…子供さんがどこそこに、皆んなが知らない頃から」

「そのような話はまだある。故田中元首相がロッキード問題で混乱していた時、新潟の後援会の代表と第一秘書が、大阪の講演会の時、園頭氏と話しているところへ信次を訪ねた。信次の命によって園頭氏は録音して残した。「田中さん、財産を投げだして裸になりなさい。国民はもう一度あなたを首相にと。そして、社会党のN君、総評のO君、あなた方は労働貴族である。わしも裸になった。あなた方も裸になりなさい。裸になったところで日本国民のことを話し合おう、といいなさい。それで文句を言うなら、〇〇君、あなたは〇△というマンションの何号室にこういう女性がいる。それでも違うというなら「名前はこうで、顔はこうで、身長は…」と教えてあげます。裸になんなさい」、と。」

 そして、また、別の講演会の中で信次は、

「田中(角栄)さん自身もね、東京都内にある財産をみんな投げ出して、自民党で今、使っている資金も全部さらけ出して、このお金をみな大衆のために使おうじゃないかと、こうやったら、社会党や共産党なんか、どうということないですよ。それをしないで往生際が悪いから、こんなことになってしまう……後略。     (昭和四十九年二月関西本部講演) 

 

 平成四年四月、江沢民中国共産党書記の来日の際、二年半ぶりにマスコミの前に田中元首相は顔を見せた。

「元首相は右の麻痺が…」

「随分、元気な様子だったが…。右麻痺は言語障害が出ることは医学的事実。おしゃべり人間は言語障害によって辻褄が合う」、と。

 そして、園頭広周氏は一九八七年七月号・月刊『正法』の中で、

「田中角栄元総理の言語障害も、私が光を入れるとよくなると思っているのであるが、その機会を得ないのは残念である」と書いている。

「おすがり…、他力…、どうにか治りたい一心で…」

「もちろん自力、自助努力は神理。治ったらどう正しく生きるかが問題。」

「こんなことを言ったら、全国の困っている人が、お願いします、と」

「自力・自助努力、反省の良いチャンス。反省のチャンスを残しておくのも真の愛。うんと苦しんだら次は明るく」

 そして、佐藤氏は自著の中で 、「大宇宙神光会」を英語の頭文字をとって「GLA」と勧めたことや、『縁生の舟』(改題・『心の発見』)は、初めは佐藤氏の会社で出版されていたが、「縁生の舟は、七十万部売れます」と信次は予言したが、その通りであったこと、そして、印税を手にしながら「こんなにいただいていいんですか」と言うのであった。そして、「大切にして使わさしていただきますよ…」とも言った。そして、佐藤氏が、バーやクラブに案内すると、信次は酒は呑まず、ホステスの話に静かに耳を傾けているだけだった、と。また、西濃運輸の創業社長の田口利八氏は中国の時代、馬車の運送の社長のようなことをしていて、佐藤氏と当時も兄弟のように親しくしていたことも信次が明らかにした、と。そしてまた、新日鉄の永野重雄・藤井丙午氏の冷戦を弱冠四十歳ほどの佐藤氏が和解劇をやってのけたのは信次の「佐藤さん!あなたがやれば必ず成功しますよ」という忠告によるものだったという。そして、氏が「般若心経をやさしく解説して下さい」と言うと、信次は『原説般若心経』を一冊まとめあげるが、「僕はね、仏教書なんか一冊も読んだことがないんです。メチャクチャですよね…」と言って笑った。しかし、発売すると嵐のような反響となって、ベストセラーになっていくこと等が記述されている。  

                                 

 昭和四十六年(一九七一)一月

 指導霊の指示によって記述していた原稿が完成、『縁生の舟・神理編』出版さる。のち『心の発見・神理編」と改訂

 

 三月、

 ある新興宗教の霊的現象に惹かれて信者となった婦人が『縁生の舟・神理編』を読み、信じてきた信仰に疑問をいだいて、信次の事務所を尋ねて来た。信次が霊視すると不調和な動物霊に憑依されていた。その憑依霊を取り去り、その結果、以前の自分をとりもどした。彼女はインドの時代のプッタ・スートラ(仏教)を学んだ比丘尼であった。

 

 五月、

 『縁生の舟・心と科学編』出版さる。後に『心の発見・科学編』と改訂。

                                 

 

 

花ー0027.jpg (5424 バイト)

 

 

 〈信者の集団鞍替え〉

 六月

 六月の信次の講演会に、「霊友会」から分離した「瑞法会」からNとHの二人が教祖の命を受けて派遣されて来た。

 

 八月、                             

 八月の栃木の出流山での研修会にも二人は来た。

 信次「この二人の先生はなにもいわないんです。僕は、その人達の守護・指導霊と話をするから、皆わかります。僕のインド時代の、そして、中国時代の仲間もいいとこ。私は、二人の守護霊から聞いたままをいった」、と。                            

二人は、本ものかニセものかを確かめて、本物であれば、その指導方法を利用して、信者を幸福にするつもりであった。「研修の結果を伝えたら良いでしょう」と言うと、二人は、いい当てられたことに苦笑して、「このことを録音しても良いですやろか」と、そこで信次は、教団の会長は、法華経を似って、先祖供養で信者を導くことに自信がないといっていること等を録音させた。すでに会長は『心の発見(神理編、科学編)を読んでいた。二人は、このテープを持って帰阪した。信次は、東京にいてその教団の裏話が全部わかってしまうのだった。自分を再び訪ねてくるだろうと思った。信次の守護霊は、大分自信のある言葉で言うのだった。

「居ながらにして、すべてがテレビの画面のようにわかる。すべてお見通し」

「色々な話が残っている。高弟の一人、村上宥快氏が、弟子の運転する車に同乗した。大事故になるところだった。帰京して信次に報告しようとしたら、「よかったね、命拾いして」という言葉が一瞬早かった。すべてお見通しだった、と。」                       

 

 九月 

 ある日、教団の会長が八起ビルに訪ねて来た。迷えるあとの訪問であった。そこで信次は、先代会長は女性であったこと、この世を去る時の様子、教団を指導していた頃のことなど、一部の幹部以外には解らないことを大阪弁で、前会長の言葉で伝えるのだった。三人は、あっけにとられてこの現象をみつめていた。そして翌日の昼、信次の説く「正法」に帰依する決意を固めて帰阪した。一九七〇年、瑞法会教団の初代会長竹本千代が亡くなった後、二代目会長、中谷義雄は「GLA」に集団帰依することになった。教団は、「GLA関西本部」となるが、吸収される方がする方より歴史が古く、会員数が多いという珍しいケースであった。

「二、三万の信者ともども鞍替えというのは異例のことで、当時の宗教界で話題になった。まだある。「GLA小金井研修所は、元キリスト教会であり、宣教師から教会までそっくり移籍している。そして、山形大の理論物理学教授の黒沼栄一氏もひかれていった一人」

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

 

 十月                              

 信次は大阪におもむき講演会を持った。演題「物質と生命」、約二時間、そしてその後、霊的現象の実験にとりかかった。そして後、一九七三年、教団の要請により「GLA」は宗教法人となる。

 中谷義雄「九月十二日に、私は東京へ行き高橋信次先生とお話をさせて頂いて、この方が仏陀ゴーダマの再誕であるということを堅く信じたのであります。それから二回、三回と回を重ねて上京するたびに、確信しました」

 関西での初めての講演会で、信次は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩を詠んで「この方は菩薩界の方です」と言い残した。

                                 

 講演「釈迦の生誕と仏教の変遷」

 信次は

「私達は嘗ってインドに、中国に生まれてきた。日本は中国と戦ったけれども、中国に生まれていた時の子孫と戦ったわけである」、

「心は心で洗礼すべきである」、

「習慣とはおそろしいもので、習慣が執着につながっていることを知らず、人々は苦悶の一生を終えて行く」、

「自分がつくった罪は、自分で償わなければならない。誰も人の罪を引き受けることは出来ないのです。罪を引き受けて病気になったという教祖があるけれども、その本人に病気になる原因がなければ、病気になることは出来ないのです。正しく法を説く光の天使は、健康であって法を説いて行くのです。もし、人の罪を引き受けるのが本当だとしたら、キリストも釈迦もヨイヨイになって死ななければならなかった筈です」、

「皆さんの過去世において、ある人は王様であり、ある人はお金持ちであったり、そうして、皆さんは今、自分が欲している人生に今あるのです」

「魔王や動物霊達は、たとえ予言や病気を治しても、それは一時的現象でであり、私達は絶対に信じてはならない。」と言った。        

                                 

 十一月

 講演会は東京から地方に広がり、信次は、関西地方への出張も多くなった。二十四日は大阪、二十五日は四国と選挙運動の遊説のようだった。それが指導霊から一生の仕事だと言われているので余り苦しいとも思えなかった。この両日は、一日に八時間の連続の「講演」と「質疑応答」それに「現証」を行った。何千人もの聴衆、病人の個人相談が七十六人。その中で、十五年間いざりの人、十年間半身不随の人達に奇蹟が起った。それは、信次に協力してくれる大指導霊の力だった。

「自分の力でなく、大指導霊の力だったと、謙虚だナ」

「まったくその通りだネ。奇蹟はあの世の霊の協力によって行われる。信次の場合はモーゼなど光の大天使。信次は言っている。動物霊でも奇蹟、病気治し位はする、と。正しく見て、注意が肝腎。動物霊の場合は、その内に本性を現わす。」

 信次は、連日連夜、強行なスケジュールに追いかけられていた。精神的には疲労を感じなかったが、常に指導霊から、「身体も身のうちだ、十分気をつけよ」と注意されていた。

 

花ー0028.jpg (6662 バイト)

                 

                                 

 〈死の土俵ぎわ「一日一生」〉

 信次は、寝不足の上、胃の消化力が弱っているところへ、油の濃い食物を、夜中の一時に食べて寝んだ。午前三時頃、気分が悪くなってトイレで倒れてしまった。すると、あれよあれよという間に「もう一人の信次」が抜け出して行く。この世とあの世を結ぶドームの中で、しまったと思った。倒れた音に気付き、I夫人、S博士、M住職が寄って来た。I夫人は心臓に手を当て、S博士は脈をみて、M住職は心臓に光を与えている。三人の心と行動が信次には手にとるようにわかる。I夫人は心の中で このように多くの人に道を説いている方に、なぜ神は無慈悲なのだろうと思うことが信次にも伝わる。その時、大きな光の肉体が、信次の肉体を支配すると同時に、「心配いらぬ」とシンフォーの言葉だった。そして、信次は、ドームのきびしい波動の中で、自分自身の欠点の追求、反省を行い、電気会社をはじめとするいくつかの会社、ビル、駐車場などの事務的問題を考えるのだった。どのように連絡しようか、実印、鍵、書類、色々な問題が思い出された。しかし、呼吸も心臓も停止している。もう一人の信次が、はいれないのである。そうだ、妻が心の窓を開いているから、次元の異った世界とも話しが出来る。実在界へ帰ってから連絡しよう、そう信次は思った。一生の反省と残っていた執着心を、一時間くらいの間に処理し、肉体舟は大きく息をはくのだった。「どうも心配かけて…」身体を動かすことも、眼を開けることも出来ない。肉体を支配し終ると、また、もとの気分の悪さがもどって来た。そして、一日一日を一生懸命に努力し、正しい心の物差しで反省をして、いつこの世を去っても、思い残すことがないような生活が、もっとも大切であるという、「一日一生」、一九七一年の最大の信次の悟りであった。

「大きな光の肉体が…」

「イエス様が信次の肉体を支配して助けた。実在界の天使達も心配だったろう。信次が 念を集中して、光を入れる時などは、血圧が二百五十にもなったと聞くが、相当な激務だったはずだ。それも人々を救うため」

 

 この年に出版された『現代人と仏教』笠原一男東大教授にインタビュー形式による記述がある。引用要約する。

 〈前がき〉

 一九七〇年代は宗教の時代といわれている。そうした声に、さきがけるかのように、またまた新しい宗教が生まれつつある。その一つがGLA(神理の会)といえる。若きリーダーが高橋信次氏である。…高橋氏自身の口で語ってもらおう。

 笠原 既存の宗教とはまったく異なると…

 高橋 まあ、宗教といわれましても私にはわかりません…。

 笠原 四十三歳でいらっしゃる…。

 高橋 はい、そうです。

 笠原 イエスや釈迦が脳裏にひらめくというのは前々から…。

 高橋 (語気を強めて)私は四十三歳になるまで宗教に関する本は一切読んでいません。   

 笠原 そうすると幼年学校…秀才だったんですね。

 高橋 戦地に行って、どうして自分だけ奇蹟が、つまり死なないのだろうという疑問が・・・。    

 笠原 具体的には

 高橋 二月八日に門司を二隻の船で出航、十二時に出航して八時に沈められ、約十二時間…海防艦に救われ… (前述)

 笠原 …もう一人の自分のその後も…。

 高橋 毎日です。一日たりと出ない日はありません。

 笠原 それはやはり仏典を読んだり…。

 高橋 (さえぎって)一つも読みません…。

 笠原 魂がイコール意識ですか。

 高橋 そうです。

 笠原 ソクラテスが輪廻してどこかへ…。

 高橋 はい出ています。                     

     (註・ソクラテスは毛沢東に生まれ変ったと)

 笠原 …特別な修業は…。

 高橋 修業なんていりません。毎日の生活のあり方によるんです。

 笠原 …松下幸之助さんの子供に生まれるのと私の子供に生まれるの…

 高橋 自分で約束して次元の違う…。そこには縁が。

 笠原 …親鸞なんかその代表で…。

 高橋 パウロという過去世を持って…。

 笠原 時代は下って中山みきとか…。

 高橋 …必ずしもいい所へは…。

 高橋 …イエスの弟子でペテロが矢内原忠雄という…。

 笠原 それは…ではなく、瞑想的反省を通じてですね。ありがとうございました。

 

 そして、この年、信次は次の手紙を紹介した。

 一九七一年度、日本美術院五六回に出品した百五十号の作品〃夏の水〃が幸運にも、最高賞である、美術院賞を受賞いたしました。私は昨年四月、M店の社長から『心の発見』をいただき、浅草の八起ビルにおける土曜講演にもお誘いをいただき、初めて、人間の心と行いの正しい在り方を学びました。講演会場は、立錐の余地もない程の人によって埋められ、およそ、宗教家というタイプとは不似合いなのにも驚ろきました。しかし話しが進行するにつれて、誠実な、少しもあやふやなひびきのない神理そのものが、私の身体に、心に、じわじわとしみとおるようにひびいてくるのでした…。 ( 千葉県在住 K・D)

 

 昭和四十七年(一九七二)

 三月

 盛岡市・国保会館。演題「インド仏教と現代仏教」

 ここにはプロのお坊さん方も何人も見えておられます。そういう方の前でインド仏教だの <略> 手当というのはそうすることです。

 

 春

 この頃の信次の周辺から、『調和への道』観音寺住職・村上宥快氏より要約

 一九七二年の春、彼岸すぎ、相談の結果、伊勢の答志島へ行くことになった。村上氏は信次達より設営のために、先に出発、一週間後に、信次一行を迎えに名古屋へ行った。桑野の知人宅に寄ると、Kというお婆さんが紹介された。彼女は、皆、気狂い扱いするとこぼした。信次は一見して彼女の守護霊が千秋の思いで待っているのがわかった。信次が〃光を入れる〃と中国語を話しだした。彼女は気狂い扱いされないですむと喜んだ。翌日、一行を答志島に案内し、最初に断わられた旅館へ行ってみた。今度は二つ返事で応じてくれ山海の珍味でもてなしてくれた。さすがに信次だった。一行の五人を何日でもと言った。

そして一週間の野外禅定、夜は渚での反省が終った。ここで信次は村上氏のお父さんの霊をH氏に出した。口が歪みよだれでも出そうな、中風そのままの姿であった。五十年間もこのままの姿で地獄界をさまよっていたのだと村上氏はわかった。そして、「ぼくの意識を見るように」と信次は言ったが、余りにも光が強烈で、村上氏は判断がつきかねた、と。そして、この島を去り、松阪の開眼寺で信次は講演をした。二百名ほどだった。夕食で出された松阪肉に、村上氏はとまどった。強度の牛肉アレルギーである。これまで犬のジステンバーのように、一カ月も二カ月も苦しんでいた。信次は「もう治っているから大丈夫」と言った。恐る恐る村上氏は食べてみた。何んともなかった。そして、信次は食べ物へ感謝するようにと戒めた。二日程して湯の山温泉に登り、宿の人となった。信次が身上を見てあげると、信次のところに面白がって集まって来た。夕方近くになって、貴賓室が空いているから移るようにと宿の主人は言った。皇族方の宿舎に当てるとのことだった。これが後、「GLA」の支部になっている。翌日、一行は、関西本部長(前述)のお母さんが亡くなったので、大阪へ赴き、旅姿のままで、信次の導師、村上氏の副導師で告別式は挙行された。」、と。

「食べ物への感謝と報恩とは」

「食べ物は、すべて、その身を犠牲にして、我々の血や肉になってくれるのだ。だから、その感謝の心は勿論のこと、報恩とは、粗末にしないこと。食べ残して簡単に捨てたり腐らせてしまうようでは報恩とは言えない。レストラン等の食べ残しを見てみろ。餓死している国もあるというのに」                               

「あまりにも光が強烈で…」

「霊視する人が、信次の意識を見ると、光の化身とも言えるほどだった、と。」

 

 

花ー0029.jpg (5371 バイト)

 

 

 四月九日

 八起ビルでの講演。演題「人生と悟り」

 「正法流布のスタート時は、わずか二、三人でありました。それがひと月たち、ふた月…悟りの彼岸も、八正道を行じるなかにあることを知らねばならない。」

                                 

 同じく四月

  講演「神と人間」                       

  その他、「光の入れ方」、「禅定講話」などがある。       

                                 

  演題「神と人間(宇宙即我)」                 

 「神と人間、なかなか私達は神様という問題になりますと、ほとんどの人々が見たこともありませんし、話しでは聞いても、神というものが、どの様な作用をなし …後略…                    

                                 

 (質疑応答)

 憑依と霊道の違い、如来とは、菩薩とは、仏陀とは、仏法とは、霊道者とは                               

                                 

 十月

 盛岡市・国保会館に於ける。演題「色心不二」

 「色心不二(しきしんふじ・しきしんふに)という言葉を皆さん知っているでしょう。この色心不二という言葉が非常に哲学化されて <中略>時に、自分自身の心の平和を、取り戻すのです。」

 

 十一月

 信次の事務所に、Oという青年が千葉から訪ねて来た。信次は彼の背後に若い女性をはっきりと見た。信次は、背後にいる若い女性の霊に質問した。すると「私はOの妻です」と言った。Oは十年来、肩や首が神経痛のようにじくじくと痛んでいた。「あなたは、すでに亡くなっている。すぐに主人から離れなくてはいけません」と信次が言うと、「この人から離れたら行く所がありません」、と。信次は時間をかけて教え諭した。Oの亡き妻は、主人から離れ、天上界の修養所へと帰っていった。すると、Oは痛みもなくなり、以前の丈夫な身体にもどったが、信次はOに、心の正しい尺度、人生の正道を説くのだった」

 

 同じく十一月

 『原説般若心経』出版される。この中で、信次は「空」は実在界・あの世、「色」は物質界・現象界・この世、と明解。

はあの世、はこの世と」

「そう、ナラジュルナー(竜樹)が「空」を説いたからわからなくなった、と信次は言っている。」

                                 

 十二月                             

 東大阪にて、信次の講演会の始まる四十分前、T・M子という中年の夫人が信次の控室を訪れた。一九六三年二月五日、突然脳溢血で倒れ、左半身マヒで三叉神経痛という後遺症もあった。信次が霊視すると、M子の背後に中年の男がすがりついているのがわかった。亡き夫だった。一人残した妻を心配もしている様子だった。亡き夫も脳溢血で倒れ地獄に行っている。亡き夫が妻を支配すると未亡人の口から出る言葉は、男性のそれだった。信次はコンコンと言って聞かせ、手から光を出し、与えていた。「ああ、暖い、体のうずきがなくなった」と未亡人は言った。そして次に、信次の守護霊に頼んで、天上界の入口まで送ってもらうことにした。主人は、彼女の体から離れて行った。そして、彼女は感謝して、合掌するのだが、彼女の病気の原因は、彼女自身の心にあったのである。

 

 同じく十二月                          

 信次の友人の紹介で、幼い二児をつれた若い婦人が信次を訪ねた。信次は三人を見た時、この母親を救ってやらねばと心がふるえた。母親の後に蒼白い顔をした地獄霊が立っていた。婦人は言った。「叔母が行けというものですから」と他人事のように言った。「ご主人はノイローゼのようですね」と信次は言った。「精神疲労だそうです。精神安定剤を飲んでいます」と言った。主人を同行してもらうことにした。主人は「こんな所につれて来て」と小馬鹿にしたような態度をとった。耳をかそうとはしなかった。仕方なく、まず死神を除こうと、光を送った。はじめて主人は口を開いた。地獄霊が離れている間に信次は、心の正しいあり方を説いた。心という問題について説明した。しかし素直には聞いていなかった。顔を見るとニヤニヤ笑っていた。心の中で地獄霊と話していた。「ご主人、彼等と話してはいけない、しっかりして下さい。その男は自殺した人です。」と。そして婦人にも地獄霊が寄っていた。まず、子供さんを実家に預け、ガスの元栓を締めて寝ることです。対話以外にありませんと説明した。あえて信次は入院をすすめた。四ケ月過ぎたある日、主人は「一緒に死んでくれ」といってガス栓を開けた。元栓はしめてあった。そして後日病院から抜け出して飛び込み自殺をしていた。大学の教授の主人の両親は他人事のそぶりだった。原因は冷たい両親のもとに育ったことにもあった。

 

花ー0030.jpg (5884 バイト)

 

 

 年の暮の信次の周辺                       

 渡辺泰男氏はペンダントを貰えるという「或る教団」の中級の研修を親子四人で、受けに来ていた。昼休みに場内アナウンスで『現代人と仏教』という本をお読み下さい。教団の記事がありますと言った。その本の中に「神理の会」とある。さっそく八起ビルに行って見た。年の暮れで閉っていた。正月が明けると本部に出かけた。広間の一角に事務机が五つほど並んでいるだけで、何の変哲もない。感じのよい青年が一人応待してくれた。『縁生の舟』の神理編と科学編、「GLA」という月刊誌を買って帰った。「過去世を教えてくれるから今日いってくれないか」と渡辺氏は奥さんに頼んだ。「どうだった」と尋ねると、「何でもずばりずばりと恐いようよ。ペンダントをすぐに指摘されたわ。腰に蛇がついているので、今度の講演会の時にとってあげますからいらっしゃい、と。人の前では、いやだなと思っていると、心を読んで、今、とってあげましょうということになり、蛇はそこから出ていったようよ」と言った。このようなことで渡辺氏の「GLA」の勉強が始まった。そして次のように書いている。

「土曜講演会というのが月に二度、日曜の講演会が月に一度、それに地区座といって地区の座談会がある。雑誌の案内を見ると、市川の中山の阿波神社の社務所をかり、月に一度やっている。初めて土曜講演会に行った時は、たかだか六、七十人だった」、と。

 

 昭和四十八年(一九七三)

 一月四日                            

 東商ホール、演題「般若への道」

 「私は十歳の頃から霊的な体験が起こり、爾来三十二年の間、心と物質について追究し 中略 三十二年の歳月を経て、はじめて知ったのである。」

 

 同じく一月

 神奈川県の、老舗の女社長のKが信次の事務所を訪ねた。五十五歳というのに骨と皮。「どんな医者にかかっても治りません」といった。信次は「心の毒を食べすぎたのです」「いえ、体の具合が悪いのです。ちゃんと仕事もしているし、神様にお参りし、先祖も守っています」と意味を解していなかった。「お姑さんと同居していますね」確かに社長ではあるが、一銭の金をもお姑さんが握っており自由にならないのだ。「主人の妹さんにも、娘さんのいいなずけにも気をつかって…」「ハイ、いつも私は周囲の者に気をつかっています」信次は、Kのような人は、意識の中からくずさない限り、自己保存から解放することは不可能だと考え、言って聞かせるのでした。そしてそれからKは、嫁に来てから今日までの生活について一週間かけて反省した結果、心は浄化され、体重は七キロも増え愚痴も忘れたようになくなり、元気になってしまった。これが我慢と忍辱の違いである。

 

 一月出版の出版本の中から、『対談・四次元の不思議』の要旨。

 小田 「ある社長さんで、私の会員でもあるけど、近頃心霊のことで本なんかも書いたり、会合を持っている人がおりますが、その人は子供の時に、何遍も死んだんですね。その体験談を聞きましたがネ。」                          

 田宮 「…」

 小田 「そうです。それで、本当の私はここにおるぞ、といくら言っても通じないわけです」

 田宮 「…」

 小田 「…薬の匂いがした、というんですね。そうしたら皆が生き返ったといって、大喜びだったというのです。その人にはこういうことが、七回も八回もあったそうです」

 

 三月

 大阪講演会のとき、講演が終り質問に入ると、神道を二十数年学び、肉体業をして来たという五十代のHが質問した。「私はあらゆる修業をし て、八百万(やおよろず)の神が私の耳もとで教えて下さいましたが、先生の著書を読んでからというもの、もう用がすんだから帰るといって、今は二方の神だけになりました。何んという神でしょうか」何千という聴衆者は、注目した。Hは自分で神と自称する者の名前も知っていながら、信次の口を通して語って欲しかったのである。はるばる四国から他流試合に来る勇気は憐れにも信次は思った。「あなたは、人に対しても慈愛の心が乏しいのはどういうことですか」「私は神のことばを守ります」と言った。地獄に堕ちた行者が竜をつかって話させている姿を信次は見ていた。「自分の名前を名乗りなさい」「我は天照大神なり」「うそを言いなさい」「金比羅なり」とコロコロとかわる。「ただの行者、本当のことを言いなさい」「黒竜でございます」と。行者の頭の上に長いひげをなびかせ舌をペロペロ出している。信次は彼らに動物としての心のあり方、人間としての心のあり方について説法したところ、Hを支配していた地獄霊達は離れていった。「体が軽くなり頭がすっきりしました。やはり私のは、地獄霊でしたね」と自分で納得したのである。

 

 同じく三月

 信次は、指導霊によって、信次のグループの一人、インドの時代の天眼道第一の人といわれた大目連(マハー・モンガラナー)であり、坂本竜馬の生命がニューヨークに転生していることを五年前に通信されていた。昭和四十八年三月、信次が意識でニューヨークへ行くと(幽体離脱して)、彼は、ニューヨークの公園の石の上で禅定・瞑想していた。そして、霊的通信に成功したのである。

 

 

 

 

                                 

 園頭広周氏の「高橋信次師との出会い」を見てみよう。

 園頭氏は昭和四十八年一月十三日、東京へ出張、生長の家関係者から『縁生の舟』(改題『心の発見』)と『原説般若心経』を貰い、宿舎のホテルで、むさぼるように読んだ。「著者の霊の次元の高さを感ぜずにはいられなかった」、と。氏は本も読み終えない内に手紙を書いた。すると、二月の末に信次の使いが二人、氏を訪ねた。そして、三月十三日、関西本部の講演会で信次と氏は顔を合わせることになる。氏は早目に行って信次を待った。信次は講演会場に定刻にきた。信次を一目見るなり、園頭氏は「中肉中背の、少し太り気味で丸顔の、少しも威厳をつくろわない感じで、すぐにでもふところに飛び込んで行けそうだ」と思った。それで、氏の心もやわらぐのだった。その時、信次は言った。「あなたが私のところに来ることは、僕は五年前に予言していました。ネ、そうでしたネ」、とまわりの者に証明を求めた。そして「あなたは宇宙即我を体験したことがありますね。それはあなたの過去世で学んだものです」と言った。その言葉を聞いた氏は、これまで、自分だけしか知らない、今まで何人かの人に話しても、理解する人は一人もいなかった自分の体験を何も話さないのに、信次がわかってくれたことに驚き感激するのだった。生長の家では「神想感」という観法をやっている。教祖の谷口雅春氏は、わかって下さるだろうと思って生長の家の講師にもなったが、結局、わかって貰えなかった、という。

しかし、この先生は開口一番「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」という言葉を言って下さり、感激で涙さえ出るのだった。我が家にやっとたどりついたという気持ちであった。「今まで随分苦労して来ましたね。しかし、それも、こうして、ここに逢うための準備だったのですよ。そして、あなたはロスアンゼルスのアガシャ教会のことを知っていると思いますが、あのリチャード・ゼナーを指導したアガシャーの指導霊というのは我々の仲間ですよ」と言うのだった。師は、これまでの悩み苦しみを、信次が全て理解してくれたことに心がやわらぎ、涙が溢れてくるのを覚えた。

そして信次は「園頭さん、あなたの心をちょっと見てみましょう」と言って瞑目、精神集中した。「わかりました。ほとんど丸いですよ。りっぱです。よし、やり直しだと思っていますね。それでいいんです。ただ少し欠けているのは、あなたは余りにも遠慮深いことです。」と言ったが、その日はそのようなことで終った。

 四月八日〜十日 GLA関西本部の講習会。その四月九日の午後、信次は「昨夜、あなたの守護霊が挨拶に来ました。近いうちに、あなたも過去世を思い出しますよ」と言った。

 四月十日、信次は講演が終った後、「園頭さん、今夜、一緒に泊って下さい。一緒に来られた御二人も。私は個人指導がありますので、先に宿(生駒の三鶴山荘)へ行っていて下さい」と勧めるのだった。夕方六時 頃、信次は帰宿した。「先生が、お帰りになった」というので、氏は玄関に信次を迎えた。すると信次は「どうして、早く風呂にはいって、くつろがなかったのですか」と思い遣るのだった。園頭氏は、師を迎えるのに、襟を正して、礼を尽くすべきだと思った。そして氏は、今までに知った教祖の中で、これほどの心配りをされる人があっただろうかと心打たれるのだった。夕食が終り、「園頭さん、精神統一してみて下さい」と信次は命じた。短い浴衣の前を合せて(氏は長身)正座した。「そんな窮屈な姿勢で精神統一できません。もっと身体を楽に、足がしびれては長くは坐れない、心に集中できません」と信次は言った。アグラをかくことに多少、抵抗を覚えながらも、昭和十五年に宇宙即我を体験した時も、禅宗で教えるような坐り方をした訳でもなかったことを、思い出していた。

心の統一をはかっていると、信次は右手をかざして、何か訳のわからない言葉をかけた。信次が何を喋っているのか、さっぱりわからなかった。信次が言った言葉は、意味はわからないが、何か腹のそこからこみあげてきて、口を開けば、そのまま言葉になりそうな気がしてならなかった。信次は言った。「肉体を持っている人よ、そのまま声を出しなさい」と言った。「肉体を持つ…」というような権威のある言葉を、聞いたことがなかった。それは、そのまま従わずにはいられない権威ある言葉だった。口を大きく開けて、アーと声を出した。とたんに、その声は言葉に変わった。習ったこともない言葉が、次々に口をついて飛び出した。催眠術にかけられたのではないかとも考えたが、催眠術や暗示は、本人が覚醒した後は、術中どのようなことがあったか覚えていないはずだと考えた。しかし、この通り、意識もはっきりしているし、全部知っていると園頭氏は言う。

 そして、知らない習ったことのない言葉が、次々に口をついて出る。感動の涙が溢れ、目も鼻もぐしゃぐしゃになって泣いた。そして、信次は言った。「あなたはヘイマカという人を知っているはずです。過去世でどんな関係にあったか、今度は日本語で答えなさい」、と信次は日本語で問いかけた。一瞬とまどうのだが、今まで、自分を感動させた胸の奥というか腹の底というか、じっと潜在された自分の心に静かに問いかけてみた。すると答が返ってきた。しかし、氏はそれを否定した。その言葉はどうしても躊躇せずにはおれなかった。「心の中に浮んできたその言葉をそのまま口にしなさい」と信次は再び促した。信次は心の中を知っていた。口にしなさいと言われても躊躇せずにはおれなかった。一瞬躊躇して園頭氏は思い切って、「その人は私の侍従をしていた人です」と答えた。侍従とは天皇陛下の側近で、民間の自分が口にすべき言葉ではないことも良く知っていた。その言葉以外に出てこないので仕方なかった。「そうです。その通りです。その人は今、京都に生れ変わって、あと三カ月したら、その人も私のところへ来るはずです」と、信次は言った。(その通りに、三カ月目に大阪の講習会に来ることになる)

そう言った、と同時に園頭氏の目に映ったのは信次の姿の上に二重写しになっているお釈迦様の姿であった。「仏陀、おなつかしゅうございます。偉大なる観自在者、仏陀」と言って、泣き伏したのであった。「ウパテッサー(舎利弗・舎利子・シャーリープトラの幼名)ニ五〇〇年を距てて、この日本で一緒に会うことができました。私もなつかしい、インドの時と同じように今世でもやりましょう」と信次も涙した。そこに居合わせた人も泣いた。「あっ金粉が」、GLA関西本部長・中谷義雄氏(前述)が叫んだ。氏の頭上に金粉が降って来た。信次の顔も、園頭氏にかざしている手もみな金であった。金で輝いていた。釈迦の像を金で荘厳するのは、このようなことによるのかとわかったと園頭氏は書いている。

「金粉が…」

「金粉類似のものは動物霊でも出す。もし拝み屋さんで金粉を出すという人がいたらよく観察することだ。派手な格好、気分がクルクル変わる、冷たい、金に汚ない、すぐに怒る、女性問題をたびたび起こす、常識的に考えておかしい等を正見すれば、必ずわかるはずだ。正しく心を開いた光の天使なら、さわやかで、これはちょっとおかしいぞというようなことはあるはずもない」

  

photo-園ー十周年世界大会.jpg (4907 バイト)

国際正法協会十周年記念世界大会の園頭師(昭和63年)

 

 

 一九七三年三月二十二日、沖縄講演会より高橋信次

「私の本はアメリカのスタンフォード大学で翻訳されています。今年の五月に出来あがりますとアメリカの太平洋岸に大きく広がっていきます。そして、我々の説いているものはヨーロッパにも広がっていきます…」

                               

 三月二十八日、法人届される。宗教法人「GLA」

 

 四月

 『人間・釈迦』第一部 偉大なる悟り、出版さる。以下次のとうり。

 『人間・釈迦』第二部 集い来たる縁生の弟子たち。昭和四十九年五月

 第三部  ブッタ・サンガーの生活 昭和五十一年十一月 (信次亡後出版)

 第四部     カピラの人びとの目覚め 昭和五十一年十一月(信次亡後出版)

 『人間・釈迦』は月刊誌『GLA』に連載されたもので、単行本として三宝出版より出されている。

 

 〈『人間・釈迦』へのプロローグ〉

 高橋信次著、「人間釈迦」は、古代インドの釈迦の時代に生活した過去世を持った人々の記憶と、釈迦としての信次自身の回想が、パノラマのように眼前に広がる当時の情景を、筆のおもむくままに自動書記された霊的実録であり、世界に希なる四部作である。信次の原稿を進めていく机上には原稿用紙とペンのみで資料一切なにもなかったという。最後の著作となった四部「カピラの人びとの目覚め」は釈迦四十二、三歳頃までの物語りである。残念なことに側近の人達には、いつも、「道を説いて四十五年間の永きにわたるので、書くことはいくらでもあるんですよ」、と言っていたという。前述したように、四部は釈迦四十二、三歳の霊的な実録であるが、釈迦八十一歳のクシナガラでの入滅の記録は、信次著『原説般若心 経』三宝出版に詳しい。そして、この「人間釈迦」は、日本人妻をもつアメリカの大学教授の手によって英訳された。完訳されたのは信次の存命中であったが、その翻訳文が日本に届けられたのは、信次の昇天後であった。別項で述べているが、その後のGLAの混乱によって、陽の目を見ないのは残念である。一九七三年三月二十二日、沖縄講演会では高橋信次は次のように言っている。「私の本はアメリカのスタンフォード大学で翻訳されています。今年の五月に出来あがりますとアメリカの太平洋岸に大きく広がっていきます。そして、我々の説いているものはヨーロッパにも広がっていきます…」                          

『人間・釈迦』と、一般の釈迦伝の違いを知るための要約

 紀元前(BC)六五四年、中インドのコーサラ国、カピラ城。父はシュット・ダーナー王。母はマヤ。言葉はカッシー語、マガダ語。釈迦(ゴータマ・シッタルター)はルンビニー園で産まれた。父四十九歳、母四十五歳。母マヤは出産後一週間でこの世を去る。今で言う逆子であった。母マヤはデヴダバ・ヴァーストの城主のスクラ・プターの妹。母亡き後、母マヤの妹マーハー・パジャパティーの手で育てられた。カピラバーストはコーサラ国の首府シラバスティーから六十八ヨジャナー、マガダ国のラジャグリハの都から四十九ヨジャナー、マガダ国のラジャグリハの都から六十二ヨジャナーの距離にありヒマラヤの麓に位置していた。一ヨジャナーはラジャン(王様)の歩く一日の距離をいう。太陽が東から出て西に沈み、再び東から出るときの一周期が一日と定められていた。国の周囲は二十ヨジャナーほどの広さ。シャキャプトラ(釈迦族)の人口は約百万人ほどであった。父王の兄弟は五人、長男シュット・ダーナー、二男はシクロー・ダーナー、子供はナンディカ、バドウリカの兄弟。三男はドウロー・ダーナー、子供はアーナンダ、デヴァダッタ兄弟、四男はアムリトー・ダーナー、子供はアニルッタ、マーハーナマ兄弟、長女アムリタ、子供はテイショヤー。そして祖父はシンハハヌ・ラジャンといわれた人で、シッタルタが生まれた時は、この世の人ではなかった。父王のもとで政治を行った人マシェル、シッタルダーより四十歳年長であった。マシェル亡き後、ゴーセが継ぎ、貿易、外務をやった人スグティー、シッタルダーより五歳上、シッタルダーは三歳の頃から、バラモンの学者からヴェーダーやウパニシャッド教典を学んだ。『人間釈迦』はこのような書き出しでは決してない。是非、読んで欲しい四部作である。

 

                                 

 四月一日 東大阪の忍岡中学校講堂

  演題「魔に負けるな」

「昭和四十三年三月、霊的現象が私の家に起ってから、はや四年になります。人間は神の子としてこの地上界に、目的と使命を持って生まれて来たことは、誰の心にも内在されており、例え不調和な現代社会に……後略」

 信次は「誰でも愛の心を強く持てばよいのです。そうすれば誰でも力が出るのです」、

「光を入れる前に自分の心を愛の心で満たすことが大事です」、

「禅定の時、心と肉体の波動を合せなさい」と言った。

 四月なかば、信次は「『縁なき衆生救い難し』という言葉があるが、しかし、袖すり合う縁が生じても、その縁を素通りする人があまりに多いので、正法の遠きに覚えることがしばしばである」、と。

「正法は、実践のなかにこそ、生命が宿ることを知れ」、

「いうこととやることの違う人を信用してはならない」と良く言った。

 四月、園頭師が霊道を開いた日に、信次は

「園頭さん、あの生長の家の清超という人は二人目ですね。谷口雅春教祖の一人娘の恵美子という人が、最初の結婚に失敗した理由を知っていますか。あれは生長の家をこれ以上大きくしてはならないという、天上界からの警告だったのです。それを終戦後、生長の家をこのように大きくした原因は、園頭さん、あなたの責任だから、あなたは谷口さんに手紙を出しなさい、と。」

「何も知らないはずの信次が、恵美子氏の再婚を…」

「そう、最初、北海道の人と。谷口氏は婿の批判を、当時の月刊『生長の家』に。そして、昭和二十七年に谷口教祖に園頭師は、生長の家の大方針はかくの如くすべきだと手紙を書いた。それによって発展したのだと」

 このようなやりとりをしている時、田中利雄という人が部屋に入って来た。信次は、                           

「園頭さん、この人はぼくが大阪の国際ホテルに泊っていた時、目の前に電話番号がパッパッと浮んできた。そこへ電話せよということだと思って電話したら、国際ホテルのぼくの部屋の番号で、ぼくはこの人が電話をくれることを前以ってわかっていた。それでぼくが「アナン」と呼びかけたら、この人は電話口で自分の過去世を思い出して、ぼくと古代インド語で話したのです。」

「ね、そうでしたね、田中さん」、と。               

                                 

 同じく四月                           

 「前世のカルマ(業)が、そのまま結果となって出てくるとすれば、人類は、とうの昔に滅びているでしょう。なんとなれば、悪を犯さぬ者は一人もいないからです」と、そして「僕が釈迦として死んだ時、一番最初に反省させられたことは、出家はいけない、やはり家庭を持って、「法」を説かなければいけなかったということです。だから、今度は家庭を持ったのです。でも、インドの当時は、出家した人しか「法」を説けないという考え方もあったからです。」、と言い残している。

                                 

 同じく四月

 霊道を開いた直後、園頭氏は信次に次のような質問をしている。それはこうだった。『心の発見』を読んだ時に思ったことは、仏教、キリスト教に関することは書かれているが、日本の神道については少しも触れられていないことだった。日本は仏教国といわれているが、神道を信仰している人も多い。だから、神道の人は救わないというのでは正法ではないであろう……と思ったのである。そこで、「神道のことについてはどうして書かれなかったのですか」と。「いや、今、神道のことを書くと、日本人は神社神道のことだと思っているから、誤解する人がふえる。国粋主義の右翼が騒いで危ない」、と。その時、古神道の神理が正法であると、信次は教えたのである。そして、また信次は「園頭さん、今の天皇家の祖先は中国から来たのです。その証拠には宮中には中国のものがたくさんあります」、と。

園頭氏「とにかく天皇制は中国大陸から渡来して、日本に住みついて、日本民族になった人達の叡智によって創出した政治形態であるが、その根本思想には原日本人の古神道の思想が流れている。それが神武天皇による『八紘一宇』の宣言である。『世界の人類は皆兄弟である』、『各々処を得て安住せしめる』という思想である。宮中に於ける儀式には、原日本人の持っていた思想の上に、中国風のものが加味されているのである。天皇家に於ては、原日本人の持っていた思想と外来の思想が調和されている」、と。

                                 

 五月

 「僕は相手の人が、ぼくにどんないやなことを言っても、自分の心を宇宙大にするから、相手は僕の手のひらに乗って、どんなことを言っても腹が立ちませんね」と言った。

 

 五月九日

 信次が幽体離脱してアメリカへ行き霊的通信をしたことは先に述べた、信次は、大目連の過去世を持つ大谷嘉輝氏へ、手紙を書いた。

 

  「懐しき友よ 遠き古いインドの地で心に法灯を灯したように、今生もまた、縁にめぐり合いたることを神に感謝致します。五年前から懐しき友が、ニューヨークで東洋哲学を教えていることを私は多くの人々に予言しておりました。遂に二十八日、私はニューヨークに行き、心の通信に成功しましたことをうれしく思います。懐しき友よ、心と行いを法に照らし、自己完成に努力せられよ。偽りの我を捨て、善我なる心を育てよ。そして常に、八正道を心と行いの物差しで反省をし、偽りの我を神に詫びよ。そして瞑想せよ。その時に、実在界を通して私達は自由に交信することが出来るのです。自己を信ぜよ、偉大なる友よ。法灯を心の中に灯せ、一秒一秒の心と行いの中に一切の執着は苦しみをつくり出すものだ。一切を法に帰依した時、総ての安住があるだろう。経済の苦は、やがて調和への方向に迎えられよう。今迄の困難は、人生に対する疑問を持たせるためのチャンスを与えたもの。懐しき友よ、勇気と智慧と努力に依って実践せられよ。光明は近し、光明は近し、苦悩はやがて、安らぎの境地に達しよう。自己の完成、家庭の調和、親子の対話。友よ、一歩一歩あせることなく生きて行こう。そして核をつくり、法灯を人々の心に灯して行こう。法灯は種族を超越し、国境もなく、人々の心に調和をつくり出して行くでしょう。やがて人類は、物質文明の奴隷から自からを解放し、人生の目的と使命を悟って行くでしょう。友よ、私達はその日のために、一切の地位も名誉も、欲望も捨て て、人々のために生きて行こう。それ以外に人類は救済出来ないからだ。イエスの愛に生きよう。ブッタの慈悲に生きよう。道は只一つ、法に帰依しましょう。親しき友の栄光を祈ります。また霊的通信を致します。

  昭和四十八年五月九日

    大谷様                  高橋信次 

 

 

ホームページ.gif (1592 バイト)   

 

「幽体離脱してニューヨークへ行って霊的通信を」

「幽体離脱して、つまり意識のままに、エジプトのカイロへ行ったり、シルクロードの壁画を見たり、映画館にはいって映画を…等があった。また、信次は「私が渡辺さんのところへ意識で行った時、ちょうど不確定性原理の本を読んでいましたよ」 と、まったく自由自在。もっとある。月の裏側にもう一つの星が」

「オイオイ、ヨセヤイ 月にもう一つ星が 冗談はヨセ!」

「星々の運行は何百年に一秒の狂いしかない程、キチンとコントロールされている。もし月の向う側に隠れて動く星があったら何んとする。地球から蔭になって見えない星があると言った。大本教の出口王仁三郎もそれらしきことを言っている。この「王仁三郎という人は菩薩界の人で日本の宗教の誤りを覚醒させる使命のあった人」と信次は言い残しているが、九惑星ではなく十惑星の事実も。信次は宇宙全体を見通すことが出来た。」 

「ところで、大目連は古代インド時代の人、そして現代は大谷氏で、ニューヨーク。天眼道第一の人、と。」

「あの世を見ることでは右にでる人がいないと言われた。その人の分身が、あの幕末の坂本龍馬と、信次は言っている。園頭氏は、インドの時代に大谷氏とは親友の間柄。つまり舎利弗と大目連は親友。そこで、懐かしさ一杯の二人は文通を続けた。日本を訪ねた大谷氏と園頭氏は初めて顔を合わせた。それは昭和五十三年十月、長崎の歓迎会でのこと」

「過去世で坂本龍馬といわれた人が長崎に…またどうして偶然にも」

「園頭氏は正法会(後の国際正法協会)の定例会だった。そして大谷氏はアメリカの経済調査団長として来日、その日は観光で雲仙へ」

「なる程、懐かしかったろうナ。そして龍馬は、夢にまで見たアメリカに永住。」

「大谷嘉輝、レイモンド・Yオータニ、と。歓迎会で大谷氏は、こう言った。「私が寝ていたら、ググーッと持ち上げられ浮いたようになり、そのまま私は空の彼方の光の国、へ入って行った。ふと見ると、そこに高橋先生が立っておられた。『大谷さん、これを見なさい』と両手をひろげて見せられた。その中に、私の過去の輪廻転生の全てを見たのです』と、体験を話したのだ」

 そして、不思議にも同じ頃に園頭氏と大谷氏は、信次に出会ったことになる。

 

 五月十三日

 関西本部の定例講演会(開演午前十時)にて園頭氏は、東京から来た人達とはじめて引き合わされた。シャーリープトラ(舎利弗)の過去世を思い出した氏は、この会場で「交叉証明」が行われることになる。昭和四十八年七月一日発行の月刊『GLA』誌よりその様子を要約、転載してみよう。                               

「私達人間は皆神の子であり…中略…偉大なる過去世を思い出された人が出た。その人S氏のご精進に深甚の敬意を…中略…釈迦が出家した時、五人の武士達が父王の命で守護します。その中にアサジという人がいた。アサジの過去世を持つ北原さんと先生の対話がつづく。「私達はインドの頃はゴータマ・シッタルダの最初の弟子として心の窓を…中略…そのインドの頃の私が知っている方が今日この中に来ておられます。その方はウパテッサ(改名シャーリープトラ)という名前の方です。高橋先生は九州から来られたS氏を指さされ、「あなただそうです…ちょっと来て下さい」 と招かれて…中略…と当時のことをいろいろと涙を浮べながらの会話である。…中略…ややあって、先生はS氏に、「あなたはあの婦人を知っている筈です」と東京から来られ…中略…S氏はその婦人の方を見られたとたん「オー、マイトレイヤー(前出、高橋一栄氏)」と呼ばれた。一栄先生の顔も涙に濡れ…中略…この方は「ウパテッサ」といわれた方です。この方はインドの頃は、ナーランダという所に生まれました。そしてブッタに帰依した後はゴーダマ・シッタルダ釈迦牟尼仏の右腕といわれた方です。彼はインド…中略… そしてこのウパテッサといわれる方が後に「シャーリープトラ」と呼ばれるようになった経緯を、般若心経の中に出てくる「舎利子」といわれる方はこの方の名前を、弟子達の代名詞として使ったものである。と結ばれて感動的現証を終えられた。                    

 ある日の関西大講演会の終了後、「インドの時は、みんなに、あの世の極楽や地獄の状態を見せたことがあったのですから、そのうちにいつかやりますよ」、そして、同じく「インドの時は三カ月、ぼくは天上界へ帰って、姿を消したことがあるんです。今度もそういうことがあるかもわかりません」と言っていたが、実現せぬままに終った。

 昭和四十八年のある時、「関東地方の大震災を起こす地下エネルギーは、既に充満しているので、そのエネルギーを分散させるために桜島は噴火を繰返している。そして天上界で地球の気象を操作している」と。そして、「今から一万年前、アトランティス大陸の文明を築きあげた、高度の知識と智慧を持った霊魂達がこれから生まれてくる、いやもうすでに」と言った。 

                                 

 五月二十三日                          

 GLAの東京の会議に園頭氏は初めて出席した。会議終了後、信次は部屋へ何人かを呼び入れた。そして市川のK氏に「あなた、ちょっと精神統一してみて下さい」と信次は言った。K氏は二、三分すると園頭氏の前にパッと身を投げ出して「五体投地」の礼をして「過去世では、色々とご親切に指導して頂いてありがとうございました」と言った。そして、それから園頭氏は信次に別の部屋に呼ばれることになる。そして、突然、信次は「あなたはインドのつぎにはどうしたのか想い出しなさい」と言った。しかし、何も出てこない。とっくりと胸の奥というか腹の底で考え、心に問いかけてみた。そして言った。「インドの次はイスラエルで、キリストの時代、ガブリエルという名で、天上界からいろいろな役目を果たしました」、と言い終ると懐しさに涙するのだった。園頭氏は、ガブリエルについては聖書を読んでいる。その名が、自分の心の中から飛び出して来たことの不思議さに自分で驚ろいた。四月には二千五百年前の釈迦の時代、舎利弗として釈迦に伝え、五月には二〇〇〇年前のイエスの時代、キリストの伝道に天上界より協力したことが想い出したのである。これらの過去世を想い出したことによって、園頭師は、「宇宙即我」の体験は自分自身のこれまでの過去世で習得したものだったと確信するのだった。     

「般若心経の中の〃舎利子〃は、比丘、比丘尼達よ、という呼びかけであった。それが現代の園頭氏で、その後はガブリエルだった。なるほどネ」

「ガブリエルはマリアの受胎の告知に協力し、マホメット(紀元五七〇年、飛鳥時代の聖徳太子の生まれた頃)の誕生から見守り、メッカ郊外ヒラーの洞穴で天使シブリール(ガブリエル)からアラーの言葉を受けたというが、そのガブリエルだった。そして、それより下って、宗教改革のカルバン(カルビン)。近世は、ジョージ・ワシントン(1732〜1799年)そして西郷隆盛(1827〜1877年)だった、と信次は言い残している。」

「ウーム、西郷隆盛か。しかし、すぐには信じないゾ。エーと、同じ魂の兄弟なら、西郷さんは大男、理論家、剛毅木訥、人情家…」      

「園頭氏は、稀有の理論家、著書五十冊以上、ぼくねんじん、涙もろい、男の中の大男…鹿児島、今世は宗教改革、男尊女卑の弊風を改革することにも使命があったとされる。」                  

「まだまだ。エーと、西郷と坂本の関係はと言えば。坂本龍馬の仲立ちで西郷、大久保等と桂小五郎等と薩長同盟…。これはヨシーと」     

「釈迦  舎利弗   大目連の関係は、幕末は桂小五郎(木戸孝允)  西郷   坂本だったと信次は言い残している。そして、木戸(釈迦)は征韓論、台湾出兵にも反対している。また、木戸のみタタミの上で死んでいる、これもまた不思議」

 

 また、信次は「道徳によっては人は救われない」と言った。

「道徳によっては救われない、と?」

「多くの人は道徳的にりっぱであれば、それを人格者といい、そういう人は高い霊の世界へ行くと。しかし、信次の説く正法は、心のあり方を問題にする。例えば、見かけは立派な人格者でも、心の中で、愚痴、怒り、不足の心がウズまいている人は、低い霊界か暗い世界へ。」

「心のあり方を問題にするのか」

「その通り。良い例がある。ここに実際に身体で以って人を殺した人がある。そして、ここに口で人を欺し人を不幸にした人がある。また、ここに実にまじめな人がいて、心の中ではいろいろと思うが、そういうことはいけないと知っているので、絶対にそういうことはしない、まじめな人間がある。この三人の中で、一番罪が深いのは誰か?」

 

花ー0032.jpg (5402 バイト)

 

 

「それはズバリ殺人者」

「ブー、ハズレ!」

「ナ・ナンダ、オイオイ」

「答えは三番目の、いろいろ思うが真面目人間!」

「そんな!」

「この意味がわからないと正法がわかったとは言えない。宗教家にテストしてみると興白いゾ」

「……」

 

 五月、東京の理事会でのこと。信次は「今後どのようにして正法を発展させるか」という議題を提出、意見を聞いた。「高橋先生の教えを正しく伝えてゆけばよい」というだけで、他に具体的な意見はなかった。 正法に帰依したばかりの園頭氏は「今後、各宗教団体の人々が正法を求めてくる。例えば、創価学会の人々には、学会の教義と正法はどう違うか。生長の家の人々には、どこが違うかと講師たるものは説明できなければならない。しかし、他の教団の教義をすぐに知ることも出来ないのなら、元信者に正法をしっかり教育して、各教団向けのその役割に合った専門講師をつくればよい」と具申した。

 そして、ある時信次は

「園頭さん、あなたが鹿児島を選んだのは、鹿児島は日本の中で一番男尊女卑の傾向の強いところである。そこであなたは、大東亜戦争が起らなかったら、二十四歳までに一つの教団を鹿児島でつくって、男尊女卑の弊風を打破して、そうして私のところに合流するということになっていたのです。ところが、大東亜戦争が起ったので、私も悟るのが十年遅れたが、あなたもそれだけ廻り道をすることになったのです」と言った。

 そして、またある時、信次は

「死んだ時、一生はパノラマのように、目の前に見せられる。そして、そこで必ず反省させられるのです」、

「心が暗くなる反省は、本当の反省ではない」と。

 また、ある時

「世界の平和は、まわりくどいようであるけれども、一人一人が正法を知って、心を安らかにし、調和を図る以外にない」、 

 また、信次はよく言っていた。

「釈迦が肉体を持った時は、キリストが天上界から指導することになっている。キリストが肉体を持った時、釈迦が天上界から指導するのです。釈迦の教えとキリストの教えが同じであるのは、そこに原因があります」 と。

                                 

 昭和四十八年

  五月                             

  演題「ブッダと集い寄る弟子達」

「諸法無我という仏教の言葉がございますが、全んど多くの人々は諸法無我という以上は、自分自身も無我の状態にならなければいけないのだという間違った考えを持っております。諸法無我という言葉の諸法は、宇宙の法則、宇宙の神理というものは、私達の住んでいるところのこの地球上一つの、気象的現象やその他あらゆる諸現象を通して見ましても、私達の人間の力によって変えることの出来ないもの、これを諸法無我と言っておるのです。< 後略>。」

                                 

 六月

 GLA関西本部の隣りの一軒家が園頭氏の寄宿舎だった。信次は氏を訪ねて、二人で話をした。信次の生い立ち、インド時代の釈迦の頃のはなし、そして最も大事な〃はなし〃も…。

「もっとも大事な〃はなし〃?」

「そう、「神の配慮に感謝します」と言って、ひれ伏したくなる程の事実。そのことで悩んでいる人に対しては最大のはなむけ」

「勇気を与える事実! 何んだろう」

「モーゼは奴隷の子として奴隷解放を、釈迦は王子、イエスは左官の子として生まれている。信次は日本の悪弊、同和…。」

「エッ、… 神よ! この世に高橋信次という方を、お遣わし下さいまして心より感謝申し上げます…」

「信次は、正法の講演会を開くとき、この地区を重点的に開催場所に選んだフシがある。信次の高弟の園頭氏は、自らの団体の道場を建てるべく、この地区に土地を求めた。ところが地域住民の猛烈な反対によって建設をあきらめ別の場所に建てた。それというのも、隠れ場所の穴倉より尻から先に出てきたり、ガスを振りまいた教祖の問題が出始めた初期の頃で、宗教団体の進出には目くじらを立てて反対されても当然の成り行きであったろう。だが、この地に建設を断念した時、「これでこの地区の解放が遅れてしまった」、と園頭氏は大変な残念がり方だった。このときウエブ・マスターは園頭氏の「愛」に泣いたのである。

 

 同じく六月

 信次は「反省は神の慈悲である。反省によって人の心は浄化される。心に思っていることが、全てそのまま結果として現われるなら、生きている人間は一人もいないでしょう」と言った。

 

 ある時、信次の弟子の一人が、「電車の中に散らかっている紙屑を拾うには勇気がいる。拾うべきかどうか」と、ある人に質問した。質問された人は「掃除する役目の人がいるから、余りきれいにすると掃除をする人の仕事を奪うことになるから、そのままにして置けばいいでしょう」と答えた。ところが、その次の月の講演の中で、信次は、「こういっている人があります」と、その人が言った通りのことを話した。その人は心を全部見られてしまったと仰天した。信次は、「こうすれば、人がなんと思うだろうという、そういう思いを捨てて直ぐに紙屑を拾うのです」とピシッ。その人は冷汗を拭きながら、こうだったと園頭師に話している。また、信次は「自分が運命の主人公である。運命は心でつくる」とも言った。

 

 

花ー0033.jpg (6722 バイト)

 

 

 そして、ある時、

 信次は「関西から青年が出てくる」と言ったが、その後、訂正した。訂正した事実を知っている人は、GLA関西本部の理事数人と園頭広周氏だった。(月刊『正法』百十七号 園頭広周)

「〇△の科学の〇川△法という人は関西・四国の人」

「〇川氏の父・善川三朗氏は、信次の講演を聞いた人。父の感化を受けている〇川氏は、関西から出て来るのは自分だと思ったかも。しかし、信次は訂正した。すでに、生前の信次は、全部お見通しだったのかもしれない」

「これから起る、色々な困ったことを予知していた、と。」

「〇川氏は、〃高橋信次もの〃が二十冊近く。だが段々と絶版されて。他の人の霊言はほとんど一冊というのに、ダントツ」

「信次は〃小諸馬子唄〃が得意で、声は澄み通ってきれいだった。長野訛りの東京弁。信次が出てくるという人が数人いるが、不思議と関西人。全員に信次を出してもらって〃小諸馬子唄〃をやっていただく。そして、生前のテープと聞き比べる。長野訛りの特徴のある〃小諸馬小唄〃しっかり練習していただくとするか。本当にに降りてくるからには、歌の調子、語り、アクセント等が、まったく同じでなければならんからナ。顔も同じように似てくるはず。ある時、ウエブ・マスターは〇川氏の講演会に参加した。最後に『今日の講演は高橋信次の霊示によってなされました』と場内アナウンス。まったく異質のものだった。」                      

                                 

 七月

 講師幹部研修会(於八起ビル)

 「私達が神理を広めて行くのに、一番重要なことは < 中略> ある電気会社の息子さんが、六月十七日に交通事故を起しました。もう一ケ月意識不明のままです。高校三年です。霊視すると、本人の霊は自分の肉体に戻りたいと真赤な炎の中でいっています。だが、戻ることができないのです。頭をやられているので、頭をコントロール…中略…両親が余り甘やかしている。人間は本来、病気とか、経済的、家庭的な苦しみを通して道を求める。しかし、正法というものは、そういう人ばかりを相手にしていてはいけないのです。正法は病気でもない、経済的に困っているわけではない。第一線でバリバリ働いているという人達が本来知って欲しいのです。」                              

                                 

「宗教の真髄とも言うべきことを言っている。教祖をはじめ取り巻きの人々にとってこの言葉はつらいナ」

「まったく、その通り、新興宗教の多くが、不幸と言われる人達の上に成り立っていると言える」

 

「苦しみを縁として道を求めるということもいいことですが、どうしてそうなったか原因を反省しようとはしないで、結果だけを求めようという考え方では困るんです。苦しみがなくても、そういう人に神理を知らせるということが大事だと思います。たいていの宗教というものは、「あなたは何年前から入信したのか」ということを問題にしますが、心のあり方というものは、時間的に古い新しいではないのです。わかってしまったら即座に知ってしまうのです。それが現実的には「園頭」という方でした。生長の家の大幹部だった人ですが、神理にふれて、即座に現象が出てしまいました。こういうように、私の所に来たのが古いとか新しいとかということは問題ではないのです。それだけに正法というものについたならば、自分が実行してみるということが大事だと思います。自分というものはどうしても甘くなり易いものですが、自分にきびしさを持って欲しいのです。

そういう意味からいっても園頭さんのように、荒削りではあっても、自分を見つめてブルドーザーで自分の人生航路の凹凸を直してあの人は来たのです。その位の熱意が、あなた方に欲しいのです。そうしてあの人は偉大性を発見したのです。アニルッタ…中略… 昨日は、落語家の林家木久蔵という人が来ました。丁度、山形から来ていた若い女性がありまして少し後光が出ていたものですから〃光を入れ〃たら、最初は中国語で、後はインドの言葉で語り出して、木久蔵さんは暫くそれを見ていました。彼は札幌の飛行場で待っている間に、売店で『縁生の舟』(改題『心の発見』現証編)を買って読んだそうです。色んな本を買って読んだが、心がこんなに感激した本はないというのです。彼が今まで考えてきたことと同じだというのです。正法を知った以上、人々にも伝えたいというのです。なにしろ本に書いていることと同じことを今、目の前で見たために、さらに感銘を深めたのです。差し当り、身近な人からやりますと言っていました。「私の師匠の林家正蔵という人は、今丁度、テレビで幽霊をやっているんですが、幽霊の話をしている時に師匠の家に行くとゾクッとする。師匠が幽霊のように見える。ああ、師匠はいつでも幽霊がついているのだな、だから顔色が悪いし、少しおかしいんだな」と思うんです。林家三平というもう一人の師匠は一生懸命お稲荷さん信仰をしている。朝晩ローソクをつけてやっているそうです。本に書いてある通りなんです。それで、まず奥さんの方に読ませてから師匠の方に手を打とうと思います」、と。

 

「木久蔵さんのはなしが…」

「木久蔵さんも本を出している。その中に信次のことが…。引用要約してみよう」

                            

花ー0034.jpg (5637 バイト)

 

 

     

 『木久蔵の心霊教室』

「今はもう亡くなられてしまったが、…中略…いろいろ御教示を得たいと予約をし、ある日ノコノコ浅草雷門の隅田川べりにある八起ビルのGLA本部に出掛けて行ったのである。私は高橋氏をたずねるのに、何かごあいさつの手みやげにでもと思い、その頃の住い、武蔵野の三鷹から、中央線で神田まで出て、神田駅のまわりをウロウロしたが、思う進物がなかなかなく、やむを得ず、地下鉄銀座線にのりかえ、終点浅草駅の階段を上り、時計をみると、もう約束の午後一時がすぐであるから、あわてて果物店にとびこみ、オレンジを一箱包装してもらって持参したのである。八起ビルのエレベーターで、高橋信次氏の部屋のある階上へのぼり、係の女の子に応接室へ通された。…なる程、あらわれた高橋氏は、教祖の影はみじんもなく、ジャンバーをはおり、紺のズボンをはき、中年のかっぷくの良い町の工場長といった感じであった。

「ようこそ、いらっしゃい…」                   

「お手紙でずうずうしく面会を申込みまして恐縮です…」

「いやいや、本を読んで、すぐに会いにみえる方はそういません。ものごとスピーディですな…ずい分、ここへくるまで寄られましたな。神田駅のまわりとか、雷門とか、まよわれて…」

「は? えっ!」

「何か持っていかなければと、私にあいさつするんで品物を、買うのに気持ちがせくのでイライラとね。なさいませんでしたか…」

「は、はあ、は、あのこれ、オレンジです…その、まよって買いましたものです。ごあいさつ代わりに…」

「ハハハ、ズバリだったでしょう」

「ハハハハハ」

 木久蔵氏も、恥ずかしいので照れかくしに笑い出してしまったが、内心はおどろいていた。信次が言うには、氏の職業が落語家であるということから興味をもち、その到着一時間前より、念をまとめて霊視していたのだという。テレビの画面でもみているように、行動をながめていたのである。このことから氏はすっかり信次に興味を持ち、機会あるごとに訪ねた。

 木久蔵氏は、ある日ブラリと八起ビルを訪ねた。すると、ヒッピー風の数人の若者たちが信次を相手に、「神を出してみろ」「おいやってみなよ」「転生輪廻だって」等とからんでいた。すると信次は「この者についている悪魔よ、この者から離れなさい!」、と。このようなやりとりがあって、若者は仲間と帰って行くが、その時の様子が記述されている。

 

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

                                 

 同じく八月

 信次は園頭師に言っている。「現在の生長の家の会員の中には、インド時代のあなたの弟子だった人達が、たくさん生まれ変わってきているのです。やがて、集まって来るでしょう」と予告した。

また、信次は次のように言った。

「一回没落したアメリカは、再び復興する。アメリカの復興の源泉は、正法である」と。そして、「光を利用して、遊星間を旅行するようになり、地球人が他の天体に人間がいることを発見するのは百年後」、と。

                                 

 八月十二日                           

  関西本部講習会

 

 八月十六日

 東京本部の講師幹部に対して、きびしい指導があった。東京本部の講師幹部が余りにも勉強しないので、信次は、試験をすると予告をしていた。だが、それに対して反対する講師がいたので、そのことに対するきびしい叱責と注意の内容であった。その中で信次は、「わたしは釈迦牟尼如来としていっているんです。わたしのやることは、すべて天上界で決められていることです。ついて来ないならついて来ないでいいのです。ついてくる人が一人あればそれでもいいのです」と言っている。         

「信次の叱責が…」                        

「そう、その時のテープが残っているが、注意が終った後、信次が「…私の話しは終りです」、すると全員が「ありがとうございました」と。そして、これ以後『こんなつもりでGLAをつくったのではなかった』という信次の苦渋にみちた心情の吐露が」                 

 信次は禅定の指導の時、「身体のまわりに黄金の光の輪を描きなさい」と言った。そして、ある時、信次は「維摩は実際の人物ではなかった」と言った。また、信次は、祇園精舎を寄進したスダッタ(須達多)の過去世を持つ講師のK氏に、「空についた話をしなさい」と命じ、その人は前座に立った。演壇を下りて来たK氏は、信次に、「今の話はどうでしたか」と言った。信次は笑ってうなずいていた。愛の深い信次は、人の前で欠点を指摘する人ではなかった。「よかったですよ」と言う人だった、と園頭氏はいう。 

                                 

 夏

 長野県熊の湯における自主研修会

 「皆さん、あの世などというと、そんな馬鹿な、というでしょうが…中略… この時の講演で金粉が出た。汗がみんな金になる。話す言葉がみな金になって口から飛び出す。あの金をまとめて買ったら大変な金額になる。私は科学者ですからね、こんなことがあるのかと最初はびっくりしたのです。持って帰ってはいかんといったのですが、持って帰った人がありました。私の手から顔から金粉が出る。口の中から一杯出る。「あ、光った」と誰かが言ったとたんに、その金を拾って持って帰ろうと壇上に何人かの人が殺到した。結局、その金は消えましたね。…中略…

 お前の説く神理は、太平洋岸にずっと伸びていくであろうということを天上界から聞いていた。だから現在は、みな太平洋岸です。岩手、仙台、水戸、それから千葉、東京、神奈川、全部太平洋岸ですね。私の本が出てから日本海沿岸からも来るようになった。今度も、アナン(阿難)という人がどこから出てくるか、それから九州からシャーリープトラ(舎利弗)が出てくると、皆わかってしまっていたからです。…中略…私は京都に出ますと…日本ばかりではありませんよ。外国へも朝鮮にも出ています。それがやがて火の手をあげるわけですね。私はインチキな予言はしません。

インチキな予言までして喰わなくても、喰うだけは職業を持っているんですから。金もうけするんならどんなにでも金儲けできますよ。この人はいくら金を持っているか、みなわかりますから、金持ちの所へ行って、病気になってもらって…(笑い)「医者じゃ治らん」とか言って、パッと治してやったらいいでしょう。…中略… 物質化現象したり、手品師の真似事みたいなことをしたり、あんな真似事みたいなことしたって、しようがないですよ。だけど信じますか。私が最初関西に行った時、手強いのがあったんですよ。「この人、治りますか」ドンパアーの人ね。パッとやったら出て来ましたよ。若い女の子でね、盲目で井戸にはまって自殺した女ですよ。それが鬼婆になって、口が耳元まで裂けているのがわかるのですよ。それをパッと目をあけてやった。とたんに、威張り出して「お前の力じゃないんだ」「あっそうか。じゃまた盲目にしてしまえ」私は自由自在ですからね。寒くしようとどうしようと、盲目にしようと自由自在なのです。あの世のね。それだけの権限を私達は与えられているのですよ。最後は「出ます」といって今は治ってしまった。いざりが、こうやって歩いていた人が、パッと治ってしまった人もいる。

「頭が狂っていると言われる人は、ほとんどが憑依。脳がこわれているのなら、見ざる、言わざる、聞かざると同じで植物人間のようなもの」

「次のことばは霊能者とか教祖といわれる人が心して聞かなければならない信次の〃ことば〃である。」

「 私は教えを受けているのです。だから、光を入れるのも自分ではないといっているのもそれなんです。そうしたら、なんで増長慢になれますか。僕がやっているのなら、威張れるのですが、僕、なんにも力がないんですから、こと、神さまのこととなると、素人なのですから、それを教えてもらうのだから、だから私は、これは自分だけの力ではない。次元の異なった世界の協力者によって動かされているんだから、だから、自分の力じゃないんだから、やるならば、そういうことが受けられる自分自身を作るということが大事です。」

…中略… 盲目でなにをやっているのか知らんですがね。Aさんを調べようとしたら簡単ですよ。上から覗いてみると皆わかるんですよ。考えることも、やっていることも。…中略… 宮島〇〇といっても、全国に何人もいますからね。住所、氏名、生年月日これだけ聞く。それで私はいいました。「宮島という人の行った経路を教えて下さい」、と。それがテレビのように映るんです。どこへ行って、どこへいったか。ああバッカスという飲み屋へ行ったな。ここでこういう男と逢って、こういうことを接渉している。それから連れ出されて…山の用水池の…ノミで…そして奥さんに告げて、警察へ、三日目につかまった。

近鉄の爆発事故がありましたネ。あれは、RGというグループで関西を調べてもだめ、中央大学の学生です。県警本部長がお礼に来た。ところが天上界から怒られた。「お前そんな犯罪調査のお先棒をかつぐようなことをやっていると、都会の悪い奴がおったら、そいつらから殺されるぞ」、と。それで例の三億円事件の犯人も僕は知っていますがね…中略…「お前は神理さえ説けばいいんだ」と注意されたもんですから、今は一切お断りしているんです。まあそういうように、次元を超えた世界から教えられますから、わかるわけですね。」

「どうしてわかるんだろう」

「永遠である霊魂には、すべて体験したことが記録されている。だから尋ねればわかる。しごく簡単なこと。信次はその能力を持っていた。」

<中略> 教祖をやっている大西という人、高橋信次君なんてね、僕は六階にいるんですが、受付に来た。相手は新興宗教の金持ちで、私みたいなみすぼらしい格好はしていません。三階の私のところへ案内して来た。「高橋信次さんはどこにおりますか。」私は前にいるのに、私を小使いかなんかだと思ったんですね。本人を目の前にしてそういうのです。「お坐り下さい」高橋信次という人は相当年をとった、格好のよい、髭でも生やした男かと思っていたんでしょう。それが丸っきり、どこかの会社の課長にも及ばない、係長みたいな格好をして出ていくものですから。私のところへ来ましてね。私はそういう時には黙っているんです。向うから話をさせた方が早い。

この項は別掲載しているので「正法の本」の部を参照してください。

 

 

花ー0035.jpg (6291 バイト)

 

 高橋「 私は皆さんに、信じろといったことはないですよ。どうしてだろう、なぜと疑問を持てといっています。疑問を追求してゆくと最後は神理に到達するからです。だから、私は、ずーっと講演をして来ているけれども、最初からすなおに信ずるな、疑問を持て、持ったらもう一度質問しろ、そうして最後に到達するからです。だから、わかったような顔をする必要はないんです。< 中略>

 イエス様がいわれたんです。お前は疑問を持てというからいかん、「信じろ」となぜいわないかと。イエスさまと僕とはちょっと考えが違うんです。そうするとイエスさまは、それでは困る、中途半端になってしまって、信じろといえ、というんです。病気の場合はね、ほんとうはね、信じさせた方が奇蹟が起こるんです。速いんです。信んずる心があれば奇蹟が起こるのが速いのです。私が疑問を持てというのは、どんな疑問にも答えられる力を私は持っているからいうのです。 <中略>

 今までに、口で心という人があったけれども、心にも形があるんだといったのは私がはじめてです。 <中略> 生まれてきたばかりの子どもはね、実にきれいで、まん丸い、それが大きくなるに順って歪ができてくるんです。< 中略> 心が、ハート型に見える人がいる。この人馬鹿にピンク色に光っているな、昔から心をハート型に書いている、これは一体なんだ、あなたはいくつ? すると守護霊が、「この人は恋愛中なんです」と教えてくれる。どんな人ですかと聞くと、その姿を見せてくれる。「あれ、あなたは恋愛をしているの、こういう女の人だろう」と、みなわかってしまう。  <中略> 恋愛している人の心は、実際にハート型になっているんです。 <中略>恋をしている人にはピンク色の後光が出ている。           

<中略>その当時はイエス・キリストはいいません。イマニエルといっていました。私はこの方の指導霊をやっていたんです。だから、その時のことも私にはみなわかるんです。私が肉体を持った時は、イエス様が指導される。イエス様が肉体を持たれると私が天上界から指導霊をする。イエス様は厳しいといっても西洋的なところがあって非常に親切です。ところが、私がイエス様の指導霊をやる時は厳しいのです。だから僕は言われましたよ。お前は自分に甘くて俺には厳しいと。イエス様が、ある弟さんの病気を治してやった。その姉さんを好きになった。「イエス、そんなこと、やっちゃいけない」と、お前、私には恋愛もさせなかったじゃないか、その割にはお前は甘いじゃないか、と言われたものです。今までイエスやモーゼ達が、私に予言したことは一つも違っておりません。私はコンピューターを作っているんですからね。いい加減なことは信じません。 <後略> 」

                                 

「この熊の湯の研修会の参加者は七百名、その内の三百名が生長の家の関係者であった。その中の一人が『生長の家の教えとどのように違うか教えて下さい』というので、研修の二回目の朝食後の休憩を利用して、その違いを説明している。サテ、この時の自主研修は、一斑を百名に分け、七班が編成され、各班それぞれに担当の講師がおり、信次が各班を廻りながら全体的に指導するというものであった。この記述は岩手県T氏の所属する班での録音テープ筆録である。」

「釈迦の時代は記憶抜群のものが、この時釈迦はこのようにおっしゃった、と口伝したものが後世に残されることになるが、どれ程、正確であったか…。しかし現代はテープレコーダー、そして音だけでなく絵もはいるビデオもあって正確無比。」

                                 

 八月二十九日

 信次は、会社の仕事で信州の工場へ行った。コンピューターの端末機器やカセットの量産が信次の事業である。作業場は活気にあふれていた。プラスチック工場を覗いた時、高橋はつよ(三十八歳)の姿が見えない。二週間近くも休んでいた。軽作業なのに腰が立たないとは考えられない。 

「こんにちは!」勝手口から声をかけた。ハイと返事をしたが、体が自由にならないようだった。「お忙しいのに会社を休み、すみません」と苦しそうに言った。はつよの体を信次が見ていると、不思議なことに、寝ているのは、はつよに違いないのだが、八十二、三歳になろうと思われる無精ひげを生やした老人が横になっている。信次は何度も確認した。声ははつよである。信次は思い切って質問した。「いつ頃から具合が悪くなったの」「たしか八月十三日の夜だったと思います。お盆の迎え火を焚いてから、ぞくぞくして、迎え火をたくまで別にどうということもなく、今年のお盆は新盆でした。亡くなった叔父さんにとっては初めての盆ですから、仏壇も岐阜提灯で飾りました」はつよは、間違いなく亡くなった彼女の叔父さんを呼びこんだのだった。はつよは思い出したように、「八月一日は、お墓の雑草を除き、叔父さん、もう少しでお盆ですよ、お盆にはぜひ来て下さいと、心の中でお願いしました」と言った。「あなたが呼んだとき、その叔父さんは本当にきたんですよ」「まさか…」信次は、厳しく「あなたははつよさんから離れなさい」と言った。すると「わしは行くところがない、ここにおいてくれ」、としがみつく。信次はこんこんと言って聞かせるのだった。すると、今までの人生について反省をはじめ、はつよの体から離れてゆくのだった。

                                 

 九月                              

 昭和四十八年九月一日から十日まで志賀高原特別研修(長野県竜王) 

 信次は、弟子の中から九人を選び、インドの釈迦の当時と同じ研修をすることにした。九月二日の午前は信次を囲んでの質問の時間であった。園頭師は、以前、本部講師をしていた生長の家の教義の問題について質問しようと考えていた。「園頭さん、あなたの質問はキリストに答えてもらいましょう」と質問するより早く心の中を読んで信次は言った。信次は瞑想にはいった。「心に愛のない人に、『心の法則』『心と肉体との関係』を教えてはなりません。心の法則は、人が愛の心を持った時に教えなさい。…」と、キリストは信次を通して教えるのだった。園頭師が、最初に見た信次は釈迦の相(すがた)であった。今、眼前に現われている姿はキリストであった。固唾を飲んで顔を見ているうちに、信次の顔がイエス・キリストの顔に似てきた。不思議であった。瞑想を解いた信次が「園頭さん、わかりましたか」と言った直後「モーゼにエホバと名乗って出たのは私ですからね」と。そのとたん、それまで経験したことのない神の権威に打たれて、信次の前に跪いたのである。

 

この項は別掲載しているので「奇跡の写真」の部を参照ください。

 

 

花ー0036.jpg (7435 バイト)            

 

                     

 十月十三日

 十月の信次の講話の要約

「これまでの政治、経済、教育その他の体質を変えなければ、日本は良くならない。それには、「正法」を知った、足ることを知った人達が政治をしないといけない。いつも、生産者が損をして流通機構だけが儲り、いつも消費者は高いものを買わされるという経済機構もよくない。銀行、保険会社には不労所得が多過ぎる。日本各都市の目抜きの所は、みな銀行、保険会社が立派な建物を造っている。「正法」の実践者が多くなったら、正法の実践者の中から政治家を出し、正法の実践者が流通機構を担当し、正法の実践者が教師になる。そして、正法の実践者が銀行、保険会社をやる。そのようにして、日本を正法の国家にしてゆかないといけません」と信次は言っている。

                                 

 十月の大阪の講演会の前だった。「園頭さん、釈迦の三十二相を勉強するのはやめなさい」と信次は言った。三十二相とは、お釈迦さんの特徴は三十二あり、例えば、お釈迦様は舌で後頭部を舐められたとか、お釈迦様の陰嚢は腹の中にあって外から見えなかったとか、耳に穴が開いていたとか、手足に水かきがとかを言うが、釈迦についてあれこれ伝えられてきたものを勉強してもダメ、むつかしいお経の中から釈迦の教えを探ろうとしてもだめだと信次は言ったのである。信次は「わたしが説いたことをそのまま信じれば良い」という大宣告だったのである。

 信次は言っていた。「わたしの本を読み、話しを聞いて、一ぺんでこれが本当だとわかる人は、前世で正法を聞いたことがあるからです」と。

 そして、「わたしは釈迦・キリストの教えが、永い間に歪められてきたので、それを修正し、原点に帰すために生まれて来たのです」と。

 そして、ある時、「アトランチカ大陸は、アガシャによって正法が説かれ、高度の文明の発達した国であった。そこに今の共産思想と同じ思想を持った集団が現われ、正法を説く指導者達を殺した。そのために陥没させられたのです」と。

 そして、ある日、信次は「私がエホバとして、ユダヤ民族に説いた正法は、永い歴史の中で歪められて来ました。それでキリストが出て修正することになったのです。ところが、そのキリストの教えもローマ法王によって歪められたために、天上界からルッターやカルバンを出して、宗教改革をさせることになった」と。

「他力によって救われた者は一人もいない」と、

 そして、「信仰には、心と肉体と経済の調和、健康が大事である」と。 同じく、「やがて医者が宗教家の役目をする時がくる」と言っていた。

 同じく、「園頭さん、この頃なにかあると、高橋先生助けて下さい、なんとかして下さい、という人が多くなって困るんです。ぼくはぼくで、修行しなければならないことがあり、また天上界へ行って天上界の人達を指導しなければならないことがあるし、そういう時に、ぼくの名前を呼ばれると、助けに行かないわけにはならないのですよね」と、

 そして、また「資本主義も共産主義も、どちらも唯物思想であり、神理ではない」と言った。

                                 

 秋、 和歌山市労働会館での講演                 

「不動明王は、正しい心の人々を悪霊から守護する光の天使です。天国のお巡りさんだと思えばいいですね。実在界の秩序を正す役目。不動明王というのは、本来、心の世界で働くものだといえます。拝むものではありません」と信次は言った。

                                 

 十一月                             

  大阪講演「輪廻転生」

「今日は輪廻転生についてお話をします。太陽は東から西へ沈んでゆきます。そしてまた明日……中略…… カールマルクスも、また「光の天使」として出て来たのです。……中略…… 私は一万二千年前、アトランティス帝国に「アガシャ」として生まれました。……中略…… ナイル河畔のピラミッドの一つが、やがて我々の同志の手によって発見されます。……後略……。」

「マルクスも光の天使だったと…」

「無神論の立場をとる共産主義のマルクスも、経済の考察に行き詰まりモスクワに神学校を建てた、と信次は言っている」           

                                 

 『心の指針』

  はしがき

 現代の仏教、キリスト教の神理は、ながい歴史的な過程のなかに埋没してしまったといっても<中略> もっとも、それにはそれだけの理由があります。人間は、五官や、六根に左右されるように一面においてできているからです。< 中略>・・・ された読者は、本書の真意をつかみ、調和のとれた生活と、平和な社会を築くための心の糧とされんことを願ってやみません。         

  昭和四十八年十一月吉日       高橋信次  

                                 

 十二月五日〜七日

 九州で初めての研修会(津屋崎国民宿舎)百二十名の参加。

 研修会二日目の夜、信次は言った。

「園頭さん、インドの時のあなたの兄さんが、名古屋に生まれ変わって出ていますよ」、と。釈迦は、中国に陳、即ち天台大師として転生する。そして、法華経を説いた。天台大師には陳将軍(陳鍼)といわれる兄がいた。この陳将軍が弟・天台大師のために寄進したのが天台山であった。この陳将軍なる人が、園頭師のインド時代の兄であったというのだ。その人は、若松・Tという名で、名古屋に生まれ変わっていると信次は言った。

「園頭氏のインド時代の兄が…」

「その人を中心として、名古屋のGLAはひろがっていた。園頭師は信次と一緒に、名古屋の講演会の時に泊めてもらっている。さすがに将軍であっただけに刀が好きで、名刀を何本も持っていた。」

 そして、宿舎で信次は「園頭さん、如来は法の大筋を説き、菩薩は如来が説いた法を、みなにわかり易く説明するのが使命です。しかし、如来がいなくなったら菩薩もまた、法の根本を説かなければならないのです」、と。                               

                                 

 十二月末                            

 東大阪市、関西本部                       

 演題「魂と輪廻転生」                      

 本年も、この講演会で終ります。皆さんは、我々一人が個の生命として、喜びも悲しみも、<中略> 日本には三つの砲台があると、その砲台とは国を亡ぼす砲台である、と。言いたい放題、したい放題などという民主主義、自由主義の根本を逸脱した無秩序の阿修羅の様相を呈して 、<中略> 心と肉体と経済の三つが調和されたユートピアをつくるために立ち上がらなければならないのです。より豊かな己れ自身をつくり、そして神の国をつくろうではありませんか。

 

花ー0038.jpg (5026 バイト)

                   

                                 

 〈質疑応答〉                          

 < 前略> (質問の時間の終り頃に)

 質問 ノストラダムスの予言について、一九九九のX日についてお聞きしたいのですが。                     

 高橋 あなたに逆に質問します。あなたは自分の家にこれから帰るんですね。家がなかったら困るでしょう。我々はあの世へ行ったらまたこの世に帰ってくるんです。その時、この世、この地球がなかったら困るのです。だから、ノストラダムスがいっているようにこの地球がなくなることはないのです。しかし、天変地異は起ります。<中略>

 過日、天上界から東京に大地震を起こすといってきたのです。十二月一〜五日までということでした。そんなことをされたら三、四百万人が死ぬといいました。そんなことはされてはたまりませんから、我々はそのために桜島をはじめとして、太平洋沿岸の火山地帯、富士火山地帯のエネルギーの分散を頼んであります。東京とか大阪とか、大密集地帯に地震を起こされたら、たまったものではありません。<中略>

 東京 大阪間も時速五〇〇キロのリニアモーターカーに、飛行機より安定した乗り物になります。<中略>

 これから日本の太平洋岸に、新しいエネルギーが大きく噴出するでしょう。その結果、日本の燃料関係は非常に調和され、ガソリンは斜陽化するでしょう。今のように闘争と破壊を繰り返し、神の子としての自覚を失ってゆけば、神の子であることを自覚するまで天変地異も起るでしょう。まだ場所は未定です。                        

「天上界から大地震を起こすと…」

「そう、人間の霊魂は生き通しのものだから、その人の業(カルマ)と原因と結果によって、天変地異に巻きこまれる人があっても仕方ない。悪の想念が集団的となれば、それを浄化することになる。」         

 そして、信次は次のことも言っている。「調和を前提とした妥協は智慧(ちえ)である」、と。夫婦というものは、魂を磨きあう最高の相手であり、仲が悪くケンカばかりせず、魂を磨き合う相手を粗末にしてはならないと言った。                               

関西講演会で、ある人が信次に質問した。「『仏陀』という本を書いた人が、釈迦の再来であると言っていますが…」「それは、あなたが、見えて、聞えて、話せたら信じなさい」と解答した。

 一、過去世の言葉が話せること。

 二、その霊と問答ができること。

   三、その霊が見えたら

 正しく判断しなさいと言った。                       

 そして、いつも信次は「正直者が馬鹿を見ることは絶対にない」と声を大きくして言った。                      

 昭和四十八年のある日、創価学会の聖教新聞の関係者が、信次の講演に来て個人指導を受けた。「あなた達は、このことがバレてクビになるでしょう。しかし、心配しなくてもいい、クビにならないようにしますから安心しなさい」と信次は言った。その人達は本当にクビになった。そこで、信次は池田大作会長に手紙を書いた。「あなたは、なぜ、私の話を聞きに来たぐらいでクビにされるのか。あの人達にも妻子がある。それをクビにして、一家を路頭に迷わせるようなことをするのは、慈悲を説く宗教家のすることですか。あなたは〇月〇日、ハワイのホテルの〇〇号室で、北條という人と秘密会談をしていた。わたしは、あなたのことをみな知っている。クビにしたことを取り消しなさい。しないなら、私にも考えがあります。」と。その人は復職したが、左遷された。ところが、その話が創価学会会員の間にひろがり、脅迫状が来始めた。そのことを警戒して、青年達を警備に当らせたことが三回あった。    

 そして、また信次は「神を知りたかったら、大自然を見なさい、自分の身体を見なさい」と言っていた。                  

                                 

 昭和四十九年(一九七四)

 一月六日 新春大講演会(神田共立講堂)

 一月十三日 関西本部新年講演会

  演題「心の本質、宇宙即我」

 ようやく私達も全国的に人々の心に普遍的な法灯を点ずる機会がまいりました。しかし <中略>「南無妙法蓮華経」、これも毎日一万遍唱えると、救われるんだというのです。世界でこれで救われた人は一人もおりません。救われたように錯覚しているだけです。< 中略> とかいろいろな予言書が売れていますが、それも人間の危険を察知して心が淋しくなっているから、ああいうものが売れるんです。< 中略>

 皆さんは三途の川という言葉を聞いたことがあるでしょう。それはこの地上界で体験して持った執着を流し捨てる場所なのです。執着を捨てないと彼の岸へ渡れないのです。<中 略>今すぐ死ねるという人がありますか、一人もいないでしょう。 <中略> 自力によって自分自身の心が満たされ、< 中略>執着がなくなります。人委せで他力ではないんです。我々の心が豊かになると皆さんの後光が大きくなって、初めて宇宙即我、自分は神の子でということを自覚するようになります。 <中略> この地上界はどんなに多くても、九十億の人間しか住めない。だから、この地上界に生まれてきた縁を大事にしなければならないのです。(平成十年九月、世界の人口は六十億ほどと報じた)

 

 同じく一月

 九州の宮崎郊外の国民宿舎で、三百人ほどの希望者による研修会(二泊三日)が開かれた。参加者の八割は不調和な地獄霊と交渉を持っている気の毒な人々であった。T・Y(六十歳)は夫や子供をつれて、神戸から来ていた。二十数年にわたる信仰歴を持っており、彼女の下には折伏された多くの会員がいた。しかし、これまでの信仰を捨てようと決意したのは、肉体の故障だった。憎しみ、怒り、嫉妬の想いが心の中にふくらんでくると、入院していても、きまって関節の痛みが激しくなった。Yは夫の介助によって研修会に参加したと信次に挨拶した。信次が霊視すると、誤った信仰のため、体はガタガタで、背から腰、足の関節にかけて、地獄霊が憑いているのがみえた。信次に絶対の信頼を持たせるために、信次は即座に関節についている動物霊を取り除いた。「お父さん、痛くない、歩けるわ、不思議や」と、夫も妻の奇跡を目を丸くして見ていた。こうして信次の説く法にはじめて傾いた。「Yさん、あなたが不調和な心で持てば、また別の地獄霊が憑依しますよ。心の在り方を正すことが大事です」と信次は言った。「不調和な心とは、どんな心ですか」とYは尋ねた。

「怒り、愚痴、ねたみ、恨みの心です」

「わてらは、感情むき出しの生活だったんや。これはあかん。でも愚痴はどうして悪いんですか。心の中のしこりを取るには一番…」

「愚痴は自分の欲望が満たされない時に出るもの、これは心の中に垢をつくり、他人の心にも毒を食べさせる…。」

「大自然を見て下さい。それは私達にこのように生きなさいと教えています。… 感謝の心は、報恩という行為で正しく輪廻するのです」、と信次は説くのだった。

 

             「迎春」 

                         高橋信次

 

 めぐり来る初春楽し朝の夢 

      光り輝く友の姿が

   正道の光に満ちて目ざめたり

    年たちかえる元朝の夢

 年を経て心の道に迷いなば

     法を頼りに正道を歩く

 暖かき陽ざしの如くへだてなく

  己が慈愛を友に施せ

 苦しみの因断ちきりて暗きより

  光輝くおのが心に

 

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

 

 昭和四十九年一月二十七日

  鹿児島講習会

 

 二月

  東大阪市関西本部に於ける講演

   演題「お経について」

 今日はお経というものについて話してみたいと思います。私達は永い歴史の中でお経<中略> お経というものは、今から二千五百年前、ゴーダマ・シッタルダーが四十五年間に、もろもろのサロモン(比丘)、サマナー(比丘尼)衆生達に説いた一つ一つの言葉であり、神理である。それが後に、お経になってしまったのです。それを後の坊さん達が、お経はあげるものと言ってしまったために、今のようになったのです。お経を見ますと、はじめに必ず「如是我聞」とあります。これは「私はこのように聞きました」ということであり、大事なことはお経の中身をよく知って、自分自身の心と行いの指針とすること、それが本当の信心。お経を毎朝毎晩あげることは、大きな間違いなのです。弘法大師が「般若心経秘鍵」というお経の中に、「私は霊鷲山においてブッダより法を聞いた(註・過去世で)そのために般若心経を説くことができる」と  <中略>

 玄奬三蔵は何んとかしてその真実を知ろうとして、遠いインドのナーランダという所まで十七年間もかかって経典を取りに行きます。その時に「大般若経」を持ってまいります。その大般若経の中身を圧縮して、そのエキスを取ったものが「般若心経」なのです。一方において、金剛智三蔵といわれる人がおりまして、密教というものを勉強し、人々に道を説いております。しかし、さすがに玄奬三蔵も「摩訶般若波羅密多心経」という当て字を使わざるを得なかったというのは、この中に含まれている偉大なる神理というものを、中国の言葉では簡単には表現できなかったからなのです。「摩訶」というのは「摩訶不思議」という言葉を使っているでしょう。「摩訶」は「大、大いに、偉大な」で「これは大いに不思議だ」というのを「摩訶不思議」というのです。< 中略>  マハー・バラモン、大バラモン、この際にもマハーを使います。   <中略>   「般若」というのはインドの言葉で「パニヤー」、「智慧」のことです。

知識というのは、皆さんが耳を通し、目を通し、体を通して体験したもの、あるいは学校などで聞いているもので、それを心の中に知識として蓄えております。皆さんが学問的に学んだもの、また、こうして私が説いている道、それを頭で覚えて知識となっているものを実践した時に、そこから出てくるものが智慧なのです。つぎの「パラ」というのは、行くとか到達するという意味で、この意味にあてはまる中国語がなかったので、「波羅」という字をつくってあてはめたのです。< 中略> 「密多」、これも当て字です。「内在する」ということです。心の中に内在するということです。直訳いたしますと、「マハーパニヤパラミタ」というインドの言葉は、即ち「摩訶般若波羅密多心経」というのは「内在された偉大なる智慧に到達する心の教え」ということになります。「内在された偉大なる智慧に到達する心の教え」というのは、皆さん自身の心の中には、あらゆる転生の秘密が、その宝物が、誰しもあるのです。皆さん、お寺へ行かれますと多宝塔というものがあるでしょう。多宝塔は皆さん自身の心の中にあるのです。< 中略>

多宝塔というのは、石やなにかでつくったああいうものではなく、皆さん 自身の心の中にそのような偉大な智慧があることを現わしたものであるということを知って欲しいのです。<中略>

 やがて私達は、この肉体舟を捨てなければならない死の時がきます。人間自身が神理を知ってあの世へ行くならよいが、他力本願という永い歴史の中で地獄界に落ちた人々の霊が、心というものが、不在で一生懸命に拝んでいるような人達にパアッと憑依する。この頃、日本人に外国の地獄霊が憑依するようになってきました。ペラペラと外国語をしゃべりますが、よく見ると外国人の地獄霊ですね。今までは外国人の地獄霊が出たなどということはなかったのです。最近では地獄でも大分外国語が流行しているようです。(笑い)

 

「外国語でしゃべると過去世の霊があたかもしゃべっているかのようで」

「キリスト教会などで異言をしゃべるという記事があったが、正しく見ることが大切」

 

 霊媒とか、拝み屋さんとか、そういう人達も芝居が上手になりました。東北地方で育って、東北弁しか知らないお母さんの霊を呼び出してもらったら、その霊媒を通して関西弁でしゃべっている。ところが、聞いている人はそれが芝居だということに気がつかない。おかしいことであるのに、聞いている人は真剣に思ってしまう。<中略>

 正しくものを見るには、霊感者、霊能者といわれる人達の、まずその人の生活行為を見ることです。一つ一つ、正しく語っているか、正しく生活行為をしているかなど、そういうことは確認せずに、「あの人、霊感があるのよ」、はなはだしいのになると、「うちの教祖、今日はご機嫌が悪いのよ」、「お賽銭のあがりが少ないからなんですって」といったりします。そういう婆さんに十万人も信者がいるのですから、日本人は余程間抜けです。そういう所でまた救ってもらえると思っているんだからおかしいものです。<中略>

 色不異空  空不異色   色即是空   空即是色、 これをつなげてゆきますと輪になります。円になるということは(循環)、転生するということになります。空(あの世)、色(目に見える世界・この世)…この世とあの世は別のものではない、一体だということです。不二一体であるということ…<後略>

       

 〈質疑応答〉

 質問 脳軟化症で亡くなった人の死後は?

 高橋 脳軟化のままで亡くなったり、また胃癌とか肺癌とか、いろいろな病気で亡くなった人は、その病気のままの意識を持ち、不調和な肉体を引きずったままで地獄界におります。そして、自分で死んでいるにもかかわらず、まだ死んでいないと思っております。先日、ある地獄霊が、五年前に亡くなっているにもかかわらず、兄弟達に憑ってきて、「私は誰でしょうか」というのです。その人も脳軟化症で死んだのだということでした。 <中略>

 たまたま先月、私の軍隊時代の学校の同期生が大学の先生をしております。中学三年生のときに亡くなった一人娘さんの霊を出しまして、その人の前で話をさせました。お母さんも大学の先生ですが、教育のことについては徹底していまして、その娘さんは死んでもまだ、試験に遅れてしまう、友達におくれる、私の病気は治るの、助けて下さい、私は死にたくない、と言っておりました。あなたは、死んでいるんだと言うと、死んでいないと言う。このように、人間は、死んだその時の等速度運動というのを起してゆくのです。即身成仏できるような人達は、正しい心の行いのものさしをもって生活していた人達です。お経をあげたら即身成仏できるなど、そういうことは絶対にありません。

「即身成仏だといって、もぐらのように土の中に入る人がいるが…」

「とんでもない、即身成仏とは、死んでしまったら、すぐに死を悟りあの世(天上界)へ帰ってゆくことの出来る人」             

                                 

 質問 自分はなぜ、今、ここにあるのでしょう。

 高橋 人間はあの世から出てきたのです。色心不二、色即是空の世界、実在の世界です。内在された偉大な智慧の宝庫を自ら閉ざしてしまったから、なぜ今ここにあるのかがわからなくなったのです。お父さん、お母さんというのは、永い転生輪廻の中で親子であったり友達であったり、親しい間柄であったり、縁というものによって結ばれているのです。その縁を通して今度、肉体を持つ時に、あなたがお母さんになって下さいとお願いするのです。たとえ不義の子でもいいんだ、その中で私はその疑問の中から悟りを開いて自分自身を知って、多くの人を救ってきますという人もいるんです。そして、また肉体的欠陥を通して人生というものを悟ってゆきます。< 中略>

 質問 自殺した子供は、やはり地獄界か?

 高橋 夏であったのに、寒くて寒くてしようがないというご婦人が個人指導に来ました。体温計では三十六度四分、でもひざ掛をかけても寒いというのです。自分自身が親からもらった肉体を、自分で縮めてゆくということは非常に哀れなことです。可哀そうなことです。動物霊や地獄霊に憑依されている霊能者がおります。そういう霊能者の書いた本などを読んで霊能狂、心霊狂になってしまったら困ります。ところが動物霊や地獄霊に憑かれてしまうと「死んでも生命はあるよ、死ぬことは少しもこわくないよ」などと耳元で囁きます。そうするとフラフラと自殺したくなるのです。あの世からこの世は見えるが、この世からあの世は見えません。中には悟って見える人もおりますが、そうでない場合は、動物霊や地獄霊がいっているのです。見えないために、神様がいっていると思ってしまうのです。神理を知らない子供達が自殺してゆくということは、当然、地獄界へ行きます。死んで自分の家に帰ってみても、今度はお父さん、お母さんと話しができない。ですから、そういう人達を救う方法は、死んでしまったのだから仕方がないから、よく人生の目的と使命ということを悟らせて、早死にをしたことの罪を詫びさせ、彼に行くべき道を導いてやることが大事です。  <後略>                      

すると、イエス・キリストを名乗る人が何人もいるんです。髭を生やした人、それから、少し面長な人とね。声も違う、アクセントも違うんです。それで、本体と五分身の関係がわかってきた。<中略>

 それで私が、昭和四十三年七月一日に自分自身が何者であるかがわかった以降は、ドイツ語でアインシュタインが出てくるのです。鼻の長いのが出てきて、むずかしい数学を解く、俺は一体なんでこんなことをしなければならないのかな、と思ったりした。僕の本の中に、相対性理論が出てきたり、次元の差という説明があるのは、アインシュタインから教えられたのです。アインシュタインが、自分の法則には手落ちがある。振動、ブランク常数というもの、人間の脳波の振動も、振動という一つの現象となって伝わってくる。そうすると、それにおける、仕事を為し得る能力というものは目に見えないが、エネルギーが起る。みな、そうやって教えられたものです。文学的才能ゼロの男が、二十日間で原稿用紙四百六十枚、『餓鬼道』(改題・『愛は憎しみを越えて』)を書いたのも、みなそうやってです。「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ」、冗談じゃありませんよ。それでみな地獄へ行っているんですから、大体、坊主は生きている人を救うのが本来の役目でしょう。それを香典の額などといったのではたまったもんじゃないですよ。 <中略>

 坊さんが、どんどん、病院に出入りするようにならなかったらダメ。今、死なんとする時に、「あなたは今から、この地上を去るのです。心をきれいにして行きなさい」というのが当然のこと、それを死んでからお経をあげるなんて馬鹿げたことで、これは今までの宗教の大きな間違い。<中略>

「アインシュタインが出て来て教えた…と」

「そう、信次の『心の発見(科学篇)』の中の〈色心不二とエネルギー不滅の法則〉、〈神仏と人間〉、〈色即是空の原理〉に示されている数式はアインシュタインに教えてもらった、と信次は言っている。そして、昭和四十八年九月一日〜十日までの特別研修の休憩の時に、信次は次のように言っている。『私の相対性理論は不充分でした。こっち(あの世)へ帰ってきてわかったのです』と頭を下げるのだよ、と。

 一九二二年(大正十一年)の十一月に来日したおり、アインシュタインは日本人に次のメッセージを贈っている。

  世界の未来は進むだけ進み      略

  最後の戦いに疲れる時がくる             略

  世界的盟主をあげねばならない    略

  あらゆる国の歴史を抜き越えた    略

  世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る

  それはアジアの高峰

  日本に立ち戻らねばならない                  

  吾々は神に感謝する

  吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを…      

                    (A・アインシュタイン)

                                 

 今まで、あの世へ帰ってすぐ「やるだけやったぞ」という人はいませんね。最近では外人であります。ヘレンケラー(三重苦の女性の聖者)「やるだけやりました」といって天上界へ帰ってきました。それからシュバイツアー、エジプトで治療に従事した。この人達は菩薩界の人達ですからね。こういう人達は使命を持って出られた人です。 日本では、例えば総理大臣であっても、「私はやってきました」という人はおりませんね、私の所へね。東急の専務が訪ねてきた。「私の親分と話をしたい」と。五島慶太かなと思った。当然でしょう。東急の専務ですから、ところが違ったんです。その親分という人の意識を僕の身体に入れた。ドカンと身体が重くなった。声が出ない。その内に少し声が出るようになった。「マサヤン、お前さん、よくたずねてきてくれた。」僕の声じゃないんです。〇田〇人総理大臣です。日本を救った、日本を救った、と言っていますが、地獄界です。その前の総理大臣も地獄です。地位や名誉は関係ないといっているんです。 <中略>

 貧乏人だから、といっても恥かしくないんだよ。いくら地位が高くっても、大臣でも地獄にいるんだから    <中略>

 地位が上の人ほど地獄にいますね。欲望で一生を過ごすから、あんな水呑百姓が、という人が天上界へ行っているんですから。大久保彦左ェ門ね、びっくりしましたね。菩薩界できれいな光を出している。僕のところへ来ましてね、「大久保彦左ェ門めにござります」、日本で有名な坊さんで、菩薩界へ行っている人は少ないですね。日蓮さんもね、永いこと自分から地獄界におった人ですよ。菩薩界に入らなかった。自分の蒔いた種が、その後、多くの大衆を狂わしてしまったという責任を負ってね。あの人は、あの世では知らない人はいませんね。あまりにも有名で、謙虚なんです。今の創価学会のやっているようなものではないですよ。心のきれいな人達は、例え貧乏でもりっぱな人がたくさんいる。だから金額の高さや地位が人間の値打ちを決めるんじゃないんです。<中略>

 某氏 今世でだめなら来世で、来世でだめならまたつぎの世で、という気持ちですね。

 高橋 しかし、この地上へ出て来れるかどうか疑問ですよ。たくさんの霊が地上へ出て霊の勉強をしたいと待っているんですから。私は七八〇年後にもう一度、地球上に出ます。それからまた、他の天体にも生まれます。その天体もわかっています。この地球は、七〇〇年位には調和されるからです。ユートピアになるからです。その時は、今のような公害は一つもなくなります。そして、今の日本は気候が変ります。現在の、アフリカ、南アメリカ、それからインド、この方面は、現在の日本と同じように、春夏秋冬が最も調和された国になります。そして、アフリカの大西洋岸のところに大きな宇宙ステーションが出来ます。そして、他の天体と自由に交通するようになります。そういうようになっているユートピアに、私達は生まれてきます。七八〇年後です。その途中において、かつてイエス・キリストといわれた方がアメリカに生まれます。シカゴという処へ生まれます。その時にみなさんは、天上界にいて協力するのです。天上界からこの地上界を見て、またあんなことをしているということになっているのです。

 某氏 シカゴへは本体がでられるのですか。

 高橋 本体です。分身の方はフィリッピンに出ておられます(故アントニオ・アグパオア、通称トニー、心霊術者)。科学に周期律というのがありますね。この物質の周期律と同じように、霊の周期律もあるのです。我々の生命も、やがてはあの世へ帰ります。< 中略>

 イエス様は、十字架に掛けられた時は、自分の霊は、自分の肉体が十字架に掛けられたのを見ておられたのですね。その当時は、イエス・キリストとはいわず<後略>

 

花ー0040.jpg (5047 バイト)

 

 

                                 

 四月六日

 神田共立講堂に於けるGLA五周年記念講演会  演題「自力より他力への道」

 

「丁度、昭和四十三年七月、信じられないような霊的な現象、本来私は、霊的現象という<中略> 夜の十時頃から私達は肉体から抜け出し、向うの仲間達にその道を説いております。一方において、もうすでにニューヨークに於ても、我々の仲間が呱々の声を上げようとしております。そして、これからは、むしろ日本よりかアメリカに私の説いている神理は広がっていきます。しかし私はあくまでも、自分が説いているのではありません。私は代弁者なのです。我々は急がずとも徐々に人間の普遍的な神理を、心の物差しとして、心の中に法灯をかざして行くようになるでしょう。その為に、我々はすでに台湾方面にも我々の仲間が呱々の声をあげました。私達は一面識もありません。  <後略>」

         

 四月十日〜十二日 

 宮崎、青島国民宿舎に於ける研修会。

 国鉄のストにより参加者が減ることが心配されたが、全館貸切りの超満員となる。「霊友会」から分派した「霊〇会」という教団が神戸にある。その教団から二十名が参加した。信次は、会長の次という人に、その教団の会長に憑いているものを入れさせた。

「わたしは古狐でござる、女性を抱いて、金を集めて、金というものはいいもんじゃ」と、その人の顔は、全く狐に変わり凄い形相で、その教団の二十名の信者達は茫然自失の態であった。研修会の二日後、四月十四日の関西本部の講演会には、その霊〇会の会長も来たが、金銭的な執着が強く、話を聞くだけに終った。

昭和四十八年七月に正法に帰依し、この研修会に出席した福岡のI氏は次のように語った。六人ほどで信次の部屋を訪ねた。I氏の番になった。信次は半眼になって、氏の想念帯を見ている様子だった。氏は事故の後遺症の為に腰痛に悩んでいた。何も言わないのに、信次は「三十六年にありましたね。『一日一生』の意味を良く考えなさい」と言った。事業をしている氏は、机の上に山のような仕事を残して研修会に出席していた。信次は「沢山の仕事を残して…。『一日一生』です。事故の日はいらいらしていましたね。八正道からはずれるとまた悪くなりますからね」、と言って光を入れた。光を入れた信次は「フィリッピンのトニーだったら、四十万円はくだらないでしょうがね」と笑っていた、と。                                              

 昭和四十九年五月二十三日 二日市(福岡県)

「こうして九州への講演も佐賀県では丁度三回近くになり、当地でははじめてでありますが、およそ信仰なんて言うことになりますと、非科学的な何かをおがませるんじゃないか、或いは、そういう一つのお経を上げて、先祖を供養したり、偶像を祭って拝むことが信仰ではないかと、恐らく多くの人が感じているのではないかと…  <中略>   信じようと信じざるとにかかわらず、真実の人間の心の声というものは、人間は見逃すことは出来ないのです。永遠の生命として人間は誰も皆、神の子なのです。人間は金の高さや地位の高さによって価値が決まるんじゃないのです。人間らしく生きている人達こそ本当の神の子なのです。足ることを忘れされ、自分さえよければ良いと生活している人達は、やがて自分の首を自分がしめるようになっていくのです。…幾人かの人達を通して実験してみましょう。」 そして転生輪廻の証明へと入っていった。             

  六月

 京都、中心山荘に於ける研修会

 「私は二十年近く冷え性で困っています」と。信次は婦人の後ろに、白い着物をつけた修験者が立っていた。「あなたは二十年くらい前から厳しい肉体業をしましたね」「そうです、滝業もやりましたので冷え性になったのです」と言った。地獄霊は信次の声を婦人に聞えないようにしていた。憑依している修験者に信次は言った。「この女性から離れることです」と言った途端「滝業をしているのを見て、力を貸して協力するのがなぜ悪い」とくってかかる。「お前自身が地獄に堕ちていて、この女性を救うことなどできぬことだ」と信次は言った。お前は生前、家族を放り出して、家族の者を路頭に迷わせ、修業中に谷底に落ちて死んだのであろう、と信次の口からつぎつぎと厳しい言葉が出てくる。信次の守護霊の言葉であった。「光が強くてお主を見ることができん」とひれ伏してしまった。「救ってやりたいと言っているが、本当は自分の行く場所がないので、憑いているのだろう」と言うと「わしも救われたいのじや、この寒い場所から救って下さい、この通りじゃ」と地獄霊は言うのだった。

「お前は働くことがいやで、家族の生活を見て見ぬふりをした。家族に温かい言葉すらかけたこともない、違うか」と厳しく信次は言った。「よし子、許してくれ、父ちゃんは悪い父ちゃんだった」と修験者の心に仏心がよみがえって来た。婦人の体を通してわんわんと大声でないている。「今、肉体をかりている女性に対して、今まで狂わして来た罪についてはどうか」、「許してくだされ、神だ、竜神だと言って迷わせて来ました。今までの罪を許してください」と、婦人は一人で二役を演じていることに会場は不思議そうに見ていた。こうして修験者は婦人の体から出て行った。彼女の顔は赤味がさし、「カイロが入っているように暖かい」と言った。「地獄に堕ちた修験者でしたよ」と信次が言うと「ヒャー恐ろしい」と言って、信次に頭を下げ降壇するのだった。

 

 

 

                                 

 「月刊GLA」昭和四十九年八月号にみる当時のGLAの状況

「お願い、最近、会員同志で意識に光を与え霊道を開く例が多くなっています。これは非常に危険であり、絶対にやってはいけません。霊道開眼 は、先生しか出来ません。守護霊か魔王かの見分けが普通では出来ないからです。光を与えないのに霊道現象が起った場合は必ず本部に連絡して下さい。そして先生のご指示を仰ぐようにしてください」と注意書きがなされた。

「困ったことが多発したんだネ」

「これは、一般によく知られている『手かざし』や類似の行為によって『浮霊』等と呼ばれ、霊が突如として出てくることがある。その霊が守護霊か地獄の霊かの判断がつかないので厳に戒めたのだ。信次はいつも、その霊が『見えて』『聞えて』『話せる』なら信じなさいと言っていた」

 

 八月二日

 志賀高原・熊の湯温泉における夏季講習会

 遠くは北海道、九州、沖縄方面から大学教授、医者、裁判官、芸術家、商人、工員、教師、実業家、主婦、サラリーマン等が集っていた。中には論戦を挑んでくる人、面白半分の人もいた。しかし信次はどんな気持ちで研修に臨もうと一向に差支えなかった。人間の真実な在り方の一つでも二つでも理解してもらえば信次は満足だった。超満員だった。信次は会場を肉眼と第三の眼で見る。不調和な者が多いと正直なところ気が重くなっ た。講演は二時間半に及んだ。この日は「人間はどこから来たか、どんな目的と使命を人間は持っているのか、死とは何か」というものだった。しばらく休憩してから質問の時間に入った。五十ほどの小太りの夫人が手を上げた。

「先生、私は幼少の頃から神様の声を聞き、不思議な現象を経験しましたが、『心の原点』(信次著)を読んでから、私の神様に疑問を持ってしまい、肉体的にも精神的にも苦しいのです。どうぞ教えて下さい」とS・K子はうつむき加減にボツボツ話した。「今も体がしびれています。救って下さい」と手を合わせた。「あなたは小さい頃から、屋敷の中のお宮を拝んでいたようですね」「はい、私の耳元で、稲荷大明神であるぞ、守り神じゃ」と言っていました。「お母さんも熱心に信仰していましたネ。」、「ハイ父が亡くなりましたので、母が受けついで信仰して来ましたが、十八のとき亡くなりました」と答えた。「なぜ早死にしたのです」、「信者の悪い業を受けて…、と神様がいいました」、「ハハァ、あなたの神様がね」と信次が言うと、会場から失笑がもれた。「Sさん、お母さんは感情の起伏が激しく人格がかわりましたネ」、「ハイ、神様が母にはいる時は、母と思いませんでした」と言った。そして「私は何も悪いことはしていません」、「あなたは善悪の規準をどのようにしていますか」と信次が言うと、夫人は急に感情を高ぶらせ、ひらきなおった。「私を指導している神様は本物なのでしょうか」と目をつり上げた。信次は自分で確認してもらうことにして、Sは壇上にあがった。「神様を入れて下さい」と信次が言うと「そんなことはできません」と言った。しかし、その内に合掌した手が上下運動を始め「ホー、ホー、ホー」、「ホーホケキョ」とうぐいすの鳴き声で出て来た。

彼女はうぐいすの神様がついているというので新潟方面で知られていた。「ウグイスの霊ではない」と厳しく信次が言う と、「稲荷大明神じゃ」と言う。「稲荷大明神でも何んでもない、ただの動物霊」と信次が言うと「この馬鹿女、こんな所へ来るなと言ったのに」と本性を現わしてきた。「俺はこの屋敷に住んでいる狐さ、この家の先祖に殺された。そのうらみをはらすために、この女を一生苦しめてやる」と狐は涙を流し始めた。「百年以上も、この一族のものに、うらみを持ち続けても、お前の心は休まるか」、と信次はその是非をいいきかせた。「お前の気持ちもわかる。住みかを追われ、子どもを奪われたとしても、お前より弱い他の動物たちにお前がそうしなかったと断言できるか。許すことだ、無慈悲に殺生した罪はたしかに悪いが、許すことによってお前も救われ、相手も前非を悔いることができよう。許すことだ」と信次は誠心誠意こういってきかすと、彼女の背後にしがみついていた白狐の姿は消えるように去っていった。狐が去ると、彼女は顔に赤味がさし、体がポカポカしてきた。「白狐でしたネ」夫人は心の中で神様を呼んでみたが、答えが 返ってくるはずもなかった。そしてSにそれから心の正しい規準を説き、正しい反省の生活をするように話した。するとSは信次に感謝の意を表わし、一礼すると会場に消えて行った。

「白狐が百数十年も、うらみを持ち…」

「一寸の虫にも五分の魂と云うが、信次は動物霊、特に狐について次のように言っている。狐にも魂がある。うらみ、つらみは人間ほど感じないが、蛇とか狐の場合は、地球上での生活経験が永いので、他の動物たちより人間に近い感情を持っている。人間より単純ではあるが、奸智(悪る知恵)が働く場合がある。しかし、しょせんは動物的で、本能的であり、本能の命ずるままに生きている。動物が憑依する場合は、大抵は狐が憑く、人間の意識を通じて話すので、まるで人間が語るような調子になってくる。」

「なぜ、日本の霊的現象には狐が多いのかナ」

「それは稲荷信仰が多いからであると信次は言っている。稲荷大明神はあの世の天使の役柄である。決して狐ではない。五国豊饒の神として地上の善なる人たちを助けたり、商売繁盛にも力を貸してくれる。もちろん、天使が直接手を下すというより、天使の手足となって働く狐たち(使い姫)がその役になっている。そのため、お稲荷様を拝み、念願が叶ったら礼をいい天使のもとへ帰ってもらえばいいが、人間は欲が深いので、社をつくり年中頼み込むということになる。その内に動物の本性を現わし、怒り出し家の中を不調和にしていく。外国には蛇の信仰が多いようだ、と。」                                 

 昭和四十九年九月

 演題「釈尊の成道」

「…前略… 氏神様にお参りするのは当然だ。何を邪魔するのだ。このようなことを言って押し問答があります。不思議なものですね、神社がこのように汚れているもの…後略…」         

                                 

 九月

 千葉の教育会館の講演会が終り、信次を囲んで二十名程で夕食会が催された。講師の一人、渡辺泰男氏も出席した。ふと、信次が「GLAの三大事件というのがありましてね」と話し始めた。「先づ、去年のI事件」それは、この一、二年で男性の有力な過去世を持った人が出てきた為に、それまでは現証指導というと、華々しく活躍していた女性が、ひがんだか、ねたんで起したトラブルである。「次にW事件です」これは信次の分身と過去世で兄弟関係にあり、ある地方本部の設立に大変功労のあった人だったが、ワンマン社長の性格丸出しで、運営上、将来に問題が残りそうだというので信次がうまく処罰した件である。「で、三つ目は」「はいそれは、あと二年半すると(註・昭和五十二年・後述)起ります。前の二つとは比較にならぬ大事件です。そして、その事件を通じて、本物とにせ者とがふるいにかけられるのです」と予告するのだった。                                 

「昭和五十二年頃に起こる、本物とにせ者がふるいにかけられるGLAの大事件とは」

「別の項で詳しく述べている「その後のGLA]のことだ。信次も心を痛めていたのだろう。まったく驚きだ。」 

同じく九月

 九月二十日から二十二日の盛岡の研修会に渡辺氏は信次のお供をした。信次たちの車が長いデモ行進にさえぎられ、幾度となく進行をはばまれた。あの、人を惹きつけずにはいない温顔の信次が、顔をしかめて、「困ったことですね」「闘争のなかに調和はありません」と独言のようにつぶやいた。

 盛岡の研修会は、はじめは「つなぎ温泉」で、次は盛岡の公会堂での講演会の予定であった。渡辺氏は持ち時間、三十分で信次の前座をつとめたが、開演前に控え室に行くと、ある講師と、ある特定の人物のことをしきりに話をしていた信次が、「渡辺さん、縁なき衆生は度し難しなんですよ」、「これだけ言っても、まだわからないのかと、説いても説いても結局駄目な人は、駄目なんですよ」と駄目を押すように信次は言った。

                                 

 十月十三日

 大阪講演会

 信次は「霊道を開くことを目的として八正道をやるのではない、日常生活に行ずること(註・実践)が尊いのです。」そして講師達に向けて、「あなた達は、ぼくが説くことを、細かく日常生活に密着するように話をしなさい」と言った。

                                 

 十月

 信次の高弟の一人、園頭氏は「なぜ、お釈迦様は二千五百年して日本に生まれることを予言されたのでしょうか」と信次に質問した。

 

花ー0042.jpg (2621 バイト)

 

 

  「ジャブドーバー」

                         高橋信次

 ある方からこんな質問が来たので今回はそれに答えることにしよう。質問の要旨は、ゴーダマ・ブッタは、なぜ日本を再生の地としたか、どうしてアメリカや他国を選ばなかったか、というのです。一口でいえば、仏教 正法が伝えられやすいからでありました。二千五百有余年前に、釈迦は、ジャブドーバー(東方の国の、ケントマティー(都会)において、ふたたび正法流布を行うと弟子たちに宣言しました。どうしてこのような宣言になったかといいますと、今日の世界事情がどのように動き、人類の意識がどうかわっていくか、ということが、ブッタには理解されていたからです。まずこのことが第一点。

 第二点は、正法を再興する場合の地理的条件が加味されたのです。世界の交流がはじまったのはせいぜいここ百年ぐらいの間です。それまではごく一部の要人、商人を除いては、ほとんど他国との交渉を持つことがありませんでした。また持てなかったのです。正法が流布されていくには、言語や地理的条件が当然考慮されます。<中略>

 第三点は、正法を理解するにはそれを受け入れる基礎的土壌が必要です。伝統や風習が異なり、ものの考え方に大きなへだたりがある場合は、正法を突然持ち込んでも、これを咀嚼するのにかなりの時間が要ります。しかし日本における仏教の歴史は古く、そして伝教大師が法華経を中国から持ち込むことによって、仏教は定着したのです。その後、< 中略> ここへくるまでには、現象界の状況が絶えず見守られ、実在界で計画されて来たものです。それゆえ、ブッタの公約は、必然の形をとって現在に至っているわけなのです。第三者からみると、アメリカやヨーロッパでも、と思われるでしょうが、右の事情を参酌すればおのずと理解されてくるでしょう。正法流布は、こうした計画性の下に進められてきているのです。

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

                                 

 十月

 園頭広周氏が、ある人に宛てた(昭四十九年十月十五日付)書簡より要約。

 合掌、十九日から長野県の奥志賀高原での特別研修に出席するために、十八日に上京します。来年一月に高橋先生がアメリカに行かれるという話は延期になるということです。高橋先生は、早く指導者養成をしなければと言われるようになりました。十三日、大阪の講演会で(前述)<中略> ということを力説されました。そして講師の中には「守護霊に聞いてみます」とか「あなたの守護霊がこういっています」とかいって、実際には守護霊が見えるのでもないのに、さも守護霊が見えるかのように装って、自分の霊能を誇示するかのように指導している講師がおります。これは本当ではありません。 < 後略 >

 引用した書簡は、神奈川県の会員が増え、世話役をしていた〃ある人〃に個人指導を頼む人が増えてきた。そのために、「霊道を開いていない者は、個人指導をしてはならない」という通達がGLA本部事務局長名で出された。そのことに対して書かれた手紙であった。

 十月十九日

 長野県奥志賀高原における幹部特別研修会

 この時、信次は「ソクラテスは毛沢東として生まれ変わった」と言い残している。そして、「園頭さん、僕は今のGLAをつぶしてもかまわないと思っています。東京本部の講師達は少しも勉強をしません。」と。そして、「この頃、なにかあると、高橋先生助けて下さい、なんとかして下さい、という人が多くなって困っているんです。ぼくは僕で修行しなければならないことがあり、また天上界へ行って天上界の人達を指導しなければならない、そういう時に、ぼくの名前を呼ばれると、助けに行かないわけにゆかない。もっと、みんな自力だということをわかって欲しいのです」と、信次は心の内を吐露している。 この特別研修の時、信次は「実在界・あの世」について話した。

「ブッダはおもにインドで生活しましたから、ブッタの天上界の住まいはインドの上空に、また、イエス様の住まいは、今のイスラエルの上空にあります。インドの上空に釈迦の宮殿があり、その宮殿の番人をしていたのが園頭さん、あなただった。この人はきびしい人でね、ぼくでも時々叱られることがあった。法の番人、それがあなたの使命なんだね」と。

「法の番人だと?」

「法律は人間がつくり出したもの、時と場所によって変えられる。しかし、ここでいう法とは、人間によって変えることの出来ない神理。園頭氏は、イエスの時代のガブリエル、宗教改革のカルバン(カルビン)…」

「だから、法を歪める人には特に厳しいのダナ。〇〇の科学の〇川△法氏批判の書が何冊もあるからナ」

 この特別研修の時、信次は途中で車を止めて、弟子達にもぎ立てのリンゴを買って配った。

信次は「ソ連は悪魔の動かしている国ですからね」と言った。

信次は「如来とか菩薩とか、光の指導霊は、自分で自分のことを言わないのです。自然に人が言ってくれるのです。自分から言うのは、ニセモノが多いのです」と言っていた。園頭氏は、自著の中で、多くの真実を書いているが、この言葉には自戒し、書くべきか迷った、と言う。

                                 

 東京、中野のTさん夫婦のはなし

 ある時、Tさんは信次の個人指導を受けた。信次は言った。「あなたはすぐ腹を立てますねるそして、おかしなものを祭っていますね。あなたの身体を大きな蛇が取り巻いている。こんなおかしな信仰をしていてはいけませんね」と。 そのようなことがあって数年後、奥さんが脳卒中で入院。Tさんは、夜、坐っていると「二週間」という声がした。二週間したら快復するのか、それまでの命かと思った。正法の生き方に従い、正法を念じる以外にないと静かに反省した。そうしたら、二週間したらピタリと治ってしまった、と。

                                 

 十月二十六日 東京講演会

 十月のこと。GLA関西本部での講演が始まる前、控え室に入って来た信次が「園頭さん、如来は教の大綱を説く。菩薩は、如来が説いた教えを日常生活にどういかすかを説くのです。しかし、如来がいなくなったら菩薩も教の大綱を説かなければならないのである」と言った。そして、如来は、未来のこともすべて見通す力を持つのです。日本に生まれるのを予言したのは、二千五百年経った時に、日本が世界に大きな影響力を持ち、正法を説くにふさわしい国になることがわかっていたからです」と言っている。

十月のある日、

生駒の三鶴山荘に泊った信次と園頭氏は、中秋の名月の露天風呂でのこと、信次は言った。

「園頭さん、ホー今度も、インドの時と同じように九つ違いですか。僕達が天上界で、今度は誰がどこに生まれるかを決めたのは、寛永二年でしたね。北海道にと思ったが遠すぎる。それで、インドのカピラに似ている長野を選んで、そして、次に父と母を選んで、まず、その父母になって下さる方が先に生まれるということになった。」と、そして、「徳川幕府の体制のままでは正法は説けない。そこで、徳川幕府を倒して天皇制にもどすために、北畠親房に『神皇正統記』を書かせ、勤皇思想を高めることにして、明治維新をやらせた。僕の分身は木戸孝允として、園頭さん、あなたの分身は西郷隆盛として鹿児島に出た」と信次は語った。

 そして、しばらく沈黙が続いた。

「竹林精舎のあそこの所に温泉がありましたね。伝道から帰って来る途中で、突然雨が降り出して、赤土の土埃りがポコポコとなった所に、大粒の雨粒が落ちると、小さくポコッと土煙りが立って、足は埃りだらけにな る。それをあの温泉で洗い落としていた。一度インドへ行って見たいものですね」 そして、また沈黙が続いた。

「インドでの回想が」

「竹林精舎の南に、今も温泉が。ヒンズー教徒とイスラム教徒の入る湯は別々になっている。インドへ行ったことのない信次が幽体離脱(肉体と光子体の分離)で。不思議といえば不思議だが自由自在」                                 

 十一月の大阪講演でのこと。

信次は「園頭さん、今日の講演はインドの時と同じようなやり方で、私に代表質問して下さい。それに私が答えるという形で、今日の講演をやりましょうか」と。 そこで、園頭師は「弥勒菩薩下生経によると、弥勒菩薩が生まれ変わって、出て来られるように伝えられていますが、本当はどのように伝えられたのでしょうか」と。

 信次「お釈迦様は東の国、日本に生まれて法を説くと予言して亡くなったのですが、人々に書き遺す役目を持った弥勒菩薩は正しく書き遺すが、お釈迦様は再び生まれ変わってこられることはないだろうと後世の人が解釈して、削除したために、弥勒菩薩だけが生まれてくると伝えられてしまった」と言い残している。                     

                                 

 十一月十六日

 宮崎講演会 参加六百名

 

 十一月十七日

 福岡市東光中学校に於ける講演会 参加千名          

 

 

 

 宣伝カーによる放送文の一例

 「街頭のみなさん、こちらはGLA西日本本部の宣伝班であります。ベストセラーをつづける『心の原点』『縁生の舟』(改題『心の発見』、『原説般若心経』)の著者、高橋信次先生の大講演会が、十一月十七日午後一時より、東光中学校体育館で開催されます。 人々が「心の原点」を見失った時から< 中略>  人生を明るく豊かなものにするために、十一月十七日午後一時よりの東光中学校での講演会にぜひお出て下さい」というものだった。

ポスター三百枚、立看板五十、ビラ三万枚、葉書五百枚が配布され、約千名の人が集った。 真光文明教団の「手かざし」で眼が見えなくなっていた子供は、眼に動物霊が憑依していたのだった。信次が、その憑依している蛇の霊を取り除くと、眼が見えるようになった。不調和な信仰は厳に慎まなければならないという思いで聴衆者は帰っていった。

 

 年の暮れ

 湘南地方の会員が、小田原で信次の講演会を開きたいという強い要望で、昭和五十年三月の信次の講演に向けて準備されていた。湘南地方全体で会員が二十名ほどであった。相談を受けた園頭氏は、三月に向けての宣伝講演を実行した。千名の人が集まり盛会であった。新宿から来た人に奇跡が起り、新宿でも師の講演会が開かれた。三回行われた。千葉の船橋から協力する人があらわれ、船橋で講演会が開かれようとする直前、船橋の責任者が、信次の実弟の興和氏(本部事務局)に呼ばれ、「GLA本部に講師もいる、なんで九州の」というので中止されている。

 十二月になると、「園頭さん、僕はもうみんな話したし、書くことは書いた。もう話すこともなくなった。今日はなんの話をしましょうかね」と言って登壇していた。             

                                 

 昭和四十九年のある日

 明治天皇の落胤の娘である中丸薫氏が、大阪の講演会に信次を訪ねた。中丸氏は個人的外交官として、諸外国の王、大統領、首相と直接に逢うことの出来る人である。中近東のオーマンの砂漠を走っている時、突如として天から「祈れ」と声がした。車から降りて、砂の上にひざまづいた時、再び「身につけている宝石、貴金属はみなはずせ」という声がした。しばらく祈って目を明けると、何百万もする宝石、貴金属がみな失くなっていた。探したが、見つからなかった。日本に帰って来て、信次のことを知った氏は、八起ビルを訪ねたというのだ。すると信次は、いきなり「オーマンでは大変でしたネ」と指摘した。

そのようなことがあって、正法に帰依した人である。その中丸氏が信次を訪ねた日に、園頭師は信次に質問した。「世界が平和になるためには、ユダヤのフリーメーソンの問題を解決しておかなければならないと考えますが…」信次は「今はまだ言う時ではない」と言った。中丸氏も「今は言わない方がよい」と。その後で信次は「これから共産圏に飢饉が起る。日本をダメにしようと計画した国は、その内部から崩壊することになる」、と。

「中丸氏も、いきなり指摘されて、ビックリしただろうネ。昭和五十一年三月の和歌山県白浜での信次の講演ビデオでは、カメラが会場の彼女を長々と追っている」

「うん、そしてソ連が崩壊して、アメリカも青息吐息」        

                                 

 また昭和四十九年は、ユリゲラーのスプーン曲げにはじまる超能力ブームだったが、信次は『ユリゲラーは動物霊が支配している。正しく見ることです』と言っている。 当時の週刊誌等によると、『気分がコロコロ変わったり、気むづかし家で大変に困った』等と書かれているが、超能力は、あの世の霊の協力によってなされる。ユリゲラーは動物霊の協力によって。平成四年四月には、またテレビに出演して…。超能力者という人を正しく見ることだ。超能力にあこがれてはならない。 

 

 

花ー0043.jpg (3584 バイト)                            

                                 

 昭和五十年(一九七五年)

 一月二十一日

 経営研究会発会式

 いかにして、宗教を経済の中に採り入れるか、正法による社員教育もこれから必要であるという主旨によって、信次は経営研究会をつくった。 こうして、信次は経営の中の人間教育として、正法が入っていかなければならないという考えのもとに「人間科学研究所」所長という肩書きで講演をしている。

「宗教という言葉を切り離して、『人間科学研究所・所長』と」

「そう、月刊『GLA』のなかにも〃正法と経済〃について多くの記述がある。」                             

                                 

「正法と経済、その目的とあり方」      一九七三年十一月号  

 本稿は、さまざまに変化し、目的を見失いつつある現代経済の姿にメスを加えながら、正法に照らした経済の在り方、経済とは一体何であるのか、人間は経済の奉仕者なのか、それとも経済が人間の生活を豊かにするためにあるのか、未来社会の展望などにわたって論を進めてみたいと思う。まず経済の概念について考えてみよう。辞書によると、経済とは金を儲けたり、使ったりする各種の行為又は状態をいう、としている。経済学は、人間の欲望充足のための手段として経済を見、ここに焦点を合わせながら、学問としての論理を展開する。現実の経済行為は、辞書や経済学のとらえ方を裏書きするかのように、激しく、冷酷なまでに動いている。それこそ、政治も、教育も、科学も、労働も、文化も、現実の経済の動きの前には手も足も出せず、これに翻弄されながらも、かろうじて命脈を保っているといえるようだ。何をするのも金、生きるも金、いうなれば経済の御厄介にならぬものとてないのが現実 < 後略>  」

一九七六年一月まで連載され、さらに一九七五年一月二十一日から九月十九日まで六回にわたって説いた「真の経営者の道」は、正法による理想世界を建設するためには、正業(正しく働く)による経済革命、経営革命の行なわれなければならないとする目的をもって説いたのである。

 

一月五日  東京・新年講演会                  

 同じく一月                           

 関西新年講演会

  演題「道」

 おめでとうございます。関西本部で講演するのもこれで四年目の新春を迎えました。昔の<中略>

 自由諸国に於けるイタリーの経済破綻を知っているでしょう。日本はこのまま行ったらイタリー以上の苦境に立たせられるでしょう。 <中略>  反作用というものは、心の中の念も同じ結果を呼ぶということを知らなくてはいけません。念ずるということは、やはり、相手の心のきれいな人を念じれば逆に念じた方がやられます。また、相手の方が不調和で、また、祈る方も不調和なら、それを相手は完全に受けて現象化されます。<中略>   反対しちゃいます。ストーブと同じですね。ですから、やるのもけっこう、 <後略>

                                 

 二月九日

 信次は毎月の定期講演会のため東京を発ち、目的地の新大阪に着いた。会場にはもう何千という人が集っていた。講演は「人の道」についてであった。講演が一時間半、質疑応答が二時間半、通算四時間休みなく続けられた。講演が終ると、ひとりの面会人が来ていた。「私は神奈川から参りましたKと申します。私の弟は多くの人々に神の道を説いていますが、急に病気になり品川の病院に入院しています。医者は脳内出血と申します。手術を明日にでもしたいと言っていますが、どうしたら良いか教えて下さい」と持参した三十枚近い写真をひろげて信次に見せた。ボケて、二重写しで、おまけに写真の中に魔王や動物霊の姿がはっきりと写っている。これには皆驚いていた。「手術はちょっと待って下さい、明日病院に行って見ましょう」と信次は返事した。信次は翌日病院へ急行した。

部屋には「面会謝絶」とあった。信次が病室にはいって見ると頭から腰にかけて完全に動物霊が憑依していた。Kの弟は時々ケイレンをしていた。信次に同行した僧侶の村上氏が、汗を流しながら動物霊を除いている。信次は心の中で、当人の傍にいる魔王に神の子としての道を説いた。三十分ほど経った時、意識不明がよみがえり、自分でトイレに立っ た。こうして、Kの弟は日に日に回復に向い、手術することもなく退院したのである。医者も信次達の処置を不思議がっていた。Kの弟は退院後、信次の事務所を訪ねた。「あなたは神につかえる身と思っているが、自分自身の本性を知ることなく、他人を導くことは危険この上もない」と話すのだった。「私は家に祭ってある神様を信じて、そのお告げを教えておりまた。」「その神とやらをあなたの目で見ましたか、話しましたか」と信次は質問した。「見てはいないが、胸のあたりから聞えてくるのです」、「イライラしたことは」、「ハイ自分であって自分でないような、たびたびイライラしました」、「水をかぶれば体は確かに清浄になっても、心はどうでしょう」と信次は言った。「心を清浄にするにはどうすれば良いのでしょう」「あなたが日頃、思っていること、行っていることを、正しい規準に照らして生活を改めてゆくことです」と信次は話した。Kの弟は頭を垂れて聞いていた。

                                 

 二月九日(昭和五十年) 関西本部講演会             

  演題「正しい思念と行為」

「永遠の生命と言いましても、今皆様自身は、永遠の生命の過程、最も厳しい不安定な団体的な物質世界に於いて、先祖代々伝わってきたところの… < 後略>

 三月初旬 宮崎研修会

  参加者 四百六十名

 

 三月十五日

 小田原講演会開る。講演要約抜粋

  ノイローゼ、気違いと言われる人は、これは全んど脳細胞の病気ではありません。心の状態が地獄界に通じて、本来、肉体を支配すべき一人が、自分自身を他人様に譲り渡してしまった状態なのです。人格が、ころっと変わってしまうのです。或いは、今、語っておっても、次にはもう、ガラリと性格が変わってしまう人達があるでしょう。或いは、お酒を飲 む。飲まない時と、飲んだ時と心がガラッと変わって、人格が変わっている人達がいるでしょう。こういう人々も、同じように、不調和な世界の住人達に憑依されて、船頭さんが変わってしまうのです。 我々の思う、想念というものはエネルギーなのです。我々自身の心に、相手を恨む心を持ったならば、その恨みの心は、そのエネルギーは、その振動は相手の心に通じ、相手の心が美しければ、自分に反作用となって返ってくるものなのです。眼に見えないがゆえに、我々はないがしろにしております。 お金とか物質とかいうものは、我々の生きる上に於て、必要なだけ存在すればいいのです。ところが、我々の欲望は限りなく広がり、我々の欲望は無限大に外に向いていきます。よく、ある人は、労使の闘争、上層と下部層の闘争の中に、文明は発達していくのだと説いている思想があります。しからば、我々は文明のために、人類はあるのでしょうか。人類のために文明があるのです。その錯覚を起して、心を常に格闘の中に、間違った方向に進んでいる人達もいます。或いは、間違った宗教を人々に教えて、そして自分自身の欲望を満たそうとしている人達もあります。しかし、やがて彼等はその罪を自分で償う時が来るのです。

                           

 三月二十二〜二十四日 宮崎研修会

  演題「正法と現代宗教」

「今年もこの、美しい自然の中で研修会を開くことが出来ましたことを、本当にうれしく思います。今から講演の内容は「現代宗教と正法」という問題について御説明してみたいと思います。この中にも、一生懸命に神様を拝んで、神様と言われる方が皆さんの肉体を通して出てこられる人もいるはずです。或いは又、現代の宗教の中に、一生懸命やってGLAの研修会を一つ見てこようという人も何人かいます。ごゆっくり、そういう人は見ていて下さい。まず、皆さんに神様というのは…中略…

「この人(高橋佳子氏)は過去世において、卑弥呼であったことを思い出しております。奄美大島から来られたこの二人のご婦人は、卑弥呼の女官をしていたのです。東京でデザイナーをしている護摩堂さん、映画俳優の中丸忠雄氏の夫人の薫さんは、ともに卑弥呼の大臣をしていた人達です。卑弥呼が邪馬台国の時、過去世を思い出し、インドで大日如来をなつかしんで祭っていたのです。その大日如来がのちに天照大神として祭られることになったのです」、と。

 

 三月二十六日

 北九州市小倉、毎日会館ホールで講演会開かる。毎日新聞、小倉商工会議所の機関紙に広告さる。                     

                                 

 同じく三月

 それは昭和五十年の三月のことであった。渡辺泰男氏)は、GLA本部の事務所立ち寄った。その時、信次の末弟の興和氏が、「渡辺さん、いつ頃から手伝ってもらえますか」と言った。びっくりしてしまって適当な返事をして渡辺氏はその場は帰った。ちょうどこの話のあった三月に、宮崎県の青島で研修会があったので、渡辺氏は思い切って信次の部屋を訪ねた。そして、興和氏から話があったこと、お手伝いの心の準備があること等を話した。信次は少し考えていたが、「今は、早いですね。二年後です。(註・昭和五十二年)」と答えた。信次は、その時、GLA誌八月号に載せる「釈迦伝」(のち、『人間釈迦』として出版された)の執筆をしていた。渡辺氏は信次が多忙な身でありながら、研修会のちょっとした合間も利用して筆をとっている姿に感心していると、信次は「渡辺さん、四十五年分も書くことはあるんですから、いくらでも書き溜めができるのですよ」と笑って言った。

 

 四月五日

 日比谷公会堂 GLA六周年記念講演会

  演題「人間とは」

 只今、紹介にあづかりました高橋信次であります。本日の題名は「人間とは何か」我々はややもすると肉体を持った自分自身ですら< 中略> 我々は大空を眺めます。夜は星が一杯あります。我々の見える世界は銀河系宇宙なのです。この宇宙の中に、しかも小さな地球という宇宙船の中に四十数億の万物の霊長がひしめき合い、ある者は闘争と破壊を依然として繰り返しております。ある者は宗派の争い、愚かしいことです。お天とう様は一つです。この地球という神の身体の中の一部分を、我々はその環境の中で生活しておるのです。皆さん自身が、この地球上で、その肉体舟、先祖代々伝わってきたところの、その肉体舟に乗って、我々は、この五官を通してあらゆる体験をしております。< 後略>

 

花ー0068.jpg (4676 バイト)

 

 

 四月六日

  神田共立講堂にて講演会

 

 四月十〜十二日

 宮崎の青島国民宿舎にて研修会

 信次の経営する「高電工業」の若井氏が、ビデオ録画に来て、「東京は高橋先生が一つ一つ指示されないと動きませんが、九州はその点、よく動きますね。このやり方を全国の人に学ばせるといいですね」と言った、と。 

                        

 〈GLAの周辺〉

                                 

 この当時のGLAの様子を見てみよう。

 四月十六日付の園頭氏の書簡から

  十日夜、自宅に岡山の会員から直接、電話がありました。関西本部のある講師が、あなたには蛇がついている、あなたは〇〇が憑いている、と言われて気味が悪くなりました。そんなに皆んなに憑いているものでしょうか、と。十一日の宮崎研修会に参加した人が、師の自宅を訪ねた時、こう言った。関西の人と同室になったら、その人がオーラーが見える、守護霊が見えるとか、守護霊がこういっている、という話ばかりで頭がへんになりました、と。

 

 このようなGLAの内部の傾向を心配した園頭氏は、東大阪、関西本部に於ける講演会の終了後、信次と話し合っている。その時、信次は次のように言った。「正法は人々の心に安らぎを与えるものですから、たとえ、霊を見ることが出来たとしても、不用意にそのことを告げて、その人の心に不安や恐怖心を与えることはよくありません。憑いているものが見えても、直接的には言わず『あなたはこういう心を持ちなさい。そうすればよくなります」という指導をしないといけない。憑いているというなら、その憑いているものを離して、その人をよくする力を持っている者だけがいうべきで、実は見えてもいないのに、霊が憑いていると言って不安と恐怖心だけをまき散らしている人が出てきたことは、困ったことです。 正法を実践するのが人生の目的です」と。

そして、さらに 「一〇%の現在意識で『はたして、これは本当だろうか』としっかり確かめることである、ということです。正法を説くものは、常識も豊かでないといけません。この世の人達を救うのですから、この世の人達から『なるほど』と思われるような言葉遣い、態度、知識、教養などを身につけないといい指導者にはなれません。講師といわれる人達の中に、非常識な人がいるのは残念です。特にいけないのは霊道を開いているという女の人達の行儀の悪さです。世間の常識を重んずる人達は、そういう非常識な人達の言動を見て、それだけで正法の話しを聞こうとは思わないでしょう。」と信次は言っている。そして、講師達に対して、「もう少し常識を勉強しなさい、しっかり本を読みなさい」、とも言った。

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

 

 

 四月

 京都・中心山荘での研修会                    

 昭和四十九年十一月に遡って、信次達一行は、古代インドの時代、迦葉といわれた人が生まれ変わっているというので、台湾へ行ったことを思い出して欲しい。同じく、渡辺泰男氏に登場いただこう。 

「春に、台湾からSという人が来られました。若い頃から法華経の勉強をされて、来日された前の年に『餓鬼道』改題『愛は憎しみを越えて』という本を読んでいらっしゃる方です。高橋先生は、この本をお出しになる前から、この本を読めば必ず泣き出しますよとおっしゃっていました。読み終って、さっそく高橋先生にSさんは手紙を出された。ことあるごとに高橋先生はお話ししになっていましたから良く憶えています。そうして、文通しながら、先生は意識で台北まで行って、たびたび指導なさいました。ですから、台北に行かれないまでも高橋先生は、Sさんのことをよくおわかりになっていました。そうこうする内にSさんは、二千五百年前に先生に教えを受けている自分の姿を見てしまった。「今、あの人は自分のことを知りましたョ」、と先生が側近の方にもらした一週間後に、その時感激を伝えてSさんから手紙が来たそうです。一時は、台湾、台湾と GLA内でもちきりでした。

そのようなことがあって、確か中京と関西の合同研修会だったと思いますが、京都の中心山荘というところでの研修会に、Sさんは十日間の観光旅行から合流されました。その時、私もお会いしました。ところが台湾で独自にやって来られただけに、こちらとは、行き方がだいぶ違っていたようで、いろいろと波紋が生じていたらしいのです。そんなことで、研修会の始まる前の日に、京都のホテルの一室で高橋先生が、Sさん他三名の幹部を呼んでお言葉を賜りました。「法を依りどころにせよ」というお言葉です。これは同席した三人のうちの一人の細野先生から翌日伺い、また数日後、先生からも直に伺いました。台湾には私も行ったことがありますので、直に親しくなりました。

研修会も終り、東京への新幹線の中でも同席しました。もっぱら私とSさんだけが話をするようになりました。台湾という所は、中共との関係で、大変思想の統制の厳しい国で、心の教も内地流にそのまま説いたら思想とみなされ、一つの哲学、つまり意識科学として苦労して説かなければならない、と。高橋先生がよく引用されるアインシュタインのE=MC2 にしても、三十年前に学んだ、その一つ前のローレンツの変換式、式自体がアインシュタインの式より複雑ですから、それなりにこじつけが出来る。それから数日後、台湾に帰られるというので羽田まで見送りにまいりました。そうしたら高橋先生と一栄先生もお見えになり、一度帰りかけた高橋先生が、またこちらに戻っていらっしゃるのです。私のところへつかつかと寄っていらっしゃって『この間の式は間違っていますから気をつけて下さい』とおっしゃるのです。

新幹線では、先生は私より三つほど前の席におられたのですが、私どもの会話の一部始終をよくご存じでいらっしゃいました。『はい。存じております。あれはローレンツ変換ですね』『よく気づかれました。そうなんです。新幹線の中だし、人前で指摘することもできず、本当に困りました。ターチンマラーという魔がおりましてね。誠に巧みに正法を説くのです。特に科学的な手法を駆使しますから、科学に強い人ほどねらわれます』『問答無用で押しつけるような態度でした。』『そうです。それが特徴です。関西でも色々なことがありましてね』と先生は私に色々のできごとをお話しして下さいました。」

 

 

 

 同じく、園頭氏の記述を見てみよう。              

 「京都の中心山荘で研修会があることになり、葵さんが出席されることになりました。葵さんは日本に来られる直前に魔に支配されてしまいました。それで私が、関西本部長中谷氏に葵さんはおかしくなっているから気をつけるようにと言っていたのですが、葵さんから『悪魔をつかまえる法』というのを伝授されたと言って完全に欺されてしまいました。研修会が終って大阪天王寺のステーションホテルに泊った時、葵さんは高橋先生から、「あなたは霊能力に興味を持ってはいけない。毎日毎日の生活を大事にしなさい。関西本部長、あなたも葵さんに欺されましたね」、と注意されたのでした。」、と。園頭師は、この事件によって、悪魔はGLAの講師達をねらってきていることを感じ、特に若い講師達に、地位欲、名誉欲にとらわれ、過去世の名をひけらかさないようにと、注意を促している。 

そして、信次が昇天した直後、葵氏は五ミリ程の厚さの小冊子を発行した。開いてみると、聖徳太子も伝教大師も源頼朝も徳川家康も西郷隆盛も、みな自分の分子である等と書いてある。園頭氏は、葵氏が地位欲、名誉欲のとりこになったなと、残念に思っていた。ところが、葵氏の消息を伝える人があり、昭和五十二年になると精神病院に入院したという情報が伝えられた。その後、情報もプッツリと消えていたが、その後の情報では、その会報には囲碁の打ち方などが書かれている、と。

「たとえ過去世で名のあった人でも、今世の生き方によってはタダの人以下。」

「まったくその通り。正法が出現すると魔が競い立つと言われるが、正法が広がってこの世界が光明に満されると、魔の足場がくずされるので魔も必死になって抵抗する。霊能力だけを求め心が欲望に満たされると、魔はその人を支配しようと近づいてくる。魔がその人を支配しようとする時はまず正法を説き、もっともらしいことを言う。そして、徐々に自分の方に引き入れる。十のうち九の正しさで信用させ、残りの一つで狂わせる。」

                                 

 四月二十九日

  沖縄(那覇)講演会

 

 五月二十二日

  佐賀講演会                         

                                 

 五月二十三日

  福岡県二日市講演会

 

 

高橋ー二日市.gif (42784 バイト)

二日市講演会

 

 

 

 

photo-高橋ー二日市.jpg (15278 バイト)

二日市講演会

 

 

                                 

 五月二十五日

  西日本本部設立記念祝賀会

 

 

photo-高橋ー9.jpg (16655 バイト)

高橋師より西日本本部長を拝命する園頭氏

 

 

 五月、

 GLA関西本部から『高橋信次講演集』が発刊された。(限定非売品)

                                 

 六月十五日

  大阪講演会

 

 六月二十日〜二十二日                      

  京都中心山荘の研修会

 

 六月二十六日

  東京にて幹部会議                       

 

 七月六日

 金沢講演会

  演題「心の原点」

 「この北陸地方の中心、文化の都市に於て皆さんの前でお話し出来る機会を与えて下さり<中略> 人生航路の乗り舟であるところの、その肉体の船頭さんが降りた時には、皆さんの耳の穴もあいております。鼻の穴もあいております。しかし、私達は耳許で自分の悪口を言われても、怒ることすら知らないはずです。どんな臭いがあってもそれを感知することもできないはずです。こうなりますと、眠っている時の我々の心、魂というものの価値はどのようになっているのでしょう。しかし、肉体の脳細胞の神経線維のそれぞれは、ちゃんと波動を、振動を起しております。こうなるとやはり、永遠のものというものは一体何でしょう。皆さんの肉体を支配しているところの舟頭さん、即ち皆さんの魂なのです。「そんな馬鹿なことはあるか、魂など存在する訳はねェよ」と、もし皆さんがそのように思うならば、皆さんの脳細胞は、あくまでも物ごとを受信し、送信する一つのコンピューター室にすぎないということなのです。或る医学者達は、物を考えるのは前頭葉だといいます。それな<後略>

 

ホームページ.gif (1592 バイト)

                                 

 八月初旬

  長野県志賀高原研修会 参加者七〇〇名             

 八月十七日

 神戸講演会、神戸国際会館

  演題「人生の意義」

 「台風の中を、よくも多くの皆さんが御来場下さいまして、ありがとうございます。<中略> その全学連がどちらの方向に行ったかというと、彼等は皆、優雅な生活をしている家庭の子息でありながら破壊活動をし、善意な多くの人々に迷惑をかけています。教えていただくべき先生に感謝の心も失っています。我々の心は教えて下さった先生に対する、師に対する感謝の心というものは行為で示したものです。最近はまったく逆の方向に進んでいます。当時の親は子供を育てる為に一生懸命です。金儲けと、親子の対話はなく、そうして自分のできなかったことを、何んとか子供に満して欲しいという欲望が、有名校へとエスカレートしていきます。育てた子供がノイローゼと   <中略>

 園頭氏の書簡より

 「八月二十三日より三日間、中谷関西本部長に九州へ来てもらいました。その時、高橋先生が、東京本部の講師達の現状を憂えていられたことを聞きました。やはり私が案じていた通りだったのです。だから、自分一人ででも、しっかりしなければいけないと思ったのです。あなたも一つ、真剣に考えてみて下さい。<後略>」

                                 

 八月 岩手山麓・綱張荘での研修会                

    一日目 演題「正法と現代宗教・悟りへの道」

    二日目 野外反省禅定

 

 別の項で、園頭氏の心の窓を開く様子を参照していただいた。次に、北海道に住む菊地信一氏に登場いただこう。菊地氏は、一九七五(昭五十一)年八月の岩手の綱張荘の研修会に初めて出席、心の窓を開き、古代インドの時代、ウパテッサ(舎利弗・シャーリープトラ・現代の園頭広周氏)と一緒に釈迦に帰依したという。菊池氏の心の窓を開いた時の情景。信次は菊地氏の方を向いて「あなた出て来て下さい」と声を掛けた。氏はおずおずと信次の前に出た。「ほら、そこにお客さんがいるよ」と信次は膝のあたりを指した。自分にも悪霊がついているのかなと氏は思った。信次は「どうぞ神様を出して下さい」と言った。「大宇宙大神霊仏よ…」と信次は祈りはじめる。菊地氏は、黙って目を閉じ静かに聞いている。信次は「パーテイパーテイパラカーティー」と異言で祈り始め、氏に光を入れていた。「そこに出ている霊よ、肉体を持っている人の口を通して語りなさい」と信次は何度も呼びかける。しかし、氏の口は開かなかった。「あなた何んで語らないの」「肉体を持っている人は心を丸く調和しなさい。イライラしてはいけません。あなたの心には、ひずみが出来ている」と信次は注意した。

菊地氏「師の長い祈りが続いているうちに、私の心は、だんだんと安らぎ調和されてきた。大いなる光が体中に満ちあふれてきたように思い始めた時、右耳の下あたりから霊がすーっと肉体に入って来たのを感じた。「私はこの者の守護神じゃ」と霊は師に告げる。「ああ今、肉体を 持っている人を支配しました」と師は参加者に言った。そのうちに突然私の口がひとりでに動き始め、古代インド語を語り始めた。私は何んとも言えない懐かしさで、胸から込みあげてきて、涙を流しながら思わず師に抱きついてしまった。長い間会えなかった人とめぐり会ったという思いだった。止めどなく古代インド語が口から飛び出し、男泣きに泣いていた。肉体を持っている私には自分で話している古代インド語の意味が分からな かった。あとで分かったことであるが、本人の心と守護霊の心が調和され、同通していなければ、自分の話している異言の意味が分からない」、と。 そして、研修生全員で、「快楽に溺れ苦悩に喘ぎ、いろいろな迷いの末、辿りついた悟りの道、これぞ八正道…」という八正道讃歌を歌って研修は終った、と。

                                 

 九月                              

  GLA本部の情景

 八月の岩手の綱張荘の研修会で、心の窓を開いた菊地信一氏は、「心の窓を開いた人は、心の在り方によっては悪霊に憑依される危険もあるので、出来るだけ早く本部に来て下さい」という信次の言葉に従って、氏は本部を訪ねた。前もって上京する日時も連絡していたが、信次はどこかの集会に行って留守だった。受付の女性は、受付用紙のようなものを出して、来訪の目的を書かせた。しばらくして、ひどく疲れた様子で、信次は帰って来た。氏が心の窓を開いた後、信次が意識体で現われたことを告げると、それは、「あなたが心の窓を開いた後、どうしているか様子を見に行ったのだ」と言った。信次は次の集会があるらしく、手短かに次のように話した。「何十回も私の著書を読みなさい。まだ、あなたは正法の入口に立っただけだ。霊道を開いた後、一番危険なのは、多少あの世が見えるようになるので、人とは自分は違うのだと増長慢になることだ。私も毎日反省している」と言った。そして「正法正法というけれど、本当に正法を身につけている人は、ほとんどいない。私のそばにいても悟れないものは悟れないのだ」と淋しそうに言った、と。

                                 

 秋、九州霧島の研修会でのこと

 鹿児島空港より、車で二十分ほどの天降(あもり)川のほとりにある「おりはし旅館」が宿舎だった。周囲がコンクリート造りのホテルの中で、ここは木造の旅館だった。ここの老女将のつくる「酒ずし」が、日本のうまいものの一つに挙げられており、この静かなたたずまいの旅館で、信次は研修の疲れをとった。 

                          

 中京秋季講演会

  演題「自力から他力への道」

「十歳の時から三十二年間、丁度昭和四十三年の七月、信じられないような霊的現象、本来、私は霊的現象というのは、すでに昭和三十年位から、例えば紙切れ一枚に、ある一つの提起された問題について一心に念力を集中しますと答えが出てまいりました。しかし、そのような問題がかりに的中したところで、なぜ私にだけ出来るのだろうか、私等はそのようなものを否定しました。しかし、全然次元の違った世界というところから…<後略>。

                                 

 十月初旬

  鹿児島講習会

  宮崎講習会

 

 十月十日 高知市社会福祉センター

  演題「人生に於ける価値の発見」                

「只今、紹介にあづかりました、高橋信次であります。この美しい自然緑に包まれた高知市で、お話しが出来ます機会が出来ましたことを、心よりお礼申し上げます。サテ、私達が、今こうして毎日の生活をしておりますが、人間が生活の中に於いて、色々な喜びや悲しみ、苦しみ…<後略>。

 同じく高知市での研修会でのこと、坂本龍馬の像が立つ桂浜を遠く右手に望んだ国民宿舎・海風荘は、信次が「ここは環境がよい」と言って一泊したゆかりの地である。                      

                                 

 十月二十六日、熊本講演会

信次、入院のため欠席。定席七百名の鶴屋デパートの会場には千名がはいり、消防署の忠告により、入場制限。堀田和成氏の「母の死と業」、中谷義雄氏「瑞法会教団を挙げて正法に帰依するまで」、園頭広周師「正法と現代宗教」を各一時間講演。信次の著書がよく売れ、日比谷公会堂よりよく売れたという。

 

 十一月三十日〜十二月二日

 熊本研修会 阿蘇白雲山荘に於て。会費一万二千円 

 

高橋ー阿蘇.gif (29003 バイト)

                                                   熊本での高橋師は、憔悴した様子が写真から伺えよう。

        

  演題「心と肉体の調和」

 「健康であることは食事を正しくする。つまり、食事も中道でなくてはなりません。肉体の保全がバランスを欠きます。<中略> 病気の中には外因性と内因性があり、外因性というのはビールスによって外部から侵入して来たものは現代医学の方が早いよ。<中略> 血圧というものは薬でおさえていても根本的な治療になりません。医者の指示にしたがって食べ物からなおしていかなければいけません。<中略> 「息ぎれがするぞ」これはおかしいと思ったら、ふっと自分の心のあり方はどうかな、食べ物はどうかな。<中略>肉もほどほど。私の心臓さん曰く、あなたの魂の歴史を聞きましたが、コーカサスで生まれた当時は、あなたは百七十歳ぐらいまで生きたんですよ。その当時は腹六分でした。食べ物はなるべく少く食べ活動する。運動する。いつでも腹のへっている状態が一番長生きの秘訣です。日本人は食べすぎます。<中略> 人間は不思議ですね。夜になってからたらふく食べる。ですから脳溢血でこの世を去っちゃうのは大抵、夜だよ。食べたあとの結果がでてくるんだよ。<中略>  猿は太陽が沈んだら絶対に物を与えても食べないよ。食べ物というものは、太陽の上っている内に食べるのが最も理想、だから朝と昼に栄養をうんととって夜あっさりと食べたら明日の朝はソー快。<中略>  今度は具体的に天上界の関係の人に聞きましたら、癌というものはビールスだよ。それも人間の細胞の核分裂を起すときの核酸が、その人の心の作用によって分裂が正しくも行くし、心の状態によって間違った方向へ行きます。(録音テープの筆録ですから誤字も考えられるので了解ください)その時に、間違った方向へ行ったときに食べ物とその人の心が、グゥーンと地獄界の虫を引きつれて細胞を食う虫がビールスなんです。そして、それがいわば人間のガンという姿になった場合、ということを言いました。ですから、先づ癌という状態は心をきれいにし、食べ物を中道、つまり片寄らないということ。心も中道、食べ物も中道こうしたら絶対に癌にならんといいました。癌の細胞を見せられたら、細胞が生きているのがみなわかります。そうしてCO の炭酸ガスを出しているのがわかります。ですから、そういうところには酸素がなくなっているわけです。酸素がなくなるから結局は、細胞が間違った方向へ行くのです。「薬はお前達の生活環境の中にあるんだよ」と教えられました。

 研修は、六時起床、七時半朝食、九時より信次の講話、午後は自主研修、夕食後二時間信次の講話

 渡辺泰男氏は次のように書いている。「夏の恒例の志賀高原の研修会が済んだ頃から、先生の健康状態があまりよくないと、あちこちで、ささやかれはじめました。十二月の阿蘇の研修会にお伴した頃には、見違えるように消耗しておられる姿を拝見してびっくりしました。このあたりから先生のご講演の中に、不動心という言葉が頻々と現われるようになりました。阿蘇の研修会のご講演では『食生活を、あちらから指導されました。肉類、魚は一切だめ、野菜、果物、そして油は植物油、バターならマーガリンを。量は腹六分です」、と。

「この研修会では健康についての話しが…」

「既に肉体的過労で、少しやせていた。阿蘇山を右に見て、左手に大観峯を背景にした大自然の中…。研修生は六百名だった」

この阿蘇の研修会と宮崎の青島の研修会でのこと、偶然にもエレベーターに二人だけで乗り合わせた園頭氏の奥さんに信次は言った。「奥さん、金は食べるだけあればいいのですよ。余分なものを持つ必要はないのです」と。                         

 

 園頭氏の書簡から

 合掌、阿蘇の研修会で、ある班の講師は、反省ということをむつかしく教えたのでしょう。反省していてかえって心が苦しくなり、眠れなくなったので、どうすればよいかと電話がきました、と書いた。

 

 初めて、信次の研修会を受講した土居釈信氏は、この熊本研修会を次のように自著に記した。

 土居氏は、宿舎に着くとトイレに行った。すると、せっせとトイレの履物を整理する人がいた。「御苦労様ですね」と氏が声を掛けると、その人は「いいえ、後に入られる方が気持ちが良いようにと思いましてね」と答えた。講演が始まったら、信次だった、と。次の日も、朝一番にトイレの床の掃除をしていた。そして、その晩、氏が風呂にはいっていると、「背中を流しましょう」と。信次は心をこめて流してくれた。それから皆で輪になって流し合った。そして、講演が終った後、信次は各部屋を廻り、その場にいないのに、いたかのように講師達にかわってテキパキと質問に答えて廻っていた、と。

 

「偉大な師がトイレ掃除をネェ」

「多くの人達が書き残している。講演に集まって来た人の靴を。スリッパを。まったく頭が下がる。時には大地の味を味わさせようと言って、みずからの手料理を幹部達に食べさせている。もう少し、信次の素顔を端的に教えてくれる例がある。九州 のT医師は、人から聞いた話として次のように語った。

「信次は講演が終った後、汗びっしょりになった体を横たえて、汗を拭いてもらっていたが、信次の体は白かった、と。そして、研修会場の近くのオミヤゲ売場等を覗いている信次を見かけることがあったが、一つも気どらないどこにでもいる普通の人だった。また、研修会場の後の出入り口の方を見ると、スリッパを片づけている人が信次だった。そして、研修を終えて帰って行く人達を上の方から見送っている信次は、皆んなの幸せを祈っているように見えた」と聞いた、と。   

                                 

 同じく十二月

 GLA関西本部事務局長・林正氏は、信次に東京の自宅を訪ねるように命ぜられた。「瑞法会から帰依したGLA関西本部は、表面的には私に帰依したということになっていますが、内部から完全に帰依してはいない。瑞法会の人事組織で人集め、金集めをやり、各地区の支部長が組織の上にあぐらをかいて、権力欲、金銭欲で動いている。GLA関西本部を、私が説いた通りの正法の団体とするには、中谷本部長を頂点とした関西本部の組織を解体しなければならない、と信次は忠告した」と林氏は園頭氏へ伝えている。

                                 

 そして、この年、信次は、「あと七八〇年するとエジプトに真の世界政府ができ、世界は平和になり、人間は自由に他の天体へ行けるようになる」と言った。昭和五十一年に死者五十万人を出したと言われる中国唐山の大地震を、信次は起る前のこの年(昭和五十年)に予告した。 そして、中学時代から四十年間日蓮宗を熱心にやって来た人が信次の指導を受けた。何も知らないはずの信次が「あなたは日蓮宗を捨てられますか」と言った。その人は「日蓮宗をやめる時、少し恐怖心が起りましたが、正法に帰依することが出来ました」、と。また、GLAの講師で、常に信次の近くにいたある社長さんが、従業員に「こういう人は地獄に行くのです。地獄に行きたくなかったら一生懸命働きなさい」という訓示の仕方をしていた。信次亡後、会社は倒産、売掛金回収に暴力団をつかっているという噂の人がいた。

「講師といっても霊の段階が…。だから信次は「GLAをつぶしたい…」と」

「そう、昭和四十六年から講師だった人。信次の心中、察して余りある」

 

 昭和五十年のある日、信次は「キリストは、今から百八十年後、シカゴに出て、その時はじめて世界政府ができる」と言った。                      

 

 昭和五十一年(一九七六)

 一月

 『GLA』誌・新年号

 「一から十まで、すべて成功するだけが正法と考えてはならない。失敗もまた正法の内にある」と。

 

  「自己の確立を」               高橋信次

 「私たちの住む世界は間違いなく競走社会であり、力の社会である。そこでは常に、若さと活動とが尊ばれ、常により多くのことを為すことに目標が置かれている。なんでも世界一であることに目標が置かれてそれを自慢する。そうしたことに過度の称讃が送られているのが現代だ。心の安らぎは、「人生とはなにか」との問いの中から、そうして、その問を通して己れを知ることによって初めて得られるものであり、仕事のみを追う人生には、安らぎも調和も与えられないことを知る必要がある」

 そして、将来、団体が大発展するのに備えて、コンピューター導入の委員会がつくられる。                        

                                 

 同じく一月、

 信次は「初めは実践すると、好結果が与えられる。そして、次には本人の心を試すために、迷いを与える小事件が起きてくる。また、さまざまな欲望が不思議と出てくる。」 そして、「業の活動は時が経って静かになるので、正しい生活をしながらそれまでじっと待つしかない」と言った。

 

 同じく一月

 関西本部の講演の始まる前、控え室に入って来た信次は、どっかと胡座(あぐら)をかいて「園頭さん、ぼくはGLAをつくることに失敗した」と長い吐息を洩らした。

                                 

 二月二十二日

  沖縄講演会                          

「御紹介をいただきました。高橋信次であります。沖縄というところは島だから狭いんじゃないかと思って来ましたら、思ったより広いんでびっくりいたしました。そして非常に海がきれい、美しい空、きれいな空気、ちょっと、私達の住んでいる東京ではかなえられないような…<中略>…それを信ずることです。その嘘のつけない善我なる心を信ずることです。どうも永いことご清聴ありがとうございました。」          

 

 二月

 信次は、GLA関西本部長・中谷氏、西日本本部長・園頭氏を前にして次のように語っている。「肉体を持つと肉体に制約されて活動が制限される。これは仕方がない。意識だけになると肉体に制約されないから自由自在に活動できる。ぼくは早くあの世へ帰らないといけないかもしれない。ぼくはすることが一杯あるんです。ソ連は原子爆弾を使おうとしている。原子爆弾を使ったら地球はおしまいである。地球がおしまいになったら、他の天体に住んでいる人間とのバランスが崩れてしまう。だから、絶対に原子爆弾を使わせてはならない。肉体を持っていると肉体に制約されるから、あの世からソ連の指導者を直接指導する以外にないんです」、と。

「他の天体に住んでいる人間とのバランス…。さすがだね、真のメシヤは」

「信次は、この大宇宙には七つの霊圏があり、七つの人間がいる、と。勿論、人間の姿、形はみな同じ。人間は人間、猿は猿。進化論は間違い、とも言い残している」

 三月

 大阪の定例講演会に来た信次は次のように言っている。

「園頭さん、ぼくは失敗した」と悲しそうな顔をして言った。「僕はGLAをつぶしたい。ぼくはこんなつもりでGLAをつくったのではなかった。GLAの講師達は、金魚の糞みたいに、ぼくの後からくっついてくるだけで、少しも勉強しない。GLAの講師はダメだ」と、タメ息まじりに言った。                                  

 同じく三月

 信次は「世界の中で、正法が説かれているのは日本だけです。もし日本の国が滅びてダメになるようなことがあれば、神の計画である正法による世界平和は実現しないことになります。もし日本という国を滅ぼしてダメにしようとする国があったとしたら、その国は神の心に叛くことになるのですから、その国が滅びることになります。これから共産圏には食糧飢饉が起り、内乱が起ります」と予告している。

 そして、信次は禅定・瞑想する時には、「とにかく、いつ死んでもよいという心境になりなさい」と言っていた。

 三月の関西本部の講演会の始まる前の控え室で、信次は「園頭さん、僕はヤーヴェとしてモーゼに十戒を与えたことがあるんですよ」と言った。

                                 

 三月二十〜二十二日

 和歌山研修会 白浜温泉(三楽荘)

  演題は「エル・ランティとミカエルの悟り」であった。      

 研修会の初日の夕方、信次の実弟・高橋興和、T・利雄の両氏が、秘密の話しがあるので自分達の部屋に来てほしいというので園頭氏は出向いた。二人は、次のように言った。「高橋信次先生はニセモノである。釈迦の生まれ変わりでもなんでもない。この研修会が終ったら私達はGLAをやめます、先生もどうですか」、と同意を求めた。園頭氏には信念があったので、「やめたければやめればよい」と思って、黙って部屋を出た。「女性の助手で謀反の心を起したのはG・世都子という人でした」、と。 そして、三日目の朝 信次は園頭氏の部屋へ入ると「昨夜、パピアス・マラーが、私の心臓に矢を射た、まだ胸が痛む」と告げた。そして食事のあと、信次と入れ替りに、興和氏が部屋に入って来て「高橋先生は魔である。この研修会が終ったら私はGLAをやめる。先生もやめませんか」と同じように誘った。

園頭氏は、こう言っている。

「サタンが出て来たことは、私もその前に知らされていましたから、サタンはまず身内から離反させ始めたのです。これは大変なことになるな、と思いました。しかし、高橋先生はこの事実を全部知っておられ、三月二十二日午前の講話は中止になって、講師・助手に対して集会を命ぜられました。ところが、G・世都子氏だけが抵抗して集まらず、探し出して来て始まったのが、三月二十二日のビデオの場面です。

(ビデオでは、信次は高弟の一人一人に肩に手を当て涙ながらに「そなたは〇〇において、よく私に協力してくれました」、と)

 この時、高橋先生は「指導者たる者は実践することによって不動心を持ちなさい」といわれたのです。そして自帰依、法帰依の大事さと、主な講師に対して一人一人諭され、ビデオにある通り私には「園頭さん、あなたはインドの当時(舎利弗、舎利子として)の智慧を出し切っていない。これから遠慮せずに出しなさい」といって下さいました」、と。

 

 

 

 四月十一日

 GLA七周年記念講演会(日大講堂)

  演題「心の中に内在された英智」

「冷たい北風もやみ、温かい南風とともに大地は黒土とともに陽炎(かげろう)があがり、大地の中から新芽が出てまいりまして、そして桜の花は今を盛りとしております。サクランボはやがて実を結び、葉桜となってゆくでしょう。我々の人生も、又、同じように青春は一時にして、我々の人生は無情なもので、我々は物におぼれ、たとえ人生が七十年たりといえども、永い永い転生輪廻からしたならば、一瞬の線香花火のような <後略>

 

photo-高橋ー日大.jpg (18891 バイト)

日大講堂

 

 

 四月の関西本部の定期講演会の時、信次は中谷関西本部長宅に泊っている。翌朝、食事をしながら「ぼくが説いたことを一から十までわかっているのは園頭さんですね」と、ポツリと信次は中谷氏へ言っている。講演が始まる前に、「あんた、偉いでんナ」と中谷氏自身が言った、と。信次自身の心には、後継者として、胸中深く刻まれていたことであろう。  

                                 

 五月二日〜五日

  富士みどりの休暇村に於ける青年部研修会

 演題「正法の流転」

「去年に続いて、この場所で皆さんと共に、神理の勉強をすることが出来ましたことを嬉しく思っております。本日の講演の演題は「正法の流転」と言いましょうか、<中略> その時に道は開かれていきます。今このような事実を、もう一度、私ではなく、天上界の人から語って貰います。「ラゥイアスポロテイヤソボロティア…」と、「現証」の時間へ入っていった。

 

 再び渡辺泰男氏の記述より要約しよう。

二日目の昼食を一同でいただいた。渡辺氏は運よく、信次の真正面に坐った。右隣りには佳子氏(信次の長女)が坐っていた。昼食はカレーライスだった。氏がカレーライスを平らげて、ひょいと信次の方を見ると、まだ三分の一も消化されていなかった。氏も早食いであったが、それまで氏の方が信次より先に箸をおいたことがない位に、信次は早食いだった。「随分、お疲れになっておられるのだな」と思った。そして、最終日の前夜、十二時になって突然、信次は、参加した講師とヘルパー全員に集合を命じた。

「今、こんな通信が入ってきました」、と言って読み上げたのが「サタンからの通信」だった。それから信次は、これからの正法流布のけわしさを説き、最後に、「これからは、あせりの心と恐怖心、特にこの二つに気をつけて下さい」と、閉じた。

 

  <サタンからの手紙>

 黄金の翼を持った天使よ 我は実在せる魔界の帝王なり

 我は、そなた達の正法に阻まれず

 我思う処に我在り 我が前途を

  <中略>

 すべての者、我が命令に服従せん

 我は神聖なる魔王なり、暗国の帝王なり、

 偉大なるサタンなり

  <中略>

 我らが正しきこと、いつの日にか実証せし時、

 そなた達の、おどろきし顔が浮かん

 その時、必ず来たらん

 

 五月八日

 観音寺の住職・村上宥快氏は、直接、信次に電話を入れ八起ビルを訪ねた。五階の信次の部屋を開けた時、信次はソファーからすぐに立つことが出来ない程の容態であった。顔色も悪く、あの健康で東奔西走していた信次の面影は今はなかった。信次は「私の体に光を入れてくれませんか」と弱々しい声で言った。氏は信次の体を抱き起こし、光を入れやすいようにして、イエスの来迎を願った。三時間もした頃、顔は赤味をおび、自分で起き上がり、立った。そして、村上氏にノートを取るように言った。信次の声は、優しさの中に張りがあった。静かに瞑想した口から出る言葉はゆっくりとした調子に抑揚があった。

「今より、三億六千年前、ベーター星より地球上に脱出、緑もゆるこの地球上に脱出、緑もゆるこの地球上を、神から与えられたり。現代エジプトのエルカンターラ、場所はエデンの国なり<中略>ものなり。アダムとエバのエデンの国より追放の原点なり。人びとの心はすべて神の子な< 中略> 各地に起これる地震、天変地異は、そこに住む諸人の心失いたる者達のすべて警告なり。」信次は語り終って一杯の茶を飲み干した。

 六月四日〜六日

 山形県の蔵王に於ける東北地区研修会は、六月四日演題「新復活」、五日は「太陽系の天使達」であった。信次師存命中の最後の講演会となる。 

この講演は別の項<高橋師の最後の講演>に上げているので参照ください

 

 

 

photo-高橋ー光跡.jpg (16925 バイト)

昭和五十二年六月二十五日、東京の社会党会館の亡後一周年講演会の時、高橋師の写真がスライドで大きく映し出されたのを、盛岡市のS秀雄氏が二枚つづけて撮られたものの一枚に写っていた奇跡の光跡である。

 

 

ホームページ.gif (1592 バイト)