
正法と人生教室

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心の法則と物質の法則 |
これまで永い間、宗教と科学は全く相反するものであると考えられてきたが、心の法則(宗教)と物質の法則(科学)は同一である。
神仏は存在する |
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心の法則(宗教) |
物質の法則(科学) |
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1.霊魂の永遠性 |
質量不変の法則 エネルギー不滅の法則
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2.因縁の法則 原因・結果の法則
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因果律 作用・反作用の法則 動・反動の法則
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3.業(カルマ)の法則 |
慣性の法則
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4.輪廻転生 |
循環の法則 |
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5.類は類を呼ぶ 類は友を呼ぶ
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波長共鳴の法則 |
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各論
1)
霊魂の永遠性
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質量不変の法則 エネルギー不滅の法則 |
● 人間の生命(霊魂)は過去(過去世)、現在(現世)、未来(来世)の三世を循環し、流転し不滅である。
● 霊魂に死はない。霊魂は生き通しのもの。
● 肉体は死ねば三合の灰となると言うが、霊魂は死ぬことはない。人間は死んでも、死なない霊。
2)
因縁の法則 原因と結果の法則 善因善果・悪因悪果
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因果律 作用・反作用の法則 動・反動の法則 |
● 善因善果・悪因悪果。善い原因は善い結果をつくり、悪い原因はは悪い結果をつくる。苦しみをなくすには、苦しみの原因をつくらないようにすること。
● 一人一人の運命は、みなその人の心の結果であり生きざまの結果。運命は自ら造り出した結果である。
● 現在の自分は、過去の輪廻転生と今生に生まれてから現在までの自分の総決算である。
● よいと思ってやってみたのに悪い結果が出たというのは、よいと思ったことが、その人の独断の自己中心的な我(が)の考えであり、実際はよいことではなかったのである。
● あなたの現在は、あなたの過去の総決算。現在の自分を反省してまだ欠点があるというならば、それはこれからの未来において、学ばなければならないものがあるということを示すのである。
● 因縁の法則は確かに実在する。しかし、その因縁の法則を超える道が、慈悲と愛を顕現する道である。慈悲と愛の生活を送ることにより、一切の因縁を超えて安楽の道を進むことができるのである。これが因縁の世界に住みながら因縁を超える道。ところが、日本仏教の中に、因縁を超える道が説かれていないという結果になってしまった。
● 物心両面に共通する法であり、この自然界のものはすべて因縁の法則によって動いており、心も物質も同じく因縁の法則によって動いている。心と物質は次元が違うはずなのに私達は、「それは物だ」と心で認識できるのは、心の本質と物の本質は本来同質であり、心の本源と物の本源は本来同一であるからである。私達が一切のものを心で認識できるのは心と物との本源は一つだからです。過去の想念の総決算が現在の自分であり、現在のあり方が未来の運命を決定することになるのである。
3)
心の傾向性 業(ごお・カルマ)の法則 |
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慣性の法則 |
● スピードを出した車が急ブレーキをかけても、惰性で何メートルか走るように、心が一定の傾向性を持つと無意識にそのことを行う。
● いつも明るく、くよくよしない性格とか、悲観的な暗いことばかり考える人とか、その人によって性格が違うのは、その人がそれまで考えてきた心の傾向性、習慣性によってつくられる。
● あなたは、人生の中で明るい心と暗い心はどちらの方が多かったでしょうか。
● この心の傾向性を、仏教では業(ごお・カルマ)、キリスト教では原罪という。
● 地上での修業の第一の目的は、自分の業(カルマ)を直す(改革する)ことである。
● 生きている間に犯した罪の中で、これをもう一度体験して、反省が本物かどうかを確かめたいと思ったものが「業(カルマ)」として出てくるのです。生まれつきのその人の性格の中に、そのカルマが含まれてしまうのである。
● 業(カルマ)は執着から生まれる。自己中心のものの考え方が執着を生みカルマをつくっている。
●心の習慣性、傾向性がその人の業(カルマ)である。業(カルマ)は大きくわけて三通りある。第一は先天的なもの、第二は両親による肉体遺伝、第三は環境によるもの。一番目の先天性のカルマは気質として現われる。意志の強弱、内面型、外向型、悲観的、楽観的というように、修正には手間がかかる。第二番目の肉体遺伝は血液の型、内臓諸器官の強弱、色盲など、肉体遺伝についてはハンディが、ものの考え方や生活の仕方を変え執着をつくります。第三番目の環境は教育や思想、生活環境によってつくられる。
● 人の欠点の三分の一は、過去世からの業(カルマ)であり、残りの三分の二は今世でつくられたものである。人間には生まれつきのくせというものがある。悪い傾向性だけでなく、善い傾向性もまた業(カルマ)なのである。小さい時からきれい好きだとか、小さい時から人にやさしくするとか、悪い事には少しも妥協しないで潔癖であるとか、それらも前世からの業(カルマ)である。
● 業(カルマ)には善業(善のカルマ)と悪業(悪のカルマ)がある。
4)
輪廻転生 生まれ変わる
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循環の法則 |
● 人間は、あの世(実在界)とこの世(現象界)を循環して魂をみがく。
● 転生輪廻の二つの目的
1.己自身の魂の調和
2.地上の楽園(ユートピア)をつくるため
● 地球は自転・公転して昼夜がある。春夏秋冬の四季の循環。水は水蒸気となり、雨となって降ってくる 水の循環。動物が吐き出した炭酸ガスを植物が吸って、代わりに酸素を出す、これは動物と植物との間に於ける空気の循環。このように人間も、あの世とこの世を循環する。
5)
類は類を呼ぶ 類は類を以って集まる 類は友を呼ぶ
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波長共鳴の法則 |
● 酒好きの人の所へは酒飲みが集まり、騒ぐことの好きな人の所へは騒ぎ好きの人が、麻雀好きな人の所へは麻雀好きの人が、静かな雰囲気の好きな人の所にそのような人がというように、類は類を以って集まる。
● ラジオやテレビは周波数の合った局の放送が聞え、見える。波長が合わないと、電波がそこにあっても聞えないし、見えない。音叉の一方を叩いて振動させると、もう一方も振動して音を発するように、人間も心の波長の合う者同士が一緒になる。
● 磁石を砂の中に入れると、鉄分のみが吸い寄せられ、鉄分以外のものはついてこない。朋友、不仲、こうした関係はすべて、綾なす縁によって自然に結ばれ、あるいは離れていくものである。
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正しい生き方の法則 |
●「八正道とは」●
別の項でも触れているが、最も大事な人間の規範だから再度上げる。
私達は輪廻転生している生命であり、神仏の命によって魂の修行をし、神仏の体であるこの現象界に、調和のとれた仏国土を築く使命を持って生まれてきた。しかし、大自然、万象万物の循環の方式があり、若木もいつか老木と化す。やがては朽ちて行く定めにある。一秒一秒、私達はその循環の刻をきざんでいる。好むと好まざるとにかかわらず、である。従って私達は、現世において悔いのない生活を送らねばならない。それには何事も腹八分のたとえのように、中道を歩むことが大切。苦界から抜け出し、自分自身を救うには、中道の道を歩むしか、人間には救いがないといっているわけである。それがインドでかつて説かれた釈迦のいう八正道である。八正道は人間をして中道を歩ませる規範であり、天国につながるかけ橋である。左にかたよらず、右に曲らぬ中道への道、つまり神性、仏性への道、正覚への道なのである。
一、正しく見ること(正見)
一、正しく思うこと(正思)
一、正しく語ること(正語)
一、正しく仕事をなすこと(正業)
一、正しく生活すること(正命)
一、正しく道に精進すること(正進)
一、正しく念ずること(正念)
一、正しく定に入ること(正定)の八つである。
この八つの規範の一つが欠けても、中道の道は歩めないし、正覚を得ることも、不可能であると説いている。またこれ以上あってもいけない。たとえば、戒を守れとか、瞑想のみの生活を送れとか苦行せよ、といったようなものである。それは、釈迦自身が、色々な経験を通して得た中道への道は、八正道以外にはないと悟ったのであり、八正道こそ神理につながり、この世に人間が生存するかぎり、その神理は生き続けていくものだからである。八正道の目的は慈悲と愛の心なのである。これまで自己本位の見方で見てきた不調和な見方、生活の誤りを正すことにあるのだ。
私達の肉体は、人生航路を渡る舟であり、この舟の支配者は意識すなわち魂である。この魂は神仏の子としての本性であり、私達は神の体の中にいるのである。この現象界において、永い転生輪廻の中で造り出してきた業(カルマ)の想念は、私達の意識の中に記録されている。それを、神の子としての正しい想念によって調和することが修業である。
●「八正道に行ずること」●
私達が現在ここに在るということは、肉体的先祖と両親のおかげであり、両親に孝養をつくすことは当然なことである。この世の修行と、あの世の修行を比べると、この世の修行の方がずっと楽である。あの世は波動の精妙な世界である。思ったこと、考えたことがすぐさまハネ返ってくる。このため、次元が低いと、なかなか反省できにくく、苦界から脱け出すことがむずかしい。ところが、この世は波動が荒いため、思ったことに対する結果が現れるまでに、ある一定の時間が与えられている。従って、結果が出ない間に、これはいけないと反省すれば、そのことに対する訂正が可能になってくるのである。もっとも反面、その出される結果が遅いために、人によってイライラする事もあろうが、波動が荒いだけに修行はしやすいともいえるわけである。この世の十年はあの世の八十年、百年に匹敵する。それ程、この世の修業は楽であり、しかもこの世の修業の結果が、再びあの世に戻った時の自分の生活状況を決定するので、両親に対する感謝、孝養は当然であるとしなければならない。
各人の魂(意識・心)はこのように両親から与えられた肉体という舟に乗り、人生航路に船出する。魂そのものは、過去世、あるいは、あの世の生活を体験してきており、肉体に乗る以前にも個性的傾向があある。これを魂の先天的因果という。肉体という舟に乗った魂は、当初一〇%の意識しか目覚めていないから、この世の目的が判然としない。そのために、これまでの大多数の人々は五官に左右され、自我我欲におぼれてしまう場合が多かった。八正道はこうした各人の一〇%の意識に対して、残りの九〇%の潜在意識、つまり、各人の過去世、あの世の生活の記録を思い出させ、人間としての目的を目覚めさせる。それは釈迦の長い苦行の結果であり、八正道を日々行ずることによって、悟りへの道が開ける、と教えているのである。祈ることでも、お経をあげることでもない。祈りとは感謝の心であり、感謝の心が湧いてくれば、次にくるものは形の上に現すことである。行ずることである。お経は行ずることを説いている。八正道は行ずることである。新約聖書ヤコブの手紙にも、「なんじ信仰あり、われ行為あり、汝の行為なき信仰を我に示せ、我が行為によりて信仰を汝に示さん」と、イエスもいくら信仰があっても祈っても、行為がなければなんにもならないといっている。かくて八正道を行ずることによって、やがて、輪廻の緊縛から遠離した、正覚を得ることが出来る。つまり、内在する偉大な智慧に到達する道は、八正道に在る、ということである。このように八正道は、片寄りのない心の物差しである。中道の心は、私心のないことだ。すなわち神の心である。神の尺度である。そのような生活をした時に、私達は自分を知り、家族も平和で、国も栄え、隣国との調和も保て、仏国土、すなわちユートピアの完成に近づくことができるのである。
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八正道の目的 |
生老病死の迷いを消滅させ、めぐみを与え、悲しみを取り除く慈悲の心で、他を生かし助け合う愛の行為を自然に行えるようになることであり、八正道を学ぶことは、即ち法を学ぶことである。それは又、中道の心の具現にある。
八正道にそった生き方
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善を思い、善を行う生活。即ち慈悲の心で愛の行為をすることが、八正道にそった生き方となるわけである。
なぜ中道でなければならないか
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自然界の生命を育む条件というものは、自然界そのものが常に右にも左にも片寄らない中道の道を歩んでいるからである。空気・水・太陽の熱・光…等、全てのものがはずれることはない。調和されている。人間もこの大自然を構成する一つにしかすぎないからである。
各論
●「正見」●
正見(正しく見ること)
ものを正しく見るには、まず自己の立場を捨て第三者の立場でモノを眺めることである。善なる中道の心の眼で見よ。外見だけでものごとを判断することは避けなくてはいけないということである。つまり「公平」であるということ。正見の反対は邪見である。心のわだかまりであり、自我我欲、自分中心から生まれる。したがって、ものを正しく見よう、公平に見ようとするには、これまでの既成観念を白紙に戻し、全く新しい立場からものを見るよう努めることである。
「感謝」について考えてみよう。年が進むにしたがって、ものに感謝する心が失われていく。すべてが当たり前に動いており、感謝や感動の心は湧いてこなくなる。しかし、ものに感謝できない心は、もとも と、どの辺りから生じてきたのだろう。誰しも子供の時代があった。子供の時は両親から可愛がられる。両親は子供の言うことなら大抵のことは聞いてくれる。近頃は過保護となり、親は子供のこととなると夢中になってしまうようである。このようにして、子供の心は成長するにしたがい、次第に、ものに感謝する心を失ってゆく。学業を終え社会に出ても、仕事をするから給料をもらうのは当然だ、課長は係長より余計に給料を取っているから、それだけ働くのは当然だ、ということになってゆく。こうして感謝の心は一向に芽生えてこないわけだが、もとをたどると、子供の頃のわがままが、大人になっても続いているからである。
すべてが当たり前で、当然という見方をしていては、「正しくものを見る」ことにはならない。正見の目的は、物事の正確な判断であり、そうして、それにもとづく正しい見解を持つことである。以上を要約すると、
一、まず感謝の心を持つこと。
一、事象の一切の原因は人の想念、心にあって、現われの世界は結果である。
一、既成観念を白紙に戻し、物事の真実を知るようにする。
一、正見の反対は邪見になる。常に第三者の立場に立って、自我の思いを捨て、正しく見る努力をするということになる。
一、神の天地創造のことわりを知り、人間は神の子として天孫降臨し、調和を実現することが人間の目的であることを知り、その眼ですべてを見てゆくことをいう。
一、「わが心をよく知る、知って自由自在にコントロールできる」という力を持つことが、正見できる唯一の条件なのである。
ものを正しく見るには、わが身をつねって、人の痛さを知ることである。相手の立場を考え、自分を見ることから始まる。自分中心にして、ものを見ると、片寄った考えや我欲が出て、正しい判断ができない。争いの火種は、すべて片寄った考え方から起こるのである。
● 正思 ●
「正思」とは(正しく思うこと)
思うとは、考えることである。見る、聞く、語る、の行為の中には、正しい中道の神理をもとにした考えがなくてはならない。自己本位の考え方は身を滅する。すべては相互に作用し、循環の法にしたがっているため、自己本位の想念は自分にかえってくるからである。思う、考えることは、行為につながるから、不調和な思いは、記念のフィルムに抵抗をつくり、その抵抗は、自分の意識や脳細胞までも狂わせてしまう。思う、考えることは、創造行為でもあり、自己の運命をよくしたいと思うなら、まず、正しく思うことをしなければならない。不調和な思いを持てば、黒い想念の抵抗を自らつくり、苦しみを多くするだけである。相手を陥れて不幸にしようと思う心は、自分の落ち込む穴を掘っているようなもの。「策士、策におぼれる」の類であり、「人を呪わば穴二つ」である。また、情欲の連想は、心の中で行為につながる。思うことは行為の前提であり、実は行為そのものである、ということを知らなくてはならない。
昔から姑と嫁の争いを聞く。姑が嫁に厳しいことを言うと、嫁はたび重なる叱言に心から嫌な姑だ、早く死んでしまえばよいと思うようになって、そうなると心の黒い想念は現象化され、表面は姑に合わせ、口ではうまいことをいっても、嫁の心にひびくものは姑に対する憎しみとなり、やがて爆発し、争いになってくる。正思の重要なことは、第三者の立場に立って考え思うことなのである。話し合ってもうまくゆかず、自分の非がどうしても認められない場合は、相手のために祈ってやる広い心が必要である。相手に通じなければ、広い心で相手を包んでやる。「どうか神よ、救ってやってください。あの人に安らぎを与えて下さい」と祈ってやる心が必要である。心から正しく思うことは、さらに自分に安らぎを生み、神仏の愛に満ちた光を受けることができるという、これは神理である。もう一つ大事なことは、我慢と忍辱(にんにく)である。この両者は似ているようで大いに違う。我慢とは苦しみ、悲しみを腹の中につめこむことである。自分さえ我慢すれば家の中がまるく収まる、として我慢に我慢を重ねてしまうと、我慢は病気をつくることにもなる。忍辱とは、耐え忍ぶことだが、苦しいことを腹につめこまない、話しても相手がわからなければ、相手の心の安らぎを、調和を神に祈るという、広く、高い心を言うのである。
私達は忍辱を学び、我慢を捨てることである。正思を養うには、これまた反省である。今日一日の考え、思いは正しかったか、正しくなかったかを反省し、過失があれば訂正してゆくこと。こうしてやがて、中道に適った正思を、心の中に確立することが出来る。頭で考えないで、善なる中道の心で考えよ。正しく思えないのは、正見でみたように、自分の心にわだかまりがあるからである。正しく思うことは、正念と密接に関係し、特に重要だから、正念と合わせて理解して欲しい。正見、正思の目的は、慈悲と愛を根底にした中道の思いにある。善の思いには善が返ってくる。悪の思いには悪が返ってくる。思いは、ものを創造する行為である。他を生かし助け合う、正しく思うことが、あなたを調和させ、人々を調和させる根本である。正しくない思いかたは、怒り、愚痴、そねみ、独善、足ることを知らぬ欲望から生まれてくる。学校の入学試験で、友達が合格し、自分が落ちたりすると、怒りや愚痴、そねみの思いがわいてくる。こうした心を持ち続けると、病気、災難、争いを生み、人や自分が嫌になってくる。心はいつも明るく、自由に、公平に、試験に落ちた原因を静かに省みて、なんで落ちたか反省することが大事なことである。正しい思いは、ゆったりとした、余裕のある、片寄らない心から生まれる。正しい思いとは、慈悲と愛しかない。これ以外の思いは、すべて自我からきているのである。
● 正語 ●
正語とは
言葉は言魂といって、相手に伝わる。表現された私達の言葉は、相手の耳を通して不調和か調和かいづれかの現象を生じさせるものだからである。言魂とは、光と音の波動を意味する。私達の心、肉体は光から出来ている。音の波動も、また、光の波として空間に振動して行く。心からの言葉は、そのまま、光の振動となって伝わってゆくが、すぎたお世辞や横暴な語り方は、光の波動に黒い塊りを付着させているため、相手の心を傷つける。傷つけた結果は、自分にはね返ってくるのである。ですから、言葉は素直な心で、相手の心になって語り合うことが大切である。語調の強い言葉は、相手の心に不調和を与えるだけである。売り言葉に買い言葉で、町中や電車の中で口論している人がよくある。互いに、黒い塊りを発散させ、それを食べ合っている。心に黒い塊りをつくり出し、拡大させている。こうしたことを年中やっていると、病気や怪我をする。心がいつも不安定になっているからである。相手が怒っても、決して反発してはいけません。反発は自己保存であり、反発する前に、自分を第三者の立場で見、考えてから結論を出しても遅くはないからである。
怒った心は 怒った人の心に帰って行くものであり、これに心を動かしてはならない。第三者の立場に立って反省し、いわれなきものであれば、「哀れな人だ」と相手を思いやればよいのである。そして、「神よ、あの人の心に安らぎを与えて下さい」と祈ることである。言葉は自分と相手の意志の交流。それだけに常に調和のある言葉を心掛け、調和のある対人関係をつくるようにしなければならない。言葉は、人によって受け取り方が違ってくる。お年寄りに英語を交えたり、若い人に古い話を持ち出し、長々と語られると戸惑ってしまう。「人を見て法を説け」なのだ。「善なる中道の心で考えたことを語るようにせよ」である。
言葉が足りない、言葉がすぎる、というのは、しばしば感情が入るからである。また、誤解や不信が生じるとすれば、それは心の底に慈愛がないからである。慈愛を根底として言葉を発するようにしていれば、誤解や不信というものは起こらず、かりに、不足の言葉があっても、相手が補ってくれることだろう。そうした経験は、おそらく誰もがしていると思う。言葉は、意思の疎通に欠くことができない重要な機能だが、心に愛があれば、言葉以前の言葉が相手に伝わり、こちらの意思が正しく伝わってゆくものである。
心はいつも平静でなければならない。威張ったり、恐れたり、騒いだり、高ぶったりしていると、話す言葉も素直に伝わらない。言葉は、ものごとの考えや、意志を伝える大事な役目をし、こちらの気持ちが正しく伝わらないと、誤解、不信、恨みをかったりする。正しい言葉は、幼な子のような、素直な、屈託のない心しかない。冷静、誠実、愛の心を持って語れということである。
● 正業 ●
「正業」(正しく仕事をすること)とは
私達のこの地上での目的は、魂を磨くことと、仏国土ユートピアを造ることである。感謝と奉仕、そして、より大きく、豊かな心と魂をつくる場が仕事のはずである。ペテロはイエス・キリストの第一の弟子として後世に名を遺したが、当時は漁師であり、学問に縁が薄かったために、伝道には随分と苦労した。そこで、今世は学問をみっちりと学び、魂の経験を広げてゆこうと、今世は学者の道を志したのである。元東大総長の故矢内原忠雄氏がかつてのペテロであったのである。こう言うと人はそんなバカなというかも知れないが、同氏が書き遺した「イエス伝」を見れば、当時の経験がなければ書けないような箇所が随所に見られる。この他現代の著名人の中には、歴史上に名をつらねた人がおり、あの人がこんな仕事をという例が非常に多い。普通は前世の職業が今世につながっている人もあるが、百八十度違った職業を持って今世を送る人も多いのである。今日の人々の心は、足ることを知らぬ欲望にふり回され、自分を失っているといえる。人生の目的を自覚し、大自然が教える中道の心を知れば、足ることを知った生活、つまり、神の子の自分を自覚するならば、欲望、我執に翻弄される無意味さを悟ることが出来るだろう。商人は利を求めるが、利を求めるなとは、正法では決して言っていない。大事なことは、求めて得た利益をどう処分するか、自分だけのことに使うのか、家族や従業員に分け与えるか、不幸な人々に愛の手を差し出すかどうかである。足ることを知らない人達は自分が中心であり、人のことなど構わない。
大気汚染や河川のよごれ等の環境汚染といわれるものは、企業エゴを中心に動いてきたので、今日では、ここから脱皮しようにも身動き出来ないというのが現状である。自分だけのことを考えれば、やがてその結果は自分にハネ返ってくる。足ることを知った生活環境は、仏国土という相互扶助、愛に満ちた世界である。そうして、そうした世界に住めるようになれば、人の心はさらにより広く、大きく進化させることが出来るだろう。そして、第二の在り方は、職業を通して、人々との調和をはかることである。自分を含め、人々の生活を守ってゆくことにある。第三の在り方は奉仕である。感謝と報恩の行為こそ神の偉大な慈悲である。ところが現実はどうだろう。利益のためなら人を押しのけても無理押しする。公害が出ようが、人が苦しもうが、最少の費用で最大の利益を挙げる。それが企業目的になっている。消費は最大の美徳とかいって、地球資源の乱獲に狂奔し、将来の人類の生存のことなどあまり考えずに、儲ればいい、自分さえよければ良いというのが、これまでの企業精神のようだった。さらに労使の争い。労働者も人の子、食えるだけよこせと経営者に迫る。年々エスカレートして、労働者の生活福祉を目的とした組合運動は、ここへきて反省期に入ろうとしている。
経営者と労働者の対立は、やがて、経済全体のバランスを失う要因をはらんでいる。企業エゴ、個人エゴが「正業」から見た場合、いかに人類全体の破壊行為につながるか、魂の前進にブレーキをかけているかが、これで明らかになるだろう。物を主体にしたものの考え方は、必ず破損につながってゆく。心を中心とした物心両面の考え方こそ、私達人類の調和の基礎でなければならないし、人類が永遠の平和を望みたいならば、ウソの言ないその心を大事にし、その心をもとにした生活が大事なのである。経済学博士が事業をやれば、必ず成功するだろうか。失敗することの方が多いのである。スポーツの評論家も同じだろう。実践はあくまで実践なのである。いかに仏教が理解出来ても、自分自身の生活の中でその正道を実践していなければ、それは絵に描いたボタ餅で、味わえない。ということは、もうお解りだろう。地上界のあらゆる生物は、働くように仕組まれている。動物も植物も、そして、鉱物さえも、この地上の生きとし生けるものに、その体を提供している。
人間の場合も、その点は老若男女を問わない。幼児は乳を飲み、眠ることが勤めである。学生は学校で学問を学び、社会人は社会のために働く。主婦は家庭にあって子供を守り、夫の仕事が円滑にゆくよう、安らぎの場を与えるものである。働くということは、人間としての業務である。同時に、職業に就き働くということは、人々に必要なものを提供することを意味し、私達が仕事をし働くということは、自らの生活を維持し、人々の生活を支えることである。そして、各人が人々に奉仕するという愛の心が根底になければならない。今日の社会生活は、それぞれがその業務を分けあい、互いにその生活を補い合い、助け合っている。すなわち、分業化によって、それぞれの生活を支えているというのが実情である。安らぎの安の字は、宀(うかんむり)に女と書く。宀はもともと家の宀からきており、その宀に女が加わると、「安」つまり、その周囲は安らぎとなるのである。
男は、田と力が合わさって男となる。男は外に出て田畠で仕事に精を出す。女は家庭にあって安らぎの場を提供する。男性が女性に美を求めるのは、美は安らぎの象徴であり、女性が男性に求めるもの、力は、たくましさの象徴だからである。男女の性が、それぞれ機能するところによって、人間社会は円滑に回転する。働くということは、人間としての義務である。私達が仕事をし働くということは、自らの生活を維持し、人々の生活を支えることである。ですから、それは愛の行為につながる。愛は他を生かすことであり、助け合うこと。仕事をし、働くことは他を生かすことだから、愛の行為なのである。仕事を単に金儲けの手段と考え、人はどうでも自分さえよければいいと思うのが、社会をこのように混乱させる原因である。ですから、今日の多くの人々は、正しく仕事をしているとは言えないだろう。正業の在り方は、この地上界の調和に役立てることであり、その基礎は愛であり、奉仕の心なのである。再度上げるが、正業とは、次の三つの目的から成り立っている。
一、魂の修業…より大きく豊かな心と魂をつくる場が仕事である
一、地上界の調和…仕事を通して人々と調和をはかる
一、奉仕…感謝と報恩
仕事の目的は、心を開き、魂を豊かにすることである。社会の調和をはかり、奉仕の喜びを感謝すること。この世の中は、一人では生きられない。みんなが、輪になり、助け合い、補い合い、許し合って、生きている。人のものを横取りし、悲しませたりすると、自分もそうされる。世の中の混乱は、人はどうでも、自分さえよければという考えからきている。仕事は、お金儲けのためにあるのではありません。仕事は、様々な人生の経験を積むためであり、苦楽を学んでいく大事な修行場。みんなが輪になり、心を一つにすれば、世界は平和になる。人生のあり方と仕事の目的をしっかり身につけよう。仕事をし、職業に就くことが愛の行為にも拘らず、社会がこのように混乱するのは、仕事を単に金儲けの手段と考え、人はどうでも自分さえよければいいと思うのがその原因である。
信次師の言葉の中から「経済行為の原点は、男女両性の愛の中からここの声をあげた。」

● 正命 ( しょうみょう)●
「正命」(正しく生活すること)とは
正命とは文字通り正しく生活することである。正しい生活を送るには、まず自身の業(カルマ)の修正、短所を改めることである。人間は、眼耳鼻舌身意(げん、にい、び、ぜつ、しん、い)の六根によって惑わされる。過去世の悪い業の種も、そうした惑いから起きる。心は私達の肉体を支配している意識の中心で、自己には絶対に忠実であり、嘘をつくことはできない。ところが、人間は他人には都合が悪いと嘘をつく。そうした自己保存によって、より大きい業を造り上げてしまうのである。私達は、眼で見た現象面のみで判断を下してはいけない。正しく見る心の修行、そうした構えで、的確な判断をし、中道の考えの中から出た調和の心によって結論を出すことが必要なのだ。たとえ人の噂を耳にしても、自身でその原因と結論を判断するような生活が必要であり、肉体の五官のみで判断してはならない。肉体的な諸現象のみでは、正しい生活をすることはできないのである。正しい神理に適う、各人の心の悟りが社会集団を構成し、その中から調和のとれた相互関係が生まれてくるのである。
正しい生活の中で、対人的な嘲笑や、恨み、妬み、そしり、怒りなどの思いは滅せられて行く。大自然の無限の慈悲に対しての報恩の心と行為が、平和な安らぎの光を人々の上に現象化して行くのである。神仏は、万象万物を、すでに人類修行の場として与えているのであるから祈るよりは感謝の生活を具現することが大切なのである。己自身の魂が、実践行為による努力をしない限り、神理に適った修業はできない。すなわち、修業は一秒一秒の連続の中の正しい生活の中に存在していることを悟らなくてはならない。すべて不幸の原因は、己自身にあり、生活の不調和がもたらしたものであり、責任は他にはない。その原因を追求し、その根本を取り去る、心の反省の中から前進があるのである。毎日の生活が調和された中には、常に神仏の光によって保護されるものがある。そして、そこには不幸は訪れてはこない。それは、正しい生活の実践の中に積み重ねられて行くものなのである。
人間は誰しも、長所と短所の両面を持っている。長所と短所というものは、光と影のようなもので、性格が片寄った時に、長所が短所になり、短所が長所に変化する。そうした紙一重の性格をどうすれば長所に変えることが出来るか、短所は自分の心を騒がし、人の心をも傷つけるものであり、長所は自他ともに調和をもたらす性格といえるだろう。長所を伸ばし、欠点を修正することによって、自身の想念と行為はもとより、自分の周囲を明るく導くことができよう。私達のこの世の目的は、この地上に仏国土・ユートピアをつくることである。それには正しい生活を営まねばならない。正しい生活は、まず自分自身の調和からはじめねばならない。自身が調和を保たなければ、自分の周囲も調和に導くことは出来ない。欠点を修正するにはどうするか。それには第三者の立場から、自分の心を、毎日の思うこと、考えること、行為を、反省することである。では、正しい生活とはどうすればよいものか、それは八正道の目的である中道を物差しとして、己の業(カルマ)を修正 し、中道に適った生活をするということである。業は私達の性格、性質の上にその人の短所という形で現われている。人の短所は自分自身にも他人に対しても、よい結果を及ぼさない。怒り、愚痴、優柔不断、独善、気取り、強欲、中傷、そねみ、粗野、多弁、排他、増上慢、引っ込み思案、自閉、出しゃばり、憎しみ、怠惰…。こうした性格は自分自身を孤立させ、自分の運命を不幸にしていくのである。
信次師「 人間は誰しも、長所と短所の両面を持っています。長所と短所というものは、光と影のようなもので、性格が片寄った時に、長所が短所になり、短所が長所に変化します。信長は非常に気短かな男だったようです。しかし、その短気が決断となって現れた時は、神出鬼没の戦術に変化し、戦国の世を生き抜く絶大なエネルギーになったようです。このたとえはあまり感心しませんが、長所と短所というものは、紙一重であり、それは紙の表と裏のようなものといえるでしょう。そうした紙一重の性格をどうすれば長所に変えることが出来るか、あるいは長所とは何か、短所とはどういうものか、となりますと、短所は自分の心を騒がし、人の心をも傷つけるものであり、長所は、自他ともに調和をもたらす性格といえるでしょう。長所を伸ばし、欠点を修正することによって、自身の想念と行為はもとより、自分の周囲を明るく導くことができるでしょう。私達のこの世の目的は、この地上に仏国土・ユートピアをつくることです。それには正しい生活を営まねばなりません。正しい生活は、まず自分自身の調和から始めねばなりません。自身が調和を保たなければ、自分の周囲も調和に導くことは出来ません。欠点を修正するにはどうするか。それには第三者の立場から、自分の心を、毎日の思うこと考えること、行為を反省することです。」
o正しい生活は、まず自分の短所を長所に変えてゆくことから始まる。長所とは、明るく朗らかで、素直であり、人と協力し、助け合い、補い合ってゆく調和の性格である。人間は、みなこうした心を持ち、そうした性格を持っているのだが、環境、教育、思想、習慣などの影響を受けてさまざまな業を作り出してしまう。業が身につくと、業自体が回転を始めるため、怒りの場面にぶつかると、習慣的についカッとなってしまう。つまり、業というものも常に輪廻する。〃わかっちゃいるけどやめられない〃というのが業なのである。人の欠点の三分のには今世のもの、残り三分の一は過去世の業といっていいだろう。己の欠点を正すことは、己の安心につながることであり、己の心が安心し明るくなれば、自分の周囲も明るくなる。このように正命の目的は、精神的、肉体的な調和をめざし、業と化したさまざまな原罪(自己保存の想念)を正すことにあるわけだ。
o正しい生活は、長所を伸ばし、短所を直すことである。短気、わがまま、ひとりよがり、でしゃばり、引っ込み思案、頑固、飽きやすい、気まぐれ、愚図、気取り、嘘つき。人には、いろいろな欠点がある。欠点を放っておくと、人に嫌われ、孤独になる。欠点は、自己本位が原因である。正しい生活をするには、常に反省をし、自己中心から離れて、ものに片寄らない正しい生活をすることである。
● 正進 ●
「正進」(正しく道に精進する)とは
私達の人生は、いくら長生きしても八十年か九十年。その短い一生を目先の利益のために過ごしてしまうことは惜しいかぎりである。意識の一〇%しか働かないとすれば、それも仕方ないかもしれないが、しかしそうした環境だからこそ修業が出来るといえる。何もかもわかったならば、この世に生まれた意義はない。正進の目的は、対人関係と地上の環境を整備し、調和させることである。人は単独では生きられないし、また生まれてもこない。必ず両親がおり、そして兄弟姉妹、夫婦、隣人、友人、先輩、後輩というように、そうした環境の中で生活している。そしてそうした関係の中で、己自身の心が練磨され、尊重し合う心がつくられてゆくのである。最近のように、物質オンリーの風潮が強くなると、親子でも心は他人であり、夫婦は享楽の手段としか考えぬ人も出てくる。友人は利益追求の手段であり、自分以外はすべて他人というようになって、恐ろしいかぎりである。親子といえども魂は違うが、しかし、自分を生み、育て、今この世に在るということは両親の賜である。もしその両親があの世(出生する前に親子の約束を交わす)の約束を果たさず、放蕩したり、あるいは胎児をおろしたりするようなことがあれば、話は別だが、そうでなければ、この世に生まれ魂の修行の機会を与えてくれた両親を安心させるような自分自身に成長することが、人の道に適った生き方である。
夫婦にしても、大抵は前世で夫婦であるという場合が多く、そうだとすれば互いに助け合う、愛の環境を作ることが大事なのである。第二の目的は、私達の共同生活が末長く続けられるように、動物、植物、鉱物資源を整備し活用してゆくこと。資源を大切にする、ものを大切にすることは、道に適った生き方である。実在界(あの世)から見ると、私達現象界(この世)における生活状態や心の在り方は、丁度四方透明のガラスの中でのように見える。心の嘘も分かってしまう。私達はその次元の異なる世界の存在を、否定することはできない。自分の生活がこのようにガラス張りと知ったら、人間は苦しみなどは作れないことを悟るであろう。自分だけの心にしまっている不調和な生活を清算し、真実己の心に忠実な、正しい生活に励むよう実践することであり、精進、この言葉の意味はここにあるのである。
「正しく道に精進する」とは、主として人と人との関係においての言葉である。夫婦、親子、兄弟、友人などは、それぞれの因縁、あるいは約束のもとに結ばれているのである。だから、我欲にもとづいた自己主張をしないで、調和ということを目標に、感謝と報恩の毎日の生活を送ることだ。なかには自分は調和をはかりたいのだが、妻が、友人がなかなかいうことを聞かないという人もあり、別れたほうが良いと思う人もあるだろう。しかし本来は、片方がゆずる心を持って態度を変えれば、相手も変わってくるものだ。意志疎通がないというのも、何か原因があるからで、不調和な根を探し出して、良く反省することが大事だろう。しかし、それでも調和できない人々もあろう。相手の暴力や毒舌が、休まず攻撃してくることもあるだろう。だが私達は、中道から逸脱した相手の姿を感じたら、争ってはならない。争わずに、「この哀れな者に、どうぞ神よ、安らぎをお与え下さい。」と心から願うだけの余裕が欲しい。外部からの辱かしめによく耐えて歪みを造らぬことだ。正進の目的は、人間関係の調和にあるのだ。
人間関係とは、夫婦、親子、兄弟、友人、隣人、そうして個人と社会の関係であり、それは、まず自分の足もとから始まって、全体にまで発展してゆく調和のリズムであり、波動である。夫婦関係は、互いに足りないものを補い合い、よき子孫を育て上げてゆくものであり、親子の関係は、過去世の縁によって生じたものなので、親は子をいつくしみ、子は親を敬うのは当然なことである。兄弟は、互いに向上し合う切瑳琢磨する間柄であり、友人は社会生活のよき協力者といえよう。こうした人間関係の調和に一貫して貫く柱は何かというと、それは他を生かし、助け合う「愛」の心である。愛こそ、調和の姿であり、この地上の光なのだ。この地上は、男女の両性から成り立っている。一方が増えても困るし、減っても困る。男だけでも女だけでも人間社会は成り立たない。現象界は、天地に分かれてはじめて空間が生まれ立体となり、生命の生きる場がつくられる。地球は南極、北極に分かれ地球の自転、公転を正しく回転させ、地上の生命を育てている。調和、中道、愛、慈悲、という言葉の意味を現実的に、実際的によく考えて欲しいのである。そして、こうした言葉が現実的に生きてくるのは、常に複数という関係の中においてである。これらの言葉は単独では決して成り立っていないことを考えてみてほしい。正しく道に精進するとは、私達が複数という社会の中で、他を生かし、助け合ってゆくことによって、はじめてその意義が生まれ、本来の目的に適ってくるわけなのである。人の道は、慈悲の心と、愛の行為である。私達は、両親の愛、兄弟の協力、隣人、友人の助け合いの中で生活している。両親を敬い、兄弟仲良く、隣り近所を大切にすることは、感謝のあらわれである。感謝報恩のない人は亡びる。私達は、魂を磨くために生まれてきたのだから、こうした協力者に感謝しながら、助け合っていかなければならない。大自然は、調和している。心は、いつもそれに合わせ、生かされている恵みに、報恩を持って答えよう。人を悪く言う前に、自分を見よう。不平、不満は、神様の慈悲と無限の恵みを忘れた心である。 正進の目的は人間関係の調和にある。正命の目的が自分を正すものだから、その次にくるものは人々との調和なのである。人間関係とは夫婦、親子、兄弟、友人、隣人そうして個人と社会の関係であるのだ。
● 正念 ●
「正念」(正しく念ずること)
念とは、思い願う、エネルギーのことである。正しく念ずるとは、現代宗教の多くは、ただ祈ることのみが、念ずることだと思っている傾向がある。経文というものは、拝むための道具ではない。経文の中に書いてある意味に、私達の眼は向けられなければならない。特に仏教は、難しい哲学化した経文を上げることが、一つの勤行(ごんぎょう)と化している。これは大きな間違いである。その中の意味にこそ意義のあることをなぜ悟らぬのであろうか。ありがたいお経だと思ったら、その経文の文字の意味を実践するところに意義のあることを悟らなくてはならない。亡くなった人々に、お経を上げることによって功徳があると信じていることは、大きな間違いなのである。なぜなら、もしこの世を去った人々の霊が、その経文すら分からないのになぜ功徳があるか、ということを考えてみることである。自分のわからない言葉で相手から語られて、その理解が行きとどくであろうか。人間は現世の生活状態、心で思っている状態を持ち続けながらこの世を去っていくものである。あの世にも慣性の法則があるのだ。ここでいうそれは現代の意識を持ったまま、次元の異なった世界に循環して行く死者を悟らせるには、時間がかかるということである。人間として正しい生活をした己自身を知っている霊以外は、地獄にいることを私達ははっきりと知ることも可能だからである。
それだけに私達は、正しい心の在り方を悟り、神仏に祈ることも、ただ自己保存の祈りではなく、感謝の念を持ちその心で実践する中に、より以上の力を神仏から得られるのである。私達が歩んできた過去を消すことができないように、私達の想念は、すべて記録し保存されることを忘れてはならない。しかし、不調和な念も、反省することによって、私達の心は進化するのであるから、反省のない人々は哀れである。反省は神仏が人類に対するために与えた慈悲なのである。また、神社仏閣に参詣することはその人の自由であるが、神仏はその人に対する幸、不幸の責任をもたないということを知らなくてはならない。正しい心の念と行為が、幸、不幸を造り出すのである。正しい念により、その行為が神理に適っているならば、私達に協力して下さる指導霊や守護霊達は、必ず神の光を与えてくれる。またこの地球そのものも神体の一部であり、大神殿であるから、正しい念が必ず通ずる。神社仏閣は、将来人々の心の修行所、神理を学ぶ場所と変わり、また多くの人々の娯楽の場と変わって行くであろう。
現代の神社仏閣の中には、霊域の高い場所もあって、実在界の諸天善神が、常に連絡場所として一念が現象化される場合もあるが、そのような神殿は極めて少ない。したがって神社仏閣はどこでも霊域が高い所だと信ずることは危険であり、かえって不幸を呼び込むこともあり得ることを悟らなくてはいけない。正しい念を持っている人々は、必ず神仏の光によって保護され、他のよからぬ不調和な霊に支配されることはない。その反面、不自然な新興宗教や不調和な仕事に専念している人々に、果たして心の安らぎがあるであろうか。自己の心の中に小さな枠をはめて、常に格闘を続けているため、不幸になっている人々は少なくないのである。人間は生き神様になどなれるものではない。神仏の心と調和することは、自分自身の正しい念と行為以外にはないのである。神は己の心にあり、としらねばならない。念はエネルギーであり、そのエネルギーは、必ず自分自身に返ってくるので、正しい目的ならばいいが、そうでないと大変なことになる。祈りや念によって大石を空中に持ち上げたり、大木を倒したり、風を呼び雨を降らせるといった術が行われていたようだが、こうしたことは本来、邪道である。しかし、人間の中にたくわえられたエネルギーは、大きな山を動かすことも可能だし、それは神が大宇宙を創造されたように、人間もまたこうしたことが出来るように仕組まれている。それ程人間は偉大なのだが、反面、邪の道に念力を使うと地獄に堕ちるしかない。私達は常に、念を正しく使うことが大切であり、そうした時に、守護、指導霊が力を貸し、より偉大な、平和な仕事が成就できるようになるのである。
● 自己の欲望にもとづいた念の作用が働くため、社会は争いと矛盾に満ちたものに変わってしまうのである。念のあり方はこうした意味で、足ることを知った、調和にもとづいたものでなければならない。
● 正念の反対は邪念である。邪念とは自分の都合だけしか考えない自己本位の想念であり、欲望の想念である。念の方向が自分本位であればあるほど苦悩が多く、心に業(カルマ)をつくる。人々の心に業(カルマ)が多く生まれると、真実とニセものの区別がわからなくなり、地上界は末法となってゆく。念はエネルギーであり、心の中の創造行為を形に具象化して行くものである。一度発した念波は、一秒間に地球を七回り半もまわる光以上の速さで自分に返ってきます。善念は善念として返り、悪念は悪念として、もとの発信者に返ってくるのである。ですから、常に安心した境涯を毎日の生活の上に望むならば、自分さえよければ外はどうでもという自己保存の念を改め、他を生かす、助け合いの、愛の想念、中道の法を、まず、心の中に確立させることです。思うこと、念ずることは、万生万物の創造の根源であり、仕事をなし得るエネルギーであるから、これを正すことがなにをさておいても重要目的であるといえる。人の幸、不幸の分かれ目は、心の中の思うこと、念ずることによって決定されてゆく。思うことは現われる、念ずるとその通りになるというが、私は金が欲しいと日頃から思い念じているが、さっぱり金が貯まらない、これはどういうわけか、というのである。
お金が欲しい、金を貯めたいという欲望は大抵の人がそれを思い念じている。念は人によって強弱がある。みんなが同じ物を念じると、その念はぶつかり合い、交錯してゆく。そうしてやがて交錯した念は、強い念に弱い念が吸収され、強く念じた人に集まる。つまり、それを望む念の強いところに金は集まってくることになる。金が集まらないという前に、人も欲しがるお金(お金は有限)を集めれば集めただけ、その反作用もあるということを考えて欲しい。いっときの悦楽を求めることと、長期間にわたる苦悩を考えるならば、もともと一定限度しかない物を奪い合う愚かさに気付くと思う。それは本人の今生での意志とは関係なく働く。今生の目的が経済的問題よりもむしろ人を救うことにあるとすれば、その目的を外れて意志をいくら強くいだいたとしても、お金は集まらないことになる。こうした意味から念の作用は、その人の今生での目的と合致した時に、もっともよくその効果を現わし、最大に発揮される。
この世の中は、人の念によってできている。あれが欲しい、こうもしたいという心が、いろいろなものをつくりだしている。世の中には、人々に役立つものもあれば、滅ぼすものもある。正しい念は、人に役立つものである。それには、神様に心を合わせ、祈る心を忘れず、欲望を募らせてはならない。念というものは、こうしよう、ああしよう、こうありたい、という目的意識であり、意志の決定であり、行為であるわけだ。念はエネルギーであり、心の中の創造行為を形に具象化して行くものである。いつも中道の心を忘れず、正しく生きることである。
● 正定 ●
「正定」(正しく定に入ること)とは
正定の在り方は、日常生活における正しい想念で生活が行えることを意味する。今日一日を振り返り、八正道の正しさに反した想念と行為がなかったかどうか。あったとしたら、どこになぜ…というように、静かに反省し、思念と行為について検討することである。そして正道に反したことは、神に詫び、明日からは二度と再び同じ過失を繰り返さないよう努力することである。つまり、正定の第一歩は、禅定という反省的瞑想の対話となり、菩薩の心である慈悲と愛の行為が出来るようになることが第一の目的。第二の目的は、禅定の心が、そのまま日常生活に生かされてゆくことである。禅定は、日常生活をより豊かに、自己の心がより大きく、広く、神理に適った生活が出来るようになるためのものだから、禅定のための禅定、つまり反省のための反省では本当の反省にはならないのである。正しい神理の実践生活の中で、定に入ることにより、私達は体が宇宙大に拡大され(宇宙即我・うちゅうそくわれ)、神仏の意識と調和され、心の安らぎを味わうことができるのである。正法は一国家のみに通ずるものではなく、全宇宙の神理であることを知らなくてはならない。仏教も、キリスト教も、ゴーダマの時代、イエスの時代に帰ることが先決である。
神理は時代に拘束されるものではない。物質文明は生活の智恵であり、より高い次元に心を持つことが万物の霊長であることを悟らなくてはならない。今から二千五百年余り前に、正法神理に添う生活は、中道という物差しで、原因を取り除く反省の行為を怠らぬことである、と。また、二千年前にもイエス・キリストが愛を説き、愛に生きるには、まずその罪を懺悔することであると言っている。反省も懺悔も、ともに同じである。仏教では反省を止観といっており、禅定の基礎も中道に照らした反省にあった。中道に照らした反省とその行為が生まれてくれば、間違った原因が取り除かれたことになったのだから、神の光がふりそそがれ、現象生活は自然と整ってくるのである。本来与えられていた慈悲の光を、自らの力によって心のスモッグを取り去り、再び受けるのである。ゴーダマ・シッタルダーは、六年の苦業の末、三十六年間の過去を反省した。一週間の反省の後、一切の苦しみというものは自分自身が作り出し、苦しみから解放されるには、苦みの原因を作らないようにすればよいことを発見していく。そしてその後、四十五年間この神理を説き、それは後に中国に渡り、日本に伝わった。現代は偶像を拝む他力にかわり、信仰は形骸と化している。葬式仏教、観光仏教、学問仏教が今日の仏教の姿となってしまった。しかし、人間の心というものは、決してそうした形骸化されたものではない。一秒一秒の生活、心の在り方が信仰であり、勇気を持って修正する己自身に、全てが託されている。もっとも反省、反省と反省ばかりに終ると、自らの心を狭く小さくしてしまうから注意すべきである。
● 反省した時、間違いを犯したことを発見したならば、その間違いはどうして起こったのかといった、自分の心の中の原因を追及して取り除くことが大事なのだ。
● 私達は、自己反省を通して、物の道理が理解され、同じ間違いの愚かさから解放されてゆく。反省こそ、神が人間に与えた慈悲であり愛の能力と言えよう。動物にも本能、感情はあるが、反省という理性の能力、知性の働きは、人間をおいて他にはないのである。
● 短気の性格を作った年代は、大体三才頃から十才位までに形作られる。それは子供の頃のチヤホヤ育てられた我儘の生活に原因があったということである。もちろん人によって、その短気の性格が二十代、三十代につくられる場合もある。正しい反省は、心を高め、神様に通じる。今日一日の生活を振り返り、友達や両親、兄弟達を困らせたりはしなかったか。もし、困らせたり、自分だけ楽をしていたとすれば、そうした心はどうして生じてきたか。反省は、こうした心の動き、行ないについて、右にも、左にも片寄らない慈悲と愛の、神の物差しを持って自分をながめることなのである。
● 「正定」の第一歩は禅定という反省的瞑想から始まり、第二は反省後の心の統一、第三は守護・指導霊との交流、第四は守護・指導霊との対話…第九は釈迦・イエス・モーゼの瞑想である。禅宗の目的は心を空(カラ)にして、その空の中から己を見い出そうとするらしい。一般的には無念無想になることが、仏を見性することになるらしい。ところが、釈迦の教えた瞑想はそうではない。瞑想の目的は反省にあって、一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであった。瞑想のための瞑想ではない。瞑想的反省は、こうした心のゆがみを修正し、本来の丸い豊かな心にするのである。反省は、悪かったと気付くことだけが反省ではない。「二度ともうしません」という誓いと、これからどうすればよいか、その時どうすればよかったのか、という事がはっきりと決心されていないと反省したとは言えないのである。
● 反省する場合に大事なことは、まず自分の善い所、長所をしっかりと知り、自分にはこういう良い所があることを確認した上で、悪い所欠点はないか、ということを反省することである。そのような反省をすると、欠点を長所に置き換えることがラクになる。それを「反省」というと、悪い欠点だけを探そうとするから、反省することが苦しくなり、自分がいやになるのである。そして、悪い所だけ、不満足な点だけを見つけて探し出しているから人生が暗くなるのである。

● 禅定(瞑想と反省)の実際 ●
反省の二通りの仕方
o高橋信次師は反省の仕方には二通りあると言った。
一、年令順、一才から五才、五才から十才と五年毎に区切って反省する。
二、年令に関係なく、一番心にかかっている大きな問題から、金の問題、女性の問題、人間関係と、問題別に反省する。また、禅定をする時に、坐っている自分の背の高さよりも大きめの神の光の輪を描きなさい、と言った。
〈誕生から十歳〉
● 誕生から十歳までの間の心の曇りを取り除く。次のように自から問いかけて反省してゆく。
o両親に対して親不孝をしなかったか。
o片親で育てられての心の歪みは、何が原因であったか。
o淋しさや悲しさの原因は、すべて自己保存で、そこに感謝の心があっただろうか。生まれた環境を選んだのは、自分自身が魂の修行所として望んで出てきたのである。その点を、私達は忘れてはいないか。兄弟、姉妹の関係も、実在界においてお互いの縁によって結ばれたのである。
o兄弟喧嘩をしなかったか。憎しみや妬みやその他の諸問題で心の歪みを作らなかったろうか。その原因は?…。
o幼な心のまま、自分の欲望を満たすため、両親を困らせたことはなかったか。
o友達の持っているものを欲しがらなかったか。
o両親や兄弟姉妹、友人に嘘をつかなかったか。
※二号さんや三号さんの子供として生まれた人も、その場所で自分自身を修行しようとして生まれてきたのだ。不平不満や心の歪みはつくるべきではない。そんな中であっても、人生に疑問を持って、神の子としての自覚に芽生え、豊かな心をつくってこよう、人々を救ってこようと、望んで生まれてきたということを忘れてはならないだろう。
o世間体を考えて、狭い心は作らなかったか。
o両親に感謝の心を忘れてはいなかったか。
※モーゼは奴隷の子であった。イエスも貧乏人の子供であった。しかし、自ら悟って多くの人々に慈愛の道を説いて救ったではないか。
o下層階級に生まれたことを卑下しなかったか。それは、人より良く見せようとする自己保存の心なのだ。心まで貧しくなってはならないということを知るべきだ。貧乏人であることや下層階級を理由に、人間としてなすべきことを忘れ、世間の人々のせいにして努力しない人々は、心から貧しい人々である。神の子は、金や地位には関係がないのだ。たとえ家柄の良い家に生まれてきたとしても、人は生まれてきた時は裸であり、家柄を背負ってきたのではない。底辺の家庭に生まれても、裸一貫に変わりはない。家柄も、長い歴史の過程において、努力したもの、権力のあった者、武力、腕力、経済力、社会人類に貢献したものなどによって、人間の知恵が作り出したものである。しかし、死ぬ時は、何も持ち還ることができないのである。いかに心から社会人類のために尽くし、自らが正道に生きたかということが、その人間の価値を現わすのである。お金や地位には、全く関係がないということだ。そうしたものに惑わされているということは、心の貧しい欲望の深い者達なのだ。人生の偉大なる目的を思い出さなくてはならない。こうして心と行ないを反省し、間違ったことを素直に認め、心から神に詫び、二度と同じ誤ちを犯さない時に、私達の心の中の曇りは取り除かれ、あの太陽の光がすべてに平等に降りそそぐように、神の慈愛の光は、私達の心の中に光となって満たされるのである。
〈十歳から二十歳までの反省〉
この年令は、ようやく自我心が芽生え、自己保存、自我我欲が次第に強くなり、ひとりよがりの判断が多くなってくる頃である。
o両親に対して、育ててくれた感謝の心があったろうか。
o報恩の行為を惜しまなかったろうか。
o恨む心がなかったろうか。軽蔑の心がなかったろうか。
o嘘をついて、病気をして、不勉強で、心配をかけなかったか。
o親の言葉や注意に、反発しなかっただろうか。なぜ反発をしたのか。
o両親の行為を無視したことがなかっただろうか。仕事の手伝いをしただろうか。
o兄弟、姉妹で喧嘩はしなかっただろうか。
o恨みや、そしりや、そねみを持たなかったろうか。
o兄弟、姉妹に迷惑をかけなかったろうか。その所有物を奪ったり、ごまかしたりしなかったか。
o自分にしてくれた行為に、感謝の心を持ったろうか。
o友人に対して、軽蔑したり、恨んだり、競争心を持ったり、そしったり、悪い行為に誘ったり、秘密や特技を盗んだことはなかったか。
o友人に誘われて悪い行為をしなかったか。
o偽りの恋をしなかったか。
o真実の心で友人と接したか。自己保存のために利用しなかったか。
o友人の物を借りて、心から感謝したろうか。
o友人からいろいろなことを教わって感謝したろうか。
o心と行ないの在り方を、常にどこにおいたろうか。社会人類の幸福のため、少しでも協力をしたであろうか。
o乞食を見て軽蔑をしなかったろうか。職業の上下に軽蔑の心を持たなかったろうか。
o友人の悪口や告げ口をしなかったろうか。
o自己顕示欲が強くなかったろうか。
o他人の心や身に、傷を負わせたことがなかったろうか。
o増上慢な言動や行為をした人々に、無慈悲な行動をしなかったか。
o異性に対して、本能や感情のままに走らなかったか。
o友人を不幸にさせたことはなかったろうか。
o自分の感情で、友人に迷惑をかけなかっただろうか。
o世話になった人々に、感謝の心を持ったろうか。
o常に不平不満の心を持たなかったか。
o自分さえ良ければ良いと考えたことがなかったであろうか。
o肉親や他人を恨んだことがなかったろうか。
o人のために心から尽くしたことがあるだろうか。電車や自動車の中で席を譲ったことがあるだろうか。
o道路や他の場所を自ら汚したことがないか。
o先生に対して感謝の心があっただろうか。一方的な批評をしなかったろうか。尊敬の心があったであろうか。
o学校の備品や建物を故意に壊したり、汚損したことがないだろうか。
o自分達の考えを勝手に押しつけなかったか。
o先生に迷惑になるような心や行為はなかったろうか。先生に対して、その授業を怠るようなことはしなかったろうか。
o勤め先について、不満を持たなかったか。感謝の心を持ったろうか。仕事を途中で放棄したことはなかったか。
o特定の集団組織の中で、思想的な闘争をしなかったか。
o目上の人々を恨まなかったか。怒らなかったか。妬まなかったか。
o自分の学歴や地位の上にあぐらをかいたり、他人をそしったりした事はなかったか。
o心の不満を物にぶっつけたことはなかったろうか。
〈二十歳から三十歳〉
二十歳から三十歳のむずかしい時期もいろいろと反省する。このように、過ぎ去った人生を振り返り、悪い欠点を修正して行くことによって、心の浄化ははかれるのである。
〈三十歳から四十歳〉
三十歳から四十歳の反省は、家庭問題、対外的なこと、その範囲は大変に広くなる。家庭にあっては、夫婦、子供、両親、兄弟などの問題が主体的に起こり、外においては、友人、上司、仕事の関係で、欲望も出、もっとも心の歪みを作り出しやすい年代である。商売上の問題としては、厳しい修行の場であるから、不調和な心と行ないが非常に多くなってくる。目上の者に対してはへつらい、部下に対しては増上慢、見栄や外聞に心が奪われ、人生において要領良くなる時期である。蔭では地位に対する欲望、友人との競争意識、他人をあなどるなど、その想念の曇りは心を覆い、苦しみの種を蒔く時である。妻に対しても、仕事にかこつけて嘘をつき、遊蕩にふけるのもこの時期である。嘘は嘘を生み、精神的、肉体的に、いろいろな現象が出てくる時だ。妻はまた夫に対する感謝の心を忘れ、不満の日々を過ごす。夫婦の縁は、すべて仕組まれた環境なのだ。縁あればこそ、広い世界で結びつきができたのである。夫婦の心からの調和は、家庭を明るくして神の慈愛に包まれ、子供達も素直に育って行くことによって計れる。親と子の対話、そして、意志の疎通を欠かなかったか。母として、父としての態度や行動に疑問の点はなかったか。近所、隣との交際で、悪口を言ったり、そしり合ったりしなかったか。人々のための奉仕の実践を怠ることはなかったか。心の中に作り出される、こうした不調和な問題を反省して行くに従って、誰の前でも心を裸に出来る人間になること、これが大切だといえよう。そして、「一日一生」と感じ、いつでも無常の風を見、しかし何の思い残すことなく執着を断つ。そうすれば、光明に満たされ、天上界に還ることが出来るのだ。反省は、盲目の人生航路において、犯した罪を除去するため、神が私達に与えた慈愛を受けるチャンスであるからだ。
瞑想・禅定
「瞑想」
第一段階は、反省。第二は、反省後の心の統一。第三は守護・指導霊との交流。第四は守護・指導霊との対話。こうした区別は、反省を重ね、心の曇りを払い、日常生活に反省の結果を行じることによって、理解されてくる。第八は如来の瞑想であり、座していながら、外界の動きが手にとるようにわかってくる。第九はゴーダマ・ブッタ、イエス、モーゼの瞑想である。過去世の修行により、また今世で徳を積むことによって第六までは誰でも上がれる。しかし、それ以上はなかなかむずかしい。 禅宗の座禅の目的は、心を空(カラ)にし、その空の中から己を見い出そうとするらしい。一般的には無念無想になることが、仏を見性することになるらしい。ところが、ゴーダマ・ブッタが教えた瞑想はそうではない。毎日の想念と行為の在り方が、中道に適ったそれであったかどうかを確かめ、誤りがあれば神に詫び、智恵と勇気と努力で、二度とその過失を繰り返さない自分を修正して行くことにあった。したがって、瞑想の目的は反省にあって、一日二十四時間の、正しい生活をめざすものであった。
瞑想のための瞑想ではないのである。瞑想的反省はこうした心の歪みを修正し、本来の丸い心にするのである。無念無想は、危険極まりのない心の空白を意味し、いつ他界者が自分の意識の中に侵入してくるか分からない。瞑想中でも自分を失ってはならない。大我の自分は、どんな場合でも、生き通しの自分であり、瞑想が深くなれば、ますます大我(無我ともいう)の自分が躍動してくるものである。夜は昼間と違い、雑音が少ない。草木の活動も静まり、動物達も眠る。それだけに、夜の瞑想は深くなり、心が統一しやすい状態になる。昼間は、家事や仕事に気をとられるので、天使達の通信をキャッチしにくい。ゴーダマ・ブッタの瞑想がほとんど夜、それも今の時刻で午前一時から三時の間に集中したのもそのためであった。ただし反省の瞑想をせずに、雑念を払う意識の空白状態や執念に心を奪われると、魔が入り易い。これは昼間よりも危険である。百鬼夜行というように、夜は魔も活動しやすいのである。
反省の瞑想をしておりながら、それを終えて夜眠れなくなるような場合は、反省の仕方にどこか間違いがあり、反省ではなくて、何かにとらわれているのである。こうした場合は、地獄霊が近くにいて、本人の意識に入りこもうといており、まことに危険である。こうした状態が毎夜続くと、ノイローゼになっていく。これは反省ではなく執着なので、こういう時は反省の瞑想はしばらく休まれた方がよい。正道にもとづいた反省をしている時は、守護・指導霊が近くに来ており、本人を守っている。魔は絶対に近寄れないものだ。したがって瞑想を終えればすぐ就寝できる。こうして反省の瞑想を続けて行くうちに、守護・指導霊との交流が始まり、対話が可能になってくる。つまり、心の曇りが晴れてきて、いつ、どこにいても、守護・指導霊の導きが可能になってくる。
「瞑想」「禅定」
第一段階 反省
第二段階 反省後の心の統一
第三段階 守護・指導霊との交流
第四段階 守護・指導霊との対話
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第八段階 如来の瞑想
第九段階 ゴーダマ、イエス、モーゼの瞑想
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自然界の調和にみる中道 |
人間を含めた大宇宙は、常に相互に関係し合って動いている。太陽系一つとっても、太陽を中心に九つの惑星が相互に関係し、太陽系という体を形作っている。地上の生活にしても動・植・鉱の相互関係がなければ成り立たない。その相互関係は何に起因するのだろうか。それは大自然の意識(心)なのである。秩序整然とした意識の働きがあればこそ、大宇宙も、地上の生活環境も調和されている。地球という球体が出来上がったのは、今から約三十三億年前(高橋信次)のことである。その頃は、火の玉であり、太陽のように燃えさかっていました。生物が住めるようになったのは今から約六億年前のことである。その軌道は昔も今も変わりない。偶然にしては余りに出来すぎていると思うのが当然である。大宇宙には意識 (心)が存在する。客観的にこれを説明すると、太陽の熱・光に強弱がない、空気に増減がない、一日には昼と夜があって、決して一方に片寄らない。太陽の熱・光が強くなったり、弱くなったりしたらどうなるだろう。地上の生命は生きていけない。空気が増えたり減ったりしても同じことが言える。私達の生活態度も、食べすぎれば腹をこわし、惰眠をむさぼれば体力に抵抗力を失う。もっと体に影響を与えるものは心である。心配事があれば食欲は減退し、睡眠はさまたげられる。怒鳴ったり、腹を立てれば血行は悪くなろう。人間の体も無理はいけないし、怠惰もいけない。人間は大宇宙、大自然界の中で生活している一構成員にすぎない。このように、大自然の心は、私達に中道という調和ある秩序を教えているいうことになる。大自然は調和という中道の心を教えているのである。
● 中道 ●
自然界にみる中道のすがた
強塩基NaOH(か性ソーダー) ― 塩NaCl ― 強酸HCl(塩酸)
H2(水素) ― H2O(水) ― O2(酸素)
無酸性(胃) ― 中和 ― 胃酸過多
ある(自覚) ― 自覚なし
α線、γ線、X線、紫外線 ― 七色、虹 ― 赤外線、超短波、短波、ラジオ線
100℃ 風呂 ― 適温 ― 0℃ 風呂
(冬)塩基性土壌 ― 中和 ― 酸性土壌(夏)
高気圧 ― 春秋一気圧 ― 低気圧
社会主義(唯物論) ― 慈悲と愛 ― 資本主義(物質経済が基本)
愛情過多(父母) ― 中道 ― 愛情過少(父母)
自己弁護 ― 中道 ― 自己保存
自己主張 ― 中道 ― 自己嫌悪
自信過剰 ― 自信・八正道 ― 自信喪失
増長慢 ― 中道 ― 自己損失
開放性ノイローゼ ― 中道 ― 自閉性ノイローゼ
躁 ― 中道 ― 鬱
体温40度 ― 36度 ―
心と肉体をすこやかに、健全に保つためには、中道という神意にそった生活をすることが必要である。
●「心の法則」とことば ●
心身一如
色心不二 |
心身一如(しんしんいちにょ)という意味は、心と肉体は一体となって調和している。また、色心不二(しきしんふじ・しきしんふに)とは、色とは形あるもの、肉眼に見えるものである。人間は形ある肉体と眼に見えない心を持って生活している。不二とは、二つとない、つまり一体になってという意味で、真意は肉体と心の調和を意味し、どちらにも片寄らない状態をいっている。肉体を酷使すれば病気になる。反対に怠けていると肉体も精神も退化し、すべてに不調和をきたす。片寄らない中道の精神と肉体をつくることが理想である。この言葉は天台智ぎ、 という人が使われた。心身一如も色心不二もともに同じことを言っている。「健全なる精神は健康な肉体に宿る」まったくその通りである。物と心も、ともに大宇宙から出発し、この心を起点にして、万生万物が出来上がっているので、人間の場合、心と肉体とを、すこやかに健全に保つためには、中道という神の意にそった生活が必要なのである。
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有から縁によって有が生ずる
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この現象界(この世)は無から有を生ぜしめることは不可能なことである。有から縁によって有が生ずることは、崩すことの出来ない現象であり法則である。エネルギー不滅の法則も、質量不変の法則も、まったく有から有が生じ、その有が形を変えて現象化するに過ぎないということを示していると云える。私達の心と行ないについても、同じことが云える。苦しみ、悲しみ、喜びの原因はすべて、五官と心がつくり出したもので、無から有が生じるものではないのである。
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一念三千 |
人間の想念、一口に心と言われる各人の意識層(精神)は、一念三千といって環境の変化、その時々の気分で、めまぐるしく変わる。人の心というものは、羽根をつけた鳥のように、自由自在に悪の想いには悪が、善の想いには善が、その心の針の方向によって、人の心は三千世界、つまり、自由自在、そうして無限の大きさと広さを持っているものである。 人の心は本来、自由である。その広がりは、宇宙大にまでおよんでいる。普通は、その広がりを体験として認識していないだけの話である。しかし、私達が夜空の輝く星々を見て、大宇宙は広いなあーと感ずる心は、宇宙大に広がったその心を客観的に感じているのである。誰しもそうした心を内在しているのだ。そうした広い心を持ちながら、その広い心が生活の上に現われてこないのである。これは何に原因があるのだろう。肉体という、五官(眼・耳・鼻・舌・身)に心が奪われているからだ。そのために、人の心は、非常に小さく、あるいはゆがんでしまい、本来、広く、丸い、豊かな心が生かされないままになっているのだ。
「仏教に一念三千という言葉がある。一念三千とは、人の心はどこへでも通ずる、そのことを言っているのだ。悪を思えば悪、善を思えば善に通ずるのである。心の針は、この世だけでなくあの世の世界に、そのままストレートで通じてしまう。そのため、五官に左右され、自己保存の心を動かし、人を憎み、怒り、そねみ、妬んだりすると、そうした想念が集まっている地獄界に、意識が通じ、やがて自分自身がそうした想念の渦にはまり、さまざまな障害となって生活上の問題を引き起こしてくる。反対に、広い心になって、愛と慈悲の生活、人を生かす正道を実践しておれば、天上界に意識が通じ、守護・指導霊の光を受けることになる。人間の心は、丸く大きく、豊かなものだ。広い心は、光の天使の導きを受ける。いつどこに行っても通信が送られ、その人を善導してくれる。肉体人間は、明日の生命すらわからない。それだけに迷うが、しかしそうした迷いの中にあっても、正道を守り神仏を信じ、広い心を失わなければ、必ずその人の前途に希望を与えてくれる。五官に動かされた狭い心は、広く大きく自由な心を自ら閉ざすものである。一念三千の言葉は、中国から来たもので、天台智ぎ、という人が使ったものである。一念とは、想念の針である。こうしたい、ああしたい、あれが欲しい、これが得たい、という想念である。人間は二つのことを同時に思うことはできない。一つしかできない。その一つの悪を思えば、地獄に通じ、善を思えば天上界に通じてしまう。したがって、悪は思ってもいけないのだ。三千とは、三という数は割り切れない数である。二とか、四とか、六なら割れるが、三は割れない。千という表現は、大きいことを意味し、そこで、三千とは無限大という意味になる。一念三千は無限大の方向に突き進む、ということだ。悪を思えば、悪の極に、善を思えば善の極に通じる。一念三千を角度を変えて解釈すると、人の心の無限性、つまり、自由を言っている。しかし、その自由な心を、悪につなげればやがて自分自身の首を縛る事になってしまう。」 高橋信次
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人を呪えば穴二つ |
人間の想い、念力というものは、全世界に波紋となってひろがり、それに類する人々を傷つけると同時に、その念波はやがて自分に返ってくる。地球が丸いように、念波も円を描きながら発信者に返ってくるのである。これは法則である。自分に返ってきた時は、人々の苦しみの想いを受けているので、一の念波は数倍の念波に変わっている。このため、穴二つとは身が二つあっても、なお足りないということである。呪いの念波はまことに恐ろしいもの。怒りやそねみも同様である。
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宇宙即我 |
悟りの段階が進むと、観自在心という自由な心を得、生死を超えた大悟を獲得するようになる。この時、人は真我の自分を発見するのである。真我こそ実在の神の子であり、神である自分である。宇宙即我、これこそ真我の自分である。わかりやすく言うと、神の子の自覚、その境地を宇宙即我と言う。高橋信次師が初めて使われた言葉である。そして、園頭広周師は現在、我国でただ一人の体験者である。
宗教は、「人間の生き方」、「人生のあり方」を説くと同時に、「心の法則」や「宇宙の真理(神理)」を説いたものである。一方、道徳は、神の存在を認めず真理を説いたもの。
宗教は、神の存在を認めて、真理は神によって作られたと説くのである。
心の法則(宗教)と物質の法則(科学)は一致する。
宗教=科学
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●「道徳と宗教の違い」 ●
道徳は、本来宗教に源を発しており、その宗教の目的を達成するために、当然とらなければならない人間としての生き方、それを道徳と言うのであり、道徳は宗教の目的を達するための手段である。宗教とは、人間が神の子であることを教え、自覚させるものである。
●「人格の完成」●
人間が到達すべき「神との一体感」「今ここに神の子が生きている」という生命の自覚を得ることをいう。その方法が、釈尊の説かれた「禅定」キリストがなされた「瞑想、祈り」である。 この神の子の自覚、その境地を「宇宙即我」という。
政治的には法律にふれた人を悪人というが、宗教は心のあり方を問題にし、自分は法律にふれるような悪いことを何もしていないといっても、心の中で怒り、妬み、悲しみ、憎しみ、不平不満の心を持てば、それは宗教的には悪というのである。だから、幸福になろうと思ったら、見せかけの表面的な明るさではなく、心の底から明るい心にならなければならない。
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人生の目的は何か |
人生の目的は魂(霊)を成長させることにある。すべての宗教は調和しなさい、感謝しなさいと「調和」と「感謝」を教義にするが、調和と感謝が人生の目的ではない。人生の目的は神と一体である、神の子であるという自覚を、頭で知ることではなく、身体全体で、魂のどん底で自覚すること、つまり大宇宙と一体となる「宇宙即我」に到達することなのである。この宇宙即我に到達して行くには、その人の心の段階があるといってよい。この宇宙即我を体験する唯一の方法が禅定である。調和し感謝した時の安らかな心の状態で禅定しないと本当の禅定にならず、宇宙即我への道を進んで行けないからである。調和と感謝はただその入口に立ったということになるわけである。人生の目的は宇宙即我への道を歩み、到達することである。神の継承者である神の子の私達は、本来、宇宙と同じ大きさの心を持っているのだが、それを小さく自己限定してしまうところに、苦しみ悩みが始まるのである。
同じく、人生の目的は何か。それは人生の目的を知ることにある。決して人間は、金銭欲、名誉欲、地位欲、支配欲、ましてや、食欲、性欲などを満たすために、生まれてきたのではない。肉体の欲望は満たされても、心の渇きは癒されない。心の渇きを癒すものこそ人生の目的とするものである。人生の目的を知るために人は生きなければならないのです。 園頭広周師
よりよい人生を送るには「心と肉体と経済の調和が大事です」 高橋信次師
高橋師は、「健全な精神と健康な身体とほどほどの財力」が、よりよい人生を送るためには大事な要件だ、と言われたのである。
●人間(霊)の質(霊格・人間性)の段階●
神の前において、人間は皆平等であるが、人間(霊)の段階は厳然としてある。「あの人は立派な人格者だ」とか、「あの人は犬、畜生にも劣る」と言うように。
天上界(明るい世界)
上位界より神、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界。天上界の中では幽界が最下位である。
神
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如来界 (或いは金剛界とも言う)
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菩薩界
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神界 | 霊界
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幽界 | ||
地獄界(暗い世界)
修羅界から始まって、魔王が最下位である。
| 修羅界 | 餓鬼界 |
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畜生界 |
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煉獄 | 無間地獄
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魔王 | ||
この太陽系には三百六十億の霊魂がおり、「本体と分身」の法則により、この地球には計算上、六十億人の人間が肉体を持つことが出来る。別の講演では最大九十億人。しかし、地獄界に安住したり、人間のご都合による堕胎や、人間の想念行為の結果による天災(本当は人災なのだが)等によって、現代は六十億程度である。
● 天上界の各論
●
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如来界(にょらいかい)または金剛界(こんごうかい)
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宇宙は我なり(宇宙即我)と悟り、一切の執着から離れ、人類は皆兄弟だという境地に達している者達で、神と表裏一体となり、如来、上々段階光の大指導霊達の世界。イエス、モーゼ、釈迦(ゴーダマ・ブッタ)等、あの世とこの世を通して四百二十五人(一九七二年現在)がおられ、地球上を支配している。 太陽系には、ほとんどアガシャー系グループの者達が多い。如来界には宇宙体の諸現象を即座に見ることの出来る展望台があり、それはどんな小さな問題でも見落とすことがない精妙なものである。たとえ、如来であっても実在界(あの世)と現象界(この世)の輪廻は繰り返され、この現象界で地上界の人々の失われた心を取り戻し、神理の種を蒔いて還るのだ。イエス様の住まいは、イスラエルの上空に、ブッタの天上界の住まいはインドの上空にあると考えてよいだろう。
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菩薩界(ぼさつかい) |
心は慈悲と愛に満ち満ちて、地上界、天上界の衆生を救っている。調和された世界で、心を悟っている者達の世界。 ペテロ、アンデレ、パウロ、ミロク、マンチュリア、カッチナー、日蓮、親鸞(菩薩界でも下位の段階)等、この世とあの世を通して約二万人(一九七二年現在)の光の大指導霊や菩薩。
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神界(しんかい) |
人から損害を与えられても、人を非難しない。人を非難する前に、まずその原因を振り返り、二度と再び、その原因をつくらないように努力する世界。皆人類は兄弟だということを知り、魂の転生輪廻の事実を悟っている。自我心がなく、専門的な分野で研究がなされている学者や博士の多い世界で、医学、天文、科学、哲学、文学など一切のエキスパートが百般の研究を続けている世界。八正道の尺度がどの界に当たっているかと言うと「神界」にある。この世とあの世を通して、一億数千万人の世界。日本の宗教界では法然や道元は神界の人であった。
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霊界(れいかい) |
この世界はいわば持ちつ持たれつで、人に与えたものは与えられる。与えたものが返ってこないと、気持がスッキリしない「正しさ」が支配している。生前における常識の観念がここでは価値の尺度になっている。地球上の人類の三分の一が「霊界」以上、三分の一が幽界クラスの人達、三分の一が他の天体からはじめてこの地球上に魂の修業に出てくる人達である。特別の使命を持った光の天使は、幽界以上の三分の一の中の一割位です。その中には学者あり、経営者あり、あらゆる人達がいる。
霊界から神界の裏側には天狗界、仙人界(キンナラ・マゴラガ、インナパ)があり(ヨーギスートラ、日本の修験者達が多い)、肉体行によって法力だけを学んでいて、相変わらず、厳しい肉体行をやっており、苦しみから解脱していない、自我の強い者達が多い。この住人は、この地上界で、厳しい山中修行を行った行者達が多く、他人に対しては慈悲が少ない者達の世界である。
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幽界 |
この世界は自分という立場が正しさの尺度になっている。自分さえよければ、人はどうでもというエゴの世界であり、自己保存の立場が強調され、自己保存を損なうものは正しくない、つまり悪につながるという考え方である。現実の社会は、まさに幽界の正しさが支配しているようである。 人間の魂の修業にとっては、この世の一年は、あの世の七十年にもなり、この世の修業が(善と悪のいりまじった)如何に大切かということになる。
地獄界(暗い世界)の諸相(各論)
修羅界(しゅらかい)
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栄達を望み、そのためには平気で人を陥れ、利用し、自分の利益のためには人がどんなに傷ついても平気でいる人、闘争に明け暮れている人、常に人を争わせて面白がっている人、闘争対立の心を持つ人、常に心の中に争いの心を持つ者の行く世界。信仰することによって争いを生み出す者達の行く世界。
餓鬼界(がきかい)
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金銭欲の強い人、この世に未練や執着を持つ人、足ることを知らず常に不足の思いを持った人、いくら食べても、、いくら持っても満足することを知らない欲望のかたまりみたいな人が行く世界。
畜生界(ちく しょうかい)
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動物と同じような性格を持った人、ねちねちと執念深い人、見境なく性欲に狂う人、人をだます人、動物の本性まるだしの者達の行く世界。
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煉獄(れんごく) |
常に心の中に闘争と破壊の渦巻いている人、そしる人、ひどく悲しむ 人、うらむ人、偽善者、エゴイスト狂思想者、狂宗教家。
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無間地獄(むげんじごく) |
集団で闘争を計画したもの、戦争の計画者、権力を持って大衆を間違った方向へ指導した者、間違った教えを説いた宗教家達の行く世界。ヒットラー、スターリン等。
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魔王 |
三億六千数百年前、エルランティーと共に飛来した七大天使の一人、ルシフェルは天上の世界に帰ることなく地獄の帝王(サタン)になった。
正法と言葉
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園頭広周師と 高橋信次師の神理の言霊
正法の神理の言魂
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● 神が、その偉大な意思と能力で天と地を創造したように、人間の想念には、ものを生み、創り出す能力があり、その意思と創造と行動の自由性が付与されているのです。
● 男の役割・女の役割
安らぎの安の字は宀(うかんむり)に女と書きます。宀はもともと家の宀からきており、その宀に女が加わると安、つまりその周囲は安らぎとなるのです。男は、田と力が合わさって男となります。男 は外に出て田畠で仕事に精を出す。女は家庭にあって安らぎの場を提供します。男性が女性に美を求めるのは、美は安らぎの象徴であり、女性が男性に求めるもの、力はたくましさの象徴だからです。男女の性がそれぞれ機能するところによって、人間社会は円滑に回転します。
● 私達が仕事をし、働くということは自からの生活を維持し、人々の生活を支えることでするですから、それは愛の行為につながるのです。
● 宗教は、人の生き方・人生のあり方を説いたもの。宇宙の真理を説いたもの。
● 絶対不変の価値の物差し
第一の尺度 地球という大地 第二の尺度 水 第三の尺度 太陽 第四の尺度 空気 第五の尺度 宇宙 |
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この五つが人間の価値判断の尺度
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● 地位・名誉
「学識や地位、名誉や優劣の感情に心が揺れる間は、人は苦界の淵から抜け出すことは出来ない」
● 柔和
「怒ってはならぬ。怒りはそこにどんな理由があるにせよ、その波動はやがて己に返り、魂の前進をはばむことになるからである。己に厳しく、人には寛容の態度を決して忘れてはならぬ。柔和な心は、神の心であり、法の心でもあるのである。」
● 言葉が足りない、言葉がすぎる、というのは、しばしば感情が入るからです。
● 誤解や不信が生じるのは、それは心の底に慈愛がないからです。
● 働くとは、役立つということ。
● 短所とは
怒り、愚痴、優柔不断、独善、気取り、強欲、中傷、そねみ、粗野、多弁、排他、増上慢、引っ込み思案、自閉、出しゃばり、憎しみ、怠惰
● 長所とは
明るく朗らかで、素直であり、人と協力し、助け合い、補い合ってゆく調和の性格です。
● 大自然に調和し、肉体先祖、両親に対しては報恩し、万生万物には感謝する。この心を忘れなければ、人間の精神は健全に保たれ、肉体も健やかになります。
● 慈悲と愛の思いは天上界につながり、憎しみ、怒りの思いは地獄界に通じてゆきます。
● 病気、災難、さまざまな不幸の原因は、正しく思わない自己本位に、心がゆれているから起こるのです。
● 善の思いには善が返ってきます。悪の思いには悪が返ってきます。
● 「我々の人体の細胞は約六十兆あります。それぞれ生命を持ち人体である細胞と、それを動かしているエネルギー・意識・心を持っており、それは大宇宙の構成と、まったく同様につくられています。」
● 「霊道中心の信仰はしてはならない」
● 「地獄界は反省の場」
● 人間をはじめとする生命物質が成り立つためには
五つの元素
@地球 A水 B太陽 C空気 D宇宙
[天台智ぎ、はこれを地・水・火(太陽)・風(空気)・空(宇宙)といった]
そして、この五つの元素を、元素たらしめるE番目の「エネルギー」によって成り立っています。とりもなおさず、地球・水・太陽・空気・宇宙の五つが、人間の価値を決める絶対不変の尺度(物差し)です。
● 「神が、その偉大な意思と能力で天と地を創造したように、神の子である人間にも、その意思と創造と行動の自由性が付与されているのです。」
● 「地獄界からはこの世に生まれ出ることはできない。人間は皆、暗い心を修正し、明るい世界(天上界)からこの世に出る」
● 「人間は地上界に一回生まれたというだけで、完成されるものではない。神は、それを望んでもいない。転生輪廻の積み重ねの経験を通して、豊かな心が作り出されていくということを知るべきである。二度と同じ場所に生まれるということはない。」
● 高橋信次師は亡くなられる一年前頃から私達(園頭師等)に次のように言っておられた。
「インドで四十五年間かかって説いた事を、今度は七年間で説いてしまいました。僕はこの世に生まれてくる時に、四十八才までのことを計画してきましたが、大体計画通りやりました。僕は近いうちにあの世へ帰らなくてはならない。僕に万一のことがあっても正法をしっかり伝えて行って下さい。僕が早くあの世に帰らなければならないのは、一つはソ連が原爆を使う危険があります。もし原爆戦争になれば地球は破滅です。地球が破滅したら、人間の魂の修行の場がなくなるので、絶対に破滅させてはならない。肉体を持っていると肉体に制約されて思うように行動できない。だから、僕は肉体を脱ぎ捨ててあの世へ帰り、あの世からソ連の指導者が原爆の発射ボタンを押さないようにしなければならない。」

● 「反省とは二度と誤ちを犯さないということ」
● 「夢を見ない人はいないだろう。しかし、その夢を的確にとらえる人は少ない。夢はそのときの本人の想念と行為をもっとも抵抗なく偽りなく表現するものであるからだ。夢は心の窓でもある。目覚めている時は、周囲の者や自分の意志によって押さえられているその想念が、夢の中では、まるで意志を持たぬ生物のように自由きままに動いてしまう。夢の中で正しく行為することができるようになった時に、その人は本物になったのである。その想念と行為について、悟りを得たといえよう。」
● 「人間の価値は、最も困難な環境におかれた時、また自分の欲望を自由に満たすことの出来る環境におかれた時に決まるものである。」
● 「花は、雨や風や人の足に踏まれようとも、その季節がくると開花する。花の美しさはどんな絵筆も描ききれない。花には自我(自分)がないからである。」
● 「己に一点のやましさがなく、心の鏡を磨いておくと、人の非難は発信者のもとに勢いこんで返って行く。人の想念は、光と同じように波動と速さを持ち、必ず発信者に返って行くものであるからだ。」
● 「太陽の熱エネルギーは、一秒間に石炭を二〇〇万トン燃焼させた熱エネルギーに匹敵します。太陽は、無所得、無報酬で誰にでも平等に光をふりそそぎます。この太陽の行為は慈悲であり愛そのものです。」
● 「慈悲を宇宙の心とすれば、愛は調和を目的とした地上の光です。愛の根本は慈悲でありますが、その働きは他を生かす、助け合う、そうして許すことなのです。慈悲を神仏の縦の光とすれば、愛は横の光であるといえます。縦と横の光が結び合った時、人は神を発見し仏性である己を悟ることが出来るのであります。」
● 「人は責めてはいけない。人を責める前に、まず自分を省みることだ。たいていは、自分の心を自分で非難していることが多い。自分の周囲に起こった諸現象は、自分に無関係であることは絶無といってよいからである。しかし、なかには光に対する陰の場合もあるであろう。その場合は時を待つことだ。縁無き衆生は時が経たねば救うことはできないものだ。」
● 「天上界が地上と違う点は、経済は物々交換であり、勤労に対する報酬がキチンと決められ、働かないで徒食することはありません。国家はあるかというとこれはありません。ただ、日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人というように、民族社会的な生活をしております。」
● 「第六感、第一印象、虫の知らせというような精神作用は潜在意識(守護霊)の作用であり、こうした作用は四六時中あるものではありません。」
● 「信心とは自分の心を信じ、信仰とはその心で日々を行じる事です。大自然に調和し、肉体先祖、両親に対しては報恩し、万生万物に感謝する。この心を忘れなければ、人間の精神は健全に保たれ、肉体も健やかになります。」
● 「この世は、ものが現実にあるように見えるが、ある時期が経つと大気に還元したり、土に化したりして変化してしまいます。人間は死にますと三合の灰になります。このように、現象界(この世)は変化きわまりないところです。ところが、実在界(あの世)はものが実際にある世界、実存する世界です。永遠不滅です。何百年、何千年経ってもものは変化せず存在します。それ故に実在界というのです。ものが変化せずに存在するという意味は、実在界と、現象界の時間の単位が大変に違うということでもあります。かつて地上に生存した恐竜は実在界で今でも生きています。地上に今もって発明発見されない科学の分野についても、あの世では発明発見され、地上の科学など問題になりません。したがって、この世にないもの、この世にかつてあったもの、それらはすべて、あの世には存在しています。」
● 「転生輪廻を通して二つの目的。その一つは己自信の調和、もう一つは地上の楽園(仏国土、ユートピア)をつくるためです。」
● 「蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取る、これが神の摂理だからです。」
● 「現代は、物質文明の世であります。人はあの世を忘れ、一寸先が闇であります。五里霧中で、目的も分からぬマラソン競走に精を出しているのが現代人です。」
● 「今日の自然科学は、一つの壁にぶつかっています。その壁とは物質のモトである原子、素粒子についての状態は説明出来ても、その状態を生み出しているところのエネルギーそのものが分からないからです。エネルギーこそ神仏そのものなのです。」
● 「子供は自由だ。子供には想念による自己限定がないからだ。いつも明るく今日一日を天衣無縫に生きている。」
● 「空を飛ぶ鳥は地上に倉をつくることはしない 地上の動物も、その日の生活に満足している。明日の糧を求めて相争うのは人間だけだ。鳥や動物はその日の糧で生き永らえている。人は明日の糧を求めて死を急ぐ、人間は眼をひらけ」
● 「この世の十年はあの世の五十〜八十年に匹敵する。この世で反省して一年で結果が出るものは、あの世では五年〜八年かかることになり、この世は修業しやすい。」
● 「結果が表われるまで、一定の期間が与えられている
反省をして、これはいけないと反省すれば訂正が可能になる
その反面、その結果が遅いため、人によってはいらいらする
正しいことを努力していても、すぐその結果が表われない
この世は 波動が荒い
あの世は 波動が精妙」
● 「大宇宙が法則のままに動いているのに対して、人間は、その大宇宙を、地上を、よりよく調和させるために神仏と同様、その意思と自由とが与えられて、ものを創り出す創造性をも付与されています」
● 生命
生命とは普通生きている生物について言われますが、広い意味では「ものの用に役立っているもの」を指します。つまり、動・植・鉱の物質は、この意味ではすべて生命を持っているわけです。生命あるものは、他を生かす天命を担っています。そうして全体を調和させています。動的生命と静的生命の二つがあり、動的生命は人間、動物がそれであり、静的生命は植物、鉱物があります。人間では魂活動を支えている念体(光子体)が動的生命であり、その念体を包んでいる肉体が静的生命と言えるでしょう。」
● 「般若心経はどこでも読まれている有難いお経であり、したがって写経も良し、読誦もまたご利益があると伝えられている。しかし、その意味もわからず、行為のないものが朝晩上げても光は届かない。今日の仏教は、経文をあげたり、写経自体にウエイトがかかり、日頃の想念と行為については問題にしていないところに問題がある」
● 「死はすべての終わりではなく、両親から与えられた肉体舟との別離にしかすぎない」
● 「人は皆平等である。平等という意味は、神の前に人間として平等であるということだ。能力、顔立ち、容姿などの相違は平等・不平等に関係がない。もし、こうした点ですべてが同じであったなら、この世の修行もそれぞれの役割も必要としない。ちがった形で、この世に出てくるので魂磨きが可能なのだ」
● 「眼、耳、鼻、舌、身、意、六根は諸悪の根源である」
● 「ダーウィンの進化論はあり得ない」
● 「神は光なり、我とともに在り」
● 「我は神の子、我が友よ、光明に包まれよ」
● 「己の心の王国の支配者は己自身だからである」
● 「あらゆる苦しみや困難も、神の子としての目覚めへの、神のはからいだ」
● 「早く改めよ、早く間違いを正せ、間違いと気付いたら今すぐ正せ、もう遅すぎるということはない、それが神のはからい」
● 子に対する親の役目
子供が成人し、社会人となって人間としての道をはずさない、立派な一員になるよう導くことであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのです。子供に期待を寄せ、煩悩的に子供の安全のみ願うと、かえってそれが災いし、子供を不幸にすることになるでしょう。よくよく気をつけねばなりません。
●「3年、5年、7年が循環数」
● 「今日の医学は百年前より長足の進歩を遂げている。しかし、医学の進歩と共に新しい病気がふえている。次々と新種の病気が現われ、医学がそれについて行けぬというのが現状のようだ。これについてある人は言う。医学の進歩があったから、未発見の病気が発見されたし、医学が幼稚だったからわからなかったのだと、又、これまでの医学は治療医学で、予防医学は未開拓である。そのために病人が後を絶たないともいう。私は医学を否定するものでもない。医学の分野で治せる病気も多いし、そうした治療をした方が良いという場合もあるからだ。ただ、病気の八割は物理的治療で治らぬことが多い。なぜかというと、心が病気を作っているからである。新種の病気が医学の進歩と並行して現われてくるのは、人間の心がモノを生み出し、時代とともに欲望の方向が変化しているからなのである。これまでの医学は物質科学で、物理的治療のみにウエイトがおかれている。物質科学としての医学は進んできたが、病気の間口は時代の変化とともにひろがっていくため、医学と病気は絶え間のない競走関係におかれているといえるだろう。人間の心についての理解が欠けていたようだ」
● 統制なき自由は自由ではない。自由には必ず統制が必要である。
● 心は自由であっても、肉体は本来制限されているものであるから、制限内で生活しなければならないということを、小さい内から教える必要があるので、限られた時間、空間内で、限られた肉体を持って、全体がうまく調和され、誰も傷つかないように生活するために、礼儀も必要なのである。自由な心を制限された肉体を持って行動する時、礼儀となる。
● 人を見るには、言葉より行いを見よ
● (現世)現在の極楽を得ずして、なんであの世の極楽でしょうか
● 人を救うものは超能力ではなく愛の力である
● 親子の道は、愛と義務、信頼と理解によって生かされる
● 悪の道は入り易く、神の道は毛穴より小さく、忍苦を伴う
● 生命とは普通生きている生物についていわれます。広い意味では「もの用に役立っているもの」を指します。では、植物人間と言われる人達は、果たして生命と言えるであろうか。只生きている、呼吸し ているとしかいえません。延命器をつけて生きながらえることが、果たして人間としての目的にかなっているのだろうか。酷な事を言うようだが、この世に余り執着せず早く天上界へ戻り、次の出生に備えた方が良いのかもしれません。いまのままでは魂の修業をしたくてもそれは出来ませんし、永い時間無為に過ごすだけだからです。だが、周囲の人達に反省を促すという重大な役目もあるのだが。
● 苦しみの根を絶たなければ、苦しみはいつまでも輪廻します
● 人を見るには、言葉より行いを見よ。
● 「信心とは、嘘のつけない己の心を信ずることなり」
● 「天罰とは自らが求め、自から得る結果であります」
● 今日に生きる者と、明日をたのむ者
自分に厳しい者と、人を責める者
足ることを知る者と、欲深き者
● 物を大事にするとは、自然の恵みに感謝する行為なのである。
● 衣食住という自然の恵みを得て、はじめて生きる希望が湧き生存を可能にするでしょう。
● 自然の死は人間の死につながる。自然を生かす工夫を怠ってはならない。
● 才能と人格とを混同し、才能を優先すると現代のような混乱した社会を招く。神が求めるものは、その人の人格である。
● 夫婦の関係
互いに足りないものを補い合い、よき子孫を育て上げてゆくものである。
● 親子の関係
過去世の縁によって生じたものなので、親は子をいつくしみ、子は親を敬うのは当然なことです。
● 兄弟の関係
互いに向上し合う切瑳琢磨する間柄です。
● 友人との関係
社会生活上のよき協力者と言えましょう。
● 悪かったと思ったら今すぐ正せ
もう遅すぎるということはない
それが神のはからい
● あらゆる苦しみや困難も神の子としての目覚めへの神のはからい
● 死はすべての終わりではなく、肉体との別離にすぎず魂は永遠不滅です
● すべて不幸の原因は己自身にあり
● 反省とは同じ誤ちを二度と繰り返さないこと
● 正直
「自然は正直である。人の心も正直である。心は己自身の偽りの証を述べることを拒む」
「人に嘘はつけても自分の心には嘘はつけない」
● 苦悩
「人の世は、それぞれが分を守り、天命を知るならば、破壊や苦悩は生じては来ないものだ」
● 「病気は自からの不節制と不養生と生きざまの結果であり、その原因をさぐり、深く反省すべきです」
● 「事故は自からと周囲の者への反省を促すための神のはからい」
● 「蒔かぬ種は生えぬ」
● 「運命はもともと自分がつくりだしたもの」
● 重荷
「人の一生は重荷を背負い、坂道を上るものというがそんなことはない。重荷も坂道も、我(が)がつくり出したもの、我を捨てれば心は軽く人生の喜びを覚えよう」
● 寛容
「生活には妥協が伴う。しかし、心まで妥協し調和を崩すと苦悩が生じてこよう。己に厳しく人に寛容こそ正法の生き方といえよう」
● 「風流に身をまかす人、俗界から超然とする者が自由人のように言われるが、真の自由人とは、社会的な制約の中にあって、それにとらわれず、為すべきことを果たして行く者をいう」
● 妥協
「妥協はぬるま湯につかったような気分に似てすっきりしない。妥協には自我が伴うからだ。しかし、妥協によって一刻の平衡が保たれているのも事実である。互いに自己主張を通そうとすれば、この世は一瞬にして暗黒となろう。妥協は破壊を防ぐ一時しのぎの防波堤の役を果たすが、永続性はない。妥協には心からの共感がないからである」
● 「自然は正直である。冬に雪を降らせ、春に花を咲かせる。人の心も正直である。心は己自身の偽りの証を述べることを拒む。自然も人間も神仏という大心にかたく結ばれているからだ」

● 「忍耐はひとつ間違うと執着となり、自信はすぎると増上慢となる。ものには表裏の相がついてまわり、人の心は悪に染まりやすい。常に自戒の心を忘れてはならない」
● 人の欠点は三分の二は今世のもの、残り三分の一は過去世の業(ごお)といっていいでしょう。したがって、三分の一の業は反省しても、なかなかその原因をつかまえることがむずかしいものです。しかし、今世の三分の二の業がこれの影響を受けて働いていますので、その三分の二の業を修正することによって、修正することが可能です。
● 念はエネルギーであり、心の中の創造行為を形に具象化して行くものです。また一度発した念波は、一秒間に地球を七回り半もまわる光以上の速さで自分に返ってきます。つまり、輪廻します。善念は善念として返り、悪念は悪念として、もとの発信者に返ってくるのです。
● 偶然とか、チャンスというものは、本当はありません。
● 一寸先は闇ではない。すべては心の法則を中心にして動き、動かされており、偶然というものの、すき入る余地はない。
● 慈悲は「なさけ」〃いつくしむ〃〃思いやり〃ということです。愛は〃他を生かす〃〃助け合う〃そうして〃許す〃ことです。
● 動物霊は、神の眷族として、使い姫であることを忘れてはならないので、動物霊を私達人間が神として、信仰の対象としてはならないのであります。しかし、商売等で稲荷を信仰する場合は、この眷族が手伝ってくれますが、必ず稲荷大明神(主として菩薩)に厚く心から礼を申してお返しすることを忘れてはなりません。稲荷大明神は五殻の神として祀ったものであります。私達の魂は、他の動物霊よりも上段階にいることを悟って、人間としての本性を忘れてはならないので、自我我欲、自己保存の為にこのような信仰に入ると、自分自体の意識が動物の本性に通ずるので、真の正法を得て信仰しないと危険であります。神の意識と自分の意識が調和されれば、光の保護を与えられて、動物霊に支配されることはありません。
● 自殺した霊魂
アガシャは、あの世はこの世の延長線上にある。この世で清算していなかった苦しみは、そのままあの世に継続されると言っている。自殺してみても決して楽にはならないのである。この世で心に描いたそのままの心が、あの世で再演されるのであるから、自殺した霊は、あの世でも自殺するのである。楽になれる思って自殺するが、依然として心の苦しみは残っているから、その心の苦しみから逃れようとして自殺する。自殺してみても心は楽にならないから、また自殺するという悪循環を繰り返すのである。どうしても心の転換、反省が出来ずに苦しいと、最後は「助けてくれ」と、生きていた時の近親者を思い出す。すると、憑依された人が同じように自殺するという場合がある。だから、近親者に自殺した人があったとしたらその霊によく神理を教えてやらないといけないのである。
● 殺人犯の霊魂
自殺が神に対する反逆であると同じように、殺人はその人のうえにおける神の計画を、自分の意志によって中断するのです、自殺と同じように神に対する反逆である。深い悔恨に打ちひしがれた殺人犯人は、自分の心の中で、「自分みたいなものは生きている資格がない。このようなひどい罪を犯した自分は、どのような殺され方をしても仕方はない」と、必ず自己処罰の情景を描く筈である。このような処罰をされることが自分にはふさわしいと思った状態を、あの世で再演するのである。それとも、その殺人の現場の情景が心から離れず、どうしてあんなことをしたろうと、殺したその瞬間のことが頭から除かれないならば、殺人の情景が繰り返し繰り返し再演されて、苦しまなければならないのである。証拠がみつからず、この世で無罪になったとしても、あの世でも無罪になるということはないのです。この世で無罪になったとしても、殺人の罪の恐ろしさはその人自身が一番よく知っており、人をごまかすことは出来ても、自分で自分をごまかすことは出来ない。人は気づかないが、その人は心の中に、「自分みたいな大きな罪を犯した者は絶対に幸せになれない。自分みたいなものは、早く死んだ方がましだ」と思うのである。その自己処罰の心がその人を死へと誘導して、不慮の死を遂げるということになる。だから殺人犯人は、この世での裁判は逃れることが出来ても、自己処罰とあの世での殺人の再演からは逃れることは出来ない。
● 私達の心は、自分の肉体という三次元の衣をまとっていますが、心はあの世の霊人達とツウツウなのです。換言すれば、私達の心は、この世とあの世の「二足の草鞋」を履いているわけです。ですから、自分の意識が眠っているにもかかわらず、夢を見たり、思うことが相手に通じたり、直感が働いたりするのです。これらの現象はテレパシーとか、透視とか、読心術、念力などいろいろ言われていますが、実は、霊人達(通常は守護霊の働き)の作用で起こるものなのです。ですから、科学(三次元)の立場でこれを追究しようとすると、一〇〇%の成果は期待できません。たとえば、モノを当てる場合、その確率は高くて九〇%くらいであり、当たっても六〇%〜八〇%くらいのところでしょう。なぜかと言いますと、守護霊が背後で働いて、その人の心に示唆を与えたり、力を貸したりするので、本来なら一〇〇%の結果が出るはずのものが、そうはさせないからです。一〇〇%の結果を出すには、こちらの心が問題であり、こちらの心が調和されていることが必要なのです。
本題に戻って、私達の心はあの世の霊人達とツウツウですから、思うこと、念ずることが正しくないと地獄霊、悪霊がその人の心を支配してしまいます。正しくない心とは、人を憎む思い、怒り、そねみ、愚痴、中傷、足ることを知らぬ欲望など、こういう想念を言います。なぜ、こうした想念が正しくないかと言いますと、自己保存が主体になっているからです。人間の歴史の大半は争いの歴史です。闘争と破壊の歴史です。自己保存の歴史です。文明はその中から生まれると言いますが、人類の目的は文明よりも調和です。文明のための闘争など何の意義もありません。これは私達の現実の生活を見れば、もうおわかりでしょう。私達は自然界という調和された世界の中で生活しています。したがって、私達の生活も自然界の意思に沿って生活することが大事であり、大自然に沿うとは、他を生かし、助け合う協調相互の心です。自己保存ではありません。 高橋信次
● 会場は、あるお寺の広間を使い、百五十人ほど集まっていた。会場はいっぱいだった。Hはうしろの方に座り、話を聴いているうちに、ついウトウトとした。話を聴きのがすまいと、気を取り直すのだが、どうにも目がかすみだし、睡魔が襲ってくるのだ。憑依現象の特徴である。 高橋信次
● さて、霊の世界については大部分の人が疑心暗鬼であり、若い人、インテリ層の方はまず否定する方が多いと思います。なぜなら、体験者は数が少ない(実際には多いのだが…)、頭で理解出来るものではないだけに当然のことです。私達の生活は、五官という感覚の世界で生活するように仕組まれており、そこにまた人生の修行の姿があるわけなので、否定しがちになるか、否定するのが常識だからです。けれども、霊の世界は、私達人間の心と表裏をなして存在し、否定しようにも否定できないというのが現実です。たとえば、災難や不幸に見舞われると、人はよく「魔がさす」とか、不運とかいって簡単に片付けます。しかし、魔とか、不運はそう簡単に現われるものではありませんが、それは、そのまま霊の世界を言い当てているものです。つまり、魔がさすとは、その言葉通り不運や災難の場合、実際に魔が働き、その人を不幸に陥れるのです。魔は実際に存在するのだし、それは各人の心といつでも通じ合う仕組みになっているのです。想念はモノをつくり出す。想念という創造行為は、人間から切り離すことはできません。
したがって、悪の思いを持てば悪が生み出され、愛を人に施せば愛が返ってきます。さらに、悪をいだいてあの世に帰った者は、悪の世界で苦しみ、悪の想念でこの世で生活する者に集まってくるというのが、心の世界の法則であり、その作用なのです。魔はこうした時に働き、人を不幸にしてゆきます。不幸や不運が、心の重荷をはずすことによって幸運と変わり、真に生き返った人々が私の周囲には何千人といます。こうした事実をみてくると、心の歪みがさまざまな波紋を描き、いかに多くの苦悩のドラマを作ってゆくか、恐るべきことなのです。 高橋信次師
● インドの古代、ゴーダマ・シッタルダーは、マヤの脇の下から生まれ、七歩歩んで「天上天下唯我独尊」と言ったとかいう伝説があるが、あれは後世の人々がゴーダマを神格化するための作り話であり、またイエスには、マリヤの処女懐妊説などがあるが、いずれも神のように祀り上げてしまった人間の偽説であり、このような事実は全くなかった。一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、苦悩の中から悟って行ったということで、これは人間のすべてがそうしなければ到達できない、修行しなければならない現象界の定めなのである。地位、名誉、金、とさまざまな物を持っている両親を選ぶのも、貧乏人を選ぶのも、自分自身がすべて定めて生誕してきたことであり、現象界では、その中で、自己の心の浄化に努力して行くべきこれもまた定めであり、努力の集積が大切なのである。
● 人間は聖人になる必要はない。ただ神理に則して、他の諸現象に対して、自己保存、自我我欲の執着を持たない生活の出来る人間になることが大切である。そして物質文明の上に、偉大なる心の世界を築き上げること、より社会人類が調和されることによって、文明は急速に発展すると約束されるのである。科学の力は、やがて宇宙空間に、人類の居住できる天体を発見し、地球以外にもよりすぐれた生物の生存していることを知るようになるであろう。海洋へも科学の力は伸び、海底には人類が想像もつかないような古代の動物のいることを発見し、エネルギー革命によって、この海底にも生活できるように変わって行く。それまでに、地球には地中に埋蔵されていたエネルギー粒子の塊りである硫化物や二酸化炭素が空中に放出されて、特定の公害が多発し、大きな社会問題に発展して行く。やがて、光のエネルギー、熱のエネルギーの応用や、電磁力の応用が発達して、科学は急速な発展を遂げる。また硫化物・二酸化炭素をはじめとして、生物に害を与えるような物質は、他に広く無害に応用されて行くであろう。このように、心を失った文明は公害をつくり、ますます人類に課せられた重要な問題点となり、その中和のために、人類の智恵は集中されることになるであろう。
● 自殺について
自殺は調和という神の目的から、大きく外れた行為であり、神に対する冒涜、反逆であって、人間否定を意味します。ですから、悪のうちでも、自殺は最悪の部類にはいります。日本の武士道は、名を惜しみ、死に対しては活淡、生をあまり重要視していなかったようです。生恥をさらすぐらいなら、潔く死んだ方が価値ある生き方とみられていたようです。しかし、武士道とは、そもそも何か、名とは何かを追究してゆきますと、自己保存につき当たり、それから越えることが出来ません。死によって自我を生かす、死によって安楽を願う我欲と自意識の過剰が、そうした思想を生み、行為に走らせたとしかいいようがありません。思想や主義におぼれ、種族や家の繁栄のみを願う行為は、人類とか、平和といった視野から眺めますと、狭量のそしりをまぬがれないと思います。
自殺も、さまざまな内容を伴い、各種にわかれています。戦争という異常事態における自殺(例えば特攻隊)もあれば、客観的に説明出来ない自殺もあります。家族の迷惑を考え、ひと思いに生命を絶ってゆく療養生活の長い老人。形はどうあれ、いちばん問題なのは、本人のその時の想念の在り方にありますが、しかし客観的に、私ならこうするという余地の残されている自殺は、もっとも悪い結果になります。自殺者の死後の世界は暗黒地獄です。一寸先もわからない穴倉のようなところに閉じ込められての苦しみの連続です。鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響くところとか、得体の知れぬ生物が意識の中に入り込んでかきむしります。頭痛や幻想に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることが出来ますが、暗黒地獄ではそれが出来ません。意識だけはハッキリしており、それでいて真っ暗ですから、自分の体がどこにあるのかもわかりません。自殺は「光」を否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引き込み、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。夢々、こうした想念に支配されないようにしたいものです。
●業というと悪が連想されます。ところが、業は必ずしも悪だけではないのです。善も実は業なのです。教育者の家庭に想像もつかないような悪が芽生えるのも、善の意識が強く働き、家庭をしばりつけてしまうからです。「ああしてはいけない」「こうしなければならない」というように、善への執着も業をつくります。善にとらわれると四角四面な心になってきます。悪にとらわれれば、人から嫌われます。要するに業とは、五官六根(五感は眼、耳、鼻、舌、身です。これに意識・心を加えて六根)にもとづく、執着の想念がつくり出した黒い循環の想念 観念、換言すれば、とらわれた心、これを業というのです。
● 死について
問
人間の死は自然死が理想でしょう。病死には原因があると言いますが、では戦争による戦死、災害などによる不可抗力の死についても、やはり個人的な原因があるのですか。また、こうした人々のあの世の生活はどうなのですか。
答
おっしゃる通り、理想は自然死です。定命(じょうみょう)がきて、眠るがごとく大往生する姿は、第三者が見ても気持ちがいいものです。事故死、病死という場合は、年齢が若いほど、身内の者、残された家族の悲しみを誘います。自殺はともかく、事故死、病死の場合は、自分の意思に関係ないと思われますが、しかしその原因は、やはり、自分自身にあります。イエスは十字架にかけられ、そして殺されました。あのように偉大な光の天使が、十字架というはりつけの刑に処せられたことは、普通では理解できません。そこで、後々の人達は、イエスは人類の原罪を背負って、十字架の人となったと伝えています。これも理由の一つです。ところが二千年前のイエスは、なかなか気性の激しい人だったのです。しかも物凄い霊眼を持っていましたから、人を見た瞬間、その人の心を見抜きます。魔王の心を持った者の後ろには、魔王がひかえているのが見えるのです。つまり、二重写しになって人の姿が見えます。そうしてイエスは、その魔王に向かって「お前はここから立ち去れ」と一喝します。一喝された相手は、自分に向かって言っていると思い、イエスというやつは怪しからんと憎しみをいだきます。イエスは本人に言っているのではなく、憑いている魔王に言っているのですが、本人はそれがわからないため、自分に言われたものと錯覚します。もともと自分の心が魔を引き寄せているのですから、本人といっても差し支えないのですが、しかし、人間は神の子です。心次第で天使になれるのですから、イエスは魔王に向かって叫んでいるのです。ともかく、こうしたことが重なって、あのような劇的な死を遂げるのです。したがって、十字架の原因は、魔王を憑けた人達の心ない行為にあったのですが、さらにその原因を求めると、気性の激しさにあったと言えます。
こうみてきますと、病死、事故死についても、その原因は自分にもあると言えるのです。戦争という個人の意思に関係なくやってくる殺し合いによる死はどうかということですが、これとても同じです。同じように戦場に出ながら、ある者は生き残り、ある者は戦死します。また、部隊が全滅しながら奇跡的に生き残ります。これも、個人個人の想念と行為に、その原因を求めることが出来るのです。
ところで、病死、事故死、戦死の場合、その霊は浮かばれるか浮かばれないかということですが、これは個々にみないとわかりません。同じ戦死でも、あの世に戻って修行した方がいいということもありますし、この世での修行がまだ数多く残っているのに、その想念行為が死を招く場合は、幽界の下段、地獄に堕ちます。大事なことは、同じように戦死という結果を招く原因をつくっていても、人によって、あの世の生活の次元が違うということです。若死は悪く、老死をよしとみますが、必ずしもそうとはいい切れないのです。死を招く原因をつくっていても、人それぞれの目的なり役目があるので、その役目を果たしている時は、若死でも天上界に行きます。死に方だけで、あの世の位置が決められないのは、心の問題と、役目を果たしているかどうか、にかかっているからです。

● 「三宝帰依の条件」
仏・法・僧帰依の条件
ブッタ(仏)に帰依するか
タルマー(法)に帰依するか
サンガー(僧)に帰依するか
の三つで、つまり、仏を信ずるか、正法を信ずるか、僧としての心と身を修めていく自覚があるか、この三つの約束を果たさないかぎり、弟子として認めることが出来ないと釈迦は弟子達に宣言された。これを三宝帰依の条件ともいう。
● 二千五百有余年前の釈迦は、やがて仏法はその力を失い、法灯は消えうせ、無明の世界をつくっているであろうと予言しました。仏教は口伝えされ、文字となり、中国に渡り、日本に定着しましたが、その間に仏教はいつしか哲学となり、学問に変わり、むずかしい経文となってしまいました。このため、仏教は法力を失い、仏教者までが、生死の意義すらわからなくなり、檀家相手の葬式仏教に変わってしまいました。釈迦が説いた仏法、すなわち正法は今日、予言通りと化してしまったわけです。本来正法は、この大宇宙の成立と同時に生まれたものであり、人間も正法者として、大宇宙とともに、無限の進化を求めこの地上に生まれ来たものです。それが転生輪廻を重ねるにしたがい、自己保存という自我が芽生え、物質至上の世界を作り上げてきたのです。何回となく繰り返されたノアの箱舟現象にもかかわらず、人類は性懲りもなく、物質の奴隷となり、ここ一万年の間にもモーゼ、イエス、釈迦をはじめとした大指導霊によって、正法が唱道されながらも、時が過ぎると、またもとのもくあみとなり、末法は万年の長さにわたって続いてきたのであります。しかし、万年にわたって末法が続いたとしても、正法という大宇宙の神理は永遠にわたって消えることはないのです。大宇宙が正法から外れた時は、大宇宙の終わりを意味するからです。地上は末法と化しても、大宇宙は、それを静かに見守っています。物質の奴隷と化しているとはいえ、人類はやがて目覚める時が来るであろうと、神仏は、その経綸にしたがって、大宇宙を創造し続けているのです。しかし、物質の奴隷と化している間は、人類から苦悩を抜き去ることは出来ません。人類の目的は、正法という調和にしか、生きる権利も、義務も、責任にしても与えられていないからです。調和を外れた生き方をすれば、人類にはその分だけ苦悩がついてまわります。
● 太陽エネルギーが地球をつくるとすると三十三万個できる。地球は、三十三億年前、太陽のように火の玉であり、生物が住めるようになったのは今から約六億年前
● 戒名について
ウパテッサ(幼名)と呼ばれた人が、釈尊に帰依した時に根シャーリープトラー(舎利弗)と改名する。このように釈尊に帰依した時に、名前を変えたことが、後に日本では死んだ時に戒名をつけるように間違ったものとなった。コリータ(幼名)は、モハー・モンガラナー大目連)と名乗ったようにである。
● 如来について
〇如来は、あの世もこの世も自由に見てくることが出来るため、どこにいても同じ結果になるのであろう。生と死を超越しているため、すでに輪廻から解脱しているのである。しかし、大自然の法則通りに、たとえ如来であっても、実在界と現象界の輪廻は繰り返されるのである。如来にしても、この現象界に生まれてくれば、人生のあらゆる疑問にぶつかり、内在された偉大な智慧を発見して神理を悟って行く。したがって、輪廻の法も解ってしまうのである。悟りへの境地に到達するということだ。そして如来は、この現象界で地上界の人々の失われた心を取り戻し、神理の種を蒔いて還るのだ。私達は、こうした次元を超えた世界の存在を知らなくてはならないだろう。
〇 如来と呼ばれている上段階光の大指導霊達は、宇宙即我の境地に到達していますので、身にまとう衣服などに執着はなく、全人類みな兄弟だということを悟っている。慈悲と愛の塊りの者達です。それは一切の執着から離れ、神の心を衆生に教え、衆生を人生の苦しみから解脱させる使命を持って活躍されている上段階光の大指導霊です。つまり、実在界と現象界の、もっともすぐれた指導者群と言えましょう。ゴータマ・シッタルダー、イエス・キリスト、モーゼが、そのアガシャー系の大指導霊だと言えます。このような大指導霊には、この世もあの世もなく、輪廻の実相を悟っているので、生と死の迷いから解脱しています。その中から肉体を持って現象界に出ている大指導霊は、自らの生活の中から、人生への疑問を持って遂に悟りを開き、観自在力を得、実在界にある大指導霊や光の天使達の協力を得て、心を失った地上界の衆生に神理の種を蒔き、ユートピアへの道を開いて行くことに力を尽くしています。それは、人間の作り出した、社会的な地位や経済的富に溺れることのない者達で、一切の束縛から離れて身を挺しているのです。如来といわれる人の心はどうかと言いますと、ここへきますと、神の意識と表裏をなすものですから、衆生済度の心しかありません。価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙と己の心は不離一体です。その宇宙に不順な波動があれば、その波動を正純なものに変えなくてはなりません。このため、来たって法を説き、地上に光を与えて行く光です。他の天体との交渉も、このグループの者達の中から選ばれた、光の天使が当たっている。如来界には宇宙全体の諸現象を即座に見ることの出来る展望台があり、それはどんな小さな問題でも見落とすことがない精妙なものである。そこの自然は美しく、生きている。光明の世界である。そして、この地上界に存在している一切の物が整備されており、将来、地上界で完成される物までがすでに用意されてあるのだ。
〇 如来というのは、上上段階光の大指導霊、なんにも飾っていませんよ。質素です。だから女はね、上上段階光の指導霊・如来にはなれないんです。化粧はする、イヤリングはつける、ネックレスはつける、まあ仏教的に言うと菩薩位のところまで。
○ 女は如来にはなれない
女性の役割は、妻となり母となって、夫をいかし子供を生み育てることであり、子供を生み育てるためには、安心して子供を産める場所が欲しいと、そうして、急激に環境が変わることに不安を持つところから、女の考えはどうしても保守的に狭く小さくなり易い。男は先天的に心の広さ、ものの考え方が違っている点である。
● 「菩薩」とは
ボサッターという言葉であり、悟りの段階を言うのです。この段階では、完全に執着から離れているというわけにはいきません。ただし、心の状態は慈愛に富み、衆生済度のためには、身を犠牲にしても救済するという者達で、決してむくいを求めない境地に到達していることです。他人に良くみせたい、というような優越感はないが、自分で楽しんでいる程度といえましょう。仏像を見ると、観世音菩薩や弥勒菩薩その他の諸菩薩などは、ネックレスや王冠などを飾っているので、それが良くわかります。菩薩界の人々は慈悲の心が先に立ちます。それは幽界、霊界の心では自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変わらないことが、実感として感じられてくるからです。つまり、人の心は一つであり、現れの世界は別々でも、人の心に二つはなく、心は神につながっているので、その神性を汚すことは、自分を苦しめ、人を悲しませる何ものでもないからです。菩薩は、常に神の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。つまり、菩薩の「正しさ」は形ある人々の間というより、ひたすら神の愛と人々を生かすことに人生の目的を求めます。価値の尺度は神なのです。ウソのない人々の心です。
● 煩悩即菩提 (ぼんのうそくぼだい)について
煩悩は反省の材料となり、それによって、人は煩悩即菩提(悟り)を得ることが出来るわけです。もし煩悩がなければ、悟りもなく、魂の前進もないでしょう。魂の進化とは、心の豊かさ、とらわれのない自由さ、そして安らぎをいうのです。煩悩とは不自由ということです。とらわれがあるために、自分の心を自分で縛っているわけです。自分の心を縛るとは怒り、愚痴、憎しみ、そねみなどであり、こうした心で日常生活を送っていますと、やがては病気になってもゆきます。そうした苦しみ、悲しみがなければ、苦しみ、悲しみのにがさはわかりません。苦しみ、悲しみのにがさは、苦しみ、悲しみを超えてはじめてわかるものです。健康な時には、健康のありがたさはわかりません。病気になって、はじめて健康のありがたさ、楽しさ、喜びがわかるものです。善と悪についてもそうです。善の良さは、悪があるのでわかるのです。悪の醜さも、善がなければ判断がつきません。煩悩と菩提の関係というものは、人間がこの地上で生活し、修行するうえにおいて、欠くことの出来ない仕組みであるわけなのです。
● 「地獄界の実体」
地獄界は、この地上に生まれた人類の中で、自分の肉体や財産、墓などに執着を持ち、神の子としての本性を失った人々の行く暗い霊域に包まれたあの世で、自らの心が造り出した心の世界である。その彼らは、この地上界を縁として、心と行いに不調和を造り出したため、反省しなければならない。その反省の場が地獄界なのである。この世界にも厳しい心の段階があり、自ら神の子として自覚し、救われるようになっている。地獄界にいる人々の多くは、自らの心と行いに対して中道を忘れた。勇気のない、欠点の修正をしなかった者達である。しかし、心の世界は厳然として存在しており、そうした彼らは、もはやその世界で、地獄の掟に従う以外生き方はないのである。病気の人々は、その病気を持ったまま還って行く。
● 第六感、第一印象、虫の知らせというような精神作用は、潜在意識(守護霊)の作用であり、こうした作用は四六時中あるものではありません。
● 釈迦は、主として慈悲を説き、イエスは愛を説いたのです。
● 私達の説いている法は、人類の多くがかつて過去世で学んできたイエス・ゴーダマの神理であったということを教えて戴いたのである。
● お釈迦様が亡くなられて九十日目の第一回結集の時には、文字で書かれたお経はなかった。
●正法と拝み宗教とを混同しないこと。それに、これからの科学は、正法を中心に発達していくことでしょう。正法は科学です。仏教も科学です。心配事があれば食事もノドを通らないし、怒れば心臓が高鳴るでしょう。中道に反した感情想念が働くと、血液の流れが乱れ、胃腸の働きも弱る。仏教はそれを教えています。これは立派な科学です。
● 本来、僧侶は死んだ人の供養が道ではなかったはずです。生きている人々の迷える心を救済することが使命であったはずです。
● 一般では、写経の功徳とか、経文読誦とか騒がれて実行している人々も多いようです。しかし、そんなことは 、仏教の道ではない、と知るべきでしょう。経文の意味を理解して、生活の中に生かさないものは、食堂のウィンドーに飾ってあるロウ細工のようなものです。実践のない仏教は、正道ではないといえましょう。宗派の分裂、同じ宗派の中で勢力の座を争って反目しているような宗教は、邪宗という以外にはありません。仏教では、闘争も破壊も教えてはいないし、そのことを思ってもいけないのです。
● 「あの世」と「この世」について ●
あの世にあるものがこの世にあり、この世にあるものはみなあの世にあります。あの世とこの世の生活の仕方、人と人との交際、住む環境等もよく似ています。地上と違う点は、あの世には金がなく、経済はすべて物々交換であり、勤労は大事で、働かないで徒食する人はありません。国家というのはありません。ただ、日本人は日本人として、アメリカ人はアメリカ人というように、民族的に集団的な社会生活をしており、地上で親しかった人達と会って、地上生活をなつかしむことは随所に見られます。あの世の段階が下になるほど自己意識が強くなり、例えば、自分の国だけを愛して、他の国はどうでもよいと考えている、心の狭い愛国者とか、自分の宗教だけを正しいと考えて、他宗を理解しようとしないコチコチの信仰者とか、そういう人達はそういう人達だけで集団を作っています。誰が何と言おうと、自分は自分の信ずる道を行くという考え方の人は、この世でも孤独ですが、あの世でも孤独です。上の段階に行くに従って、人種・国境・宗教の差別はなくなります。あの世は反省の大事さを知って、実践した人達の行く世界ですから、多少のトラブルはあったとしても、すぐお互いに反省しますから、大事に至ることはありません。もし、その界の秩序を乱そうとする人があれば、そういう争いの心を起こしたとたんに、地獄界へ転落します。あの世は心の波動によって作られている世界でから、心の波動が合わなくなると、その心の波動の合う世界へ自動的に行くということになります。慈悲と愛に目覚めて、報恩、奉仕の心を持つようになると、一段づつその程度に従って上の段階へ行きます。
この世でも、物質的に生きる人よりは、精神的に生きる人が尊ばれるように、あの世でも上に進むほど、損得の感情はなくなり、価値評価の基準が、より精神的に高いものへと変わってゆきます。しかし、魂の目覚めが遅く、これで満足だと考えて安住し、精神的な向上をめざさない魂は、同じ所に何百年もとどまることになります。あの世の社会環境は、そこに住んでいる人々の魂にふさわしいものを、その人達が作り出しているのですから、もし、それぞれの界で、その界にふさわしくない不調和な心を出せば、周囲の人々は全く相手にしませんから、反省も地上よりは早く出来るということになります。ところが、ものの考え方、心の持ち方がみな同じような人ばかりで、調和、平和が維持されているのですから、精神的な進歩、向上はなかなかしにくいという欠点があります。それはこの世でも、僻村とか小島の集落などで生活している人は、平和で食べ物に困らなければ、自然と退嬰的、消極的、保守的になるのと同じことです。あの世もこれと同じで、それぞれにふさわしい界層で集落を作っています。そのために、退歩することも少ないかわりに、進歩の度合いも遅いということになりがちです。あの世では、廻りは皆自分と同じような人ばかりですから、大して参考になりません。しかし、この世は、上をみても、下をみてもキリがないというように、模範になる人、こうしてはならないということを教えてくれる人等、廻りに一杯おります。それだけに、この地上は魂の修行にとっては、絶好の場所であるわけです。
あの世で退歩することもなく、かといって進歩するでもなく、平穏無事な生活に安住して、精神的に居眠りを続けている人がいます。しかし、そういう人も、そのうちに内在した神の子の意識が目覚めて、これではいけないと気づくと、輪廻転生の波に乗って、地上へ生まれてゆくことになります。そういう人は、あの世で居眠りしていた癖がついて、この世でも仕事をしたくない、遊んでいて喰えないだろうかと考えます。しかし、この地上は遊んでいて喰える世界ではありませんし、仕方なしに働くということになって、働くことに喜びがありませんから、結局は不幸に終わるということになります。そうして、あの世へ帰って、そこで反省をするということになり、生々発展の大生命の軌道に乗って、はじめて働くことに意義のあることがわかるようになってゆくのです。この世には、心を動かされるいろいろな材料が多いだけに、心を許すと五官にふり回されて、地獄に堕ちてしまうということになります。それだけに、この地上生活は、またとない魂向上の踊り場といってもいいのです。あの世は、幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界と、その人の心の段階によって、それぞれにふさわしい界がありますが、たとえ、どの段階にいた人でも、この世に出てくればみな同じで、はじめから出直しということになります。それは、生まれると同時に、過去世の記憶が一ぺん消されることになっているからです。過去世の記憶が閉ざされるから修行になるのです。
○ 生きている人間があの世に行くというと、普通は常人扱いされないでしょう。人によっては、あいつは頭がおかしいのとちがうか、ということになるでしょう。私もかつてはそのように思っていました。それも五年程前までは…。片寄りのない中道の物差しで、自分の心の在り方と行動をしっかり反省し、丸い豊かな心の状態に己を浄化すると、こういうことが可能になってきます。あの世に行けない、つまり、心と肉体の分離が出来ないのは、肉体に心と魂が執着を持っているために不可能になっているのです。恨み、妬み、そしり、怒り、情欲、足ることを忘れた欲望、思いやりがない、その他もろもろの執着の想念が、こうしたことを不可能にしてしまいます。そこで、こうした執着を善なる己に嘘のつけない心でその歪みを修正し、瞑想すると、あの世に自由に往き来することが出来るようになります。
○ あの世の仕組みも、その人の心と行いが、正法にかなった生活をしたかどうかで、光の量が異なって定まってしまうのである。人間の知恵によってその位置が定まるのではないのだ。また、神の意思によって定まるものでもない。あくまでも、肉体舟の船頭である心の天国の支配者、すなわち自分自身の心が決定するのである。地獄行きも、極楽行きも、自らの善なる心が、人生の一切を裁いたということだ。
○「実在界(あの世)」
実在界とはあの世のことで、各人の意識の大小によって住む場所が違ってきます。意識の大小とは光子量、後光(オーラ)のことで、それは大きく分けて、生前、自己本位に生きたか、人々のために奉仕したかにかかってきます。死後、自己本位に生きた人は、この地球上の地表に、あるいはその近くで生活します。なぜかというと、自己本位の心は現象界に執着を強く持っているので、現象界からなかなか離れることが出来ないからです。反対に執着が少なく、人々に調和をもたらした人達は、現象界から遠く離れた高い世界で生活し、愛と調和の自由な毎日をすごすようになります。つまり、実在界とは三次元にいうと、地表から宇宙大にひろがった大宇宙の空間の中にあって、地表に近ければ近いほど苦しみが多いということになります。物理的な位置づけとしてはこういうことが言えるでしょう。ブッタの天上界の住まいはインドの上空に、またイエス様の住まいは、イスラエルの上空にあります。
○あの世(実在界)
この世界は、現象界と非常によく似ています。生活の様式、住む環境、人と人との交際など…。地上と違う点は、経済は物々交換であり、勤労に対する報酬がキチンと決められ、働かないで徒食するということはありません。ものの考え方についてみると、霊界の下位は損得の計算がやはりハッキリしており、そういう人達の集団によって社会生活が営まれています。長い生活の過程には、多少のトラブルはありますが、大事に至ることはありません。しかし、もしこの界の秩序を乱そうとする人があれば、その人はいつの間にか、幽界に転落しています。この界の意識に調和されないのですから、異端者はこの界に住むことが出来ません。逆に損得の感情に寛容さが加わり、奉仕の心が芽生えると、一段階上の界に上がります。霊界までは自己中心的要素が強く働きますが、上に上がるにしたがって、自己中心の度合いが希薄になってきます。このように、霊界一つとっても、その階層は、幾層にも分かれ、上に進むほど、損得の感情・価値の標準は、物質的なものから精神的なものに変わってゆきます。
「死のないあの世」
○この世の現象界と違い、あの世では死はないのです。あの世の修羅界や餓鬼界では、殺されても間もなく再生し、同じ修羅界、餓鬼界で苦しみます。本人が悟るまでその界にとどまります。あの世は実在界といって、永遠に消えてなくならない世界だからです。この世は諸行無常というように、時間がたつとすべて大気や土に同化していきます。私達が住んでいる地球も、ある時間が経つと大宇宙のエネルギーと化してしまいます。しかし、実在界、あの世ではそういうことはありません。この世は病気で苦しければ、麻酔薬で眠ることが出来、その苦しみから一時解放されることが出来ます。ところが、あの世はそうはいかず、その苦しみから逃れるためには、苦しみの原因を取り除くしかありません。苦界からの解放は、苦界に陥った原因を正さなければならないのです。魂の死は永遠にめぐってきませんから、生きるための調和をはからなければなりません。死を称して永眠といわれますが、残念なことに永眠などということは絶対にないのです。

○ 人間は、この実在界と現象界を行ったり来たりして生活しています。それは一つは魂の進化のためであり、もう一つは神の意思を具現することにあります。この二つの目的を果たすために、現象界に出てきて実在界で学んだことのおさらいをするのです。いうなれば、この世は試験場です。試験に合格すれば、あの世に帰った時、帰る前の位置よりも、上段階に行けます。もしも不合格に終われば、この世に出てくる位置に戻り、もう一度現象界(この世)でやり直しをするのです。こうした繰り返しを続けることによって、人間の魂は向上してゆくのです。人間は、神仏の子ですから、魂の向上の過程は至上命令です。逃れるわけにはゆきません。その証拠に、人間はだれしも己の幸福を追求してやみません。己の幸福を追求してやまない衝動があります。また、こうした衝動があるからこそ、人間には夢が生じ、行為が生まれてくるのです。実在界(あの世)は、いわば心の世界、であり、現象界(この世)は心と物質の世界です。心の世界とは、各人の光子量によって作られた世界であり、光子量が異なれば、より上段階へと望んでもそこへは行けないという世界です。ところが、現象界はどうかといえば、光子量に比例した環境を、それぞれの家庭なり、一社会において、実在界と同じように作っていますが、己が望めば、そうした家庭なり、社会を見聞することが出来ます。いうなればこの地上界は、天国も地獄もいっしょくたになって同居しています。現世というところは、そのように、己の見聞を広め、魂の向上をはかるにおいて、またとない場所なのです。この地上界では、Aという人には、より魂を向上するための修行の場であり、Bという人には、前世でやり残した修行の場となりそれぞれ修行します。ところが、大抵の場合は、同じ場所で円運動を描く者が多いのです。すなわち、Bのような人達です。Aのような円運動は向上発展を意味する人々です。その数は極めて少ないのであります。魂の向上とは、心の安らぎであり、客観的には、とらわれの少ない精神状態であります。心の安らぎは、深まれば深まるほど、この地上は調和されてくるのであります。
● 苦しい時の神だのみ。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手を差しのべてくれるもう一人の自分自身であるということを、無意識のうちに知っているからにほかなりません。助けを求める自分と、救いの側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は、潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、どうぞ助けて下さいと祈った時は、潜在意識層の守護・指導霊が救ってくれます。守護・指導霊に力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手を差しのべてくれます。このように、〃祈り〃というものは、自分自身の魂のふるさとを思い起こす想念であります。同時に、反省という、自分を改めて見直す立場に立った〃祈り〃でないと、本当はあまり意味がないし、救いにはならないということであります。苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手は差しのべられません。なぜかといいますと、今の自分の運命は、自分自身で作り出したものだからです。それは、他の誰の責任でもありません。自分自身の責任だからです。人間は神の子であり、神の子に反した行為は、その分量だけ償うことが神の子としての摂理です。反省し、懺悔して、祈る時に、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。正法の祈りは、神の子の自覚にもとづいた祈りで行為(実践)するというのが祈りの真意なのです。他力は行為を棚上げして、神仏の力にすがってゆくものです。
● 「地獄から現世に生まれることはできない」
この現象界に生まれてくる人類は、何百年も、また千年、二千年も実在界で修行して、仏性、神性を悟っている人々以外、肉体を持つことはできない。いわんや、地獄界の住人がこの現象界に生まれることなど、とてもできない。
● 「地獄界」
迷える霊は、生きた人間に左右され、彼等の多くは生前、地上に執着を持ち、あの世に帰っても地上に思いを寄せており、俗に成仏できないでいる。成仏できなければ、地上の人間に頼らざるを得ない。ところが、頼られる人間が未熟であれば、あの世の霊はいつまでも迷いを解消することができないであろう。地上生命のエネルギー源は、太陽であるが、あの世では霊太陽であり、神の光だ。しかし、彼等の世界は暗黒なので、地上の人間を媒体としなければ、地獄界を形成し得るエネルギーが確保出来ない。地獄界のエネルギーは、人間の心から発する悪の思いである。自己保存のエゴのエネルギーが彼等の生命源である。このように、地上に悪がはびこれば、地獄界はいよいよ賑やかとなり、地上はますます悪くなるのである。こうした意味からも、死者の霊を諭すことより、地上の人間の悟りが大事となろう。
● 釈迦は反省、中道の正法にめざめて二十一日目に悟り、実在界に招かれて、法話をしますが、二十一というのは、あの世の定めであって死者の霊の場合も、二十一日間は、この地上にいて、自由行動が出来る仕組みになっています。したがって、二十一日間は死者の魂は家の棟にとどまることが出来るのです。しかし、どんなに現象界に執着を持った霊でも、それ以上はこの地上界にとどまることは出来ません。二十一日というのは、地上にとどまる最大限の日数であり、悟った霊ならば、一時間も地上にいません。そのままスーッと次元の違った世界に帰ってゆきます。死者が地上に執着を持ち、二十一日を過ぎても地上にいる場合があります。これらは自縛霊として、その土地、場所にいるのです。行動の自由はありません。憑依(ひょうい)は、その場所に近づくことによって行なわれます。自縛霊は、その場所に常時いるかというとそうではありません。なお悟った霊はどうかというと、行動の自由がありますが、上段階に行けば行くほどその行動範囲は広くなります。
● 現象界はなぜできたか。それは神の意の具体化のためなのです。
● 八百万神と日本の神道でいっているのは、守護霊(魂の兄弟、過去世)のことを言っているのです。
● 一本体と五分身 ●
ここで人間の生命、意識のグループについて触れておきましょう。
人間は決して、孤独ではありません。本体を中心として、五人の分身から成り立っています。物質の構造と同じです。ちょうどそれは、核と、陰外電子の関係です。もしも陰外電子がなく、核だけであれば、その核は崩壊します。物質が物質としてその生命を維持するには、核と陰外電子の相互依存の関係がなければなりません。人間の場合は本体が一、分身が五に分かれています。これには次のような理由があります。大宇宙は、光(神の意識)に満ちており、光には熱エネルギーが伴います。熱は電気を生み、電気は磁気を、磁力は重力を生んでゆきます。大宇宙が大宇宙としての生命を営み続けているというのも、大宇宙という本体と、光、熱、電気、磁気、重力の五つのエネルギーの相互作用があるからです。人間を称して、小宇宙といわれます。また、人間の姿が神の体に似せて作られているということは、大宇宙の組織と全く同様に作られているという意味なのです。このように、一個の人間は、同一生命グループの六人が、本体(核)を中心にして五分身(陰外電子)から出来ており、一人づつかわるがわる現象界に出て修行します。そうして、一人が現象界に出ている場合は、他の五人は実在界に残り生活しています。実在界の五人のうち、その一人が守護霊となって、現象界に出ている一人を守り続けています。指導霊というのは、こうした生命グループに関連した先輩、あるいは友人がなります。魂が上段階に進みますと、守護霊が指導霊となったり、指導霊が守護霊に回ったりします。
こうして守護・指導霊は、現象界で表面意識の一〇パーセントで修行している者の潜在意識層の九〇パーセントの領域に絶えず入って、その人を守り、指導しています。一〇パーセントの表面意識で反省する時は、九〇パーセントの潜在意識に至る守護・指導霊が、その人の肉体に入って、その反省の度合いに応じて数えてゆきます。たとえば人を怒ったとします。あるいは、心の中で怒りの想念を持ったとします。その時、その人がただちに反省して、これはいけない、人を憎んだり、怒るということは、争いの種を自分の心に植えつけるばかりか、さらに相手の反発心をあおることになる。そこで、こういうことは二度とすまい、と考えたとします。こうした場合は、守護霊がその人の肉体に波動を送り、あたかもその人自身が自分で考えたような形で教えていきます。反省の度合いがさらに進み、怒りや憎しみという想念が、いったいどこからくるのだろう。それは結局のところ、自分を守ろうという自分をかばうところの自己保存の現われであり、自己優先、保身の感情であって、自分と他人を別々に考えるところに、そもそもの原因があるとして、それはあっさり捨てるべきものなのだ、と思い至るならば、その時は守護・指導霊がその人に働きかけているといえるわけです。もっとも反省ばかりしているのもどうかと思います。一日中反省の繰り返しでは、今度は日常生活がおろそかになり、心の小さい人間にもなってしまいます。そこで、反省も、焦点をしぼって行ない、あまり細いことにこだわらないようにしたいものです。
● 自殺者や性の乱脈が、福祉社会の国家に多く見られるというのも、義務とか献身といった高度の価値感、意識の目覚めがないために起こるようです。ともあれ、現代の意識の状態において、欲望と発展ということを切り離して考えることは、確かに困難だと思います。そこでまず大事なことは、足ることを知った生活、助け合う日常を送ることです。節度は調和を生み、調和はより大きな発展をもたらすからです。
● 四十九日の由来と死者の供養
o死んだ人の魂(霊)が家の棟を離れない期間は、二十一日間というのがあの世の仕組みである。二十一日を過ぎると、どんなにこの地上に執着を持っていてもあの世の収容所へ行かなければならない。残りの二十八日間に死者は生前の魂の状態、心と行ないによって、天上界へ行くか地獄界へ行くかが決まる。だから、四十九日間は、死者が生前大事にしていた金銭財宝を処分したり、財産争いをしたり等の、あの世へ行った人の魂がゆさぶられるような行動をとると、その地上の人によって、死んだ人の霊がゆさぶられ、一度はあの世の定住地へ行っても、すぐ地上の執着を持っていた場に引き戻され、自地)縛霊となって、生きている人々の間に、いろいろな現象を引き起こす。死者が金銭や物質に執着が深かったその度合いによって、事故や災難を引き起こしたりする。葬式に行った帰りに交通事故を起こすのはその一例であり、四十九日間は静かにしている方がよい。このような訳で、四十九日まで供養するのは正しいが、それ以上の供養は意味がない。後は、残された人達が調和し、明るい生活を築くことによって供養はなされる。百カ日、一周忌、三周忌は儒教の伝統によって中国で作られたものであり、百カ日、一周忌、三周忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌、五十年忌の年忌供養を決めたのは、江戸時代、それまでは寺の経済が豊かであるからということで、徳川幕府は寺領を没収した。寺領を召し上げられて、収入の少なくなった分を取り戻す手段として、死後の年忌供養が始まったのである。習慣的に先祖供養がなされているにすぎないというのが現状である。
● イエス・キリストは、肉類も結構食べたし、酒も強かったようです。
● 釈迦も、食べ物にこだわらず、出されたものは何でも食べたものです。
● 昭和四十八年三月に、高橋信次先生の教えを受けるようになってわかったことは、現在のキリスト教会で説かれていることは、キリストが説かれたそのままの教えではなくて、パウロが説いたパウロ教であるということでした。高橋先生は、「キリストが説いたのも、釈迦が説いたと同じ正法なのである」といっていられた。
● 釈迦は、妻子を捨て、王子の座を投げ出し出家しましたが、この時代は、戦争と貧困、支配者と被支配者、武力と国家、邪宗の横行など、およそ人倫の道は地に落ち、支配者以外は動物以下の扱いを受けた時代で、今日とは、その背景がまるで違っていました。悟りを開いた後において、釈迦は、在家仏教を大いに慫慂(しょうよう・勧めること)し、いたずらに、現実逃避のための出家を戒(いさ)めました。人間の目的は、現実社会の調和にあります。生活の中に悟りがあります。釈迦は、その道を多くの人々に教えるために、あえて出家しました。人類救済のためだったのです。イエスにしてもそうです。大工の家に生まれ、はじめは大工をしながら愛を説きました。しかし、やがて悪魔から人々を救うために、伝道一筋に、その生涯を投げ出し、聖書に見られるような数多くの奇跡を残し、世を去ったのです。いたずらに、殿堂に莫大な金をかけ、威厳を誇らなくとも、人間それ自身の心の尊厳性こそ知るべきでありましょう。釈迦の時代、イエスの生存当時に、はたして現代の仏閣や教会というものが存在していたでしょうか。
● この地球の人類の指導の役目は、アガシャ系の指導霊団が担当しているのであり、その指導霊団の中心が、インドで釈迦と呼ばれた方であり、高橋信次先生なのでありますから、私達の心の波長は、高橋信次先生に合わせることを通して、大宇宙大神霊に通ずることになるわけです。私が毎朝やっております禅定はその禅定であります。まず座ると、神と高橋信次先生に感謝の礼拝をしてから禅定に入ることにしております。同時に、私達の霊の修行に協力してくれる万生万物に、先祖や廻りの人々にも感謝の礼拝をいたします。 園頭広周師
● 人間をはじめ、動物にしろ、植物にしろ、生命を持ったものは、すべて三世の流転、すなわち転生を輪廻してゆくものです。停止は死を意味しますが、死は生命体に与えられておりません。宇宙が永遠の活動をやめないように、人間の生命エネルギーもやむことを知らないのです。これは動物、植物にしても同じことです。ただ人間と違うことは、彼らは選択の自由、創造の自由が与えられていないだけに、人間ほど苦楽を感じません。それだけに進歩も遅くなります。
● 人の魂は転生輪廻を重ねますが、単体(本体あるいは分身)の出生は千年、二千年に一度の機会しかありません。そして現象界は、またとない学習の場であり、調和を目的として生きている以上は、学習の場を最大限に生かすことの意義を理解すべきでしょう。
● 生命の輪廻、つまり、魂、意識が輪廻しているならば、人間はその過去世を思い出せるはずだ。
● 過去の言葉を語る…。この事実は、他の宗教にはみられぬ現象であろうと思います。そればかりか、神理にふれることにより、幾多の奇跡が相次いで起こっています。病気回復、事業の好転、不和だった家庭内が明るくなったなど、その数は枚挙にいとまがありません。本来、こうした現象利益というものは、神理に適った生活を送るならば、一つの随伴現象として、具体化されるものです。なぜかといいますと、釈迦の正法は、宇宙の法則に適っているからです。人の一念は岩をも通すで、その一念が正しく使われれば、その一念力は、正しくその人に返ってきます。もしも、正しくない一念力を燃せば、同様にその人に返り、その人の心身、環境を悪くすることになります。正しいか、正しくないかは、ウソのつけない自分の心に問うてみることです。自分の心は中道であり、公平ですから、良い悪いは、すぐ答えが出るはずです。
● 動物霊信仰について ●
o動物霊信仰でも、奇蹟はあるでしょう。彼等にもそれぐらいのことは出来ます。ところが、動物霊は、しょせん動物であり、神理は説けません。ヘビの獰猛さ、キツネのずるさを想像してみて下さい。ヘビやキツネに、慈悲とか愛がわかりますか。まことしやかに人間をだましますが、もともと、本能のままに生かされているものですから、こうしたものが人間に憑くと、いっときは利益を与えても、ある程度時間がたつと本性を現わし、人間を食いものにしていきます。熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくゆかなかったりするのも、そのためです。一般的にいって、教団の教祖、熱心な信者の状態をよく観察することです。動物霊が憑いている場合は、顔色が悪い、病気が絶えない、人を非難する、人をおどかす、自己本位、エリート意識が強い、比較の観念にとらわれる、我が強い、感情的、欲望的、愛がない、計算高い、無理を言う、などです。また、教団によっては動物霊以外に、阿修羅が憑く場合もあります。この時は、戦闘的、排他的、一本調子、他をかえりみない、などです。いずれも、言うことはふるっています。けれども、日々のその人達の言葉、行動を観察すれば、おのずとハッキリ認識されてまいります。また、霊能者といわれる人達は、いろいろなものを当てたり、予言をしますが、こういう場合も、動物霊が背後に憑いている場合が多いのです。動物霊は、現象界に非常に執着を持っていますから、神理が曖昧だったり、あるいは全然説けず、占いに熱中している場合など、すべて動物霊の仕業とみて差し支えありません。何々の神、何々の命(みこと)というようなことをしゃべるなら、これは間違いなく動物霊です。神仏そのものが、人間の体に乗り移ることはありません。なぜなら、神仏は法そのものであり、慈悲と愛だからです。如来、菩薩といわれる方々は、そうした神仏の法を説くために、この地上に神の使者として生をうけたのですから、光の天使であっても、神仏そのものではありません。この辺のことが、これまで混同されていたようです。動物霊や魔王でも、奇蹟を起こしたり、病気を治したりしますが、これと、神理に適った生活の随伴現象として起こってくる奇蹟とは、おのずとその内容を異にしており、第一、その永続性、心身の安らぎという点で、まったく異質であることを知っていただきたいと思います。

● 食欲や情欲は、本能と感情が作用する場合に起こってくるものだ。たとえ、片思いであっても、私達の心の中では、人間本来の神から与えられている本能と感情が燃え立ち、心の中にざわめきが起こるのである。それが、肉体的にも現象となって現われてくるのだ。思っただけでも、すぐに肉体に現われるし、心が燃えるのである。この時、私達の体はピンクの光でおおわれる。後光の色が変化するのだ。怒りの時は、血の色のような、炎のような後光が人々の身体から出ている。このような現象の一切は、私達の意識に記録されているのである。私達は、それゆえに、足ることを知って、本能と感情にブレーキをかけなくてはならないだろう。
● 本体一と分身五の理由は、この大宇宙が、神の大意識を母体に熱、光、電気、磁気、重力という五つのエレメントから出来ていますので、人間の生命体もこれに合わせて、本体一(大意識)分身五(五つのエレメント)の組み合わせになっているのです。人間を称して、小宇宙というのも、生命の成立が、このように大宇宙の構成と同じように出来ているからです。
● 私達の心は、肉体舟の船頭である意識の中心で、船頭の頭脳といったら良いだろう。まず、私達が嬉しい時には感激し、また悲しい時に胸にこみ上げてくるものがあるだろう。こみ上げてきてから、私達の眼に涙が出てくるのである。これは、心の感情の領域が、心の中心にある想念や智性や理性の領域の作用によって、肉体的現象となるものなのである。怒る心が出てくると、感情がふくらみ、顔色が青くなったり、赤くなったり、また、こぶしがふるえたり、身体が固くなったりするだろう。つまり、肉体舟にも、船頭の心の動きがそのまま現われてくるのである。船頭が感情的に舟をこぐと、舟はどんなことになる か。進行方向を間違えたりすることもあるだろう。つまりそれは、私達の感情の乱れが、肉体的不調和を作り出す原因になるからである。正しい判断が出来なくなってしまうのだ。感情が静まらない限り、正しく語ることも聞くことも、見ることも念じることも出来ないのである。感情的になるということは、自分に都合の悪い言葉や自分に都合の悪いものを見たりした場合、爆発することなのである。実際そんな人々が多いだろう。これは中道ではない。自己保存の心が強いから、そうなるのだ。相手の言うことを、第三者の立場で冷静に聞いたり見たりしたなら、正しい判断が出来るはずだ。もし、相手の誤解によってできた感情のもつれであるならば、その誤解をとくことが大事だし、何人かの人々を経て伝わってきたものかどうか、正しく納得できるまで判断することが大事であろう。相手が感情的に怒りをぶつけてきても、冷静な判断で正しく聞き、正しく語らなくてはならない。もし、相手の感情的言動に惑わされて、自分自身も感情的言動を使えば、相手の毒を食べたことになるだろう。それは、自らの心に暗い曇りを作り、自らの霊囲気を不調和にしてしまうということだ。この毒は、心身に回ってしまう。そして、怒りや苦しみとなって現われる。私達のグループの者は、過去世において親しかった人々と、たとえ何千年前の友人であっても、当時の言葉で語り合える。そして感激に胸がつまる、という体験を持つ。
● 人が亡くなると、あの世とこの世の境界で質問されること ●
光の生命が出現すると非常に強烈な印象を与える。(このことはこの世でも、人格霊格の高い人の近くへ行くと、日頃の心の悩みが消えてしまって、非常に心が安らかになるという現象と同じで、あの世は心だけになっているから、その感ずる度合いは肉体を持っているこの世の場合よりも何倍も強いのである)
光の生命(霊)は次のように問いかける
一、あなたは死ぬ覚悟ができていますか。
一、あなたは死に対する心の用意がありますか。
(仏教で引導を渡すことが大事だとされるのは、必ずこのことを聞かれるからである。死ぬ覚悟がなく、まして、死にたくないという執着を持って死んだ人にとっては、この質問は苦しみとなる。これにはっきりと答えられない人を「中有に迷う」というのである)
一、あなたは一生のうちに、わたしに見せられるような何かをやってきましたか。
一、あなたは生きていた時に、自分でこれはいいことをしたなという自分で満足できるなにかをやってきましたか。
(自分のことだけしか考えてこなかった利己主義者は、この質問には答えられない。利己主義者がこの世でも軽蔑されるのは、人は人を愛するために生まれてきているからである)
私達はこの質問に正しく答えられるような生活をして、あの世へ帰らなければいけないのである。死ねば灰になって、おしまいだと考えて生活する人達は、死んでも生きている霊があることに目覚めるまでに永い時間がかかるのである。 園頭広周
● 霊界通信の原理 ●
我々は三次元の世界に住んでいる。映画等のスクリーンやテレビの画面は、二次元の世界と言われる。二次元の映画やテレビの画面は、三次元の我々は自由に見ることが出来る。だが、スクリーンやテレビの画面に映っている人に、通信する(話しかける)ことは出来ない。これと同じように、四次元の世界(あの世)から三次元(この世)の世界を見ることは簡単に出来る。だが、三次元の人が四次元からの通信を、心の調和度によって受信できても、三次元(現象界)から四次元への直接通信ということは、三次元の霊囲気が精妙にならない限り、不可能に近いと言えるのである。
● この現象界のどこへでも、希望する場所へ、光子体の肉体舟で行き、見てくることも出来るのである。現在の肉体舟は、もちろんそこに行くことは出来ないが、光子体なら行けるのである。この肉体舟と光子体の舟とは、霊子線ともいうべき、丁度、母と子の〃へその緒〃のようなもので結ばれている。この霊子線は、無限に伸び縮みをする能力を持っている。そして、光子体にも、私達の魂・意識は乗っているので、行った先の移り変わる現象がはっきりととらえられるのである。心の眼で見ると、光も粒子だということが解るし、声も粒子だといえよう。声の波動も、媒体を通してみると、粒子が波になって動いていることが解るのだ。心の眼で見ると、人間の内臓もはっきりと解り、欠陥もはっきりと解ってしまう。なぜなら、次元を超えて見るから、心の眼は、諸現象を正しく判断出来るのである。また、心の状態や、考えていることは意識に記録され、テープのように全部記録されるのである。そして、それは残るのだ。
我欲の強い人々は、赤い文字で記録されているし、中道を逸した行動や想念も赤字で記されているのだ。恨み、妬み、怒り、そしりなど、自己保存、自我我欲の思いなど、すべて意識に残ってしまうのである。とりわけ慈悲深い思いやりの心や行為は、黄金色の文字で記録されている。中道の生活をしていると、一般の黒字で記入されているものだ。もし恋愛をしている場合などは、相手の名前が、幾条にも記録されている。悩みの多い人々の意識は、暗い霊囲気に包まれ、非常に重い。中道を歩む、偏りのない人々の心は、光明に満ちており、非常に軽い。赤字で記録されている人々は、自ら暗い想念を作り出しているのである。つまり、一秒一秒の本当の心と行ないが、すべて私達の意識の中に残って行くということだ。そうならないためには、心の中に暗い想念を作らない生活が大切である。もしそれを作り出してしまった時には、中道という心の物差しで、自分の思ったこと、行なったことを、よく反省することが大事である。
● 人間の価値は、その人から地位、名誉を差し引いたものである。
● 自分に厳しく、人には寛容の態度を忘れてはならない。
● 悟りとは、執着から離れた心です。
● 権利を主張する者は、まず義務を果たせ。
● 地位・名誉
学識や地位・名誉や優劣の感情に心が揺れる間は、人は苦界の淵から抜け出すことは出来ない。
● 現代は物質文明の世であります。人はあの世を忘れ一寸先が闇であります。五里霧中で目的も分からぬマラソン競走に精を出しているのが現代人です。
「幸福になるための真理の言魂」
人間は、誰一人として幸福を願わないものはいない。「私はどうして、こんなに不幸なのだろう」と嘆く人がいる。誰もが望むことでありながら、不幸に泣く人も多い。不幸になるのは、そうなる理由が必ずある。ここでは幸福になるための真理の〃ことば〃を羅列し、皆さんに再確認して欲しいのである。不幸なるがゆえに、現世利益を説く宗教に走った人もいたはず。誤ったことを説く宗教は、不幸な人から布施という名の金を集める。正法を説く指導者は、幸福になって行く人達の後姿を拝むのである。それでは、園頭広周師の神理の言魂を列記しよう。
1.運命をよくしたいと思って、いくら祈ってもよくならなかったという人は、まず、生まれた環境に感謝していたかを反省することである。もしそうでなかったら、まずじっくりと生まれた環境に感謝することである。
2.「幸福になりたい」と思う人は幸福にはなれません。「私は幸福である」「すべて調和している」と想念しつつ〃今を生きる〃ことである。
3.胸にいくら十字をきっても、合掌をしても救いにはならないのです。
4.人類の不幸、争いという結果が現われてくるような宗教、思想、哲学はすべて間違いである。
5.思いや、考えが、どんなに立派でも、それを実現するための順序、方法が間違っていると、それは実現しないのです。
6.不幸であるという人達は観念的に夢を追っている。
7.想念は正しく使わないと幸福にはなりません。
8.大いなる夢を描けとよく言われるが、現実とならない観念的な夢を描かせることは、人々の心のエネルギーを浪費させる。
9.あなたが幸福になるためには、現実逃避をなくして、現実生活の上に調和を実現しなければならないのです。
10.人生において大事なのは努力である。上達し成功することではない。たとえ上達しなくても、成功しなくても、その人がその一つのことにたゆまず努力を続けてゆくならば、それでその人の人生は成功したのである。だから、その努力の如何を見ずに、ただ結果だけによって評価し採点することはいけないのである。
11.前世でつくった業が、全部そのまま今世に生じてくるのではない。人間は死んだ時、自分がどのように生きてきたかをすべて反省させられる。この反省によって運命の修正が行なわれ、つくった業がその通りに現われるということはなくなるのである。多くの罪は反省によって消えるが、重大な問題は、もう一度同じ条件で、あるいは全く反対の条件で再演した方が良いのかどうかの可否を、自分の魂が決定する。すると、前世の業を修正するための事件が起こるということになる。予期しない病気、不幸というものは、それも自分が決めて生まれてきたものがあるのである。そこで、どうしてそうなったかをよく反省して、それまでの心のあり方を変えると運命が修正されて好転してくるということになるのである。
12.一〇〇%確実に運命を良くする方法がある。それは性格を変えることである。心が変わるというが、心を変えようとしてもどうして心を変えたらいいのか、それがわからないという人がいる。心を変えるのはむずかしいという人がいる。そんなにむずかしく心を変えようとリキむ必要はない。性格を変えるのである。気の小さい人は大きく、怒り易い人はにこやかに、せかせかした人はのんびりと、いつも自分本位であった人は相手の立場を考えて…と。そのような性格を変えるテストの最適の場が家庭である。家族に対しての思いやりから変えてみることである。すると、職場その他の対人関係もうまくゆくようになるし、自然と運命は変わってゆくのである。その運命を変えようと思えば禅定、瞑想をやることである。釈迦は正定(しょうじょう)と言われた。
13.現在のあなたは、過去の輪廻転生の総決算である。例え現状が不満足であろうとも、まぎれもなくそれが「あなた」なのです。運命を良くしようと思うならば、たとえ嫌だと思っている自分の人生であっても、まずそれを受け入れて、その上でどうするかという事を考えなければいけない。自分の現在の人生を嫌ったままで、逃避するとすべて失敗に終わるのである。我々は因縁の法則の枠を出ることは出来ない。因縁の法則から逃避しようとせずに、因縁の法則を上手にコントロールすることである。
14.自分は曲がったことは絶対にしない。言うこともやることもいつも正しいのであるが、自分が正しいことをしているだけに、人が少しでも間違ったことをすると、それだけに「あいつも、こいつもけしからん」と言って心を暗くし、心の中で裁いてばかりいて、あんないい人がどうして病気ばかり、運が悪いのだろうという人がある。
15.「運命と幸・不幸」
人間の運命を支配するのものは、表面の現在意識よりも、奥底の潜在意識の方が強い。表面的にはその人がどんなに立派に見えていても、潜在意識すなわち心の奥底で、人を鋭く切り裁いて批判したり、人を抹殺しようと思ったりすると、「類は類をもって集まる」という心の法則によって、殺意を持っている人と波長が合って事故に遭うということになります。自分が正しいという正義感の強い人がなぜ不運になるかというと、自分の正しさを主張する余りに、自分に反対する人を憎んだり、恨んだり、あるいは抹殺しようと思ったりするからである。あんなに立派な正しい人がどうして運が悪いのかと疑問を持っている人は多いと思いますが、それは潜在意識がどう思うかということが、強く運命に影響してくるのです。ですから、自分が正しい場合であっても、相手を憎めば自分がやられる(反作用)のですから、相手を憎まずに、自分の心を愛によって満たして、相手が幸せになることを祈らなければならないという理由がここにあります。
十五才以下の子供の運命は、親によって支配されますから、子供には原因がなくても、親の運命の巻き添えを喰うことになり、子供を愛する親は子供を不幸にしないためにも、明るい善い心を持たなければならないのです。そういう事件に遭遇しても、巻き添えにならずに助かる子供達もいる。そういう子供は守護霊、指導霊に強く守られている特別の使命を持って生まれてきた子供ですから、大事に育てなければならないのである。ともかく、自分の心の中に不幸になる原因がなければ、我々は絶対に不幸に遭うことはないのである。昔から「人を呪わば穴二つ」という。これは、人が不幸になることを心で思えば、その念を受けて相手も不幸になるが、自分も不幸になるということである。
だから、自分が不幸にならずに幸福になりたかったら、この反対をすればいいのである。自分が幸福になりたかったら、人が幸福になることを祈ればよいのである。「あんなひどいことをした人が、どうして幸せになることを祈れるか」と言われるかも知れない。確かにそういう人のために祈ることはいまいましいし、馬鹿らしい気がする。しかし、人が不幸になることを祈って、自分だけが幸福になることは絶対にないのが法則なのであるから、自分が幸福になりたかったら、どんな人の幸せでも祈らなければならないのである。ということは、我々が神の心になりきることである。太陽は、人が太陽に向かっていくら「太陽の馬鹿野郎、お前の世話なんかになるものか」という人があったとしても、それには関係なく照らし続けるのである。それと同じように、我々も太陽の心になって、すべての人々の幸せを祈り続けることである。そういう心になることによって、我々の魂は向上してゆくのであり、また、幸せになってゆくのである。
16.ガラス板の上に細かい砂をおいて、ヴァイオリンの弦の一端を当て音楽にならない雑音を奏でると、砂は乱雑に散るばかりであるが、リズムのある幽玄な音楽を奏すると、砂はきれいな幾何学模様を描き出す。雑音は音階の秩序が狂っているのであり、音楽は、音階に秩序があり、一定のリズムを持っているのである。病気・不幸だという人は、その人の心が雑音ばかりを奏でている人であり、幸福で健康だという人は、心が秩序ある音楽を奏でている人である。不調和は雑音であり、調和はリズムである。魂を磨き、人格を向上するとは、ますます精妙な心の音楽を奏することが出来るようになることである。あなたは心でどのような音楽を奏してきたか、雑音ばかりを奏してこなかったか、それを反省しなければいけないのである。心の最も高き階調の奏者、それが如来であり、メシアである。心の高い階調の持ち主が語る言葉には、必ず音楽的な心よいひびきがあって、聞いている人々の心をさわやかにするが、雑音ばかりを奏でている人の話には、リズム感がなく、聞いていてすっきりしない不愉快さが残るのである。だから話というものは、きれいな言葉を並べたからといって、それだけでいい話が出来ることはないのである。禅定(ぜんじょう)をしていると、ふと天上界の音楽を聞くことがある。そういう時は時間の経つのを忘れる。
17.自分の失敗や罪を隠そうとしてはならない。内なる神の生命を表現するという試験に失敗したということですから、成功するまで試みればよいのである。だから、反省はしなければいけないが、いつまでもその罪を嘆く必要はないのである。倒れても起き上がれ、それでも倒れたらまた起き上がれ、あなたはついにはそのことに成功するのである。だから、失敗や苦痛は、我々が自分を訓練し、自己を発展させるための指針を与えてくれるもので、我々の魂を向上させる一つの教育手段なのであって、我々の心でどうにもならない失敗や苦痛というものは絶対にないのである。だから苦痛が起こってきたら、また一段と向上するチャンスを与えられたと、感謝しなければならないのである。

●〈男・女の神理〉●
oアメリカやソ連に同性愛が多いのは、女が強すぎるからである。
o尊敬し愛している者同志が、一緒に食事をするのは、尊敬し愛するあまりに、相手と一体になりたい、相手に同化したいという心の現われである。
o夫婦の性生活は、お互いが愛を確認しあい、愛を向上するための行事であり、神が陰陽に分かれ、再び陰陽が結合するというこの行為は、天地創造の原理が小宇宙である人間において実現する神聖なる行事である。
● 妻以外の女性との性行為に後ろめたい罪悪感が伴うのは、それは相手が、単に性欲を満足させるためだけの相手であり、お互いに愛を確認し合い、魂を向上し合うための相手ではなかったからである。浮気な男性も女性も、どんな相手と接しても、心の満足の得られなかった、霊の満足の得られなかった哀れな人達なのである。享楽の対象にすると罪悪感が伴うのである。
「性の四要素」
一、目的
性の結合を行なう目的は何か、夫婦愛を完成し、お互いに愛情を確かめ合うためなのか、それとも単なる性欲の満足のためか。
二、人
その人は正しい相手であるか。
三、時
為すべき時が大事である。人が働いている昼間から行なうことは正しいかどうか。
四、場所
行為には場所が必要であるが、為すべき場所であるかどうか。
単に欲望を満足させるために、為すべきでない相手と、為すべきでない時に、為すべきでない場所で行為するのは「悪」となる。
o男は遠心力であり、外へ外へと出て働くのが男の役割である。女は家庭にあって、外へ飛び出した男を内へ、家へと引き付ける求心力の役割をするのが天分である。男女同権、男女平等といって、女が家を飛び出して家庭を疎かにすると、家庭に歪みが生じてくる。
o人間の誕生は、意識界(実在界)という実在の宇宙に、まず姿を現わした。
o一夫一婦は神の計らい
o男性が外で働いて経済力を持つのは、それは神が男性に与えられた役割と使命であり、女性は家庭を守り、子供を生み育て、子供をどのように教育するかによって未来社会に貢献するのが、神が女性に与えられた役割と使命なのである。
● 「再婚」 ●
夫をなくした妻は、夫に貞節を尽くしなさい。そうすれば子供達は順調に立派に成長するであろうとキリストは言われた。ということは、再婚して性の煩悩から抜け出して心を安らかにしてよいけれども、その代りに子供が清く育たないこともあるから注意しなさい、と。【キリスト】
●「結婚」と「不倫な男女関係」●…釈迦
結婚は「愛」を中心とすべきであり、階級、家柄、地位、学歴等を中心にしてはならない、と。また、釈迦は夫婦以外の不倫な男女関係について戒められた。
o愛とは、その人のためにどれだけ自分を投げ出せるかということ。
● 妻に対する夫の五つのあり方 ●…釈迦
一、妻を尊敬する
二、軽蔑しない
三、道からはずれない
四、妻に権威を与える
家庭のこと、子育てについて等、家庭内のことはすべて妻にまかせる
五、装飾品を与える
● 夫に対する妻の五つのあり方 ●…釈迦
一、仕事をよく処理する
家庭内のことはよく自主的に責任をもって処理する
夫が家庭のことについて心配することなく充分に活動できるように
二、身内の人達をよく待遇する
三、道をふみはずしてはならぬ
夫以外の男性と交わってはならない
夫以外の男性のことを、心の中で思ってもならない
四、集めた財産をよく守る
o物は一年中で一番値下がりした時期を見て買い込む
o季節になったら、種子を買ってきて自分で植える
o食料品は自家製にする
o家の中にあるものは無駄なく利用する
o一日の収支の帳尻を合わせる
o財産の額などを他人に洩らしてはならない
五、妻として、女として、為すべき事柄について巧みで勤勉である妻は夫から経済のすべてを委されるほど、夫から信頼されなければならない。そして、妻はその信頼に応えなければならない
●玉耶教(釈迦)が教える善い妻と悪い妻●
● 地獄へ堕ちる悪い妻 ●
一、殺人者に等しい妻
こんな夫と結婚するのではなかったと、妻として為すべきこともせず、夫が家のことが心配で仕事に熱中できず夫がまじめに働こうとする力を阻害している妻
二、盗賊のような妻
夫が働いてきた財を、すべて奪い取ろうとする盗賊のような妻
三、支配者に似た妻
自らは贅沢で、怠惰で、粗暴で、口やかましく、勤勉な夫を支配し制圧する、支配者に似た妻
o死因は病気であるにしろ、事故死にしろ、夫が早死にして、早く未亡人になったという人は、夫の心を充分に生かしてきたかどうか反省してみることである。
● 天上界へ行ける善い妻 ●
一、母のような妻
二、姉・妹のような妻
三、友人のような妻
四、奴婢のような妻
夫に叩かれ、脅かされても怒らず、悪心なく、夫に対して、忍び、怒ることなく従順である。このような妻は男にとって奴婢(ぬひ)のような妻と呼ばれる。忍辱(にんにく)の心。
● 夫からどのような仕打ちをされても、夫への愛を失わない妻は、子供を立派に育てて、子供が自分を幸せにしてくれる。それに反して夫に敵がい心、反抗心を持つ妻は、子供の教育に失敗して子供ゆえに泣かされることになる。
● 男と対等に仕事をし、男と同じような賃金をもらうという経済的な理由で、女が女らしくあることをやめようとすることによって、女は女自らの幸せを放棄してしまっている。男と能力を競い合うことによって、女は本当の安らかさは得られない。女の役割を捨てて、男と同じように外で働いて、収入を得なければならないという考え方では、女は絶対に幸福にはなれないのである。女の役割を放棄して、どんなに他の方法で幸福を追求しても、それらの方法では幸福感を感じることは出来ない。
〈キリスト教が教える夫婦の調和のあり方〉
o妻たる者は、すべての人々がキリストの教えに素直に従うと同じように、自分の夫を尊敬し、夫の言うことに従いなさい。夫は自分の身体を大事にすると同じように、自分を捨てて妻を愛しなさい。
o夫は妻に尽くし、妻もまたよく夫に尽くさなければならない。妻は自分の身体を支配する権利はない。妻の身体を支配する権利を持つのは夫である。このようにして、夫もまた自分の身体を支配する権利はない。夫の身体を支配する権利を持つのは妻である。男は女をよき人生のパートナーとして尊敬し、女の性を大事にしなければならない。女の性の前にひざまづく謙虚さを持たなければならない。
● なぜ女は昔から長い髪を持つのを誇りとしてきたか。…キリスト教
男は神様に祈る時に、頭に被り物をかぶらずに、じかに、真っすぐに祈ってもよいが、女は神様に祈る時に、必ず被り物をかぶらなければならない。その被り物の象徴として長い髪を持つようになった。
(夫) 男の祈り
神 ←キリスト← 男(短い髪を誇りとする)
(女) 妻の祈り
神← キリスト← 夫← 妻
妻は夫の生命を礼拝し、夫の生命を通して祈った時に妻の祈りは聞かれる。
妻が夫を軽蔑し、夫を尻に敷いて祈る祈りは聞かれない(女が髪を剪って短くする)
●〈親と子の神理〉●
o子供は、神を愛し信ずると同じような心で、両親の言うことに順え。そうすることにより、子たる者は幸福となり、寿命を全うすることができる。…キリスト教
o親は子供を愛し慈しみ、人として守らなければならない戒めを、親自らが実践して子供を育てなさい。そうすれば、みな幸福になるのである。…キリスト教
o年寄りを大事にし、親を大事にする国は絶対に滅びない。…釈迦
●〈家庭の神理〉●
o家庭とは、因縁によって親子・夫婦・兄弟姉妹となった者が、それぞれ神の子であることを自覚し、魂を磨いて向上していくための、神がつくられ計画された共通の生活の場所であって、家庭に帰るということは、神のふところに帰るのと同じであり、家庭を大事にすることは神を大事にすることであり、家庭を粗末にすることは神を粗末にすることである。
o子供が病気をしたり、怪我したり、死んだりした場合は、親自身が反省してこれまでの生き方を改めなければならないのである。
o親のために苦労させられる、親が早く死んで苦労したという人達がある。どうしてそういう親を選んで生まれてきたのであろうか。そういう人達は、前世において親を泣かせ、親に苦労をかけたのである。
o子供の親不孝に泣く親は、自分が前世で、また今世で親不孝して親を泣かせたことがあったのであることを反省しなければならない。子供に親不孝されてみて、はじめて前世で今世で自分が親不孝した時に、どんなに親が苦しんだか、その親と同じ苦しみを、今自分が味わう。親不幸の子供に泣いている親は、「こんな子供を持って」と憎まないで、「あれが前世または今生における自分の姿だったのだな」とよく教えてくれましたと感謝し、親自身の生活態度を改めてゆくと、子供は親不孝しなくなる。
o子供に恵まれない親は、前世でたくさんの子供を持って、その子供のために苦労をさせられたというので、「もう子供なんかいない方がよい」と心の中で思ったからである。
o子供を失い、子供がいないと、子供がいない寂しさをしみじみと体験させられる。すると、「やはり子供はあった方がよい、子供のいない生活はもうしたくない」と思う。そう思うことによって前世の生活を反省させられる。
o今生で子供を小さいうちに失くすのは夫婦の不調和が原因である。
o子供に恵まれないことを約束して生まれてくる人もあるのですから、それを人工的に妊娠することは、前世の業を反省することにならないから、魂の勉強、魂の向上をさまたげることになり、子供に恵まれない人は恵まれないままでよく、反省の結果の上に立って、養子にするか、あるいは他の人の子供のために尽くせばよい。
o親に似ぬ子は鬼子というが、そういう子供は特別の使命を持って生まれている場合が多い。
● 「子供の性教育」
「人は教育によってのみ、人となり得る」というのは性教育においても同じである。
一、宇宙創造の原理、天地陰陽の理
二、男の役割と女の役割
三、結婚の意義、夫婦生活の秩序
四、子供の誕生は神の計画と天上界の計画による
子供は親を反省させてくれるカガミ(鑑)だ!!
o人は教育、しつけによらなければ、良い人にはならない。生まれたままで放って置いたのでは一人前の人間にはならない。
o胎児の時に与えられた精神の影響は、その子供が思春期になると爆発的に吹き出すのである。
● 「思春期になってノイローゼになる子供」
母親は子供を産みたくなかった。流産することを願った。喜んで産んだ子供ではなかったので、どことなく愛情がわかなかった。その結果、子供はノイローゼになったり、暴力を振るうようになり、そのつけを親は支払わなければならない。
● 「破壊的な、捨てばちの母親から生まれた子供」
性的遊戯等の結果、妊娠を喜ばず、妊娠したために仕方なしに結婚し、罪の意識に悩みながら、ひそかに心の中で胎児の死を願っている母親。こういう母親から生まれる子供は、早産や体重の足らない発育の悪い赤ちゃんを生み、難産したりする。
● 「初恋の人を心ひそかに思っている母親、二重人格的な母親から生まれた子供」
初恋の人と結婚出来ずに別な男性と結婚した人が、ひそかに「あの初恋の人の子供であったら、どんなに嬉しいことであろう」と思ったりして、周囲の人は子供が生まれることを喜んでいるのに、無意識に子供を生むことを拒否している母親。子供は二重人格的になり、胃腸の弱い子が生まれる。
● 「人間的に未成熟な母親から生まれた子供」
職業を持っていて、経済的にのみ関心が強く、母親となる心構えが充分に出来ていないのに妊娠して、いろいろな理由から子供を欲しがらない。生まれた子供は、感受性が鈍く無気力で、精神集中力がない。
● 「早産した子供は問題児となりやすい」
早産とは予定日の二カ月までを云うが、早産された子供は始終追い立てられているような傾向が強い。落ち着きがない、情緒不安定である。なぜ早産するかというと、妊娠したことを心から喜ばない感情があり、また出産に対する充分な心構え、知識がないために、大きな胎児を生むことに不安と恐怖を感じ、その心の負担と恐怖から早く離れたいという心が母親にあるからである。
● 「難産した子供は問題児になりやすい」
難産した子供は、精神分裂症、精神異常、暴力的、反社会的犯罪を犯し易い。妊娠したことに罪悪感を感じたり、生むことや、生んだ後のことについて疑心や不安を持ち、母親になることに十分な心構えがなかったりすると、生もうか生むまいか、生まなければならないが生みたくないという心が働いて、陣痛の時間が長くなり、子宮の収縮力が弱くなって難産することになる。

● 「非行・暴力・反抗」
調和されている家庭からは、ノイローゼも反抗児も出ない。反抗児は父親が極端に厳しいか、また極端に甘く、父親の権威がない家庭に出る。父親の権威のない家庭では、結局は母親が強いわけである。夫婦が不調和であってはいけない。特に母親が強くなってはいけない。
● 「ノイローゼ」
母親が性的感情を持って子供を見るということが原因。子供をそういう眼で見ないようにし、いかにして夫と調和するかを考え、夫を喜ばせるようにする。
● 「冷たい女」
初恋の男性を思い続けている女性。
父親にひどく愛された女の子。
● 「股関節脱臼」
親がこの家を飛び出したい、逃げ出したい、すぐ家を出る癖があると、ぴたっとはまっていなければならない子供の股関節がはずれる。
● 「聾唖者」
ああ、もうこんな人達とは口も聞きたくない、ものも言いたくないと強く思うと、耳の聞こえない口のきけない子供が生まれる。
● 「盲目者」
家庭環境のつらさ等から、見れば腹が立つ、悲しくなるからと、もう一切見ないと心に決めて、何があっても「ああ、見たくない見たくない」と全く無関心な態度を取る。
● 「小児麻痺」…古神道
不調和の原因がどちらにあるにせよ、妊娠中にその母親が、親とか夫とか、立てるべきものを立てない結果、子供の立つべき足が立たない形となって生まれてくる。
● 「白痴・精薄児」
夫を愛する心になれず、結婚したこと、妊娠したことを怨みに思っている時。怨み心の強弱によって胎児への影響も違う。
● 「てんかん」
人工受精児や、性に原因する夫婦の強い不信感
(日本では、現在人工受精児が二十万人いるというが、その半数が問題児になっているという。大酒のみやお酒の常習者の女性の生んだ子に「テンカン」の多いという統計が医学的に認められている。)
● 障害児と原因 ●
障害児が生まれる原因の八〇パーセントは心の不調和であるが、二十パーセントは次の原因による。
一、ビールス感染(風疹・インフルエンザ・流行性耳下腺炎)
二、ペットの寄生虫の感染、トキソプラズマ
三、薬剤によるもの
黄体ホルモン・副腎皮質ホルモン・麻酔剤・鎮痛剤・精神安定剤
ビタミン剤の摂り過ぎ
四、梅毒
五、酸素欠乏・心配事・悩み・怒り・悲しみ・怨み・嫉妬・恐怖等により、呼吸が浅くなって血液の浄化、循環がうまくゆかない。
六、栄養不足
七、レントゲン照射
八、酒・煙草の害
九、遺伝
● 腹を立てて怒ったからとか、悲しんだからといって、すぐ胎児に影響するということはない。どんなに怒ろうが悲しもうが、その後でさっと心を切り替えて心を安らかにすることができれば、胎児には影響しない。
● 肉体的な障害があったからといって、霊が低級であるのではない。障害者の霊は、不完全な肉体をどのように乗り廻して霊の勉強をするか、健全な人の経験出来ない厳しい玲の勉強をしようとしている勇者なのである。
胎教の影響の修正と、謝り(懺悔・反省・禅定・祈り)の方法
お母さんの心の不調和によって、本来ならば健全な五体を持って生まれるべきあなたの肉体に、このような障害をつくってしまって申し訳ありませんでした。お母さんは今、あなたがお腹の中に宿っていた時のことを反省しています。あなたが障害児として生まれてこなければ、お母さんはこのような反省はしなかったかもしれません。あなたは障害児として生まれることによって、お母さんを導いてくれたのです。心からそのことについて感謝をします。そういって、次に既に子供が健康体になっている状態を、心の中にありありと描き、「神よ、この子供に光を与えて下さい。既にこの子供を健全にして下さいましてありがとうございます」と祈るのである。
● 「祈り」は、キリストが言われたように、「既に得たりと信じて祈ることが祈りが効かれる秘訣である。悲しそうな哀れな表情をして、乞食が物をねだるような、そういう気持ちで神の憐れみを乞い、特別にお恵みを与えて下さい、というような祈り方では祈りは実現しないのである。
● 精神障害、ノイローゼ、非行、暴力の子供への祈り
夫、または周囲の人々との不調和により、あるいは「性」に対する葛藤などから、心ひそかに流産や子供の死を願ったりしたことが原因なのであるから、
「縁あって、あなたが私を母として生まれてきて霊の勉強をすることになっていたのに、私はあなたが、私のお腹に宿ってくれたことを素直に喜べず、ひそかにあなたの死を願ってしまいました。どうぞ、私を許して下さい」と心から反省し懺悔し、既にその子供が健全であることを心の底深く念じることである。
● つわりは妊娠初期、大抵起こる。母親の心と胎児の心、霊との不調和が大きければ大きいほどつわりもひどくなる。夫と妻の心が調和され、胎児の霊とも調和されると、つわりを全く感じない人もいる。
● 出産 ●
自然分娩で自然の法則に順ってしゃがんでして、母乳で育てる出産育児をする。
● 帝王切開の害
o陣痛が始まって子宮が収縮し始めると、胎児は自然に頭の先で産道を押し開いて外へ出ようとする。その時に、産婦の心になんのストレスも抵抗もないと、産道はやわらかく開くが、産婦が喜んで子供を生めない心理状態にあると、生むことに恐怖に似た感情を持ち、生みたくないと思ったりすると、出産に時間がかかったり難産する。産道を通って出てくると自然の愛撫のマッサージが行われ、安心してこの世に出てくるが、愛撫のマッサージが行われず、いきなり空気中に取り出される帝王切開は、それだけに神経過敏になり、感覚は鋭敏であるが、姿勢や運動の調節だけでなく、手の動きも言葉も遅れる。帝王切開は自然出産に比べてマイナスの要素が多い。帝王切開児ほど子供の背中を愛撫してやる方がよい。
● 誘導分娩等の害について ●
o人工的に陣痛を起こすために、母子ともに心の準備ができていないのに、胎児は胎外へ投げ出されることになり、産婦は自分の身体をコントロールすることが出来ず、胎児もまたリズムが合わなくなる。
o鉗子を頭に引っ掛けて引き出すという方法も、産道による自然のマッサージが行われないし、問題も多い。
o生まれるとすぐ、血も粘液もついたままの赤ちゃんをバスタオルをひろげたお母さんに抱かせる方法がある。生まれてから粘液などを洗って十五分後に抱かせた子供とでは、情緒の安定度、発育に差があるという。すぐに抱くほうがよい。
o保育器の中に入れられた未熟児が情緒不安定になり、成長してもうつ病にかかりやすいという。これは胎外へ出ても母親に抱かれて母親の心臓の鼓動を聞くことなく、不安な心の状態のままで長く置かれるからである。
● 母乳育児の利点 ●
一、病気に対する免疫性を含んでいるので、赤ちゃん自身に抗体ができる(初乳の重要性)。初乳は二日間続く。
二、人工乳で育てられた子供より肉体的・知的両面にすぐれる。
三、母乳を飲ませている間は自然のバース・コントロールが行なわれ妊娠しない。
四、母体の肉体的・精神的健康にも重要である。
1.母乳を吸わせることによって子宮が収縮する
2.胎盤が自然に体外へ排出されやすい
3.乳房の分泌機能の増大
4.母親らしさの発現
● 赤ちゃんが、この世に生まれて最初に接する人間は母親である。母親の胸に抱かれ、母親の精一杯の愛情を受けて乳房を吸っている赤ちゃんの心は、安心感に満たされている。この母と子の安らかな人間関係は、やがてその赤ちゃんが大人になった時、他の人との間に安らかな人間関係を持つことになる。神の愛の人間的表現が母親の子供に対する愛である。母親は妊娠し出産し育児することによって、神の愛を経験していくのである。授乳しない母親は、その愛を体験しないので、そのことによる霊の成長をさせることが出来なくなる。
● 女が子供を生むということは、人類が永遠に発展してゆくために、神が女性に与えられた天命である。女性にとって妊娠こそは、女性が生まれ変わる最高のチャンスであり、女性の身体が新しく再生されるチャンスなのです。妊娠こそは神が女性に与えた慈悲である。
● 赤ん坊は、お乳が欲しいとか、おむつがぬれた時とか以外は絶対に泣かないのである。よく泣くのは母親の心が不安定で、神経質になっているからである。
● 堕胎罪がなくなった結果、性を享楽の対象にして、その結果妊娠するとなんらの罪の意識もなく堕胎している人もあるようですが、そういう人は男、女側ともよく反省して詫びないと、いつかはそのことを反省しなければならない出来事にぶつかるでしょう。それは水子の崇りではなくて、自分が間違ったことをしたその結果としてくるのでありますから、よく反省することです。妊娠させた男性の側こそ罪が大きいのです。女性に妊娠させて、責任をとらなかった男性が死ぬと、自分の見たこともない子供が、「お父さん」と寄って来た時、「お前みたいな子供は知らない」と言ったら地獄行き間違いない。水子供養を説く、宗教家達が、女性の側ばかりを問題にして男性の責任を追及しないのは片手落ちで、あの世のことを知らないからです。それと心覚えのある男性も、生きている間によく反省しておくことです。
● 夫婦調和への提言 ●
一、初恋の人は忘れなさい
二、純潔を守ること
三、結婚前の秘密をしゃべってはならない
● 日本はどうなる
家庭の崩壊、離婚、再婚、再々婚、同棲、未婚の母、結婚拒否、同性愛などさまざまな社会問題を引き起こしている。離婚が確実に増え続け、毎年一万件以上の増加をみている。最近は中高年層の離婚率が高くなっている。一九六〇年代から始まった女性拡張、男女平等は、やがて失敗であったことを知ることになろう。一時的な経済環境の変化で、女性も職場に進出しなければならなかったとしても、結局はそれは一時的のことであって、神が定められた男と女の役割の本質までが、すべて変わってしまうということにはならない。子供を「鍵っ子にして働きに出たために、子供が大きくなるにつれて、手に負えなくて困っている人がたくさんいる。少々くらいの金と引き替えに、子供をだめにするわけにはいかないといって、夫の収入で満足して、子供を立派にしつけし教育している人もいる。ローンの支払いのために、妻も働きに出ないと仕方ないという人もあるわけであるが、男女の役割を充分に心得ているのであれば、家庭には問題は起こることはないと信じている。アメリカで失敗していることを、いまさら日本が真似することもあるまい。確かに女が強くなった。夫は、父は弱くなった。女が強くなって、男が活力を失った国は滅びるしかない。卑弥呼の歴史は、女性上位では国家社会は健全に発展しないことを教えている。人間も自然界の一員である。万物の霊長である人間だけが、自然の法則に反してよいわけがない。現在起こっているいろいろな社会問題は、人間が自然の法則に反したあり方をしていることへの反動であり警告である。答えは簡単である。「男は男らしく、女は女らしく、男は男の役割を、女は女の役割を」
● 『正法と結婚の原理』(園頭広周著)にみる人生の原点 ●
o「母」とは、生命を生む者のことである。我々はみな、自分の肉体を生んでくれた肉体の母親への思慕を通して、永遠に変わらない大きな生命の母、即ち神のふところに帰りたいという思いが、我々の信仰心となっているのである。その我々のその思慕の感情を、我々の祖先達は、「吾(あ)は、妣(はは)の国、根之堅州国(ねのかたすくに)に罷(まか)らむと欲(おも)ふが故(ゆえ)に哭(な)くと申給(まおしたま)ひき」と表現したのである。なんと優雅な表現であろうか。男は失意の時、死に直面した時、心の奥底で「吾は妣の国に罷らむと欲ふ」といって、そこに帰れば心が安らかになると思って、母を求めて、もしその母がいなければ自分の妻の中に母を求めて、泣くのである。そういう時、妻は母となって夫を抱き、夫をして思う存分泣かしめ、慰め、励ましてやらなければいけないのである。だが、最近はそのような聡明な妻は少なくなったようである。
● 昔から、女が強いと男の子が生まれ、男が強いと女の子が生まれるといういい伝えがある。どういう子供を持つかは天上界で決めるのであるから、このいい伝えは当たらない。だが、骨っぽい男が、子供は女ばかりというのも、娘を見て「中道」ということを勉強するのであるから、「私の心の修正をするために、どうか女の子として生まれて来てください」という約束があったとも言える。その反対もまた、しかり。
● 人間は小宇宙を形成している。小宇宙とは大宇宙の縮図である。大宇宙に展開する無数の星々(六十兆個)は、人間の肉体を形作っている光の数(細胞数・六十兆個)と同数である。
● 私の師、高橋信次先生の教えは、すべては自然が教えている。自然の相(すがた)を見れば人間の生き方がわかる、というものであった。
● 優男(やさおとこ)と、幸子(さちこ)の由来 ●
o釈尊の弟子に「ヤサ」という人があった。ヤサはベナレスの大商人の息子であって、好きな女に逃げられて、ガンジス河に投身自殺しようとしているところを釈迦に救けられた。美男子だったので、釈尊の弟子になってからは、女の人に変な心を起こさせてはならないというので、わざと顔に泥を塗って説法した。そういうことから、美男子といえば「ヤサ」、「ヤサ男」といえば美男子ということになって、今から一五〇〇年前、仏教伝来によって伝えられてきたインドの仏教説話から、今日でも美男子のことを「優男」というのである。
それと同時に伝わってきているのに、女の子に「幸」、「幸子」という名前が多いことである。釈尊の女の弟子に「マイトレーヤー」という人があった。この方は後に「弥勒菩薩」と言われるようになった方であるが、この方の小さい時の名前を「サチ」といった。マイトレーヤーにあやかって「幸」、「幸子」と名をつけたわけである。そのように、民間の伝承となっているものには、古い古い歴史、神話などが伝えられているものがある。
● 男の元気はどこからくるか、男はなぜ女にふれたがるか
私の知っている人に、女を見るとふれたがる人があった。だから、人はその人を「エロじいさん」と呼んでいた。その人の奥さんは花嫁学校の校長先生だった。そのご主人は、生徒を見るとふれたがるので、生徒達はその人が現われると、またさわられるというので大騒ぎしていた。その校長先生である奥さんは、まことに賢夫人で一分の隙もない人であった。さわることの好きだったそのご主人は早く亡くなった。その原因は、奥さんがあまりにも立派で、ご主人にさわらせなかったからである。男の元気は女からくるのである。妻を早く失った男が、いかに早く老け込むかを見られればわかられるであろう。たとえ、夫婦とも健在であっても、夫にさわらせることを嫌がる妻の夫は、どことなく精彩がない。男らしい溌刺したところがない。どことなく寂しさが漂っている。
● 女を「おかみさん」「お神さん」というのは、男にとって女は神様であるからである。神様の生命は、女を通して男に与えられることになっているから、女を「おかみさん」「お神さん」と言うのである。
● 夫婦円満であるということは、神の生命が男となって還流され、また女となって男に還流され、その男女の気が円満に交流されることをいう。神の生命が円滑に円満に交流されるから、夫婦も子供もみな健康で幸福であるということになるのである。夫婦円満であるということは、陰陽、即ち男女と分かれた神の生命が、元の一つの神の生命に帰ることである。元気とは、神の大元の気である。だから男は、女に充分にふれることによって元気を取り戻すのである。だから、性のことを「エロ」だといって、いやらしいことと思ってはならないのである。エロだと思っている人は、人間を動物だと思っているからである。
人間は神の子であり、人生は神の子の生命を顕現することにあると思っている人には、性は神の意識に帰一する神聖な祭典となるのである。このことをキリストは、「夫は自分の肉体を自分のものと思うな。夫の肉体を支配する権利を持つのは妻である。それと同じようにまた、妻は自分の肉体を自分のものと思ってはならない。妻の肉体を支配する者は夫である」(「コリント前書」三〜四節)といって、夫が妻の身体にふれ、妻が夫の身体にふれることにわだかまりがあってはならない。お互いに抵抗なくふれ合わなければならないと教えていられるのである。第五節には「相共に拒むな」と書かれている。求められた時に「拒むな」というのである。

● 子供の結婚が失敗であったと悩んでいる女(ひと)があった。その女は夫が嫌いであった。夫に求められるとゾッとするほど嫌いであったが、別れて独りで子供を育てていくのに自信がなかったので、別れることはしなかった。それで求められるといつも心の中で、「これも子供のためだ、子供のために辛抱しなければ」と、いやいやながら応じていた。そういう不調和な心が子供に影響していったのである。自分達は幸せだと思っている調和された夫婦の子供達は、みな幸せな結婚をするのである。だから妻は、心を優しくして素直に夫にふれさせることである。抵抗なくふれさせる時、夫は元気づけられるのである。
● 女に母婦型と娼婦型がある ●
母婦型の女性は、子供が好きで、性的行為を子供を得る手段と考え、子供が生まれてくると子供を可愛がり、よき母となる。こういう女性は夫に対しても母となる。娼婦型の女性は、子供が嫌いである。だから性的行為は、行為それ自体を楽しむので、間違って子供が生まれると子育てをいやがる。こういう女性は夫に対してもいい妻にはなれない。母らしい女は、比較的たくさんの子供を持ちたがるが、浮薄な娼婦型の母は、子供が少ない。母婦型の女は子育てに熱心であるから、自分の服装などにはあまり構わないが、娼婦型の女は自分を飾ることに懸命になる、というのである。
私はワイニンゲルの書いたものの中に、独断や偏見もあるが、また、神理も含まれていることを発見した。母婦型の女は、自分の生んだ息子に性的関心を持つことはないが、娼婦型の女は自分の息子が男性であることを意識し、時によっては息子と性的関係を持ちたいと思う。こういう娼婦型の女は子供を性的に早熟させ、その結果、子供を性的ノイローゼにしてしまうことが多いのである。母婦型の女は、夫に対しても母となろうとするが、娼婦型の女は母なろうとはせずに、いつまでも女としていかにして男の心を自分にひきつけるかということだけを考える。母婦型の女は、隣りの部屋で子供が泣き叫ぶと、自分自身を傷つけられたように感じてすぐ飛んで行く。子供達が成長しても、その子供の欲望・苦悩を自分自身の問題であるかのように考える。娼婦型の女はすべての関心を自分自身にひきつけようとし、何事も自分を中心に考えるから、夫のことにも、子供のことにも案外に無関心で、自分のためになると思えば一生懸命になるが、ならないと思う場合は夫や子供をほったらかしにしても平気である。母婦型の女は、夫と子供の将来を考えるが、娼婦型の女は、その時だけよければいいので将来のことは考えない。母婦型の女は、性的関係を人生の重要な出来事の始まりと見做し、人格を完成し、愛を表現するための手段として、それによって生活を豊かにしようとするが、娼婦型の女は、性的交合を目的とし、その目的を達成しようとして男に媚びを売る。それ自身が目的であるから、その目的を達すれば将来のことは考えない。
母婦型の女は、全世界、夫、子供のために愛を与えようとするが、娼婦型の女は、自分のために吸収し、受けることだけを考える。だから、母婦型の女は、自分はみすぼらしい格好をしていても少しも気にならず、夫や子供にいいものを着せようとする。だが、娼婦型の女は、歓楽、舞踏、劇場、音楽会、娯楽等について常に考え、服装なども贅沢になる。母婦型の女は、自分とともに将来を考えてくれるまじめな男性を選ぶが、これに対して娼婦型の女は、浮気な、怠惰な、放縦な男にひきつけられる。娼婦型の女の情夫は、常に犯罪人であり、泥棒であり、詐欺漢であり、時としては殺人者でさえある。母婦型の女は犯罪を犯すことはないが、娼婦型の女は犯罪と深い関係がある。生活に行き詰まった時、母婦型の女は子供の将来までをも考えて、子供を道づれにしようとするが、娼婦型の女は、子供を捨てるか、子供を夫の下に置いて自分だけが生きることを考える。
男は、母婦型の女を美しいと思い尊敬するが、娼婦型の女を美しいと思い尊敬することはない。母婦型の女によって男は純化されるが、娼婦型の女は男を堕落させる。終戦後、母婦型の女よりも、娼婦型の女が増えてきた。すべてを自己中心的に考える女によって、男の心も子供の心も荒廃させられてしまった。「愛は惜しみなく奪う」というけれども、「愛は惜しみなく与える」ものである。よく与えることができる者のみが、また、よく受けることが出来るのである。奪うことのみを考えている女は、男を享楽の対象、自分の欲望を達成するための対象としてのみ考えるから、男の持っているものをすべて奪い尽くして、やがて男をダメにし、結果的には自分もダメにするが、与える愛の尊さを知る母婦型の女は、男に与え、子供に与え、夫や子供が立派になることによって、また自分にも与えられることになる。人生の終わりに近づいて、子供や孫に囲まれて幸せな女もあれば、その反対に、誰からもかえりみられない孤独な女もある。どの道を選ぶか、どんな女になるかは、一人一人の心次第である。
● 「最大の性的索引を有する両親の産児は、最上に栄える」
お互いにしっかり愛し合った夫婦の間に生まれた子供は、健康であり幸福になるが、その反対に、お互いに反発し合っている夫婦の間に生まれた子供は、肉体的にも精神的にも障害を受けるというのである。女の人でも、楚々とした本当に女らしいという人もあれば、男も顔負けに、男と同じようにトラックを運転して重量物を運搬し、骨格も声も全く男そっくりだというような女の人もいる。人生が一回きりだとすると、生まれながらのこうした違いは、どうして生ずるのであろうか。そこで釈尊は、人は輪廻転生するのだということを説かれたのである。輪廻転生するのだということは、人には前世があり、過去世があるということである。人間は死んで終わりではないということである。肉体は死んで火葬してなくなるのであるから、肉体が死後も存続するということは全くないが、霊魂が存続し、輪廻転生するということである。
● 前世と病気の関係 ●
米国の偉大な霊能者、エドガー・ケーシーの霊読をまとめた『転生の秘密』は、今世の運命が前世と関連があることを教えてくれる。釈尊は原因と結果の関係を「因縁」と言われた。ケーシーはこれをブーメランに例えている。投げるとブーメランは自分の所にかえってくる。即ち、した通りにされる世界だという。釈尊はまた一方で、それを「業」とも言われた。人は蒔いた通りのものを刈り取る。高橋信次先生は、この「因縁の法則」は物理の法則と同じで、「動・反動」また「作用・反作用」の法則だと言われた。
1)、三十六歳で小児麻痺にかかった婦人があった。それは古代ローマ時代、ネロ皇帝と提携してクリスチャンを迫害し、闘技場でびっこになった者をあざ笑った。そのことが自分の身に返ってきたのであった。
2)、自動車事故で背骨を折り、下半身麻痺になった少年があった。この少年は、ローマにはじめてキリスト教が伝えられた頃の軍人で、クリスチャンが猛獣と戦って苦しむのを平気で笑っていた。
3)、美人に生まれた人があった。美しい身体を持って生まれた人があった。それはすぐ前の前世で、人の嫌がるようなことでも少しも嫌がらずに、極めて献身的な奉仕をし、霊魂を浄化したからであった。こういう人は、その美しさがその人の人生に不幸をもたらすことはないが、ただ美人に生まれたいという強い願望だけを持って、心を美しくしなかった人は、その美貌ゆえに自分の人生を不幸にするということになる。
4)、てんかんになった人があった。この人は前世で性的に放縦自堕落な一生を送ったために、今生ではその反動として結婚出来ない状態に生まれることによって、前世のカルマを帳消しにしなければならないことになっていた。
● 速やかに病気を治す方法 ●
前世に行なった業の反動として起こっている病気を治すために
一、人、または物事に対する心の態度を改めること。
二、本人が自己中心的で我が強く、霊的なことを拒否し、心の中に憎しみや敵意、不正、嫉妬等の感情がある限り、病気の治癒は望めない。
三、なんのために病気を治したいのか、健康になったらまた肉体的欲望を満足させたいと思っているのではないのか。それともますます利己主義的になるためか。そうであるならば、治らない方が本人のためになるのである。
このことをよく考えて、心の持ち方を変えて、改めて真の人生の目的はなんであるかを考え、魂を浄化した上で医学的な療法をすると回復が早くなる。要するに、性格と心を変える努力をすることである。
● その夫は、既に結婚前から女性関係が絶えなかった。結婚してからも何人となく女性が変わった。夫の不貞に泣かされた妻があった。その妻は過去世において、自分が夫に不貞を働いたのであった。少しばかりの美貌を鼻にかけて、次から次へと男を変え、夫を泣かした。その業があって、今世では夫に不貞を働かれることによって、前世で夫が味わった苦しみを今度は自分が体験しなければならないことになっ た。この場合、男女平等、男女同権ということで、夫がそうするなら私もという態度では、ますます業を重ねるだけである。夫はそうしてもなお夫を憎まず、その夫の心をどのように大きな愛で包んでゆくか、どうすることが自分の魂の向上になるかを考えて愛を尽くしてゆくと、次第に夫の心はやわらいで、夫自身がそれを反省するようになってゆくのである。
● 子供を欲しいと思うが、どうしても子供が生まれない妻があった。この女性は物質的欲望と虚栄心が強かった。アメリカ初期の開拓者として生まれてきた時、六人の子供の母親になったが、六人とも焼死させてしまった。そのために、神様がその子供達を守ってくれなかったといって神を呪い、子供を持つことに恐怖心を持った。子供を持てばこそ苦労をする。いっそのこと子供はいない方がよいと強く思った。そのために子供が生まれないのであった。
人間は不幸になった場合、この不幸の中から自分はどのように魂の勉強をしなければならないのかと、人生を真剣に考える道を選ぶか、または、神も仏もないといって神仏を怨んで、自分の心のあり方を少しも反省しないか、この二つのうちのどちらの道を選ぶかによって、その人の運命が分かれるのである。この婦人は後者の道を選んだのである。そのために、子供が欲しいと思っても生まれなかったのである。子供のために不幸にさせられた。こんなに子供のことで苦労するくらいだったら、もう子供はいらないと思うと、次の世ではその心の通りに、子供を生めなくなるのである。業として子供を生めない人は、自然にまかせる方がいちばん良いのである。
● 職業的能力と運命 ●
天才は努力であるというが、しかし、いくら努力しても上手にならないという人がいる。少し練習するとすぐ上手になるという人がいる。例えば、同じ年齢の女児にピアノを教えるとする。ある女児はすぐ上手にひけるようになるが、ある女児はなかなかひけない。生まれつき手先の器用な子がいる。下手な子がいる。どうしてこうも生まれつき才能が違うのであろうか。偉大なる植物学者がいた。どうしてその人は一代で有名な植物学者になったのであろうか。それは、いつかの前世において植物の生育に非情な興味を示した。花の採集をしたり、栽培を楽しんだりして一生を終わった。そうした蓄積があって、その次に生まれた。すると、成長するに従って、どの子よりも先に植物に興味を持つ。それが業となって次第次第に植物のことについて詳しくなり、そうして今世において偉大な植物学者になったというのである。誰でも一代で成功し、偉大なる政治家、芸術家、技術家になることは出来ない。生まれてきたその人生をどのように生きるか、輪廻転生のその努力精進の蓄積が、その人の人生を決定するのである。人生において大事なのは努力であって、上達し成功することではない。たとえ上達しなくても、成功はしなくても、その人がその一つのことにたゆまず努力を続けてゆくならば、それでその人の人生は成功したのである。だから、その努力の如何を見ずに、ただ結果だけによって評価し、採点することはいけないのである。
● 運命を修正する方法 ● (重要なので再度あげる)
前世でつくった業が、全部そのまま今世に生じてくるのではない。人間は死んだ時、自分がどのように生きてきたかをすべて反省させられる。この反省によって運命の修正が行なわれ、つくった業がその通りに現われるということはなくなるのである。多くの罪は反省によって消えるが、重大な問題は、もう一度同じ条件で、あるいは全く反対の条件で再演した方がよいのではないのか、自分の魂がその可否を決定する。すると、前世の業を修正するための事件が起こるということになる。予期しない病気、不幸というものは、それも自分が決めて生まれてきたものがあるのである。そこで、どうしてそうなったかをよく反省して、それまでの心のあり方、行為のあり方を変えると運命が修正されて、好転してくるということになるのである。一〇〇%確実に運命をよくする方法がある。それは性格を変えることである。心が変わると運命が変わるというが、心を変えようとしても、どうして心を変えたらいいのかそれがわからないという人がいる。心を変えるのはむつかしいという人がいる。そんなにむつかしく心を変えようと力む必要はない。性格を変えるのである。気の小さい人は大きく、怒り易い人はにこやかに、せかせかした人はのんびりと、いつも自分本位であった人は相手の立場を考えて…。そうした性格を変えるテストをするのにいちばんよいのが家庭である。家族に対しての思いやりから変えてみることである。すると、職場その他の対人関係もうまくゆくようになるし、自然と運命は変わってゆくのである。その運命を早く変えようと思えば、禅定、瞑想をやることである。釈尊は正定と言われた。現在のあなたは、過去の輪廻転生の総決算である。例え、現状が不満足であろうとも、まぎれもなしにそれがあなたなのである。運命を良くしようと思うならば、例え嫌だと思っている自分の人生であっても、まずそれを受け入れて、その上でどうするかを考えなければいけないのである。自分の現在の人生を嫌ったままで、いやだからこうしようと思って逃避すると、すべて失敗に終わるのである。我々は因縁の法則の枠を出ることは出来ない。因縁の法則から逃避しようとせずに、因縁の法則を上手にコントロールすることである。
● 正法を理解したかを判定するための「問題」
「ここに、実際に身体で以って人を殺した人がある。口で人を欺し、人を不幸にした人がある。また、ここに実にまじめな人がある。この人は、心の中ではいろいろと思うが、しかし、そういうことはいけないと知っているので、絶対にそういうことはしない。人にも親切で極めて『まじめ人間』である。この三人のうち、一番罪が深いのは誰でしょうか。世尊よ、お教え下さい。」
「それは最後の「まじめ人間」である」
「悪いことは絶対にしない。人に迷惑をかけることもしないまじめな人が、なぜ、罪が一番重いと言われたのか。このことがわからなければ「正法」がわかったとは言えない。勿論、宗教家としても落第である。現在の日本の各宗教団の講師指導者、牧師、司祭、僧侶、宗教学者に一人残らずこの問題を出して解答を出させてみると面白いと思う。」 園頭広周師
●男は現実社会を建設し、女は子供をどう育てるかということを通し、未来社会を建設する。
● 貴方は、今までに、明るい心と暗い心とどちらが長かったですか。
● 幸せになりたいのなら、パッと明るい方へ気持ちを切り替えること。
● 今日の自然科学は、一つの壁にぶつかっています。その壁とは物質のモトである原子、素粒子についての状態は説明出来ても、その状態を生み出しているところのエネルギーそのものが分からないからです。心ある科学者は、そのエネルギーについて、それは神仏の力であると言っています。その通りで、エネルギーこそ、神仏そのものなのです。原子を動かしているものは光子です。光子を光子たらしめているものは、霊子というものです。今日の科学、機械では、光子は発見できても、霊子を発見することはできません。霊子の発見は、なお百年以上を要しましょう。しかしあえて申しましょう。霊子こそ、神仏であり、エネルギーそのものであります。 (高橋信次師)
● 神より生まれた人間は、永い輪廻転生の旅を経て、神の意識へ帰らなければならない。人生の目的は霊の向上のためであって、地位、名誉、財産を得るためではない。死んであの世の入口で次のように聞かれる。
一、あなたは死ぬ覚悟ができていますか。
一、あなたは死に対する心の用意がありますか。
自分が生きていた時のことを映画のように目の前に見せられる。そうしてまた聞かれる。
一、あなたは一生のうちに、私に見せられるような何かをやってきましたか。
一、あなたは生きていた時に、自分でこれはいいことをしたなというような、自分で満足できる何かをやってきましたか。
● 人の生命を奪うのに、善の殺し方、悪の殺し方というのがあるのであろうか。
● 神の能力は自由、創造、慈悲、愛
● 神仏は絶対に罰など与えはしない。
● 衆生が現世利益の功徳を願っている心を僧達は利用して、バラモン教のバラモンの神々などまでが祀られ始めた。帝釈天・弁財天・毘沙門天・吉祥天・水天・聖天・不動明王・大黒・鬼子母神・妙見・秋葉・金比羅・稲荷など。かっての寅さんシリーズの帝釈天は、バラモン教の神の名である。
● 「なぜゴーダマブッタは日本を転生(再生)の地としたか、どうしてアメリカや他国を選ばなかったのか」
一口に言えば、正法が伝えられやすいからだった。
● 「即身成仏はあり得ない」
即身成仏、という言葉は、万人に通用する言葉ではない。その想念と行為が、神仏の子として恥じない人生を送った人々に対してのみ通用する言葉であることを私達は知らなくてはならない。キリスト教や仏教を学んだことのある人がこの世を去り、肉体や肉体的環境に執着を残さなかった場合、その死体は硬直することがない。自分の死を悟り、安らかに彼らの世界へ帰って行く。この時は、魂の兄弟達が協力して連れて行く。また、肉体的関連のある先祖が協力して連れて行く場合もある。 (高橋信次)
● 「法力」
法力というものは、エネルギーの集中されたものですが、法とは調和を意味し、不調和の力ではありません。つまり、他をいかす、慈悲と愛の発意にのってのみ、行使されるもです。法力と霊力、魔力というものは、外見は非常によく似ていますが、中身は大分違ってくるわけで、心の歪みを持ったままで霊力を行使すると、やがて、その反動がやってきて、その人をうちのめしてしまうでしょう。法力と魔力の違いは、欲望という執着があるかないかであり、それは自分の心を冷静に見つめればハッキリするでしょう。自分では欲望はないと思っても、欲望を持ってこれを行使すると、肉体的に非常に疲れを覚えるものです。力に憧れるのは人間の願いのようですが、まず大部分は欲望に根ざしているので注意が肝要です。力を望まず力が生み出されるもの、それが法力というものです。 (高橋信次)
● 『親の役目』は、子供が社会人となって、人間としての道をはずさないように導くこと。
● 働くとは、人の役に立つということ。
● 病気は、その人の生きざまの結果です。
● 間違いと気付いたら、今すぐ正せ。もう遅すぎるということはない。
● 反省とは二度と繰り返さないということ。
● 稲荷大明神、竜神、竜王
稲荷大明神とか竜神、竜王といった善神もいる。彼らは、動物霊達に、神の子としての道を教える役職にある天使達である。特に狐などは、霊的に強いものを持っている為、人々の心を不調和に導く事が多いので、盲目な人間はこれを稲荷大明神として祭ってしまっている。狐は、稲荷大明神ではないのだという事を、私達は知るべきだろう。世間では、竜神だの稲荷大明神だとか言われると、狐や蛇、竜などをいっているが、それは誤りである。およそ、蛇や竜などが、私達人間の守護霊になるということは、絶対にないという事を知るべきだろう。商売繁盛を目的に、よく狐などを祭ってある家庭や店舗があるが、欲望を満たすためだけの祭りをするというのは、非常に危険なことだといえよう。なぜなら、狐や蛇や竜達は、人間の願いを聞く事が、まずその家庭を混乱に陥れてしまう。祈って商売繁盛しても、人間はすぐ彼らにお礼をすることも供物をすることも忘れてしまう。そんな具合だから、狐や蛇から必ず不満が出て、その家から病人が出たり、商売が左前になったりしてしまうのである。欲望の為に彼らを利用すべきではない。 (高橋信次)
● 先祖の諒解なしに宗旨替えをしてはならない。●
亡くなって逝った人が、「自分はこの宗旨によって救われるのである。死んだらその宗旨のお経で供養してもらいたい」という執着を持っていた時、その子孫が亡くなった人に諒解なしに宗旨を替えた場合、それでは自分は救われない、と子孫の中で頼んだら云うことを聞いてくれそうな人に祟る(出て示す)。直系の子供に頼んでもだめな時は、傍系に出る場合がある。あの世の霊は肉体を持たず、言葉で伝えることが出来ないので、子孫の肉体を借りて示すのである。亡くなった霊の執着は子孫の頭の病気、怪我に現われ、時として足の病気怪我になる場合もある。 (園頭広周)
● 太陽も、地球も、人間同様に、心を中心にして動いているのです。自然はものを語らない、人間はものを語る。喜怒哀楽の感情があるのに、自然は、そうして感情を示さない、といわれます。たしかに表面的にはそうです。ところがそれは違います。この地球という大地も水も植物も、動物もみんな感情を持っており、言葉もあります。現象世界にあるものは、すべてが生命を持っており、生命があるということは、意識があるということです。花でも動物でもそうです。人が愛念を持ってこれに接すれば、花も動物も、その人のいう通りに動き、言葉もわかり、互いに通じ合います。更に進むと、花には花の精があっ て、人間の心が浄化されますと、花の精が姿を現わし、日本人の場合は日本語で、アメリカ人の場合は英語で語りかけます。松や銀杏の木もそうです。そこに住む植物の精霊が姿を現わし、三百年、五百年の風雪に耐えた大木ならば、世の移り変わりを見ていますから、自分の身の回りで起こった、さまざまな変化歴史を語ってきかせてくれます。大地に表情がないかというと、ちゃんとあります。そこに住む人達の意識の調和度、心の持ち方が、その土地の空気をつくっているのです。争いの多い土地には、作物も育ちません。町も汚いです。調和に満たされた場所は、町もきれいで、明るくゆったりしています。人気のない大地にも、気候や風の流れに応じて、サラリとしたところもあるかと思えば、現在は人気はないが、その昔、人類が居を構えたところは無数にありますので、そうしたところは、かつての人類の波動を残し、明暗、美醜の空気をかもし出しているところもあります。火山、地震、地すべり、陥没など、大地そのものは、時には怒り、狂うことがあります。こうした怒りや狂いというものは、大地そのものが勝手に動き出したかというとそうではなく、人間の好き勝手な行動、想念が原因となってつくりだした物理的現象が大部分です。太平洋の中央にあったムー大陸、大西洋に文明の華を咲かせたアトランティス大陸などの陥没も、いずれも、そこに住む人類の業想念が生み出した現象であります。なぜこのようなことが起こるかと言えば、人間の生命意識、地上での目的というものが、己自身の調和と同時に、動物、植物、鉱物を含めた、地上の調和にあって、その目的に反した想念行為に対しては、その目的に反した分量だけの償いが必要になってくるからです。 (高橋信次)
● 昭和五十年、「ソ連、中共にはこれから飢饉が起こる。食糧は不作になる」と予告された時に、「日本には心ある人が生まれて来られたために、日本が食糧飢饉になることはありません」と予言された。
● 昭和四十八年十月に言われたことがある。これまでの政治、経済、教育その他の体質を変えないと日本は良くならない。正法を知った、足ることを知った人達が政治をしないといけない。いつも生産者が損をして、流通機構だけが儲かり、消費者はいつも高いものを買わされるという経済機構もいけない。銀行、保険会社は不労所得が多過ぎる。日本各都市の目抜きの所はみな銀行、保険会社が立派な建物を建てている。正法の実践者が多くなったら、正法の実践者が流通機構を担当し、正法の実践者が教師になる。そして、正法の実践者が銀行、保険会社をやる。そのようにして日本を正法の国家にしてゆかないといけない。
● 「全体の幸福を願うなら、まず自分自身の心を幸福にさせることです。幸福のなんたるかを知らずに、どうして人にその幸福をわかち与えることができましょう。正法はまず己の幸福から出発します。そうして全体の中の一人一人の幸せが目的です。」
● 幸せを求めたいならば、まず悪の想念から離れることだ。 悪を想えば悪が、善を想えば善がもどってくる。

● 人間がこの地上に生をうける時は、両親を指名し、自から選んで生まれてきます。親子を選ぶ範囲というものは、おのずと限定されてきます。
一、魂・意識が非常にあい似通っている場合
一、過去世で親子の約束を強く望む。たとえば、ある人に非常に世話になり、その恩返しをしたいという場合
一、過去世において親子兄弟、友人同士であった場合
一、あの世で生活を共にし、親子の約束をする場合
● 巷の神々と言われるもの ●
恐山の口寄せにしても、街の拝み屋にしても、数え切れないほどだろう。ある者は、神のお告げといい、観音様が夢枕に立って人を救えといったとか、後光が見えたとか、耳元で不幸の起こることを聞いたとか、呪咀という、他人を不幸にしようと祈る宗教から、お浄め霊とかいって、身体を浄めてやる宗教もあろう。なかには、神と称する者が、拝んでいる人間に出て、威厳のある言葉で、人々を威圧して神の言葉を述べる霊媒もいる。亡くなった人々を呼び出して語る霊媒も多いだろう。それらは、いずれも偶像や糸屑の紙を祭って、その前を神前とか仏前とかいって、祈りの場所としているようだ。このような人々の多くは、山中で肉体的行をして、修行したというものが多い。ほとんどが、経文や祝詞を一心に上げている間に、神様が出てくるらしい。彼らは、神様だと思っているのだ。信じているのである。質問に対しては、当たることも当たらぬこともあるだろう。しかし、質問者のほとんどは、先祖の霊が浮かばれないから不幸があるとか、屋敷の中にこのような神を祭ってあるが、粗末にしているかとか、なかには蛇を殺した祟りだとか、猫を殺した祟りだとかいわれて、祈らせられたり供養させられたりしているのである。また生霊が憑いているから、などという時もあるらしい。当然、蛇だの狐だのまでが、祈る対象物となっている。盲信や狂信者には、真の姿が見えないし、聞こえないし、話せないから、ただ一生懸命に信じて、お札や偶像、曼陀羅を祭って祈っている。日本の仏教の中にも、天上界から悪魔が降りてきて、人々を苦しめるというのがある。この苦しみから逃れる方法は、一心に呪文を唱えて、不動明王や観音様や竜王のような諸天善神に、お願いしなくてはならないのだと教えているところもあろう。先祖を代理で供養してくれる場所もある。見えない世界だけに、どれが本物か解らないで、何でも救って貰える、神仏に頼りさえすれば良いと思っている人々が、非常に多いのである。最近では、お光りを与えれば病気が治り、身体が浄まると指導しているところもあるという。
また、人間に憑いている霊を本人に出して、皆祭らせてしまう、賑やかな宗教もあると聞いている。人間というものは、欲望が強い。勝手に何でも神から救って貰おうとしている者達が非常に多い。いずれも他力本願のご利益主義である。他力によって、心を腑抜けにしてしまえば、指導者の生活も楽になるから、やめられないのかもしれない。そして彼らは、神の名のもとに、盲者達や狂者達を支配して行く。富士山のあたりに出てくる、菩薩達の姿は正しいものではない。霊媒でも、自我我欲の強い、感情の起伏の強い者達は、魔王や動物霊が憑依しているのである。常に心の中がいらいらしている。このような霊媒者は肉体的にガタガタである。しかし彼らは、必ず信者の業を引き受けて、信者の苦しみを柔らげているというだろう。もしこれが真実であるならば、天上界の諸菩薩、諸如来、光の天使達は、あまりにも地球上の人類が戦争をしたり、不調和な心を持った者達が多いので、皆の病気を引き受けて、あの世に病院を造らなくてはならないだろう。他人の業を引き受けるようなことはないのである。作用と反作用、原因と結果、法則を知らない者は、何をするか解らない者達なのである。自らの、心の暗い曇りが、地獄霊を呼んでいるのだ。このような偽善者は、言葉巧みに近寄り、へつらうだろう。自分に不都合なことがあると、口角泡を飛ばしてののしるだろう。これは、そこに本性をさらけ出している哀れな姿であるといえよう。いずれにせよ信仰は自由である。正しいものを選ぶか、間違ったものを選ぶかは、あくまでもその人の心にあろう。
● 「他力本願」
まず他力の発生は、人間が十パーセントの意識で生活しているため、一寸先がわからないことと、人のカルマというものが、ちょっとや、そっとでは修正しにくいところに原因があります。祈り(願い)や念仏が、こうした人間の弱さから生まれ、今日の信仰形態が、仏教、キリスト教を問わず、他力に変形していったのも、無理はないと思われます。しかし無理はないといっても、他力では本願(悟り)は絶対に得られません。なぜならば、人間の心の歪みは他力では修正できないし、またそのようには出来ていないからです。人間は神の子なのです。この事実をまず認識して、自覚を持って下さい。さて、この大宇宙は神が創造したものです。神が、その意思と、自らの力で。神は天地創造と同時に、創造した現象物質界に、永遠の調和をめざすことを意思しました。神の意思の継承者は人間です。避けることは出来ません。同時に、人間に生まれたことに感謝を持つべきです。神の子の人間は、神が果たされた天地創造のその働きを、今度は人間が果たしていくことになったのです。他力の誤りは、人間の神性、仏性に目をふさぐことにあります。日本の他力は、法然、親鸞によって開かれたことになっていますが、仏教を大衆化し、衆生の中に根を下すには、こうした方法をとるより他に手段がなかったからだと思います。法然は、他力によって神理を悟れたかというと、そうはいかなかったようです。 (高橋信次)
● 言い逃れをする人は幸せになれない。一切は自分の責任です。
● 不幸の原因は、総て、あなた自身にあり。運命は貴方がつくり出したもの。
● 愚痴、怒り、足ることを知らない欲望を心の三毒と言います。この心を捨て去ること。
● 「正しい生き方」とは、「一切は自分の責任である」と自覚する生き方です。
● 神は先ず天体をつくられた。大宇宙、銀河系宇宙、太陽系、水、空気、鉱物は造られたままで、それ自体として増殖する生命力を持たない。そこで自ら成長するものとして植物をつくられた。植物はそこに生えたらそのままで、移動する生命力を持たない。そこで動くものとして動物をつくられた。動物は動く自由は持たされたが、与えられた本能のままに生きているだけで、創造の自由は持たない。そこで最後 に、完全なる自由、創造力を持った人間がつくられ、自由の力は人間に委せられるという事になった。それで人間を万物の霊長という。
● 「悟った者は、生まれないと仏教では言っているが、その根拠は」
悟られた仏陀は、輪廻から解脱し、生死を超越していると言われますが、あの世も、この世も自由に行き、見ることが出来るため、肉体の煩悩に惑わされず、アポロキティ・シャバラー(観自在)になられているため、生まれることも滅することもないことを悟られております。つまり、輪廻転生における生と死を解脱されているから、生まれるとか死ぬということはないのです。万生万物・生命のある者は、すべて輪廻を繰り返しても、仏陀はすでに、過去・現在・未来の姿を悟っておりますから、自分を見失うことがなく、仏陀には生命の転生輪廻にこだわりを持っていないから、不生不滅の悟りに達しているということである。 (高橋信次)
● 光を入れる時は、「あなたは病気が良くなったら、正法を実践しますか」ということを確認してからやらないといけない。医者が注射して、一時病みを止めるような気持ちでやってもらったら、それは一時的なことでまたぶり返しますから、そうすると、「光を入れてもらったがだめだった」と、一時良くなったことも忘れていわれかねませんので、「良くなったら正法で教える生活をしますか」ということを誓わせないといけないのです。 (園頭広周)
● なんのために人間はこの地球上に生まれてくるかというと、みな霊の向上のためです。
● 自然の法則、原因結果のままに心を大事にしてきた民族と、世界征服大野心を持って戦争を計画し、自分達の目的を達するためには、平気で暗殺も人殺しもやってのける民族と、どちらに神は采配をあげられるでしょうか。
● 世の中には妥協してすまされることと、すまされないことがある。神理を説く宗教の世界では妥協は許されない。
● 正しい信仰には苦しみが生ずるはずがありません。その信仰によって苦しみが起こってきたとしたら、その信仰はどこかに間違いがあるということになります。
● 神の慈悲と愛は、「太陽が善人の上にも悪人の上にも等しく照るが如く」「雨が善人の上にも悪人の上にも等しく降るが如く」と聖書には教えてあるのです。全智全能であり、智慧であり、慈悲、愛そのものである神は、初めから我々に健康と幸福とを与えられているのです。
● 東京の青年から電話が来た。「神と仏とどちらが偉いのですか」と。
「仏とは、神の心をもっともよく知って、神の心を伝える力を持たれた方である」
● 釈尊の生まれ変わりであった高橋信次先生は、「反省は神の慈悲である」という言葉によって、個人は個人として、組織の指導者は指導者として、民族は民族として、国家は国家としての反省の大事さを説かれた。正法による理想世界の実現、それが神が地上に人類を誕生せしめた目的であるから、それは具体的には、正法による政治、経済、教育、芸術、思想等となって来なければいけないわけである。
● 高橋信次先生に教えを受けて、私がいちばん教えられたのは、世界の歴史は、神の心をこの地上界に実現しようという神の計画によって、それをどう実現するかは天上界によって計画されているのである、ということであった。
● 言葉より行いを見て、人を見よ。
● 人を責めてはいけない。自分の心を自分で非難している事が多い。
● 良識とは、ということについては、いろいろな定義の仕方があると思うが、私はここで、「同じ失敗を二度としないこと」「人がした失敗を、自分も真似しないこと」と定義して置く。このことはすべてに通用する。仕事にしても、同じ失敗を二度も繰り返し、人が失敗した仕事を自分が真似する、ということは全く馬鹿げた話であるし、勉強でも、生活の仕方でも、みなそうであるし、宗教もそうである。邪教であるといって、やめて行く人が多い宗教を、なぜ自分が信じなければならないのか、ちょっと立ちどまって考えればよいのに、日本人はそれすらもしないのである。この品物は欠陥商品だ、といって投げ出した商品を、いい商品だといって再び売る人があり、買う人があったとしたら、あなた方はその人達を良識ある人というであろうか。「あの人は良識がない」などと上品なことは言わないで、むしろ「あいつは、なんて馬鹿なんだろう」と言うであろう。その通り、日本人は本当に馬鹿なのである。戦争に負けたからといって、真似せんでもよいものまで真似し、捨ててならないものまで捨ててしまった。その結果が今みるような、教育の荒廃、道徳の荒廃であり、一旦、捨ててしまってどうにもならなくなり、今になって教育改革、道徳教育の復活などといって騒いでいるわけである。
こういうことは大人のすることではない。大人は、良いものと、悪いものを見分ける力を持っているから、見境なくなんでも捨てるということはしない。子供はその区別がつかないから、良いものまで捨ててしまう。その通り、日本人の精神年齢は子供だったのである。終戦から四〇年経って、捨てたものの中に大事なものがあったことに気づいてきたのである。だから、子供は大人のいうことを聞かなければいけないのである。日本人は精神的に宗教的に子供である人が多いのである。宗教には二通りある。大人の宗教と子供の宗教とがある。
大人の宗教とは、心を美しく清らかにし、霊を向上して、人格完成、人間性の向上をめざすもの。子供の宗教とは、その場限りの現世利益を求めさせるもの。物質文明はアメリカが先に発達した。そのために日本人は、日本人よりもアメリカ人の方が人間的にも立派であると信じてしまった。敗戦という虚脱感、敗北感を持っていたところへ、マッカーサーに「精神年齢十二歳」と言われたために、そう思う傾向は一層強くなった。アメリカとの交流が盛んになり、アメリカの情報がすぐ日本に入って来るという状態になってきてわかったことは、日本人の多くの人が考えているように、アメリカ人はそんなに良識ある人ばかりだとは言えないということであり、特に宗教的な面に限定して言うならば、日本人の宗教に対する考え方とそう違ってはいない面があるということである。アメリカのことならなんでもよい、と考えることは間違いである。アメリカが現在失敗していることを、なにも日本が真似しなくてもよいではないか。だから、日本人よ、良識を持て。良識を働かせ。と今さら言わなければならないのである。(園頭広周)
● 「お盆」、「お彼岸」とは
日本の国民性としての、祖先崇拝の習慣が、生活の中にとけ込み、いつか自然の行事になってしまった、と言ったらよいだろう。お盆といえば、先祖の霊がわが家に帰ってくるので、それにご馳走を供養して、盆踊りや灯篭流しをして慰めるとともに、人間達も心の安らぎを得ようとする、今や賑やかな行事になっている。坊さんのかき入れどきで、経文も供養される。子孫と先祖とのつながり、これを大事にするために、現在の私達が、一定の季節を定め、先祖への感謝を表現する行為。それもよいことであろう。しかし、本当のお盆の意味はこうである。
今を去る二千五百有余年前、ゴーダマ・ブッタが三十八歳の時の出来事であった。ゴーダマ・仏陀の最初の弟子で、カピラ・ヴァーストから護衛のために従ってきた五人のクシャトリア(武士)の一人アサジが、マガダ国のラジャグリハ郊外を遊行していた時のこと、バラモンのウパテッサ(後のシャーリー・プトラー)に声をかけられた。しかしアサジは、知的な宗教論争を他の宗派から仕掛けられても、それに応じてはならないと、ブッタから注意されていたので、それを避けるようにした。シャーリー・プトラーは、アサジを見て、この男はただ者ではない、他のサマナーや、サロモン達(修業者)とは比較にならないほど穏やかで、顔色も良く、態度も謙虚で、決しておごりたかぶらない姿に、何とか話してみたい、と思っていたので、はるかに自分よりも年少者であるアサジに従って歩いた。そして対話できる機会を求めた。アサジが、遊行で貰った粥の入った鉢を左の手で抱えながら、食事の場所を探しているとシャーリー・プトラは、自分で禅定する時に使っていた草で作った座布団を木陰に敷いて、「サロモンよ、どうぞこの上に座って、お食事を召し上がって下さい」とすすめた。アサジは遠慮したが、どうしてもということで、シャーリー・プトラーとともに食事をした。論争を挑まれると思っていたアサジは、あまりにも親切な行為に対して、「どうも、私のような弱輩者に、ご親切ありがとうございました」と言った。「いやいや、あなたとお話がしたくて、後をつけてきました。本当に失礼いたしました」とシャーリー・プトラーは熱心にそう言った。アサジは、常日頃、ゴーダマ・ブッタから説かれている法を実践していれば、他の修業者の心に、そのような姿で映るのか、と思い、何か胸にこみ上げてくるものがあった。アサジは言った。
「私の師は、コーサラ国のカピラ・ヴァーストの王子、ゴーダ・シッタルダーとおっしゃる方で、すべて原因と結果、縁生ということについて教えられております。心の在り方を八正道で定め、日々の心と行ないを正して修行しております。シャーリー・プトラーは、これこそ本物だ。神を祭って祈るのではなく、自らの心の悟りを教えているという事実、これこそ本物だ、これこそ本物の仏陀であろうと、はやる心を押さえながら、「あなたの師に紹介して下さい。私の探し求めていたブッタです。どうぞよろしくお願いします。」とアサジの手を握って言うのであった。そしてさらに、「私はラジャクリハの町から北東の山峡を縫ってしばらく行くと、ナーランダという町がありますが、そこが私の生まれたところです。私の師は、アサンジャーと呼ばれるバラモンです。この師について、ウパニシャードを学び、厳しい修行を致しておりますサロモンです。私の親しい友人にも修業者がいますが、本物の仏陀に会うことができたら、必ず連絡し合って一緒に行動をしようと約束しています。ぜひ友人と一緒に紹介して下さい」と言うのであった。アサジは戸惑ったが、ブッタに相談して、明日この場所で返事をすることを約束し、ベルヴェナーに帰った。
ベルヴェナーに帰ったアサジは、今日の出来事をブッタ説明した。ブッタは、その話を聞くとこういった。「その二人は、かつて、前世で私の法を学び、良く道を修めた者だ、再び今世で道を究め、私とともに衆生の心に光明の灯をともすであろう。遂に、たずねてくる機会を迎えたが、アサジよ、過去世の友がくるのだ。明日、サロモン達への説法の時に案内するが良いであろう。」すでにブッタは、正法に帰依する二人のことを知っていたのであった。アサジは、約束の日、ベルヴェナーの多くのサロモン達(修行者)の前で、シャーリー・プトラーをブッタに紹介した。仏陀は、コースタニヤやウルヴェラ・カシャパー達、千数百人のサロモン達を前に、「今、たずねてきた二人のサロモンは、過去世において、正法を修めた人達だが、再び今世で道を究め、サンガーの指導者となるだろう。」と言って皆に紹介した。コースタニヤをはじめ古い弟子達は、今日入門した者達が、なぜ指導者になるのか、その意味が解らないので、ブッタがお世辞を言っているのではないだろうかと、大きな疑問を持つのであった。しかし、初めて会うブッタの言葉に驚いたのは、古い弟子達よりその二人であった。二人は、心の中からこみ上げてくる感激をとどめることが出来ないのであった。
懐かしさというか、不思議な気持ちのようで、ただ嬉しくて、こみ上げてくる理由も解らなかったようだ。しかしその後、サンガーの空気は、古いサロモンの嫉妬心のため、大分調和が乱れていくのであった。ブッタは全員を集めて、「サロモン達よ、良く聞くがよかろう。法に新旧がないように、弟子に新旧の差はないのだ。今世だけのことを考えれば、早く来た者、遅く来た者の差はあるだろう。しかし、早く弟子になった者は、よく後輩指導できるように、自らを正し、精進することが大切だろう。」ブッタは、過去世も、現世も、来世も見通す力を持っているのだ。最近来たシャーリー・プトラーもマハー・モンガラナー(コリータを後に改名)も今世においては、サロモン達より遅く来たであろうが、過去世においては、私とともに道を説いた者達で、その時から思えば、もっと古い弟子達といえよう。過去世において修行した両人は、やがてアラハンの境地に達し、転生輪廻の事実を悟るであろう。生命は、過去世の縁によって今あるのだ。それを、今世だけの判断で、新旧の弟子という差をつけるべきではないのだ。互いに、よく道を極めて、心の歪みを正さなくてはならないのである。指導者とか支配者とかいうものは、自らが定めるのではなく、他人が、その技量と行動によって自然に造り上げられてゆくものなのだ。それが正しいのだ。古いとか新しいとか、武力や権力などによって、人の心を支配することはできないのだ。智慧と勇気と努力によってつくり出された偏りのない生活の中から、正しい道を積み重ねた時に、自ら人はその人間の価値を知り、慈愛に富んだ心と行ないの指導者を慕うようになるものだ。この両人は転生輪廻の過程で、積み重ねてきた器が広く、豊かな心が修行によって造られているのだ。やがてその事実を実証するだろう。」と力強く、説法したのであった。
その後一週間目にして、モンガラナーは心の窓を開き、天上界、地獄界を見通す力を持つことが出来、天眼の一人者となったのであった。その結果、ゴーダマ・ブッタが、過去世において仏陀であったことが実証されるとともに、彼は他の人の肉体的欠陥から心の状態まで、はっきりと見通すようになったのである。モンガラナーがその天眼で、自らの肉体的先祖や母などが、どこに住んでいたかを見ると、母は一人淋しく、薄暗い世界で仕事をしていた。モンガラナーは、せめてその母に水でも差し上げようとした。しかしその水は、途端に炎に包まれてしまうのであった。このことをブッタに説明すると、「お前の母は生前、自分のことしか考えないで、他人に対しては布施の心もなく、気の毒な者達に何かを恵んでやったこともなかった。そして、常に自分を中心として、他人に慈愛を与えることなく、他人からの布施ばかりを望んでいた。自分の意志にそぐわぬ者に対しては、バラモン階級を表面に出してジュドラー達にも厳しい行為をしたのだ。その自らの心と行為の結果、火炎地獄に堕ちているのだ。
モンガラナー、そなたは母の代りになって、困っている人々にできるだけの布施をしなさい。お前の母は、その行為を見て、自分の人生の誤りだったことを悟るだろう。肉親のお前の努力が、お前の慈悲が、母親を救うのだ。そうブッタは諭すように言った。「ブッタのお言葉のとおり、母のため、私のために、悩める衆生に供養します。モンガラナーはそう言い、その後、日を定めて母親のために、貧乏な人々や病める人々に慈愛の布施を行なっていくのであった。このように本来のお盆の目的は、亡くなってしまった人々が、この世に在った時、忘れてしまった布施の行為を、生存する子孫が代わって行為することなのである。 (高橋信次)
● 医学的には、精子と卵子が結合して子供が生まれるといいますが、それは間違いです。精子と卵子が結合すれば、卵子に与えられている細胞分裂の働きによって、一ケの卵子が二ケになり、八ケになり…分裂をして増殖しますが、それで赤ちゃんの肉体がつくられることはないのです。肉体を持つことを望んでいる霊が、その細胞分裂をコントロールして、配列してゆく時に、健全な肉体がつくられてゆきます。霊がコントロールしない時は、細胞分裂はしても肉体とはならないので、それを「ぶどう状鬼胎」といって、早く手術して排除しないと危険だと言われています。
● 真理は一つである。真理は二つあるわけはない。
● 裁判と心の拘束(こうそく)●
この現象界における裁判は、人間が人間のつくり出した法律によって他人を裁いている。裁判官の考え方や、思想的な背景、個人的感情もその判決には出てくるだろう。しかし本来、人間が人間を裁くことはできないのである。なぜなら、被告の身柄拘束という肉体的な行動は制限できても、心の束縛はできないからだ。心は自らの想念によって自由自在に変えられるだろう。 (高橋信次)
● 人生の目的は、人生の目的を知ることにある。心の渇きをいやすものこそ、人生の目的とするものである。人生の目的を知るために、人は生きなければならない。人生の目的に叶う、真の生き甲斐を感ずる方法は、必ず心の喜びがあるから、長続きする。人生の目的に叶わない生き方には、心の喜びがないので、飽きるのです。
● 反省は、悪かったと気付くことだけが反省ではない。「二度ともうしません」という誓いと、これからどうすればよいか、その時はではどうすればよかったのであるかが、はっきりと決心されていないと反省したとはいえないのである。その反省によって因縁を超越し、天上界へ行くことが出来る。生きている間に犯した罪で、このことはもう一回体験して反省が本物であるかどうかを確かめたいと思ったものが「業(カルマ)」として出てくるのである。生まれつきその人の性格の中に、そのカルマが含まれてしまうから、生まれつき金にきたない、名誉欲が強い、女に弱い等の醜い性格があることになるのである。
● 人を依りどころとせず、法を依りどころとせよ。 (高橋信次)
● 高橋信次先生が禅定の指導をされる時に、「とにかく、いつ死んでもよいという心境になりなさい」と言われた。
● なんでも憑依霊のせいにして、「なにか憑いているんじゃないでしょうか」と考える癖もやめた方がよい。そんなに簡単に憑依するものではないし、逆に心を明るくしようと努力している人には、絶対に憑依しないのであるから、心が暗くならないように、ふさぎ込んでもうだめだと思ったりしないようにすればよいのである。
● 死とは
魂は生き通しのもの、肉体を脱ぎ捨てて魂はあの世(実在界)に還るにすぎない。
● 誕生とは
あの世で一定の時間を過ごした後、この世で肉体を持つことです。
● 医者と正法
これからの医者は宗教家でもなければならない。そして、患者の心と肉体の両面から救わなければならない
● 病
からだは無理をすると調子が狂い、休まないと壊れるもの。胃が痛いといえば薬をのみ、風邪を引けば薬でおさえ無理をする。胃を休ませ、からだを休ませればもとに戻るもの。 それが自然の摂理
● 苦しみの根を元から絶たなければ苦しみはいつまでも輪廻します
●神の意思●
我々の住む太陽系は、大宇宙から見ると顕微鏡でも分からない極微の一点にすぎない。太陽系に属する銀河系には、約一千億個の恒星、約五億個の惑星。地球はこの五億個の一個にすぎない。銀河系のような星雲群は、約一千億個にのぼり、大宇宙を構成している。大宇宙の無数の星々は六十兆個。地球はその中の一個です。そして、 地球は太陽の廻りを自転・公転し、規則正しく循環しています。百年に千分の一秒(十万年に一秒)しか狂わない程正確です
●二十一世紀の人間像●
自然食を食べて、コンピューターを使えるクリーンな頭脳を持って、正法によって心を安らかにした人間、それが私が描いている二十一世紀の人間像である。 (園頭広周)
● 個人の運命は三年、五年、七年とその倍数で変わるが、国の運命は三十年、五十年、七十年、百年という数字で変わる。七は完成の数である。
● 今まで私はたくさんの人に光を送って奇跡を現わした。私が残念に思っていることが一つある。それは、病人に光を送って病気を治して下さいという願いばかりであって、どうしたら病人の心を救うことが出来るでしょうかと言ってくる人は一人もいなかったということである。死に直面して、医者から後数日の生命だと言われたというような場合でも、「元気になるように祈って下さい」と言ってくる人ばかり で、「安らかに死ねるようにするにはどうすればいいでしょうか」という依頼は一つもなかった。病気が治りますようにと祈るよりも、心、霊が救われますようにと祈る方が、病気も早く治るのである。だから私は、「病気を治して下さい」と言われても、祈る時はその病人の霊が救われることを祈るのである。 (園頭広周)
● 日々の日の出がみな初日、元日の日の出だけが初日ではない。正法流布に打ち込まれた高橋先生の言葉。私は、神よ、神の子である私を心のままにお使い下さい、と。私が高橋先生を信じたのは、その説かれる事が正しい神理であると同時に、その魂の感動による心の安らぎがあったからである。 園頭広周
● 正しいということは、神の心を基準とすること。地獄で苦しむ諸霊は、みな現象界に心を奪われた人達なのである。
● 大なる生命は、小なる生命をコントロールしなければならない。というのは、〃心の法則〃である。
● 与えれば与えられる。
● 日航は全日空や、東亜国内航空に比べて事故が多い。調和のないところに事故が起こるのである。日航は四つの労働組合に分かれて、なにかというとストをやっている。その争う心がなくならないとまた事故を起こすことになる。
● 日露戦争の時の連合艦隊司令長官は東郷平八郎元帥であった。当時、舞鶴の要塞司令官で、退役一歩手前であった東郷中将を司令官に抜擢したのは山本権兵衛海軍大臣で、その理由は「東郷は運のいい男だから」ということであった。
● 脳溢血で倒れて、半身が不随になっている人達に必ず質問します。あなたは倒れる前に怒った心を持っておりませんでしたかと言うと、百人が百人全部そうです。怒りの想念は即、肉体的な諸現象にまで大きく現われて来ます。
● 年寄りの方で、お嫁さんのことを悪口を言います、こぼします。この方もやはり身体中がどうにもなりません。百人が百人相談に来る人達が同じ現象だということは、しっかり考えなくてはならないでしょう。人間は心のあり方が肉体に反影するという事実、これは仏教が説いているところの色心不二という姿をみてもわかるでしょう。
● (質問) 地球はこれから、段々よくなって行くのでしょうか?
(高橋信次) 「よくなっていかなければ困ります。しかし、もうちょっとの間は悪くなります。」
● キリスト教とイスラム教は偶像崇拝をしないが、日本仏教は偶像崇拝である。
● カトリック教は、白色人種が有色人種の国を植民地にする時の道具にされた。
● 般若心経はどこでも読まれている。有難いお経であり、したがって写経も良し、読誦もまたご利益があると伝えられている。しかし、その意味もわからず、行為のないものが、朝晩上げても光は届かない。今日の仏教は、経文をあげたり、写経自体にウエイトがかかり、日頃の想念と行為については問題にしていないところに問題があろう。 (高橋信次)
● 「念力と祈り」
念力も祈りも、ともに想念の働きです。さて、念力は一口にいって我欲の想念であるとしていますが、大宇宙は神が創造したものです。光あれといって光をつくり、海をつくり、草木をつくり、人間をつくりました。これは神の一念によるものです。人間は神の子です。その証拠に、自分にウソはつけません。また、この地上にユートピアを創造してゆく力を与えられています。文明文化は人間の一念の産物です。問題は、その一念に、人間は、我欲を上乗せして生活している、という実態です。だから、念力は我欲のそれだというふうに見られてきたわけです。しかし、念力のエネルギーは神の子の創造力を意味し、したがって本来は、その念力を「正念」として使わなければならないものです。祈りは「真心」の発露であり、「反省」であり、そうして、それにもとづく行為であり、神との対話を意味し、感謝の心の現われとなるものでなければなりません。イエスの言葉に「汝信仰あり、われ行為あり」というのがありますが、これこそ「正法の祈り」であり、あやまちなき行為こそ「祈り」の神髄であると言えるわけです。 (高橋信次)
● 反省は神の慈悲
太陽が善人をも悪人をも等しく照らすが如く
汝らの髪の毛は、一本だにすべて、数えられてあるのである
汝らの思うことは、一点一画だにすたることなし
● 太陽が善人をも悪人をも等しく照らすが如く
正見し霊的な立場から、物事を見る
反省と後悔は全く違います
● 全体の幸福を願うなら、まず自分自身の心を幸福にさせることです。幸福のなんたるかを知らずして、どうして、人にその幸福をわかち与えることができましょう。正法はまず己の幸福から出発します。そうして全体の中の一人一人の幸せが目的です。 (高橋信次)
●マスコミと正道
マスコミについて言えば、金さえ儲かればどんな方法で何を発表しても良いという考え方は、疑問とすべきである。社会人類の調和と安らぎのための報道なら、不変の安らぎを与えることが出来るが、情欲を誘うような、人の心を揺り動かすような低俗なものに屁理屈をつけたものは、一時的なものである。人の心は一時は騒いでも、必ず離れて行く。不真面目なもを出版したり、映画化したりする人々には、その不調和な想念行為が帰り、その心は黒く覆われる。彼らはそのことを思い知らされるであろう。(高橋信次)
● 芸術と正道
俳優が、一つの演技を通して、その主人公になり切り、悪役、病人、自殺、恋人などの演技を通して、心も身もそのものになり切ってしまう。私達の心は一念三千、善にも悪にも通じてしまうものであるから、不調和なシーンは、必ず次元を超えた不調和な世界に通じ、俳優が病人のシーンを演技しているうちに、実際に主人公の病気と同じ現象になったり、死亡している主人公のシーンを再現するような場合、演技だけにとどめないと、その反作用が現象化することがあるので、演技から解放された時には、正しい心で、自ら演じた主人公の善悪をはっきりと認識して、善なるものは心に刻み、悪なる不調和な部分はよく反省して、現実生活における己の心と行ないを結びつけないことだ。 (高橋信次)
● 人工受精…実験の段階では天上界の霊が協力して、正常な子供が生まれるが、乱用されるとなると奇形児が生まれることになる。
● 魔とは何か
それは迷いです。肉体がすべてであるという考え方です。人間は大事な心を忘れ、知らず知らずのうちに執着、自己保存という神の子に反した魔のとりこになってゆくのです。
● 「運命はわからないからよい」
一年後、五年後の自分の運命がわかったならば、修行の度合いも少ないものとなるからです。
● 魂というものは、本来、光子体(意識体ともいう)全体を言います。心の面から言いますと、潜在意識、想念帯、表面意識を含めています。
● 苦しいからといって、宇宙の果てまで逃げても、苦しみは追ってくる。なぜなら、苦しみはあなたの心の中にあるからである。
● 人生がすべて魂の修業であることがわかると、すべてを赦すことができる。
● 法は心の太陽である。
● 太陽の熱エネルギーは、一秒間に石炭を二百万トン燃焼させた熱エネルギーに匹敵します。
● 地球自体の熱源は、電磁波重力というものを媒体にして、太陽熱を吸収保持することによって維持されている。地球の内部は、火山を見てもわかるとおり溶岩となって燃えています。これはまさに小太陽のように燃えているのです。小太陽は親太陽の影響を、絶えず受けていることを知ってもらいたいと思います。太陽がその光を消しますと、地球もまたその生命活動を停止します。
● 今日の自然科学は、一つの壁にぶつかっています。その壁とは物質のモトである原子、素粒子についての状態は説明出来ても、その状態を生み出しているところのエネルギーそのものが分からないからです。心ある科学者は、そのエネルギーについて、それは神仏の力であると言っています。その通りで、エネルギーこそ神仏そのものなのです。原子を動かしているものは光子です。光子を光子たらしめているものは、霊子というものです。今日の科学、機械では、光子は発見出来ても霊子を発見することは出来ません。霊子の発見はなお百年以上を要しましょう。しかし、あえて申しましょう。霊子こそ、神仏であり、エネルギーそのものであります。 (高橋信次)
● 子供は父と母との豊かな愛情によってのみ、豊かな情操を持つことができるのである。

● 「いじめっ子をなくすには」
保育、教育について
アメリカの占領政策による保育、教育の指導方針は、保育、教育を 家庭の責任制でなくて、公共責任制にしなければならないという事にあったように思える。保育、教育を公共責任制にしようという事で、壮大な実験を行なったのはソ連であった。ソ連では哺乳期間が過ぎると、すべての子供を公共施設に集めて、そこで生まれつきの共産主義の闘士を育て上げようという事をやった。その結果は失敗だったのである。一番母親のふところに抱かれて母親の愛情の欲しい時に、無理矢理に母親から引き離されて施設に入れられた赤ちゃん達は、愛情に対する欲求不満から攻撃的になり、実際は可愛い盛りの赤ちゃん達が、這い這いしながら他の子に噛みついたり、ひっかいたり、口を血だらけにして相手の子供の肉を喰いちぎる赤ちゃんが出たりして、地獄の様相を呈した。それでソ連は、赤ちゃんを公共施設で、国家の方針で育てるという事を中止したのである。公共責任制が失敗だったのであるから、完全に家庭責任制にし、家庭教育で出来ない部分を学校教育に委ねるという事をしなければならない。
ところが、終戦後のアメリカ占領政策によって、日本伝統の家庭教育責任制が破壊されてしまった。父権の喪失によって、従来家庭教育の責任者であった父親の権威が全く無視されてしまった。日教組は「父親としての権威を持ってはいけない。子供のよき友達になれ」と教えた。一方、母親の方も母乳を飲ませず、ミルクを飲ませて母権を放棄した。そうして、父と母との豊かな愛情を受けられずに育った子供達がみな攻撃的になって「いじめっ子」になっているのである。現在いじめっ子が問題になっているが、いじめっ子をなくそうというので、警察も乗り出して禁止させようとしているが、強制力によっていじめっ子はいなくなったとしても、そのいじめっ子が本来持っている破壊性は他の方面に爆発して、今までとは違った形の社会問題が起こってくるであろう。いじめっ子をなくすには、これまでの日教組の教育方針に反対して父権を確立することである。父親は子供の友達であってはいけないので、はっきりと父親になり、家庭に於ける教育の責任者になることである。いじめっ子をなくすには、そのいじめっ子の父親の教育、それに深い母性愛を持って育てることを怠った母親の再教育をしないといけないのである。昔の親は、自分の子供が人の子をいじめていると知ったら、それこそ殴ってでも子供を教え諭したものである。これだけいじめっ子の問題が社会問題となっているのに、わが子を反省させて、いじめないようにさせたという親が登場しないのはおかしいではないか。いじめっ子の親達は一体何を考えているのか。ここにも現在の親達の人間的未熟さが露呈されている。
● 「いじめられっ子」
いじめられっ子は、父親が権威を持っていないところへ、余りにも母親がベタベタと甘やかして育てたから、いつも子供は受け身になって、自分から積極的に何かをやるという積極性と行動力がなくなって、というよりは、いじめられるとそれに対してどう反応したらいいのかわからず、いつも受け身になって萎縮するから、ますます面白がっていじめられることになるのである。いじめられたら、たとえ相手は多勢で負けるに決まっていても、わあーっと立ち上がって誰でもひっつかまえて噛みつくとか、殴りかかるとかいう反発の行動力を見せつけると、いじめられなくなるのであるが、何事も母親に甘えさせられて、しなければ母親がやってくれるということで、無気力に消極的に育てられてしまったことが、いじめられやすい体質になってしまっているわけである。昔の親は、子供が喧嘩で泣いて帰ってくると、「男のくせに泣くな、これでやってこい」と棒を握らせて外へ追い出す親がいたものである。暴力を振うのがいけないというなら、泣かされた子が先に暴力を振うということは絶対になく、先に暴力を振ったのは泣かせた子なのであるから、その子の暴力こそ先に批判すべきである。どんな逆境にも決して負けてはならぬ、泣いてはならぬということを教えようとした、その父親のわが子の強い成長を願う心は大いに認めるべきである。その棒で相手を殴り返すかどうかは、その子供自身の問題として子供に委せればいい。わが子のいかなる暴力もいけないというのであったら、その親は最初に暴力を振った子供の親に反省を求めるべきである。そうすることが「筋を通す」というものである。
● 私達が同じ場所に生まれているということは、非常に縁がある者同士であって、あの世から見れば、同時代の同期生である。こうした同期生も、肉体を持って生まれてしまうと盲同然になってしまい、「お互いにライバルだ」なんていう考えを持ってしまう。人間は本当に哀れで愚かな者であると、私の指導霊は言っている。心の世界が開けた時、人間は皆兄弟であることを悟り、お互いに協力し、調和の心を持って嘘のない生活を作って行くものであるが、多くの人々は、小さい心で、自ら小さな自分を作ってしまう。人間は、この世を去る時に、悔いのない人生を送ったと確信できることが、最大の喜びなのである。 (高橋信次)
● この現象界で学んだ知識は、ややもすると自己保存のための道具になりやすく、またこれに溺れやすいのが人間だ。そうした結果、学歴やペーパーの試験によって、人間の価値が判定されてしまう。心が失われていても、試験が通れば社会的地位が与えられ、地位を得た者の中には、権力の座について悪徳を積む者がいる。また、そうした権力者と組んで利欲に関係する者など、自己保存をして他人のことなどかえりみない人間がいる。しかし、そういう人間も、権力の座をひとたび下りてしまうと、陸に上がった魚のように人生の無常を知る。ちやほやしていた取り巻きも、いつか遠ざかる。腐敗した肉に集まる蛆のような心を持っている人々も離ればなれになって行き、悪徳業者は新しい相手を求めて散らばる。人間のつき合いは、このようなものであってはならない。 (高橋信次)
● 自分の非を認めず、相手を攻撃することによって自分を正当化しようとするのは、弱者の論理である。
● 人間は魂があるのであって、輪廻転生するのであり、死ねばあの世があって、そこでまた勉強をするのであり、この世で苦しんでいたら、あの世でも苦しまなければならないのであり、その苦しみを通してどのような魂の勉強をしなければならないのか、その苦しみの意義がわかるまでは、その苦しみはなくならないのである、ということがわかってこないと自殺はなくならないと思います。自殺した霊魂は地獄界に堕ちて、神が定められた輪廻転生のルールに反したことを厳しく反省しなければなりません。反省が終わって、許されて再び地上界に生まれ変わってきたとしたら、人生というものがどんなに大事であるかということを再び知るために、どんなに苦しいことがあってもこの人生を逃避するために絶対に死ぬわけにはゆかないという、厳しい決心を持って、孤独の一生を送らなければならないのです。孤独の厳しさの中で、人生を大事にすべきこと、人と人とのつながりを大事にすべきことを学ぶのであります。
● 反省的瞑想は、正しい心のものさしを知らないでやっては何にもならないのです。心のものさしを持って、善我であるか偽我であるかをはっきり見極めることです。「反」というのは、「ふりかえって、かえり見る」ということであり、「省」とは、「少な目にかえり見る」ということで、一ぺんにどかっとかえり見るということでなくて、少しづつ少しづつ、じっくりと省り見ることです。
● なんでも当たり前だと考えて感謝しない人々が死んで行く世界は、何を見ても、何を食べても満足することの出来ない苦しい世界である。
● 「先祖に対する供養は」
まず先祖からは肉体舟を戴いたのだ。 育てて戴いたのであろう
感謝する心を持って報恩の行為で示すことが大事だろう
それには身体を丈夫にして 心を美しく 家庭が円満でいつも笑い声の立つ家で 朝起きれば希望に燃えて 昼は自分の仕事に勤勉で 夕は一家団らんの夕食をとり 夜は自由を与えられ。こうした人間の一日に、不満があるはずがないでししょう。このような生活をすることが、先祖に対する最大の供養だと言えます。たとえ地獄に堕ちていても、子孫の平和な生活、光明に満ちた生活をしていれば、地獄霊もその姿を見て、自ら自分の非を悟るでしょう。己自身の不調和を改め、その霊を昇天させる原動力となるからであります。子の幸せを思わぬ親はないはずです。しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥じない自分になろうとするのは人情ではないでしょうか。あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはないのです。類は類をもって集まるの喩で、その霊は自分と同じ思想、考えを持った人に助けを求め、いわゆる憑依作用となって人の体、実際には意識に憑いてしまいます。すると憑かれたその人は、病気をしたり、自殺したり、精神病になったりしてしまいます。地上が調和されると、あの世の地獄も調和されます。あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、まず個々の家庭が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを知って頂きたいと思います。先祖の霊に物を供えたり、法事で物を供えることやお経をあげることが先祖供養ではないのです。 (高橋信次)
● 信心とは、己の心を信ずることなり。
● 〃朱にまじわれば朱くなる〃という諺があるように、迷える霊に対しては、生きている人々の霊域を正すことが、自分自身をも救うことになる。心を失ったお題目を何万回上げても、忍耐力と声帯の練習のみで、自分自身の心を救うことは不可能である。お題目の神理を生活の中に生かすことこそ、自分が悟る近道であることを知らなくてはならない。
● 雨が降り、風が吹くことによって、大気は浄化され、植物が育ち、明日の生命、明日の生活が約束されていることを知れば、大自然のこうした計らいに対して、感謝の心は湧いても、文句などは出ないはずです。人はまず天に対して感謝し、地上の環境についても感謝すべきです。
●食事
食物も生きています。感謝の心を持ってこれを摂れば、その食物は滋養となって、血や肉となって健康を維持してくれます。反対に、ぜいたくをし、年中不満の心で食する場合は、食物もその人を嫌い、栄養にはなってくれません。物を大事にし、いつくしむ人には、万物は喜んでその人に奉仕してくれます。
● 神社仏閣の原点
神社仏閣は、生きている人間の心の修養道場とすべきであろう。原点にかえるべきである。
● 動・植物は生かされているもの。人間は生かされていると同時に生きていくものであります。
● この身の生まれた故里が恋しいと同じように、魂は魂の生まれた故里を恋い慕う。切ないまでに故里を恋い慕う心が神の信仰心である。神は私達の故里である。
● 反省は、大きく飛躍するためにするのである。雲が晴れたら太陽が顔を出すように、反省して心の曇りを除けば神の子の実相が現われる。
● 「地上になぜ争いが絶えないか」
平和な実在界があるのに、そこに光の大指導霊や、光の天使達がいるのに、なぜ地球上に戦争や、他人との争いや、労使の闘争や病気があるのだろうと疑問を持つのは当然です。それは実在界(あの世)とこの現象界(この世)とは次元が違っているが、この地上界の人々の心の調和によって、霊囲気が清明になれば、通信は可能ですが、人々の心と生活の態度が、怒りっぽいとか、金銭欲が強いとか、情欲に溺れているとか、他をそしるとか、地位や名誉ばかりを追っているとか、形式主義に陥っているとか、不調和になっているので、天上界の者達がなかなか指導出来ないのです。 (高橋信次)
● 歴史的なものの見方の出来る人は段階が高いし、出来ない人は低い人である。過去から現在、未来と、長年月、何百年、何千年と永い時間の歴史の流れを見つめることが出来る人は段階の高い人であり、今日一日のことしか考えられないという人は低い人である。
● 同じ時に、同じ国に生まれるということは、その国に生まれて為さなければならない共通的使命を持っているということである、と言われた高橋信次先生の言葉を改めて考えさせられることであった。
● 天を仰いで神に感謝する人はあっても、大地にひれ伏して感謝する人は少ない。
● 題目を上げて死者が成仏するなど、とんでもない話である。
● 他の宗教を邪宗と決めつけ、信者には罰が当たると脅迫し、自らの心にまで足枷をはめた、それは哀れな人々である。
● 信者もまた罰など当たるはずがないのに、恐ろしがっているのだから呆れたものだ。
●弁財天、大黒天
仏教でいう弁財天とか大黒天とかいうと、何か金儲けの手助けのように思っている人々が多いが、これはとんでもない間違いである。弁財天とは、心の中に埋没している、転生輪廻の過程に造り出された私達の智慧の宝庫を開くための協力者であり、大黒天は、肉体を持った光の天使達が、正法を流布する時の、協力者である。経済的な援助や環境を提出する諸天なのである。それを現代人の多くは偶像化してしまって、これに祈れば財産に恵まれると思っている人が多いが、残念なことには、全く金儲けには縁の遠い諸天善神なのである。
● 高橋先生は言われた。
一九七二年(昭和四十七年)現在、四百二十五人の上段階光の大指導霊(如来)
二万人近くの上段階光の指導霊(菩薩)
一億数千万人の光の天使が実在界におられる。
● 資本主義もマルクス主義も、物質と経済が基準になっているため、心はない。私達の本当の幸せは、果たして経済だけであろうか。経済だけに幸せがあると考えている人々は、本当に心の貧しい人間である。
● 人間は善いことをしなければならぬ、と言われる。それは道徳の世界である。人生は善いことをすることだけが目的ではないのである。ここからが宗教の世界に入るのであるが、人生の目的は、善いことをすることを通して、大生命即ち神そのものの存在を知り、その大生命、神と自分との関係を自覚することにあるのである。
● 愚痴は自分の欲望が満たされない時に起こり、心に曇りをつくる。その結果、神の光をさえぎる。 (高橋信次)
● 世の中は物質文明の時代から霊的文明の時代へと移ってゆきます。と高橋信次先生も言っておられました。
● 高橋先生が熱を入れて講演をされると、頭から顔から手のひらにも一杯の金の粉がついたのは、多くの人が見ていた。高橋先生が「正しく心を開いた光の天使にはそういう現象があるのです」と言われた。
(註・動物霊も出すことがあるので、その人の生き方、在り方、その人のすべてを見て判断しなければならない)
● 何人折伏すればあなたの業はなくなる、とか言われれば、欲望のある者は一生懸命になる。そうした信者の姿こそ、哀れである。組織の細胞になっているため、自分自身、何も解らなくなっているのだろう。信仰することによって、むしろ苦しみと疑問の渦の中で、この人生を送っているのである。そうした疑問も、罰が恐ろしくて疑問を持てないという指導者も哀れである。
● 阿修羅も、地獄霊も、動物霊も魔王達も、心の美しい人々を侵害することは出来ない。なぜなら、正しい心の人々には、心に曇りがない、神の慈愛の光に満たされているため、彼等魔王達も、近づくことが出来ないということだ。
● 理想を実現するには実現するにふさわしい条件が整わないといけない。現実を無視して理想だけを追うと失敗することになる。理想は一足飛びに実現出来ない。現実の永い積み重ねの上に理想は実現するので、正法による世界平和の理想の実現も、一歩一歩の努力が必要である。
● 考えが行き詰まると、考えは堂々廻りをするばかりであったが、こういう時には「おまかせの祈り」をすることである。自殺する人達はこういう祈りの仕方があることを知らなかった人達である。「人事を尽くして天命を待つ」というのは、こういう時の言葉である。祈れば必ずその人にとってふさわしい道が開けてくるのである。「人事を尽くして天命を待つ」という「おまかせ」の心境になった時に、即ち自力の極に他力があるということになって、天上界から協力があることになるのである。新聞に、自殺した、一家心中したという記事が出るたびに、そういう人達に「正法」を知らせて上げるまでに至っていない自分の力不足が悔やまれてならない。捨てる神もあれば、拾う神もある」という諺は、人間が一切を捨て切ったら、必ずよくなる、運命が開けてゆく事を教えたものである。また、「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」という諺もある。諺とは、言に彦(日子)と書く。日子とは神の子であり、言葉の中の神の子なるもの、即ち神理を現わしているということである。 (園頭広周)
● 私がもし、その会社の従業員の組合長であったら、ロボットを導入しても五〇人の首切りをさせないように(こういう時、社会・共産党の人達は単に「首切り反対」というわけで、同志愛の発動は何もないのである。)会社と組合員に対し、労働時間と賃金の再配分を提案する。ロボットが導入されて五〇人あればすむのを、一〇〇人でやろうとするのであるから、当然一人当たり、これまでの労働時間の半分働けばよいということになる。労働時間が半分になったのであるから、賃金も半分ということになる。今までもらっていた給料が半分になっては生活出来ないということになる。そこで、ロボットを導入した生産性を勘案して、とにかく足ることを知った。生活出来る最低限の給料で辛抱して、一人の首切りも出さないように、経営者も従業員も、みな譲り合ってゆくというようにすればよい。現在の労働組合運動には愛がない。欲望を肥大化させた「金寄こせ」運動でしかない。「足ることを知る生活」とは、神が与えられた智慧と資源を、人間の魂の向上のために、最も有効合理的に生かして使う生活で、精神的にも物質的にも全くムダのない生活である。行政改革が国民の思う通りに行かないのも、結局は公務員の反対が強いからであり、国民全体が「足ることを知る」ということにならないと、行政改革もむつかしいということになる。 (園頭広周)
● 私が考えていた愛国心は、日本人が日本の国を愛して道義国となり、教育の徹底によって、日本には泥棒や悪いことをする者は一人もいなくなって、刑務所は空っぽになる。みんな助け合ってやってゆく美しい国の建設であった。そういう愛国心なら、世界中どこの国でも日本の国みたいになろうとするであろう。決して日本が嫌われ警戒されるということはない。
● すべて自然の警告は、「忘れた頃にやってくる」のである。
●よくない心
正しくない心とは、人を憎む思い、怒り、そねみ、愚痴、中傷、足ることを知らぬ欲望など、こういう想念を言います。なぜこうした想念が正しくないかと言いますと、自己保存が主体になっているからです。人類の歴史の大半は争いの歴史です。闘争と破壊の歴史です。自己保存の歴史です。 (高橋信次)
● 麻薬常習が家庭の主婦の間に広がってきているということは、それだけ心の中に不安を持っている人が多く、その人達がいかに安易にその苦しみを忘れようとして、麻薬に頼っているかということであるが、肉体があれば麻薬を打ってしばし苦しみを忘れることが出来る。或は落語や漫才を聞いて一時忘れる、或は遠い旅へ出て一時忘れる(これらはすべて逃避である)ということが出来るが、死んで肉体がなくなると、そういう逃避は出来なくなる。心だけになるのであるから、心で解決しない限りその苦しみはなくならないことになる。だから、心をきれいにして死んだ人にとってあの世は楽しい世界であるが、執着やいろいろな悩みをそのまま持って死んだ人にとっては、あの世は確実に苦しみの世界となるわけである。
● 「天に在しますわれらの父よ」は、現在の教会キリスト教にあるパウロ教。「大地なる母に感謝する」は、原始キリスト教
● 政治的には法律にふれた人を悪人というのであるが、宗教は心のあり方を問題にするのであって、自分は法律にふれるような悪いことは何もしていないと言っても、心の中で怒り、妬み、悲しみ、不平不満の心を持てば、それは宗教的には悪というのである。だから、幸福になろうと思ったら、見せかけの表面的な明るさではなく、心の底から明るい心にならなければならない。
● 転生輪廻(循環の法)というものは、万生、万物ことごとく整然と行われ、しかも滅すること。増えることもなく永遠に循環しています。(般若心経の一節、不増不滅)
● 肉体は人生航路を渡る舟にすぎない。肉体は朽ち果てても魂(意識・心)永遠
● お釈迦様の教えの中に、念仏を唱えて阿弥陀様を拝めと、どの経典に書いてあるのか教えて欲しい。仏教の根本は、苦しみから解脱する道を教え、正しい実践生活を説いているものである。従って、偶像や曼陀羅を拝めとは、どの仏典にもないはずである。 (高橋信次)
● 「地獄救済は地上に調和された天国を作ることから始まる」
地獄界は地上の人間が自己本位に生きたあげく、創り出した世界です。地獄界には、あの世の太陽の光はまったく当たりません。光が当たらなければ、彼らは生きることが出来ません。そこで彼らは、地上の同類の人間から、生きるエネルギーを吸収して生きている訳です。その意味では地獄霊は吸血鬼です。彼らはこうして、生きた地上の人間からエネルギーを吸収して、暗黒世界で生きているのです。
● 地上が愛の生活に満たされれば、地獄霊の生活の足場をはずすことになり、人間社会も明るくなるわけです。またこうすることは、地獄に堕ちた肉親縁者の霊達の絶大な供養ともなり、また彼らに反省の機会を与えることになり、人間界と地獄界の悪循環の絆を断ち切る大きな基礎ともなるのです。
● やがて、地球上の魂のレベルが上がるというのは、過去世で理想世界を築いた経験のある高級霊が、ぞくぞく生まれてくるということで、高橋信次先生は、そういう霊が既に生まれていると言っておられた。文化が発展するのは、高級霊がそこにたくさん生まれてきているからであり、生まれなくなれば、そこは文化が衰退し、また、高級霊が生まれた地方に新しく文化が興ってくるのであります。
●先端医学といわれるもの
人工妊娠も、試験管ベビーも、医者は科学の勝利だとか、人間が自然を支配したと言っているが、このようなことは、地上の医学者の実験に進んで協力しようとする、あの世からの霊魂がいることを忘れてはならない。進んで協力しようとする霊魂がいなければ成功しないのである。その人達の願いが純粋であれば、それに協力しようとして進んで肉体を持つ霊魂があるが、しかし、人間が不純な心で濫用するようになると、霊魂が協力しないから、卵細胞は細胞そのものに与えられている増殖作用によって、子宮内で分裂増殖するだけで、人間としての形を持たない単なる肉の塊りにしかならない奇型なものになり、今までの科学が公害問題を起こして、自然を破壊してはならないということにやっと今、気づいたように、やがて医学者達も、自然にそむくことの恐ろしさをいやというほど思い知らされる時がくるであろう。現在、日本に人工授精児が五千人位いると言われているが、その半数が不幸であると言われている。自然に逆らうことはいけない。
● 汝信仰あり、我、行為あり 「イエス」
●執着
知識のある者は、まずその知識を捨てよ
我執にとらわれる者は、一人で生きていると思え
権利を主張する者は、義務をまず果たせ
執着のおろかさが理解されてこよう
● 信頼と理解
親子の道は、愛と義務、信頼と理解とによって生かされる。主義・主張におぼれ、執着や我欲に流されてくると、家庭は不信と疑惑を招き、、生活の基盤を失うことになる。
● 従来の宗教指導者の多くは、眼に見える肉体的現象に、信仰の対象を求めてきた。その結果、肉体先祖がすべてのように考え、魂までも肉体先祖から戴いたものであるかのような錯覚を犯してきた。そのため信仰は、先祖に対して立派な戒名を上げ、立派な墓地に埋葬し、経文を供養すれば、成仏がなされるというように変化してしまい、そうした行為によって子孫も救われると思うようになってしまった。つま り、葬式仏教・儀式による先祖供養に陥ったということである。一宗一派の教祖と称するような人々もそんなふうに教え、その教義をまた信仰している信者の何と多いことか。イエスも釈迦も、先祖を拝めとは教えていないのである。もちろん私達は、先祖や両親の縁によって、肉体を戴いたのであるから、感謝する心を忘れてはならない。しかし、その表現は、両親に対しては報恩の行為によって報いることが出来る。兄弟姉妹が仲良く生活することも、その孝行の一つである。亡くなった肉体先祖に対しては、感謝することが当然であるが、良い戒名をつけよとか、良い墓を造れとか、良い仏壇を造って祀れとかいう先祖がいたならば、この先祖は一〇〇%地獄にいるか、霊媒に憑いている不調和な霊が言っているのであるから、私達は気をつけなくてはならない。主として動物霊の仕業である。
この現象界の墓や仏壇に未練や執念を持っているような霊は、地獄に生活しているため、家族の不調和な暗い想念に憑依(ひょうい)して、家の中をさらに不調和にする場合もある。仏壇の前だけが供養の場所ではない。先祖に対しては、拝む対象としてではなく、感謝に対する報恩供養が望ましい。体が健康でいることも、立派な社会人として調和された生活をしていることも、供養の方法なのである。現代宗教の多くは先祖信仰になってしまい、信心の根本も分からなくなってしまった。この原因も、神理が永い歴史的な年月の間に、智と意の解釈で他力本願の傾向となり、それにまつわる職業意識などが、仏法の神理を人々の心深く埋没させてしまったことにある。 (高橋信次)

● 精神的に疲れたという人は、精神エネルギーの源泉は神仏にあるのであり、感謝することによって絶えず補給を受けられるということを知らない人達であります。試しに、心を鎮め、眼をつむって「神様ありがとうございます。仏様ありがとうございます。ご先祖様ありがとうございます。ご両親様ありがとうございます。…」と感謝してみて下さい。疲れていた心は一ぺんで安らかになり、「これではならぬ」と、新しい勇気が湧いてくる筈です。感謝の心を持つのが人間として自然のことでありますから、感謝の心を持つと心が安らかになって、疲れるということがありません。だが、感謝しない我の心を持つと、心がくたびれて来ます。肉体的な疲れは食べ物を食べれば直りますが、精神的な疲れは食べ物を食べたのでは直りません。精神的エネルギーの源は神仏にあるのですから、神仏や神仏がつくられた大自然や先祖や親に感謝する心を持たないと直りません。
● 「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静・ねはんじゃくじょう」
「諸行無常」 一切の諸々のものは、すべて移り変わるもので、片時として一定の姿をとどめているものはない、ということです。これまでの宗教家、宗教学者は、形あるものは常に変化するという、変化する面のみにとらわれて、変化する姿の奥に変化しないものがあるということに気がつきませんでした。
「諸法無我」とは、第一原因者即ち神即大宇宙大神霊がつくられた法には、そのまま素直に順うべきで、その法は人間の我の力を以ってしては、なんら変化を加えることは出来ないものである、ということです。
「諸行無常」「諸法無我」の本当の意味がわかれば、「涅槃寂静」という悟りに入ることが出来るのです。「涅槃」の本当の意味は、怒り、妬み、怨み、悲しみの心がなくなった状態ということで、肉体を持って生きている間にそうなったのを「有余涅槃・ゆうよねはん」と言い、死んでそうなるのを「無余涅槃」と言います。涅槃とは煩悩がなくなった状態、煩悩がなくなって心が安らかになった状態を言います。
● 恨む心を持てば、その想念が現象化されて自らを苦しめる。不調和な環境には、同じ心を持った霊が集まってくるため、たとえ生きている人間であろうとも、地獄の霊が支配出来る状態が整っていると事故に見舞われる場合が少なくない。彼らは自分のために人間に供養することを促し、幾度かの事故を続けさせる場合もある。小さな子供の場合は、両親の心の調和度が反映されているから、子供に事故が起きる現象というのは、両親の心の在り方、生活の在り方について反省を求めていることを予告している。子供の自己保存本能は、自我我欲というにはあまりにも純粋であるからである。良く「魔がさした」というように、私達の生活の内部には、心の針が、電流計や温度計、自動車のスピードメーターのように、善と悪、明と暗の間をふらふらと動いている。悪の暗い想念にその心の針が指す時、私達に魔がさすのである。その故に、常に心の針を光の善の世界に指示するような生活が、人生の修行目的の一つとならねばならないのである。「金持ちは三代続かない」という言葉も良く聞く。肉体先祖は人生航路の舟の提供者である、とは、何度も述べた通りであるが、信仰的な立場からそれを祀ることが宗教的行事の一つになっている。しかし、そうした慣習的宗教的な考え方が、子孫に対する過保護となって財産や地位を残そうとする。先祖の供養、自己の欲望のために自己保存の人生を送ってしまう人が多いのである。その結果、死者になっても、神理を悟っていないため、財産や子孫に未練を持って成仏することができない。家族の心に不調和な原因を残し、財産争いだの病気だのという遺産を残すということになるのである。財産というものは、自己のためのものでもなく、社会人類のものでもないということを私達は知らなくてはならないのだが、そうした執念が、旧家と称する家には多い。先祖の悪霊の影響が多いため、慈悲と愛を失った冷たい環境を作りやすい条件になるということなのだろう。従って、先祖の供養が、形式宗教化してしまうのである。
ではどう対処するか。生きている人間の心を正法に帰依すること、これが先決である。彼らも、そうすることによって自然に自分の非を悟って行く。むずかしい哲学化した経文をあげて解るような霊であるならば、すでに現象界のことなどは心配せず、天上界で悠々と生活していることだろう。現象界の心配をするような霊は、いつまでも意識が浄化されない低級霊なのである。両親を始めとする肉体先祖の供養は、子孫の感謝報恩によってなされるもの、と知るべきである。 (高橋信次)

● 体の不調和
調和を離れた悪の意思と行為があれば、自分自身の体の不調和をきたします。
● 災害
調和を離れた、悪の意思と行為が集団的となれば、災害を呼び込むことになるのです。
● 万生万物は、決してそれぞれが独立して好き勝手な行動をとっているのではない。
● 「因縁の法則」の管理者は、自分の魂であって、その魂は「神なる意識」そのものであるのである。
● 愛とは全面帰投である。相手を生かすためには、自分のすべてを相手に投げ入れて、相手と一つになり、相手の喜びを自分の喜びとして自分がなくなることである。愛とは自他一体の感情ともいわれる。自分と他との区別がなくなり、自分が相手であり、相手が自分であり、自分と他とが一つの思いになることである。
私が愛を実感したのは、宇宙即我の境地に入った時であった。自分の意識が肉体を抜け出して地球が下に見えてきた瞬間、人間も動物も植物も鉱物も、すべては神の一つの生命であることがパッとわかった。すべては分かち難い一体なる生命であった。この一つの生命であるという自覚を愛というのだということがわかった。人類愛、動物愛、植物愛、自然愛、それらはすべてこの一つであるという生命の自覚から発せられる言葉でなくてはならない。だが、ここで整理して置かなければならないことは、神は、動物、植物、鉱物を、人間に奉仕するものとして創造されているということである。それらのものは、人間に奉仕するためにあるのであるから、それらのものが人間の存在を脅かす時は、人間の生存の秩序のために淘汰されてもよい存在であるということである。
最近、ペットの飼育が問題になっている。そのペットが近隣の人々に害を及ぼすようであったら、当然整理されなければならない。長崎市では、泥棒猫が家の中まで荒らし廻って困るという市民の苦情が多かったために、猫の捕獲器を貸し出した。これに対して動物愛護団体が動物愛の名の下に反対運動を始めた。これは動物愛護団体の人々が間違っている。そこに見られるのは動物愛の名によるペット飼育者のエゴでしかない。現に各家庭は泥棒猫の被害を受けているのである。その事実を知りながら、被害を受けた人の立場も考えないで自分の主張だけをするということは、なるほどそれは動物愛かも知れないが、それよりももっと次元の高い「人間愛」を忘れている。愛の中でもっとも優先されなければならないのは「人間愛「「人類愛」である。法律において正当防衛が罪にならないのは、これも愛のゆえである。我々は一人一人の存在は、尊い神の生命の存在であることをまず考えなければいけない。それが人間の尊厳である。その尊厳な人間の存在は神から許されているのであるから、なにびともその尊厳を犯してはならないのである。それを一つに結んでいるのが人類愛、人間愛である。その尊厳さを破損しようとする人間がいて、そのままでは自分の尊厳さが危険になるという場合、それを防ぐのは当然のことである。犯罪とは要するに人の尊厳さを傷つけ脅かし危殆に瀕しめる行為である。人の尊厳の根拠は神の子であるということである。神の子であるということは、同時に神であるということでもある。神の尊厳さを持って行動しなければならない人間が、自らその尊厳さをかなぐり捨て、さらにその上に他の人の尊厳さをも傷つけ殺そうとする時に、そうする者が罰せられるのは当然である。
● 要するに人生の目的は霊の向上にあり、大自然は中道調和の道を教えているのであるから、人間は神の子であることを知り、足ることを知った生活をして、欲望・我執にふり回されないようにすることである。足ることを知るということは、我慢であったり、あきらめであってはならないのである。心の安らかさを大事にした生き方である。「与えられた環境、仕事に対しては、全力を挙げてこれに当たる。それは欲望に燃えてそうするのではなく、調和に役立てるためにそうするのである」と書かれてあるが、例えば、給料十万の人は、「おれは十万だが、欲望を持ってはいけないというからこれで我慢しよう、十万もらっているんだから十万だけ働けばいい」と思うのでなくて、「十万円ありがとうございます。これで感謝して生活しよう。おれの仕事は十万円以上になっても、仕事は全力を挙げてやる」と、常にプラスになる仕事をするのである。そういう心で仕事すれば、必ず給料も上げてもらえるし、運命も必ず開けてゆくのである。国鉄のヤミ手当てを受けていた人達は、金銭的には儲けたように見えているが、心の面では大きなマイナスわつくってしまっている。だから、その人達の家庭には、金銭で補うことのできない問題、また、ヤミでもらったより以上の出費を強いられる問題が必ず起こるのである。こういう類の問題は、「悪運、盛んなれば、天に勝つ」というように、その人が威勢がいい時は起こらない。悪事がそのまま罷り通るのである。だが、一旦なにかのことで心が弱気になると、一ぺんに吹き出てくるのである。ヤミ手当てをもらっている時には起こらないで、随分時が経ってから起こってくるから、ヤミ手当てとは関係のない問題が起こってきたように思ってしまう場合が多いので、あの時は働かんでもらった、儲けたという心だけが残って、なかなか反省しにくいわけである。
● 私は宗教家として起つことを決めた最初の頃、さつま芋をもらえばさつま芋に、米をもらえば米に、野菜をもらえば野菜に感謝して、それを風呂敷に包んで下げて帰って、下さった人々に感謝して食事した。その時はその時で足ることを知って生活をしていたから、私達の家庭は心が豊かであった。周囲の親戚はハラハラして見ていたわけであったが、私の生活は、いつも足ることを知った生活であった。しかし、どうしてもこれでは生活出来ないという状態が、子供達が大きくなるにつれて起こってきた。そういう時には真剣に祈った。明日がどうなるかわからないという時も、心を鎮めながら祈った。すると必ず解決して行くのであった。周りの人達から見たら、これ以上の貧乏はなかったと思う。私はそれを我慢して耐えたのでも、仕方ないとあきらめていたのでもなかった。今はこうしていても、自分にはもっと大きな舞台でやらなければならないことがある。自分の人生がこんなことで終わる筈がない。自分に使命があれば、必ず道は開ける筈だという希望の祈りが常にあった。調和に役立ちたいという心からの願いで努力する時は、必ず天上界からの協力が得られるのである。 (園頭広周)
● この世も、あの世も心が中心をなして回転しているのです。地位、名誉、金が中心ではありません。
● 魔とは何か、それは迷いです。肉体がすべてであるという考え方です。
● 大乗仏教は他力信仰を説き、小乗仏教は自力信仰を説いた。
● 「要は正法を理解して、それを実践する以外にない。指導者となる道もそれしかない」
● 反省のチャンスは神が私達に与えた慈悲なのだ。

● たとえば、人類があの世て学んだ理性にもとづいた行動をとるならば、風水害、地震、火山の爆発、疫病等による天災はもちろんのこと、人為的災害も消滅し、地上は植物が繁茂し、その植物、鉱物から、まったく新しい発明発見がなされるように仕向けられてくるでしょう。
● 「愛は男女の愛からはじまって、親子の愛、隣人の愛、社会の愛、人類の愛に発展して行くものだ」
● 「生命あるものはすべて輪廻している。地上の四季がそうだし、万物はすべて変化変減を繰り返す。人の想念も輪廻の循環を続けている。悪を想えば悪が、善を想えば善が戻ってくる。幸せを求めたいならば、まず悪の想念から離れることだ。怒り、憎しみ、そねみ、嫉妬、中傷などこうした想念を摘み取り、責任、博愛、勇気、努力、向上など善の想念をいだくよう心がけることである。人の幸・不幸の根本は毎日の想念の在り方にかかっている。」
● 「苦悩は殆んど自分の誤った想念と行為から起こるものです」
● 「動機は正しくとも、方法が誤っていたら、結果は悪となる」
● 高橋信次先生は偉大な使命を持たれた方でした。その人の心のテープに記録されている過去、現在とそれによって起こりうる未来の出来事のすべてを知り、また天上界から地獄界からすべてのところを自由に見て帰ることの出来る霊能力を持っておられた。
● 高橋信次先生は観自在となり、身体からは絶えず光を放っている。すると、先生と過去世に縁が深かったものは、この光によって心の窓が開かれ、現世の記憶を飛び越えて過去世の記憶が甦るのであり、過去のことが昨日のことのように思い出されてくる。先生は現象として、光を当て光を入れられると、習ったこともない過去世の言葉で語り出す。
● 幸福者
「多くのモノを持つ者と持たざる者、そのどちらが幸せであろう。持つ者か、それとも持たざる者であろうか。もしも、多くを持つ者かそれを失うまいと、持たざる者がそれを欲するとすれば、そのいずれも不幸であるといわざるを得ない。一日の食糧は数斤のパンで十分であるし、居住の空間は数平方メートルで足りるからである。物の多少に幸、不幸であると考える人は本当に不幸である。なぜなら、自分自身を含めてあらゆる物質は、やがては大地や大気に還元されてしまうからである。幸せな人とは失う物のない人をいう。」
● 蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取る、これが神の摂理だからです。