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巨星逝く

( 平成十一年三月 、「感謝の集い」 機関誌に掲載分 )

ウエブマスター ・ 八起正法

 

平成十一年二月二十日午前六時五十二分、奇しくも八十一歳のご自分の誕生日に、園頭広周・元国際正法協会会長は亡くなられた。

三年もの長い闘病であったが、あそこが痛いそこがどうのと、たったの一度も意思表示されぬ超模範的な患者だったと聞く。私も度々

お見舞いに伺った者の一人として、まったくその通りだと自信をもって言えるのである。

昨年末、病状が悪化して遠方のご家族も呼び寄せられるという緊張する場面もあったが、いつものように回復されていくものだから、

医者の「園頭さんは医学的常識では計れぬ患者」とか、看護婦さんが指摘するように「園頭さんには神様がついているから、その内に

元気になるかも」というもので、緊張感も薄れて行く矢先のことだったのである。

さすがに、元国際正法協会会員は予感とか直観に優れた超精鋭達の集団だけに、二月ともなると、そこここから弟子達が続々と病院へ

お見舞いに訪ねて来て、あの人もこの人もという具合だった。

そして、「手を握り締めて離されなかった」とか、「言葉はハッキリ分からないが何かをしきりに語り続けられた」等と、お別れの意

思表示ではないかと喧(かまびす)しいものだった。

亡くなる二日前のこと私は不思議な夢を見た。起きがけに家内へ全てを話した。

それは、自民党の森幹事長が全国民に向けて、テレビの中で「園頭さんを首相にできなかったのは私の不徳の致すところ」と深々と頭

を下げたのである。

ナゼ、森幹事長なのか、ナゼ園頭首相なのかその時は分からなかったが、目覚めてよくよく考えてみると、園頭先生の分身には「西郷

隆盛」もだが、政治家「ジョージ・ワシントン」もいて、アメリカ合衆国の初代大統領もやっているのである。そうなると園頭首相

も、政治家・森さんの登場もおぼろげながら納得できたのであった。

自民党の番頭ともいえる森さんから「首相にできなかったのは」という過去形の言葉と、「やがては先生のお誕生日」というのが妙に

心に引っ掛かって、二十日からの医会の旅行も「気が進まない」と家内に言い続けた。

二十日、ご家族から先生の訃報をいただくと、何も取り敢えず先生のご自宅へ急いだ。ハンドルを握る家内との会話は、「不自由な肉

体を脱ぎ捨て解き放たれた先生の意識は、これから本来の先生の使命と目的に向けて、天上界から自由に活動がお出来になる。これで

良かったのだ」、というものだった。

それというのも、脳出血の後遺症に悩む私には、先生の大変さは誰よりもよく分かるのである。

三年のお見舞いの間には色々なこともあった。二つのバイパスが開通したり、ショッピング・モールが華々しく開店して、車窓の眺め

に時の移ろいを添えてくれた等の思い出が、走馬灯のように続いた。

ご自宅へ伺うと、先生のご遺体は戻られたばかりで、準備が整うまで近くで控えることにした。先生のご自宅の窓辺に通ずる畑の傍に

車を止めていると、何処からともなく、肥えたのと細身の二羽のハトが飛んできて、窓辺の畑を行き来するのである。みぞれ交じりの

粉雪の中を立ち去ろうともせずいつまでも居続けた。そうしていると、畑の対角にある、葉をすっかり落とした丸裸の木に、丸々と

太った一匹の大きなカラスが飛んできて辺りをうかがい始めた。

そして、ジャンボ機が着陸するときのようにドシーンと地響きを立てて降り立った時には、さすがの二人も身構えるほどだった。

別段、二羽のハトに悪さはしなかったが、凱旋して引き払う時のカラスの様子がまた何とも間抜けであった。飛び上がって梢

(こずえ)に足を架けたのが小枝で、体重を支えきれずに落ちそうになったので思わず吹き出してしまった。そのような中で先生への

対面を許されたので、それからハトはどうなったか知らないが、部屋に通されて見ると、ハトが行き来した辺りに先生は静かに身を

横たえておられた。

先生には幾つものハトの逸話がある。ここという時に不思議なハトが現れた。お釈迦様には猿が、高橋先生にはイルカが囲って米軍の

機銃掃射から護った。光の大天使には動物が神の使い姫として現れるという。これもそうなのだろうと思った。

こうして、もの言われぬ不動の先生は、病室で見かけていた時の先生よりもっといい顔で安らかだった。

私は色々な想いが交錯して、思いっきり号泣してしまった。涙もろかった先生に、泣き虫の弟子である。

法の権威をもって接されるときの先生は実に厳しくて、私などは先生のお側に出ると直立不動で師の影を踏まずというものだったが、

普段の先生は無類の好好爺であった。例え、たもとを分けて去った人でも、前非を悔いて帰ってくると何人といえど拒まずという正に

天使の心だった。

かって、私は支部長を辞退して、しばらく会に顔を出さぬということがあった。その年の支部の忘年会に臆面もなくのこのこ出掛けて

行くと、先生は殊のほか喜んで下さり、正法誌(210号・ある人への手紙)にも書いて下さったが、先生亡き今となっては私への

遺言と受け止め、正法をまだ知らない人に色々な方法を駆使して伝える覚悟である 。

二十一日(日)、火葬場がお休みのために斎場にて通夜が執り行われた。この日は、A氏、S氏と私の二月定例見舞いの日になって

いたが、奇しくもこのようになってしまった。

ご自宅には朝から弔問客でごった返して、邪魔にならぬように皆で控えた。

久々に見るあの人もこの人も来て下さった。時折り粉雪も舞って、控えのために利用した車の中で先生の思い出話も続いた。

先生はいつも重いカバンを持って全国を講演して廻られ、席の暖まる暇もなかった。ある人が「どうしてそんなに重いカバンを持ち

回られるのですか」と尋ねると「それが私の使命なのです」と答えられたとか、別の人は「先生カバンをお持ちしましょう」と無理に

預かったものの、それがまた重たくて重たくて、ほかの人にそっと手伝ってもらった、と思い出しては涙だった。

お通夜の準備のためにご遺体が葬儀場へ移動されるまでに少し時間があったので、私は近くの水城の史跡である「思水園」へ行って

みた。原稿の書疲れを癒すために、先生はたびたび散策をされたであろうが、木漏れ陽の中に時おり粉雪の舞う思水園は、ひっそりと

静かだった。

先生が病に伏されるまで、全号一人でお書きになった月刊正法誌がある。昭和五十三年九月の創刊号から平成八年四月号の211号

までだが、これには先生の日常の雑感を書き留められた「紫水園日記」がある。先生を偲んでその一遍を上げてみる。

 

      「紫水園日記」   園頭広周

 

お釈迦様が、「善き師、善き友を持つことは教えのすべてである」といわれた。その善き師善き友とは、今生きている人でなくても昔

の人であってもよい。私は山上憶良という善き師を持ってきた。私は今、万葉時代に山上憶良が住んでいた近くにいる。

鹿児島に生まれて、善き師、善き友として尊敬してきた山上憶良が、その妻とその子を愛しつつ住んだ所の近くにいて、私もまた山上

憶良にならって妻と子を愛しつつ住む。これも縁なのであろう。太宰師従四位下といってもその生活がどんなに苦しかったかは「貧窮

問答」にみえる。

「風邪まじり、雨降る夜の、雨まじり、雪降る夜は術もなく、寒くしあれば、堅塩を取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろいて しはぶ

かひ鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでてーーー」

雨まじりの雪が横なぐりに降る、寒くて仕方がない。岩塩の一かけらを肴に、酒粕を湯で溶いたのをすする、咳がでてせきこみ、鼻汁

がでて鼻汁はすすり上げどうしで、あるかないかわからないほどにしか生えていないひげをかきなでながらーーーというのである。

「術もなく苦しくあれば出て走り去ななと思えど子らに障りぬ」

苦しくてどうしていいかわからない。どこかへ行ってしまいたいと思うけれども、自分がどこかへ行ってしまえば子供たちが泣き、苦

労することはわかっている、それを思うとどこへといって逃げ出すわけにもゆかない、というのである。私は終戦後、事業に失敗し

た。収入はなくなりどうしていいかわからなかった。子供の寝顔を見ながら思い出したのがこの山上憶良の歌であった。山上憶良は貧

しさに耐えて子等を愛した。

「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子に如かめやも」

子供への愛情をかほどまでに見事に歌い上げた歌は外にない。私は子供が生まれるたびにこの歌を思い出していた。憶良の妻に対する

愛情は深かった。憶良がどんなに妻を愛していたかはつぎの歌でわかる

「憶良らは今はまからむ子泣くらむ それ彼の母も吾を待つらむぞ」

今も役人は宴会が多いが昔も多かったようである。宴会がすんだ、ほかの人達は二次会へ行った。「自分は帰ろう。今日は宴会があっ

たため帰りが遅くなった。きっと子供たちは泣いているかも知れない。その子供たちの母もきっと自分の帰りを待ちわびていることで

あろう」

憶良が、「吾が妻も待つらむ」と妻という名を上げずに、「それ彼の母も」と詠んだところに私は憶良の妻に対するつつしみ深い愛情

の深さを思う。山上憶良という善き師、善き友を持ったが故に私は子供を愛し育てることができたのであった。歴史を知るということ

は善き師、善き友を持つことにもなるのである。

山上憶良の住んでいた所は私の家から真東になる。毎朝、私は東に向かって礼拝し山上憶良を偲び感謝し、すべての人の幸せを祈る

のである。             月刊『正法』

 

 

先生の悲報を聞きつけて、全国から元会員達がお通夜と告別式へゾクゾクと駆けつけ人の波であふれた。あの小学生君も小さな手を合

わせてくれた。袂を分けたあの人もこの人も懐かしい顔を見せてくれた。

そして、ご家族は先生の納骨に配慮されてお通夜も告別式も通例に従い、納骨堂の檀家として、そこのお坊さんの導師により執り行わ

れた。また、会場に入りきれぬほどの弔問客への礼儀として、元会員達はお通夜も告別式も脇に控え、『心行』、『感謝の祈り』の

読唱は宿舎等で行われ、先生と別れを惜しむ人が主体の、実にさわやかな葬儀だった。

先生は、心の世界においては菩薩界と如来界の中間に位置され、来世は華光如来としてインドに出られて、カースト制度の打破に腐心

さるべき使命と役割の、正に巨星だったのである。

お別れの日、思い思いに麗花(奥様の一字をいただいた)をご遺体の傍に添えると、うす曇りの中を皆に見送られ、先生を乗せたお車

は山上憶良の住んだ筑紫の里へ走り出した。

 

 

 

 

 

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