創価学会と池田大作氏のこと
一九七四年八月一日―三日
GLA夏季研修会(志賀高原)
演題「正法と現代宗教」において高橋信次先生は次のように講演されています。
高橋先生の講演の実感が出るように、先生の言い回しどおりに手を加えずテープ起こしを心がけていますが、いつかはキッと、イン
ターネット正法放送局で、正法の講演テープやビデオが、放送される筈です。(ウエブ・マスター)
「正法と現代宗教と申しますが、むしろ皆さんの方が現代宗教の方は詳しい人々の方が多いと思いますが、私は宗教のことは全く
素人で、何も分かっておりません。
この中にはいろいろ
「南無妙法蓮華経」「南無阿彌陀仏」、中には「天にまします神世のなんとか」
というのがありますけれども、しかしみんなが他力信仰であります。
我々はそういう他力信仰を通して、宗教というものは何か成り立っているように思いますが、しかし人間は他力信仰というものによっ
て本当に救われるかというと、救われたといわれる人達は、恐らく、そういう信仰を通して、
「自分が一生懸命に人間らしく生きて来たからだ」、
こう結論づける以外にないと思います。
ちょうど昭和四十二年に、私のところに創価学会の本部に勤めておられるところの部長とか或は教授とか言われるところの段階の皆
さんが大分押し寄せてきました。
そして私に
「あなたの兄弟は皆な創価学会に入っているのに、あなただけが入らないのはおかしい」、
マ、折伏(しゃくぶく)にまいりました。
ところが、私は自分自身が本当の信仰というものはどういうものであるか、
非常に現代宗教に疑問を持っておりましたために、彼らにその理論に対して質問をしました。
ところが質問に対して彼らは、正しい納得のいく解答を私に与えてくれなかったのです。
そうしましたところが、
「あなたはテンマだ」
というんですね。
テンマというのは、ところがつい私たちは宗教的な用語がわからないのですね。
そこで
「羽根の生えたお馬さんですか、天馬」
「とんでもない」
それは魔である、悪魔、僕のことを天魔っていうんですね。
私は、僕はこんなに人のいい人を、ホー悪魔って言うのかなって(爆笑)
まじめに働いて僕は一生懸命に生活しているのに「天の魔」天魔というんですね。
「これは人間の最高の魔である」
「どうしてですか」
って言ったら
「日蓮正宗、聖法を誹謗する者は無間地獄に落ちるのだ、しかもまた、そういうことをやる心の人たちは一番の悪党である、悪魔であ
るって言うんですね。
ホーそういうもんかナって思いまして、何せわからないですから。
なんせ人間に生まれまして、お馬さんに羽根がはえて天を飛ぶ天馬であったかと思っていたところが、トンでもないことになりまして。
そこでこの天魔ではないということを実証しなければならないと思いまして、たまたま聖教新聞の編集の連中が来ていましたもので
すから
「私は今からいくつかの予言をします、もしこの予言がいくつか当たったなら、皆さんは私を天魔だとは言わないでしょう」
「それはその通り、まず聖教新聞に記事として出たならば、聖教新聞は天魔を絶対に通さないからそれは当然なことだ」
と言うわけですね。
「ホー、それなら申し上げましょう。
あなたがたの現在一番崇拝しているところの指導者は現在、日本にはおりません、こう言ってもあなたがたは皆知っているでしょう。
僕は残念なことに何にも知らないんです。
「この方は現在、フランスのパリのロイヤルホテルの三百三十号室に住んでおり、現在、四人でお互いに話をしているんだよ」
彼らはあっけにとられて、なにしろ天魔のいうことですから(笑い)
「そんな馬鹿なことがあるわけはないじゃないか」
「それならば、あなたがたは聖教新聞に書いてあったことを読んで僕が言っているだろうと判断するだろうとあなたがたは推測するだ
ろう。
しかし、今からは話をしていることを教えてあげよう。
三百七十数億のお金をかき集めたその利息で、山梨に会館を造ろうとして今話しているんだ。
残念なことにこれは十一月の新聞に、あなたの書いた新聞に出るんです。
出たらどうだ天魔かどうか」
「絶対に天魔じゃない。これは大したもんだ」
って言うんですね。
「そうですか、ただ一つじゃあなたがたは偶然だというでしょう。
科学的の面から言うならば、例題が多ければ多いほど科学的と人は言う。
それ故にもう幾つか予言をしょう。
あなたがたは今、私のところに来ているけれども、あなた方は池田大作会長から首になるんですよ、と言ったんですね。
そうしたら彼女たち彼氏たちは
「これが真実ならば、あなたと一緒に地獄まで落ちたってかまいません」
って言うんですね。
「あなた本当ですか?あなた方は今それで月給をもらって生活をしているんですよ」
それは十一月三日までの間に、あなた方は全部首になります。
竹入という第三総合本部の部長から首になるんです。
これはいやな予言だが
「これを密告して混乱させた男、この方は死にます。
まだ二十歳代です、部隊長とか何とか言っている男です。」
それ以外に三人この世を去るでしょう。
それは直ぐ結論が出ます。
三年以内にこの世を去るでしょう。
なぜならば正しい道を説く人達の前に立ちはだかって、彼らは間違ったことを人に忠告するからなのです。」
このように幾つかの予言をいたしました。
十一月に入りましたところが、本当に聖教新聞に出てしまいました。
言った通りです。
部長さんと称する皆さんは本当に出たんですから、部屋番号までまったく同じ場所なんですから、いよいよ一つが当たったものです
から、話の内容が当たったものですから、サー今度は自分の首の番です。(笑い)
案の定、十一月に入りましたところが渡辺という婦人部長が当時やっておりました。
「あなた達は、東京の大森の高橋という自宅に行ってはならぬ」
と、その日から全部一人に三人位づつスパイがつきました。
私のところへ連絡をこさせると即座に大騒ぎになりまして、信濃町の本部です。十二月のことです。
このようにしまして、言われたとおりに、彼らは皆職務を剥奪されました。
私は早速、内容証明を出しまして
「池田大作殿、あなたは自分の可愛い弟子たちをナゼ首にする、彼らはそれで生活をしているのです。
あなたが真に仏道を行(ぎょう)じ道を知っているならば、あなたの可愛い弟子たちを解放しなさい」
そして私の書いた一冊の本と一緒に送りました。
彼らも読んだんでしょう、三日目の日に元通りに復帰はしましたけれども、もう全然要職にはつけなくなりましたが、給料はちゃんと
貰えるようになり、今も貰っているようです。
これでもやはり自分自身は正しいものであっても、彼らには罰が当たるという
(高橋先生は黒板に「罰、バチ」という字を大書されて講演を続けられます)
皆さん、罰というものはバチ、皆さん自身の兄弟たち、可愛い子供たちへ両親が不幸になることを祈る人がこの中にいますか、いま
せん。
いわんや盲目の人生を送って人生の苦楽を体験しているところの修行者へ誰が神が罰を与えますか、罰は自分自身の想うことと行う
ことの片寄った想念と行為がつくり出すものなのです。
それゆえに彼らは、一生懸命に南無妙法蓮華経を拝んでいれば救われるんだと思っているんです。とんでもないことです。
東京越谷の講演会のときに何人か幹部の方が来ていて
「質問がありますか」
と言いましたら手を上げて、そうしたところが
「あなたの説いているものには拝む対象物がない、私達はちゃんと曼荼羅、(曼陀羅、マンダラ)を持っている、それについてあなたは
答えられますか」
と私に質問をしました。
「はーそうですか、マンダラという拝む対象物がなければいけないのですか、それではあなたに質問をいたします。
あなたは産まれて来たときにマンダラを持ってきましたか?」と聞いたんです
「イヤ、それは違う、創価学会に入ってから曼荼羅をいただきました」
「それはおかしい、じゃあ産まれてきたときに、あなたは男性ですけれども、産まれてきたときにブラ下げてきたものは一体なんで
すか、それを言いなさい」
彼はしばらく考えていましてわからない、それで
「あなたは男ではない。それが本当に神様が必要なら生まれてきたときに、それをちゃんとブラ下げてきます。
違うんじゃないですか人間が作ったものは、こんなものを信じません。
マンダラ、偶像、仏像など人間が作ったものです、それを拝む対象物がない、それについてあなたはどのように考えているかと言わ
れるが
「GLAには題目なんかありません。人間の心と行いはカクあるべしと教えています」
と言ったら
「私たちは日蓮大上人のお蔭で、南無妙法蓮華経があります。」
「では、あなたは産まれてきたときには、一般の人と違って「南無妙法蓮華経」と言って産まれてきたんでしょうね、僕はオギャーと
いって生まれてきたと思います、あなたはどうですか」
「私も同じです」
「その辺の山に飛んでいる鶯ならホーホケキョ(註・法―法華経の意)って鳴きます。
それでホーホケキョやるなら僕はネー納得できるんです。(場内笑)
それを皆がオギャーと産まれてきたのが、南無法蓮華経を拝まなければならないという理由はないじゃないかな」
ということでチョンになりまして続いて、
「もう一つ質問がある、今私たちの教団で問題になっているのは板マンダラが本物であるかニセ物であるかということです。
それをあなたはどのように考えますか?」
というんですね。
「冗談いうんじゃないよ、板であろうが紙であろうが、そんなものは関係ないんだ、なぜならば我々は健全な肉体と精神を持って、
この地球という神の体の中で、神様のこの地球の中を調和し、人々の心と心の調和を説いた平和なユートピアをつくると同時に、
盲目の人生の中からより豊かな自分自身を作るということが本来、人間に与えられたところの目的と使命なのです。
それゆえに私達にはマンダラが板であろうが紙であろうが、こんなことには関係ないことなんです。
そういうことにご執着することはおかしいことです。
それ以上彼らは質問しなくなりました
このように一つの信仰というものを捉えてみても非常に矛盾があるわけですね。
ところが一般はメクラですから、私たちはお題目をあげれば人間は救われるんだと一生懸命に題目闘争をすると救われるというんで
すね。
「ナンミョーホーレンゲキョウ、ナンミョーホレンゲキョウ」と街中でやっているわけですね。
ところが不幸になると
「あのかたは信心が足りないのよ」
病気をすると
「信仰が足りない」といわれると
「そうかな」
と街中で昼日中からなお一層
「ナンミョウホーレンゲキョウ、ナンミョウホウレンゲキョウ」(語気を強め、早目て)
とやっております。
一体弱いものはどうしたらいいんでしょうか、それで人間は救われるんでしょうか、こういうように一つの信仰を捉えてみても矛盾が
一杯あります。
或はまた、「ナンミョウホウレンゲキョウ」を上げているうちに、次元の違った方からささやいて
「われこそは稲荷大明神なるぞ」
とそのようなことを聞いた人達は、神の声を聞いたぞと鬼の首でもとったかのように早速く喜んで、或者は夢枕に立った観音様、或は
竜神こういうものを見て、少しボツボツ霊感がつきだしますと、当たらなければいいんですが地獄霊も人の心を見るので当てます
から、そうするとあそこは当たるわよとなって、一つの教団、新興宗教ができあがるわけです。
最初のうちは真面目にやっているが欲望が段々出てきて、心が外へ向きだしますから物に対する執着を持ち始めると信者を食いもの
にしていきます。
そこで神様というものは絶対にこの地球上のお金を要求しません。だまされてはいけません。
お天道様を見てください一秒間に莫大なる熱光のエネルギーをただで、無所得、無報酬で一銭のお金をとらないで黙って与えており
ます。
ところがこの地上界の人間は、それを暑いの寒いのと不平を申しますが、お天道様は変わりのない熱光を平等に与えております。
ところが人間の作った神様は、お金や地位や名誉によって変わってまいりますサアこれを皆さんどう思いますか疑問を持ってください。
真の自然が与えている大自然の恵みというものは、全てに平等な筈です。
平等だということこそ慈悲の現われでないでしょうか。
慈悲の心というものは無所得、そして決してまた要求もしない、これが本当の正しいものではないでしょうか。
マ、一方は大変いろいろな神様がおりまして人間は正しいという基準がわからないために霊的な力を通して、それを正しいと思ってお
ります。
生活を通しいろいろと苦しみを体験し、いろいろな肉体的な不調和を来して、家族は大変なことになるので頼るということをどこかに
求め、そこに宗教が
「あの方は霊感があって神様が降りて教えてくれるそうよ」
と体験を通し、人間はそういうことを通し
「神様、私はこういうことで苦しんでおります」
と頼る心になったりしている内に、
「余はそなたの先祖なるぞ」
なんて言われますと
「そうですか何代前の」
「わしは七代前の」となりますと、七代、十代というと、もうわかりませんから
「ハハーッ」
となつて
「お前が不幸になっているのは先祖を粗末にしているからだ、よき戒名を上げてワシを供養せよ」
と、そういわれると幸せになりたいものですから
「あなたが幸せになるためには最低○十万円のお金が必要です」
と、そのうちにと塔婆や因縁切りと、何も知らないからだんだん深みにはまっていくわけです。
ところが、中には勇気のある人がありまして疑問をもちます
「なぜんな事をしなければならんのか」
正しい解答がないのですから
「神のお告げじゃ、出入りならぬ」
と殿の名残があるのでしょう、こうして、信心が足りないとなって、あっちの神様こっちの神様へと深入りしてゆくわけです。
自分自身が正しいという基準を持って疑問と回答、回答と疑問を追及して生活して行けば、ついには「神理」という人間自身が入るこ
とのできない本当のものにぶつかるのです。
ところが、それを忘れてしまって、バチが当たるといわれれば
「それは大変」
そしてそれ以上のものは無いと思っているから、不平不満のまま疑問だらけでありながら続けて行くわけです。
これは信仰ではなく逃避です。
こんなものは信仰ではないですね
こういうわけで仏教だけでなく神道(しんとう)でも同じですね。
我々は子供のころから鉢巻、或はタスキがけで、いろいろなところに神社がありますから、お参りに行きます。
戦争中ともなりますと、一日と十五日というと神社も忙しくなります。
「武運長久」といいます。
神様が戦うことを何で祈るんだろう、戦って勝つことだけを祈ったら負けた人はどうなるんだろうという疑問がわからない、皆やって
いるんだから仕方がないという考えも戦争に負けちゃつたから神社の方も静かになっちゃいましたが、特定のところは別ですけれど
も、そして本当に神社というところに神様はいるんだろうかと僕は疑問だらけでした。
初めて心の窓が開いて神社というところへ行きましたところ、確かに神様はおりました。
ただしその神は、本当の神・ゴッドの神ではないということです。
氏神様というのは、こちらの人間の思う神です。
神というのはいろいろな字がありますね。
(黒板に書きながら)
こちらは八百万(やおよろず)の上(かみ)、こちらはゴッド(GOD)の神ですね、ペーパーの紙、いろいろありますけれども、発音は同じ
です。
そこで私は
「拝んで出てくるのを神というのかね」
と申しますと
「皆さんは信じておりますので神と申しております」
「どっちのカミだ」
と聞いたら、
「こちらの上(かみ)です」
「皆さんを余り不幸にしてもらっては困りますよ」
「へへーつ」と。
皆さんも心の窓が開かれるとみなわかるようになりますよ。
私達が、私だけが特殊能力があるのではありません。
人間は誰も皆力を持っています。
正しいという心の基準を持って生活をすることです。
思うこと行うということ、これをしっかり自分が片寄らないで自分というものを知ってください。
おのずから皆その能力を持っております。
皆さんの心の中にはあらゆる体験をもっております。
そこにあるテープレコーダ、ビデオレコーダと同じように皆さんの心の中には転生輪廻の体験をみな全部持っております。
これを仏教では「宝塔」、宝の塔といっております。
パニヤパラミタともいいますが、人間は形を造りまして、神社仏閣に行きますとそういう宝塔がありますね。
あるいは新興宗教の中には「法刀」といって
「エイ!」
と言って九字を切れば人間は救われる、或いは天打ちの業をすれば人間はそういう力を持つ、救われるといいますが、お上(かみ)さん(
奥さん)がご主人に、そういうことをして諌(いさめ)るのは許されますが、神様は絶対にそういうことはしません、罰を与えないのです。
お金の高によって救われるのではありません。
自分の心をしっかり知り、周辺の人々に対しても本当の太陽のような無所得の慈悲、愛の心が大事なのです。
正法というものは本来すでに、主は人類がこの地上界に出たときにその道を説かれているものなのです
この法則というものを近きにおいては、今から二千五百年前のインドの地において、ゴーダマシッタルダー、この方がやはり人生とい
うものに対する心と、行いのあり方というものを説いております。
ゴーダマシッタルダー釈迦牟邇仏は、小さな出城(でしろ)のカピラバーストというところにおります。
小さいときに母親に死に別れ、しかもまた、いつ敵から襲われ、いつ寝首をかかれ、毒殺をされるかもわからん、そのような生きると
いうこと自身にも大きな人生の苦しみを通して、人生とは一体何か、当時においてはバラモン教という教えがあります。
さらにベーダーやウパニシャードを通して、それぞれの八百万世(やおよろずよ)の神々であるアグニー、マドラ、キンラマ、ラゴラ
とか、日本で言うお稲荷さんや天狗とか仙人とか山の神とか川の神とか人間が作り出したる、あらゆる信仰体系を祭って生活している
ところのバラモン種という種族、「バラモン」というのは聖職といって神につかえる種族です。
しかもその神に仕えるべき種族が自分たちを保存するために、彼らは厳しいカースト制度という体制を作り出します。
日本で言う士農工商という武士を守るためにつくられた封建制度です。
これと同じような、上の方にはマーハー・バラモン、大バラモン、この中でも低いバラモン、さらに「クシャトリヤ」という武士
階級、この武士階級の中でもラージャという王、マーハー・ラージャといわれる大王、さらに小さな足軽のクシャトリヤまであります。
さらに「ベッシャー」といわれる商工業者、その中でもマーハー・ベッシャーから小さな商人、「シュドラー」といわれる奴隷階級ま
であります。
奴隷にもいくつもの階級があります。
この「四制」という制度の中では、下のものとは絶対に結婚は許されません。
それも実は、聖職ともいうべき神に仕えるバラモン自身の地位を守るために厳しい体系制度があります。
ゴーダマ・シッタルダーは、そういう社会体系制度に疑問を持ちます。
お天道様はすべてに平等です。
城の中におけるところの優雅な生活、外にいったん出ればシュドラーという奴隷階級の厳しい生活環境、
「人間はこれでいいんだろうか、真に神があるならば全てに平等でなければならないはずだということを感じていきます。
人生というものに対する苦しいこの苦しみを解脱するにはどうしたらいい、人間の苦しみは、全てが自分自身の思うこと行うことの中
から、生まれて来る。
そしてその中に生老病死という人生の大きな苦しみの原因を取り除くためにはどうしたらいいか、それには自分の心と行いのあり方を
修正しなければならんのだというのを悟ったのは三十六歳の年の初めでした。
例えてなら、城の中での優雅な生活、或は厳しい六年間の山中におけるところの肉体やあらゆる修行を通して、この極端なものを捨
てて、自分のものの考え方というものを正さなければならないというのを知るのでした。
自然の姿を見れば万生万物が全て相互関係の中にあって安定している
動物も植物も鉱物も、その自然界は全て単独で存在しえない。
やはり人間は自分を中心にしたものの考え方を持ってはならんのだ。
そのためには自分自身の心というものを相手の気持ちにもなり、相手自身の行為をしっかりと判断して、ものの見方を片寄らない中道
ということを発見していったのです。
初めて自分の苦しみと悲しみの原因というものは、目で捕らえ自分の欲望というものが、良いものは欲しい、自分のものにしょう。
或は自分のいやなことを聞けばそれに反発をする、
「なぜいやなことを言われたのか、その原因はどこにあったのか、そういうことを、だんだん段々と自分の心と行いを通して集積し、
「ナゼ母親は、一週間で死んだのだ、その理由はどうして、自分自身が大衆の中で苦しみを除くために、人生は何であるか、何をなす
べきかという一つの疑問を残すために母は犠牲になったのだ。
その母の苦しみを通して、多くの人たちの苦しみを持っている人達を解脱しなければならない、それが私の与えられた使命だ、というこ
とを知って、そうして自分に与えられた天命ということを知って、そこに自分に与えられた使命と感謝の心を持つようになったのであ
ります。
このようにして人間が五官という目で見たもの、耳で聞いたもの、或はまた口で語って相手自身を混乱させたもの、或はまた悲しませ
たり喜ばせたりする口も、自分のこちらに大きく影響することになるが、正しく語るという中道の道が大事である。
人間はこうして「眼・耳・鼻・舌・身・意」という目や耳や鼻や口、体、そうして心というもの、想う、こういうものから色々な苦し
みをつくり出して行くということを、その結果、自分の歩んできた足跡を、間違った分野を消し止めなければならないとゴーダマシッ
タルダーは生まれて来た三十六年間の一つ一つを片寄らない中道という物差しをもって修正していきます。
そのために、あらゆる自分自身の苦しみの原因は、自分自身で作っていたということに気がつきます。
当然、心の中の曇りはきれいに晴れていきますから、宇宙というものが自分の中に入って、禅定(ぜんじょう)しているうちに自分の体
が宇宙大に大きく拡大し始め、そうして肉体を持ったもう一人の自分が遥か自分の膝元に在る、こうして心というものが拡大されて
調和されてくるにしたがって、神の光によって満たされて来ます。
心に曇りがありませんから、その心に比例しただけ宇宙大に拡大していきます。
このとき初めてゴーダマ・シッタルダーは、「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」、宇宙は自分であるということを発見していきます。
皆さん自身が自分の心の曇りを晴らして、そして神の光に満たされていったなら同じような体験をするでしょう。
そして、自分の体の中にこの地球自身、一つの細胞になっている姿を発見するでしょう。
さらに次元を超えた世界まで自分の意識が拡大されることを体験するでしょう。
こうして本当の正しい信仰というものは、ゴーダマシッタルダーも矢張り、
バラモンの説く他力ではなく、自力によって初めて他力の偉大なる光明を得ることができるのだということを悟って行ったのです。
多くの弟子たちはこのようにしてこの神裡に付き、「アラハン」、心の窓が開かれて行き、多くの人々はその道を説いて行き、迷っ
ている苦しみの人たちを勇気付け救われていきます。
こうして奇跡の宗教はどんどんどんどん、ブッダサンガーといわれまして、ゴーダマシッタルダー釈迦牟尼仏の教えに帰依して行き
ます。
八十一歳、四十五年間説いた神理は、やがて中国を通して日本に渡って来るという、こうゆうことは全て当時は、わかっております。
なぜなら未来のことまで見通す能力があります。
般若心経の中に観自在菩薩という名称があります。
これはインドのバラモンの言葉で、アポロキティシュバラ・ボサタといいます。
過去、現在、未来を見通す能力のある悟られた方、観自在菩薩でありますからゴーダマシッタルダー釈迦牟邇仏は、そのような力を
持っておりますから、遠く未来の地球上の事もわかります。
チベットから先の方を当時はマンディア・ブッシャーといいますが、マンディヤブッシャーという国にあたり、ケントマティー・ジャ
ブドーバーというところに広がり、ジャブドーバ―というのは当時の言葉では、東の国、東方ということであります。
しかし途中において、仏教というものは段々だんだん難しくなってきて、中国に渡ってから特に哲学化され口伝えにされて行ったもの
ですから、それと丁度、二世紀の頃にナラジュルナといわれる人が中心になって、五つに分類して、阿言(アゴン)、華言(ケゴン)、
涅槃(ネハン)、法華経(ホケキョ)、こういう区分を、さらにまたドンガンといわれるお坊、中国のものが入って来て、その結果が段々
と仏教というものも本質を失って変わって行ってしまい、ゴーダマシッタルダー釈迦牟尼仏が亡くなってすでに九十日目のときに、
ブッタサンガーの中にも教えを変える人間が出たのです。
初めて小乗仏教というものも破ってしまう人も出てきてしまうのです。
小乗仏教というものもやがてまた、大乗仏教というものに変わって来ます。
現在の日本の仏教というのは大乗仏教です。
非常に知だけが発達して、行いの方がどっか行ってしまつたら知恵は、得た知識というものは実践をしてこそ智慧に変わるものです。
その体験がないから、段々だんだん頭でっかちになって、仏教は大衆の思うようにならなくなってきたのです。
こうして日本の仏教は亡くなった先祖にお経を上げることが仏教なんだというようになり、ところが本当の仏教というものは、仏弟子
というものは生きている人間に宇宙の神理、これを諸法無我といいますが、あらゆる神理というものは人間の知識によって変えること
ができないもの、諸々の神理というものは人間の我がはいらない、太陽が東から西に沈む、春夏秋冬、動物、植物、鉱物を通して全て
万生相互関係の中に安定している大自然の姿、無所得のままに全て人間がこの環境に生活できる一切のものを与えている、こういう
自然の姿というものを通して教えられているものが本来はこの諸々の諸法、この諸法こそわれわれの人間としてカクあるべしという
ことを教えているのです。
なぜならば人間は、この地上界の環境に、もし太陽がなかったならば瞬間に凍結します。
永遠に人間は生きて行くことはできません。
逆にまた、地球の地磁気が等しかったらどういうことになるか、暑いか寒いかどっちかです。
またその中で、我々は生存することもできません。ちゃんとしたルールの中に我々が肉体を保存することの環境の一切を与えてくれて
いることに対して自然は何を教えてくれているでしょう。
生かされているということに対して感謝せよということです。
感謝せよということは報恩という行為によって、その感謝の意義を表せということです。
ところが、一方通行です。
口の中で「ありがとうございます」だけです。
浅草の私のビルから見ますと、そういうところがあります。
最近は少なくなりましたが
「ありがとうございます」「ありがとうございます」
と、言っている人達がいます。
「ありがとうございます」と言うのならその時間に仕事をすれば良いのです。
そういう時間があったら、正しく仕事をすることが大事です。
そして、気の毒な人々に太陽のような無所得なままの慈愛を施してやるのが大事です。
このように自然は我々に教えています。
そうして人間というものは、まさに大自然のごとく片寄ってはならない中道であるということを教えております。
皆さんは太陽の熱が、もし四十度、五十度、十度以上あがったらどういうことになるでしょう、皆さんは果たして生活ができるでしょ
うか。
あらゆる自然環境を通して我々の生活できる一定気圧、一定温度、こういうものを、ちゃんとコントロールしながら体温と見合ったよ
うに我々の生活環境を整えて与えております。
しかも酸素も十分に与えております。
我々はその自然の環境の中で肉体保全の調和を与えております。
こうなれば、やはり自分一人ではない、人間同士助け合って行かなければならない、しかも最近は宇宙船というものを通して地球を見
るようになった。
あの機関と同じように宇宙の中にこの地球号を見ている。
そして宇宙という一つの我々の船上の中に地球号という大きな宇宙船という中に我々も生かされているということを知ったならば、
主義主張、いわば間違った自我、不平というものは人間の道ではない。
こういうように真実の諸法無我というものは、宇宙の法、自然法というものは人間自身の知や意によって変えることができない、とこ
ろが仏教はいつの日かわからなくなってしまって学者やお坊さんたちが変えてしまった。
そのために或る宗教家のように「南無妙法蓮華経」を一生懸命拝んでおれば良いというようになって、もうすでにインドのお釈迦さま
は過去の人である、日蓮こそ絶対である、過去の事なんてもういいんだと言いながら
「爾時世尊従三昧安詳而起告舎利佛」(にじせそん、じゅうさんまいあんじょうにき、こくしゃりほつ、と高橋先生はお経の一節をあげ
られる)、
といいますが、爾時世尊とは一体誰か、それはお釈迦様だろう、それでは舎利佛とは誰か、日蓮なら爾時世尊と言わなくても日蓮がと
言えばいいことであって、舎利佛と言ったら日蓮の弟子を一人位い上げればいい。
ところが間違いなくインドのお経を使っている、おかしいものですね。
こういう矛盾だらけのものが、いわば現代の宗教的環境を形作っている。
このように長い歴史を通して、仏教というものは変えられてしまった。
正しい信仰というものがこういう他力化して変えられてしまった。
人々は本当の道を求めて色々な神々を訪ね、或いは修行と称して肉体業を、滝に打たれて一生懸命にやって行くうちに、
「こんなにやっているのに、ちっとも良くならネエ」に段々おかしくなって、
「こんなことしていたらあかん、バチが当たるで」
と自分を自分で納得させて、こうして疑問だらけであってもどうにもならん
「ナムアミダブ、ナムアミダブ」
をいくらやっても無駄です。
そういう時間があったら少しは良い事をやったほうがいい。
こうして、いつの間にか仏教というものは化石化してしまって、本当の正法というものは実践です。
その法を通し自然は、宇宙の人間はカクあるべしと、自然は教えている。
その自然を通して人間のあり方、このように生活をすればいいというのが、本当の道なんです。
恐らく、偉いお坊さん方は本当は分っているのでしょうが、生まれた環境、習慣を通して
「こんなことを言うと皆から仲間外れにされると、マ、GLAの勇気のあるお坊さんは一杯おりますから、そういう事にはくじけな
いで、堂々とやっておりますけど、自分の名誉や地位を追いかけている専門屋さん、今日いうことは辛いでしょうね、大学の教授あた
りもそう思います、本当のことを言うとオマンマの食い上げになります。
マ、そういう人達は本当に弱い人たちです。
仏教の本質というものは所折ろう生老病死という苦しみを解脱することを実践する道を説いたものです。
決して亡くなった人たちに戒名をあげて、そして一生懸命にお経を上げろということは一言も書いてありません。
もし書いたとしたならば、後の人達が色々ご事情が有りまして、書かれたものだと思います。
正法というものは、片寄ってならない中道の道を説いたものです。
インドのゴーダマシッタルダーはこのようにして慈悲ということを説いたが、本当の愛という道は説いておりません。
次元の違うあの世へ帰ってから、色々な事情がありますので、そういうことから愛の道を説かずに帰ったために、後にベルシャナーと
いわれる方が出られて愛の道を説きます。
さらにそれから実在界の原理によってイエスキリストといわれる方が出られて愛という道を説かれたのです。
次元の違う世界では、キリスト教も仏教も、そのようなものは一つも無い、神理は一つなのです。
ただそれによって生活している人達が長い歴史の中に間違ったものにして行ったものです。
仏教の中でもそうです
同じ無妙法蓮華経の中にも、あれが本山だ、こちらの方が本山だとやっております。
仏教は一つです、キリスト教も一つです。
ただし教えている中身は同じです。
それを我々は
「仏教の方が非常に哲学的だ」
とぬかしている人もいるが、とんでもないことです。
仏教自身も、或いはキリスト自身もまったく同じ仲間なのです。
上々段階・光の大指導霊です。
同じ協力者達なのです。
皆さんも心の窓を開けばそれ位のことはわかるはずです。
地球は一つ、人類はみな兄弟です。
皆さんは「袖すり合うも他生の縁」という諺を知っているでしょう。
何十億万年も転生輪廻を体験している過程の中において、皆さん自身はみな知っているのです。
ただ、皆さんが現代乗っている肉体舟の人生体験を通して、他人様のように思っていたり、錯覚を起しているだけなのです。
長い転生の中には、それぞれ、色々な縁を通して皆さんは今あるのです。
こういうことが分れば、現代宗教というものの中の矛盾、正しい真実のもの、これを皆さんは知っているのです。
ただ、それが自分の心の中に記憶されたままのビデオテープ、テープレコーダーのスイッチの入れ方がわからないだけなのです。
そのスイッチの入れ方を皆さん分って来たら
「なーんだ、私達はこういうものなのか、人生というものは、永遠に我々は一つの道を歩いているんだ」、
そして、今の環境の中に厳しい経済的、精神的の厳しい中においてでもそれを学習の場として自分が甘んじてより豊かな心を作るた
めの勉強なのです。
そうなってくると経済的に恵まれている人達は、その中で環境を通して恵まれない人達には暖かい手を差し伸べてやろうという本当
の道があるのです。
ところが末法という世の中になりますと、人間の目的と使命がわからなくなって、分らなくなって来るから、勉強をして英語や数学
やドイツ語、そういうものができれば、もう立派な社会人として学校さえ出ていればズーッと未来が約束された世界ですから、心なんてどうでもいいいようになっている、そうなりますから目的が分らなくなってしまう人達はノイローゼになります。
長く苦しんで、本来我々は、そのノイローゼ自身も、長い地上界の生活の中で道を失った人達がこの世を去ってり、地獄界という世
界を起し、その人達は何とか救われたい、或いはまた、彼等の世界はみなさんがテレビージョンを見ているよりかもっとハッキリ
と、この地上界を見通しております。
心の中で動揺が起こってイライラしている人ですから地獄霊が、同じ仲間ですから語ります。
最初の頃は肉体をつくらせなければならないのですから、夜眠らせません。
地上界の想念が、どんどんと発信されている時には、よう出てきません。
彼等も我々に見られるのが恐ろしいのです。
それゆえに地獄の住人たちは寝静まった頃ゴキブリのようにゴソゴソ、ゴソゴ出てきます。
ですからノイローゼの皆さんが夜寝られないのがそこなんです。
この辺(胸辺りを指される)から耳元から、いろいろ語ります。
最初の頃はまことしやかに、
「俺は神の子だ、お前をちゃんとしてやる、家族の言うことも聞いちゃいかん、大体お前は、お父さんもお前が小さいとき、お風呂に
も入れてやらなかった位だから、お前を粗末にするのは当然なことだ、今日お前に文句を言ったのも、お前を子供と思っていないか
らだ、母親を恨めなどと耳元で囁くわけです。
そうすると本人は聞いたことを親にそっくり言うわけですね。
お父さんも、子供が二歳、三歳のことをいわれるものですから面食らうわけですね
マ地獄霊は一杯煽り立てます、怒らせるようにね。
子供は本当のことは知らんものですから
「親父は本当にとんでもない奴だ」なんてね
地獄霊にしてみれば、怒らせた方が都合がいいものですから、同じ波長が合うし、苦しい世界から、生きている人間に憑依した方が
楽ですしね。
そのようにして人を苦しめます。
或いは耳元で
「お前の友達にこういうのがいるけれど、あれはお前の悪口ばかり言っているアレの言うことは聞いちゃいけないぞ、あいつを徹底的
に憎め、そうしないと殺されてしまうぞと言うから、喧嘩を吹っかけてしまう、隣近辺の人が悪口をいっている悪口をいっていると地
獄零が言いますから、一人が二役、三役になってしまうものですから、地獄霊は肉体といっても光子体ですから原子肉体を通さな
けれ ば言葉にはなりませんから、生きている人間を通してやります。
ですから皆さんが、電車に乗っているときブツブツ言ってニャニヤッと笑っている人を見たことがあるでしょう。
気違い病院ではこういう人はタヌキといって、多いでしょう。
気違い病院の先生には見えないけど、私達には見えるんです、そばに仲間が一杯来ているんです。
「GLAの講演会へ絶対行くな」
と、行く寸前になって足止めを食っちまって心臓をわざわざ圧迫します。
お医者さんへ行って診てもらいます。
「心臓はちっとも悪くないんですから気分ではないんですか」
レントゲンでも結果が出ない、そのうちに心電図をとっても分からないのですから
。「気のせいかな」ということになります。
ところが憑かれている本人にとっては、胸を締められノドを締められ、呼吸を止められるのですから怖くてしょうがない。
ところが、それも全て地獄霊が死という恐怖心をその人に与えるんです。
そのために生きている人間で、病気になっている人が正しい基準を知り、そういうことを聴かないように、話し掛けても無視して、
絶対に語らないようにすればいいんです。
その内に段々だんだんと自分自身が憂鬱になって来る。
「死んだがいいよ、そんなことで生きているよりか死んだほうがいいよ」
死ねば同じ場所(地獄界)に住むようになってくる、仲間がまた一人増えるわけです。
そしてまた同じような心の人に憑いて、あちらの人、こちらの人へと同じようなところへ行って憑いてしまう。
このように段々だんだんと末法という人間の心を失って行くにしたがって、そういうような地獄の世界に生きてゆくようになって
くる。
ですから題目闘争、折伏闘争、闘争、闘争という、そういう宗教家たちは、その周辺に協力しているものをアシュラーといいます。
ですから聞く耳はもちません。
或いは「ワッショイ・ワッショイ」、我々の学生時代は角帽をかぶっていたのが、最近は鉄棒を持っちゃう、そういう連中、これをアシュラーという。
普通の人間じゃありません。
それをふつうの人間だと思って会話するから、彼等は歯止めが効かなくて過激に走る。
まっとうな本当の人間の道を教え、生きている人生の目的と使命はこうなんだということを理解し始めれば、私のところには全学連
の前科何犯というのが、今は変更して一生懸命にやっています。
過日、
「私たちの仲間に、どうしてもこれを教えたいんです、大学へ行って彼等に教えます」
というから、
「お前は殺されるぞ」
と止めさせております。
真に人間同士が本来、闘争と破壊はすでに人類の魂は体験をしてきて、卒業してきている万物の霊長です。
それが肉体という舟を持ってしまうと、この地上界の長い歴史の中に引き込まれている自分自身を失ってしまう、そうしてあの世へ
帰ってから
殆んど
「しまった」という人ばかりです。
いまだかって
「私はやってきました」
という人は一人もいません。
せめて神理を知って生活をしている人なら、自分自身が出てくるときに或いはおあの世から母さんのお腹から出てくる前、送られて
くる時は
「マ、まかしといてよ、今度は絶対やるよ」
と、うまいことをいう。
ところが環境に慣らされてお母さんの方も末法の世ですから、何もわからない、わからなくなっちまっているから、サアわかりませ
んよ。
ですから、そんな約束をホゴにしてしまって、環境や教育、思想や習慣にすっかり慣れてしまって自分の本質を忘れてしまう。
そうして使命をある程度持った連中は、実在界から協力をします、霊感を与えます。
「今日は三―六で競馬が当たったぞ、パチンコが三十六番で出た、俺は霊感があっていつも神様が協力してくれる」
なんて言う内に、段々力がついてくる内に、人々に道を説くようになる、力があるから段々だんだん増長慢になってくる、ついには
神様になってあの世へ帰っちまうんですね。
これですから末法という世の中で、真に自分自身の本性を知って、人生を正しく生きて、多くの人々に本当の真実の道を正して帰る
ということは誇りなんだということです。
メクラが、僕等はスイカ割の大会を海岸でやっております
手拭いで目を隠して二、三回体をグルグルッとまわすと、平衡感覚を無くしてとんでもないところを叩くように、それよかもっと難
しいです。
人間の一生というものに対する目的と使命を知って、正しいという基準を知って帰るということは本来、それは皆さん自身の心の中
にピシッとあるんです。
ところが神様の体である地球という環境に出てしまうと、もう分らないんです。
次元が違う世界から肉体を持ってしまうと、分らなくなってしまうのです。
それを手探りの中で苦しみもがいて、本当の光の道はどういうものであるかということを発見してゆくのです。
皆さん自身の心の中に偉大なる教えがあると言うことも忘れて、人は遠くの方まで神様を求めて行きます。
真の信心というものは皆さんの心と行い、皆さんの一番の、一番の船頭さんである自分自身に有るということがある。
ネズミの話がある。
お日様が一番だろうというので、お日様んところへ行ったら、「いやいや雲だろう、雲にワシも隠されてしまう」、そこでネズミの
お父さんは雲さんの処へ行った。そうしたら、雲さんが「私なんか風さんに簡単に吹き飛ばされてしまう、一番強いのは風さんだろ
うということになって、風さんちへ行った。
。「いやいや壁さんだろう、壁に簡単に止められてしまう。
壁さんを訪ねたら「
ネズミさんにはかないませんよ、簡単にかじられて穴をあけられてしまう」
結局、ネズミさんということになった。
同じように、神さまを訪ね歩いたところで、皆さん自身の肉体を支配しているところの皆さん自身の魂、その中心にある心そのもの、
、ここに本当の正しい
法という中道の道を皆さんが実践する、その中に本当の信心があるのです。
サアこうなると無視はできませんね。
GLAには売り物がないんですから、神様が創ったものでなければダメなんですから。
或る教団のようにペンダントの近代的に作ったいいのが、一丁三百円、うちの会社でつくれば三十円で出きるんですから、でも良い
殿堂ができます、当然なことです。
でも、その罪は自分で償(つぐな)わなければならない。
それだけに、正しい道というものは、自分自身の心というものを通して、絶対に自分に嘘のつけない心がある。
皆さんは、自分に嘘のつける人があったら大したものです。
人には嘘をつけます、都合が悪いから。
自分の心は絶対なる善です。
その善なる心のままに皆さんが勇気を持って、心が外に向けば人間は矢張り欲望という苦しみをつくり出すのです。
内に向いて正しい判断をしていれば、そして、その結果がどのように出て来るのか、それには常に自分を振り返りながら、正しい
自然法を捉(とら)えて、人間は中道の道、インドのゴーダマシッタルダーの説いた八つの正しい道、正しく聞き、正しく見る、正しく
語る、正しく思う、正しく念じる、そして正しく仕事をする、正しく自分を見る、正しく道に精進する、そうして禅定、自分を振り
返って、神の光によって満たす。
このような八つの道を自分が生活の中に実践したときに初めて道が開くんです。
それは一秒一秒の積み重ねです。
ところが、ナンミョウホウレンゲキョウ、ナンミョウホーレンゲキョウと拝むうちに、こちらの方から子供が
「お母さん御飯まだ」
「うるさいねー、今、忙しいんだから、ナンミョウホウレンゲキョウ、ナンミョウホウレンゲキョウ」
その内にご主人が帰ってきて
「何だまだ夕食も出来ていねーのか」
と夫婦喧嘩が始まるようでは残念なことに、そんな信仰をいくらやってもダメです。
大事なことは、「ナンミョウホウレンゲキョウ」という意味が、どういうものであるかということです。
法灯は宇宙の法、神理を心の物差しとして我々の肉体は、あの泥沼のような肉体、体からは汗、大、小便、そのような泥沼のような
中におっても、私達は本当に正しい宇宙の法を己の物差しとして生活をしたならば、あの蓮の花と同じように調和された境地に
到達することができるのだと、そのための行為が必要だと、拝むことではなく、実践したとき人間が初めて「南無妙法蓮華経」の
神意がでてくるのです。
こうして私達の心というものを中心とした生活行為の中に信心はあるのだということ、ここで他力と自力、本当の現代宗教と正法の
違いが有るということです。
長い間ご清聴ありがとうございました。