一九七四年八月一〜三日GLA夏季研修会
演題「心の領域」 高橋信次先生
心ということは、これまで詳しく説明していますが、本で読んだのと、話で聞いたものとでは大分違うと思いますので、ここでもう一
度、心というものを掘り下げて考えて見たいと思います。
この自然界の万生万物、これを通して全て、仏教の面では「色心不二」或いは「色即是空」と教えております。
有名な言葉のようですけれども、(黒板に大書され講演は続く)
色心不二、色即是空、この色というものは私達の眼で捉える世界、眼で捕らえる世界というのは、一切の色彩を持っております。
色(いろ)が無かったならば、我々は物を見ることはできません。
この色彩を通して我々の見る世界と言っても、実は限られている世界なのです。
七色の虹(にじ)の世界しか、私達のこの五官では捕らえることはできません。
七色の、虹の世界の両極端は紫と赤色です。
紫からは紫外線に、更にまた熱線という方向に変わっていきます。
赤外線からは電波の方へ変わっていきます。
赤外線と、また紫外線との両極端は、我々のこの眼では見ることはできません。
しかし存在しているのです。
それだけに色ということの定義は、仏教的には色と言っているけれども、これもまた、本当は正しいものではない筈です。
科学が進んでくれば、相対的に色は万生万物ということになっておりますけれども、現代の自然科学の面から見たならば、色というの
は、当時のものの考え方からいって、万生万物、しかし現代から考えたならば、むしろ自然界の姿を通して考えるならば、質量Mグラム
のものに対して光の積、そして、それは仕事を為し得る能力であるという次元を超えたエネルギーの世界というものを考えた方が、正当
ではないでしょうか。
物質というものは宇宙空間に体積と質量を有するものを物質と名付けております。
物質には当然、質量というものと光の速度というものの積、光の速度というものは三×十の十乗カッコの二乗ということになります。
これが原子爆弾の一つのエネルギーを計算する一番元になっておりまして、
mC2=hν
我々自身がエネルギーと簡単に口で言っているけれども、このエネルギーは皆さんの眼では見ることは出来ません。
なぜならば次元が違うからです。
仏教でいうところの、その色というもの、その空というものも次元が違うわけです。
こちらの次元が違います。
色は即ちこれ空であるということは、イクオールだということです。
色=空である、色心不二ということは、色イクオール心であるということです。(黒板に)
これは同じものです
それを仏教では、この空というものは、在るようで無いようで、無いようで在るようで、あると思えば無い、無いと思えば在る、ちっ
とも分りません。
そうすると、この空というもの自身は、確かに見えない、しかし心の世界ではハッキリ見えるのです。
それを我々は、むしろあの世と言った方が良いのかもしれない、実在の世界、この空というものを皆さんは、僕の本にも書いてあります
が、氷に例をとるともっと良く分る。
(黒板に書きながら)
氷で考えますと、このように水の状態からエネルギーの集中固体の、エネルギーの集中固体化した場合、これはどういうことになるかと
いうと、エッチ・ニュ、hνという一つのプランク常数と振動数というものがありますが、それは熱粒子の集中された状態を示します。
この氷が集中固体化した場合、即ち、物質のH2Oという水の分子が、集中固体化しますと氷になります。
それから普通の状態になりますと水になります、さらに集中から今度は分散されますと全部空気の中へ入って行きます。空(そら)へ、空です。
この空(そら)の中にも、一杯のH2Oの粒子が分散しております。
このように気体と固体と液体という三つの水の変化を見ましても、私たちは空中に入ってしまった気体を私達は見ることはできない。
しかし空っぽではありません。
我々は空(くう)といえば空っぽだと思いますけれども、この空(そら)はエネルギー粒子の分散された状態にあるわけです。
それが何等かの、圧力や熱の変化によって、その熱の変化は、即また、このような物質を造り出す能力を持っています。
それ故に、空(そら)というのは空っぽじゃないのです。
そこで自然界を見ますと分散と収縮であるという、縮みと膨らみであるという、それは常にこのような作用や或いは圧力というものが作
用しております
この中から見ましても、我々は空中のH2Oという水蒸気、熱が上昇し高度が上がるにしたがって、熱が逆に降下しますと、水は零度によ
って氷にもなります。
また、沸騰するというような作用をお互いに起しているけれども、この姿から見ましても氷を仏教的に見ますと、色(しき)と言っておりま
すから、物質ですから、この色というものが、即、空(くう)というもの、即ち氷をつくり出しているところのH2Oというものと、宇宙空
間に存在しているところのH2Oは一つも変わっておりません。
ただそれが分散しているだけです。
水蒸気は、その根本をなす分子は変わっていないということです。
即ち、この氷は水蒸気である、水蒸気は氷である。
ただし、その分子式は同じであるということです。
こうなりますと、決して在るようで無いようで、無いようで在るようで、在ると思えば無い、無いと思えば在るなんて馬鹿な、無い筈で
す、間違いなく在る、存在する。
それ故に無から有が生ずるという事はない
自然界に於ける諸現象は、全て、有から有が生ずるのです。
有が一つの縁によって、また有に変わるのです。
エネルギー不滅の法則もまた同じです。
なぜならば我々自身が、こうして見ますと、空気中には何もないように思えますが、ここで冷凍機を入れまして、急速にこの中を冷却し
ますと、この中に有るところの空気は、H2O水に変わります。
と、いうことは、こう見れば存在しないように見えるが、しかし、我々はただ五官で、感じ得ないだけなのです。
と、いうと、矢張り存在しているということです。
有が縁によって有になる。
無いから、無いところから、無から有は生じない。
これは縁生という、縁というものがある。
この場合は、圧力と温度の縁生によって氷になったり、水になったり或いは気体に変わります。
そうすると、これは矢張り色即是空、空即是色です。
変わってはいないということです。
そういたしますと、我々自身の、この空(くう)の世界を「心の世界」と呼んでも不思議ではないのです。
皆さん自身の心は、次元の違った世界、即ち空の世界の「風(ふう)界」にコンタクトされております。
それ故に、色々の霊媒が、地獄の霊たちを呼びますと、必ず即座に出てきますね。
それは同根であるからです。
こうして我々自身の生命、意識、心というものは、実は一つの中に導体である。
丁度、大海の水の一つの大きな生命の中に、我々はやがてこの世を去った時に、その中に流れ込んで行くけれども、一人一人の個の生命
の個性というものは全て持っております。
ですから永遠に皆さまは個性を持った生命なのです。
それですから、このように考えますと、現代私達の肉体というものは、この地球上の環境に適応した肉体舟を、神は人類の修行の場とし
て作り出したものなのです。
そして我々のこの肉体は、大自然界のルールにしたがって成り立っております。
ルールを無視したときに、我々はこの地上界に肉体を保存することができなくなっております。
永遠な欲望だけを先に立たせて足ることを忘れて、物質文明の名のもとに作り出したその欲望は、公害をつくり、多くの犠牲者を作り出
しております。
しかし、神の与えたところの大自然は、決してそのような不調和なものをつくりだしておりません。
我々自身は肉体と同時に、肉体を支配しているところの次元が違った世界からの関連がある筈です。
なぜならば自然界の万生万物は、先程の公式のように、質量と光の積だということです。
そうなりますと我々は次元の違った心の世界と肉体というものが、共存しているということも否定はできないのです。
ただそれが、この五官で捉え得ないから、我々はややもすると、心というものの存在がないがしろにされ、五官の、肉体舟の人生行路を
渡って行くところのその舟の、眼や耳や鼻や口、これが絶対だと思ってしまったのです。
ところが我々の耳の聞える範囲というものも、限界があります。
眼で見る範囲というものも、先ほど説明しましたように限界があります。
そうなりますと体で触れる温度や、いろいろな諸現象を私達の体は感知することができます。
しかしそれも人によって差があります。
という事になりますと、私たちの五体はあくまでも、人生行路を、一般的に魂というもの、己自身の肉体の船頭さんである魂、或いは意
識、そしてその中心にあるところの、心を作り出して行く一つの環境にしか過ぎないということに気がつくのです。
しかし我々はあたかも、物を独占しょうとする我々自身のこの地上界の生命の過程というものは有限であり、いつの日か自分のものだと
思っておっても私達のこの世を去るときには、何一つ持ち帰ることはできないのです。
皆さんの一番大事であるべき肉体ですら、持ち帰ることはできないのです。
ということになると、持ち帰ることのできるのは我々の真の世界、空(くう)の世界、我々の本当の心の筈です。
なぜなら、心は永遠に変わらない自分自身だからなのです。
そうすると、神とは一体何か。
神とは皆さんの心の中に在るのです。
形にあるのではないのです。
敢えて言うならば、自然界が我々を生存可能に至らしめているところの全てのもの、太陽を中心として無所得の大自然そのものが、神の
心の現われなのです。
皆さん自身の心の現われは、皆さんの想っていること行っていることそのものが、心の現われなのです。
即ち色心不二だと言うことです。
そこで、私達の心というものに形があるということを、心の眼が開いた時に分るのです。
今までは想うこと位い自由にさせて下さい。
確かに自由であります。
しかし想うという心の作用は、即、行動と同じ結果になるということなのです。
なぜなら物質が色心不二であるように、我々の心の作用は即、行為に繋がって行くからなのです。
しかも皆さん自身の、この地上界へ出てくるときの皆さんの魂、即ち肉体舟の船頭さんであるその芯、心は、丸く豊かなものであったの
です。
転生の過程において、たまたま地獄界に落ち、厳しい修行の結果、自分の魂をより豊かにし天上界へ上がり、何百年、或いは千年、永い
永い天上界の体験を通して、我々はみな、この地上界へ出て来ているのです。
それだけに私達の心の領域というものは、本来、普遍的なものでなければならない、それが神の体という肉体、我々自身が神の体とい
う、この地球という環境に出てしまうと、人間は分らなくなるところに、一つの大きな修行の目的が達せられるのです。
次元の違った世界では殆んど我々が、このような目を通して皆さんを見ているように、次元の違った世界からは、皆さんの心の世界まで
見通すことができます。
それ故にこの地上界へ出ると個々の生命は、お互いの心の中までは感知することは非常に難しいのです。
しかし心の領域を調和させ向上させたならば、そのことも出きるようになって行きます。
それは自分自身の心が高い次元の上から一般を見ることができるからなのです。
そうしますと私たちの心というものが本来は皆丸く豊かで、それぞれが、感情や知性や理性や本能、そして、また想念の中に於けるあら
ゆるカラクリが、人々の個性としてカルマとしてまた受け継がれているということなのです。
それ故に転生の過程において、自分の学んできた色々なものが、この地上界へ体験して行く中に特徴として出て来るものなのです。
これをカルマといっております。
それは善であれ悪であれ、人それぞれの個性を持っているものであるからです。
そこで私達の心というものは、このように本来は大きい風船玉のように、その中に更に、感情の領域、本能の領域、知性の領域、理性の
領域、全てが相互関係の中にあって、皆さんは肉体舟の船頭さん自身がその五官を通して感じ得たものの通信を全て、心の中で決定して
再びまた、物質的な脳細胞を通して行動に移って行くのです。
それ故に皆さんがこの世を去るときは、今もっている肉体と全く同体になっているところの、新しい光子体ともいうべき光の肉体があり
ます。
それを皆さん自身は、その肉体から離れて、現代は眠っている時は、現代の原子肉体と光子体の間には、ちゃんと一つの線によってコン
タクトされております。
それは無限に広く、どこへでも行くことができます。
本当の死は、その霊子線の切断された時が死なのです。我々の原子体とお母さんから頂いた肉体と光子体とが完全に分離された時が死な
のです。
現代の医学では脳波の停止によって死を決定したり、心臓の停止によって死を決定しております。
しかしそれは絶対とは言い切れません。
我々の肉体と、そして光子体の完全なる決別が死を、こうなりますと私達の心の中は先ず、感情の領域が歪みをつくってしまえば矢張
り、正しくものを見ることはできません。
なぜならば、理性がきかないからです。
これは皆さんはパスカルという法則を知っているでしょう。
ゴムまりの中に穴を開けて水を入れます。
何処を押しても圧力は同じように、そして外へ出る力と圧力はそれに比例します。
皆さん自身の心も同じです。
感情が膨らめば同じ容積の中の理性は、それだけヨハーメイション・歪みを起します。
我々の心というものは非常に自然の法則に適応されております。
こうして私達の心の中は、皆さんが仏像を通してみた時には、今持っているところの、この原子肉体とそのものは、実は一体になってい
る。
心がきれいになりますと、(図を黒板に書かれて)これがグーッと大きくなって宇宙大になり宇宙即我(うちゅうそくわれ)の姿になっていき
ます。
我々の脳細胞で、先ず脳細胞を通し、特に眼で物を捉えたものは即座に視覚神経の神経線維に送られます。
送られたものは、ここで脳波という振動を起します。
振動です。
先程の「νニュー」です。
この振動が即座に、次元の違った本当の自分である、そちらの方の脳の方に指令が行きます。
心に振動が起こり、また一方通行で、再び脳に帰り行動になるのです。
死は、この肉体と、こちらの光子体を繋いである霊子線というものがありまして、これが切断した時に、我々は本当の死を意味します。
我々はこのように見ると、本当に原子肉体以外の光子体というものと同居している。
それ故に、皆さんはいつでもあの世へ帰る準備ができております。
しかし、本当の人生の使命と目的というものが分らず、この地上界を去ってしまう肉体から抜け出した自分は、周辺の人達を自由に見る
ことはできますが、話をすることはできません。
なぜならば、こちらは既に次元の違った世界にあるからです。
そうすると、殆んどの神理を知らない人達は、
「死にたくない死にたくない、助けてくれ」
と必ず身内の者に執着を持ちます。
それは光子体の肉体を持って、自分はまだ死んでいないんだと、錯覚を起しているからです。
しかし話が通じない、やがて諦めます。
諦めて、その家に自縛霊としてなる場合、或いはまた、完全に別の世界へ行ってしまう場合、地獄の世界へ行ってしまう場合がありま
す。
「お盆の由来と霊現象の一例」
それ故に日本の場合はお盆と言って、一つの行事があります。
先祖を呼び出し、そして仏壇で、色々ともてなしをします。
ところがこのような事は、正しいものではないのです。
お盆というのは、ゴーダマシッタルダー釈迦牟尼仏の弟子の中にコリーターという方があります。
その方は後にマーハーモンガラナーといわれる、大目蓮であります。
彼が心の窓を開いた時にお母さんの姿を見ます。
お母さんが、非常にひもじい思いをし、その時にモンガラナーはお母さんに水を上げましたところが、即座にフアーッと火に変わってし
まいました。
彼はその姿を見て
「仏陀、どうして私が母に水を上げたところ火に変わったのでしょうか」
その時、
「お前の母親は火焔地獄に落ちている、大バラモンの家系に生まれながら多くの人々からの布施を受け、しかしその布施を受けたまま
で、気の毒な人々に愛の手を一つ差し伸べてやらなかった、足ることを忘れ去った為に、お前のお母さんは火焔地獄に落ちているのだ、
お前は少なからず一年に一日でも良いから母親に代わって、人々に布施するが良かろう、」
いつのまにか日本では、そのように日本では亡くなった人をお呼びするようになりました。
本当に来ております。
去年(一九七三年)の八月十二日に、私の長野の工場の従業員の方が、先祖を玄関に灯を燈してお呼びをしました。
その時は良かったのですが、十三日の日からどうも体の調子が悪くなって、
「アこれは風邪を引いたのかな」
それでもお盆ですから、しかも亡くなられた方に、お爺さんでしたものですから、家を途中にして亡くなってしまったものですから、立
派な家が出来上がったために、お嫁さんは
「お祖父ちゃん、お蔭様でこんなに立派な家ができました、どうぞごゆっくりしていって下さい」
このように仏壇で、一生懸命にお礼を言ったそうです。
ところが十六日の日に、送り火の日です。
その頃からどうも体の調子が悪くなって、腰が立たなくなってしまいます。
本人は医者を呼び、ハリ医者を呼び、更にまた、お灸までしたけれども、ついに治りません。
私が八月の二十九日の日に長野の工場へ行きましたところが、一人休んでいるというので
「どうしたの」
と聞きましたところ
「イヤ実は、あれ以後イザリのようになってしまってお休みしているのです、社長、お見舞いに行ってくれませんか」
って言うから
「ああ、そうですか」
行きましたら、本人は横になって動けない。
「実は昨日、医者に行って痛み止めを打ってもらいましたが、一時間ばかりでまた痛くなって、腰が立たないのです。そのためにハリが
良いというから、ハリをやってもらいましたが、一時は効きましたが今はダメなんです。私はこのままに、体が起きられなくなってしま
うのでしょうか。」
こういうわけです。
勿論、横になっています。
視ましたところが、八十五、六のお爺ちゃんが傍にちゃんとお座りなすっておるんです。
「お爺ちゃん、あなたはナゼここにいるんですか?」
って聞きました。
「新しい家ができたから、ワシはここが良いのじゃ、お寺に行っては怖くて行けん、お墓はなお怖い、八月まで何とか待っていれば、こ
の家へ帰れるであろうと、家の嫁だからせめてその位のわがままは許してくれ」
って言うから
「ダメです」
地獄霊、お帰りにならない、十六日の日に。
ですから日本は、そのような習慣をつくってしまったから、亡くなった人達も盆には、呼ばれれば来れるんだという意識を持ってこの世
を去っておりますから、本当に皆さん来ておるんですよ、仏壇には。
それ故に、私達が如何に正法を説いたところで、そのような人達は一挙に、正法通りに帰依することはできないのです。
長い年月をかけて現代のお坊さんや、或いはその道を説く人たちが
「そのようなものではない、この地上界に執着を持ってはならん、石塔というものは本来、この地上界に、かって肉体を持ったことがあ
るという印である、その場所に住家にするということは、即その場所は、地獄界に繋がるからなのです。
皆さんが心の窓を開いたならば、お墓に行って視れば即座にわかります。なるほど、お墓の石、頭が欠けておれば、その家庭には色々な
複雑な問題が起こります。
なぜならば、地獄に落ちた者たちは自分自身の住家が壊れてくれば当然、生きている人間に文句を始めます。
そうするとそこに憑依し家庭の中を混乱させます。
しかし彼等に、どんな立派な石塔を作ったところで彼ら自身はそれが自分の住家だと思っている以上は、子々孫々にまで迷惑を
掛けていきます。
彼等はそれが間違いであるということを理解させるまで大事なのです。
そのためには先ず、我々は正し己自身の心をつくらない限り、如何に先祖に言ったところで、
「何を言ってやんだ、お前は自分のやっていることは、どうなんだ」
こういうように言われます、彼等は見通しですから。それを知らないでお経を上げれば先祖の供養になるなんて、とんでもない事です。
自分の行動を直してからやることです。
そうでないと皆さんは肩すかしを食います。
ですから己自身の完成をして、そのような行為をすることです。
ところが田舎のその人は、実際はそういう事が分らないから、せめて亡くなった舅、姑さんに来てもらおうと、喜んでもらう積りでやっ
たのが、お帰りにならなくなっちまった。
そして二十八日ですから、本来、十六日に帰らなきゃならないのに、大分、家に永く滞在してたわけです。
そうしたところが帰らない、
「何とか置いといてくれ、ワシはもう、あんなところへ帰るのはイヤだ」
それですから、そこで寝ている方に
「帰るのイヤだと言っているけどどうしますか」
「そ、それは困ります、生きているときは色々とお互いに、私は舅、姑ともイザコザがありましたが、死んでみればこの家も出来たのも
皆さんのお陰だったんだから、せめてと思って私は心から
「どうぞ、いらっしゃって下さいと言った筈なのに、どうして帰らないんでしょうか」(笑い)
帰らないというのは本人自身の心にも問題があるのです。
本来その方が、真に調和された丸い豊かな心であれば、そのようなことはありません。
類は類を呼び、友は友を呼ぶ、自分の心の中に何かシコリがある。
ゴキブリの出るような環境をつくっている訳です。
そこで本人自身に納得させなければなりません。
「あなたは、そこにおるお爺さんを私が帰してあげたら治るんだが、信じますか」
ったら、
「お医者さんに診てもらっても治らないものを、治る筈はないでしょう」
こういうわけですね。
見えない、憑かれておっても見えないのですから、面白いものですね、
そこで私は直に、一回だけやりました。
「あなた離れなさい」
イヤだって言うから
「私は強引に離す力があるんですよ」
その瞬間にフアーッとやりました。
「どうですか」
ったら
「本当に良くなった、何だか魔術にかかったみたいだ」
って言うんですね。
「こんな馬鹿な事ってあるかしら」
ッて言うから
「お爺ちゃん、また入って下さい」(爆笑)
そしたら
「また悪くなっちゃった」
って、(笑い)
「そしたら、あなた一日か二日ゆっくりと憑いていてもらいなさい、医者に行って、また診てもらいなさい、これはお医者さんでも残念
なことには治らないよ、あなた、お医者も信ずるのも大いに結構、当然なことだが、ただし、この病気だけは、あなたは決して知恵でも
何でもないんだ、あなたの心が悪いんです、ですからあなたが良ければ、どうぞ同居なさっていてください」
で、「さよなら」って、帰ろうとしたら
「そんなこといわないで是非もう一度来て下さい」
って、そこで仕方がないから、よーく、そのお爺さんに生きているとき為した行為、思ったこと行った事の一つ一つを、教えてあげまし
た。
ところが本人曰く、
「お墓は古いために色々のスゴイのがいるんです、そのために私は、今までは、村では私も長老、長老と言われとったが、行って見た
ら、それ以上の長老が一杯おりました、ワシやどうしょうもならん、あんな体験は初めてだ、何とか、あすこへ行かない方法を、してく
れっちゅうわけですね、それには、この家へ行けば何とかなるが、それでもお墓から、たびたび仲間が迎えに来るんだ、何とかそれを来
させないように断ってくれっちゅうんですね、
「ダメだ、君はお墓へ行くということが間違いなんだ、お墓はあなたの人生行路の乗り舟の、捨て場所だ、そこにあなた達が骨と共に、
一緒に居るということが間違っている」
と、よーく教えました。
そしたら本人が、
「お前さんはどうして、そんなことを知っているんですか」
と、こうきたわけですね。
マ、それを説明すると長くなるものですから
「マアマアーあなたは、そんな必要はない」、
とも角あなたは、そういう所でなく、今の冷たいお墓ではなく光の世界へ帰らなければならない。
スモッグ、執着、これをあなたは全部捨てなさい、もうあなたは死んで総べてないんだから、すべて心の中を綺麗にしなさい」、
ったら反省の意味がわからない。
「反省ったら何だ」
「反省ちゅうのは、少し少し少なめに、自分の心の中を振り返ってみて、あなたは自分には嘘をつけないでしょう」
「ああ、つけない」
「その嘘のつけない心で、アーあんなこともやった、こんなこともやったと色々思い出して、間違ったとこあったら心から神様に
「許してくれ」、
と謝ったときに、あなたはなるんだ、そうしたら一つ
言いました。
「ワシは海軍大尉の頃、色々ああいう事をした、こういう事をしたそしてこのために、こういう肉体欠陥が起こった」
と、本人は語り始めました。
そして自分は増長慢だということを段々分っていきました。
そして本当に人々の為にも尽くしたか、実は自分の地位と名誉だけを守ろうとしてやった、その通り、それを裸にして天上界に上げた途
端に、その後婦人は元通りになりました。
現在も健康でやっております。
そして私が行きますと
「私の心に触るようなことをすると、またお爺ちゃんを憑けるようなことをしないでしょうね」
こういうことです。
ですからそのような縁によって、神理に付くのも大いに結構だと思います。
人間の心というものはそのように「一念三千」、無限に広い、それ故に私達の心というものは千差万別、その人その人の想念というもの
によって違ってきます。
そのために私たちの心の針というものは、常に調和されている方向へ進んでいれば、調和されている方向へ進んでいれば、光の世界、
(黒板に大書されながら)これは神の光はすべて平等に、貧乏人、金持ち、地位、名誉に関係なく平等に、このように与えられております。
この神の光は、心が慈悲深く、愛と慈悲の心の状態、慈愛に満たされている皆さんの心の状態、このときには皆さんは調和されて、とこ
ろが五官に翻弄されて恨みや、妬みや、謗りや怒り、そして偽りの我、自分自身に都合の良い偽我(ぎが)、この偽りの我というものが地獄
の方へ続いております。
こちらの方は善我です。
嘘のつけない善我です。
この状態であるときには常に光明に満たされて、皆さんの体からは光が出ております。
ところが恨み、妬み、謗り、怒り、自分さえよければ良いという自己保存のものの考え方も、偽りの我のときには地獄の世界に通じてお
ります。
それで我々の心、この心の姿というものは無限大です。
丸には始まりも終わりもありません
そして中国の言葉で「三千」というのは無限という言葉、大きいということ、それを一つの名前にして三千と言っておりますけれども、
私達の心、思うということは、心の状態というのはそれぞれ無限に広く動きます。
そこで私達はその無限の中から正しい基準を失ってしまうと、つい心の方は暗い方向へ行きます、時計の針と同じです。
そうなりますと、先ず我々自身が神様を信仰するという一つの中から正しいというものを忘れてしまって一生懸命に他力本願をやってし
まうと、ここに大きな間違いがあるわけです。
他力本願、他力の信仰というもの、自分を忘れて他力をやってしまうと、それで私達は一生懸命に拝んでいるから私は幸せなんだ、とい
う心が、それは一時の逃避です。
ですから「ナンミョウホーレンゲキョウ」、「ナンミョウホウレンゲキョウ」と拝んでいる時は気分が良いんです。
ところがそれを終わると幻滅の悲哀、一生懸命に活動して「ナンミョウホウレンゲキョウ」「ナンミョウホウレンゲキョウ」をやってい
るときは、確かに活動して逃避をしているからいいんですが、それからそういう集団から家へ帰ると幻滅の悲哀、そうでしょう。
仕事をしないでそんな事ばかりやっているから。
経済的にも不安定、家庭不調和、またそっから逃避して活動に行く、そうなると段々目つきまで違ってくる。
阿修羅界(あしゅらかい)、争いと闘争ばかり、そうなると題目闘争という言葉も生まれてくるわけです。
皆さんが本当に題目を「ナンミョウホーレンゲキョウ、ナンミョウホウレンゲキョウ」「ナンミョウホーレンゲキョウ」、確かにお線香
をあげて、あの一本の間に相当上がるそうですね、一日上げるんだそうです、日曜日になると、途中で昼寝をするそうです。(笑い)
この中にも相当いらっしゃるんですよ、皆さん笑っているけれども。
そういうのは「貧仰・貧行」というんですよ。
信仰ならぬ「貧仰・貧行」をしている。
貧しい行いです。
それは人間は、その信仰も欲望というものを表面に出している。
ネ、ご利益を得ようと、なぜならば皆さんは、太陽はスモッグさえなければ、雲さえなければ、太陽はちゃんと当たるんです。
皆さんの心の中にスモッグさえなければ、恨みや、妬みや、謗りや怒りや愚痴や自分さえよけりゃいいという自己保存、こういう心の中
の自分さえよければ良いという欲望がなかったならば、黙ってたってお天道様は、ちょうど太陽は我々に平等に与えているように、神の
光はすべて皆さんに与えてあるのです。
「他力の真髄」
神は総べてのものを人類にあたえてあるのです。
何で人間はそれを取らないんでしょうか。
それは自分自身が安易に取ろうとしているんです。
そこで私は自力ということを言っております。
自力があってこそ他力の力は与えられるのです。
自力がない所に他力はないのです。
それを逆に他力ばかりやって自力の方は疎かになって、ですから信仰宗教をやってて、最初のうちは一生懸命やります。
それですから良くなる。
「アご利益があった」
と、錯覚を起しているんです。
よく仕事をしたから結果が出たんです、幹部になるにしたがってダメになる、おかしいものですね。
苦しみになる、そうなった時から、これはイカンのです。