平成十七年三月二十六日(土)
出光コレクション誕生百周年
「蒐集家・出光佐三のこころ」
を、九州の北端、門司港にある出光美術館へ出向いた。
福岡の、玄海島沖の地震の余震も覚めやらぬ中での、門司行きである。
義兄の住まいの増改築祝を兼ねてのものだった。
半ドンの診療を終えて、全行程、私の運転ならという条件付の、家内同行により家を飛び出した。
福岡沖地震の当日は、地下一階、地上四階の我が家は、ペンシル・ビルと言うだけあって、今回の地震にはビクともしなかった。
その日は、三階の技工室にて、趣味の機械いじりの最中で、グラグラッと来た時は、監視用のテレビモニターが落ちかかったが、咄嗟に
支えて難を逃れた。
市内は騒然としているというのに、散髪に出かけ、予定していた陶器展と蘭の展示会場へ向うと、陶器は砕け散り開催中止。
蘭の方は、実害は殆んど無いということで開催。
家族からは
「お父さんは、さすがにマイペース」
と呆れ顔だった。
二年前には、博多駅前水害により地下室は壊滅、それだけに
「何が起きても驚かぬ」
と豪語していたのが、初めての大きな地震に肝を潰した。
パソコンに向っている今日、スマトラ沖ではマグニチュード八・七という余震を報じていた。
「悪因」の無い地には地震は起きない、というのが正法の考え方である。
では、地震安全地帯といわれた福岡の地震の原因は何か。
私の心に浮かんできたのは
新潟地震と同じ要因という答えである。
福岡の落選議員を、落ちたのに首相は名目をつけて拾い上げ、落選議員はスタンドプレイか何か知らぬが、同僚と一緒に北鮮をうろつい
て帰国した。
近頃の日本の地震は、よからぬ霊にコントロールされている北鮮がらみというのが、正法に基づいた私の所論である。
(当ウエブの高橋信次先生「最後の講演」を参照ください)
サテ、出光美術展だが、閉館時刻の一時間半前にたどり着いたが、幸運にも
「どこかな」
と、キョロキョロ見廻していると目と鼻の先が当館だった。
出光石油の石油王・出光佐三氏は、西郷隆盛の参謀・桐野利明の生まれ変りると高橋信次先生は言い残しておられる。
更に、我が師である園頭広周先生は、西郷隆盛の生まれ変りである。
故に、園頭広周先生と出光佐三氏は、深い縁生の同志であった。
そういう想いで、特別な感情により
「行かねばならぬ」
という想いだった。
氏の一貫して貫くものは、家庭を大事にする事と、日本の和の精神、正法でいう調和の精神である。
これまでの私の生き様は、佐三氏の言われるところに、全て反したものであったので、涙が落ちるということが、幾場面か有った。
更に、数日前の、高橋信次先生の講演テープ起こし作業の中で、高橋先生が「夫婦がいがみ合い、家庭が不調和なら、何事もうまく行く
はずが無い」
と講演の中で断じておられたが、これでもかこれでもかと言い諭されたようで、深く想い至って、じっくり見て閉館と同時に外に出た。
外に出ると海風が肌を刺したが、心地よいものだった。
近くの土産屋にて百円ほどの「酢昆布」を買って、口へ放り込んだ。
出光美術館の最後のブースには、佐三氏が逝かれたときに事寄せられた昭和天皇の御製があつた。
出光佐三逝く 三月七日
「御製」
「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ さびしと思う」
昭和天皇は、インドのお釈迦様の没後二百年後のアショカ王、その後のカニシカ王の生まれ変りと高橋先生は言い残しておられる。
アショカ王もカニシカ王も共に、仏教を広める功績のあった大王で、特にアショカ王は人類で初めて、戦争放棄を広宣した菩薩界の偉大
な魂でした。
それだけに、陛下の慈悲深い生き様は、万人が認めるところです。
西郷隆盛であった園頭広周先生は、お釈迦様時代は常随の弟子・舎利佛といわれ、般若心経の中の舎利子です。
出光佐三氏が西郷隆盛の部下・桐野利明の生命ということは、仏教に大いに縁のあった魂と思われ、昭和天皇が佐三氏に万感を込めて、
御製を贈られたというのも縁の不思議さを感ぜずにはおれません。